昨日のブログ記事に東京は神保町の内山書店の3階の古書コーナーで、柴田穗・『周恩来の時代』という1971年9月1日に刊行された本を古本として買ったことを書いた。500円。Amazonでの中古品の価格は1円。送料を入れて、251円。だから、古書店店頭で買って、249円損したことになる。
この内山書店で買ったこの古本には下記のレシートが挟まれていた;
このレシートから読み取れる情報は;
① この本は1976年4月16日に購入された。
② 新品(非古本)として購入された。定価の580円。
③ 購入した場所は札幌市中央区北8条西8丁目の北海道大学内クラーク会館の生協である
上の情報から購入者の動機がうかがえる。そのうかがえる動機を説明する前提情報;
a) この本は1971年9月に刊行されているのに、実際に購入されたのは1976年4月16日である。
b) 1976年といえば周恩来が死んだ年である。周恩来死去の日付は、1976年1月8日である。 (なので、購入者は必ずしも周恩来の死をうけて、この本を購入したわけではない)
c) (この1976年1月8日と1976年4月16日のギャップを説明したい)
↓
↓
四五天安門事件。 今となっては1989年の六四天安門事件の方が有名となったが、元来、天安門事件といえは1976年4月5日に起こった四五天安門事件である。
1976年4月5日に中華人民共和国の北京市にある天安門広場において、同年1月に死去した周恩来追悼の為にささげられた花輪が北京市当局に撤去されたことに激昂した民衆がデモ隊工人と衝突、政府に暴力的に鎮圧された事件、あるいは、この鎮圧に先立ってなされた学生や知識人らの民主化を求めるデモ活動を包括していう。(wikipedia)
上記のことから、購入者の動機がうかがわれる;
購入者は1976年4月5日に起こった四五天安門事件を受けて、中国問題、周恩来問題に関心を持った。その知的好奇心を満たすことがこの本、柴田穗・『周恩来の時代』の購入の動機である。
購入者は、1976年4月5日に起こった四五天安門事件の9日後に、札幌市中央区北8条西8丁目の北海道大学内クラーク会館の生協で柴田穗・『周恩来の時代』を購った。
■ 購入者は誰か?
この古本の扉を開けると、蔵書印というにはあまりに即物的な押印がなされていた。
丸尾
ここまでの事実を積み重ねて、次のことが言えそうである;
丸尾さんという人が、1976年4月5日に起こった四五天安門事件を受けて、中国問題、周恩来問題に関心を持った。その知的好奇心を満たすため柴田穗・『周恩来の時代』を、1976年4月16日に、札幌市中央区北8条西8丁目の北海道大学内クラーク会館の生協で購入した。
そして、丸尾さん。 丸尾さんって、誰だろう?
ググってみた ⇒ google
案外簡単に特定できそうだ。 丸尾常喜さん。 中国近現代文学研究者、特に魯迅の専門家とのこと。でも東大教授とある。
調べた。丸尾常喜さんの履歴。履歴そのものは直接は発見できなかったが、傍証が見つかった;
1977年に北海道大学の紀要に論文を書いている。1976年には北大に在職していたのであろう。その後、東大に移ったらしい。
このおいらの手元にある古本柴田穗・『周恩来の時代』に押印された「丸尾」は、丸尾常喜さんのものなのであろうか?
もし、この本が丸尾常喜さんの蔵書の1冊だったとした場合、なぜおいらが内山書店でこの丸尾押印の古本と邂逅できたのであろうか?
仮説を立ててみた;
丸尾常喜さんは2008年に他界されたとのこと。中国近現代文学研究者、特に魯迅の専門だったのであるから蔵書が大量にあったはずだ。それを中国専門の古書店が丸ごと買ったのだろう。その丸ごとかった古書業者が内山書店自身なのか下請け業者なのかはわからない。でも、その中国関連書籍の一滴としてこの柴田穗・『周恩来の時代』が内山書店の3階の古書コーナーに並んだのであろう。
以上が事実と推定である: 「 ずばりそうでしょう ??? 道産子の『周恩来の時代』の由来の推定 」
後記: こういうのを見つけた;
■ 今週の「筑波山」
おまけに;
神楽坂はおいらのブログのネタのためにあるのか!?
どうなっているんだ!?、 神楽坂
● 今週の古本屋
内山書店、神保町
3冊買った
・西園寺公一回顧録 ¥500
・現代思想 1976年9月号 増頁特集 毛沢東 ¥680
・周恩来の時代、柴田穗 1971年 ¥500
*周恩来は日本にいたとき(1917年)神保町にも出没したらしい (google: 周恩来 神保町)。すずらん通りくらい歩いただろう。その街で100年後に、自分に関する本が売っているのだ。
*「周恩来の時代」というものいいは、今からみれば不自然なものではないだろう。ただし、この本が出版された1971年9月はまだ林彪が「嫁に行って」いない時である。正確にいうと林彪事件が起きた(1971年9月13日)ことが公表されていなかった時だ。当時は林彪が毛沢東の後継者とされていた。
さらに、「周恩来の時代」に書いてある;
日本で高い評価を受けていた新中国の文芸工作者たち、とりわけ老舎、巴金、趙樹里、田漢、曹禺らが今どうしているか、生死さえわかっていない。
つまり、1971年の時点で、日本人には、老舎が文化大革命で紅衛兵に迫害され、自殺においこまれた(1966年8月24日)ことは伝わっていなかったのだ。
なおこの柴田穗、『周恩来の時代』と(先日ブログ記事にした)西園寺公一、『青春の北京』は、同じ年、同じ中央公論社から出版された兄弟本だと今週知る。装丁も同じなのだ。
*雑誌『現代思想』の毛沢東特集が1976年9月号。毛沢東が死んだから特集となったおもったのだが、違う。毛沢東が死んだのは1976年9月9日。この号の発行日は1976年9月1日とある。さらには各文章の執筆はもっと前だから、毛沢東の死とは直接関係ない。ただし、編集者がもうそろそろ毛沢東も死ぬだろうと踏んで特集号を出したら、果たして、すぐ死んだということか。なお、おいらがななめ読みしたところ、この雑誌『現代思想』の毛沢東特集が1976年9月号に「紅衛兵」という言葉が出てこない。「紅衛兵」が言及されていない。「紅衛兵」は思想じゃないからか????
