いか@ 筑豊境 寓 『看猫録』

Across a Death Valley with my own Distilled Resentment

四馬路(すまろ)、吉原; なぜ日支の娼館街は、建前上、廃名となるのか?

2015年06月30日 19時57分15秒 | 中国出張/遊興/中国事情

「上海帰りのリル」を聴くと、四馬路(すまろ)は街の名であることがわかる。

Googleマップで、まずは、上海に行き、四馬路を検索すると、出ない。

出ることは、出る。でも、その表示された街は紹興。紹興にあるレストランの名前が、四馬路(すまろ)らしい。

なにより、googleで「四馬路」を検索すると、食べ物屋さんばかりである。

勘のいいおいらは、さては、四馬路(すまろ)は廃名になったのだなぁと睨んだ。

果たして;

福州路は昔は四馬路と呼ばれおり、現在の南京路である大馬路から数えて南側に四筋目の路になります。四馬路は昔は歓楽街として有名だったようですが、今ではすっかり文化的な街となっています。

とあった:ソース

直截に言って:: google:[四馬路 娼館街]

しかも、今は本屋街。そういえば、「娼婦と本はベッドに連れ込むことができる」というではないか!?

すごいな、四馬路(すまろ)。

■ なお、地図から名前が消えた街という視点では、吉原も同様。

おいらは、がきんちょの頃、東京地図で、「吉原」を探して、見つけられなかった記憶がある。

今では、建前としては、交差点の名前(これは公式な名称となる;某交差点)に残るのみ。

愚記事より;

■ まとめ

1.やはり、日支は、糾える縄の如し

2.もっとも、おいらががきんちょのころから彷徨っていた街「すすきの」は、地図上に登録されたことさえない。

なぜならおいらの本籍のある都市は何条何丁目という野暮な住所で街を示していたからだ

 

 追記;Googleマップで札幌に行き、検索で「すすきの」を入れると、横浜市すすき野小学校、すすき野中学校が出て、びっくりした。(⇒これ) 横浜に「すすき野」ってあるんだ。武相境斜面に最近来たけど、知らなかったよ。

すすきの小学校とか、すすき野中学校って、札幌にもないよ。 どんな小学校なんだ!って札幌っ子は、おどろくよ;

でも、すすきの女学院とかはあったかもね。

 

 


誰か、 田中光雄 を知らないか? 北京帰りの み つ お

2015年06月28日 12時13分21秒 | 中国出張/遊興/中国事情

最近の購書: 『北京を追われて』、江頭数馬; Amazon

昭和末期、柴田穗は、既に、「伝説」のjournalistであった(関連愚記事群)。


google [柴田穗]

でも、当時はネットなぞない時代、札幌、仙台の古書店の"全ての棚"を見て歩いたような気がする(←おそらく、誤記憶)おいらも、柴田穗の『報道されなかった北京』(Amazon)をみつけたことはなかった。ちなみに、同時代、、札幌、仙台の古書店の"全ての棚"には『日本列島改造論』を見つけられなかった(参照愚記事:)。探してしたのに。


  4,600円! 「可」で。 Amazon

さて、柴田穗が中国共産党の判断で北京を追放された時、柴田穗も含めて3人の日本人journalistsが追放されたのだ。

ものを知らいないおいらは、最近、ネットでこのことを知った。

1967年9月に『毎日』は反中国的であるという理由で、北京特派員の江頭数馬を国外退去させられていた。こうしたこともあって『毎日』は文革に対して一貫して否定的な論評を続けていた。 (出典; 大阪大学、 黄 芳 、文化大革命と日本知識人(2) : 1969年から1973年ま

もっとも、そもそも柴田穗の『報道されなかった北京』に「サンケイ、毎日、東京[ママ]の三新聞にたいする退去通告」のことは書いてあった。ちなみに、東京新聞と柴田が記しているのは、おそらく、間違い。東京新聞を含む地方新聞合同でひとりの記者を派遣しており、それが西日本新聞の田中であったようだ。柴田の『報道されなかった北京』には毎日新聞、西日本新聞の追放された記者が、それぞれ、江頭数馬、田中光雄であったことは書いてない(ようだ=おいらは見つけていない)。

