いか@ 筑豊境 寓 『看猫録』

Across a Death Valley with my own Distilled Resentment

新しい街でもぶどう記録;第307週

2020年09月26日 18時48分08秒 | 草花野菜

▲ 今週の看猫;みけちゃん
▼ 新しい街でもぶどう記録;第307週

■ 今週の武相境斜面

■ 今週の草木花実

■ 今週の弦巻発条

■ 今週の撥水(はっすい)

■ 今週の毛細管現象


画像:上のペン;インクが漏洩したもの、下のペン;通常のペン本体、ただし、ポケットに引っかえる部分が折れている。最下部は替え芯の箱

ユニボール、シグノというペンを使っている。仕事場ではラボノートを書くため、家では日記を書くため使っている。ペン先ボールが0.38mmで細い。今週、仕事場のシグノのインクが派手に漏れた。ただし、ペン本体内での漏洩で、外への被害はなかった。このペン本体は、おそらく、2-3年は使っているだろう。ペン芯は取り換える。ペン芯は箱で買っている。さて、なぜインク漏れをしたのかググると、製造メーカーの解説があった。数年使っているので、キャップがゆるゆるになりつつあった。したがって、ペンの先端が収まる細孔がも緩んでいたのだろう。下図の解説にあるように、インクが、毛細管現象で漏れ出したのだ。

https://www.mpuni.co.jp/customer/ans_12a3.html

■ 今週の認識

 ある日、何かが僕たちの心を捉える。なんでもいい、些細なことだ。バラの蕾、失くした帽子、子供の頃に気に入っていたセーター、古いジーン・ピットーニーのレコード・・・・、もはやどこにも行き場所のないささやかなものたちの羅列だ。 (村上春樹、『1973年のピンボール』)


YouTube:  Gene Pitney - Louisiana Mama

35年前から何度も読んでいる『1973年のピンボール』。昨日、認識した。ジーン・ピットーニー。もちろんこれまでこの本を読んだのだから、「ジーン・ピットーニー」は目に入っていたはずだ。知らない固有名詞。レコードとあるのだから、ミュージシャンなのであろうと、読み飛ばしていたのだ。昨日、あの『Louisiana Mama』を唄っている歌手と認識した。

■ 今週の「ワシントン・ハイツ」[1] 情報

[1] 愚ブログに現れる「ワシントン・ハイツ


YouTube:飯田久彦  ルイジアナ・ママ 1961 / Louisiana Mama

『Louisiana Mama』を日本語にして唄っていたのが、飯田久彦。ネットで見つけた;

飯田:そうやって歌ってるうちに、事務所の社長とかの口伝てでレコード会社の人が来て、「やってみないか?」みたいな話になって…。バンドボーイで歌ってる頃はね、外人の女の子にモテたんですよ。日劇にも出てカバーソングとか歌ってたら、外人の女の子のファンがついたんです。当時ワシントン・ハイツとかグランド・ハイツっていうキャンプがあって、レコードがいっぱいあるから聴きに来ないとか言われて、キャンプに行くようになった。今の代々木公園にワシントン・ハイツってのがあって、まだジャニー(ジャニー喜多川氏)さんがそこにいる頃ですよ。そこにはレコードがいっぱいあって聴けるんですけど、歌詞も何もない。こういうボール紙の中にアナログとかバーンと入ってて、それで聴かしてもらうと良い歌があるんですよ。『グッドタイミング』だとかね。 (飯田久彦インタビュー

■ 今週の朝鮮戦争認識

三谷太一郎、『戦後民主主義をどう生きるか』で、朝鮮戦争に対する認識を示している。

朝鮮戦争は史上最も悲惨な事例と認識している。北朝鮮が侵攻したとも認識。そして、毛沢東独裁体制にも言及している。

もっとも、この文章を含む章の主旨は、安倍政権の集団的自衛権容認を批判するもので、安倍政権の集団的自衛権容認というのは不安にかられて現在の国際的無秩序(アナーキー)の中に身を投じようとする態度が現れているのではないかと考え、国際的な無秩序に身を投じることによって秩序を無秩序に変えようとする衝動があると、三谷が感じるということ。過去の2つの集団的自衛権行使として、日英同盟、日独伊三国同盟を挙げ、両者とも戦争に結果したと指摘する。そして、集団的自衛権はよくないとして、その証拠として、三谷が挙げるが中ソ同盟である。

