いか@ 筑豊境 寓 『看猫録』

Across a Death Valley with my own Distilled Resentment

明仁上皇の墓地造成 (?) 武蔵陵で口さがない京童のいうことにゃ

2019年05月29日 18時31分31秒 | 日本事情

平成末期、おいらは武蔵陵墓地に歩いて行った(愚記事;多摩丘陵縦断散歩;こどもの国駅(横浜)⇒ 武蔵陵墓地(八王子))。その時、武蔵陵墓地で耳にした。今、"次"を造成中と。口さがない京童が話していたのだ。武蔵野にも京童がいるのだ。

でも、その口さがない京童は言っていた。googleでみれば確認できるよ、と。

果たして、家に帰りググルとあった;


「次」を造成しているのだ。

■ 武蔵陵墓地は舟田丘陵にある。

武蔵陵墓地は多摩陵墓地(大正天皇陵)と同じ敷地にある。入り口の門はひとつだ。大正天皇の墓地である多摩陵は多摩丘陵にあるのではなく、舟田丘陵にあるのだ。

エビデンス ↓


経産省、産総研(旧通産省、地質調査所)の地質図(国家の基本的文書である)より「第1.3 図 八王子地域内の地形区分」(ソース

なお、この第1.3 図 八王子地域内の地形区分の凡例が間違っている。酔狂な人はご確認あれ。

次の陵の名前は? 同じ位置でありながら、陵の名前が多摩→武蔵と地名の指し示す域が拡大している。次はどうするのだろう? 関東とかにするのか?


横浜散歩;JR石川町駅⇒港の見える公園⇒元町公園⇒石川町駅

2019年05月26日 13時08分55秒 | 東京・横浜


地図0。 赤い枠(地図1)は下記;


地図1 1:JR石川町駅、4:港の見える公園、5:神奈川近代文学館、6:元町公園

 JR石川町駅から散歩。本牧台地の北側の港の見える公園、神奈川近代文学館、元町公園を経て、石川町駅に戻った。以前、本牧台地を迂回して本牧、山手駅方面の散歩をした(愚記事;本牧台地散歩; 「帰って母に聞いて、日本がアメリカに負けたことを知りました」)。なお、港の見える公園は2006年に来たことがある(愚記事;ねこばか作家の記念館 -横浜①-; 仏軍駐兵地 -横浜⑤-)。13年前の2006年。まだおいらがつくば山麓にいた頃だ。その時、まさか横浜市民になるとは想像だにしなかった。

1 ⇒ 2 ; JR石川町駅⇒元町⇒台地入り口


JR石川町駅ホーム。台地にトンネル。

 


元町を海側へ行く途中、左を見ると台地を貫くトンネル。




元町商店街の海側入り口。この交差点を左折。台地へ。


左折し台地へ向かうとき、ウチキパン(web site)を見る。ウチキは宇千喜と知る。


坂を登る。この先、港の見える丘公園。下末吉台地の平坦面にある。


港の見える公園


大佛次郎記念館。この庭は2006年と比べて大改装したとわかる。


神奈川県近代文学館


(下末吉台地の一部の)本牧台地の西側は海食崖。


再び、港の見える丘公園入口。下末吉台地の平坦面。

3 ⇒ 7; 港の見える丘公園入口 → 元町公園 


下末吉台地の平坦面


元町公園。台地の開析された斜面にある。


開析された窪地を弓道場にしていた。


元町公園プール。 web site


元町公園出口

7 ⇒ 8 ⇒ 1 ; 元町公園出口 → 元町通り → 石川町駅


元町の通りを西へ行く途中、北を見ると首都高越しに中華街の市場通り門が見えた。

 

 

 

 

 

 


新しい街でもぶどう記録;第237週

2019年05月25日 18時42分03秒 | 草花野菜

■ 今週の看猫

■ 今週のよその猫


大佛次郎記念館、横浜市中区、港の見える公園内

■ 今週のよその犬

■ 今週の武相境斜面

■ 今週の日の丸

■ 今週の道場


横浜市中区、元町公園

■ 今週のベンチ


横浜市中区、元町

■ 今週のコスプレ

■ 今週の花

■ 今週の「20世紀の成仏のために」、あるいは、米陸軍第8軍第95軽戦車中隊


神奈川近代文学館、企画展「没後20年 江藤淳展」

見出しを「昭和の成仏のために」しようと思ったが、やめた。理由は、江藤は平成に入って「我ハ先帝ノ遺臣ニシテ新朝の逸民」といいつつ、昭和の回顧(『昭和史』、『昭和の文人』、『離脱と回帰と』など)の本を出したり、政策科学的本(『日米安保で本当に日本を守れるか』)を出したり10年活動して21世紀になる前に死んだのからだ。

