いか@ 筑豊境 寓 『看猫録』

Across a Death Valley with my own Distilled Resentment

新しい街でもぶどう記録;第325週

2021年01月30日 20時30分32秒 | 草花野菜

▲ 今週の看猫;みけちゃん
▼ 新しい街でもぶどう記録;第325週

■ 今週の武相境斜面

■ 今週の草木花実

■ 今週のH2O

■ 今週の「へくり沢」

「へくり沢」とは仙台 (google) にある「新鮮な」開析谷のこと。「最近」の川の争奪による浸食でできた谷。 座間緑ヶ丘にもあった。

■ 今週の谷戸

■ 今週の段丘崖

座間市入谷西付近

中津原段丘面と陽原(みなはら)段丘面の境界の段丘。

■ 今週の国連旗

神奈川県座間市座間1丁目付近で見た風景

在日米軍座間キャンプ。 国連軍、満70年。 在日米軍は国連軍でもあるって、現在では、よく知られていると思う。でも、昭和末期はどうだったであろう。 国連軍が日本にいるなんてという認識を、高校生のおいらは、もっていなかった。 朝鮮戦争勃発時、ソ連が国連常任理事国を欠席したので、拒否権を発動されることなく、日本を占領していた米軍は、国連軍として、朝鮮に出兵した。 おいらはよくわからないが、このお墨付きは現在まで存続しているのだ。

■ 今週の軍用犬、military working dogs

またも軍用犬さまが、がんばっているとのお触れ。 おいら、みたごとねえよ、お犬さま。

■ 今週の神社@ "アメリカ"に一番近い神社

右を見ればフェンスの向こうのアメリカさまが見える道の左側には、伊奴寝子(いぬねこ)神社がある。

↓さきほどの軍用犬の黄色い看板と同じ視野に収まる伊奴寝子神社(画像右端の白い建物)


軍用犬の「お伊奴」さまも祭神に???

■ 今週の基地外のinstallation (設備)

神奈川県座間市栗原中央1丁目22;下の地図の右下のバルーン印の場所

  

ここでは、軍用犬はがんばっていないようだ。 川のほとりにあり、取水設備らしい。

■ 今週の街中華

ジャージャー飯、東龍(座間入谷西5丁目)[google] 。段丘崖の下。

ジャージャー飯は、甘みそ味で、キャベツ、ネギ、ニンジン、タケノコ、そして粒のニンニクが入った具。店は、土曜日なのに、現業、営業の人たちでほぼ満席。家族連れが1組。ただし、先日の町田と違って、お酒の人は、ゼロ。¥850(税込み)。

■ 今週の job opening

広告にある「LMO」を検索した。web siteを見た。 LMO=独立行政法人駐留軍等労働者労務管理機構(エルモ)、なるものを初めて知る。防衛省の外郭団体の独法組織なのだ。 そのweb siteに書いてあった;

目的 エルモは、駐留軍等及び諸機関のために労務に服する者の雇入れ、提供、労務管理、給与及び福利厚生に関する業務を行うことにより、駐留軍等及び諸機関に必要な労働力の確保を図ることを目的としています。

駐留軍等労働者とは  我が国には、日米安全保障条約に基づき、在日米軍が駐留しています。この在日米軍の任務遂行のため、国(防衛大臣)に雇用され、在日米軍基地で勤務する従業員が「駐留軍等労働者」です。

駐留軍等及び諸機関とは    駐留軍とは、条約に基づいて日本国にある外国軍隊をいいます。

現在、約25,000人の駐留軍等労働者が全国各地の米軍基地で勤務しています。 仕事は、事務・技術・消防・警備等のほか、基地内の売店・食堂の業務など多岐にわたっており、在日米軍の活動を支えています。

諸機関とは、合衆国の軍当局が公認し、かつ、規制する海軍販売所、ピー・エックス、食堂、社交クラブ、劇場等をいいます。

 

ピー・エックス PXって言葉はまだあるんだ。

 

 


西部邁 北海道 アメリカ

2021年01月27日 18時42分23秒 | 日本事情

些細なことです。西部邁の文章で整合性の無い見解を示すものを2つ見つけたので、メモしました。そのメモの前置きが長くなりました。



ケプロンと黒田清隆の像。札幌大通り公園。2018年、札幌散歩(愚記事)にて。

愚ブログを初めて間もなくの2005年の愚記事「プロフィール」において偏愛マップ、偏憎マップが掲げられている。憎むものとして、「米英」と「薩長」が挙げられている。そういうキャラで行こうとしたのだ。事実、そういう考えをしていたし、今もその延長線上にいる。さて、おいらが生まれ育ったのは北海道の札幌だ。その札幌の創建には「米」と「薩長」が決定的。札幌大通り公園にケプロンと黒田清隆の像が立っている。なお、この像が立てられたのは1967年。明治100年の記念を背景としているに違いない。薩摩の黒田清隆は明治新政府の開拓使の長官で、ケプロン(wiki)は招聘された専門家・開拓使顧問である。(なお、黒田清隆は、大日本帝国が亡びて、招聘してもいないアメリカ人が来るとは予想だにしなかったであろう)

つまりは、札幌は都市建設の頃からアメリカと縁が深い。2005年の「プロフィール」を書いた時は、この札幌と薩長、米国との関係をそんな意識はしていなかった。2005年の「米英」と「薩長」は先の大戦と戊辰戦争を意識したものだった。

