いか@ 筑豊境 寓 『看猫録』

Across a Death Valley with my own Distilled Resentment

デリーの「御茶ノ水」

2007年04月30日 19時11分28秒 | インド・3回目・シンガポール


  
リッケンバッカーは売ってません、たぶん。

ただ、楽器屋がたくさん並んでいたので、デリーの御茶ノ水といっただけです。
過去記事; お茶の水 茗渓 仙台堀 


デリー門。 ムガル帝国時代、デリーの中心はキラー城であり、そこから一定地域が城郭で囲まれていました。その城郭にあった門にひとつです。

ニューデリーの象徴である、コンノートプレースから、キラー城に行くとすると、たとえば、デリー門を通ります。 正確に言うと現在デリー門は史跡ですから実際にはくぐれません。横目に見るのです。デリー門を「くぐると」もうそこはムガル帝国首府の城郭の中。まっすぐ行くとキラー城とチャンドニーチョークのぶつかるあのT字路に出ます。


縮尺がちょっと変かな? このバーは1.5kmくらいかな?

■参考過去記事
ラールキラー(キラー城)

チャンドニーチョーク探索

▼皇帝の責務について;

(引用)
終戦の日まで、いや、いわゆる「人間宣言」まで日本国民にとっての現人神であった昭和天皇が、まるで愛想の良い外交官のように振舞っている。私は痛々しく感じるとともに、昭和天皇が日本と皇室を守ろうとした努力に思いを馳せる。先帝のなさったことを「必死の生き残り策」とか「権謀術数」「マキャベリズム」と呼ぶのは不敬もいいところだ。だが、そう言いたくなるほど昭和天皇は懸命に戦っておられた。


リアリズムと政治力と無私の心兼ね備えていた「大政治家」昭和天皇に私は畏敬の念を抱く。

(引用おわり)
from 45年9月25日  玄倉川の岸辺

ひろひとさんのことを、畏れ多くも、考えるに、ここ数日はムガル帝国の最後の帝・バハードゥル・シャー2世 の行動を参照。インド大反乱のクーデターで担がれた帝・バハードゥル・シャー2世のすぐさまとった行動のひとつが英国駐留軍への、このクーデターに我関せず、という手紙の送付であった。

■対米開戦が決定した後の御前会議のあと、大臣をして、駐日グルー米国大使へ、対米開戦にひろひとさんは反対した、と内通させたのは、対米敗戦を読んでの皇帝の用意周到な布石だと考えるのは、うがちすぎであろうか?

●さて、ひろひとさんが対米開戦を望んでいなかったことの、証左が御前会議での むつひとさんの御製、例の「よもの海」詠み「パップニング」である。

でも、どうだんだろう? この「よもの海」詠み「パップニング」こそ、用意周到・あいまい・両義性的行動に他ならない。 なぜなら、この「ハプニング」は上記のごとく平和主義・ひろひとさんの証左ともなりうる。しかし前例として、むつひとさんが「和平希求」の御製を詠んでも、内閣は戦争を実行しうるのあるから(日清戦争だか日露戦争)、そんな歌詠みは、お約束の儀礼にしか過ぎないと、昭和の帝国軍人は「呑んで」かかっていたに違いないのである。もし戦争に勝っていたら、むつひとさんが、日清戦争だか日露戦争に、本当は、反対であったというエピソード同様、ただの思い出にとなり、偉大な戦勝皇帝になったのである。

▼つまりは、皇帝のお仕事は「リスクヘッジ」なのであって、すべての卵をひとつのかごに入れてはいけないように、帝さまの身の振り方は単線であってはならないのである。




横顔

2007年04月29日 10時29分30秒 | 日本事情
- - 大きな声であなたが笑ったら、なぜか、私も楽しくなる。 不思議ね。- -
                『横顔』 大貫妙子



ひろひとさん(便衣姿の元大元帥); 在位:昭和元年 - 平成元年の前日




今は違う友達に囲まれ、


私を覚えていないのね、やっぱり。


ちいさく、つぶやいた サヨナラ
こころに届くかしら?


