いか@ 筑豊境 寓 『看猫録』

Across a Death Valley with my own Distilled Resentment

ブログ20年 goo blog 、あるいは、日本を追い越すインド

2024年06月30日 17時04分19秒 | その他

今日でブログ開設から20年。


goo ブログ第1日目: 2024年6月30日

20年前、インドでの仕事のため出張することになった。当時、個人web siteはもっていた。でも、誰も見に来なかった。その頃、ブログサービスが始まった。始めた。2004年にwi-fiは一般的ではなくモデムで電話線に繋げて、インドから投稿した。なお、2004年には文中のあじさいのデジカメ写真のテスト。アップロードに失敗した。2014年に再投稿した(【号外】 10年目の後出し画像)。

あれから20年。今では、インドのGDPが日本を越えようよしている。


出典元 インドと日本のGDPの推移。20年前の2004年において、インドは7,090億ドル。日本は4兆9000億ドル。今年か来年にインドのGDPは日本を越える見込み。

当時、bricsレポートというのがあった。もちろん、brics=ブラジル、ロシア、インド、中国の4か国が新興勢力として経済成長するであろう予測するレポート。ゴールドマンサックスのDominic Wilsonのもの(google)。

2003年の予測では、中国は2016年頃、インドは2033年頃に日本のGDPを越える。実際は、2011年に中国は日本のGDPを越えたし、インドは2024/2025年。予測より早い。これの一因は日本の停滞だろう。上記予測ではドイツが日本を越えることを想定していない。

ここまでGDPを出したのは、20年の推移のひとつの指標にしたまで。そもそも人口規模が違うし、なのより政治的状況が違う。何より、インドは核武装し、それが世界から、事実上、承認されている。これはもう国連の常任理事国5大国体制の実質的終了を意味する。

インドの国内状況は今後の経済成長で安定化するよりは不安定化するかもしれない。するだろう。伝統的社会が経済成長で解体されるのだろうから、社会の不安定化は避けがたい。

最近のインドの状況を映す動画、YouTubeを見ると、やはり、20年前のインドと変わらない風景が多い。もちろん、開発、建設で変わったところも多い。

■ 今から思えば 航空機、ホテル

出張で、会社はビジネスクラスの航空機と5つ星ホテルを準備してくれた。運転手付き車も手配してくれた。滞在はデリー近郊のノイダという地域。「ノイダは首都デリー南東近郊の計画された産業都市だ。」(無印良品も進出、インドの知られざる注目都市“ノイダ”とは?)。

Radisson Blu MBD Hotel Noida

■ 今から思えば 現地情報

2004年、デリーのネットでの現地情報は少なかった。そんななかで下記サイトがあった。今でもある。

 

web site:  インド留学日記 これでインディア

このサイトの人は、当時はわからなかったが、現在ではお名前もわかっている。インドで博士号を取られて、現在日本の大学で活躍しているとネットでわかる。拓徹(たく とおる)さん;研究者データ。本も出しているらしい:『インド人の謎』(Amazon)。

当時、このサイトでの情報がデリーでの2週間の生活に役立った。特に、旅行会社が紹介されていて、個人経営の旅行会社を知ることができ、利用した。タージマハルもその個人経営の旅行会社で手配してもらった(①憧れのタージマハル、②サリーム・チシュティー廟、ファテープル・シークリー、アーグラ、インド)。

■ 今から思えば 当時の画像から

▲ 以上、デリー、主にチャンドニーチョーク
▼ タージマハル

 

 

 


筑紫洲 (つくしのしま) でもぶどう記録;第14週

2024年06月29日 18時03分38秒 | 筑紫洲 (つくしのしま)

▲ 今週のみけちゃん
▼ 筑紫洲 (つくしのしま) でもぶどう記録;第14週

■ 今週の筑豊境

■ 今週の草木花実

■ 今週の影

■ 今週の裏

おはぎの裏

■ 今週のお魚

ししゃも

■ 今週の丼

みそカツ丼。 みそがとてもしょっぱかった。

■ 今週のキリ番


ブログ開設から7300日

★ 今週の大特集: 英米本位の...

■ 今週の米軍天国忠米守護官;基地外米兵のために

 

【米兵少女暴行事件】「常に連絡が必要とは考えていない」 政府に反発広がる 米側に申し入れもその後3か月沖縄県に知らせず (google

▼ 今週の忠米外交官= 忠米駐沖日本大使(ちゅうべいちゅうちゅうにほんたいし)略して、鼠大使。

上の女性は忠米官ではあっても大使さまではなかった。ちゃんと、大使さまはいるのだ。

駐米駐沖日本大使は、宮川学大使(wiki)。

 鼠大使

■ 今週の「忍び難きを忍び 耐え難きを耐え」;これっておいらのただの感想です

悪友を親しむ者はともに悪名を免るべからず (諭吉)

皇室が英王室と付き合わなければならない現実はおいらには悲しい。だって、<やつら>、ブリカスだろう。そして、われらが日本は19世紀に<やつら>の脅威から身を護るため、<やつら>のマネをして、結局、亡びた。

薩長クーデター勢力が日本の統治を奪取した時、世界の覇権は大英帝国が握っていた。「土人」たちは殺され放題だった。現在、ドイツがユダヤ人絶滅(ジェノサイド)の罪科で糾弾され続けている。ただし、不幸中の幸いで生き残っているユダヤ人はいる。本当にジェノサイドに成功したのは大英帝国だ [1]。タスマニア人やニューファンドランド人は完全に絶滅した。そういう時代だ、日本が<やつら>に出会ったのは。ただし、誇り高い北米先住民と違い生き残るためなら何でもする薩長は大英帝国にちょっかいを出して逆襲されコテンパンされると、自分たちも<やつら>のように生きることのする。偽毛唐の発生。かくして、生き残った「タスマニア人」であるわれら日本人は鬼畜の所業で生きることになる。帝国主義時代での処世だ。大日本帝国って、大英帝国のパチモンなんだよね、哀しいことに。その偽毛唐、鬼畜の所業の一環として薩長が担いだすめろぎさまの生き方があった。⇒ 限りなく本物近い偽毛唐 。