■ 西部邁とアメリカ

さて、西部邁。西部は、北海道は日本の中の「アメリカ」だという。理由は歴史がない、「流れ者」(西部はこういうもの言いはしていない)の地だから。西部は、学術書以外のデビュー著作は、『蜃気楼の中へ -遅ればせながらのアメリカ体験-』という東大助教授時代の米英滞在記だ。そして、人生後半はアメリカ流の改革批判、イラク戦争批判とアメリカについて語っている。一方、西部は、自分は反米主義者であるとは認めなかった。例えば、次のように云っている;

私は、反米主義者では絶対ないが、間違いなく反親米主義者ではある。1995年、西部邁、『破壊主義者の群れ』

つまり、アメリカ化した日本人を嫌い、批判しているのだ。これは、西部の大衆批判の基調だ。戦後日本人がアメリカ化して大衆化(高度な教育と高所得を得て、専門人となって暮らしていくこと、ただし、伝統に根付く安定感がない)だという見立てだ。どこかで、アメリカ化=大衆化=hedonism (快楽主義)と批判していた。

■ 西部邁とアメリカと北海道

西部は自分の属性で道産子であることは決定的であると云っている。北海道と自分の関係が自分を考える上で重要であるということだ。そして、北海道とアメリカの関係についてもしばしば言及している。ところで、相反する見解の2発言を見つけたので、メモとする。

(前略)天皇が無事でおられたのはアメリカの温情によるという事実にある種の屈辱感を感じつづけてもいたし、アメリカ軍に守られているくせに葉巻をくわえている首相の姿に権柄ずくを感じてもいた。「かつての敵に守られている」ことへの腹立ちを大人たちから聞いたことがなかった。それが私を反「親米」へと傾かせたのだと思う。しかし札幌は、あらゆる面で、アメリカを模範とすべき、という雰囲気に包まれていたように思う。西部邁、『無念の戦後史』、2005年。

 

 大人たちで「アメリカは立派だ、アメリカに見習え」と言いつのっていた者に出会った体験は、Mも僕も、あまり持っていないのです。そういう(昔ふうに言えば)ハイカラな人々に会うことになったのは、後年、東京に出てきたからのことで、だから両名は、ずっと、東京文化に軽佻浮薄を感じてもきました。北海道では、そこが「日本のなかのアメリカ」とも言うべき移住者の地であったにもかかわらず、アメリカ文明への露骨な礼賛は聞かれなかった、と言ったほうが真実が近いでしょう。聞かれたのは、せいぜいのところ、「アメリカのおかげで北海道分割が阻止された」というくらいのことでした。西部邁、『妻と僕』、2008年。

西部は自分の同じ体験を何度も違う本で文章にして語る。その一連の文章は、数十年にわたって、整合的である。でも、わずか3年のあいだで違う見解だ。整合性をもたせようとすると、2005年の文章が札幌についての言及であり、2008年の文章が北海道への言及であること。札幌と北海道を区別しているということか?

西部は、愛憎(アンビバレント)とか矛盾とか境界(異質なものが接するところ)での身の処し方、平衡を取ることに価値があるという思想の持ち主だ。イメージは尾根道を左右の谷に転落することなくきわどく渡り切ることである。その観点からみると、北海道/札幌が「親米」である・ないというのは、「矛盾的な境界」なのであろう。そして、北海道/札幌が「親米」である・ないという認識は、西部の北海道への愛憎半ば(つまり、北海道を愛すべきか、憎むべきかの悩み)と連動している。


明白なる使命(manifest destiny: 1845⇒1945; Texas⇒Tokyoのアメリカ100年西征、日本征服達成

2021年01月24日 19時21分23秒 | 日本事情

私がプリンストン大学にいたとき、同僚の温厚な中国史の学者が、なぜかマッカーサーが好きでたまらないというのです。ちょっと意外だったので理由を聞くと、「いや、結局インディアン退治の将軍の伝統を受け継いでいるところだなんともいえないのだ」といいかけて、比喩がよくないと思ったのか、そのまま口をつぐんでしまったことがありました。 江藤淳、『日米戦争は終わっていない』、1986.

米国の第1騎兵師団 [1] の歴史を紹介したweb siteでは、1783-1917年の時代について、Manifest Destiny 、「明白なる使命」と題し、あの絵画、<アメリカの進歩>(ジョン・ガスト John Gast。1872年)が掲げられている。 ([1] 関連愚記事群


http://www.first-team.us/  


追い詰め(track down)、られ 迫害(pursue)されるインディアン、バッファロー、熊

このページ(米国第一騎兵師団歴史のManifest Destiny)の機械語訳

時代は1800年代であり、選択の場所であり、機会は新しい西部開拓時代であり、気分は冒険と富の探求に変わりました。アメリカ合衆国が独立してから数十年が経ち、その間に地理的面積は3倍になりました。その伝染性の風景の性質により、米国は大西洋から太平洋に広がる運命にありました。国の東部がより人口が増えるにつれて、多くの人々の注意が西に向けられました。

