宇和島で桜開花。報道では全国トップとあるが、沖縄より早いのか?あるいは、沖縄にはソメイヨシノがないのかな?
さて、宇和島。竹雀系。 江戸時代は宇和島・伊達家。 藩祖は伊達秀宗、伊達政宗の長庶子。ママは「猫御前」こと側室の新造方。ちなみに秀宗は長じて井伊直政の娘と結婚。井伊家のラッキーアイテムは「招き猫」。生まれながらの ねこ・えりーと です。(←どんなエリートなんだ!?)
秀宗の「秀」は、豊臣秀吉の秀。がきんちょのころ、「人質」としてママの猫御前とともに秀吉の近くで育つ。豊臣姓を与えられ、秀吉チルドレンとして成長。しかし、秀吉が死に、関が原の戦い、そして弟にして正妻の子伊達忠宗が仙台の正嫡となる。世の中が豊臣から徳川に移るなか、豊臣の色がついている秀宗の運命は必ずしも明るくないだろうとみなされていただろう。
そんな、秀宗が家康から宇和島10万石をもらった。10万石以上を大藩という人もある。政宗も秀宗が大名になっても3万石か5万石くらいだろうと踏んでいたらしく、驚いたらしい。そんなことより、この宇和島10万石が江戸幕府の幕引きに一役も二役も買うとは家康もあの世で驚いていることであろう。
伊達宗城(むねなり):幕末の宇和島伊達家藩主。いわゆる幕末の有志大名(島津久光、松平慶永=春嶽、山内豊信、伊達宗城)のひとりで四候会議を京都でもち幕府と朝廷の調整をする。この4人(伝統的政治家)になんかしてもらって、なんかさせてどうにかしようと絵図を描いていたのが西郷・大久保(ちんぴらにーちゃん)である。宗城はいわゆる開明的大名であり島津とのつながりがあった。この4人は、明治維新では、最終的に裏切られたといってよい御仁たちであるが、彼ら徳川幕府の大政奉還への道を整え、最後に西郷・大久保・岩倉がクーデターを起こし、政権を捏造した。
のち、戊辰戦争。仙台は奥羽越列藩同盟の要として戦うも敗北。最後は、相馬口(仙台伊達領の南の境)で仙台藩降伏使節が嘆願書を提出し降参した。その時、伊達家の誼ということか、宇和島伊達家が立ち会っている。維新後は、宇和島伊達家は伯爵。一方、仙台伊達家も伯爵。本来は仙台が宗家であるのに、同格になったのは維新の功績にほかならない。
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いつか行きたい宇和島城。もともとは藤堂高虎がつくりました
上の写真はここからいただきますた。
グッバイちょんまげって、なんというタイトルじゃ~。2重にまぬけだ。
先日再放送していた。おいらは、「日本人」は髷を落としたときから威厳を失い現状の属領民状態になった、とおもう。
で、お話は むつひと さんが率先して髷をやめますた、というお話。
岩倉は元来慣習維持を期待されている役割であるが、条約改正のための渡欧米で途中米国で髷をやめた。
ばかな奴だ。条約改正は国力の増加を担保に行われるべきで、端的に言って軍事力である。髷のあるなしなんて関係ないだろう。ほんと、ばかだな。毛唐さんみたい格好をしたら条約改正できると思う 知力 が哀しい。
というかこの問題は、看羊 問題もあわせて難しい問題である。今後考察したい。
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みんなで ちょんまげ やめますた。薩長政権はやめて、ざんぎりぼーず政権と呼んであげませう。
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この現在御茶ノ水駅付近の神田川は家康の時代に、伊達政宗が命じられ台地を割ってつくったとのこと。仙台掘
のち、万治3年・1660年、江戸幕府4代将軍・家綱の頃、伊達家3代藩主・綱宗は 小石川掘割 を幕府より命じられる が、その年、その伊達綱宗は幕府から逼塞を命じられ、藩主は4代目綱村となる。綱宗が藩主になったのは1658年であるので在位わずか2年。伊達騒動のはじまりである。その史実をもとにしたのが歌舞伎の伽羅先代萩【めいぼくせんだいはぎ】。
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「茗渓」とは、「御茶ノ水」の雅称らしい。なぜ、雅称があるかといえば、多分江戸時代漢詩なんぞをつくるとき自分達がいる土地を「泥臭い」名前でよぶより、唐様でよんだほうがその気になれるということかな?江戸っ子を羊を看るように暮らしてたのかな(看羊録)?湯島聖堂に通っていた秀才ちゃんたちは?
↓遠目でみた湯島聖堂敷地
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でも、この雅称・茗渓の神経って、現在の「六本木ヒルズ」に通じているんじゃないか?南セントレアがこっぱずかしいのは確かであるが、六本木ヒルズは許されるという東京の雰囲気はおかしいんでないかい?
