いか@ 筑豊境 寓 『看猫録』

Across a Death Valley with my own Distilled Resentment

「リベラル」の非(反)韓性、あるいは、自国中心主義

2015年11月29日 18時23分22秒 | 日本事情

安全保障関連法案(彼らがいうところの”戦争法案”)に反対する人たちを、ここでは一応、「リベラル」とよぶことにする。

その「リベラル」のみなさんは、今後日本が海外で自衛隊員が死ぬこと、そして、自衛隊員が他国人を殺すことを懸念している。

そして、安全保障関連法案の先には徴兵制の制定があり、そうなってはこの世はお終いだ、というお話を流布していた。

さらには、戦後日本は海外の戦争で死者を出していないことを「誇る」という人も多い。この「平和主義」が日本の「国家ブランド」だとおっしゃる。

こういう「思想」を"日本的「リベラル」思想"としよう。 

ところで、この"日本的「リベラル」思想"に照らして、その国のあり方、生き方が全く違うのが韓国である。韓国は米軍のために海外派兵し、戦死者を出し、さらには、戦場で民間人を殺し、女性を強姦したと伝えられる(ベトナム戦争)。もちろん、韓国は、徴兵制である。

つまり、日本「リベラル」派があってはならないと想定する悪夢が、韓国では現に起こっているのである。

そうであるならば、今度安全保障関連法案が成立すれば、韓国みたいになるぞ!と主張すればいいのではないか?

でも、しない。ヘイトスピーチのネトウヨの嫌韓と似てしまうからなのか?

実際、戦後日本は海外の戦争で死者を出していないことを「誇る」ということは、自国中心主義である。

"日本的「リベラル」思想"に照らして考察すると、海外で戦争し、あまつさえ徴兵制の韓国は、韓国人が自国を"誇る"ことができない国ということになる。平和ブランドを持たない「戦争国家」(「リベラル派」的神経で命名すれば)だ。

もちろん、これはひどい韓国に対する蔑視であり、われらがネトウヨも顔負けである。

▼ 韓国人の愚痴;

ソース:現在この朝鮮日報の元記事は会員限定の御蔵入り::
Google [日本を偏愛する米国、韓国にも戦略的価値に見合う待遇を:日本は米国のために一滴も血を流さなかった、米国はそんな日本を偏愛し続けた]

共振する日本的「リベラル」思想と日帝の節操・未練

戦後70年、「日本は米国のために一滴も血を流さなかった」という史実は重要である。正確にいうと「日本は米国のために"日本兵の"一滴も血を流さなかった」。もっとも、日本は血は流さないが、基地提供(含むメンテ)という最重要の貢献はしていた。つまり、「これはやくざには絶対ならないが、やくざに金を払って自分の安全と利権を確保する成金と同じ神経である」(愚記事)。だから、戦後日本は戦死者ゼロというのはそんな自慢にならない、とおいらは思う。そして、条約の文言はともかく、素朴・直観的に考えて、相手国のために自国兵が血を流すことが同盟の「定義」である。この素朴的定義に照らして考えると、日米は一度も同盟関係であったことなどないのだ。そもそも、仮面の日米同盟!に他ならない。米英撃滅を目的とした大日本帝国の敗残者としては、旧敵とみだりに馴れ合わないというは、敗残者のせめての「誇り」ということができるかもしれない。そして、この「日本は米国のために一滴も血を流さなかった」という史実は、この敗残者のせめての「誇り」に寄与しているではないか!

決して日帝軍事冒険主義者ではなかった吉田茂(愚記事;元祖バカサヨ)とその後継が、マッカーサー憲法を盾に、対米軍事協力を拒否したことの史実の皮肉さは面白い。吉田茂は、「日本は米国のために"日本兵の"一滴も血を流さない」と決断し、実行した。元祖バカサヨ(愚記事)こそが、日帝の節操 (米英撃滅といったからには、敗戦後も協力できない) を保っているのだ。

それを示したのがこの画像だ(!!!???);