「マニフェストデスティニー」 というフレーズは、米国が大陸横断国家になるための神聖な権利を持っているという哲学を説明するために造られました。一部の政治家はそれが憲法に矛盾していると感じたが、大部分の国民は領土拡大に賛成した。厳格な構築主義者は領土拡大に反対し、緩い構築主義者は拡大が米国の運命であると感じた。厳格な構築主義者は、憲法が連邦政府が土地を取得する権利を持っていると直接述べたことは決してないという事実を中心に彼らのプラットフォームを中心に据えました。憲法を寛大に見ている人々、または緩い構築主義者は、拡大の権利を主張することを支持し、政府の暗黙の権限に該当します。「マニフェストデスティニー」のアイデア 1850年代まで、アメリカの政治を他のどの要因よりも分割しました。

Manifest Destiny 、「明白なる使命」は、1845年の造語。『デモクラット・レヴュウ』誌に編集長のジョン・L・オ・サリヴァン (wiki) が「テキサス併合論」と題する論文で「年々増加してゆく100万のわが国民の自由な発展のために、神によって与えられたこの大陸にわれわれが拡大するという明白な使命」と書いたことに始まる[1]。1845年に米国によるテキサス併合があった。その経緯は、この地は元はスぺイン領。そこへ白人(耶蘇新教系)移民が流入。まずはテキサス共和国のスペインからの独立。そして、米国に併呑される。テキサス州となったテキサス共和国は奴隷がいる奴隷州であった。すなわち、アメリカ合衆国は土地ばかりでなく奴隷、および奴隷制も手に入れたこととなる。

さて、上記「明白なる使命」と題し、<アメリカの進歩>をその歴史叙述に掲げる第一騎兵師団はテキサスのダラスにある師団だ。創立当初の任務は「インディアン退治」だ;

1830年代までに、急速に拡大するフロンティアは、アメリカ西部の広大な広がりをカバーするために、通常の出没を超えてインディアンを追い詰め(track down)、迫害する(pursue)ことができる高度に機動性のある軍隊を要求することが明らかになりました。第1騎兵師団のルーツは、スピードと機動性のために騎兵隊を擁護しているが、騎兵と騎兵の両方で戦うための訓練と適切な装備を持っている人々への回答にあります。竜騎兵の米国連隊は、次のように地域、国の広いセグメントをカバーする組織されました。  (第1騎兵連隊の 歴史 「勇気と忠実」web site) 機械語訳 [一部修正])

1845年には「神によって与えられたこの大陸にわれわれが拡大するという明白な使命」とされていたが、すなわち、米大陸限定のごとく唄っていたが、実際には、19世紀末のハワイ併合、フィリピン併合においても「明白な使命」が唱えられた。

その発想、論理は、その表現の出て来た時点とはかかわりなく、その時点以前にも以降にも存在したのであり、広くアメリカの膨張主義の正当化の論理ということができよう。(斎藤眞、『アメリカ史の文脈』[強調、おいら])

■ 1945年 Tokyo、日本征服; 「インディアン退治」の果てに

確かに、<俺たち>は、ハワイ(<奴ら>が「明白なる使命」で占拠したこっちへの出先)を襲った。それがアジアへの<奴ら>膨張 [*] を出来させたのだ。

東京に進駐する米国第1騎兵師団(愚記事;1945年夏の敗戦、東京入城の米軍は八王子方面から

アメリカ大使館に入るマッカーサー将軍と第1騎兵師団兵士 
「いや、結局インディアン退治の将軍の伝統を受け継いでいるところだなんともいえないのだ」


退治された<俺たち>


<俺たち>「インディアン」の"酋長"との会見

同僚の温厚な中国史の学者が、なぜかマッカーサーが好きでたまらないというのです。ちょっと意外だったので理由を聞くと、「いや、結局インディアン退治の将軍の伝統を受け継いでいるところだなんともいえないのだ」

[*] 膨張

  降伏文書調印のミズーリに掲げられたペリー来航(1853年)の時の星条旗。星が31個。1945年まで20あまり増えたのだ。

Yanks Enter Tokyo: U.S. Soldiers in Japan (1945) | British Pathé

■ 補遺

アメリカ合衆国の領土拡大史 グレイの他国領土が次第に減っていき、ピンクの州statesが黄土色の準州territoriesを吸収していく。


新しい街でもぶどう記録;第324週

2021年01月23日 17時46分26秒 | 草花野菜

▲ 今週の看猫;みけちゃん
▼ 新しい街でもぶどう記録;第324週

■ 今週の武相境斜面

■ 今週の草木花実

■ 今週の払い戻し

■ 今週の記念日

カレーの日 1月22日。 当日、おいらも食べました。

国民食と言われるまでに普及したカレーのよりいっそうの普及拡大により、健康で豊かな消費生活の実現に寄与するのが目的。日付は1982年1月22日に全国学校栄養士協議会が、学校給食習慣の前に全国の学校給食のメニューとして「カレー」の提供を呼びかけたことから。(wiki)

■ 今週の検索語彙

仙台は大手門、宇和島城は追手門: 関連愚記事:東西伊達家居城の大手門、追手門の焼失

Q: 大手門と追手門の違いは?