このように、柴田穗が中国共産党の判断で北京を追放された時、柴田穗も含めて3人の日本人journalistsが追放されたことを、蒙童のおいらは、最近知ったのだ。 おいらは、産経新聞(当時は、サンケイ新聞)はウヨだから、中国共産党の判断で北京を追放されたのだと勝手に思い込んでいた。

違ったのだ。

9月10日、毎日・江頭数馬、産経・柴田穂、西日本・田中光雄の三記者に「警告に背き佐藤内閣の反中国政策に呼応して中国情勢をわい曲して報道した」との理由で国外退去を通告。 (ソース 文革に翻弄された記者交換

産経・柴田穂しか知らなかったウヨのおいらは、毎日・江頭数馬と西日本・田中光雄を、ついこの間、知った。

検索した。果たして、毎日新聞の江頭数馬は、『北京を追われて』という本を出してした。 安いので、購入。

「江頭」というだけあって、やはり、佐賀の出であった。

そして、その「支那通力」形成は、1925年生まれ、東亞同文書院学院(wiki)を経て京大東洋史学科卒とある。 61年(毎日新聞)香港特派員、67年北京支局長。

■ 西日本・ 田中光雄

西日本・ 田中光雄とは、西日本新聞の田中光雄なのであろう。どうやら、北京追放劇の体験記は出版していないようだ。確認できない。⇒ google

■ まとめ1

誰か、 田中光雄 を知らないか? 北京帰りの み つ お

■ まとめ2

江頭数馬(えがしら かずま): 毎日新聞のくせに、中共と「ひそかに情をつうずる」ことあたわず、追放!

なお、この中国共産党による3人の日本人journalists北京追放劇で、追放されず、北京に残った日本人journalist/sの一組織が、もちろん、われらがあの新聞社である。

■まとめ3

・ おいはらわれたっていいじゃないか  日帝の に ん げ ん なんだもの  み つ お

本愚記事、 YouTube; 上海帰りのリル 東京大衆歌謡楽団  を聞きながら書きました。


新しい街でもぶどう記録;第35週

2015年06月27日 19時11分21秒 | 草花野菜

■今週の看猫

【いか@ 武相境斜面寓 『看猫録』】のアクセス・ランキング

過去1週間の閲覧数・訪問者数とランキング(日別)

日付閲覧数訪問者数ランキング
2015.06.26(金) 1289 PV 147 IP 5572 位  / 2210499ブログ
2015.06.25(木) 902 PV 159 IP 4763 位  / 2209727ブログ
2015.06.24(水) 791 PV 124 IP 7174 位  / 2208983ブログ
2015.06.23(火) 633 PV 143 IP 5249 位  / 2208210ブログ
2015.06.22(月) 561 PV 114 IP 7118 位  / 2207458ブログ
2015.06.21(日) 970 PV 143 IP 5216 位  / 2206677ブログ
2015.06.20(土) 1021 PV 129 IP 5737 位  / 2206009ブログ

過去3週間の閲覧数・訪問者数とランキング(週別)

日付閲覧数訪問者数ランキング
2015.06.14 ~ 2015.06.20 6290 PV 801 IP 7260 位  / 2206009ブログ
2015.06.07 ~ 2015.06.13 6688 PV 727 IP 7876 位  / 2200989ブログ
2015.05.31 ~ 2015.06.06 6490 PV 736 IP 7579 位  / 2195915ブログ

 


今日のサラダ; 南米サラダ

2015年06月25日 20時21分24秒 | その他

トマト、じゃがいも、インゲン豆; みんな中南米が原産。

すべてもらいもの; バンザイ!おいらの乞食ずんせい!