復員兵の娘(1955年生まれ)が、"死に損ない"の日帝兵士だった父の出征の寄せ書きを持って。
占領軍兵士により保管されていたとのこと。


新しい街でもぶどう記録;第57週

2015年11月28日 20時17分15秒 | 草花野菜

■ 今週の看猫

わが家のカスガイさま; 深くて暗い川を、やすやすと渡る、世渡り上手。

■ 今週の草木花実

■ 今週の鎹(カスガイ)

「テロ」は鎹(かすがい)

モスクワでプーチン・オランド露仏首脳会談へ、IS対策の協調を話し合う :Google

Google画像 [] (関連愚記事: 寒さは鎹

1. 最近の西洋人: 「ウクライナ問題? 何それ!!??」

2. 「テロ」攻撃によるフランスの本気戦争体制に、ぬっぽんのおフランス系リベラルは、だんまりだ。

ごめんよ。 元気は人はいたよ;

2015.11.25  フランソワ・オランドは帝国主義者になったのか

       ⇒でも、「テロ」には反対!、そして有志連合もダメ、っていってるだけで、「テロ」に対する態度・処方は論じられてない。

そして何より、原爆・空爆で日本が屈服したから戦勝国の「憲法」(マッカーサー憲法)が実現した原爆民主主義=「テロ」起源民主主義についての言及はない(この人は有志連合による空爆はテロリズムと認識している)。

関連愚記事;

西洋は、自分たちのアイデンティティーの保持のために、ネガティブなものとしてイスラムを踏み台にしている。

もっとも、おロシアさまの西洋問題は、ある。

モスクワの敵(かたき)を、横浜で討つ; あるいは、田舎者の収集品を田舎者がみる

ピョートル大帝自身、手足を動かすのが好きだったらしく、造船技術などを、実際に自ら学ぶ。その造船修業をした場所がここらしい。

 ■ 今週の 鯖街道

18日朝、大分県別府市内の大分自動車道下り線を走行中の大型トレーラーが急ハンドルを切った結果、バランスを崩して蛇行状態となり、荷台に搭載していたコンテナ14個が路上に落下。積荷のサバ約3万匹が路上に散乱した。
トレーラーは蛇行を繰り返しながら約300m走行。この間に荷台部分に積載されていたコンテナ17個のうち、14個が順次落下。積荷の生サバが路上に散乱 した。その数は約3万匹。回収作業のために現場を含む湯布院 - 別府インターチェンジ間が約3時間に渡って通行止めとなった。 [ソース]

google

正しい鯖街道: wikipedia [鯖街道]

■ 今週の毛沢東語録

Google [John McDonnell under fire for quoting Mao Zedong in Commons]

英国の議会での出来事。予算審議で、中国との経済的連携を強める保守党ジュオージ・オズボーン大蔵大臣に対し、労働党の影の大蔵大臣であるジョン・マクドネルが毛沢東語録を振りかざした。

「オズボーン同志が最近緊密な関係を築いた新しい同志たちの扱いを助けるために、今日は、私はオズボーン同志へ毛沢東語録を持ってきてさし上げた」と言って、その毛沢東語録を政府席に投げやったのだ。

保守党ジュオージ・オズボーン大蔵大臣の新政策には、政府資産を売却する計画があり、その一部を中共政府が買うらしい。

なにより、英国のAIIB入りや、中共とロンドン金融界の野合の実行者が、保守党ジュオージ・オズボーン大蔵大臣なのだ。

そして、労働党ジョン・マクドネルは毛沢東語録から下記を引用、嫌味を言った;

「我々は経済活動をどうやってやるか知っている人たちから学ばなければいけない。決して、経済活動をしている人たちから学んではいけない。彼らを師として仰がなければならない。でも、我々は私たちは知ったかぶりをしてはいけない。」

そして、労働党ジョン・マクドネルは言う;

この句は今起こりつつある英中関係にこそ有意義なのだ。 we must not pretend to know what we do not know !

