- 日 帝 的 鬼 子 -
日本鬼子といえば支那人が我らにくれる 「尊称」 に他ならない。
極右のおいらは、日本鬼子という称号は、案外、好きである。
なぜなら、蛆虫、などという称号よりましな気がするからだ。
ぬんげんたるもの、同じ忌避されるのであれば、バカにされるより、恐れられる方がマシなのだ!と極右のおいらは思う。
―日帝鬼子: 身に余る御尊顔像 (愚記事より)―
そして、支那人どもは我らがぬっぽんへの称号として、「偽毛唐」(関連愚記事群)だの、「米奴」 (=米国に従属した奴隷)だの、「米尻穴舐め野郎」、などとは言わないのだ。
もっとも、、「米国」(ぬっぽんご)は、現代支那語では「美国」であるので、 「米奴」 (=米国に従属したアメリアの奴隷)は「美奴」となる。
いうまでもなく、われらが倭人が「米帝」というアメリカに向ける罵倒語も、かの国では、「美帝」である。 だから、「打倒! 美帝」となる。 こんな風だ;
もし、支那人どもが、我らがぬっぽんへの称号として、美奴 と言えば、うっかり者のわれらがぬっぽんずんは、美しい奴隷とまつがってしまうかもしれない。
而して(しこうして)、現代支那語に従うと、米尻穴舐め野郎は、美尻穴舐め野郎となる。美尻穴舐め野郎と聞いて、うっかり者のわれらが身過ぎ世過ぎの俗流ぬっぽんずんは、美人のケツの穴舐めて生きていければそれでいいではないか!と思うべな。
さて、鬼子に戻る。
日本鬼子と言えば、われわれぬっぽんずんではあるが、日帝的鬼子といえばやつらの「尊師たち」である。
日帝的鬼子とは、日帝の鬼子という意味。 日帝の鬼子とは日帝が産み出した鬼子のこと。
現在の日本の「保守」勢力は、支那事変が侵略であるか!?否か!?に御執心である。
でも、われらが大日本帝国の最大の「失敗」は、奴らを出来(しゅったい)させたことである。
つまり、大日本帝国の最大の「負」の遺産は、支那大陸の中国共産党による支配を実現させたことである。
近衛文麿内閣が支那事変を起こした時、奴らはきわめてマイナー(少数派)であった。
それを育てたのが、われらが大日本帝国に他ならない。 育てたどころか、親かもしれない。
当の毛沢東は言っているそうじゃないか;
昭和39(1964)年、日本社会党委員長の佐々木更三は、人民大会堂で毛沢東と会った際、無知にも、次のようなことをほざいてしまった。 「今日、毛主席からひじょうに寛大なお話をうかがいました。過去、日本の軍国主義が中国を侵略してみなさんに大へんご迷惑をおかけしたことを申し訳なく思います」
それに対して毛沢東は以下のように答えた。
「なにもあやまることはありません。日本軍国主義は中国に大きな利益をもたらしました。おかげで、中国人民は権力を奪取しました。日本の皇軍なしには、わたくしたちが権力を奪取することは不可能だったのです。この点で、わたしとあなたの間には、意見の相違と矛盾がありますね」 (コピぺ元)
この毛沢東の発言は有名ではある。 この解釈は、嫌味だ!皮肉だ!というものが主流である。
でも、これは文字通りに受け止めるべきなのだ。 日帝が上海事変の後、支那大陸に深入りした/ひきずりこまれた結果、日帝的鬼子はすくすくと育ったのだ。 近衛文麿が実は、歴史的狡知により日帝的鬼子=中国共産党の出現を待ちわびていたことは既に愚ブログで言及した(帝国と真に提携するに足る新興支那政権の成立発展を期待)、 日本政府 内閣官邸にコミンテルンがいた日々、 国が亡びたのだから、目先の正邪ではなく、挑発にのったことが まぬけ なのだ。
さて、現世ぬっぽんの「保守」勢力の最大関心事は、日本の謝罪問題であり、結局のところ、「ボクちゃん、ちっとも悪くない!」といいたいのだ。だから、支那大陸に中国共産党が出来させたことには何ら責任を持とうしないのだ。すなわち、大躍進だの、文化大革命だの、日帝よりよっぽど支那人を殺しまくっている集団=中国共産党を見ても、我らが大日本帝国が戦争に勝って支那大陸を統治さえしていれば、大躍進だの、文化大革命だのもなかったのだ!
多くのいたいけな支那人も大量に死ぬこともなかったのだ!
八紘一宇の実現の失敗だ!
と絶望して壁にアタマをぶつけて死んじゃう「保守」勢力は戦後日本にはいなかったのだ。
■ 大日本帝国の最大の「失敗」作=日帝的鬼子=中国共産党は、闘争が本業である。
struggle for recognition ! = 認知闘争。 人間たる本質である。
日帝的鬼子は、とうちゃんに会いたかったのだ。
(アタマがいか@レテイルおいらが思うに、毛沢東って、日帝が大好きだったんだょ。 まつがいない。)
中国共産党の長征こそ、父を求めて三千里の一里塚に過ぎなかったのだ。
- 日帝的鬼子、父との再会 - (でも、ぬっぽん父は役者不足ではないか!)
最近のやんちゃっ子(日帝的鬼子孫)のキム・ジョンウンの側近粛清は、支那風ではない。毛沢東とは正反対である。どういう意味かというと、キム・ジョンウンの側近粛清は、権力の消費、なのである。その粛清によって権力は増大しない。
一方、毛沢東の闘争は「敵」をうまく選ぶ。その敵を選ぶ条件は、その敵との長期的闘争で自らの権力を増加させる、自分への求心力を高めることにある。
文革をみればわかるように、毛沢東は政敵の劉少奇を瞬殺しなかった。むしろ、わざと殺さず、元々味方でなかった者どもを劉少奇討伐に向かわせる動員を実現させた。
この毛沢東の闘争の基本は対日戦争からそうであり、当時マイナーでしかなかったセクト=中国共産党を、日帝を敵として、闘争のため全中国を動員していったのだ。
われらが大日本帝国こそいい面の皮で、中共出来の出汁にされたのだ。
▼ 父を求めて三千里
ネットで拾った画像。 日帝最後の皇帝に会ったのは、さんでした。