▼今週の看猫
- なつかない猫、みけちゃん -
●今週みた演説: 「 外 国 人 」 に応援演説されている田母神候補の宣伝カーを遠くからみた。
デヴィ夫人が応援しています!デヴィ夫人が応援しています!と別の宣伝者が叫んでいた。
wikipediaには、補足:インドネシア国籍、と書いてある[うぃき]。
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先日、最後の元老・西園寺公望のひ孫が日本人最初?の紅衛兵ではないか?と記事をかいた。
愚記事: 「みんなありがとう」 ぼくは..。日本人最初?の紅衛兵、最後は孔子さまに到る、あるいは公望の成果
違うかもしれない。
1966-1967年、北京には150人の日本人紅衛兵がいた、というのだ。
びっくり。
日本人が外国で同じ日本人に集団暴行をはたらく ―こんなことがあってもいいのだろうか。北京のいまの異常なふんいきがこういった”国籍不明”の人間をつくりだしてしまうのかもしれないが、わたしはつくづく考え込んでしまった。
北京の”日本人紅衛兵”というのは、日共と中共の蜜月時代に留学した学生たちで、元日共幹部子弟も多いという。短くて二、三年、長いのになると十年近くいるものもある。日本とほとんど縁がきれてしまったような連中が、北京で生活しようとすれば、中国人とおなじようにしなければ生きていけない。百五十人ぐらいいるといわれる”日本人紅衛兵”は、そういう環境が生んだ”無国籍者”なのだ。
『報道されなかった北京 =私は追放された=』、サンケイ新聞 前北京支局長 柴田穂
ここで、 「日本人が外国で同じ日本人に集団暴行をはたらく」とは日本共産党の砂間一良さんと紺野純一さん(赤旗)が日本共産党の代表として北京から帰国するときに、紅衛兵から殴るけるの暴行を受けた事件; google [砂間一良 紺野純一 紅衛兵 暴行]。
それにしても知らなかった。国交もない中国に結構たくさんの日本人がいたのだ。多くがアカ。残りが商売。
そういえば、昔、宮本顕治が療養に中国に行っていたと何かで読んだ。
打 倒 混 蛋 宮 本 顕 治 !
「宮本顕治のバカを打倒せよ!」(パクリ先)
文革で人気者のみやけん; 野蛮な情熱に遭遇
北航紅旗の字が見える。北京航空大学の紅衛兵による立て看とわかる。
「われわれぬっぽんずん紅衛兵は宮本顕治を野蛮な情熱 で批判しきらなければならない!」ってな150人が1967年の北京にはいたらしい。
■ まとめ; 今夜も同じ結論+新しいエビデンス
やはり、■ 日本大好き!は、サ ヨ に学べ!
西園寺一晃殿下@紅衛兵@@最後の元老のひ孫様@@@世が世なら公爵さま
― 「あなたが社長としての合格点を得られるか、得られないかは、大きく二つの要素できまる」
ここで言われたひとつの要素が、業績である。売上高であり、利益を上げられたかどうかだ。さもないと会社は継続できないからである。そしてもうひとつ、業績と並んで重要なこととして氏が挙げたのが、自 分 の 後 継 者 を 育 て た か ど う か 、という点だった。 ― [強調、いか@](新将命、『伝説の外資トップが説く リーダーの教科書』)
【大きな鳥瞰的プロローグ】 1919年
パリ講和会議への日本代表は、西園寺公望である。
西園寺公望の政治人生の始まりと終わりは次のごとし。1868年、クーデターで成立した大日本帝国の発足において、そのクーデターと内戦(戊辰戦争)の時から「小僧」として参加。鳥羽伏見の戦いの時、朝廷は薩長に加担すべきと主張。岩倉具視から「小僧、よう言った!」とほめられた。なお、岩倉具視の家と西園寺の家では全然西園寺の家の方が位は高い。そして、1940年、大日本帝国が瓦解する5年前に死ぬ。なお、死ぬ年に大日本帝国を瓦解させることになる近衛文麿内閣が発足した時の近衛のラジオ演説(1940年7月23日)を聞いて、「聲はいいし、言ふことは大體判るが、内容は實にパラドックスに充ちてゐたように思ふ。なんだか自分にはちっとも判らなかった。うまくやつてくれればいいけれども......。」といったとされる(原田熊雄、『西園寺公と政局 第八巻』)。西園寺公望はこの後、日米開戦の約1年前の1940年11月24日に死ぬ。90歳。日帝の瓦解を目の当たりにすることは免れる。
西園寺公望が代表であったパリ講和会議への日本外交団に参加した「中堅」、「小僧」あるいは「丁稚」として、松岡洋右、近衛文麿、吉田茂がいる。
ドイツ皇帝カイゼル・ウイヘルム二世が休戦条約に署名したのは一九一八(大正七)年十一月十一日であった。日本政府のベルサイユ講和会議への全権は、前首相西園寺公望侯爵(後に公爵)と決まった。列国が首相を代表に選んでいるので、日本の全権に箔をつける意味で、この元老を原首相が口説き落とした。しかし実際に外交の衝に当たる人として前外相牧野伸顕(後に伯爵)と、それを補佐する珍田捨身(駐英)、松井慶四郎(駐仏)、伊集院彦吉(駐伊)の三大使が全権に任命された。松岡(洋右)は情報担当先任[ママ]書記官(彼は役職上課長とも呼ばれたが、事実上の情報部長であった)として随員に選ばれた。(デービッド・J・ルー、『松岡洋右とその時代』)
世間の目が近衛に集まるようになった直接の原因は、彼がヴェルサイユ会議全権団の随員に選ばれたことであろう。この会議は世界の視聴を集めた晴れの舞台であり、ここに登場できたということは、それだけで有能な人物であるという証明書をもらったようなものである。
さらに、西園寺公の抜擢ということがある。政界に絶大の力を持つ西園寺が、彼を庇護し、彼を育て上げようとしているということは、それだけで彼が将来大物になるという約束手形を持っているようなものである。彼に期待の目が集まるのは、当然といっていいだろう。 (杉森久英、『近衛文麿』)
済南領事となって間もなく、第一世界大戦終結後の世界秩序を決めるパリ講和会議が開かれることになる。首席全権の西園寺公望とともに牧野[伸顕:吉田茂の妻の父親@いか註]も渡仏すると聞いた茂は興奮で胸が湧きたった。
先人たちの苦労が実を結び、ついに欧米列強と対等の立場で参加することとなった晴れの舞台である。この目で見たいという思いが募り、いてもたってもいられない。ついに思いあまって牧野に直訴し、彼の秘書官として参加することを特別に認めてもらった。(北康利、『吉田茂 ポピュリズムに背を向けて』)
【プロローグ】 1966年6月18日
前北京大学党委員会の幹部であり、陸平の右腕といわれていたYが引き出された。司会役の女子学生が金切り声で叫ぶ。
「要不要給他載高帽子?」(彼に三角帽子をかぶせる必要がありますか?)