なお大きな戦争へ導いた第二次世界大戦後の集団的自衛権行使の歴史的先例として、一九五〇年一〇月の中国の朝鮮戦争への軍事介入があります。中国はその前年一九四九年一〇月一日に中華人民共和国と中央人民政府の成立を宣言しましたが、一二月一六日、毛沢東はモスクワを訪問し、スターリンとの間の難航した交渉を経て、翌年二月一四日に中ソ友好同盟相互援助条約に調印するわけであります。そして六月二五日北朝鮮が北緯三八度線を越えて韓国に侵攻し、それに対抗して国際安保理決議を経て、米軍主導の国連軍の介入が始まり、その反転攻勢が強まると、中国はそれを中国本土への脅威と受け止め、一〇月二五日厖大な人民義勇軍を投入し、朝鮮戦争に参戦するのであります。朝鮮戦争は中国にとっては、まさに中ソ同盟という軍事同盟に基づく集団的自衛権の行使であったわけでありまして、史上最も悲惨な事例であったというべきであります。ある中国の研究者によりますと、当時日中戦争や国共内戦後間もない中国においては、毛沢東とその側近を除いては、国内世論の大勢は参戦に否定的であったようであります。(陳肇斌「中国市民と朝鮮戦争ー『毛沢東の朝鮮戦争』の陰翳からー」『首都大学東京法学会雑誌』第五六巻第二号、二〇一六年一月、また「中国『知識分子』と朝鮮戦争ー海外派兵・原爆・同盟・租税をめぐってー」同上、第五七巻第一号、二〇一六年七月)。厖大な人名の損失を伴った参戦が毛沢東の絶対的権力の確立に貢献したことは、疑う余地のないことであります。(三谷太一郎、『戦後民主主義をどう生きるか』、Ⅰ政治社会を生きる、1政治社会の変化と集団的自衛権の問題)

そして、三谷は云う;

戦争はひたすら独裁への道である。そのことは本論文(1政治社会の変化と集団的自衛権の問題)が特に取り上げている朝鮮戦争への中国の軍事介入として現れた中ソ友好同盟相互援助条約に基づく集団的自衛権の行使がもたらした政治的結果に明らかである。すなわちそれは「プロレタリアート独裁」として正当化された毛沢東体制の確立であった。

と云っている。つまり、20世紀の「戦後民主主義者」とは違い、北朝鮮、中国が朝鮮戦争の責任者であるという認識をもっていると思える。ただし、安倍政権の日本の集団的自衛権行使正当化は、「毛沢東体制の確立」「史上最も悲惨な事例」のような事態へ導くものと三谷は認識しているのだ。

■ 今週の「」付き

https://twitter.com/loveKAKIPEANUTS/status/1309301800885866496

第41回石橋湛山賞を受賞した、山本章子、『日米地位協定』の副題に「同盟」とある。「」がついている。

この「」に込めた意図は何なのだろう? 日米安保体制を「日米同盟」であるとの認識は1980年以降のことである。でも、今では遡って、サンフランシスコ講和条約の時に結んだ旧安保をして日米同盟が始まったと外交官が言っている。旧安保は、内乱条項がある「植民地・駐兵」条約なのに。

日米同盟。 現在、日本外交、ひいては日本政治、そして現在の日本社会の一番重要な条件は「日米同盟」である、と多くの日本人は思っているだろう。これは戦後一貫して続いたものだとも多くの日本人は思っているだろう。

しかしながら、「日米同盟」なんて言葉は、池田勇人の時代や佐藤栄作の時代、そして福田赳夫の時代にもなかったのだ。もちろん、吉田茂の時代には、当然、ない。 (愚記事より)


米陸軍第1騎兵師団の歴史宣伝での誤り;近衛と東條を間違えている

2020年09月22日 15時48分51秒 | 東京・横浜

引用元;第1騎兵師団 日本占領 1945-1950

(どうでもいいことですが、誤りを見つけたので、鬼の首を捕ったように報告します。)

米陸軍第1騎兵師団というのがある。今もある。かつて、敗戦直後の東京に進駐した師団だ(関連愚記事;①マ元のペット;第1騎兵師団 (1st cavalry division)、朝鮮戦争で苦戦(一部壊滅)し、主なき東京ではなく、札幌へ帰還、1945年夏の敗戦、東京入城の米軍は八王子方面から)。

その米陸軍第1騎兵師団のweb siteには師団の歴史が紹介されており、東京占領の章もある。その章に示されているのが上の画像。「逮捕の時自殺を図った東條」という題。

まつがい

この画像は、近衛文麿が服毒自殺[1]した時に検死をする第1騎兵師団兵士と近衛の画像である。

[1] 林千勝は『近衛文麿 野望と挫折』(Amazon)で、近衛は「謀殺」されたとの"大胆"な仮説を提示している。

第1騎兵師団の歴史宣伝での上記画像を説明する文章は;

On 11 September, members of the 1st Cavalry Division assisted in frustrating the suicide attempt of Hideki Tojo, war-time premier of Japan, whose name had been placed at the head of the list of Japanese war criminals. As he was being arrested, Tojo shot himself in the right lung with his small service revolver, but before he could die the death of a martyr, he was given a blood transfusion, emergency medical treatment and evacuated from his residence in a 1st Cavalry ambulance. He survived to stand trial by the International Tribunal.