4月末に出た平山周吉、『江藤淳は甦る』を読んで、この展示が行われることを知った。

展示は生い立ちから彼の活動期ごとの原稿や写真があった。内容は平山周吉、『江藤淳は甦る』を読んでいたので、特にびっくりすることはなかった。なので、少し驚いたことを書く。

林達夫の江藤淳あての手紙があった。家に帰って調べると、この手紙のことは既に雑誌で報告されている(新潮45 2016/1)。展示で見たその手紙の内容をおいらの記憶で書く。1968年に書かれた手紙。手紙は平凡社の社用便箋に書かれている(社名が横文字で書かれていた)。江藤を大江健三郎と共にその世代の重要人物であることを認識しているということ;その前の世代=小林(秀雄)、川端(康成)について林が論を書きたいとのこと;江藤が編集している雑誌に原稿が書けなかったことの詫び;江藤の勝海舟論に感激したことが書かれていた。

少し驚いた理由は江藤と林が交流があったということ。

<江藤淳、林達夫、米陸軍第8軍第95軽戦車中隊>

江藤の自伝的文章、『戦後と私』での終戦直後についての記述で、進駐してきた米軍兵士に関する記述がない。のち、あれほど占領研究に入れあげる江藤が1966年の自伝には、占領米兵の直接の姿はない。まして、江藤の好きな「声」、なにより江藤が執心して学んでいた英語を話していたはずの<やつら>の声は書かれていない。

その地で敗戦を迎えその後3年間住んだのが鎌倉の稲村ケ崎。通ったのが藤沢の湘南(旧制)中学。おそらく江ノ電で通学したのであろう。そうすると、進駐してきた米軍がすぐそこに屯していた。すなわち、米陸軍第8軍第95軽戦車中隊が鵠沼海岸のすぐ向こうに駐屯していた。キャンプ茅ヶ崎(wiki)。

林達夫は鵠沼に住んでいた。その家はネットで見れる。林達夫も目と鼻の先に占領軍がやってくることになる。その林達夫は昭和25年に書いている(「新しき幕明き」初出、『群像』[講談社]、1950年);

戦後、人々が民主主義政治だといって大さわぎしていることに、私は少しも同調することができなかった。
(中略)
その時(敗戦)から早くも五年、私の杞憂は不幸にして悉く次から次へと適中した。その五年間最も驚くべきことの一つは、日本の問題が Occupied Japan 問題であるという一番明瞭な、一番肝腎な点を伏せた政治や文化に関する言動が圧倒的に風靡していたことである。この Occpied 抜きの Japan 論議ほど間の抜けた、ふざけたものはない。「奴隷の言葉」を使っていたと称する連中までが、そういう議論の仲間入りをしているのだからあきれる。(強調;おいら) 

つまり、林達夫は占領下における民主主義を疑問視しているのだ。江藤がのちたどり着く占領下の自由、民主主義の欺瞞性の指摘を占領下の時点で行っている。このことは以前からおいらは気づいていたが、その二人に交流があったと知って少し驚いたのだ。

もっとも、この後のことはわからない。1968年に江藤は大江と決別する。一方、林達夫はのちのちまで大江との交流を続けている。大江健三郎こそ、Occpied 抜きの Japan 論議ほど間の抜けた、ふざけたもの成果にほかならない戦後民主主義を信仰しているのに。林達夫と江藤とはどうなったのだろか?

<市井の占領米軍>

ネットで今調べると、進駐米軍はキャンプ茅ヶ崎の基地に駐屯するばかりでなく、高級軍人は日本人の家を接収して市井で暮らしたとのこと。つまり、鎌倉や鵠沼は戦前から文化人が移り住んでいたので洋風の「立派」な家が多く、それらの家が米軍に接収された(ソース)。

こういう状況であるなら、江藤淳が進駐してきた占領米軍兵を見ないわけはない。にもかかわらず、自伝・『戦後と私』に書かないのは何か理由があるのだろう。

■ 

集計日 2019年5月25日 集計期間
     
合計 7,938 2,680
日付 閲覧数(PV) 訪問者数(IP)
5月18日 1,273 426
5月19日 1,133 344
5月20日 1,168 421
5月21日 1,128 375
5月22日 1,014 379
5月23日 1,024 372
5月24日 1,198 363