これに対し、保守党ジュオージ・オズボーン大蔵大臣の応答が、オチになっている。

労働党ジョン・マクドネルから渡された毛沢東語録を開いて、「おお! ジョン・マクドネルの自筆名前が書いてある。あんたの物じゃないか。こりゃ大変だ。影の内閣の大半が再教育キャンプ [#] 送りになっているとは!」

* 一方、問題は「大躍進政策で4千5百万人を殺した共産主義者の言葉を英国議会で引用すること」とのこと。

'Chilling' to hear McDonnell quote Mao (ソース

A daughter of Chinese intellectuals, who spent time in Chinese labour camps under Chairman Mao's regime during her childhood, says it was chilling to hear John McDonnell quoting from the Little Red Book

[#] 押しかけ再教育キャンプ


元愚記事: 今週の 押しかけ 出張勝利祝賀会

■ 今週の寒暖

今週半ば、電車に乗ったら、手袋をしているのはおいらだけだった。やはり、内地の人は寒さに強いのだ。

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江藤淳が、三島由紀夫を「殺した」のか?

2015年11月25日 20時13分50秒 | 日本事情

僕は、同時代の批評家の義務は、時代を先導しつつある作家を殺すことにあると思う。  蓮實重彦
蓮實重彦、柄谷行人 『闘争のエチカ』 1988

2008年に西尾幹二が『三島由紀夫の死と私』という本を出した。題名通りの内容。その中で、江藤淳への非難が書いてある。江藤淳の有名な文章、『「ごっこ」の世界が終ったとき』が、三島を揶揄しているというのだ。

揶揄というか、江藤は三島を正面から批判している。つまり、「ごっこ」の典型として「全共闘運動」に代表される「左派」による革命「ごっご」、そして、楯の会の「自主防衛ごっこ」(いわゆる、右派)を、江藤は挙げている。

この西尾の本を読むまでうかつにもおいらは気づかなかったのだが、江藤の『「ごっこ」の世界が終ったとき』は1970年1月の発表、そして、三島事件は1970年11月。江藤の『「ごっこ」の世界が終ったとき』の方が先なのだ。

今から思えば、江藤に「ごっこ」と挑発された三島が、それじゃ本当に死んでみせて、「ごっこ」じゃないことを証明しようとしたともみえる。

江藤淳が、三島由紀夫を殺したのか?

江藤のまとまった三島論は1961年の「三島の由紀夫の家」くらいではないか?江藤はフォニイ考で「フランス」系作家を批判するようになったが、そもそも三島のこともいんちきと考えていたのではないのか?

■ なお、西尾の2008年の文章で、江藤が三島を「兵隊ごっご」と云って揶揄したと書いてある。江藤は、「自主防衛ごっこ」と云っているが、「兵隊ごっご」とは云っていない。「兵隊ごっご」とはありふれた表現にみえて、誰でもおもいつきそうな言葉ではありそうだ。でも、楯の会を「兵隊ごっこ」と揶揄する人は当時いたのだろうか?もっとも、江藤の『「ごっこ」の世界が終ったとき』の後に、「兵隊ごっこ」を思いつくことは容易である。

一方、楯の会=三島事件=「兵隊ごっこ」の用例は下記ある;

これがたとえば三島由紀夫がバタイユから読みとったもののすべてであり、その結果があの面白くもない兵隊ごっこだった。 (浅田彰、『構造と力』)


追記: 

しかし、『「ごっこ」の世界が終ったとき』の中で"兵隊ごっこ"という言葉は使っていない。些細なことだが、そうなのだ。

でも、最近わかった。江藤淳は別の文章で"兵隊ごっこ"という言葉を使っていた。

追記記事: 修正;江藤淳が、三島由紀夫を「殺した」のか? or "兵隊ごっこ"について


時代の寵児 空想虚言者  自動制御装置内蔵人間、あるいは、大卒@しかもS3/馬鹿女が支えるインチキ大先生

2015年11月22日 21時50分49秒 | 日本事情

「ICUの荒木です。札幌からかけております。先生が栃折さんに心配しないように電話をしてください、とおっしゃいましたので。こういうことです。(中略)オルガンを弾いていられたところ、右手右足がしびれてきて、一時的なものかと思ったが、翌朝になってもなおらないので札幌医大の内科医長和田武雄先生に往診をお願いしました。私は郷里なので森先生よりちょっと遅れて札幌に行ってまいりました。和田先生をよく存じあげています。外科の和田先生とは別の方です」
栃折久美子、"札幌で"、 『森有正先生のこと』