[1] 今のパレスチナ問題だって、<やつら>ブリカスの悪行の結果である。ビルマのロヒンギャとか、インドーパキスタン紛争とか、その他多数、<やつら>ブリカスの悪行の結果である。

▼ 今週知ったこと1; 200年前のブリカス

牛を奪ったイギリス船員と薩摩藩士が銃撃戦に…200年前の「宝島事件」google

事件が起こったのは、文政7(1824)年7月。ペリーが来航する約30年前だ。宝島沖に英国の捕鯨船が来航し、複数の船員が上陸。島で飼われていた牛を要求したが、島の役人らが断ると発砲し、牛を強奪した。島の役人らも応戦して船員1人を鉄砲で撃ち殺した。 ソース

⇒ 文政七年宝島江異国人到来事件

▼ 今週知ったこと2;ガーター勲章

ガーター勲章というのが英国王室の最高の勲章で、われらがひろひとさんは授与されていたが、戦争で剥奪されたそうだ。そして、1971年の訪英で再授与とのこと。


ガーターを外して

▼ 今週の水たまり

▼ 今週の立ちんぼ

英国王らは15分あまり、ずっと立って待っていた。最後、国王がついに腕時計を見た。そうしたら、来た。

首相らも立って待っていた;

▼ 今週のぼっち

【6月28日 AFP】英国を訪問中の天皇陛下は27日、ロンドンのキュー王立植物園(Royal Botanic Gardens, Kew、キューガーデンズ)を訪れ、ガラス温室「テンペレート・ハウス(Temperate House)」を見学された。(google

ソース

ニュースには皇后陛下のことが一切言及されていない。写真を見ると天皇陛下ひとりだったらしい。

<やつら>がなぜ偉そうにしているかというと、the をたくさんもっているからだ。the の派生物 a はたくさんあるのだ。⇒ the と a の物語、あるいは、original と derivative について


筑紫洲 (つくしのしま) でもぶどう記録;第13週

2024年06月22日 18時16分10秒 | 筑紫洲 (つくしのしま)

▲ 今週のみけちゃん
▼ 筑紫洲 (つくしのしま) でもぶどう記録;第13週

■ 今週のよその猫

■ 今週の草木花実

■ 今週の無包装

アウトレットで買ったチロルチョコが裸だった。なので、この商品がkiriとのコラボだとは気づかなかった。

2022年10月に一部ルート限定で発売した「キリ」×チロルチョコのコラボ商品。発売と同時にSNSやネットニュース・TVメディア等で注目を集め、味の再現性とデザイン共に人気を博した商品が、「キリ」日本発売40周年を迎えるタイミングで再登場。全国で発売します。新商品「チロルチョコ〈クリームチーズチョコ〉」

 包装した状態

■ 今週の繕い、あるいは、偉人のものまね

 靴下のつくろいも自分でやった (wikipedia [山本権兵衛])

■ 今週返した本

勝又浩 [wiki]、『「鐘の鳴る丘」世代とアメリカ  廃墟・占領・戦後文学』、2012年。全く知らなかった。著者も本も。図書館の開架棚で見つけた。おもしろかった。何より、空襲敗戦占領横浜横須賀で過ごした体験と敗戦後・占領期の作品紹介。進駐軍からガムをもらった話がある。おいらはかつて書いた;

占領軍兵士=事実上米兵に「ギブミーチョコレート」といってチョコレートをもらいましたと書いた自伝を、おいらは、見たことがなかった。むしろ、米兵に物をもらったが父の命令で捨てたという話は読んだ(保坂正康の話;愚記事

以前、海老坂武の体験事例に出会った。本書の勝又浩は米兵から菓子をもらった体験として、保坂、海老坂に続いて3人目。なお、勝又浩は米兵が撒いたものを拾ったらしく、家に持って帰って、母親にえらく叱られたと回顧している。まともな家庭だったのだ。

勝又浩。昭和13年(1938年)生まれ。敗戦時、7才。小学校/当時国民学校1年生。法政大学文学部日本文学科教授であった。中島敦の研究で有名とのこと。存命らしい。

「鐘の鳴る丘」とはNHKのラジオドラマで、戦災孤児の寮の子供たちの話(wiki)。敗戦後の戦災孤児となった年頃であった勝又浩が自分の世代を「鐘の鳴る丘」世代と呼称したのがこの本。おいらにとっては親の世代だ。ただし、おいらの親はB-29が来なかった街で育った。進駐軍は来た。新規基地さえ作った。

勝又浩、『「鐘の鳴る丘」世代とアメリカ  廃墟・占領・戦後文学』

目次

はじめに―「鐘の鳴る丘」世代の弁
1 廃墟と占領
2 占領軍と日本の女性たち
3 ニッポンとオキナワ
4 内と外のアメリカ
おわりに―「鐘の鳴る丘」世代の現在


本の帯と思われる。

《日本人の心に影を落とすアメリカ》
「緑の丘の赤い屋根 とんがり帽子の時計台」。昭和20年代に人気を博したラジオドラマ『鐘の鳴る丘』。戦災孤児たちの物語は当時の子供たちを夢中にさせた。横浜大空襲に遭い、戦災孤児になりかけ、『鐘の鳴る丘』に世代的共感を抱き続けてきた本書の著者は、この番組が占領軍の指示で制作されたものだと知り、愕然とする。アメリカは破壊者だったのか、救済者だったのか--
廃墟と焼け跡に代表される戦後の混乱と飢えを経験し、それを描いた戦後文学の理念を自らの文学上の精神としてきたが、自分にとっての戦後文学は幻影だったのではないかという疑念を抱きはじめた。
野坂昭如ら「焼跡闇市」世代より一つ下の世代が「鐘の鳴る丘」世代である。敗戦後、米兵がジープから投げるチョコレートに群がり、奇妙な解放と民主主義熱の中でアメリカに憧れて少年時代を過ごした。いつの間にか物質だけでなく精神的にもアメリカに侵蝕され、現在に至っていると気づいた文芸評論家が、戦災孤児の視点に立ち返って戦後文学が捉えてきたアメリカと、描かれなかったアメリカを新たに検証する。戦後日本社会の風俗と民衆の心の動きを追うと同時に自らの生き方を問い、現在につながるアメリカ「占領」の意味を探る力作。Amazon