 


今日はつくば記念日;松竹梅のつくば戦後開拓集落について

2019年05月19日 15時02分18秒 | 筑波山麓


今日はつくば記念日。

今から49年前の今日、筑波研究学園都市建設法に、ひろひとさんが書名、押印; ぎょめーぎょじ (愚記事:ひろひとさんのゴーサイン

以前、下記書いた;

のち、学園都市建設で、名がとってつけられた。松代、竹園、梅園! 松竹梅! なめてんのかぁ、命名者!

その「筑波研究学園都市」のいちおうの中心のつくばセンターは、農地にもならない松林、雑木林台地につくられた(これは実は不正確である。立ち退いた緊急開拓地の満州からの引き上げ民がいるらしいのだが、その件はいつかまた)。

(愚記事;今日もつくばで; 苅間歩道橋、あるいは、分断された「共同体」を繋いで... 

これについて、誤りの訂正と最近知った公知情報を書く。

【誤り】上記で、「学園都市建設で、名がとってつけられた。松代、竹園、梅園! 松竹梅! 」と書いたが、誤り。具体的にどこか誤りかというと、「学園都市建設で」の部分と松代。

まず、松代と松見を取り違えた。松見、竹園、梅園!とすべきであった。さらに間違いは、松見、竹園、梅園は学園都市建設以前からあった。そして、その松見、竹園、梅園がいつできたかを下記書く。

【敗戦ゆえの緊急開拓地;松見、竹園、梅園】

<竹園の現在>


竹園は現在のつくばエクスプレスつくば駅の南の地区。学園東大通りを挟んで東西に存在する。図中の「稲荷山」はこれから見ていただく過去の地図での目印のため強調図示。

上述「立ち退いた緊急開拓地の満州からの引き上げ民がいるらしいのだが、」についてネットで情報があった。

緊急開拓地というのがある。1945年(昭和20年)11月9日に閣議決定した「緊急開拓事業実施要領」に基づく。敗戦で大日本帝国が瓦解し、満洲など外地からの引き揚げ者を"帰農させ、その食糧自給を図るため、農地開拓を緊急に実施"した(wiki)。

現在のつくば市の松見、竹園、梅園はそういう緊急開拓事業関連地区であった(らしい)。なので、昔おいらがつくばで聞いた「立ち退いた緊急開拓地の満州からの引き上げ民がいるらしい」は本当だったのだ。⇒ ネットの情報(戦後、満蒙開拓から帰国した人たちが数多く入植した。つくば市内に松見・竹園・梅園という名のついた場所があるが、それらはその人たちの入植地の名という)。下記

一方、下記をネットで見つけた;

筑波學生新聞(1983年)記事;万博のむら (出典 pdfファイル[2.5MB])

「桜村開拓(松美・竹園・梅園)」の農家、とある。

<竹園の過去>

そこで、おいらは、松見、竹園、梅園の緊急開拓の痕跡を古い地図で探した。


1972年の地図。竹園の地名、稲荷山が確認できる。当時は桜村。

筑波研究学園都市建設法(1970年)の2年後。学園東大通りはあり、西大通りも建設中。竹園は「田」の字に道がある。これが竹園地区の緊急開拓と思われる。戸数は10戸程度か? なお、「田」の字もそしてその下の新井の下を東西に走る道も今はない。南大通りが全くない。


1974年の航空写真。南大通りができている。竹園開拓地区の「田」の字もかすかに見える。この時点でもまだ農地のようだ。植生が確認できる。しかし、竹園開拓地区の人たちがいつ立ち退いたのかわからない。


1960年の地図。研究学園都市建設前。東大通り、西大通りなど全くない時代。
稲荷山の右わきに水田の細帯状に南北に走っている。これは、谷底低地。竹園が乗っている台地とは異なる地形環境。

<松見地区>


1960年の地図。「松見」の地名は見えない。現状と大違いでわからないと思いますが、「東平塚」を手がかりにしてください。地図の右上の櫛状の道路が区画された開拓地と推定できます。松見地区など松竹梅の三開拓地ついてのネット情報です☟

https://twitter.com/kame_matsuri/status/777693075451674624

<梅園地区>


1960年の地図。「梅園/梅里」の地名は見えない。現在の梅園の位置は図の左半分の下のあたり。
大角豆(ささぎ)の地名を手がかりにしてください。なお左上に「洞峰池」あり。その少し右下に気象施設あり、今の気象研の場所。