誰もしらない、あのときの横顔、

昔のあなた、見失ってほしくないの。


Prasad, grace of god

2007年04月28日 20時30分09秒 | インド・3回目・シンガポール


勝手に入り込んだお寺、Visit to India at the third time で、もらったお供え物のおすそ分け、たぶん。 この後、一緒に働いているインド人に、画像を見せて、これは何か?と訊くと、prasad とのお答え。Prasad とはなんぞや?とさらに尋ねると、 grace of god とのお答え。 それで、お供え物のおすそ分け、と判断した。

Wikipedia によると、

Prasāda is both a mental condition of generosity, as well as a material substance that is first offered to a deity (in Hinduism) and then consumed (Hinduism and Sikhism).  Wikipedia, prasad

つまりは、このお菓子の名前ではないようだ。

地は小麦で、砂糖と煮詰めて作ってあるみたい。 インド人と話すと甘さは幸せの象徴であり、お供えものとしてふさわしいとのこと。 その時、日本というのは、特に近代以前は砂糖が極めて少なく、ほとんどの日本人は砂糖や甘さというものに縁がなかったのだよと説明する。 

でも、その時、気づいたのであるが、仏壇やお墓へのお供え物は、落雁やおはぎ、ぼた餅など甘いものではないか! どうやら、砂糖や甘さは仏教とともに日本に来たらしい。

■とまれ、繰り返すと近代以前の日本で砂糖は貴重品で庶民の口にはほとんど入らなかったであろう。そういう砂糖に無/微縁の日本で、当っているのか、いか@さまなのかわからないが、日本人論として「甘えの構造」論がある。 「甘えの構造」の英訳は、The Anatomy of Dependence である。依存の解剖学。 皮肉じゃないか。 砂糖をめったに口にすることが出来なかった日本人の精神構造が、甘えの構造。その症状は、independence未達症候群。 それとも近代になって砂糖と出会い、addictionになったんだべか?

つまりは、これだ。

砂糖をめぐる冒険 与太話は、続く。


こうやって、配っていたのでした。


祭壇



The Anatomy of Dependence / 甘えの構造



An old car never die, it just running away!

2007年04月27日 20時07分26秒 | インド・3回目・シンガポール



An old car never die, it just running away!


google  

ヒンドゥスタン・アンバサダーは、インドのヒンドゥスタン・モーターズ(Hindustan Motors Limited、略称:HM)が1958年から2014年まで生産した自動車で、インドの国民車として知られる。(wiki)

■ なぜ、立命館?

温首相のパフォーマンスの一部が立命館大学で行われたことで、おいらがピンと来たのは、これは 西園寺コネクション だろう、ということ。

立命館「大学」の建学の祖は、西園寺公望に他ならず、その愚孫・公一はゾルゲ事件に連座するばかりか、戦後は中共・北京に長く滞在した御仁であることはいうまでもない。

Google;西園寺公一

そのまた愚息・西園寺一晃は、おやじ殿と北京で、文革黎明期を過ごし、北京・文革体験記を出版、さらにおいらのネタのためにか、朝日すんぶんの記者であったのはいうまでもない。

NHK朝日新聞バトル。でも貴公子さまがすき。

における、細川(近衛)に次ぐ、another sample である。

Google; 立命館 西園寺一晃

▼岩倉具視の愚孫・靖子は、華族赤化事件で、とっ捕まり、自害した。

彼女こそ、クーデターで国家を転覆させ、いかさま@日帝を作った具視の正嫡に他ならない。

おいらの探訪1. 京都岩倉 実相院

おいらの、京都・岩倉探訪録; 京都岩倉 実相院 2 『京都岩倉実相院日記』

Google; アカ (紅葉の アカ ちゃうで) 岩倉靖子

■これを右翼といふも可、左翼といふも可なり、いわゆる皇室の藩屏は国体の衣を着けた共産主義者なり。





へびのきもち golgappa

2007年04月26日 23時29分44秒 | インド・3回目・シンガポール
Snake's Heart  -ヒトと愛蛇の生活総合誌-

インド人はへびの気持ちを味わいたいらしい。

へびは、生卵をまる呑みする。呑んだ後卵の殻を割り、どろりとあふれだす中身の液状黄身白身を口の中で味わう。

それを模したのが、インド料理、golgappa.