これから道産子には厳しい内地の夏です、定期的にブログ記事を書きます、愚記事が...だったら...わかって下さい: 

わかって下さい、 いか@ 武相境斜面寓 『看猫録』 = [google] わかってもらおうと思うは乞食の心

ようこそ!乞食ブログ

▼ 少し、関連する愚記事群


日本ファシズムと日本人民戦線の幻と現実

2015年06月23日 19時53分51秒 | 日本事情

ピケティ解説雑誌記事からの無断コピペ。 森口千晶 [google]と Emmanuel Saez の研究が出典らしい。

■ 上の図の段差こそが、戦前と戦後の段差である。

戦後、圧倒的に不労所得、資本からのアガリを得て「寝て暮らす」階級が没落した。

戦争の結果である。


https://twitter.com/YANA1945/status/613228840542801920 (← 現在存在しません)

第二次世界大戦の原因は、持たざる国・持たざる人びとの反逆だ。 戦争は民主勢力の躍進の中で起こった !

支那事変が収拾がつかなくなったことについての現在の物語は、「軍国主義/ファシズムと右翼」がやった のだというものがある。1980年頃までは、全くその物語で戦後日本は充満していた。でも、伊藤隆など「ファシズム」概念の再検討の研究などを例として、 「軍国主義/ファシズムと右翼」神話の神通力はなくなってきている。

むしろ、支那事変(日中戦争)を煽ったのは、「左翼」 (=公然組織としては社会大衆党、非公然としてはコミンテルン) であるという指摘もなされるようになった。そして、何より、支那事変(日中戦争)を煽ったのは、朝日新聞である。愚記事

関連愚記事; ■ 造反戦争としての1941年の対米英宣戦布告

■ 最近知ったこと; 幻の"日本「人民戦線」"

最近、坂野潤治、『昭和史の決定的瞬間』 (Amazon) を読んだ。2004年刊行の本なので、新しくない。この本にたどり着いたいきさつは新刊の伊藤隆、『歴史と私』を読んで、伊藤隆と坂野潤治は若い頃は「盟友」だったが、どうやら、最近は行く道が違ってきたらしいことに気づいたからだ。おいらは、坂野潤治ってよく知らない。一冊、『未完の明治維新』を読んだが、昭和近現代史、特に戦争突入の時期の研究もしているとは知らなかった。

『昭和史の決定的瞬間』読んだ。「ファシズム」という概念を使っている。これは伊藤隆の思想とは違うだろう。おいらも「ファシズム」って、いまだに分からない。どのようにわからないかというと、日本で誰がファシストなのか?指名された例をあまり見ない。もっというと、東条英機はファシストなのか?近衛文麿はファシストなのか?石原莞爾がファシストなのか?ヒトラーやムッソリーニやフランコがファシストであることは皆が認めることだ。でも、日本のファシストは誰なのだ? 

やっぱ、奴か!?

 やっぱ、奴か(画像編)!?

明快な説明をみたことがない。

さて、「ファシズム」という概念を使っているが、やはり、戦争遂行勢力、戦争協力勢力というのは資本主義に反感を持つ「左翼」、具体的には社会大衆党の(一部)という坂野潤治の検討。

さらにびっくりしたのは、満州事変~支那事変の時期に、日本で「人民戦線」勢力を探そうとする歴史的検討。この検討の根拠は、満州事変~支那事変の時期に実際にその当時の人が雑誌『改造』、『中央公論』で「人民戦線」論を論じていたという事実。

でも、日本での「人民戦線」勢力って、民政党などの既成「ブルジョア」政党である。

そして、もっとびっくりしたのは、清沢 洌(wiki)が人民戦線論を論じていたということ。ネットでみれる情報⇒ 清沢 洌の人民戦線論

おいらが、四半世紀前に読んだ 北岡伸一の『清沢 洌』(Amazon①  Amazon② )には「人民戦線」なんて出て来たかしら。今、ざっと読み返すと、出てない! (今、気づいたが、北岡伸一の『清沢 洌』は2種あるようだ; ①-日米関係への洞察、 ②-外交評論の運命)

「人民戦線」派は宇垣成一内閣の実現を望み、図ったが流産。 流産の原因は陸軍の拒否であるから、やはり、「ファシスト」は陸軍なのか?