この本は2003年に刊行された本。森有正と愛人関係にあったらしい栃折久美子が、1970年のことを回顧した文章。

今の人が読んだら、(もっとも今の人は森有正のゴシップ情報の本なんか読まないだろうが)、「外科の和田先生とは別の方です」って意味が分からないだろう[1]。 なお、あのエロ小説家の渡辺淳一センセには、『ダブルハート』という作品がある(Amazon)。札幌医大は、渡辺淳一センセの勤務病院だった。さらには、北山修が札幌医大で勤務していたという史実は、かなりトリビアではある。

この本、 『森有正先生のこと』、を知ったのは2-3週間くらい前、中村健之介、『永遠のドストエフスキー 病という才能』という本を通してだ。「森有正は空想虚言者」と書いてあり、森有正は「奇妙な人間」であり、その観察記が、栃折久美子、『森有正先生のこと』とわかった。

栃折久美子、『森有正先生のこと』を読んだ。

ところで、江藤淳の「フォニー/フォニイ」という言葉が話題になったことがある。論争にもなった。詳細は、小谷野敦、『現代文学論争』の"三 フォニー論争 一九七三-七四"にある。端的にいって、フォニイとは高尚ぶっているが実はインチキである、ことだ。その江藤淳の「フォニー/フォニイ」考で名指しされた作家は、辻邦生、加賀乙彦、小川国夫。そして、その三人のうち、実に、(少なくとも)二人が森有正の"取り巻き"である。特に、辻邦生は"筆頭家老"である。

そして、結論は、栃折久美子、『森有正先生のこと』に書いてある。

栃折久美子と大学時代の恩師臼井吉見との会話;

(1971年、森有正がまだ生きている時、そして、死ぬ5年前)

(栃折久美子)「今日は、O大先生(著名な画家)のところへ行った帰りなんです。O先生、I先生(大作家)、そして森先生。このお三方のことを、私は時々ひょっとしたらインチキなんじゃないかって、考えることがあるんです。そこが魅力でもあるんですけれども。」

(臼井吉見)「その考えは、大変おもしろいな。人から聞いたことなんだが、井上靖さんが長い間かけて考えて、Iさんはインチキだという結論に達し、これはもう生涯、変わることはあるまい、と言ったそうなんだ。」

 栃折久美子、『森有正先生のこと』とは、1960年代末期から約10年間、毎年パリから日本に「カネを稼ぎにくる」森有正の、多分に理不尽な、雑用を栃折久美子が、喜び進んで、引き受ける話。昭和3年生まれの大卒女子による元祖「だめんず・うぉ~か~」。「だめんず・うぉ~か~」とは、男がだめだめなばかりでなく、それを支える女も同時にだめだめであることが重要。それを報告した「奇書」。昭和のインテリバカ女の記録。「先生」とセックスするって神経が信じられない。

この栃折久美子、『森有正先生のこと』を、今の時代のフェミニズムの教室での教科書にしたらいいと思う。明治生まれの昭和の大先生はこんなバカ女(昭和の馬鹿女!)に支えられてたって。日本の真実!戦後でもこんな調子だったのだ!

自動制御装置内蔵人間。この栃折久美子、『森有正先生のこと』で興味深い語彙は、自動制御装置内蔵人間。栃折久美子は自分は、自動制御装置内蔵人間だから、森有正先生の理不尽な雑用に振り回されているように見えて、破滅しないのだと云っている。そうなのだろう。そして、その自動制御装置内蔵人間が、森有正の破滅=社会性の欠如、金銭にだらしないこと、なによりインチキがばれることを救ったにちがいない。

それにしても、栃折久美子が森有正とつきあっていた頃、すでに、渡辺一夫などは森有正を相手にせず、面会謝絶にしていたらしいのだが、そのへんのことは、『森有正先生のこと』に見えない。

