いか@ 筑豊境 寓 『看猫録』

Across a Death Valley with my own Distilled Resentment

新しい街でもぶどう記録;第458週

2023年08月26日 18時00分00秒 | 草花野菜

▲ 今週のみけちゃん
▼ 新しい街でもぶどう記録;第458週

■ 今週の武相境斜面

■ 今週の草木花実

■ 今週の病み上がり

先週コロナになった。今週初めから出社。熱はないし、特に咳もでない。ただし、倦怠感が残った。この倦怠感は木曜日に頂点に達した。とにかく横になりたい感じ。眠気があるわけではない。だるいのだ。この日は早く帰り、16:00からふとんに入り、翌朝4:00まで、何度もめを覚ましながらも寝た。金曜日にはかなりよくなり、金曜夜(昨晩)には元気になった。

■ 今週の金属離脱

ピンボケですが、歯の詰め物です。下の2つのうち、左の詰め物が外れました。歯科医に行くと、隣接の詰め物(下のふたつの右)をわざと取りました。虫歯が進行していて削って、詰め物を一体化して新しいものにする予定です。なお、上の大きな金属の詰め物は6月にはずれました。次々と20-30年前に詰めた金属がはずれていきます。

■ 今週の集中アクセス

8/25の20時頃、突然アクセス数が増えた。何だろうと考えると、アクセスページ数とアクセス元ページが同数であると気づいた。アクセス元ページとは、https://blog.goo.ne.jp/ goo blogのトップページ。どうやらこのgoo blogのトップページにリンクされたらしい。ただし、自分のブログが紹介されているのは確認できなかった。

■ 今週のマナー;バスマナ

東急バス バスご利用時のマナー等について

■ 今週の諭吉の徒


出典

福沢諭吉は「文明男子の目的は銭にあり」(google)と云ったとされる。ただし、根拠・出典はよくわからない。

という視点からみて、この慶応高校の甲子園での優勝を伝える新聞の号外をもとに銭をせしめるというのは、まさに文明男子の面目躍如に違いない。

もっとも、諭吉は彼の自伝で「私は平生トンと金のいらない男で、いたずらに金を費やすということは決してない」と云っている(『福翁自伝』、<ヨーロッパ各国へ行く>)。つまり、銭を貯めたり、使ったりすることを目的とする「文明」的男子の生き方をしていないと告白しているのだ。

何なんだ?諭吉。文明なのか「野蛮」なのか、はっきりさせてほしい。

■ 今年のつくばの閉店

愚ブログにつくば市の大盛り丼提供店のRanRan(ランラン)[1980年開店]について言及した記事がある;

1Q84; 筑波大生・天吾は、中華定食 ランラン に行ったか?、あるいは、浅田彰―野坂昭如―福田信之の時代、1984

そのRanRan(ランラン)は今年6月に閉店した。この閉店はTwitterもフォローしていたのでリアルタイムで知っていた;


https://twitter.com/RanRan_tsukuba/status/1669879771201949705

一方、愚ブログでも言及したことがあるつくば市大穂の珈琲哲學が、今年3月に閉店したと今週知った。

筑波山麓 「珈琲哲学」 行ったのは、2006年だ。17年前だ。2005年開店らしい。できたばかりの頃、行ったのだ。それにしても、ウエスト・ハウス は長生きだ。

Yahooニュース:【つくば市】残念。「珈琲哲學つくば大穂店」が 2023年3月21日で閉店。 跡地はどんなお店に?