■ 経験の抜き書き

▼ 空襲、あるいは、ジェノサイド

昭和二十年三月九日の東京大空襲を、私は 縁故疎開先であった 宇都宮で見たー夜の西の空がオレンジ色に染まり、翌日は灰が降ったー 五月二十九日の、死者 四四一六人、 被災者 四〇万人 と言われた 横浜大空襲の時は、ある事情から横浜にいて、我が家の焼け落ちるのも間近に見ることになった。その日は 町内の路傍に作られた 共同の竪穴式防空壕では危険だという指示が出て、我々は 野毛山の、山の腹に掘られた大きな 防空壕に避難したが、早く来て入って行った人が、後から押しかけた人に押されて窒息死するような悲惨な事故もあった。人口密度の高い都市を総なめにした爆撃は 人々に避難する場所さえ残さなかったわけである。この空襲から二、三日後であったと思うが、私は母親に言われて知り合いの家まで使いに出てすっかり見通しのよくなった伊勢崎町通りを歩いていたが、 そのとき、「おい子供、そちら側を歩いていてはダメだ」と、警防団の小父さんに注意された。慌てて道の反対側に移ったが、しかしちらと見えてしまったのが、焼けトタンに囲まれた一角に黒焦げになって 材木のように並べられていた死体だった。それで道の一方の側を歩いてはいけないという意味も理解できたが、 以来、空襲、焼け跡、廃墟 等々のことばのイメージは、この光景を伴って 私の中に固まっていったようだ。(p69)

▼ サイパン

勝又浩さんは横須賀で過ごした学生時代、ドブ板通りが行動範囲だったとのこと。内地で最も米兵があふれていた場所だ。スカジャン発祥の地だ。おいらは、お参りに行ったことがある(愚記事)。

そのドブ板通りで勝又浩さんは「サイパンと呼ばれた男」といきあっていたと報告している。彼は天涯孤独で防空壕あとの穴に住んでいたらしい。

川崎洋、『サイパンと呼ばれた男: 横須賀物語』1988年 (Amazon)

▼ 音楽

占領軍が勝又浩さんに与えた衝撃のひとつが、音楽だったと報告している:

敗戦の年の秋、小学校一年の二学期から横須賀に移り住んでー 私のことだが、そこで高校を終えるまで過ごした、基地の子であった私は、米海軍音楽隊の演奏をよく聞いた。というより、物心ついて以来、身体全体を持っていかれてしまうような音楽というものを初めて知ったのは米軍のブラスバンド音楽だった、という方が真実に近いだろう。

昭和二九、三〇年頃、私も 中学校の三年から高校にかけて、日比谷公会堂へ何度か出かけている。戦後 窮乏の時代は同時に 文化的なものへの憧憬渇望の強かった時代だったから、田舎の少年を 音楽会のために 日比谷まで 呼び寄せたわけだ。しかしいま思うに、米もパンも 配給、物資 全般に事欠く時代の中での文化だったから、聞きに行く 我々にも増して、聴かせる音楽家の方も大変だったに違いない。(中略)
 田舎の少年だった友人と私はその日、会場に早く着いてしまい、面白半分に楽屋を覗きに行ったのだが、その時の雰囲気からして、我々の推測に誤りはないであろう。それは廊下まであふれた楽団員たちが、一人ひとり広げた風呂敷を前にして着替え風景だったが、まるで 見世物小屋の楽屋を覗いてしまったような 幻滅の体験。我々はせっかく 非日常の時間を求めてはるばるやってきたのに、とんだところで みじめな日常を呼び覚まされてしまった。別の意味で言葉もなかったのである。 

江藤淳も敗戦直後、日比谷公会堂に音楽を聴きに通ったと云っている。

▼ アメリカ文化の支配

当時の子供たちにとって、文化的なものとはすべてアメリカ的なものでもあった(p100)

 男が自分に向けて言っている、「それはつまらなかった。それは野蛮であった」ーとは、実は我々が、敗戦後の子供たちが、庶民が、占領軍兵士たちを前にして感じたことでもあった。我々が垢じみた綿入れ 半纏に着膨れているとき、傍らを通るアメリカの水兵が、スマートで暖かそうな紺羅紗のジャンパーを脱げば、その下は半袖の白いセーラー服だったことに驚いたこともある。あれが文化的生活などだと思ったが、一方、その水兵が 八百屋で買った人参をそのままかじりながら歩いているのを見て、しかしそれも自由主義、民主主義なのだろうと思ったものだ。そして、小言を言う親は全て封建的人種にすぎなかった。だから、酒が入れば口三味線なんかで歌う 父親を軽蔑して、私は米軍 ブラスバンドに憧れたのだったろう。
  無知な我々はこんな風に、うっかり アメリカに”降服”していたのだが、そして今、そうであった自分自身の歴史をしみじみ 悲しく 哀れに思っているのだが、そういう反省の中でこの『軍楽』を読み直せば、 これも実に悲しく思われる。p65

▼ 裏マニュアル

余談になるが、基地の町横須賀で育った私は、概ね 酔った米兵の引き起こす騒動を日常茶飯事のように見ていた。そうした騒ぎが日本人のそれと決定的に違うのは、周辺のもの、つまり 日本の男たちが全く手出しできないことだった。ただ、遠巻きにして見ているばかりだったが、そこには 体格の格段の違いや占領軍兵士に対する恐れもあったろうが、それ以上に、言葉が通じないために仲裁が仲裁にならなかったという事情があった。手を出せば火に油を注ぐ 結果にしかならなかったのである。 