なお、栃折久美子、『森有正先生のこと』には、森有正がいいつける雑用のひとつのエピソードとして、江藤淳の投稿記事の切り抜きを持ってこい、というのがあったと書いてある。江藤淳のどの文章であるのかは書いていない。

▼  栃折久美子、『森有正先生のこと』の詳細は、極東ブログ、[書評]森有正先生のこと(栃折久美子)にある。今の人には知りようがない、「森有正」のその当時における意味が書いてある。時代の寵児だったのだ。おいらもその余韻は感じたことがある。

・日本人には個人意識は持てない

・日本人には真の恋愛も困難

とか云っていた森有正先生の御本を、あの頃、ぬっぽんの"いんてり層"はありがたくご拝聴していたのだ。

森有正が時代の寵児であった時代については、この書評に尽きる;

レビュー対象商品: 生きることと考えること (講談社現代新書) (新書)
投稿者  かぬひもと

本書がなぜ滑稽なのか。それは森有正が徹頭徹尾パリを礼賛しフランスを礼賛する一方で、東京をくさし、日本人を罵倒し、日本をダメな国とレッテルを貼り続けているからだ。これに尽きる。一言で言えば、森有正という人は「フランスかぶれのオバケ」みたいな人である。

■ 今では、森有正=インチキは周知らしい; 幻想振りまいた仏文の知的群像 平川祐弘

≪虚構にまみれていた森有正≫

辻邦生が森のデカルト研究の草稿が死後、何も残されてないと驚いたが、あれは驚く方がかまととで、間違いだ。因みに、渡辺格氏は『ももんが』の平成15年 5月号で晩年の父君は森が帰国し自宅を訪問しても頑として会わなかったこともその理由も引用するに忍びないほどあけすけに書いている。それなのに、森有正 に感心するフランス哲学の教授はまだ東大にいるらしい。だがそんな人は森と同じでフランス語で論文を出すでもなく生涯を終えるに相違ない。


[1] 和田心臓移植事件

・参考愚記事群 [森有礼]

 


新しい街でもぶどう記録;第56週

2015年11月21日 19時04分16秒 | 草花野菜

 

■ 今週の看猫

■ 今週の武相境

■ 今週の富士山

引越してきてから1年たつが、富士山が見えると初めて知った。

関連愚記事: びっくりした。つくばに来て16年、この地から富士山を見たのは初めて。

■ 今週の落下物

 

■ 今週知ったこと 周仏海

中国共産党が誕生した会議は1921年に上海で行われた。この会場は現在歴史的遺産として保存され、一大名所となっている(愚記事;上海参り)。 この中共一大会には、毛沢東も参加した。同じく参加した董必武(とうひつぶ)については愚記事(董 必 武 中共国家主席@法政大学卒を知る )。

その中共一大会址記念館[google画像]で、『中共一大代表 画伝』という本を買った。その本に東條英機が写った画像がある、と今週知った。それは、周仏海の章にある。

  

戦時中、周仏海は汪兆銘の側近だったのだ。大東亜会議[愚記事群]のため汪兆銘とともに「中国政府」の代表として東京に来たのだ。

後日追記: 大東亜会議は1943年(昭和18年)だ。上右画像には「1942年12月」と註がある。したがって、この汪兆銘政権代表たちと東條日本政府との会議は、大東亜会議とは別途のものなのだろう。

そもそも日本で教育を受けた。 wikipedia [周仏海]に書いてある;

湖南省生まれ。日本に留学し第七高等学校造士館 (旧制)・京都帝国大学に学ぶ。この頃から共産主義に触れるようになり中国共産党とも接触を持つ。1921年に開催された中共一大会議には日本への留学生を代表する形で参加した。しかし、1924年に帰国すると中国国民党宣伝部秘書になり、共産党と関係を絶つ。  その後、北伐に参加し一時汪兆銘の武漢国民政府に参画するが、その後は戴季陶の庇護を受け、蒋介石の下で三民主義のイデオローグとして活躍、国民党中央執行委員・党中央宣伝部副部長などを歴任。1938年に汪が対日和平を志向して重慶を脱出すると、これに従い汪兆銘政権成立に参加する。