新しい街でもぶどう記録;第457週

2023年08月19日 18時00分00秒 | 草花野菜

▲ 今週のみけちゃん
▼ 新しい街でもぶどう記録;第457週

■ 今週の武相境斜面

■ 今週の草木花実

■ 今週の「空(うつ)」


空蝉

■ 今週の罹患

コロナに感染する。
初日。日曜日、朝、起きたころ、なんでもなかった。しかし、9時ころ発熱。37.8度。終日、38℃台。ずっと、寝込む。
翌日、朝。38.1℃。一日中、寝込む。お盆休みで近所の複数の医院が休み。なお、この時点でインフルエンザかコロナかと考えていた。どちらかといういと、インフルエンザかと考えていた。急な発熱だったので。嘔吐、下痢、頭痛などはなかった。発熱と軽い悪寒のみ。発熱睡眠中の悪夢もなかった。食欲はなし。発症から2日間でおにぎり1個のみ食べた。
3日目。朝、35.8℃。一難去ったかと、安心。しかし、午後、ぶりかえし、37.8℃。インフルエンザもコロナも自然治癒に期待するしかないとわかっていた。ただし、仕事先への説明が必要なので、インフルエンザもコロナのどちらなのかをはっきりさせる必要がある。キットを買ってきて、自己判断すればいいのだが、薬局に行くのも、医者に行くのも外出は同じだなとも思う。そして、医者にかからねばと考えることとなった。なぜなら、のどの痛みが激しかったからだ。唾を飲み込むのもつらい。でも、まだ盆休み、夏休みで医院が休み。明日、病院以降と決意。
4日目。朝、35.5℃。朝から医院に電話する。5つばかり当たるも、発熱外来は予約が混んでいた。正式に人数の問題で診療できないから他をあたってくださいと他の病院名を示して断ってきた「良心的」医院もある。他の医院は電話がお話し中で通じなかったりした。ひとつ、予約が取れた医院があった。バスに乗っていかねばならない医院。行った。すいてた。隔離。話でしか見聞きしたことがないあの細長綿棒を鼻に差し込むウイルス採取作業をやった。再び、隔離場所へ。でも、5分もしないくらい?呼び出される。キットの結果、コロナ。真っ赤な陽性線を示される。酸素濃度測定。問題なし。重症化してない。薬、カロナール錠300とうがい液を処方される。

■ 今週のお薬

コロナ回復のため神戸屋で2つ購入。白桃甘夏ブリオッシュ、国産リンゴのアップルパイ

 

 

■ 今週知ったこと;第11空挺師団 (アメリカ軍)[wiki]の復活 ;57年ぶり、そして千歳に再来

札幌郊外のキャンプ・クロフォードをつくり、そもそも、1945年夏、マッカーサーとともに「厚木」にやってきた第11空挺師団が、昨年、復活していたと知る。さらには、千歳に再来: 昨日のブログとした。

翻訳 「北極の天使」が再び舞い上がる: 第 11 空挺師団の復活の内部

■ 今週の購書

「私は当時、 学生アルバイトで、日本国内のアメリカ軍基地を歩き回る仕事をしていました。 行ったことのない基地はない、と言っても差し支えないほど、 方々を回りましたが (後略)」と村松剛が云っているのが記された『動乱のヒーロー』と西川長夫、『日本回帰・再論』を贖う。「行ったことのない基地はない」と村松剛がいうのだから、札幌郊外のキャンプ・クロフォードにも来たことがあるのだろうか?

 

『動乱のヒーロー』 Amazonで5,300円だったが、日本の古本屋で500円で購入。


子猿をめぐる冒険 :米陸軍第11空挺師団の再興2022と再来;They shall return, again since 1947

2023年08月18日 18時23分09秒 | 日本事情

(愚ブログで They shall return は2度目となります:1度目 シカゴ・アヴェニュウーと呼ばれた日、あるいは、they shall return)


米兵のヘルメットに書かれている 11 A/B は、11th airbone, 第11空挺師師団の意味
マッカーサーと一緒に「厚木」に来たこの子猿はどこへ行った?


左端が第11空挺師師団のスイング少将

第11空挺師師団は1945年夏、マッカーサーと一緒に「厚木」飛行場に来た米軍部隊だ。その後、札幌まで行ったことは上記愚記事にある。先々週は、第11空挺師師団に所属し仙台で1年過ごした兵士の手記をみた話をした。

さて、昨日知った。第11空挺師師団(wikipedia)は1965年に休止したが、2022年に復活したのだと。そして、昨年末、日本に日米共同訓練のために来ていたのだ。知らなかった。

▼ 再興

‘Arctic Angels’ Soar Again: Inside the Rebirth of the 11th Airborne Division 

翻訳 「北極の天使」が再び舞い上がる: 第 11 空挺師団の復活の内部

  記事抜粋

陸軍第11空挺師団が再び飛行中。今回、第11空挺部隊は、第二次世界大戦や朝鮮戦争の太平洋戦域で中心的な役割を果たした同名の空挺部隊やグライダー部隊のようにジャングルで救助を行うのではなく、北極の氷の上で活動することになる。