清沢 洌は近衛文麿を当時批判していた。清沢が「人民戦線」派なら、やっぱり、近衛文麿がファシストか!?

この画像で、近衛文麿がファシストとは立証できないが、近衛文麿がヒトラーをおぞましくて、拒否すべきものであったと思っていなかったことの証拠にはなる。 支那事変勃発(盧溝橋事件)の三か月前の画像だ;

もっとも、誰かにいわせれば、「この仮装は近衛がコミンテルンの手先であることを隠蔽するための偽装ファシストコスプレなのだ!」ということになるのであろう。

国家総動員法や大政翼賛会による立憲自由主義議会制デモクラシー破壊に猛反対した鳩山一郎は、これより前に日記(昭和十五年十一月一日の条)に、「近衛時代に於ける政府の施設凡てコミンテルンのテーゼに基く。寔に怖るべし。一身を犠牲にして御奉公すべき時期の近づくを痛感す」と書いていた。 (wikipedia 近衛文麿 より)

 

 


旧山本有三邸、これで月額家賃23,490円 (今の価値で);

2015年06月21日 20時29分25秒 | 日本事情


(関連愚記事;ぐるっとパス使用記録5; 府中、三鷹方面


Google画像

現在、三鷹市山本有三記念館となっている旧山本有三邸は、敗戦後の占領時代には接収され、米軍将校が住んでいた。

戦中、5回に渡る空襲でも戦火を免れた三鷹の家ですが、進駐軍に接収されることとなり1946(昭和21)年11月に有三はやむなく転居。その後も有三が 三鷹に戻ることはありませんでした。1951(昭和26)年に接収が解除された建物は、国立国語研究所三鷹分室として利用
      (記念館の沿革よりコピペ)

その月額賃料は496円である。 この496円の現在での価値を計算した。


三鷹市山本有三記念館の賃貸し契約書の展示より

昭和24年の大卒公務員(のちの上級公務員)の月給が4,223円であるらしい(根拠)。

現在の大卒上級公務員の初任給を20万円とすると、当時の貨幣価値を推定する換算率は47分の1ということになる。

当時の月額家賃496円に47を掛けると、23,490円となる。

この496円でこの豪邸に住んでいた将校さまは、朝霞のCamp Drake(wiki)に勤務であったと三鷹市山本有三記念館の案内の人が教えてくれた。朝霞のCamp Drake勤務の将校にしては、最西南の居住地であったとも教えてくれた。

■ なお、山本有三は一高で近衛文麿と同級生であり、かつ親しかったらしい。

ところで、あの荻外荘は占領軍に接収されなかったのだろうか?


新しい街でもぶどう記録;第34週

2015年06月20日 20時11分43秒 | 草花野菜

■今週の看猫

■今週の twiiter アイコン

https://twitter.com/Warabe_Sadao

twiiterをやるひとは、 アイコンをしばしば変える。 この人の「巴金」アイコンがどれくらいもっているのかわからない。それにしても、なぜ「巴金」(google画像)なのかわからない。ツイート内容から見ても、関係なさそうだ。そもそも4000人あまりのフォロワーの内何人がこのアイコンが「巴金」って知っているのだろうか?さらには、4000人あまりのフォロワーは、「巴金」って読めねぇ~じゃないの? ちなみに、「巴金」=ばきん、じゃねぇ~ぞ! Bā Jīn だぞ! (関連愚記事; 巴金は、老舎と違って、文化大革命の10年を生き延びたのだ。