元は追手門(おうてもん)と書かれ[1]、高知城など、城によっては現在も追手門と表記しているところもある (wiki

■ 今週の記念日、その2


西部邁、『戦争論』1991年、(右)、 西部邁、小林よしのり、『反米という作法』、2002年

*湾岸戦争開戦:1991年1月17日

*西部邁入水自殺:2018年1月21日 (関連愚記事:西部邁死去3年;ハーネス(安全帯)とロープをつけて谷筋での繋留死:何處かに行かないように

西部は1991年の湾岸戦争のクウエート領内のイラク軍駆逐のための湾岸戦争に賛成した。当時の日本は湾岸戦争への参加、協力で国論が激しく二分された。当時の若者へアンケートで日本の問題として、世論の分断・意見収束の困難が1番であったと、おいらは、記憶している。西部は湾岸戦争開戦是認、米国の戦争支持を訴えた。その論が収められている『戦争論』の冒頭は岡崎久彦への賞賛だ。

一方、アフガン戦争、イラク戦争では米国の戦争に反対。それは侵略戦争とまでいった。岡崎の死後、西部は米国に追従する知識人として岡崎を非難していた。

さて、湾岸戦争とアフガン・イラク戦争の間で西部は「転向」したのか?というとそうではない。湾岸戦争がルールに基づいた戦争であるから是としている。

一方、日本の世論と政府、あるいはエスタブリッシュメントは、湾岸戦争でこりて、アフガン・イラク戦争の詳細、合法性を深く考慮することなく、昨日の戦い(湾岸戦争)を、アフガン・イラク戦争への対米協力として、戦かったのだ。今では、(当時上院議員としてイラク戦争に賛成した)バイデンでさえイラク戦争を反省しているのに、日本の世論と政府、あるいはエスタブリッシュメントは、何ら説明責任を果たしていない。

 


西部邁死去3年;ハーネス(安全帯)とロープをつけて谷筋での繋留死:何處かに行かないように

2021年01月21日 18時37分06秒 | 日本事情


東京、武蔵野台地の谷筋、多摩川。
西部邁は、2018年1月21日、大田区田園調布5丁目の多摩川左岸の河川敷から多摩川へ入水自殺。

 ー そして紐の切れた凧みたいに風のまにまに何處へ行くやら、 - 福田恒存

西部邁が死んで3年目。2018年1月21日は関東平野は大雪になった(愚記事;西部邁死去2年)。西部の自殺については、しばらく経って幇助者がいるとわかった。西部の自殺に他人の助けがあったことは、西部がハーネス(工事現場で作業者が着ける安全帯 [1])にロープを付け、そのロープが川辺の木に結び付けてあったからわかったという。つまり、西部は、当時、手が不自由で自分でロープを木に結わえることはできるはずはないと近親者が気付いたらしい。

さて、この続報を聞いて、おいらが印象深くしたのは、西部が安全帯にロープを付けていたことであった。すなわち、他人に頼んで、川に流されていかないための措置をとったのだ。死んでもどっかに「吹っ飛んで」いかないようにという西部の意思が印象深かった。もちろん川での入水自殺なので空をすっ飛んでいくことはないが、多摩川のような大きな川では、流されそのまま海に出ると行方がわからなくなる。西部自殺の数日後の続報であるロープでつないで入水自殺したと聞いたとき、冒頭の福田恒存の言葉を想起した。そして、西部はどこぞにすっ飛んでいかないように、どこぞに流されていかないように、ロープで自覚的に繋留したに違いない。


[1] ハーネス

冒頭の福田恒存の「そして紐の切れた凧みたいに風のまにまに何處へ行くやら」という"せりふ"は、1960年の安保騒動の後に福田恒存が全学連の幹部との会合で放ったものだ。詳細はこうだ;

反安保闘争直後、知人の紹介で全学連の指導者達に会った事がある。島、唐牛両氏その他五、六人はいた様に思う。席上、誰だったか、こういう意味の事を言った、「僕たちはもう清水幾太郎を信用していません、信用できるのは丸山眞男だけです、マルクスも『資本論』のマルクスは捨てた、信じられるのは初期マルクスだけです」。それに対して私はこう答えた、「そうして君達は次々に仲間を捨てて行ってどうする気持なのかね、そのうち丸山眞男も初期マルクスも切り捨てて行くだろうよ、そして紐の切れた凧みたいに風のまにまに何處へ行くやら、最後には自分も信じられれなくなる時が来るに決まっている」。(以下略)[仮名遣い変更と強調は、おいら]

この文章は、福田恒存、『近代日本知識人の典型清水幾太郎を論ず』の註である。

■ 西部の入水自殺宣言

西部は自殺にあたって極めて自覚的で「最後には自分も信じられれなくなる」ということではなかったと自分では信じているだろう。だから、死んだとしても「紐の切れた凧みたいに風のまにまに何處へ行く」ことがないように措置をしたのだ。

死後の自分が「紐の切れた凧みたいに風のまにまに何處へ行く」ことがないようにしたことは別として、入水自殺することは以前から自覚的であった。20年前から云っていた;

「どうやって死ぬか。自分で死んでしまえ、と。いちばんいいのは青酸カリで、次はピストルだけど、青酸カリとピストルは、日本では手に入らないことがことがある。それで三番目に思いついたのは入水自殺です。私はカナヅチで泳げない。それで最初は、入水自殺というイメージはものすごい恐怖なんです。ところがおもしろいことに、自分が入水自殺した光景を繰り返し繰り返し自分の中ででイメージさせる。そうすると次第に自分の頭が平気になるんです。」(【共同討議】伝統・国家・資本主義、 西部邁、福田和也、浅田彰、柄谷行人、「批評空間 II-16」1998)