新たに再活性化された第11空挺師団は、陸軍の第82空挺師団や第101空挺師団と同様に空挺および空襲能力を備えている

アラスカ米陸軍は陸軍の北極部隊となるために大規模な変革を行っている

記事には北極圏でのノルウエー軍との共同訓練の話が出てくる。どうやら、対露牽制戦略の一環ということらしい。

▼ 再来

第11空挺師師団は再興したばかりでなく、かつて駐屯していた千歳にも帰ってきた。かつて千歳に進駐してきたときの様子は千歳市史に見える。7,000人が進駐したとある。

去年は日米共同訓練で千歳の基地に来たが、この基地にとって自衛隊は、第11空挺師師団と比べて、新参者である。

自衛隊web site より

 ソース

1947年のthe 11th Airborne Division ↓

(おそらく)第11空挺師団の札幌入城 昭和21年(1946年)4月7日

この写真は、仙台から来たスイング中将率いる第11空挺師団の札幌入城、昭和21年(1946年)4月7日と思われる(根拠資料 千歳市)。街路樹の葉が生えていないことも4月であることと調和的である。これは、おそらく北一条通り(西4丁目)。今は、「北海道神宮」の石碑となっている。

なお、今回の米陸軍第11空挺師団の再興と再来について調べてみて、子猿の手がかりはなかった。

 

★ Twitter アカウント


新しい街でもぶどう記録;第456週

2023年08月12日 18時00分00秒 | 草花野菜

▲ 今週のみけちゃん
▼ 新しい街でもぶどう記録;第456週

■ 今週の武相境斜面

■ 今週の草木花実

■ 今週の半額

Dazzle Apples  ニュージーランド らしい。

▼ 



神戸屋エクシード レモンデニッシュ   アプリコット&マンゴー

■ 今週の鶴巻発条

■ 今週の三陸産



魚屋路 【三陸産】さんまの握り

■ 今週のひさしぶり

7月はお出かけしなかった。ひとつきぶりに、<荊の簪を挿した御方>におごってもらった。上のお寿司もそうだが。

■ 今週の「シンス」

バブル期から続いているのだ。 Cafe ハトポッポ

■ 今週のマルクス延命派

愚記事に「カール・マルクス、『イギリスのインド支配』和訳全文」がある。定期的にアクセスがある。

この「イギリスのインド支配」は”西欧のもっとも露骨で恥知らずな植民地主義者の文章” [1] 的なものである。つまりは、スキャンダラスな文章ということ。 [1] 西川長夫、『国境の越え方』, 1992年

西欧のもっとも露骨で恥知らずな植民地主義者は、ヨーロッパ中心主義者(eurocentrism)ともいう。

したがって、マルクス真理教の信徒は何か反応しなければいけない。そのマルクス真理教の信徒による、反論があった。

いいえ、カール・マルクスはヨーロッパ中心主義者ではありませんでした

ケビン B. アンダーソンは、カリフォルニア大学サンタバーバラ校の社会学の著名な教授です。彼は、『レーニン、ヘーゲル、西洋マルクス主義』 (1995 年) と『限界のマルクス』 (2010 年)の著者です。

■ 今週返した本

『村上春樹をめぐる冒険』(笠井潔、竹田青嗣、加藤典洋)と『村上春樹のタイムカプセル 高野山ライブ1992』。

▼ 笠井潔、竹田青嗣、加藤典洋@ 1986年(=中曽根・自民党総選挙圧勝、300議席の年)

笠井潔、竹田青嗣、加藤典洋の1960年代末のいわゆる大学紛争・街頭騒動の活動に「挫折」し、約10年の1970年代の「リハビリ」期間を経て、世に出て活動し始めたのが1980年代初頭。村上春樹がデビューした頃。その後、1986年は総選挙での中曽根自民党の圧勝があり、1980年代初頭は保守化の時代であった。冷戦終焉は未だであったし、まさかソ連が消滅するとは、小室直樹以外、考えるものはいなかったが。その頃、おいらは、「1960年代末のいわゆる大学紛争・街頭騒動」について関心があったが、詳細を説明したよい本はなかった。まだ、外山恒一の「教養強化合宿」もなかった時代だ(ないよ!ただし、外山は活動を開始していた [wiki])。あの時代、何かあったらしいとわかったが、詳細はわからないかった。おいらが使っていた「教科書」は、『新左翼二十年史』(Amazon)。1981年刊行。この本には「1968年革命」の語はない。「70年安保闘争」という表現だ。さらにこの本は街頭での新左翼の活動が主で、大学紛争の詳細は書かれていない。別の本では、連合赤軍事件についての本や中核派・革マルハの内ゲバの本を読んでいた。いずれも、大学紛争とは少しずれている。全共闘運動の情景・事情は、小説、三田、『僕って何』だけだった。そして、笠井潔、『テロルの現象学』を読んだ。これは一生懸命読んだ。