殻、中が空洞のクリスピーボールを準備。


汁を入れる。すっぱからい微妙な味。


呑み込み用の模擬生卵の完成。 一気にお口に放り込みます。

Google; golgappa

Google Image; golgappa




log note

2007年04月25日 20時56分32秒 | インド・3回目・シンガポール




ホテルのロビーのソファーに座っていた。ふと、後ろを向くと、ログノートが机上にあった。おいらは、しょーばい柄、ログノートが気になってしかたがない。ホテルのログノートって何のため?としげしげ見ていると、スタッフが来た。

「おめーさんがた、このログに何を記録なさるのか?」

と、お尋ね申し上げると、

「shift!」

と、おこたいいただいた。


ところで、みなさんのまわりには、これだけがっしりしたログノート売ってる?

おいらは、筑波山麓に着てまもなくの頃、銀座の伊東屋まで出張ったけど、ろくなのがなかった思い出あり。




朝の校門

2007年04月24日 21時07分17秒 | インド・3回目・シンガポール

デリーのホテルのサリー姿のおねーさんがその名を知らなかった農村の学校の校門にて。

(空港→デリーのホテル→この農村、という行程でのデリーのホテルで、これからの予定は?というホテルウーマンの定例・儀礼的質問に対し、%&に行く、と言ってもうわのそら。メーラット、と答えなおすと、笑顔で、そう、メーラットですかと、定例・儀礼的回答。 ありがとう。)

みんなパンジャビスーツを着ている。サリーは既婚者が着る、という仮説に矛盾しない。

■昨日の話。メーラットはインド右翼の聖地にはなっていないようだ。これは、ムガル帝国がイスラム帝国であり、所詮は外来民族による「インド」支配帝国であったことに原因があるのかもしれない。

インド初心者のおいらにもインド史跡に見えたるイスラム風と従来インド風の違いが少しは見えるようになった。


典型的従来インドは上記画像のようなUFOっぽいこの建物。


イスラム・インドの象徴は、もちろん、田島春さんに他ならない。

::後記;まちがってるみたい。 タージマハルのメインのドームのわきがUFOだ。UFOはヒンドゥーのものではないのかな。 勉強します。::

とまれ、ヒンドゥーナショナリズム問題は今度。

▼もどって、昨日の続き。昨日改めて気づいたのだけど、中曽根康弘さん@大勲位は、若い頃(のちに重光葵@元A級戦犯率いる)改進党の「青年将校」として、時の米国占領軍の「傀儡」政権の内閣総理大臣・吉田茂に、ひろひとさん の退位を要求した。今となっては歴史の推移はだれもが知るのであるから、中曽根康弘さんは、てめーがやめろ!といった すめろぎ さまに、国会の議決を基に、約30年後、内閣総理大臣に任じられたということになる。

逆の視点から見ると、ひろひと さんは、ずぶんを追放しようとした元ちんぴらにーちゃんを、内閣総理大臣に任じたのである。

見よ! ひろひと さんの懐の深さを!

見よ! ひろひと さんの懐の広さを!

●そして、愚民党と第二愚民党の、現青年将校諸君へ!

中曽根大勲位を見よ! キミタチはあまりにもいじましい。

外山恒一さんこそ、よほど、「大勲位」へ、まっしぐらだぞ。








蛤御門の変+大東亜戦争=皇帝追放・属領化

2007年04月23日 19時42分08秒 | インド・3回目・シンガポール

- - このあたりメーラット。 - -




1857年のインド大反乱(セポイの乱)が起きた街。蜂起したシーパーヒー(日本流ではセポイ)は、英国人50人を殺したあと、メーラットから50kmほどのデリーへ向かう。目的は、形ばかりとなり、実権のないムガル皇帝・バハードゥル・シャー2世 Bahadur Shah IIを擁立し、ムガル帝国を再興して英国を追い払うためである。

おいらは、数日にわたる農村での飯場仕事の後、デリーへ向かう。メーラットを通ることはわかったていたので、その農村で、メーラットに何か「インド大反乱」に関する史跡はないか?と聞きまわるも、ないとの答え。運が悪かったのは、一緒に仕事をするためデリーから同行したインド人スタッフが、歴史なんて知らない!とのこと。ガイドになってもらう野望が潰えた。そもそも、「インド大反乱」がわからなかった。そこで、お客さんである相手方、インドの中産階級、インテリと話すと、もちろんインド大反乱は知っていたが、史跡はない!とのお答え。別になにか観光施設を求めていたわけではなく、旧駐屯地を、今は何もなくとも、見てみたいと思ったのだが、その希望自体が、どうやら向こうさんには通じていなかったようだ。つまりは彼らには「史跡探訪」という概念がないのではないかとその時も今も思う。ちなみにデリー生まれ、デリー育ちのchemistで、クトゥブミナールの錆びない鉄柱を知らない御仁がいた。