「要! 要!」 (ある、 あるぞ!)
ぼくも大声で叫んだ。
「給他載高帽子!」 (三角帽子をかぶせろ!)
「遊街! 遊街!」
「白状すれば寛大に扱うぞ!」
「頑固に抵抗すれば決してよい末路はないぞ!」 (西園寺一晃、『青春の北京』)
【極私的プロローグ】 2013年10月13日
この日の夜、おいらは、テレビでNHKスペシャル「中国激動 "さまよえる"人民の心」を見た。北京のホテルでにおいてだ。中国ではNHKの国際放送を放映している。ただし、たまに共産党政府に都合が悪いことが報道されると当局に放映が遮断される。この遮断が起きるとそのことがニュースとなる。この夜、NHKスペシャル「中国激動 "さまよえる"人民の心」は無事に北京でもNHKの国際放送を通して放送されていた。つまり、当局に遮断されなかった。日本語ができる中国人も受像器があれば見れて内容を受信できたはずである。内容はネットにある。google [NHKスペシャル「中国激動 "さまよえる"人民の心」]。経済成長著しい中国では拝金主義に走ったことへの反動と社会のひずみから生じる不都合からの逃避のために、宗教ブームが起きているという報道である。ローマンカトリックの例、そして、儒教が復興しているという話。やはり、中国人は孔子さまに走るのか。
【本編】
西園寺公望が死んだのは1940年11月。日支事変は泥沼化していたが、対米英戦争はまだ始まっていなかった。公望は戊辰戦争・明治維新には若くして参画したが大日本帝国の瓦解は目の当たりにせずに済んだ。これは、戊辰戦争に幼くして巻き込まれ「朝敵・賊軍」となるも、後陸軍大将、しかし大日本帝国の瓦解を見届けた柴五郎とは異なる(愚記事:『ある明治人の記録 -会津人柴五郎の遺書-』)。その西園寺公望は、のち最後の元老となるのだが、後継者の育成に努めた。そのひとりが近衛文麿である。自分の家の後継育成は当然のことだ。結果、近衛文麿は支那事変を解決するどころか拡大、収拾不可能とし、結局対米英戦へと日本を運んでいく。一方、自分んちの嫡子である孫の西園寺公一(きんかず)はゾルゲ事件に連座する。つまりは、碌な後継者を育てることができなかった。
そして、その西園寺公一の息子、西園寺一晃が「日本人最初?の紅衛兵」ではないか!?というのがこの愚記事の趣旨[2016/12/25訂正] 主旨。
戦後西園寺公一は、「家族を連れて中華人民共和国へ移住、日中文化交流協会常務理事等として北京にて国交正常化前の日中間の民間外交に先駆的役割を果たした。アジア太平洋地域平和連絡委員会副秘書長としての月給は500元(毛沢東の月給は600元)と大臣クラスの待遇だった。」[wikipedia]
それにしても、文化大革命初期の細かい点になじみがない人も多いとおもうので、小谷野敦さんの御指導に従い、年表にしてみた。年表といってもわずか半年にも満たない月日(つきひ)だ。この「年」表の黄色塗られた出来事が、西園寺一晃さんが遭遇し、『青春の北京 北京留学の十年』(1971年[昭和46年]刊行、中央公論社)に記録を残している事件だ。例えば、上記エピローグにある西園寺一晃さんが「三角帽子をかぶせろ!」と叫んだのは、下の表の6月18日の出来事だ。
1966年5月25日
この5月25日に北京大学であったことを厳 家祺、高 皋、 辻 康吾、『文化大革命十年史』にみる;
「五・一六通知」が中央政治局拡大会議を通過した後、聶元梓[じょうげんじ]と陸平[北京大学学長]の確執を知った「中央文化革命小組」は「北京大学から火をつけ、上に向かって展開する」方針を定めた。一九六六年五月一七日、康生の妻である曹軼欧(そうてつおう)は北京大学党委員会の陸平、彭珮雲[ほうはいうん]の頭越しに聶元梓と連絡をとり、陸平らに対する造反を進めるよう励まし、さらに彼らには支持者がいることををも示唆した。
五月二十五日午後二時ごろ、聶元梓ら七名の署名による「宋硯(北京市党委大学問題部副部長)、陸平、彭珮雲は文化大革命においていったい何をしているのか」と題する壁新聞が北京大学学生大食堂の外側に貼りだされた。この壁新聞は、陸平らが文化大革命を破壊したと強い口調で糾弾し、その矛先は宋硯の率いる北京市委員会大学部と北京大学党委員会へ直接向けられていた。 (厳 家祺、高 皋、 辻 康吾、『文化大革命十年史』)
そして、西園寺一晃さんの体験談;
昼寝を二時間ほどして、まだ寝たりない重い頭をかかえるようにぼくは政治経済学の部厚い参考書をひろげていた。(中略)
一区切り読み終えた参考書を横に、赤線を引いた箇所をノートに写していると、急に外が騒がしくなってきた。時計を見るとまだ三時すぎだった。まだグラウンドに出るには早すぎる。その時、数人の学生が何かを叫びながら走っていった。ちょうどぼくらの部屋はグランドに面した二階にあるので、窓から首を出してみたが、グランドに人影はなかった。どうも宿舎の入口側の道路のようだ。ワアワア言いながらまた一団が駆けて行く。ぼくは何だろうと、部屋から廊下に出てみた。同じように一体何事だと他の部屋からも数人の学生が出て来ていた。ぼくはその一人に
