― Kがその時弾いた曲がまた意外だった。日本のフォークソングでも弾くのかと思ったら違った。彼はクリーデンス・クリアーウォーター・リヴァイヴァル(CCR)の「雨を見たかい」を弾いたのである。英語の歌を歌いながら。 宮沢賢治とCCR - この二つで私はKを信頼してしまった。 ― 川本三郎、『マイ・バックページ』
昭和のikasama師(?) K
どうやらどうやっても、おいらは、昭和の成仏のために生きざるを得ないらしい。川本三郎、『マイ・バックページ』にある、CCRの「雨を見たかい」をYouTubeで聴くと、さかんに歌っているではないか!
I wanna know, have you ever seen THE REIGN ,
教えてくれ、おまいはひろひとさんを見たかい?って。
おいらには、平成は、 a reignだ。 天皇陛下といえば、ひろひとさんだ。
1972年 ■ Have I ever seen THE REIGN ? 見たはずだよ。でも、記憶なす。
おいらが、畏れ多くもひろひとさん御臨席の場に、衆の一滴としてあったのは、1972年2月3日のことである。
その日、おいらはとうちゃんと家から歩いて、オリンピックの開会の式場に行った。式は午前中であったとおもう。その日のことで覚えているのはわずか。1)会場の外には大雪像がつくられていたこと。雪まつり会場でもないのに大雪像というは珍しく、もちろん、オリンピックの開会式のためにつくったのであろう。2)快晴であったこと。3)レンタルのカイロの商売の露店が出ていたこと、あとひとつあるが、つまらない神童自慢になってしまうので、書くのはやめる。天気は別にして、それらはのちの公式記録に明確に残らない類のことなので、逆に、自分の記憶であると言える。何より実感も覚えている。
むしろ、難しいのは、のちの公式記録の映像で見たのか、実際に見たのかの判別がつかないことである。たとえば、聖火点灯の映像は脳内にあるが、実感がない。脳内にあるその記憶は、のちに見た映像なのかもしれない。
そして、今日の本題の一番の問題。ひろひとさん。全く記憶がない。たぶん当時おいらは天皇概念がなかったので、おいらの脳はひろひとさんを受容する「箱」がなかったのだろう。罰あたりなことだ。
●おいらが、the reign、つまりひろひとさんを"見そこなった"時、その 事件は既に終わっていた。事件は1971年8月21日(Google;朝霞自衛官殺害事件 )。そして、1972年2月3日には、ひとりのジャーナリストとひとりのアカデミシャンの"転落"が始まっていた。そのジャーナリストの回顧が『マイ・バックページ』。最近映画化されたらしく、本が再販されていた。実は1988年に出ていたのだ。おいらは知らず。今回初めて読んだ。
1980年 代前半 ■おいらは、「あの時代」 を回顧していた文物に出くわした。
「赤衛軍事件」についておいらが知ったのは1980年代に入ってから。当の滝田修が、10年にもおよぶ逃亡の末、遂に逮捕された後。ただ何となく知っただけで、事件の詳細は知りようもなかった。ネットで何でも検索できる現在とは、情報の環境が全然違う。ただ、その事件で当時現職の京大経済学の助手が指名手配され、10年逃亡したことが話題になっていた。それだけ。最近、この昭和の一事件の回顧を読むこととなった。昭和の成仏のために。
指名手配され、10年逃亡した滝田修が、逮捕された1983年に言う;
― わけても「王様は裸だッ!」などと、ホントウのことを大声で叫ぶ輩は、ふん縛ってぶち込まなければならぬ。だれでもよい、イケニエの羊をひきずり出して、痛い目に合わせろッ!と。イケニエは、それらしい匂いがいささかでもすれば、だれでもよかったのであろう。彼らが問おうとしていたのは、たんに「一個の人間」ではなく、「時代の全体」であったのだから―。「あの時代」 そのものを封じ込み、抹殺すること、まさにその点にこそ、権力の利害はかかっていたのである。 - 滝田修、『わが潜行四〇〇〇日』
▼そうなのだ、「あの時代」 だ。1980年代初頭は、「あの時代」 を経て、10年間"潜行"していた人たちが、いっせいに世に作品群を出したんだと、今になって思う。そして、そのいくつかに、おいらはぶつかった。筆頭は、村上春樹。『風の歌を聴け』、『1973年のピンボール』、そして『羊をめぐる冒険』。でも、この幸運な春樹受容は、その前に「あの時代」 に関する時代背景の知見と感覚があったからだ。