というのは、当時の基地の町の住人たちなら誰でも知っていることであったが、朝鮮戦争の最中は とりわけ 米兵たちの、はっきり言えば 黒人兵たちの狼藉騒ぎが音のほか 激しかったという事実があるからだ。私が小学校6年の時だったが、近所の銭湯に数人の黒人兵 が押し 行ってきて大騒ぎになったことがあった。今考えれば、あれも 朝鮮戦争 余波の一つだったのであろう。銭湯ではそれまで、日本人に混じって大人しく 作法に従っている白人は何度か見ることがあって、我々子供はそれを手伝ってやったり、くっついて歩いたりしたものだった。ところが風呂に入りに来るのではなく、いきなり女湯に押し入ってきたのは、あの時の 黒人兵の霊だけだったのではないだろうか。

 それでもう一つ余談になるが、米兵達の狼藉が日常のことであった横須賀では、そうした中で最もたちの悪いのが マリン、つまり 海兵隊員で、次が アーミー、陸軍兵だということになっていた。それはおそらく、戦場で過酷な場所に立つ度合いに比例していた のであろう。そして先に行った市民たちの大人しさとは反対の話になるが、彼らの狼藉が始まると、遠巻きにしていた市民たちーと言っても、ほとんどは 米兵 相手に何らかの商売をしている人たちであるかーの一人が、見て素早く兵隊の防止やネクタイなどを奪って逃げるのが、そういう場合の対処の仕方であった。兵士たちは服装が不完全だと基地のゲートを通過できず、期待できなかったからであるが、遠巻きにしている一般市民たちの輪は、そういう時に役に立ったわけである。おそらく 占領下も4ー5年経て、基地の町の人たちはそんな 知恵を身につけるようになったのであろう。 

 こうした基地の町の裏マニュアルに、特に黒人兵 という項目はないが、それは私が 遠巻き側の、しかも 子供であったからであろう。しかし、それでも町の女性たちが黒人兵の客をあまり歓迎しなかったということは町の人たちは皆知っていた。だから松本清張 「黒地の絵」 昭和33年 を読んだ時 私にはこの事件のもう一つの 背景も想像できたのである。 

▼ フェンスの向こうのアメリカ

小説の冒頭にも書かれているように、米軍用住宅地は、そこに入るためには ゲートで訪問先の確認を取る必要があったような、一種の異国であり 治外法権の場であった。横浜、横須賀にもあったから、私にもそのイメージがよくわかるが、それは、貧しい敗戦国の民には、金網越しに覗くアメリカの生活や文化のショーウィンドウのような存在だった。一様に広い芝生の庭を配して、その中心に白く塗られた四角な住宅は、映画で見て憧れたアメリカの豊かでモダンな生活の生きたサンプルなのだ。p175

▼ 占領政策

勝又が親しんだNHKのラジオドラマ「鐘の鳴る丘」は占領軍の意図で制作された。つまり、CIC:《Civil Information and Education Section》民間情報教育局 [wiki]。 GHQの一部局で、第二次大戦後の日本占領下の文化面の情報収集と行政指導をし、教育制度改革などを実施した組織による、プロパガンダ放送番組。育ちの良い児童劇団の子等が悲惨を演じているのが透けて見える

のちにこのことを勝又は知る。検閲制度も同様。当時は知らなかったがのちに知る。江藤淳についても言及。占領政策の欺瞞を暴露したことは評価する。大東亜戦争などの占用軍による言葉の禁止の問題には共感。しかし、2.1ストまでの占領軍の「民主化」まで虚妄扱いするなとお怒り。江藤は思い込みが激しいと評している。

■ 作品、作家紹介

▼ 占領下には米軍 や アメリカ兵が直接登場する作品がほとんどなかった

戦後の文学作品でアメリカや 占領軍を描いたり 取り込んだりしている作品のリストを作ってみて気づいたことの一つに、 昭和20年代前半には、米軍 や アメリカ兵が直接登場する作品がほとんど見当たらないという事実があった。p23

▼ 広池秋子『オンリー達』昭和26年(1951年)

知らなかった。この作品は進駐軍相手の売春婦を描いた初期(最初?)の作品らしい。なお、今の人は「オンリー」って知らないだろう。でも、辞典に載ってた;

オンリー:第二次大戦後の一時期、一人の特定の外国人とだけ交渉をもつ売春婦の俗称。goo辞書

この作品は、『街娼 パンパン&オンリー (シリーズ紙礫)』(皓星社)2015年、[Amazon] で読める。

一方、戦後占領期 短篇小説コレクション(藤原書店)というのがある。

▼ 奪われた女性たち: 丹羽文雄『恋文』

▼ 久生十蘭

(ひさお じゅうらん)[wiki]。初めて知った。しかも、道産子。1929-1933年とフランスで過ごしているのだが、母親と一緒というのが稀有な日本人留学者だ。

その母親と仲良しの久生十蘭の『母子像』。さのばびっち@にっぽんの男の子のお話。

全文(青空文庫)

親に殺される子は、天皇に殺される赤子の喩であるという解釈。そして、その母は旧敵相手の淫売婦となる。豚みたいな声でなく女なんだ

『我が家の楽園』(全文 青空文庫)も言及されている。『抱擁家族』の先駆作品であると。

▼ (後期)戦後文学とアメリカ

島田雅彦、『退廃姉妹』(Amazon)。

そして、村上龍。

彼は自ら進んで「人形」になることを望んでいるのであり、 「あいつらの思うままに動」く奴隷であることが、彼にとっての「最高の幸福」の達成であり、彼はここで何よりも「自分のことを忘れて」いるような人物なのだ。 ジャクソンに「黄色い人形」だと決めつけられて、それを彼が差別だとも 恥辱だとも 意識していないのはこんなわけであった。「人形」であることが、むしろ彼の夢の、「遊園地」の実現、 保証でさえあったのだ。これを社会象徴としてみれば マッカーサー時代への逆戻りの構図以外の何者でもない。 私がアメリカの日本占領は此処に極まったと言った所以であるが、こんな無惨な、悲しい話が『限りなく透明に近いブルー』という小説なのである。