「一体どうしたのだろう。君知ってるかい」
と聞いてみたが、その学生も知らないようだった。ぼくの前の部屋の学生が見えたので、
「一体何事なの、君の部屋からは見えるだろう」
と聞くと、彼は、
「わからないが、大勢の学生が大食堂の方に走って行っているんだ。ぼくはこれからちょっと見てくるから」と早口で言うと、バタバタと階段を駆け下りて行った。
走って行く学生たちの数はますます増えるようだった。ぼくも落ち着いていられなくなり、靴をはくともう一度部屋の外に出た。その途端、戻って来た前の部屋の学生とぶつかりそうになった。
「大食堂の正面入口に校長攻撃の大字報が出たんだ」と彼は早口で言い、「おーい、みんな」と宿舎中に響くように叫んだ。ぼくは大食堂めがけて全速力で走った。
(中略)
大食堂の前には百人以上の学生が集まっていた。大字報は食堂の東側入口の両側にびっしり貼られてあった。三、四十枚もあるだろうか。ぼくははじめそれらが全部校長<攻撃>の大字報かと思った。よく見えないので人をかきわけ、前に出てみると、破られている大字報もあった。下の大字報を隠すようにして上に貼られたらしい大字報もあった。まだ貼って間もないと思われる大字報の一つに大きな字で「聶元梓らの反革命大字報粉砕」と書いてある。校長は陸平という元陸軍中将である。それに十人近くいる副校長の中にも聶という姓の人はいない。聶元梓という名は聞いたことがなかった。内容を読んでみると、校長<攻撃>の大字報を書いたのは聶元梓という哲学部の人たち七人で「彼女らが『三家村』批判を妨害するために、学内に若干ある学校に対する不満を利用し、大衆を煽動し、学生たちの闘いの鉾先を校長と学校指導部に向けた:というのである。
西園寺一晃、『青春の北京 北京留学の十年』
今からみれば、現在の歴史の本に「北京大学で聶元梓(じょうげんし)らの「大字報」(壁新聞)が張り出される」と書いてある出来事は、いろいろ複雑らしい。すなわち、聶元梓(じょうげんし)らの「大字報」(壁新聞)があっさり貼られ、みんなが関心して眺め、読んだわけではないのだ。聶元梓ら「造反派」の壁新聞は大学の管理部門(学長陸平以下"被造反"派=造反されちゃう方)との軋轢、けんかですぐに当初の壁新聞は無きものにされたらしい。
1966年5月25日、北京大学の聶元梓ら「造反派」の壁新聞とされる写真
西園寺一晃、『青春の北京 北京留学の十年』にも掲載されている。
1966年6月1日朝
この日の『人民日報』の一面は今でも語り草になっている。 横掃一切牛鬼蛇神。
これだ↓
一九六六年六月一日、この日はおそらく北京大学の歴史に永遠に残るであろう。それは朝送られてきた『人民日報』からはじまった。
この日の『人民日報』は一面トップに特大の活字を使った社説「すべての妖怪変化を一掃しよう」を載せた。ぼくたち学生はこれをむさぼるように読んだ。一字一句が肉声となってぼくたち学生に語りかけ、励ましているような文章だった。それは学生たちが持っている疑問、頭の中のモヤモヤ、何かに押し潰されそうな重苦しさ、苛立たしさ、これらすべてを一掃し、限りない勇気を与えてくれる文章だった。
「ブルジョアジーの啓蒙家たちは、つねに大衆を見くだし、大衆を愚かなものとみなし、自分を人民支配者と考えるものである」
北京大学の<指導者>たちに何と似ていることだろう!
西園寺一晃、『青春の北京 北京留学の十年』 造反有理、 一九六六年六月一日
1966年6月1日夜
この日の夕方六時すぎ、今晩八時半から中央人民放送で<重要放送>があると予告があった。ちょうどみんなで集まって今後の闘いの進め方について相談していた時だったので、重要放送とは一体何だろうという話になった。
(中略)
「それ、八時半、八時半」
と一人が置時計を指差しながら叫ぶ。小徐は両手をひろげ、大げさな素振りで、
「同志のみなさん、御静粛に。只今よりある問題についての重大問題がありますのでよくお聞き下さい」とアナウンサーの口調を真似たが、今度は誰も笑わなかった。
一瞬緊張した空気が流れた。宿舎中はシーンと静まり返り、ラジオの音だけが響いている。
「中央人民放送局、只今より重要ニュースをお伝えします・・・・・」
「・・・・・只今から北京大学哲学部の聶元梓等七人が五月二五日、北京大学に貼り出した大字報”宋硯、陸平、彭 雲は文化革命の中で一体何を行ってきたか?・・・・・」
西園寺一晃、『青春の北京 北京留学の十年』 造反有理、 一九六六年六月一日
1966年6月18日
毛沢東の指示による聶元梓ら「造反派」の壁新聞の文章のラジオによる全国放送で、北京大学での情勢が変わった。それまで必ずしも優勢ではなかった造反派が毛沢東のお墨付きを得て反撃、陸平らのグループを圧倒し始めた。それが6月18日の陸平北京大学学長らの吊し上げである。西園寺一晃さんも参加したと手記にある;
前北京大学党委員会の幹部であり、陸平の右腕といわれていたYが引き出された。司会役の女子学生が金切り声で叫ぶ。
「要不要給他載高帽子?」(彼に三角帽子をかぶせる必要がありますか?)