■ 散乱気質制御としての「保守」、あるいは、尾根筋・谷筋

1980年代中半から「保守」を掲げるようになった西部の論敵は戦後民主主義であったが、別の主敵はポストモダン派だった。その価値探求を忌避する態度と論理が気に入らなかった。論敵は浅田彰で、対談がいくつかある。西部は晩年に至るまで浅田の「ありとあらゆる方向に逃げ散っていくスキゾキッズ」(浅田彰、『逃走論』の装丁の上の文章)の文言を繰り返し口にし、そんなバカなことはないと云っていた。西部は人間は差異化運動を限りなく続ける記号に踊らされるのではなく、「価値」を求めて生きるべきという思想を喧伝していた。でも、保守を掲げながら、落ち着くことなく、逃散気質であったのは西部の方だろう。西部の人生の逃散ぶりはこうだ;

共産主義組織の活動家 ⇒ 逮捕・裁判 ⇒ 各種薬物の試用 ⇒ 近代経済学(制度化した学問)の習得と初陣の成果(宇沢弘文に認められ大学の職につく) ⇒ 「言語論的転回」の洗礼 ⇒ 近代批判、制度化し社会のイデオロギー装置と化した経済学の批判 (”自己の狭隘なイデオロギーや日常的意識を不断に反省する努力”) ⇒ 構造主義的社会科学総合への夢/団塊世代の若手学者の啓発 ⇒ (ポストモダン的批判の)行き詰まり ⇒ ポストモダン批判 ⇒ 大衆批判/ビジネス文明批判 ⇒ 幻像の「保守」へ ⇒ 大学離職 ⇒ テレビでの言論活動 ⇒ 雑誌運営 ⇒ 戦没参りへの耽溺 ⇒ イラク戦争批判、反米言論活動、など、など

西部は、この自分の逃散気質を自覚していて、克服したいと思い自覚的に「保守」を掲げたに違いない。「保守」を掲げても気質は変わらなかったと見える。西部が1980年代中頃から喧伝した「保守」とは、実体のあるものではなく、逃散気質の自己を何とか平安に制御する思想のことであったに違いない。事実、逃散気質克服修行での言葉が残されている。1986年。西部は、真理や正義を口にする。価値相対主義はいけない、と。西部は、長崎浩との対談で、云っている;

真理にたどり着くはずの道を見たぞという思い、あるいはそれを見出そうとする持続的な構え、それが僕の言う正義なんです。」「僕の思う正義というのは、感性と理性の話で言えば、両者がキチっと折り合いがつく際の存在の型のようなものです。そんなものがあると思うのは夢かもしれないけど、僕の思う正義の本質はそんなものです。二律背反にずっとさいなまれていたのに、その二律背反をきわどく渡り切る経路が一瞬みえてくる。数学でいえばサドル・ポイント、つまり鞍点解  [2]  にすっと近づく一線のことです。そこからちゅっとでもはずれれば、すっとどこかに飛んでいくというきわどい一線のことなんです。

長崎「僕の言う尾根道だ。」 (『<現在>との対話6  西部邁 ビジネス文明批判/尾根道をたどりながら』)[強調、おいら]


[2]  鞍点

1986年に西部は、「そこからちゅっとでもはずれれば、すっとどこかに飛んでいくというきわどい一線」への繋留を語っている。つまり、西部は油断すると「すっとどこかに飛んでい」ってしまうという自分に警戒しているのだ。その「すっとどこかに飛んでい」くだろうよ!という警告が冒頭の福田恒存の言葉だ。全学連だった西部は、いつの時点かで、気付いたのだ。それでも、西部の逃散気質の駆動力は衰えなかったのではないか。最後に、約束通り、自殺を決行した直接の原因は、病院死への嫌悪だ。西部は最晩年まで、近代批判=モダン批判、=モデル批判をしていた。つまり、モデル思考を非難する。モデル思考とは、複雑な現実の仔細を蔑ろにして、大雑把なパラメータ(因子)で現実を切り取り、説明することである [3]。その理論の応用が、大量生産社会であり、画一的人間の生活様式だ。そして、今では人間の死までも、画一モデル、すなわち、パッケージされたルーチンの治療から臨終処理まで画一的な処理過程が病院で実施されているのだ。西部はそんな死に方はいやだと考えた。そして、散乱、逃走! 多摩川へ。

[3] ちなみに、西部が学者としての初陣で、宇沢弘文が解けなかった数理経済モデルを解いて、宇沢弘文に認められた。そして、のち、そんな数理経済モデルはくだらないと捨て去る(逃散、逃走)。

そして、谷筋で死す

尾根道、尾根筋があれば、地表には、谷筋がある。高地の谷筋は名の通り谷、あるいは水を添えて渓谷である。一方、平野での谷筋は河川だ。凸凹がある関東平野西方の谷筋は多摩川がながれている谷だ。西部はその谷筋の多摩川で入水自殺した。そして、どこかに行ってしまわないように、体をロープで繋留したのだ。逃散気質制御の最期の見せ所となったのだ。

 