そして、その頃、村上春樹、『風の歌を聴け』を読んだ。よく読めば、あの時代とその後の話だ。そして、笠井潔、竹田青嗣、加藤典洋も『風の歌を聴け』を読んで、「感銘」を受けていたのだ。

▼ 『村上春樹のタイムカプセル 高野山ライブ1992』は、前著のうちの加藤と竹田に加え、小浜逸郎と橋爪大三郎が参加する討論会の記録。

全共闘運動、および周辺者たち。竹田青嗣以外全共闘運動への直接の参加を認めている。橋爪大三郎は、あの新宿騒乱事件[wiki]に参じたと云っていると、おいらは知った(根拠)。竹田青嗣は全共闘運動へのかかわりについて、周辺にいたと柄谷行人との対談でいっている。前著に参加した笠井潔がこの企画には、病気を理由に、参加していない。笠井潔は、全共闘というより、セクト活動家。そして、橋爪以外、村上春樹に軽重の程度はあれ、共感している。

▼ 橋爪大三郎と村上春樹

今では、村上の春樹の書評を書いている[1]橋爪はこの時点、1992年に村上春樹に無縁だった。

[1] 毎日新聞 2023/4/22 橋爪大三郎・評 『街とその不確かな壁』=村上春樹・著

初めて村上を読んだ経緯と感想を橋爪は、云っている;

で、主催者側に、村上春樹なんて人は読んだことがないんで何を読めばいいのかと聞いたところ、主要四つ作品があるからそれを読んできてきてくださいということで、一応それを読もうと思って頑張って、『ダンス・ダンス・ダンス』は読みかけなんですが、あとは読みました。

『ハートボイルド・ワンダーランド』というのを読んだ。で、これはまあまなかなかのものであるというふうに初めはよかった。特に文体がよかった。次に、『羊をめぐる冒険』を読んだ。なんてひどいと思った。次に『ノルウエイの森』を読んで、ますますひどいというふうに思った。

村上春樹の作品世界の本質というのは、村上春樹の本質と言ってもいいけれども、「臆面のないナルシスト」だと。 (『村上春樹のタイムカプセル 高野山ライブ1992』)

▼ 全共闘から名誉教授への途中、1992年

『村上春樹のタイムカプセル 高野山ライブ1992』に登場する竹田青嗣、加藤典洋、橋爪大三郎はこのあと教授になる。同じく、小浜逸郎はフリーではあったが国士舘大学の客員教授になっている。

なお、『村上春樹のタイムカプセル 高野山ライブ1992』に笠井潔は参加しなかった。病欠とされている。なお、笠井は2022年に、絓秀実との対談『対論 1968』において、竹田青嗣との決別について述懐している;

絓秀実 ・・・・・全然関係ないけど、 笠井が竹田青嗣と決別したというのは、 歳月を感じる なあ

笠井潔 最初の亀裂はすでに 『村上春樹を巡る冒険』の時にあったんだよ。 竹田と加藤は『ノルウェーの森』を評価したからね。  
 デビュー作の『風の歌を聴け』の主人公は反・全共闘派なんだけど、副主人公の”鼠”というキャラクターはどう読んでも全共闘派なんです。この”鼠”とシニカルな僕との 対抗関係を物語の駆動装置としていた限りにおいて、つまり 初期三部作ということですが、一応は面白く読めた。しかし 3作目の『羊をめくる 冒険で村上春樹は”鼠”を殺してしまう。その後、 『ノルウェーの森』や 『ダンス・ダンス・ダンス』 が書かれるけど、”鼠”が出てこない 村上春樹の小説には関心を持てなかった。しかし 竹田や加藤は、”鼠”なんて、つまり 全共闘なんて昔の話で、80年代の高度消費社会のリアリティは、”鼠”的キャラクターをきれいに消去した 『ノルウェーの森』の方にあるとか言う。 この2人とはもう話が合わないと思い始めたのが、今から思えば 決裂に至る 出発点だね。
 これはもうダメだと思ったのは、 竹田がちくま新書の『人間の未来』( 2009年)で、「最悪の専制権力でもアナーキーよりはましだ」と書いた時かな。もしも早稲田にまたバリケードが築かれたら、全共闘のアナーキーより機動隊の秩序のほうがましだとか教授会で言うんだろう、もう 向こう側の人なんだと 見切ったね。 