9月11日、第1騎兵師団のメンバーが、日本の戦時首相である東條英樹氏の自殺未遂に際し、彼を助けました。逮捕されている最中、東条は自分の小さな軍用リボルバーで右肺を撃ちましたが、殉教者として死ぬこともなく、輸血、緊急医療を受け、第1騎兵隊の救急病院に運ばれた 。彼は生き残り、国際法廷で裁判にかけられた。

 

 

 


東京散歩;池袋 ⇒ 江戸川公園 ⇒ 神楽坂 ⇒ 神保町

2020年09月21日 13時53分43秒 | 東京・横浜

1:池袋駅、2:雑司ヶ谷墓地、3:江戸川公園。4:九段下駅、5:神保町

■ 1.池袋 ⇒ 2.雑司ヶ谷墓地・護国寺・首都高5号線

宮城県 ふるさとプラザ(web site

東池袋公園

巣鴨プリズン跡

東京都豊島区立東池袋中央公園

石碑の裏にある碑文は;

第二次世界大戦後、東京市ヶ谷において極東軍事裁判が課した刑および他の連合国戦争犯罪法廷が課した一部の刑が、この地で執行された。戦争による悲劇を繰り返さないため、この地に前述の遺跡とし、この碑を建立する。昭和55年6月

IKE-Sun park (web site)

都電の線路を越えて東へ

一般社団法人 中国研究所 (web site

a:池袋駅、b:巣鴨プリズン跡、c:都電線路を渡る、d:雑司ヶ谷墓地

地形概観:池袋駅が乗っているのは豊島台地。武蔵野台地。図中cで谷が見える。都電を越えると緩い下り坂で谷に降りる。この谷を走っているのが春日通り。今回の散歩は春日通りに沿わず、南側の台地に乗った。その台地への階段が上の画像の大塚六丁目の階段。台地に乗ると平坦地。上の画像の左に壁が見えるのは、護国寺の壁。上の地形図の□dから谷が始まる。この谷筋に首都高が走っている。地上では音羽通り。

■ 2.雑司ヶ谷墓地・護国寺・首都高5号線 ⇒ 3.江戸川公園

首都高5号池袋線の高架

音羽通り。

旧・大日本雄辯會 (wiki

音羽通りから目白台方面を見る。高台に登る坂が見える。

神田川

地形概観:目白台地の東側の谷を走る音羽通りを南下。神田川に出る。江戸川公園。

■ 3.江戸川橋公園 ⇒ 4.九段下駅

赤城神社

神楽坂

地形概観:神田川が流れる低地(沖積平野)を右折して、南下。かなりなめされた台地を登る。上の画像の築地町。このあたりの台地(残丘)の最高地に赤城神社がある。赤城神社の南側には開析されて谷となった部分。さらに南は台地。この下りと登り、さらに下りが神楽坂の通り。江戸城外堀に出る。

■ 4.JR九段下駅 ⇒ 5.神保町

坂留橋

西神田交叉点

東方学会。 建築年:大正15(1926)年/構造:RC3階/設計

神保町

昭和5(1930)年頃に竣工した旧相互無尽会社ビル

 

 
 

新しい街でもぶどう記録;第306週

2020年09月19日 19時23分20秒 | 草花野菜

▲ 今週の看猫;みけちゃん
▼ 新しい街でもぶどう記録;第306週

■ 今週のよその猫

都内豊島区、東池袋中央公園

■ 今週の武相境

武相境最低地;鶴見川

■ 今週の小田急

新宿へ向かう小田急線。午前9時台の各駅停車。特急はとても混んでいた。

小田急の小田急線は戦前からの古い路線なので、踏切があるのが特徴。

■ 今週の多摩川

■ 今週のポスター

Google[ドキュメンタリー映画「東京裁判」の4Kデジタルリマスター版]

1985年の映画、『東京裁判』のリニューアルのお知らせ。当時、おいらは劇場で観た。

■ 今週の「昭和の成仏」のために

東京都豊島区立東池袋中央公園

石碑の裏にある碑文は;