新しい街でもぶどう記録;第323週

2021年01月16日 18時19分04秒 | 草花野菜

▲ 今週の看猫;みけちゃん
▼ 新しい街でもぶどう記録;第323週

▼ 今週の武相境斜面


JR横浜線、成瀬駅付近

■ 今週のメタセコイア

■ 今週の草木花実竹


ミモザが、微かに、色づきはじめた。


梅が咲き始めていた。 ピントを合わせ損ねた。

■ 今週の富士山


小山田緑地にて。

■ 今週の町田の人出、あるいは、昼飲み事情

今週日曜日、町田へ行った。非常事態宣言は出ている。この日、まだ週明け直後で、夜8時以降は自粛という雰囲気。のちに出る、昼間も不要不急外出は自粛という呼びかけはまだ出ていなかった。

昼ごはんのため、ひとりで、中華屋に入る。


香港酒家 九龍 食べログ

客は3組。うち2組は酒を注文していた。8時以降の飲酒・会食自粛は意味がないだろうと感じた。


白身魚の甘酢あんかけ定食、790円。

■ 今週の緩衝材

HDを買った。買う前の選定で、だめ理由が通販の場合輸送中に壊れるというものが複数あった。今回買ったやつは、レビューでクッション付きでよかったというのもあり、選んだ。

■ 今週のメッセージ


町田市 下小山田

■ 今週の「(昭和)天皇に達せず」(?)

のし梅を買った。山形 玉屋総本店の約500円のものだ(商品情報)。 見ると、皇太子殿下御献上品(昭和三十四年)、高松宮殿下御献上品(昭和三十四年)と書いてあった。すなわち、ひろひとさんには届いていていなのだ(?)。のし梅天皇に達せず! と与太なことを高松宮殿下つながりで連想してしまった。さて、昭和天皇はのし梅を食べたことがあるのだろうか?


正しい食べ方は、はさみで、横方向に切ると、しおりに説明が書いてあった。

 Amazon


『情報天皇に達せず』=『細川日記』より

■ 今週の「ワシントン・ハイツ」[1] 情報@天声人語への道 (2回目。1回目は飯田久彦

[1] 愚ブログに現れる「ワシントン・ハイツ

今週みた本にあった。『戦後体験の発掘』、安田常雄+天野正子 編、三省堂、1991年。平成始動時の有名"インテリ"さま(森毅、富岡多恵子、梅原猛、森崎和江、上坂冬子、古関彰一、大江志乃夫、中沢新一など)に、敗戦とその後の占領時代の経験をインタビューしたもの。なぜかしら、占領が明けたのち生まれた中沢新一も入っている。

この本をつくった安田常雄は、動機の一部について、江藤淳の無条件降伏論争から占領期の検閲研究があったことを挙げている。そして、その江藤的占領観への「違和感」もあると書かれている。

さて、その中で加藤秀俊 [2] のインタビューにあった ([2]  陸軍幼年学校出身者として愚記事に登場);

それから、同級生の辰濃和男なんか、代々木公園にあった、アメリカ軍の高級将校のバラック住宅で、ハウス・ボーイというのをやってたんです。

この加藤秀俊 のインタビューには明示されいないが、代々木公園にあった、アメリカ軍の高級将校のバラック住宅はワシントン・ハイツに他ならない。なぜ、「代々木公園にあった、アメリカ軍の高級将校のバラック住宅」という言い廻しをするのか?なぜ、直截にワシントン・ハイツといわないのか? 飯田久彦のインタビューに参考となる言い廻しがある。「今の代々木公園にワシントン・ハイツってのがあって、」と。すなわち、ワシントン・ハイツといきなり言っても、「今の人にはわからないだろう」という認識があったと仮定すれば、納得できる。加藤秀俊は、ワシントン・ハイツといきなり言うのを、聞き手はどうせわからないし、通じないだろうと端からあきらめたと考えることができる。

占領時代、米軍住宅には日本人のメイドが多く雇われていた。ただし、おいらは、「私はかつて占領時代、米軍住宅でメイドをしていました」と証言する話を、まだ、みたことがない。一方、元米軍住宅のメイドは小島信夫の小説に出てくる。

そして、ハウス・ボーイ。 江藤淳は書いている;

 いうまでもなく、これら”第三の新人”の作家たちが、作品を発表しはじめたのは、占領軍民間検閲支隊(CCD)による事前検閲が廃止された占領末期でなければ、占領終了直後の時期である。しかし、それにもかかわらず彼らの文体が、地を這い、屈折しつつ矮小化し、あるいは過度に断片的で人工的なものとならざるを得なかったのは、一つにはこの時期までに戦後の言語政策と検閲が、日本のジャーナリズムのなかでほぼ完全に制度化されていたことを物語っている。“第三の新人”の作家たちは、ハウスボーイとして、アメリカンスクール参観の教師として、また病者として、占領の屈辱を嘗めたというにとどまらない。それ以上に、これらの人びとは、あの人工呼吸の影響を、それぞれの言葉に刻印されていたのである。 (『自由と禁忌』初出 1984年 [昭和59年])

さて、辰濃和男。ハウス・ボーイをやっていたとされるこの人。おいらは、初めて見た名前だった。ググった。びっくり。

大学卒業後朝日新聞社入社。浦和支局、社会部、ニューヨーク支局長、社会部次長、編集委員、論説委員、編集局顧問を歴任。この間、1975年から1988年まで「天声人語」を担当 (wikipedia