「要! 要!」 (ある、 あるぞ!)
ぼくも大声で叫んだ。
「給他載高帽子!」 (三角帽子をかぶせろ!)
「遊街! 遊街!」
「白状すれば寛大に扱うぞ!」
「頑固に抵抗すれば決してよい末路はないぞ!」 (西園寺一晃、『青春の北京』)
紅衛兵誕生
最初は100人よりやや少ない人数の紅衛兵がいつどこで発生したかわかっている。これは奇妙なことに思えるかもしれない。なぜなら、文化大革命で中国全土で紅衛兵大交流というのを実施し、北京の紅衛兵大集会だけでも1300万人が中国全土から集まったとされる。紅衛兵が発生したのは1966年5月29日に北京の北西部にある円明園のかつて清朝末期に英仏軍に破壊された廃墟においてである。精華大学付属中学の生徒によって共産党の指導を受けず発足した。「紅衛兵」という名を創ったのがこの生徒の中にいた張承志である。のち、造反する若者がこの「紅衛兵」を名乗るようになる。
「日本人最初?の紅衛兵」の誕生の日付は不明である。(そしてこの愚記事では西園寺一晃が日本人最初の紅衛兵との前提で書いている。後日記事を書くが、これは?である。)
ただし、西園寺一晃、『青春の北京』によれば、西園寺一晃はこの6月以降日本に一か月半一時帰国している。
ぼくは予定通り一時帰国することになった。老李やTさんに激励されて、ぼくの一生を賭けるだろう戦場を見に帰ったのだった。 (西園寺一晃、『青春の北京』)
したがって、7-8月は北京にいなかったのだ。その間の7/16に毛沢東は長江を泳いでみせて、闘志満々であることばかりでなく体力も大丈夫であると宣伝をした。
このYouTube [毛沢東の中国:大いなる実験 2 of 5]の冒頭50秒あたり
1966年8月5日
そして、8月5には毛沢東自ら大字報を出す、司令部を砲撃せよ ;
さらに、紅衛兵を100万人集めて天安門広場で文化大革命祝賀大集会を実施。
この日、毛沢東は宋彬彬@人殺しに紅衛兵の腕章を受ける(関連愚記事: 詫 び る 老 「老紅衛兵」、あるいは、“要武”の顛末)。
なお、日本に一時帰国していた西園寺一晃はこの紅衛兵100万人集会に出ることはできなかった。日本でどう聞いていたのだろう。その西園寺一晃がのち勤めることになる朝日新聞は伝えている。その日の夕刊である。北京放送の内容を、裏をとらずに、流してた...。
昭和41年(1966年)8月18日 朝日新聞夕刊
なお、西園寺一晃は中国からの正式帰国後の日本は「ぼくの一生を賭けるだろう戦場」と言っている。つまり、朝日新聞を舞台に「ぼくの一生を賭けるだろう戦場」で戦うつもりだったのだ。第二の尾崎秀実を目指していたのだろう。
そして、日本人最初?の紅衛兵
西園寺一晃さんが一か月半の日本一時帰国ののちに北京に戻った日付の情報は西園寺一晃、『青春の北京』には記載されていない。おそらく、9月に入って、北京で、西園寺一晃さんは紅衛兵になった;
「われわれの闘いはまだ終わったわけではないのだ。本当の大学改革はこれからだ。老西も帰ってきたことだし、ぼくたちはますます張り切って北京大学を真の毛沢東思想の学校にするため闘おうではないか」
そういうと老李は僕が日本に帰っている間に生まれたについて話してくれた。それによるとは工作組との闘いで生まれた闘う学生の組織で、文革を徹底的に、最後までやりぬく任務を持っているという。毛沢東に支持されたはいま全力を挙げて工作組の流した害毒と闘っている最中だった。
「老李の言うとおりだと思う。われわれのの真価を発揮するのはこれからだ。あっ、そうだ。老李、あれを・・・・・」
学友の一人にいわれて老李は「ああ、そうそう」と言うと、布カバンから赤い腕章を取り出しだ。彼はそれをぼくの目の前で広げると、
「さあ、これは君のだ」と僕に差し出した。
真紅の布に黄色い字で、
『新北大紅衛兵』と染めてある。
「これをぼくに・・・・・」
「そうだ。これと同じさ」
みんな誇らしげに左の腕をつき出してみせた。赤い腕章をしている。
「それから、これを貰っておいてあげたわよ。新しい校章よ」
Tさんはそういうと、ビニールに包まれたバッジをポケットから大事そうに出した。
「Tさん、それを老西につけてあげないさいよ。私は腕章を巻いてあげるから」
小徐はそういうと、赤い腕章を老李から受け取り、僕の左腕に巻いてくれた。Tさんもぼくの前にくると、そっとバッジをつけてくれた。
「みんなありがとう」
ぼくはこみ上げる感動をかみしめながらそう呟いた。
(西園寺一晃、『青春の北京』)
Amazon 5円です。 ご縁がありますように。
この西園寺一晃、『青春の北京』は、1971年3月に出版されている。もう少し遅れれば出版されなかったかもしれない。なぜなら、この本が出た時点で林彪事件は起きておらず、文化大革命の暴虐さもあまり日本に切実さをもって伝えられてなかったであろうからだ。
何より、連合赤軍事件(その党派の半分は毛沢東思想の信望者であった)とニクソン 訪米 訪中 [1] が「勃発」する前だったことが、出版を可能にしたに違いない。
[1] 2016/12/23訂正。 ニクソンが訪米してどうする! (あ~、恥ずかしい)。そして、蛇足ながら、ニクソン米国に「訪米」したのは我らがひろひとさんである。
なお、西園寺一晃は1966年に北京大学を卒業。帰国し(「ぼくの一生を賭けるだろう戦場」)、朝日新聞で勤務。「朝日は貴公子さまが好き」の好事例である(愚記事:でも、貴公子さまが好き)。
【エピローグ】
それぞれの顛末
■ 西園寺公望
伊藤博文や井上馨に負けず劣らずの大変な女好きであり、花柳界では「お寺さん」として有名な通人であった。(wiki)
最後の元老=国亡族を輩出
ってか、国亡族を輩出したから、自らが最後の元老になったんだよね。
もし、みんな孝子だったら、彼らが元老になって、大日本帝国は存続していたはず。
■ 松岡洋右 ⇒ 東京裁判被告 獄中死、 今、靖国神社
ヒトラーとスターリンの両者にあった人間って松岡洋右以外何人いるのだろうか???