上のツイート画像コピペは、なぜ「巴金」なのか?という疑問にいくばくかでも近い内容のものである。

■ 今週の献本/謹呈本転売

平凡社の東洋文庫の『尾崎秀実時評集 -日中戦争期の東アジア-』、米谷匡史編集を古本で買った(新刊は在庫切れらしい)。安くない⇒Amazonで5000円近く

購入動機は、やはり、「亡国の真実」認識への希求。

盧溝橋事件の後の支那事変(日中戦争)の炎上の足が早く、とどまるところを知らず拡大し、結局、1945年の大日本帝国の瓦解と1948年の中華人民共和国の成立となる(関連愚記事; 日帝的鬼子、あるいは、父を求めて三千里  )。

もちろん戦争そのものは軍部がやるのだが、支那事変(日中戦争)の爆発的炎上は国内からの広範な燃料投下があったからだ。

そもそも文官政府が、現実感を失っていた; 「帝国政府は爾後国民政府を相手とせず」、 暴支膺懲

支那事変が収拾がつかなくなったことについての現在の物語は、「軍国主義/ファシズムと右翼」がやったのだというものがある。1980年頃までは、全くその物語で戦後日本は充満していた。でも、伊藤隆など「ファシズム」概念の再検討の研究などを例として、「軍国主義/ファシズムと右翼」神話の神通力はなくなってきている。

むしろ、支那事変(日中戦争)を煽ったのは、「左翼」 (=公然組織としては社会大衆党、非公然としてはコミンテルン) であるという指摘もなされるようになった。そして、何より、支那事変(日中戦争)を煽ったのは、朝日新聞である。

 林芙美子が、陥落1年後の南京から、朝日新聞の報道トラックに乗り何度となく支那兵の死體の上を乗り超えて漢口へ進撃し、作文したのは1938年10月である(愚記事; ある戦争画: 藤田嗣治の肖像素描画;「戦場の女」@最初  )。

その半年前に、尾崎秀実は書いている;

日支事変が始って以来既に八か月の月日が流れてしまった。
 (中略)自分等の村には新しい幾本の墓標が立ち、幾人かの若い友人たちは大陸から永久に帰っては来ない。ふりかえって見ればいつの間にか自分の日常生活の様式にもはっきりと目に見える変化が生じている。
 だが、戦に感傷は禁物である。目前日本国民が与えられている唯一の道は戦に勝つということである。その他に絶対行く道はないということである。
 「前進! 前進!」その声は絶えず呼び続けられなければなるまい。
長期抗戦の行方、雑誌『改造』 1938年5月号

元は朝日新聞の記者で、このときはコミンテルンの工作員でありながら、首相官邸に事務室を持っていた尾崎の言葉だ(愚記事; ■ 尾崎秀実の赫々たる業績、あるいは、尾崎秀実の謎)。

林芙美子がこの文章を読んだかはわからない。でも、『改造』は林芙美子の"故郷"であるから、毎月、無料で献本されていたかもしれない。

シビリアン・サポーティング: 非皇軍メンツによる支那侵略: 「前進! 前進!」

      
首相官邸から    最前線(=front)で
 後衛から     おばかに見せかけて実は前線=front (=前衛) 
 帝大出       放浪でも高女出
共に,朝日新聞社の賜物!という人たち。

彼のために;

日本の皇軍なしには、わたくしたちが権力を奪取することは不可能だったのです。

 さて、購入した新品とみまごう古本の『尾崎秀実時評集 -日中戦争期の東アジア-』、米谷匡史編集を開くと、ぺらっと出てきた;

(謹呈されたのは、満州国生まれで、「私大」出の「私大」教授だ。 実名知りたい? まだ彼は存命らしい。すんだら、愚ブログで情報公開するよ。)

【いか@ 武相境斜面寓 『看猫録』】のアクセス・ランキング

過去1週間の閲覧数・訪問者数とランキング(日別)

日付閲覧数訪問者数ランキング
2015.06.19(金) 872 PV 122 IP 6679 位  / 2205383ブログ
2015.06.18(木) 960 PV 124 IP 6284 位  / 2204703ブログ
2015.06.17(水) 939 PV 97 IP 9184 位  / 2203936ブログ
2015.06.16(火) 893 PV 108 IP 7729 位  / 2203226ブログ
2015.06.15(月) 654 PV 105 IP 7885 位  / 2202401ブログ
2015.06.14(日) 951 PV 116 IP 7102 位  / 2201632ブログ
2015.06.13(土) 860 PV 103 IP 8246 位  / 2200989ブログ