ぎょえ。13年間も朝日の「天声人語」を担当していたとのこと。天安門事件、ソ連崩壊前の、まだ戦後民主主義的言辞が通用した最後の時代だ。

もちろん、辰濃和男がハウス・ボーイをやって屈辱を嘗めたかはわからない。幸せだったかもしれない。でも、天声人語なぞ読んだこともないのだが、おそらくそれは「彼らの文体が、地を這い、屈折しつつ矮小化し、あるいは過度に断片的で人工的なものとならざるを得なかった」ものに違いない。そして、「天声人語」の文章は、「戦後の言語政策と検閲が、日本のジャーナリズムのなかでほぼ完全に制度化され」た言語空間での「精華」であったのだろう。


東京散歩;多摩丘陵(その3/全3)奈良ばい谷戸 ⇒ 小山田緑地・みはらし広場 ⇒ 町田室内プール

2021年01月14日 19時09分58秒 | 東京・横浜

鶴川駅から小山田緑地へ歩いた。多摩丘陵の中の開発されていない域を歩いた。

記事1.鶴川駅 ⇒ 小野路の街道; 小野路東丘陵 (前々回記事)
記事2.小野路の街道 ⇒ 奈良ばい谷戸; 小野路西丘陵 (前回記事)
記事3.小山田緑地 ⇒ 図師町、市営プール (本記事)

のうちの、記事3が本記事。下地図の地点10から12まで、奈良ばい谷戸から町田市立室内プールの散歩行程について記す。


1.鶴川駅、2.大蔵、3.小野路交差点、4.別所、5.関屋の切通し、6.小野路の丘陵の農地、7.8.町田日野線、9.小野路城址、10.奈良ばい谷戸、11.小山田緑地・みはらし広場、12.町田市立室内プール

■ 奈良ばい谷戸から図師町、市営プールへ


10.奈良ばい谷戸、11.小山田緑地・みはらし広場、12.町田市立室内プール、101.

▽ 

町田平山八王子線を渡る。

▽ 小山田緑地

林を抜けると、あっと驚くほど人がいた。子供が多かった。

みはらし広場からは、富士山が見えた。

この日、快晴。日差しはあったが、気温は6℃。おいらは、さんざん歩いて来たせいか、全然寒くなかった。多くの人がお弁当を広げていた。

▽ みはらし広場をから下る

林を抜ける

谷戸に出た。

この風景見たことがあるとおもいだす。あー、来た、向こうから来た。でも、疲れていて、小山田緑地の本園に入れなかったのだ (愚記事: 神奈川:東京散歩;米陸軍相模原補給廠 ⇒ 小山田緑地)。

▽ 小山田緑地出口、桜橋バス停 ⇒ 町田市営室内プール

市立室内プールバス停からバスに乗る。乗客は、おいら以外、いなかった。町田バスターミナルまでの間、乗客計3人だった。

 

 


東京散歩;多摩丘陵(その2/全3)小野路城址の丘陵域

2021年01月13日 20時47分38秒 | 東京・横浜

鶴川駅から小山田緑地へ歩いた。多摩丘陵の中の開発されていない域を歩いた。

記事1.鶴川駅 ⇒ 小野路の街道; 小野路東丘陵 (前回記事)
記事2.小野路の街道 ⇒ 奈良ばい谷戸; 小野路西丘陵 (本記事)
記事3.小山田緑地 ⇒ 図師町、市営プール

のうちの、記事2が本記事。下地図の地点6から10までの散歩行程について書く。


1.鶴川駅、2.大蔵、3.小野路交差点、4.別所、5.関屋の切通し、6.小野路の丘陵の農地、7.8.町田日野線、10.小野路城址、11.奈良ばい谷戸、12.小山田緑地・みはらし広場、12.町田市立室内プール


5.関屋の切通し、6.小野路の丘陵の農地、7.8.町田日野線、9.小野路城址、10.奈良ばい谷戸


散歩行程;5(関屋切通し)⇒小野路バス停 ⇒ a (バイオトイレ)⇒ 6(丘陵高地の耕作地)⇒ b 林を抜ける ⇒ c (萩生田牧場)⇒ d 下り坂 ⇒ 7 日野線に出る。   Goole 3Dマップ

▼ 小野路バス停 ⇒ a (バイオトイレ) ⇒ 6.小野路町833 丘陵最高地域の農作地

街道から丘陵の林の中へ入る;


バイオトイレ 東京都町田市小野路町770−1

▼ 6 ⇒ b

林を抜ける

▼ b ⇒ c

萩生田牧場:町田市で唯一の肉牛農家である萩生田稔さん(57)は長男の和也さん(30)と一緒に約40頭の黒毛和牛を飼育しています。JA 町田のweb ページ)

▼ 7-8 (町田日野線) ⇒ 丘陵に再び入る ⇒ 丘陵の林を抜け ⇒ 奈良ばい谷戸


再掲航空写真: 7.8.町田日野線、9.小野路城址、10.奈良ばい谷戸

▽ 町田日野線 7 ⇒ 8


野津田高校前交差点

▽ 8.野津田高校前交差点 ⇒ 丘陵域に入る ⇒ 9.小野路城址

図師小野路歴史環境保全地域及び奈良ばい谷戸」(google)地域の縦断

朝から、丘陵の林道を走る自転車の人たちを2グループみた。

▽ 

△ 小町井戸
▽ 小野路城址

八雲神社(城山の天王様)、〒195-0064 東京都町田市小野路町797 (google

小野路城:: 小山田氏が承安年間(1171年~1174年)に小山田城の支城として築城。 のちに小山田地方は、扇谷上杉氏の版図となり、1476年(文明8年)長尾景春の乱が起きると小野路城は小山田城と共に扇谷・山内軍の拠点となった。 翌1477年(文明9年)小山田城は長尾勢に攻め落とされ、このとき小野路城も落城したと考えられる。 wikipedia