■ 近衛文麿 ⇒日支事変を解決不能に ⇒ 仏印進駐 ⇒ 対米英戦争が避けられない状態にして政府を投げ出す
コスプレは好きだけど、 御白洲は嫌よ!
■ 吉田茂
―サンフランシスコ講和条約、1951年―
人生2回目の講和会議。最初は戦勝者として、そして、2度目は...
国亡びて、 孔子 孝子出ず ? この署名の後、保護国条約・安保条約にひとりで署名@画像なし
■ 西園寺一晃@ 倭国の孔子学院 学院長は、元紅衛兵
"さまよえる"貴公子殿のこころ、最後は、孔子さまにたどり着く。
工学院大学孔子学院 より
■ 今週の花
マイナス7℃の朝に咲いていた花
■ 今週のおいら
● 今週の看猫
▼ 今週の誤報: 「終戦知らず 30年」
「終戦」を知らなかったわけではないだろう。
「士官教育を受けた小野田はその日本はアメリカの傀儡政権であり、満州に亡命政権があると考えていた。」
まさか、自分の存在が"精神的「亡命政権」"だという自覚はなかったのであろう。
「その日本はアメリカの傀儡政権であり...」
「戦後」に復員した小野田寛郎は「戦後日本」に"なじめず"、ブラジルに「亡命」
■
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宋彬彬さん@現在 ア メ リ カ 人、65歳 通名:宋要武さん@人 殺 し
産経新聞社記者=北京=矢板明夫氏記事:「文革の元紅衛兵、相次ぎ謝罪 背景に習政権の毛路線模倣への懸念」(現在リンク切れ;コピペは最下部に)[1]より、勝手に転載。
もっとも、中国のメディアで既報らしい:宋彬彬向文革被伤害老师道歉:再不道歉没机会
年老いた「老紅衛兵」が過去の暴虐を詫びたとの報道。しかも、宋彬彬。 宋彬彬ってこの人だ↓。
ただの軍服を着ていた毛沢東に「紅衛兵」の赤い腕章を着けた人;
ただの軍服を着ていたときの毛沢東
1966年8月18日 朝
宋彬彬さん、当時17歳 「洗礼」名:宋要武さん
もっとも、この時すでに 人 殺 し
「彬」という字は今の日本ではあまり使わないように思う。なかおあきらの「彬」だ。訓読で「うるわしい」。
1966年8月18日 朝、毛沢東に腕章を着けたとき、名前を聞かれ、彬彬という「上品」な名前を告げると、毛沢東は「“要武嘛。”」と言ったとされる。つまりは、武が必要だね=野蛮な情熱が必要だ!と教唆したのだ。
毛澤東问:“是文质彬彬的彬吗?”宋彬彬答:“是。”毛泽东回道:“要武嘛。” [維基百科]
毛沢東は聞きました、“上品で礼儀正しい彬ですか? 宋彬彬は答えました "はい"
もっとも、この時点ですでに 宋彬彬は学校の副校長の卞仲耘(べん・ちゅううん)センセイを殴り殺していたのだ。 要武に及ばずだったのだ。つまりは、宋既武さんだったのだ。
―私は宋彬彬(スンピンピン)と申します―
草森紳一、『中国文化大革命の大宣伝』
さて、 「老紅衛兵」。「老紅衛兵」とは年老いた紅衛兵という意味ではない。紅衛兵はこの毛沢東の閲「兵」時には千万人を超えていた。しかし、紅衛兵の発足時は、中国共産党幹部の子弟が中心だった。そういう極初期の中国共産党幹部の子弟たちが組織した紅衛兵を「老紅衛兵」という。
この宋彬彬は上記毛沢東に腕章を巻く12日前に「副校長だった卞仲耘氏を「毛沢東思想に反対した」と決め付け撲殺」[上記新聞記事]した。こういう事例は宋彬彬に限らず、小平、@彼は文革の最大の被害者のように扱われているが、その「小平の娘は、女性校長を死なせたあの北京大学付属中の紅衛兵のボスであり、本人がその学校での運動に具体的な指示を出していた」と銭理群は『毛沢東と中国』で書いている。
宋彬彬の父親は、宋任窮(そう じんきゅう) [wiki] (と今ネットで知った)。
[1]
文革の元紅衛兵、相次ぎ謝罪 背景に習政権の毛路線模倣への懸念
13日付の新京報などによると、宋彬彬氏ら元紅衛兵約20人は北京師範大学付属高校に集まり、文革中に紅衛兵の暴行を受けて死亡した同校の元副校長、卞仲 耘(べん・ちゅううん)氏の銅像に黙●(=示へんに寿の旧字体)(もくとう)しざんげした。宋氏は涙ながらに「先生に永遠の追悼と謝罪を表したい」との内 容の反省文を読み上げた。
宋氏は軍長老、宋任窮大将の次女で、文革が始まった直後に紅衛兵組織をつくり、教師を攻撃する壁新聞を学校など に張り出した。紅衛兵は66年8月5日、副校長だった卞仲耘氏を「毛沢東思想に反対した」と決め付け撲殺。各地で紅衛兵による教師への迫害がエスカレート していく契機になったといわれる。
宋氏は同18日、北京の天安門楼上で毛沢東と会見し毛沢東に紅衛兵の腕章をつけ、最も有名な紅衛兵となった。文革終了後、米国に移住し、マサチューセッツ工科大学で化学博士号を取得し研究者となった。
宋氏は「いま謝罪しないと永遠に謝れない」と考え、この会合に参加するため帰国したという。
文革が終わって40年近くが過ぎた最近になり、元紅衛兵の謝罪が集中的に行われる背景には、毛沢東を高く評価し保守路線を推進する習近平指導部への、文革経験者らの反発・懸念があると指摘される。
北京の改革派学者によると、習国家主席が毛沢東時代さながらの政治運動を展開、「改革開放以前の歴史を否定すべきではない」と文革肯定とも受け止められる 発言をしたことに対し、改革派や文革経験者らが危機感を強めているという。この学者は「彼らは自らの罪を公にすることで、歴史の悲劇の再来を阻止しようと している」と指摘した。
また、一連の元紅衛兵の謝罪は改革派の雑誌や新聞で大きく取り上げられているが、こうしたメディアの働きかけで謝罪を決めたケースもあるという。
大日本帝国が亡びたのは歴史的事象である。この世に生じたことは必然的事象である[0]。この必然的歴史の現実において個人というもの役割、端的には責任とは何かという問題は難しい。
こういう困難さとな別に、俗な感情で考えてみよう。自分のヒステリーで考えよう!