「梅園/梅里」地区は区画化された開拓地は認められない。

[松竹梅、まとめ]

 
つくば市全体での、松見、竹園、梅園の位置は上図。これらの地区は当時の桜村。


開拓集落の地形的特徴=台地

こららの3か所は台地にある。江戸時代は(松)林などに土地利用されていた。炭をつくって江戸で売っていたらしい。これは別の観点でいうと、そういう地域は田畑にならない土地だということ。下の図で竹園の東(右)は河川により開析され谷底地形となっている(図の右上端)。このあたりは水田地域。江戸時代より「豊か」な地域であったに違いない。それに対し、台地は水がないので、農地には向かない。戦後の緊急事態になるまで農地利用されることはなかった。そういう農業に向かない土地が緊急開拓事業の舞台となったに違いない。

::そして、国策::

 成田空港と研究学園都市・つくばは、霞が関から、似たような距離にある。おそらく、官僚が地図を広げてコンパスで半径50kmの円を描き、国際空港はここ、研究学園都市はここと決めたのではないか? 半径50kmの円周上で、利用してよい土地として非農耕地&平坦=台地を選んだのではないか?

そして、両者の共通点は緊急開拓事業の入植者に立ち退いてもらったこと。成田がどれだけもめたかは周知 [1]。戦後の国策で土地を大規模に使用する場合、江戸時代以前からの伝統的村落を立ち退かせるよりは、”通りすがり”の「流民」を立ち退かせることの方が多い。つくばの研究学園都市もそういう例だ。

[1] 成田空港建設の土地収用で頑強に抵抗したのは満洲からの引き揚げ農民であったと歴史は語る。google

松見、竹園、梅園に外地から流れてきて、そして、立ち退いていった人たちの消息は、ネットでは、わからない。

 一方、現在のつくば市でも旧谷田部町にあった海軍谷田部飛行場は戦後、開拓地となった。上図の「農場」と記された場所。

<<谷田部・「農場」地区; 旧海軍谷田部飛行場跡地>>


1960年の地図。図の最上部中央に「榎戸」交差点が見える。
海軍谷田部飛行場跡地が区画され開拓地となった。農家は36戸入植とのこと。

「住民は戦後この地に入植した36戸の開拓民で、「私は二代目ですが初代はコンクリートや粘土などが混じった水はけの悪い土地を耕して落花生や陸稲を育てました」と元区長の関邦宏さん。」(引用元

下地図での観音台が旧海軍谷田部飛行場跡地。現在、農水系独法研究所施設。

関連愚記事;旧谷田部航空隊跡地


エピローグ; 竹園の今


SUUMO(スーモ):関東の住宅・不動産購入や売買をサポートする住宅情報サイトより


■ 関連情報;

筑波研究学園都市地名攷 (https://4b3.hatenablog.com/entry/20130608/1370629933


 


新しい街でもぶどう記録;第236週

2019年05月18日 19時02分34秒 | 草花野菜

部分根扱ぎしたぶどうの木から芽が出ず心配していたが、出た。ひと安心。

■ 今週の看猫

■ 今週の武相境斜面

■ 今週のメタセコイア

■ 今週の草木花実

■ 今週の月

月の「表」。斜長岩が見つかった面。裏側で、橄欖岩(or 橄欖岩質の火山岩?)が見つかったらしいとの報道(【解説】月の裏側でマントル物質を発見か、中国 「マグマオーシャン説」を裏付ける可能性、嫦娥4号ミッション)。

■ 今週の多摩川

■ 今週の屋号


稲田堤駅付近

蒟蒻屋って意味がわからなかった。でも、どうやら、屋号らしいと気づく。

■ 今週の被閲覧ページ


「全共闘C」さんが、誰であるかわかった。

事情はこういうことらしい ↓

 

 

 

 

 

 

 

 

 

集計日 2019年5月18日 集計期間
     
合計 8,132 2,241
日付 閲覧数(PV) 訪問者数(IP)
5月11日 1,204 260
5月12日 1,115 251
5月13日 1,209 326
5月14日 1,137 265
5月15日 1,202 301
5月16日 1,179 413
5月17日 1,086 425

 

 

 

 

 

 

 