● 不思議な点

勝又浩は自分を「鐘の鳴る丘」世代とする。「鐘の鳴る丘」の当事者とは戦災孤児である。したがって、世代の中では少数派だ。その少数派を自分の世代の象徴的なものとする。確かに、戦災孤児を生み出したのは、日本史の中で、昭和13年前後に生まれた世代に限られるだろう。そして、勝又浩は自分自身横浜空襲に逢い、戦災孤児になるかもしれなかったと認識している。その認識が、自分を「鐘の鳴る丘」世代とする。でも、不思議だ。日本史の中で、昭和13年前後に生まれた世代が戦災孤児を生み出したのだろうが、戦災孤児よりの不幸な死んだ子供たちへの言及がない。勝又浩の世代は、空爆死、つまり、米軍によるジェノサイドの子供犠牲者を生み出している。すなわち、勝又浩の世代は戦災孤児もいるが、死んだ子供もいる。米軍に殺されたのだ。東京大空襲でも死亡者は女子供が多数である。学童は疎開したものは助かったであろうが、多くが死んだ。

なぜ、生き残った戦災孤児を世代の象徴とするのか?

そもそも戦災孤児は、母親が死んだから生じた。無差別攻撃で殺されたのだ。父親は戦死したかもしれないが、孤児となったのは母親はじめ一族が全滅したからだろう。ジェノサイドの結果だ。

なにより最も不思議なのは、勝又浩は空襲、すなわち米軍のジェノサイドで自分が殺されるということは想定しないのだ。想定することは自分が戦災孤児になることである。自分が戦災孤児になるということは、親や一族が全て死に絶えるが自分は生き残るということで実現される。現実に昭和20年の横浜空襲のときは現地にいたのに。

さて、勝又浩に限らず、戦後の日本人は一般庶民を大虐殺する米軍をなぜ簡単に信じたのかというのがおいらの素朴な疑問だ。平和と民主主義とか。原爆民主主義とは加藤典洋の造語であるが、興味深い。原爆は廣島、長崎に限られるので、空爆民主主義、ジェノサイド民主主義でもよい。

もっとも、勝又浩は下記述べている;

私としては、ともあれ「 無差別性 残虐性を有する 本件 爆弾を使用するわ 人類文化に対する新たなる罪悪なり」。「 全人類及び文明の名において 米国政府を糾弾するとともに 即時 かかる 非*道的 武器の使用を放棄すべきことを厳重に要求す」という主張は、現在でも間違いなく 有効なのだと言っておけば足りるであろう。

そうであるならば、嗜虐性無差別爆撃を行う米軍の「自由主義、民主主義」を信じたのか?

回答は、『「鐘の鳴る丘」世代とアメリカ  廃墟・占領・戦後文学』に少しは見える。ひとつは、hedonism (google)。わざわさ横文字で書くのは、日本語訳がちょっと違った印象を与えるので。さらには、このhedonismの逆説=その過剰が反吐につながるという語感から。

勝又浩の場合、そのhedonismをもたらしたものは、端的に音楽であったと報告されている。「身体全体を持っていかれてしまうよう」とは生々しい。そして、アメリカ文化。衣装(ファッション)。米軍住宅。端的に云って日常的hedonism=暖衣飽食というところか。それは理解できる。おいらもそうだ

横浜空襲の後、「黒焦げになって 材木のように並べられていた死体」を見た勝又が、焼死した同世代の子供への想像力が見えないのが『「鐘の鳴る丘」世代とアメリカ  廃墟・占領・戦後文学』を読んで不思議に思ったことだ。

さらに不思議な点は、勝又、そしてほとんどの戦後日本人が、空爆による日本庶民大虐殺を行った米国人の悪意というものを認めないことである。

これは非常に興味深い。

さて、最後に、親御さんが横須賀で何を生業にしていたのか、全く不明である。

★ 『明治意維新という過ち』

「保守」とは何か?という議論がある。それは感覚的なものであるという回答もある。そうであるならば、「保守」のまっとうな感覚というのは「明治維新」嫌悪ではないだろうか?

「明治維新」の野蛮さ、正統性の無さは愚ブログの十八番である。20年前からやっている。この本は網羅的な「明治維新」の正統性への疑念を著した本である。

 


筑紫洲 (つくしのしま) でもぶどう記録;第12週

2024年06月15日 18時00分00秒 | 筑紫洲 (つくしのしま)

▲ 今週のみけちゃん
▼ 筑紫洲 (つくしのしま) でもぶどう記録;第12週

■ 今週のよその猫

今週は4匹もよその猫の撮影に成功。

■ 今週の筑豊境

■ 今週の漉したもの


トースト用こしあん

倉沢製あん所(google

■ 今週の半額

■ 今週のヤマザキ

期限を相当切れても、変わらない....。

■ 今週の丼

親子丼。北九州の親子丼は甘い。味が濃い。

■ 今週のお豆腐


揚げ出し豆腐

■ 今週の旧キャンプ・クロフォード;真駒内駐屯地開庁70周年 [google]


https://x.com/11b_na_jgsdf/status/1799684952851968361

自衛隊の駐屯地の「開闢」を開庁というのだ。開庁とは官庁が執務を開始することとある。

なぜ、1954年6月9日が真駒内駐屯地の開庁の日なのかわからない。自衛隊が発足したのは、1954年7月1日(wiki)。自衛隊発足の約ひと月前だ。なお、この時(1954年)この官庁の公文書での名称は「真駒内駐とん地」であったはずだ。屯の字が常用漢字ではなかったのだ。

「真駒内駐とん地」は米軍基地キャンプ・クロフォードの名を変えただけの基地だ。施設は米軍のものをそのまま使った。もっとも、その費用は元来我々の負担だ(「日本占領米軍に払ったわれわれのお金」)。

調べると、1954年7月1日にこの地にいた米軍(<やつら>)は1954年2月に去ったと記録されている。<やつら>の組織の歴史に書いてある;(ソース)米陸軍第1騎兵師団の歴史[1951-1957:http://www.first-team.us/tableaux/chapt_05/]。