過去3週間の閲覧数・訪問者数とランキング(週別)

日付閲覧数訪問者数ランキング
2015.06.07 ~ 2015.06.13 6688 PV 727 IP 7876 位  / 2200989ブログ
2015.05.31 ~ 2015.06.06 6490 PV 736 IP 7579 位  / 2195915ブログ
2015.05.24 ~ 2015.05.30 6690 PV 738 IP 7623 位  / 2191294ブログ

 


マッカーサー憲法を踏みにじって、抱きしめろ?

2015年06月18日 21時27分08秒 | 日本事情

10年以上も阿呆のように続けた愚ブログを振り返ると、「法学」関連記事は、ほぼない。

おいらは、「マッカーサー憲法[1]を踏みにじれ!」と主張しているが、実は、マッカーサー憲法を全部読んだことはないし、そもそも、読んでも、わからない。

[1]; マッカーサー憲法関連愚記事群

でも、そうしたら、なぜ、「マッカーサー憲法を踏みにじれ!」と主張できるかというと、前文の「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した。」というくだりでバカ馬鹿しくなり、それ以上、読めない。

さて、「護憲派」さまが、われらが安倍ちゃんが「憲法を踏みにじり」、立憲主義に背くものと、激おこプンプン(@死語!)である。

もし、われらが安倍ちゃんが、マッカーサー憲法を踏みにじっているのであれば、おいらも、胸躍ることになるのであるが、

実際のところ、、われらが安倍ちゃんの「集団的自衛権」の法制化で行いたいことの事情は複雑だ。恐れは、ただの米国への「手伝い戦(てつだい いくさ)」合法化に終わってしまうのでないか?ということである。

いきさつ がある。

自衛戦争こそ否定されるべきものであると憲法改正(大日本帝国憲法⇒マッカーサー憲法)の時に、当時の責任者・吉田茂が言った(吉田茂 (内閣総理大臣@自由党党首):「国家正当防衛権に依る戦争は正当なりとせられるようであるが、私は斯くのごときことを認めることが有害であろうと思うのであります。(後略)」 :愚記事)。

自らの国家を自衛する権利を放棄をした憲法こそが、現行のマッカーサー憲法なのである。

憲法制定権力で米国占領軍の目的は「日本国が再び米国の脅威となり又は世界の平和及(および) 安全の脅威とならざることを確実にすること」である。つまりは、日本の非武装化である。 でもそれでは足りなかった。

その吉田茂の眼前で、そして何よりマッカーサーが直面したのが、朝鮮戦争。

現実とは、かく苛酷なり。

マッカーサー憲法によって、日本を丸裸にしたマッカーサー将軍さまは、背に腹を変えられなくなった。

自分の領土=属領日本列島がマジに危なくなったのだ。

(やっぱり大嗤い、平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した

自分が憲法制定権力として実現した「マッカーサー憲法」ではやっていけないなくなったのだ。 マッカーサーの属領ぬっぽん。

「日本"国"が再び米国の脅威とならざることを確実にすること」に合わせて、日本"国"が米軍を支援する軍事組織をもつことが必要になった。

マッカーサーの属領ぬっぽんにも「州兵」は必要なのだ。

マッカーサー将軍さまは、憲法制定=大日本帝国憲法改正の命令と同じ次元から、「自衛隊」(当時は保安隊、警察予備隊)の設立を占領独裁者として「命令」したのだ。

それの現在の姿が、日本国自衛隊=米衛隊である。 設立者の本義は「米国の利益に奉仕するもの」である。

つまり、「マッカーサー憲法」と「マッカーサー属領軍」は同じ次元の命令(占領独裁者による命令)に源をもつ、並存する「不整合」体なのだ。

「立憲主義」、つまりは、国家の統治は「マッカーサー憲法」に従わなければならないという立場から見ると、集団的自衛権は違憲とみなされるだろう。

一方、国家の統治は 「マッカーサー憲法」 憲法制定者の本義・意志・意図・思想に従わなければならないという立場から見ると、憲法制定者の本義・意志・意図・思想は、日本国自衛隊は属領・保護国における米国の国益に奉仕するための軍事組織であるから、米国に利する集団的自衛権は当然実施しなければいけない。