 

毛沢東の向かって右の蝋人形が、周仏海であると思われる。

周仏海は中国共産党の誕生の大会に参加したのに、裏切って、日本と協調したということだ。当然、戦後は漢奸とされ、裁判。死刑とされるが、罪一等減ぜられ、死は免れる。でも、すぐ病死。

▼ さて、周仏海(1897-1948)は湖南省の出身である。これは毛沢東(1893-1976)と同じだ。20世紀初頭、湖南省では「日本の明治維新に学べ、湖南は明治維新の先頭にたった鹿児島になれ!」という機運があったという[1]。

革命国家日本!

そして、毛沢東自身、西郷隆盛の作と信じた詩を写し、親許におくったとされる。もっとも、毛沢東が西郷の作詞と信じた詩は月照(西郷と心中した坊主)のものであったのだが。

こういう時代背景で、周仏海は鹿児島の第七高等学校にいったのだろうと推定される。

さらには、毛沢東は1917年に宮崎滔天[wiki]に湖南で求めて面会し、日露戦争の日本の勝利を白人のアジア支配に対する黄色人種の初めての反撃として互いに高く評価したという[2]。つまりは、われらが安倍ちゃんが戦後70年談話の冒頭の日露戦争の勝利は世界に希望を与えたというくだり[*]の一例が毛沢東なのだ。

[*]百年以上前の世界には、西洋諸国を中心とした国々の広大な植民地が、広がっていました。圧倒的な技術優位を背景に、植民地支配の波は、十九世紀、アジアに も押し寄せました。その危機感が、日本にとって、近代化の原動力となったことは、間違いありません。アジアで最初に立憲政治を打ち立て、独立を守り抜きま した。日露戦争は、植民地支配のもとにあった、多くのアジアやアフリカの人々を勇気づけました。

やはり、日帝的鬼子、ではないか!


          勇気づけられました。

[1] 竹内実 『毛沢東』
[2] 青木直人 田中角栄と毛沢東

毛沢東が大好きだった西郷南洲と並べた画像は、愚ブログ(愚記事: 8月27日は、筑波山・文化大革命記念日、あるいは、革命国家の日々:歴史と日支は、糾える縄の如し。)にあった;

 ● まとめ: やはり、 日支は、糾える縄の如し

■ 今週の仏国、乱射事件の余韻

今週、この愚記事へのアクセスが、突発的に急増;

天よ、我に仕事を与えよ 

この事件、現場で手榴弾で自殺したのが奥平剛士、生きて捕まったのが岡本公三である。奥平は 長州 の出である。下関の生まれ。 岡本は出身はまだ未確認だが鹿児島大学だって。 つまりは「薩長」だな。

テロ国家日本!

セツルメント、ミンセイとか若い人にはわからないだろうが、おいらもわからない。セツルメント・ミンセイが、自動小銃乱射、手榴弾で自爆。なぜ人は 烈士 となるのか?考えたい。

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新しい街でもぶどう記録;第55週

2015年11月14日 18時06分58秒 | 草花野菜

■ 今週の看猫

 ■ 今週の political correctness、というより、むしろ、時代錯誤

「北海道は開拓者の大地」撤去 日ハム広告 (google

っていうか、プロ野球とか日本ハムとか「開拓」と何が関係あるのだろう? 一方、そもそも、近代における、いわゆる「開拓者」はもういないし、後続の道産子も自分たちは「開拓者」の子孫だからどうのこうのって、現場で聞いたことがない。

なにより、ここ数十年、「開拓者」の子孫たちは、「開拓地」を放棄して、陸続と、札幌に結集している。

日本ハムは、「北海道は開拓者の大地」という惹句で、何を言いたかったのだろう?

問題は、案外、内地人にあるのではないだろうか?