1954年9月、日本軍は北海道防衛の全責任を引き受け、第1騎兵師団の旧本拠地は陸上自衛隊に引き渡された。 (同上ソース、「」はおいら。自衛隊は軍隊ではない。)

1954年に北海道島から米陸軍は去った。つまり、ソ連の脅威の最前線の防衛義務は自衛隊となったのだ。この時、朝鮮戦争は休戦となっていたが、再び、中ソ北鮮が攻め込んでくることを米軍は危惧していた。その時、もし北海道島にソ連が上陸してきたら、自衛隊が前面に出て、阻止しなくてはいけない状況となった。2024年の現在、実は米軍は沖縄から撤退し始めているらしいとの情報がある。本当に危険になったからだろう。1954年の北海道島もそういう状況だった。


1951年5月20日撮影。キャンプ・クロフォード⇒真駒内駐屯。現在までに残存、サイロ隊舎。

真駒内駐屯地が開庁したのは1954年6月9日なのだが、その軍事基地が建設、使用され始めたのは1946年だ。その後、1950年、朝鮮戦争が勃発し、外征しなくてはならなくなったマ元(マッカーサー元帥)は、軍事的空白になったこの列島の治安維持、防衛のため、警察予備隊を創らせた。自衛隊の前身だ。自分が制定させた憲法と不整合ではあるが、背に腹は替えられなくなり、命令を発した。

なお、ここ札幌、真駒内のキャンプ・クロフォードでは、米軍からは「ジャップ」よばわりされていた。


1951年    米兵と「ジャップ警官(警察予備隊員 or 保安隊員)」(these Jap policeme)

第三次世界大戦では、これらのジャップ警官は同盟した日本軍の中心となるに違いないとの憶測がある。
There has been speculation that in event of World War III these Jap policemen will be the nucleus of an Allied Japanese army(出典)札幌に駐屯していたオクラホマ州兵を取材した新聞記事より

■ 今週借りた本、あるいは、今週の「親の顔が見たい」;

  
子(左)、父(右、一身にして二世を経る)

『俺の女にしてやる』のセクハラ早大教授の父ちゃんは「参謀総長」

横浜市立図書館の蔵書の充実ぶりはすごかった。横浜では本はネットで検索して市立図書館にネットで申し込み、近所の公民館に送られてくる本を受け取っていた。つまり、直接図書館の開架棚から本を借りたことがなかった。一方、引っ越してきた北九州市では近くに区立図書館があるので、歩いていける。先日初めて行って開架棚を見て、あったので借りた。渡辺直己、『私学的、あまりに私学的な』。もちろん、横浜の市立図書館にもあるのだろうけど、横浜では上述の通り、ネットで申し込むので、いきおい、借りる本を選ぶ。優先する本も多いので、「間抜けな本」を借りる余裕はない。でも、今回は手に取って、そのまま借りて帰れるので、借りた。

借りた理由は、渡部直己のあの一件。世間に名を馳せたのが早大教授として院生に『俺の女にしてやる』と云い。告発され、職を追われたことだ。

 「事件」概要 ⇒【渡部直己】深沢レナの教授は誰で大学はどこ?現在の仕事も調査

この件を聞いたとき、おいらは、渡部直己は絓秀実と「盟友」らしいので、渡辺直己もそういう類の人なのかと思った。そういう類の人とは角田光代が絓秀実について報告している、酔ってDo you like sex?!と連呼する類の人ということ。おいらは、絓秀実の文章を、内容はよくわからないところが多いが、よく読む。文章は端正だと思う。文章と実人物に齟齬があるらしい。その文章も偉ぶったところ、居丈高なところがない。

この渡部直己のセクハラ、追放の件があった時、wikipediaで渡部直己を見た。初めて知った。父は第18代陸上幕僚長、第15代統合幕僚会議議長の渡部敬太郎[wiki]。どうやら、最後の陸士生徒らしい。

統合幕僚会議議長は陸海空を統合する職。大日本帝国の時代には参謀本部長と海軍軍令部長を束ねる職位がない。陸上幕僚長は大日本帝国の時代では陸軍参謀本部長/参謀総長。初代は山縣有朋、末代は梅津美治郎。つまり、渡部敬太郎は戦前にもない「行政武装組織」(自衛隊)[#1]の最高職位だったのだ。

#1 ここ書き方が冗長だ。背景は戦後日本に「軍隊」はないのだから、戦前と比べるのは無意味だという意見を考慮したからだ。鳥と蝶々を、飛ぶからといって、一緒にするな、という意見。

    
大日本帝国、初代、末代       属領日本  

渡部敬太郎が興味深い点は、陸士(陸軍士官学校)の最後から2番目の期(60期)であること。在校中に敗戦。もちろん、士官学校の生徒は職業軍人だ。当時、政府は陸軍士官学校と海軍兵学校の生徒を優先的に(旧制)高校、帝大に「移籍」させた。ゾル転。渡部敬太郎が敗戦後どう人生を歩んだのかはわからない。わかることは、敗戦後の5年後、上記の朝鮮戦争勃発によるマ元指令による警察予備隊=実際は「米衛隊」へ参加したことだ。もちろん、渡部敬太郎の主観としては祖国防衛のために役立ちたいということであったに違いない。しかし、参加した組織は「日本軍」ではないのだ。建「軍」の精神がマ元の占領米軍の補完組織の創設だ。

渡辺直己もそういう類の人なのかと思ったことに話を戻して、この『私学的、あまりに私学的な』お読むと、ちゃらけた色ボケ爺さんという人ではなく、やたら、居丈高な人だ。よく言えば、何か求道的なところがある。もちろんその求道的とは;

ジャナ専でも、近大、早稲田でも、わたしのゼミは、学生たちにとってかなりハードであり、あったようだが、これは仕方ない。残り一、二年で社会に出なければならぬ学生たちに、一冊でも多くの良書、一人でも多くの良き作家思想家に触れさせて送り出さねばならぬのだ。(p310)