大日本帝国を亡ぼしたことへ個人として一番貢献が大きいのは?と問いを立てたら、おいらは近衛文麿だと思う。
今、(いわゆる)A級戦犯が大日本帝国を亡ぼしたとの印象が世間に流布しているようにみえる。しばしば怨嗟の的となる。
一方、近衛文麿が大日本帝国を亡ぼしたという認識はここ数年は別として、戦後あまりなかったようにおいらは感じる。まして、近衛文麿が国民の怨嗟の的となることはなかった。東条英機の孫が平成の御代に政治活動をしたとき、特に国民的支持は得られなかったが、近衛文麿の孫の細川護熙は総理大臣となった。国民の圧倒的人気で。近衛文麿と同様に... [1]。
不人気 ポピュラー
さて、近衛文麿に関する本は多く、生い立ちからの伝記も多い。その伝記として、矢部貞治、『近衛文麿 誇り高き名門宰相の悲劇』 (1958年)と岡義武、『近衛文麿 ―「運命」の政治家-』 (1972年)が、職業学術研究家(東大教授)により書かれている。なお、これは東条英機の伝記が職業学術研究家により書かかれていないことと対照的である。ちなみに、ミネルヴァ書房の「ミネルヴァ日本評伝選」の東条英機の巻が牛村圭@ever been to Edmonton (Amazon)によって書かれる予定のはずである。
この2冊には、第一次近衛内閣で尾崎秀実が内閣嘱託として官邸に事務室を持っていたことは全く書かれていない。コミンテルンの工作員であった尾崎はゾルゲ事件で逮捕され1944年に死刑となっている。尾崎の活動や思想、主張は裁判と先立つ検察による調書で公開されている。何より尾崎は当時から言論雑誌に時評を書いている。
評論家としては、中国問題に関して『朝日新聞』『中央公論』『改造』で論陣を張った。 1937年(昭和12年)年7月に盧溝橋事件が起こると、『中央公論』9月号で「南京政府論」を発表し、蒋介石の国民政府は「半植民地的・半封建的支那の支配層、国民ブルジョワ政権」であり、「軍閥政治」であるとして酷評し、これにこだわるべきでないと主張した。また、9月23日付の『改造』臨時増刊号でも、局地的解決も不拡大方針もまったく意味をなさないとして講和・不拡大方針に反対、日中戦争拡大方針を主張した。11月号では「敗北支那の進路」を発表、「支那に於ける統一は非資本主義的な発展の方向と結びつく」として中国の共産化を予見した。
こうした主張は、翌1938年(昭和13年)1月16日の第一次近衛声明に影響を与えた。同年『改造』5月号で「長期抗戦の行方」を発表し、日本国民が与えられている唯一の道は戦いに勝つということだけ、他の方法は絶対に考えられない、日本が中国と始めたこの民族戦争の結末をつけるためには、 軍事的能力を発揮して、敵指導部の中枢を殲滅するほかないと主張、また『中央公論』6月号で発表した「長期戦下の諸問題」でも中国との提携が絶対に必要だ との意見に反対し、敵対勢力が存在する限り、これを完全に打倒するしかない、と主張して、講和条約の締結に反対、長期戦もやむをえずとして徹底抗戦を説いた。 (wikipedia)
このコミンテルンの工作員であった尾崎の主張と国民政府を相手にせずと平和交渉を打ち切り戦争を終わらせることを原理的に不可能にした近衛の政策は極めて調和的である。何のことはない近衛内閣はコミンテルンの工作員であった尾崎に知恵をつけられていたのではないか?という仮説を持って当然である。
改めて確認すると支那事変中の尾崎の言論も検察での取り調べの文書は公開文書だ。前者は当時から公知(だって雑誌だもん)、後者は戦後なら見られた。少なくとも上記東大教授が近衛文麿の伝記を書くときには考案すべき史料だったはずだ。
全く書いてない。矢部貞治、『近衛文麿 誇り高き名門宰相の悲劇』 (1958年)と岡義武、『近衛文麿 ―「運命」の政治家-』 (1972年)には第一次近衛内閣で尾崎秀実が内閣嘱託として官邸に事務室を持っていたことは全く書かれていない。
■ コミンテルンと大東亜戦争の関係については、三田村武夫、『大東亜戦争とスターリンの謀略―戦争と共産主義 (自由選書)』を嚆矢とするらしい。おいらははまだこの本をみたことがない。一方、おそらくこの三田村の線で中川八洋が2000年に『大東亜戦争と「開戦責任」 近衛文麿と山本五十六』を書いている。
そして、最近先の大戦におけるコミンテルンの役割の研究が進展しているようだ。しばしば「コミンテルン陰謀説」にもなっている。
陰謀だ! 朝日の記者だ! 俺もだ!