(大学解体を叫んだとされる)全共闘だった人たちが大学教授になることには、何か説明が必要かと思うだけど、教授へ向かっている1992年の『村上春樹のタイムカプセル 高野山ライブ1992』に何か手がかりがあるのだろう。少し、関連しそうなところを抜き書きした;

▼ 橋爪大三郎の世界観

橋爪 もしね、 「お前は誰なんだ」ということに答えようとするならば、僕が誰かということを言うのは規定性 なんですよ。つまり、何月何日に生まれたとか、何人[なにじん]だとか、 こういう階級に所属しているとか、 こういう教育を受けたとかですね。そういう規定性の全体が 僕だったならば、ルール 主義を取る必要はないんです。で、人間の可能性が、ある拘束を受けて特定の形をとっちゃったということなんですよ。それは偶然的なことだしね、被作為的な、気がついたらそうなっていたということなんです。それをどこまでひっくり返すか ということなんですよ。 ルールのミニマリズムというのは、それをできる限り たくさんひっくり返すことなんですよ。自分の 初期条件をどれだけ 無化できるかということ。それがね、人間の可能性、自分の同類の可能性というのを、どれくらい多く構想できるかということと同じだと思うんです。だから僕が何者かわからなければ、分からないほどいいんです、ある意味では。ただし、それはきちんとひっくり返していった場合に限るんですよ。

岩脇 すごいラジカル やなあ。 そんなことできるのかな

島元 僕は初めて 今 世代格差を感じました 笑。 

参加者B 初期条件って何ですか。

橋爪 たとえば日本人に生まれたっていうことです。簡単に言えば、全共闘世代だとか、こういう体験があったとか、なかったとかね。

(中略)たとえば戦争責任を解消しない限り、ずっと戦争にとらわれ続けるんですよ。日本がアジアに対して 戦争責任を果たして、それを追及する方法を持たなかったら、ずっと後ろめたい 日本のままなんですよ。だからそれを語る言葉を持つべきなんですよ。日本から解放されたければ、そういう文学がないとか、そういうことなんです。

■ 今週の購書

総計 2,500円。8/10、ブックオフ、2割引きだった。8/13まで。

 


新しい街でもぶどう記録;第455週

2023年08月05日 18時00分00秒 | 草花野菜

▲ 今週のみけちゃん
▼ 新しい街でもぶどう記録;第455週

■ 武相境斜面

■ 今週の草木花実

■ 今週の連合国 Uuited nations、いわゆる国連

国連ビジネスと人権の作業部会が4日、東京・内幸町の日本記者クラブで会見した。同部会は初めて日本を公式訪問。7月24日から8月4日にわたり、ジャニーズ事務所のジャニー喜多川前社長による性加害疑惑についても聞き取り調査をしており、「深く憂慮すべき疑惑が明らかになった」などと指摘した。ソース

ジャニー喜多川が子供たちに性的虐待を行っていたのは、米軍住宅であるワシントン・ハイツであった。ジャニー喜多川の国籍ははっきりしないのだが、彼は朝鮮戦争に従軍している。その後、ワシントン・ハイツに住んでいるのだから米軍の軍属であり、米軍属なのだから米国人なのだろう。ところで、朝鮮戦争で米軍は国連軍となった。したがって、今さらであるが、「国連ビジネスと人権の作業部会」はおのれの組織の軍事組織の一員が「犯した」蛮行の調査をしたこととなる。


YouTube  70年前の"ジャニー氏性加害"を告白【報道特集】

ジャニー喜多川が、さんざん噂されながら、逃れられてきたのは、米軍特権に守られていたのだろう。もちろん、ジャニーズ事務所経営時は米軍の軍属ではないが、何か庇護者がいるとみるのが当然ではないか? 