中学・高校の「国語」で習ったことは「漢学」と「古典」以外はすべて忘れよ。毎年、かかる暴力的な命令下に開かれる教場においては、地頭の善し悪し、過去の読書経験の質と量、文学や思想にまみれんとする動機の性格、この三点以外に切実な考慮に値するものはない(後略)。p120

「暴力的な命令下」ってすごいな。でも、どっかで聞いたことがあるぞ。思い出した。木田元。海軍兵学校で敗戦を迎えた木田元がのち教授になったときの授業の風景:「ちなみにわたしは大学院の修士課程を木田のもとで学んだが、ゼミ中の木田は本当に怖かった。勉学の態度から語学の能力まで、万事、頭から雷が降ってくる調子の教え方だった。」。渡辺直己の「暴力的な命令下に開かれる教場」とは、木田の海軍兵学校仕込みの教育に類する、陸軍士官学校の由来の所業か? もちろん、渡辺直己は陸軍士官学校とは関係ない。でも、父渡部敬太郎が創る家庭の環境がそういうものであったと邪推できる。さもなければ、なぜ、渡辺直己はそう求道的なのか? その「暴力的な命令下に開かれる教場での教育」とは練兵のようではないか! これは家の教育環境に原因があったと邪推することを禁じえないおいらを天は赦すだろう。

▶村上春樹。渡辺直己は村上春樹批判で知られる。批判のひとつの視点は、「村上春樹の作品を読んでも自分の考えや行動が変わることはない」というもの。ネットにあった⇒春樹の物語は「モテないヤツの妄想」にすぎない

おいらが、なぜ村上春樹の「つくりばなし」を読むかというと、村上春樹がつくりばなしを書かなけれならない動機に大学紛争をはじめとする思春期の動乱とそれに導いた自分が日帝侵略兵士の息子であることがあると邪推している(復員兵の子どもたち)。つまり、「恥ずかしい父親」をもった息子の宿命だ。

おいらから見て興味深いのは、そもそも『俺の女にしてやる』という「辞世の句」を残して社会的死を迎えた渡辺直己は、恥ずかしい存在ではある。傍から見て、マヌケだ。そして、渡辺直己は、「恥ずかしい父親」をもった宿命の村上春樹の作品を総批判する。端的にナルシスティックであると。たしかにそうだ。父親が南京戦に参加していなかったとわかり春樹は安堵する。でも、問題は南京でなく、支那侵略である。

ところで、陸軍士官学校というのは陸軍の中枢を教育、育成する機関である。そして、軍の「指導書」の先陣訓に「生きて虜囚の辱を受けず」とあるという。そうであるなら、陸軍士官学校在学者でのちに生き残っているやつらっておかしくないか?(いっぱいいるよ![#2])。死ぬべきだろう。先陣訓に従って。敗戦のどさくさで、「生きて虜囚の辱を受けず」の教えをほったらかして、その後元気に生き延びていった。死に損ないじゃないか!中には、本当は死にたいが、終戦勅語の「耐えがたきを耐え、忍びがたきを忍び」との天皇の命令で死なないのだとかばちたれる死に損ないもいるらしい。もし、敗戦時、将校・将軍たちが全員死ねば、鎌倉幕府滅亡のときの鎌倉武士のように集団で自決すれば、大日本帝国陸海軍の「精神」だけは亡びなくてすんだのだ。

[#2] 現実は、将校・将軍たちは「生きて虜囚の辱を受けず」なんて信じておらず、兵士へのコケ脅しに使っていたに違いない。

渡辺直己の父親・渡部敬太郎はそういう死に損ないだ。そして、「米衛隊」の頭となった。恥ずかしいだろう。恥ずかしい父親。渡辺直己と村上春樹は似たような境遇にいるのではないか。恥ずかしい父親たちの息子たち。渡辺直巳は1952年生まれであり、いわゆる団塊の世代ではない。その点、団塊の世代そのものである村上春樹、そして絓秀実より半世代ほど年下だ。しかし、渡辺直巳の父親・渡部敬太郎は復員兵である。18歳の復員兵。15歳の復員兵よりはトウがたっている。復員兵の子どもたちという属性は団塊の世代の多数に認められる属性である。

書いてほしい。渡辺直巳は誰もが読む文学や思想についてではなく、渡辺直己しか知らない、最後の陸士生徒で、占領体制下占領軍の補完組織に志願し、保護領日本の「軍事」部門のトップになった渡部敬太郎の物語。すなわち、なぜは彼は死なず、日本を従属化する米国の対ソ戦略のひと駒になったのか?の物語を書いてほしい。警察予備隊の生みの父はマ元である。マ元の子、警察予備隊員、渡部敬太郎。たとえ「ジャップ警察官」と親組織の米軍に言われようとも「土人」日本人の自分がこの土地を死守すると考えたのかもしれない。おいらもその本を読むと、考え方や感じ方、行動を変える力が湧いてくる気がする。

▶ハラスメントは放蕩か?

渡辺直己は、人間の本性について言及する。「現代人といえども、より高い知性とより良い異性を求めることに何ひとつ変わりはない」という。これだけが人間の本性とは限定していない。特に金銭欲について渡辺直己は言及していない。wikipediaによると「貧乏だった。自嘲的にルンペン評論家を自称していた」とある。そして、「貧乏」をとくに気にしている気配はない(実家の世話になっていたのかもしれない。そうなると、資金源の元は「米衛隊」=戦後の日米軍事支配体制の賜物ということになる)。やはり、渡辺直己はより高い知性とより良い異性が関心事なのだ。「教え魔」の渡辺直己が教え子だろうとかまわず欲情するのは、こういう事情なのだろう。その序でリストに挙げた本を読まないのはサルであると柄谷行人が煽った『必読書150』に渡辺直己は参加し[#3]、セリーヌ、ジュネなど「放蕩」系作家を紹介する役を担っている。「一冊でも多くの良書、一人でも多くの良き作家思想家に触れ」「より高い知性とより良い異性を求める」渡辺直己のたどり着いた結末が『俺の女にしてやる』と云い、告発され、職を追われることだった。裁判では負けたが、退職金は受領できたので、職を探す必要もなく、自分の頭が焼け尽きるまで電車に乗って行こうと決心する必要もなかったのだろう。さて、この件で、自分の考えや行動が変わることとなったのだろうか?偉大な文学作品は、自らの放蕩に如かずということだったのだろうか?

