I spent several days in a dusty village to work. One night so loud music sound reached me until dawn, so tried to see what was the source of sound with a sort of determination or brave. I found a builiding lookimg simple cubic shape the source of loud music, and many people gathering in the building. It was actually a temple. I tried to see inside and dare to go inside. First, almost people ignored me and a man questioned me, perhaps it meant what? in Hindhi, I guess. So, I felt some anxiety and left there.
Afer 10 minutes taking walk I returned to the temple. I found another entrance behind the temple. I saw inside and took picture, Fig2. Then a man talk to me and took me to the front of a figure of diety, where a fire light was burning and people pray by touching the fire the diety. I also pretend to pray because of care to the eyes of people there, Fig 1.
When I left the temple again, a man gave me a sweet that was the grace of diety deity (heared afterward). It was very nice.
I came to realize that this ceremony was for Krishna, famous Indian diety deity, that I heard from a Indian.
Finally, I cannot understant the speaker was used for sending of ceremonical music with loud sound to make some people not sleep well.
Fig 1.
fig 2.
Fig.3
Fig. 4
普通のシーサー。
シーサーは獅子であると今回おいらは知った。獅子、すなわちライオン像は「日本」本州島にはないのかと思っていたら、狛犬がそうらしい。
ウィキペディア(Wikipedia) 狛犬
名前はともかく、北東アジアでは「ライオン」像の北上拡大があったらしい。
百獣の王者・ライオンがぬっぽんでは犬の一種に成り下がってしまった。これもかれも、ぬっぽんずんが「本物」のライオンを「知らなかった」からである。
これは笑い事ではなく、人権だの民主制だのacademicismだのjournalismだのを「知らない」現代ぬっぽんで起きているの悲喜劇も同じなのである。
獅子像、やはり、南の島が本場らしい。水を吹いたりするらしい。 さ来週には、もっと南の島の「ライオン」像を載せたい。
■きんだいぬっぽんで、「ライオン」像の北上拡大に最大の貢献があったのは、
三井越後屋である(????)。
那覇市にて
問題:那覇市の二宮金次郎像の意義を述べなさい。
二宮金次郎ってなんで小学校に銅像でいたの?
繁華街にいる那覇の金次郎はどうする?
■すっぱいすた。
このとき、金次郎像に「やまとんちゅうなまり」って札をぶら下げて、ネタ画像を撮るべきだった。
残念!
去年デリーのレッドフォードで買ったおみやげの像と手持ちのシャツ。
もちろんネタ画像です。
■人間は一般的に、つまりはすべての人が、他人から評されてる。その評は、理論的にいくつかのカテゴリーに分類される。例えば、評した人が本人に面と向かって言える評と、評した人が必死に本人に気づかれないようにする評である。
■ひょんなことから、後者の評を、自分が知ることとなることがある。おいらの場合は、「オウムのいか@さん」かな。 地下鉄サリン事件から3年ほど経って、日本全国の人々が今普通に受け取られているオウム像を既にしっかり持ったころである(1998年)。そのうっかり者の彼は、案外何の悪気もなく、冗談として、ただその外見の印象からおいらのことをオウム信者呼ばわりしたに他ならない。