一方、日本の警察・検察のペドロフィア・マニアのためにジャニー喜多川が「生贄」をだしていたのではないか?というホリ〇モンの主張は、いささか、かなりspeculation( 〔不確かな情報に基づく〕推論、臆測 、投機の意味もある)ではある。

■ 今週借りていて、読んだ本

『江藤淳と少女フェミニズム的戦後』1998-1999年の文章、『村上春樹論ーサブカルチャーと倫理』1994-2002年の文章、『物語論で読む村上春樹と宮崎駿』2009年。

▼ 江藤淳

江藤淳はかつて村上龍をサブカルチャーだと云って批判し、その文学性、表現を評価しなかった。江藤のいうサブカルチャーとは何か?という問題について、大塚英志は考えている。なので、おいらは大塚英志に興味があり、見てみた。江藤淳は現代日本の文学状況をサブカルチャー化に堪えかねて、毎日新聞の文藝時評を1970年代末に、ちょうど村上龍がデビューし村上春樹がデビューする前に、辞めた。しかし、江藤淳はその後も新人文学賞の審査委員を続け、サブカルチャー化した日本現代文学につきあいつづけたのだという。その詳細が書かれている。

▼ 村上春樹

<サブカルチャーを利用したガジェット集積作品>

大塚英志の村上春樹作品の認識は、物語は過去からの定型をなぞったものであり、構成要素・プロットは過去のサブカルチャーから採取したガジェットが多いとの指摘。このガジェットの寄せ集めで物語をつくりあげるのはオウム真理教と類似したものであると主張。だから、村上春樹はオウム真理教を見たときに正視に堪えなかったのだという。

<戦争と憲法>

大塚英志による湾岸戦争後の村上春樹の言動についての言及。湾岸戦争の3年後の話(1994年)。この頃から、自由主義史観グループなどによる歴史認識問題/新規歴史教科書刊行運動が生じていた。前世紀末。大塚英志は湾岸戦争を受けての日本の安全保障政策転換、憲法見直運動に危機感をもったらしい。その後、戦後民主主義擁護運動(?)、憲法「選び直し」運動を行う。こういう状況で、湾岸戦争を受けて、村上春樹の「動揺」について『村上春樹論ーサブカルチャーと倫理』において論じている。その中で村上春樹のインタビューが引かれている。現在、どの単行本のこのインタビューが入っているのかわからないので、村上春樹の発言を孫引きとして引用する。

当時、多くのアメリカ人に「お前は日本人として湾岸戦争についてどう思うか?」と面と向かって尋ねられたんです。もちろん僕は僕なりに考えてたんだけれど、答えながら自分で何かひとつしっくりしないところがある。「俺は今本当の言葉で喋ってないな」というのが自分でなんとなくわかるんです。そういうのって、言葉を職業とする小説家としてはけっこう辛いんです。僕らは冷戦時代の育ちだから、極端にいえば右か左か前か後かというものの捉え方が自然に身についてしまっている。でもそういう従来の政治的な観点からはポスト冷戦の枠組みの中での湾岸戦争とは何か、自分がそれに対してどのように対処していかなくてはならないかというヴィジョンがなかなか見えてこないわけです。

 

僕は平和憲法で育った世代です。僕の子供の頃の日本は決して今のように豊かな国ではなかったけれど、僕は子供心に自分の国に対して誇りのようなものを持つことができたと思う。中略 でも文章をなりわいとする人間として今この九条の条文をあらためて文章的に読み直してみると、哀しいことだけど、僕はそこからもはや美しさや気概というものをかつてほど強く感じることができない。それを長い年月にわたって損なってきたのは、僕ら自身の中の誤魔化しであり偽善性ではなかったかと思うんです

これらの発言内容について、大塚英志は、「いたって凡庸な戦後民主主義批判である」という。なお、自由主義史観グループの中心人物のひとりである(元日本共産党員)藤岡信勝は「1991年に米国に渡る。湾岸戦争を契機に、「一国平和主義」を脱し、司馬遼太郎の著作や渡米体験を通じて冷戦終結後の新しい日本近代史観確立の必要性を感じたという」(wiki)。つまり、村上春樹と同じ時期、すなわち湾岸戦争勃発時、滞米していた。大塚英志は村上春樹が、自由主義史観グループ的動きをしないか危惧したのだろう。

 一方、以下、おいらの意見。村上春樹が日本の憲法ー安保体制の欺瞞性をイラクのクウエート侵略:湾岸戦争で初めて悟ったかのような発言にびっくした。村上春樹は大学生であったときの「1968年運動」は、戦後民主主義の欺瞞、日米安保体制、憲法による日本の武装解除と日米地位協定による米軍天国、沖縄の米軍要塞化による日本の「平和」を暴いたのでは?と思っていた。この1994年の村上春樹のインタビューを読むと、1991年で初めて気づいたかのようだ。村上春樹は「1968年」の人ではなかったのか?