▽ 小野路城址 ⇒ 竹林 ⇒ 10.奈良ばい谷戸

竹林

この奈良ばい谷戸は、restorationもの=復古ものらしい。すなわち、過去の一時期、田んぼとしての耕作が放棄され、「自然」植物が繁茂していた。それを、水田が広がる谷戸につくりなおした(町田市サイト)。

「奈良ばい」は、漢字で奈良林 (google)。


東京散歩;多摩丘陵(その1/全3)鶴川 ⇒ 布田道・関谷切通 ⇒ 小野路

2021年01月12日 21時17分00秒 | 東京・横浜

鶴川駅から小山田緑地へ歩いた。多摩丘陵の中の開発されていない域を歩いた。


1.鶴川駅、2.大蔵、3.小野路交差点、4.別所、5.関屋の切通し、6.小野路の丘陵の農地、7.8.町田日野線、9.小野路城址、10.奈良ばい谷戸、11.小山田緑地・みはらし広場、12.町田市立室内プール

歩いた域を3つに分けた。その3つとは大きな道路(地形的には丘陵で開析された谷底平野)に区切られた域。便宜上、小野路東丘陵、小野路西丘陵、小山田丘陵と、勝手に、名付けた。

鶴川駅から小山田緑地(さらに、図師町の町田市立室内プールまで)への散歩を3つのブログ記事に分散させる。

記事1.鶴川駅 ⇒ 小野路の街道; 小野路東丘陵 (本記事)
記事2.小野路の街道 ⇒ 奈良ばい谷戸; 小野路西丘陵
記事3.小山田緑地 ⇒ 図師町、市営プール

(本)記事1.鶴川駅 ⇒ 小野路の街道; 小野路東丘陵

▼ 1.小田急・鶴川駅 ⇒ 2.大蔵、3.小野路交叉点、⇒ 4.別所 

■ 1.小田急・鶴川駅

■ 2.大蔵

■ 3.小野路交叉点

西へ向かって来た。小野路交叉点。鎌倉街道。


小野路交差点、南を望む。


小野路交差点、北を望む。この方向へ進む。

■ 4.別所

▼ 4.別所 ⇒ 5.関屋の切通し 


4.別所、5.関屋の切通し

別所のT字路から丘陵地に入る。布田道。b地点で、c地点へ向かう。この道は妙桜寺へ向かう道。途中で引き返して、再び、bに戻る。そして、dの関屋の切通しへ。ここで、画像左の竹林、雑木林の山林に入る。その道を行くと、bに戻った。bから、再び、dの関屋の切通しを通り、丘陵域を西へ向かう。そして、小野路宿の街道に出た。

▽ a ⇒ b


谷戸の谷底平野は田んぼとして利用。


台の上の白い家

▽ b ⇒ c


丘陵地の最高部の斜面は畑地として利用。


丘陵の雑木林を行くと、ブルーシートで包まれた物体が並ぶ謎の敷地。
わかった ↓

洋弓の練習場なのだ。車で来た人が練習を始めた。朝、8:40。


妙桜寺へ向かう道。 途中で、引き返す。

▽ c ⇒ b ⇒ d

▽ d  ⇒ b



関屋の切通し。右へ向かうのが本流。左へ行く道がある。行ってみた。

山道を進むと、竹林 ↓ 。

進むと、開けてきた。谷戸。

なんだ、さっきの台の上の白い家だ。

▼ 振り出しに戻り、再び関屋の切通しへ

■ 関屋の切通し ⇒ 小野路バス停


「小野路東丘陵」の丘陵最高部の域の耕作地


街道が見えてきた。


バス停、小野路

 


新しい街でもぶどう記録;第322週

2021年01月09日 17時48分57秒 | 草花野菜

▲ 今週の看猫;みけちゃん
▼ 新しい街でもぶどう記録;第322週

■ 今週の武相境斜面

■ 今週の草木花実

■ 今週の注意書き

アポロヨーグルト ⇒製造元紹介サイト  いちごヨーグルト×チョコレートソースの2層で味も構造も「アポロ」を忠実に表現! 

■ 今週のお茶請け@おせち料理由来

■ 今週見た落とし物

■ 今週の季節の広告

宝塚音楽学校 生徒募集

■ 今週の黄帽の人たち

■ 今週の結晶

朝方冷え込むというので、バケツの水を入れて、氷をつくった。

■ 今週の207年ぶり


https://twitter.com/AndyNetherwood/status/1346943515050307591

1814年に、米英戦争でのワシントン焼き討ちの最中、the Capitol (米国議会建物)に入る英軍。

御存知、今週のニュース;アメリカ議会乱入事件(google

画像: The US Capitol has been stormed before – when British troops burned Washington in 1814 より

■ 今週の古い画像

この建物を見たことがあるなと思いだした。でも、ワシントンで、16年前に見たときはこの建物が米国議会であるとは知らなかった。the Capitolという語も知らなかった。昔のデジカメ画像を見直してみた。あった;

the Capitolを写した画像の前後には、学生、生徒の群れが映っていた。子供たちの議会参りだったのであろう。