   ( どういうことかというと、30年前の話; )

むしろ、おいらが、内地に来て、「北海道出身です」というと、年配の内地人が「開拓の伝統とか、開拓者者魂を持っているんだね」みたいなヨタ話を、おいらに向かってした実例はある。おそらく、サービスのつもりにちがいない。

ところで;

奇を衒うと、アイヌ人こそ「開拓者」なのではないか? アイヌ人は和人より相対的に先住民であるが、どこかからか来たのだ。そして、河にのぼる鮭を大量捕獲する生活技術などで繁栄していた。住む人が少なかった土地で、生活技術を発達させて、繁栄することは、定義としての「開拓」ではないか?

つまり、日本ハムの「北海道は開拓者の大地」というのは、問題がないのではないか???

でも、political correctnessに違反すると判断された。

理由は、「開拓者」という言葉の意味を、近代の和人、とくに農業開発と解釈したからだ。

「開拓」という言葉の意味は、荒れた土地を耕作地に変えて、農業を営むこと、という「内地人」的発想なのだ。

あと、最大の理由は、「開拓」が「侵略」の隠蔽的美称だからだろう。

↓ 札幌駅で見た像(今年、秋):「北海道は開拓者の大地」!(?????)


ウレシパモシリ北海道イランカラプテ像 [google]

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ヨハンセン=吉田茂は、日帝が付けたコードネーム、CIAのものではない

2015年11月11日 21時19分38秒 | 日本事情

ネットでは、いか@さま情報が横溢している。

おいらの愚ブログは、価値判断、認識では、かなりキチガイではあるが、事実関係は、案外、まともである。

いや、事実関係だけは、まともにしようと心がけているつもりではある。

なぜなら、キチガイな価値判断、認識だけでは、誰も読まなくなるからである。

もちろん、事実に基づかない「事実」は、ちゃんと、暗示している。

そして、確かな事実を、奇を衒って、表すことがある。読み手のリテラシーを高く見積もっているのだ。

例えば、「石ころの半分は酸素であり、残りの半分以上はシリコンだ」!

そんなおいらの衒奇記事を引用してくれた御方(決して、保守でもなく、ましては、愚ブログのように、ウヨでもない)が、引用していた情報=吉田茂が「CIAのエージェント」;


https://twitter.com/matu923/status/664007377578930177

そして、そのソース;


http://www.rui.jp/ruinet.html?i=200&c=400&m=309206&g=132108

そのソース:; http://blog.goo.ne.jp/yamanooyaji0220/e/31b8776d983469bad82ffec40288122b

いや、いや、全然、全くの事実誤認。

コードネーム・「ヨハンセン」は、大日本帝国陸軍の諜報機関が、吉田茂に付けたコードネーム。

CIAとコードネーム・ヨハンセンは、全く、関係ない。

⇒ 愚記事:大磯 「ヨハンセン」邸炎上、参照のこと。

   ⇒ ⇒ wikipediaも参照のこと; ヨハンセングループ

確かに、戦後ぬっぽんは対米従属下にある。 文書公開で、 愚民党 自由民主党は組織的にCIAから資金援助を受けたことがあることが判明している(google)。

でも、吉田茂や岸信介のCIAコードネームは、未だに、確認されていない。

(なお、CIAが名づけ親ではないが、コードネームが公知なのは、だ!)

CIAコードネームが確認されている有名人は、正力松太郎緒方竹虎賀屋興宣などである;

有馬哲夫、『CIAと戦後日本』より;

 


鎌倉参り 2015

2015年11月08日 16時23分46秒 | 東京・横浜

鶴岡八幡宮。境内左折、鎌倉近代美術館(神奈川県立近代美術館 鎌倉)へ(詳細は、愚記事)。

▼ 昼ごはんは穴子を食べた;

 ・「左可井」(さかい)は穴子丼と玉子焼きで有名になったお店 一人でこつこつすることが好きというご主人のこだわりが生んだ すべてが手作りの温かみのあるお料理ソース)。

食べログ

 杉本寺 [wiki]

鎌倉市街北方の「谷戸」。

西御門の「事故物件」は安いんだろうか? (この画像の住所と事故物件とはなんら関係ありません、念のため)

↓ それは一丁目なのさ;


http://www.oshimaland.co.jp/?p=k4ve9p2a

▼ まとめ

       
ナカを斬って、     手首を切って
 クビも落とされて