#3 『私学的、あまりに私学的な』で渡辺直己は「「これを読まねばサルである」と銘打たれてありながら、古今東西のカノン中のカノンを列挙・解説したハードな一本。私自身、これを作ったおりに、十冊ほど未読の本があり、その後あわてて読み終えたくらいの代物」と云っている。古今東西のカノン中のカノンを150冊読んで、おサルさんではなくなった結果が、『俺の女にしてやる』だ。

■ 今週みた「ひとつの世界観」

最近、シンガポールの外交官が東京の銭湯で盗撮したという事件があった。その外交官が日本の警察に出頭したとのニュース。外交特権で逃げ切らなかったと。そのニュースを伝えるニュースの検索結果:検索結果

そのニュースのどれかで(忘れてしまった)下記コメントがあった;

特に戦争中、日本の活躍が無かったら今のシンガポールは無いから、

何か、戦争中でのシンガポールでの日本軍の「活躍」について誤解をしているのではないだろうか?マレーシアのマハティールと勘違いしているのか?
あるいは、反面教師としての「活躍」のことか?

関連愚記事:日帝遺産を不意に賜わる話;受難する日本(系)女子大生、今も昔も...  
And I told you there's no-one there 
原爆投下が必要


筑紫洲 (つくしのしま) でもぶどう記録;第11週

2024年06月08日 18時00分00秒 | 筑紫洲 (つくしのしま)

▲ 今週のみけちゃん
▼ 筑紫洲 (つくしのしま) でもぶどう記録;第11週

■ 今週のよその猫

■ 今週の筑豊境

■ 今週の花実

■ 今週の3割引き、かつ、天然物

■ 今週の北九州の「街の食堂」

オムライス。エビス屋昼夜食堂 [google]。福神漬けが添えてあった。

米村勇飛記者一押しのオムライス - 1日370人、メニュー100種類…北九州の「街の食堂」に24時間密着してみた - 写真 、 記事本文

■ 今週の旧版、あるいは、なつかしい本の話

 

1989年版(旧版)[左]、pink 新装版(マガジンハウス)[右]

本を整理していたら、出てきた。岡崎京子、『pink』。

この『pink』は1989年の作品で、その後、1996年まで創作を続けたが、交通事故のため、復帰不可能の負傷をしたとされる(wiki)。

さて、1989年の『pink』の結末では、彼氏のハルヲは主人公・ユミたちを待たせるのだが、交通事故に逢っているのだ。

『pink』だけしか知らなかったおいらは、岡崎京子のその後をなんとなく知っていたが、35年ぶりに『pink』を今週読んで、気づいた。

▶ 読書メーター:『pink』|ネタバレありの感想・レビュー - 読書メーター

■ 今週の「あれから35年」

Google [天安門事件から35年]

▼ 関連愚記事

 


筑紫洲 (つくしのしま) でもぶどう記録;第10週

2024年06月01日 18時00分00秒 | 筑紫洲 (つくしのしま)

▲ 今週のみけちゃん
▼ 筑紫洲 (つくしのしま) でもぶどう記録;第9週

■ 今週のよその猫

■ 今週の筑豊境

梅雨前の薫風。さわやかで、気持ちよかった。

31日正午ごろ、北九州市小倉南区で、ロケットランチャーのようなものが見つかりました。
周辺では拳銃や手りゅう弾のようなものも多数見つかっていて、警察が鑑定を進めています。 (google

■ 今週の花

■ 今週の半額:おはぎ

半額で購入。165円。

■ 今週知った言葉と物: ガビオン

メッシュ状の格子籠に自然石を詰めたガーデンアイテム。存在感があり加工の幅も広いのでお庭やガーデン、エクステリアに存在感をプラスしつつも、自然石×ワイヤーの組み合わせが「抜け感」や「こなれ感」を演出するアイテムです。メーカーによっては「ガビオス」「バスケットガーデン」と呼ばれることもあります。石が主役のおしゃれガーデンアイテム。室内でも使える「ガビオン」の魅力

google 画像 [ガビオン]

2月、横浜の山手での画像。

■ 今週の気が楽になったこと


https://x.com/okapi0408/status/1793484515677200893


愚記事

ごめんよ、買わなくてと思った著者殿が図書館利用者だった。

■ 今週のキャンセル

Google

反戦や平和を訴え続けたジャーナリストの故・むのたけじさんの遺志を継ぐために創設された「むのたけじ地域・民衆ジャーナリズム賞」を終了すると、実行委員会が31日に明らかにした。むのさんが生前に講演会で障害者を差別する発言をしていたことが理由だとしている。

同賞の過去の受賞者から情報が寄せられたことがきっかけで判明した。このことを受け、鎌田慧さん、落合恵子さん、佐高信さん、永田浩三さんの4人はいずれも実行委の共同代表を辞任した。朝日新聞

▼ 知ってた;

むのたけじ。「そして、おいらは、こいつは、ペテン野郎に違いないと、30年前から、直観していた。」(愚記事

渡辺牧  翻身論序説  -日本ファシズム期におけるあるジャーナリストの生き方の事例分析を中心に ―

■ 今週の旧奴隷貿易実施組織

上智大学といえば、イエズス会の組織。奴隷貿易をやっていたイエズス会。人道への罪満載のカルト集団・キリスト教の中核組織だ。今では、ジェノサイドを非難。更生したのだ。

■ 今週の薄さ

日の丸の赤が薄い。中韓の旗の赤と比較すると明らか。

色あせる太陽。

■ 今週のキリ番

ブログ開設から7272日