おいらは、コミンテルンの役割を無視して日中開戦、日米開戦は語れない時代になったと思う。でも、先の大戦のコミンテルンみたいなことは今もあるはずである。そして、それに乗せられ、ひきずりこまれると敗戦にいたる戦争になってしまうのだ。
支那事変(盧溝橋事件に始まる終わりなき戦争)は、中国に挑発されて、大陸内部にひきずりこまれたのだ。
国が亡びたのだから、目先の正邪ではなく、挑発にのったことが まぬけ なのだ。
今度はがんばってほしい。
・関連愚記事; 日本政府 内閣官邸にコミンテルンがいた日々
▼ 今日知った人
多田 駿(ただ はやお) wiki 石原完爾の上司。 石原が有名すぎるせいなのか、普通の通俗歴史書ではこれまでみなかった。
[0] 予言力; 40年前に「亡びる」ことを予言していた漱石(「亡びるね」@浜松駅)って一体なんだったんだ!という問いは難しい。何が難しいって、日帝の滅亡を予知する能力の持ち主が「この時余が驚いた事は漱石は我々が平生喰ふ所の米はこの苗の実である事を知らなかったといふ事である(愚記事」)な御仁であることだ。 教養主義的=世間知らず=自然知らずポピュリスト=高踏派の悲劇、であろうか。
[1] 大丈夫か? ぬっぽんずん
近衛文麿―教養主義的ポピュリストの悲劇 (岩波現代文庫) Amazon
■ 今週の筑波山麓
● 今週の看猫
▼ 今週のラーメン屋でみた新聞
1年に何度か外勤先でラーメン屋に行く。そのとき新聞を見るのが楽しみだ。
みた。ヨタ記事。 朝日新聞、 「満州国化」する日本 京都大学人文科学研究所所長 山室信一さん
この記事、ネットにはでていない。
”「満州国化」する日本” なんていうイメージは、当の岸信介が首相としてワシントンに行って、安宿に泊められて、「まるで満州国扱いじゃないか!」と憤激したという逸話(おそらくよくできたつくりばなし)がでた時代からある。きわめて凡庸なイメージ。
「魚 と 牛 は 似 て い る 。 な ぜ な ら 、 目 が ふ た つ あ る か ら だ 」、程度の話。
でも、目にしか興味がない専門の学者には、魚と牛の区別がつかないのだ。
満州国の研究家は、満州国というチャンネルを通して自分の世界を見ているのだ。
多少注目すべきなのが、第二次安倍内閣となった最近に日本が「満州国化」する度合が強くなったと言いたげなところである。
つまり、日本が米国の保護国である根幹はマッカーサー憲法による主権制限=戦争の放棄であることを無視している。
そして、何より日本を「満州国化」させているマッカーサー憲法を無視して、特定秘密保護法やTPPなどが日本を「満州国化」させているという主張なのだ。
日本が「満州国化」したのはこの日からだ;
明日は我が身、未来と今日の傀儡の邂逅
昭和10年4月6日東京駅
■ そして、京大人文研所長、内閣総理大臣を誹謗;
目にしか興味がなく、魚と牛の区別がつかない専門バカにとって、安倍ちゃんはゼネラリストには見えず、ただのバカに見えるらしい。
つまり、自分には満州国研究、近代政治史研究という「核」があるから、世の中がよく見えるということなのだ。そう想定しないかぎり、この新聞記事のような傲慢な態度はとれないだろう。
● 岸信介・右傾→ 安倍晋三・その孫→危険な国粋主義者、という貧しい連想しかできない御仁には、奇を衒ってみよう。
おいらが安倍晋三現日本国内閣総理大臣(@対米開戦詔書署名の岸信介の孫)が、オバマ米国大統領に会ったら言ってほしい一言;
「国民皆健康保険???、オバマケア??
皇国 我が国ではとっくに完了! 岸内閣の時に!!! [google]
アナタも、がんばって!」
対米開戦、50歳で夢精、キシ・ケアー ・・・・・
*まとめ: 1) 国家は税金を使って御立派な学識を持ち、権力を誹謗する傲慢な生活被保護者をきちんと養うべきだ;
2)朝日新聞は、一面を使ってマッカーサー憲法と”戦後民主主義”を寿ぐヨタ記事を載せて、信者たちを安心させようとしているのだ。
このヒトも信者なんじゃないだろうか?
昭ヒトさん 戦後バンザイ
もちろん、敵は戦後民主主義を敵視する不逞な輩である;
・今週知ったこと;
上記の新聞記事の話とは全く別に、溥儀は宣統帝、あるいは康徳帝だと知る。
■
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盧溝橋事件が起きたのは1937年(昭和12年)7月7日。南京陥落が12月18日。
敵国の首都が陥落しても、戦争は終わらず。国民政府は重慶に逃避。
この状況に大日本帝国政府の首相・近衛文麿が言った言葉;
「帝国政府は爾後国民政府を相手とせず」
すなわち、蒋介石の政府の存在を認知しないと宣言したのだ。
1938年(昭和13年)1月16日だ。
それに先立つ1937年(昭和12年)9月5日には、近衛文麿は、暴支膺懲!と言っている;
―愚記事; 暴支慫慂 (ぼうし しょうよう)―
本題に戻って、1938年(昭和13年)1月16日には、こうも言っている;
「帝国政府は爾後国民政府を相手とせず、帝国と真に提携するに足る新興支那政権の成立発展を期待し、是と両国国交を調整して更生支那の建設に協力せんとす」
帝国と真に提携するに足る
新 興 支 那 政 権 の 成 立 発 展 を 期 待 し 、
両 国 国 交 を 調 整 し て 更 生 支 那 の 建 設 に 協 力 せ ん と す
▼ これか ↓
1972年9月27日 (愚記事:中南海の毛沢東書斎の左右について )
角栄と ぐゎんばった ひとたち
すなわち、蒋介石の政府の存在を認知しないと宣言したのだ。
さらには、新興支那政権と提携。
(第33回総選挙・1972年12月における選挙ポスター)
真に提携するに足る新興支那政権と更生支那の建設に協力!
■ 参考史料: 日帝新聞に現れたる毛沢東、周恩来、葉剣英
1938年1月19日(昭和13年)。 近衛声明の3日後だ。
- 前線で頑張る(ぐゎんばる) ―
●
毛沢東去安源 付傘 近衛文麿在軽井沢 付帽子