鳥取県倉吉の磐代 [大江磐代君(おおえいわしろぎみ)]; 光格天皇生母

2019年05月14日 19時40分35秒 | 日本事情

過去の記事で光格天皇について下記書いたことがある;

「天皇」号が光格天皇から復活した。幕末の朝廷再興の始まりである。なぜ、朝廷再興を志したかというと、傍流出身ゆえより本来的であろうと努めるからである。これまた、傍流による原理主義という逆説の典型である。 (愚記事;今度、吉宗クンと竹田クン。2005年12月18日 20時55分47秒

14年前だ。

 一方、別のこの記事では、平成の天皇陛下の鳥取県倉吉行幸について、下記疑問をもった;

その時、白壁土蔵群の見物で、掲げられていたのが、ひろひとさん「白壁土蔵群」行幸&香淳皇后行啓写真。 すめろぎさんの訪問場所って、決まっているのであろうか? (愚記事;明日(10/31)の行幸・行啓予定は、 白壁土蔵群 2011年10月30日 16時36分39秒)。

8年前だ。

そして、今日知った。光格天皇の生母の出が倉吉湊町だと。庶民だったと。

大江磐代君(おおえいわしろぎみ)は光格天皇の御生母です。

磐代君は延享元年(1744)倉吉市湊町に生まれ、父に連れられて京都にのぼりました。そして成子内親王に仕え、内親王が関院宮典仁親王に嫁いだ時、その待姫となりました。その後、典仁親王の女房となり、明和8年(1771)祐宮兼仁親王(光格天皇)ほか三皇子を産みました。磐代君は天資聡明で徳操高く、筆跡にも優れ、また歌道にも通じていました。宮仕えの女性として少しもひけをとらず、田舎出身などと思わせなかったと言われています。晩年は仏門に入り、69才までの余生を静かに送りました。 現在、打吹公園内に大江磐代君を祀った大江神社があります。倉吉市のweb siteより)


“幕末”をつくった天皇 200年前の生前退位

ただし、昭和、平成と歴代天皇の倉吉行幸と大江磐代君の関係はわからない。

 


新しい街でもぶどう記録;第235週

2019年05月11日 19時58分57秒 | 草花野菜

■ 今週の看猫

■ 今週の武相境斜面

■ 今週のメタセコイア

■ 今週の越冬したもの

■ 今週の草木花

■ 今週の改元便乗


「紅白」たまご

■ 今週のバーボン


横浜市内にて。 ブルボンウォーターポロクラブ柏崎 ⇒ web site

■ 今週の復員兵の子供;a japanese son sing, what did you kill? あるいは、your Father should know...

団塊=復員兵の子供たち、あるいは、few J-children sing, what did you kill ?というブログ記事で、村上春樹の父親について言及したことがある。果たして、村上春樹は父の所業を調べて、報告したとのこと。

⇒ google

おいらは、謝るとか対応策より、まずは事実関係を明らかにすること/しようとすることが重要だと思う。

当然、父親の所業に子供は責任はない。ただし、もし、"人間と社会を観察して、それを文章にするのが文学者の仕事"であるとするなら、いろいろ<世界>を感知し、いろんなことに言及しているひとが、自分のことや親のことなど自分の極周辺<世界>を「どう認識していたか」をきちんと記載しておくとことは、後世の評価の時に重要である。このように村上春樹は考え、今回の公表となったのではないか?

■ 今週のベストセラー


Amazon

集計日 2019年5月11日 集計期間
     
合計 12,024 2,334
日付 閲覧数(PV) 訪問者数(IP)
5月4日 1,065 256
5月5日 2,563 506
5月6日 2,111 370
5月7日 2,002 341
5月8日 1,947 294
5月9日 1,142 300
5月10日 1,194 267

 

 

 


東京散歩;向ヶ丘遊園駅 ⇒ 下高井戸駅

2019年05月05日 19時37分30秒 | 東京・横浜

1⇒ 4 : 向ヶ丘遊園駅 ⇒ 武蔵野台地:立川面/武蔵野面・段丘崖

小田急小田原線で新宿方面へ。向ヶ丘遊園駅で降りる。


南口に出た。この特徴的屋根はマンサード屋根(wiki)というらしい。


多摩川を渡る橋は小田急線の北側とわかり、北口へ。


栗最中 青柳


南側を見る。多摩丘陵が奥に見える。


多摩水道橋(wiki)。なぜ水道橋かというと、東京は相模川の水をもらっているらしい。多摩川があるのに。東京は2.9%の水を相模水系から得ているとのこと(東京都水道局)。