■ 今週の購書

「Stories of a Paratrooper in Occupied Japan: A Clerk and Paratrooper in the 11th Airborne Division in Sendai, Japan in 1946-47 after WW II.  」 (Amazon)

米軍の第11空挺師団所属の軍人の自伝の存在をネットで知り、贖う。米軍の第11空挺師団とは敗戦後、マッカーサー来日のため、「厚木」に到来した最初の日本本土への進駐軍。この部隊の話はこれまで、たくさんしてきた。例えば、「猿の話」。同師団はこの後、仙台、札幌に進駐。こういう中で、第11空挺師団所属の軍人の自伝「Stories of a Paratrooper in Occupied Japan」を知る。贖う。この本、日本で印刷された本であった。みてみると、著者 Norman R. Hansen は1928年生まれ。18歳で入隊し、来日する。この時点で戦争は終わっていた。したがって、「厚木」に来た第11空挺師団兵士ではないのだ。その点、残念。著者 Norman R. Hansen は、2016年、88歳で死去。この本は最晩年に書かれた。N.R. Hansenは1946年に来日し、仙台に駐留、1947年に帰国。仙台での従軍勤務は1年。その1年の話が書いてある。つまり、戦場体験がない兵士の日本滞在記。

シアトルから船で横浜に到着。その後、第11空挺師団が駐屯している仙台へ。基地は、キャンプ・シンメルフェニヒ(現在、苦竹の仙台駐屯地)。一方、訓練は、Carelus operation field in Yamato (現在、王城寺原演習場 [wiki])。なお、Carelus operation field in Yamatoは、ググってもヒットしない。まず、王城寺原演習場の一部は大和(たいわ)町である。おそらく、当時、米軍は大和=Yamatoと呼称していたのだろう。さらに、Carelusがわからなかった。これは固有名詞で、人名。日本到来前のフィリピン戦で事故死したCharles Carelus大尉にちなみつけられた戦域(演習所)名(ソース)。なお、王城寺原演習場の前は、矢野目(現在の仙台空港付近)を演習場にしていた。そこでの体験が書いてある。仙台(苦竹)と大和の往復は列車。車内の写真が載せてある。日頃は、フットボールやスキーなどで余暇を過ごしていた。市内の様子も写真が載せてある。


Stories of a Paratrooper in Occupied Japan:


八木山橋と龍ノ口渓谷 Stories of a Paratrooper in Occupied Japan:

▼ 札幌に行く

第11空挺師団は仙台から札幌に移駐したことは愚ブログで書いたことがある。この移駐はすべての第11空挺師団が札幌に移ったのではないと知る。司令部は札幌に移ったが仙台に残った部隊もあるのだ。N.R. Hansenは仙台「残留」組。そして、札幌に出張業務があったと書いてある。「りんご箱」に「組織と設備の表( TOE または TO&E) [wiki]」を詰めて、札幌に運んだ。1947年1月。進駐軍も「りんご箱」(apple boxとある)も使っていたのだ。段ボール箱なぞない時代だ。札幌の基地は月寒のキャンプ・シーデンバーグに行ったはずだ。なぜなら、当時日本最大級といわれ第八軍最高司令官アイケルバーガーが贅沢すぎるといったキャンプ・クロフォードは1947年秋の開設であったからだ。仙台からの列車の旅は青函連絡船の乗り場の写真などがある。ただし、札幌の写真はなく、さらに、著者は残念なことにほとんど忘れてしまい、街の積雪のこと以外、記憶がないと報告している。

7月には、仙台港から小樽港まで駆逐艦 USS hollister に乗り、青森方面に行っている。小樽まで行って、列車で仙台に帰ってきたとある。

1947年9月には横浜港からサンフランシスコへ帰国。このあと、GI奨学金をうけて、大学に行く。3人の子供、9人の孫、10人のひ孫に恵まれる。2016年、88歳で死去。

▼ 米軍・第11空挺師団の概略史