■地下鉄サリンに事件の日、昼すぎになって、当時おいらがいた山陰の農村でも、東京で毒ガスで大量死!というニュースが伝わってきて、みながうわさ話を始めた。その時、おいらは、これは「オームしんりきょう」がやったのだと、一生懸命まわりの人に言った。
■今では信じられないかもしれないが、その日、あの毒ガス大量死をオウムのしわざと断言することに躊躇しなかった普通の人は、印象として1割以下。3割がオウムかな?という勢力。そして、一番の多数派は、誰がやったか?ということではなく、オウムなる新興宗教団体を容疑者扱いしていいのか!?冤罪ではないのか!?ちゃんと、オウムの言い分を聞け!というものであった。これが3-4割かな。そもそもみんなオウムをよく知らない。
▼なぜ、オウム真理教が「毒ガス大量死」と、おいらが、断言したのは次の経緯があったからである。 今となってはその夜が地下鉄サリン事件のどれほど前であったか確定できないのではあるが、ある日曜深夜、つまりは厳密にいうと月曜早朝、おいらは変なラジオ番組を聞いていた。
▼日曜深夜は多くの民放局が放送を終了して休みとする。週に一度のおやすみゾーンである。その日曜深夜にやる番組があって、なぜかしら大阪発が多く、古くはぬかるみの世界、今ではサイキック青年団かな。その夜もおいらはそういうマニアックな番組を聞こうとラジオのチューニングをまわしていた。
そうすると、毒ガスだの大量死だの米軍だの穏やかではない内容の番組をやっていた。その時驚いたのはそのとんでもない内容とともにどこの放送局がこんな番組を放送しているのだろうかということ。がきの頃からモスクワ放送のプロパガンダ番組をワライながら育ったのでそう免疫がないわけではなかったと思ったが、内容のとんでもなさが度を越していた。
とんでもないいか@サマだなと確信したのは、毒ガス大量死の話で、アフリカのカメルーンはニオス湖での二酸化炭素による1700人あまりの大量死、つまりは自然災害なのであるが、google; カメルーン 災害 ニオス湖 二酸化炭素 、米軍の毒ガスが原因だといっていたのである。番組の主旨も理解できなかったが、そのニオス湖の件で、ほんととんでもない放送だとびっくりした。記憶も薄れたが、その時オウム真理教という団体名は覚えなかったが、なにやら新興宗教の提供番組とわかりはじめた。
こののち、そしてサリン事件の前に、米軍に毒ガス攻撃されていると宣伝する新興宗教団体がいて、それがオウムだと、なんのきっかけかわすれたが、認識した。(当時と現在の決定的な違いはネット(www)の規模の違い。当時はwwwの出始めで、ネットが社会事情のニュースを提供するということは少なかった。普通の人にとって情報ソースは、やはり、活字メディアであり、それは物体なので、田舎ではさらに入手しずらかった。)
サリン事件の日にすぐこれはオウムの仕業と思ったのは、彼らが毒ガス/サリンを作っているにちがいないと田舎でもわかったからである。すなわち、かれは自作自演で独ガス攻撃を狂言するとき毒ガスを自分で撒いているのである。その撒いた毒ガスは、買ったのでなければ、自分で作ったにちがいないのである。と事件の一報を聞いて、上記の放送のこととあわせて、伯耆大山山麓で、思いついたのであった。
さて、謎の日曜深夜のラジオ放送は、サリン事件の後の、オウム報道の洪水のなかで、それはソ連崩壊後にロシアで勢力を伸ばしたオウムがモスクワ放送の番組枠を買い取って日本向けに放送したもであったことがわかった。つまりはソ連時代もロシアになっても、モスクワ放送は 電波系 なのであった。
■この記事では下記の3のことを書きたかったのだが、もたついて筆が構想に追いつかなかった;
(1.サリン事件からしばらくしてもオウムを疑うことはよくない(疑わしきは罰せずを過剰に主張する)という建前的風潮が続いたこと。2.サリン事件直後、東京に出張に行くとターミナル駅ではオウム信者がまだまだビラを配っていた。おいらは、若い女性信者から冤罪だ!とのビラを受け取って田舎へのおみやげにした。その女性はテレビでみたオウム服を着ていて後にも先にもおいらが実際に見た唯一のオウム信者となった。今ごろ何をしているのだろうかと思う。 3.オウム報道が「解禁」となってワイドショウーでオウム信者の情報の洪水が日本を覆ったころ、田舎の農家の納屋に仮寓していたおいらに半年に2-3回おまわりさんが来た。実は当時は別にどうとも思っていなかったのだが、上記の1998年の一件があって、あーおいらはあの納屋仮寓時代に田園の超べたな田舎の人にあいつオウムちゃうか?とおまわりさんに通報されたのではないかとやっと思い至ったのであった。当時その田園ではいつも白の襟なしの服を着て、たぶんあの頃のおいらなら厭世感を放射しながら田んぼのあぜ道を風にふかれながら歩いていたのであった。くりかえすと、テレビのワイドショーをみた超べたな田舎の人がおまわりさんに言ったのではないかと、今は邪推する。)
(未完)