この立場=憲法制定者の意志・意図・思想に従わなければならないという立場を最高裁判例としたのが、田中耕太郎に他ならない。

今、われらが安倍ちゃんが頼みとする砂川判決をだした裁判官さまだ。

最高裁判事と事実上の宗主国担当者が密会しているのである。

これこそ、「ひそかに情を通じて」いたのである。

判決前にきちんとご主人さまと話をつめていた経緯はこうだ;

砂川事件で政府の跳躍上告を受け入れ、合憲(統治行為論を採用)・下級審差し戻しの判決を下す(1959年12月16日)が、当時の駐日大使ダグラス・マッカーサー2世と外務大臣藤山愛一郎両名による“内密の話し合い”と称した、日米安全保障条約に配慮し優先案件として扱わせるなどの圧力があった事が2008年4月に機密解除となった公文書に[4][5]、またマッカーサー大使には「伊達判決は全くの誤り」と述べ破棄を示唆した事が、2011年に機密解除になった公文書に記されている[6]。 果ては上告審の日程や結論方針をアメリカ側に漏らしていたことが、機密指定解除となったアメリカ側公文書で2013年4月に明らかになった。当該文書によ れば、田中はウイリアム・K・レンハート駐日首席公使に対し、「結審後の評議は、実質的な全員一致を生み出し、世論を揺さぶるもとになる少数意見を回避す るやり方で運ばれることを願っている」と話したとされ、最高裁大法廷が早期に全員一致で米軍基地の存在を「合憲」とする判決が出ることを望んでいたアメリカ側の意向に沿う発言をした[7]。田中は砂川事件上告審判決において、「かりに(中略)それ(=駐留)が違憲であるとしても、とにかく駐留という事実が現に存在する以上は、その事実を尊重し、これに対し適当な保護の途を講ずることは、立法政策上十分是認できる[8]」、あるいは「既定事実を尊重し法的安定性を保つのが法の建前である」との補足意見を述べている[9][10]。 (wikipedia)

なお、「憲法第9条は日本が主権国として持つ固有の自衛権否定しておらず、」(砂川判決)って、やっぱ、すごい変。 まず、吉田茂の「自衛権放棄論」に反している。そして、交戦権なしの自衛権を持ち出している。そんなものあるのか? 交戦権を否定した憲法第9条こそが日本を主権国であることを否定しているのではないか?

まとめ;

われらが安倍ちゃんは護憲勢力(なんとなくリベラル~対中従属派)からは、「憲法を踏みっている!」と非難され、ネトウヨからは、「今回の集団的自衛権容認は米国の国益に奉仕するもであり、「マッカーサー憲法」を抱きしめるものだ!」と罵倒されているのである。

がんばってほしい!、かつてCIAから資金援助を受けていた我らがLDP (放埓愚民党)!


今日の、カタカナ日本語  

2015年06月16日 19時48分25秒 | 日本事情

ブッフェ

カタカナ英語 カタカナ日本語:(愚記事; ビジネス英語なら ベ ル リ ッ ツ) に続く第2弾; 

撮影日は古いが、今もやっている。 銀座東武ホテル NYグリル&ブッフェ 

使い古しのネタです。でも、最近も見ました(上図)。

英語を母語とする人は、「エ」で終わる語を発音できない(少なくとも苦手)。
たぶんフランス語由来であろう、あのお茶を飲むところのcafeをカフェと発音できない。
カフェイとなる。語尾が「エ」で終われずに「ィ」を付けてしまう。
日本でいう「バイキング料理屋」、buffetは、バフェイ。などなど。 (愚記事; 松坂 大好き