上流側の光景。

橋は上流側の歩道を渡る。なので、画像は上流のみ。家に帰って、この橋のすぐ下流があの1974年の多摩川決壊(google)の位置と知る。リアルタイムの記憶はないが、昭和史で出てくる。


水道道路:目的の北上する途中、東へ伸びる水道道路。


世田谷通り


野川


立川面の端。段丘崖にあたる。


登った武蔵野面からみた風景。段丘崖を切通しにしている。向こう側が多摩川の方。

通過した町;
川崎市多摩区登戸、登戸新町
<多摩川>
狛江市東和泉、岩戸北
東京都世田谷区喜多見、成城

4 ⇒ 6 : 武蔵野台地:立川面/武蔵野面・段丘崖 ⇒ 蘆花公園


武蔵野台地の平坦面を行く。


成城。


仙川。


祖師谷の高そうなで静かな住宅街を抜けると、↑
賑わいの気配↓


ウルトラマン商店街 (web site; ウルトラマン商店街公式ホームページ
「円谷プロ」を子供の頃、「えんやプロ」と云って、「つぶらやプロってよむんだ」とさとされたことを思い出した。


古い団地。家に帰ってググると、祖師谷都営団地(団地詳細情報;家賃 36,400円〜54,600円)とのこと。1956年建築とある。古い。


千歳台


船橋4丁目交差点。


環状八号線。


東京ガス世田谷制圧所。

歩いていると、ばったり出くわす。ここにあったのか、とおもう。高校教師 (1974年のテレビドラマ)[wikipedia]というのがあった。おいらが見たのは1980年代の再放送。このドラマのオープニング(曲は、夏木マリ、裸の青春;YouTube)でこのタンクが出て来たと記憶している。

帰ってネットで調べたら、高校教師 (1974年のテレビドラマ)は東宝によって製作された。その東宝はスタジオを成城をもっていて、ロケ地はその東宝スタジオから出かけやすい場所を選定したとのこと。


蘆花公園を出て、再び環八に戻り、横断歩道から撮った画像。

通過した町;
世田谷区成城、砧、祖師谷、千歳台、粕谷、船橋、桜上水、赤堤

6 ⇒ 8:蘆花公園 ⇒ 下高井戸駅


環八の千歳台交差点から東へ。八幡山1丁目交差点 ⇒ 赤堤通りへ


桜上水、カノッサ修道女会 web site


正福寺




京王線


下高井戸駅

通過した町;
船橋、桜上水、赤堤


新しい街でもぶどう記録;第234週

2019年05月04日 18時50分10秒 | 草花野菜

■ 今週の看猫

■ 今週のよその猫


都内世田谷区正福寺

■ 今週の武相境斜面

■ 今週の改まり

お雑煮食べた。改元祝い。お正月にお雑煮を食べるとき、三つ葉の価格が高い。一方、今は三つ葉の旬。なので、お雑煮を食べることにした。

■ 今週の「裏切られた者たちの霊」


平成末日。この日、平成の御代は靖国神社御親拝がなかったことが決まる。

なお、「われわれは裏切られた者たちの霊」と『英霊の聲』に書いた三島由紀夫は、江藤淳にいわせれば、「典型的な第一次戦後派です。その点では、野間宏とちっとも変わらない」とのこと。野間宏って、よく知らないので、今度みてみよう。

■ 今週の江藤淳がピクニックに行かなかった場所


由木めぐみ 野公園=野猿峠付近

今週みた本に書いてあった;
 一年H組でもピクニックに行く男女数人のグループができ、野猿峠や秩父といった東京近郊に出かけて行った。その中に江頭敦夫は入っていない。
平山周吉、『江藤淳は甦る』

■ 今週の段丘崖


都内世田谷区成城。下地図赤矢印箇所。

■ 今週の昭和の成仏のために

都内世田谷区。昭和のドラマでみた。Google(廻沢 ガスタンク)

■ 今週みた耶蘇一派


都内世田谷区

世俗権力に厳しい一派なのだろうか? ⇒カノッサ会の物語

■ 今週の草木花

集計日 2019年5月4日 集計期間
     
合計 8,559 2,132
日付 閲覧数(PV) 訪問者数(IP)
4月27日  1,637 309
4月28日  1,707 344
4月29日  1,643 314
4月30日  1,238 322
5月1日   759 308
5月2日   803 280
5月3日    772 255