■1980年代前半、つまりはバブル前夜は、前述の通り、今とは情報環境が全く違った。出版されている本からわずかの情報を得ていた。そして、それさえも誤りを含んでいた。つまり、赤衛隊事件を知ってもそれ以上の情報がないおいらにとって、わずかな情報も貴重であった。川本三郎がどうやらその事件にかかわっていたらしいとは知り始めていた。当時の出版物、栗本慎一郎、1985年刊行の『鉄の処女』にある;
川本三郎 一九四四年東京生まれ。東大法学部卒。朝日新聞社に入社、朝日ジャーナル編集部員のとき新左翼活動家をかくまったとして逮捕。朝日をクビになり、評論家。( 以下、略)なお、この文章は月本裕氏という人のものらしい。彼はブログをやっていたが、数年前、"若死"にした。
貴重な情報ではあったが、事実誤認もある。「新左翼活動家をかくまった」のではなく、「証拠湮滅」である。
●一方、「あの時代」 と彼らの1980年代での過ごし方については、1981年の呉智英センセの『封建主義、その論理と情熱』。彼の"処女"作だ。そこに、ちゃんと書いてある;
また、仕事以外のふとしたきっかけで知りあった、会社員、公務員、あるいは家業を継いでいる商店主、こういったフツーの職業の、やはり同じくらいの年齢の人たちと会っている時、何がしかの前兆のあと、あの時代の話になりことがある。 そんな時、会話の底に流れるものは、照れくささ、こだわり、いらだち、である。 あの時代。政治的にも文化的にも熱気がうずまいていた。全共闘だけにかぎっても、積極的に参加した人だけで一〇万人はいただろう。そういった人たちの、今”何もしていない”ことの照れくささ、しかし、絶対にまちがっていたとは思わないこだわり、では、どう発言したらいいのかといういらだち。こういう"潜熱"を孕んだ夥しい"不穏分子"が日常生活を送っているのだ。― 呉智英センセの『封建主義、その論理と情熱』の「やや妄想的な あとがき」 1981年
もっとも、彼らの大半は「保守」化し、その後到来したバブル経済の「中核」を担い、そして、再び、崩壊した。そういう嫌味はともかく、1980年代初頭、がきんちょだったおいらは、10年前には「あの時代」 があったんだと実感し、その内実を知りたく、いろいろ調べた。当時、10年前の「あの時代」 というのは十代のおいらにとって、はるか昔に感じられた。でも今の年で10年前というとほんの昨日のような感覚である。
▼オマージュだったのか ▼ その時代ブレイクしたのが浅田彰センセ。構造と力は1983年。その後の本が『逃走論 スキゾ・キッズの冒険』(1984年)。もちろん闘争論へのアイロニカルな表現。そして、当時京大の経済学の助手であった彼からの、その昔、同じく京大の経済学の助手であって、10年余り逃走・闘争していた滝田修へのオマージュなのだ。
2018/2/13 後述。 上記記載は間違い。 「構造と力」の1983年、浅田は人文研の助手。 ちなみに、この京大・人文研の浅田の登用は「助手試験」:フランス語だったとのこと(出典: 筑波学生新聞 )
■謎のK■ 話を「赤衛軍事件」に戻す。事件当時者の三人ともまだ生きている(はず)のだ。人殺しKは懲役15年とのことなので、もう出所しているはずだ。"転落"したそのジャーナリストとそのアカデミシャンは、その人殺しのKの動機を深く追求し記述していない。動機の追及はしていないはずはないに違いない。なぜなら、その動機でそのふたりは人生を棒に振ったのだから。でも、Kを非難、ましてや呪詛しているようでもない。直接Kに会って問い質すということもやっていないようだ。不思議だ。
それにしても、このKの動機は何だったのだろう?何かでかいことをしたいという虚栄心のなのだろうか?それで自衛官を殺したのだろうか?自衛官を殺せば世間の耳目が集まると踏んだのだろうか?それで、どうしたかったんだろうか?注目されたらそれでよかったんだろうか?全くもって、謎だ。
ただ明白なのは、Kはひとりのジャーナリストとひとりのアカデミシャンの"人生を棒にふらせて"、そして、二人を文筆業に"追い込み"、その事件の波及の結果を表現せしめたということだ。Kは、悪魔の編集者ということか。
■2001年 20世紀も昭和も終わって、滝田修は、たけもとのぶひろの名で回顧録「副題、ならず者出獄後記」を出版(上記画像)。
雨をみたかい(訳詞付) / CCR
・I wanna know, have you ever seen the rain Coming down on a sunny day