お茶の水を歩く。
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お茶の水は楽器屋が多いとはじめて知る。
リッケン620
19万も持っていない
御茶ノ水
の意味がはじめてわかった。
神保町へ。
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神保町で買出し。神保町は値段が高い。ネットで価格を知っている古本が神保町ではかなり高く平然と売っている。ほんと神保町で古本漁りしながら同時にネットの全国古書検索したい。
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3/8-3/14,かぜひいた。人生でかぜをひいた記憶は5回もない。過去10年では7年前に一度。
悪寒が激しかった。悪寒で、夜中眠りが浅く、悪夢も見る。
めったにかぜひかない=免疫力強いはず⇒そんなおいらがかぜ⇒これはとても強いインフルエンザウイルスだろう、と思い医者へ。
今はインフルエンザウイルスを5分で検出できる。検査した。違った。インフルエンザじゃない。
あ~、ただのかぜだ。おいらは、ただのかぜをひくようになっちまったんだ。
%$はかぜひかない、というが、おいらは絶対%&にとどまり、かぜなんかひきたくない。
まずは、「北風小僧の寒太郎」を唄いませう!
昭和20年3月18日、終戦工作開始、あるいは、終戦ピクニック計画
昭和20年3月18日、東京大空襲の8日後、惨状を視察する ひろひと さん。
深川富岡八幡宮あたりを歩かれたらしい。
60年前の今夜、東京の下町がB-29の焼夷弾で焼き尽くされた。生きながら炎に焼かれ死んだ人は10万人といわれている。
さて、その一般人を焼き殺したこの作戦は用意周到に計画されたもので、日本の、特に東京下町の、家屋は木造なので、爆弾で吹き飛ばすのではなく、油脂を撒いて炎上させ家屋も人間も焼き尽くせばいいという考えである。そして、実行された。焼夷弾というのは油が撒かれ、発火する。人の上に焼夷弾がくると油を浴びそれに火が着く。そして火達磨になる。そういう体験して生き残ったひとの証言を知りたい人は田中美知太郎の自伝をお読みいただきたい。
指揮者、ルメイ。
--小林よしのり、『戦争論』より。--
これだけなら、別段ブログに書くこともないだろう。戦争なら殺されることもあれば、あまつさえ国家総力戦であったのだから、銃後もひったくれもない、と。
しかし、このルメイ、昭和39年に、
勲一等旭日大綬章
を日本政府から授与されている。
叙勲の立役者は当時の佐藤栄作首相、そして航空自衛隊の源田実とのこと。もちろん、叙勲の理由は東京爆撃ではなく、航空自衛隊の創設である。叙勲への経緯はよくわからないが、勲一等旭日大綬章 という高い位の勲章なら、天皇の事実上の裁可が必要であったのではないだろうか?違うという意見もあるが、その人は証拠を挙げていない(例えば、西岡朗『保守主義者の信義を問う』)。
逆に、ひろひとさんが承認したのでは、という傍証としておいらが注目しているのは;中曽根康弘氏が首相時代岸信介氏の正二位大勲位菊花賞の叙勲を、総理府賞勲局からの奏請案に基づいて、直接ひろひとさんに奏請した。首相はひろひとさんの前で功績調書を読み上げるそうだ。この件(岸元首相)については、ひろひとさんは「やや時間をかけてお考えになられて、『そういうことであるならば承認する』と」承諾したとのこと(『自省録』中曽根康弘 2004)。
菊花賞と旭日大綬章では位が違うので簡単に推定できないが、旭日大綬章とは言え、さらに航空自衛隊の創設に尽力したからと言って、一般人を10万人も焼き殺した人間に焼き殺された民の君主が褒章するとなれば、皇室の権威は陰り、もの言わぬ庶民の人心も離れていくであろうことを、ひろひとさんは心配しなかったのであろうか?
勲章あげちゃいました!
叙勲認めました。
さて、ひろひとさんのルメイ褒章問題は極めて意義深い思考をおいらにさせる。
●航空自衛隊の創設に尽力したというが、自国の無辜を10万人も焼き殺す人間に、自国の防衛について助けを請わなければならなかった哀れさ。戦後日本の航空自衛隊は無辜をみだりに殺す将軍に指導され創立した、「植民地」軍であることの改めての確認。
●上記小林よしのりの『戦争論』ではルメーの鬼畜性について言及しているが、戦後の航空自衛隊との関係には言及していない。つまり、航空自衛隊こそ元祖「ポチ保守」であることには言及していない。日本の自衛隊を自衛隊ではなく 米衛隊 だ!といったのは江藤淳である。 自衛隊こそ元祖ポチ保守であること。
以上のことは、既にわかっていたことではある。
●最後に、恐ろしい仮説が、頭に生じざるを得ない。
ひろひとさん こそが、元祖ポチ保守 ではないか!?ということである。
この考察については後日書きたい。