ブッフェ buffet の発音;

https://www.youtube.com/watch?v=lesxCSZkLvE

② buffet

buffetは英語のつもりではなく、フランス語?なのだ。だから、「ブッフェ」でいいのだ!ということも想定できます。でも、NYグリル なので、英語なのでしょう。

だから、 ˈbʌfeɪ/ 。

 


ぐるっとパス使用記録8 (最終回);練馬-台東・文京方面

2015年06月14日 19時03分58秒 | 東京・横浜

ぐるっとパス使用記録1; 新宿方面
ぐるっとパス使用記録2;目黒方面、  
ぐるっとパス使用記録3; 多摩方面
ぐるっとパス使用記録4; 渋谷・日本橋方面
ぐるっとパス使用記録5; 府中、三鷹方面
・ぐるっとパス使用記録6; 北区飛鳥山 方面 ; +西ヶ原旧古河邸
ぐるっとパス使用記録7; 墨東(墨田・江東)方面+日本橋蠣殻町 

に続く、第8弾。でも、最終回。ぐるっとパスの有効期限は2か月。なので、今回でお終い。

▼ 50 ちひろ美術館・東京

「ウヨ、お断り」と張り紙がしていなかったので、入る。

・いわさきちひろの履歴紹介展示でみた。ちひろが写っているはたち前(1937年頃)の集合写真(絵画の表彰の集まり)で、藤田嗣治も写っていた。その後の彼女の人生はwikipedia(いわさきちひろ)にもあるように、中国に2回行く。1度目は結婚で大連。旦那さん自殺。2度目は、女子義勇隊に同行して満州・勃利に渡る(同上wiki)。 大日本帝国の尖  民であったのだ。藤田嗣治との1937年の写真がその後の運命を暗示していたってことだ。そして、日帝瓦解後、藤田嗣治はフランス人になり、いわさきちひろは共産党員になり、それぞれの第二の人生を始めたのだ。

・いわさきちひろは、マリー・ローランサンの系譜だったと知る。


google 画像


google 画像

▼ 9 朝倉彫塑館

 

屋上の庭園。ここから見える東京の景観ってひどいね。どっから見てもひどいのだろうけど。

館内は撮影禁止なので、猫は撮れなかった。朝倉文夫は愛猫家(wiki)。ネットで見れる⇒ google [朝倉彫塑館 猫]

▼ 14 文京区立 森鴎外記念館

こういう文学者の展示は難しいとおもうのが、垂れ幕に大きな字でエッセンスを掲げるという手法は、わかりやすい。

鴎外は若い頃相当「とんがって」いたと知って、にこにこできた。 さらには、 のち、「左遷」されて圭角が取れたとの表現を見て、おいらは...。  ...ありがとう、鴎外。 

それにしても、「西欧」に行って、立身出世するってシナリオは、おいらが最後の世代か?20世紀末。そして、やっても成功しなかったのが、おいらだ(関連愚記事; 怪訝そうな毛唐のねえちゃん)。 ...ありがとう、鴎外。

ところで、鴎外= カモメの外って、何だ? (記念館のパンフレットには、諸説あるが、北千住にある<かもめの渡し>という地名に由来するらしい。「<かもめの渡し>は吾妻橋の上流にあり、吉原を指す名称でもありました。遊興の地に近寄らず、遠くはなれて千住にいるという意味が込められています」と書いてあった。)

なお、唐突ではあるが、幸いにも、おいらは、カモメ師に、外[はず] [exclude] されていない。

カモメ師; ブログが無い時代から、デジカメ画像で「絵日記」をやっていた人。 一度、「デート」したことがある。 10年以上前のことだが...。 その頃、おいらは「東京」をほとんど知らなかった。

森鴎外記念館、なんか、コンクリの建物の方が印象に残った。