インド人は歴史に疎いとの説があるが、真偽は知らない。TIT出の秀才ちゃんたちはみんなもちろんインド大反乱はもちろん、チャンドラボース、そして彼の遺骨が今も東京にあることを知っていた。もっとも彼らは、ボースと同じ、ベンガル出身だったのだが。つまりはボースは郷土の英雄なのだ。

反乱は何の戦略もなく、英国支配への反感による熟成で自然発生的におきたのであろう。そんな戦略なき反乱でも、無意識に歴史を てこ にして現状を覆そうとした。王政復古の大号令。皇帝を奪取し新政権を打ち立てようとした。

           
            ぼくたちの、一時的な、成功。だって、帝はがきんちょ。

もっとも敵は 同じ「民族」の幕府 ではなく、毛唐さんである。英国人をたくさん殺した。 でも、すっぱい した。英国は巻き返した。 皇帝は捕まり、show trialの運命をたどる。その時の写真がこれらすい。

 
担いだのは老帝. exile to Burma


ビルマに追放される。最後のムガル帝国の皇帝。 これで、ムガル帝国は形式的にも終焉し、英国女王を戴くインド帝国となる。

塗った者勝ち

つまりは、蛤御門の変と対毛唐さん戦争・大東亜戦争をいっきにやってしまい、1945年の大日本帝国の運命にさきがけて、インドはアングロサクソン(えげれす)の属領・属民となったのである。

細かい法理論は追えないが、おおざっぱに言って、英国がインド帝国の根拠としたのは、「おいらのインド、あんたにあげます」という上記最後のムガル皇帝の一筆だと思う。つまりはインドの求心力を逆手にとってイギリスのインド支配に転じて利用したのだ。

■ これは他人ごとだろうか?

皇室の日本での求心力を逆手にとって、日本を従属させているのが、新世代あんぐろさくそん・米国様である。対米従属の基本法であるマッカサー憲法を、たぬきの葉っぱをお金だとみなすように、日本で流通させているのは、ひろひとさんの憲法発布に他ならない。


show trialは免れたよ。 マック憲法、発布するよ。今後は「マック幕府」の将軍様の言うことちゃんときいてね! ぎょめー・ぎょじ。

         
      exile(退位)要請!   ←非国民! 



ぼくたちのすっぱい。The very show trial!


exile to あの世


でも、「人民裁判」で、無罪勝ち取ったよ!

どうする!? 脱米独立志向の右翼さん!








バトラーさんからのお知らせ

2007年04月22日 11時56分38秒 | 日本事情
バトラーさんから、お知らせの、お葉書。

(このブログに来るくらいの)酔狂なあなたにもお知らせします。
(遅れてすみません、明日までです。)


↓詳細

山縣睦子個展

Google; 山縣睦子 個展



この個展サポートブログ記事は、この記事を除いて、ただひとつ;こちら。

■My General-Yamagata chase

1. じゅげむ・じゅげむの弁当箱

2. 無鄰庵 -京都参り⑦- 

3. 靖国宮司は南部の殿様

4. They look just like two Gurus in drag ! 西のグル、北のグル



You had a hundred billion chances ......

2007年04月21日 16時14分40秒 | その他
-- "You had a hundred billion chances and ways to have avoided today. But you decided to see my Bloody Cats. You forced me into a corner and gave me only one option. The decision was yours. Now you have Bloody Cats in your eyes that will never wash off." --

originated by, of cource, the literate and armed Crazy Man.



今日の御血会


snobsの訳語が、 いか@さま師(願わくば、いか@さま野朗) になりつつある。
「金持ちの坊ちゃん」「道楽者」「いかさま師」などと周囲の学生らに対する非難の言葉

It's very nice for me, a great Ika@sama-Yaro.