第二次世界大戦後、東京市ヶ谷において極東軍事裁判が課した刑および他の連合国戦争犯罪法廷が課した一部の刑が、この地で執行された。戦争による悲劇を繰り返さないため、この地に前述の遺跡とし、この碑を建立する。昭和55年6月

▼ 処刑の後の因縁話

東條英機大将・首相ら、いわゆるA級戦犯はこの地で絞首刑となった。1948年(昭和23年)12月23日。この日が上皇陛下の誕生日であることはよく指摘される。すなわち、戦勝国による日本皇室への牽制と解釈されている。

ところで、東京裁判は戦勝国の委員会が行ったものである。一方、処刑の実務は米陸軍の第八軍が行った。責任者はウォルトン・ウォーカー中将であった。彼は、日本占領の最初の第八軍司令官のアイケルバーガーの後の司令官であった。その第八軍司令官のウォルトン・ウォーカー中将は1950年に勃発した朝鮮戦争で半島に視察した際、事故死する。時は、1950年12月23日深夜。いわゆるA級戦犯が処刑されてちょうど2年後のことだった。

この話はある本で読んで知っていたのだが、有名な話らしく、wiki(ウォルトン・ウォーカー)にも載っていた。

▼ 見当たらなかった処刑映像

東條英機大将らいわゆるA級戦犯で死刑判決を受けた人たちの絞首刑の処刑の様子は映像が残されている。その映像はネガにして(元の白黒映像の白黒を黒白にして)少なくとも1980年代まで広く公開されていた。子供の頃、昼間のテレビ、実録戦争ものドキュメンタリー番組で、やっていた。上記、『東京裁判』でも出てくる。それほど公開されていたのだから、今リンクしようと、YouTubeなどを動画を探したが、直ぐには見つけられなかった。エグいので、非公開になったのだろうか?もっとも、違うアングルからの映像がひとつあった(⇒YouTune

■ 今週の「消えゆく昭和」

昭和5(1930)年頃に竣工した旧相互無尽会社ビルが、解体されるとのこと(google);

■ 今週の夏の終わり

廃棄される扇風機3台

■ 今週のドーナツ屋さん

ドーナツもり(Twitter)神楽坂付近

■ 今週の坂

■ 今週の「マンションポエム」

■ 今週の段丘崖

都内新宿区赤城下町付近

■ 今週の赤

都内池袋
IKEBUS , イケバス (wiki

 


神奈川・東京散歩;市ヶ尾 ⇒ 鉄町 ⇒ 寺家 ⇒ 三輪 ⇒ こどもの国駅

2020年09月13日 14時54分37秒 | 東京・横浜

■1.市ヶ尾警察署 ⇒ 3.鉄町(くろがねまち)


市ヶ尾、国道246高架


青葉警察署


鶴見川

鶴見川沿いの遊歩道脇にあった、ワンダーデコール・イングリッシュコテージ(web site


鉄町(くろがねまち)

■ ⇒ 4.成合町(なりあい) ⇒ 寺家(じげ)⇒  5.都県境

常盤橋際


成合町付近を寺家に向かって進む。この地は鴨志田町であり、成合町は鴨志田町に包囲されている。成合町は、丁番を持たない単独町名で、住民は46人。wikiより。

▼ 寺家

寺家ふるさと村は、横浜市の北西部に位置しています。東京都町田市と川崎市に隣接し、周辺は住宅地に囲まれています。
雑木林の丘に挟まれた「谷戸田」と呼ばれる細長く伸びた水田が幾筋もあり、その奥には静かに水をたたえた溜め池が点在した「昔ながらの横浜の田園風景」が色濃く残っているところです。寺家ふるさと村とは 横浜市

寺家は、新しくとも、鎌倉時代からあるとのこと。

寺家の北方は古来よりの樹木に覆われた丘陵(谷戸をもつ)となっている。東京に抜ける切通しがある。

▼ 横浜市 ⇒ 町田市 

5.横浜市寺家 ⇒ 都県境 ⇒ 6.谷戸 ⇒ 7.三輪 ⇒ 8.鶴見川クリーンセンター

横浜市の最末端。この先、東京。ここが横浜であることを示す表示↓

その先が都県境

ここは東京都。


赤丸;切通し地点、 赤矢印;通過した谷戸

西谷戸横穴墓群

1959年に発見され、現在までに9基が確認されました。7世紀につくられたと推定され、圭頭大刀、鉄鏃、ガラス製玉などの副葬品が発見されました。圭頭大刀は市内で唯一発見されたもので、2016年1月に市の登録文化財になっています。現在はフェンス越しに横穴墓群全体を見渡すことができます。町田市

鶴川女子短期大学は「フェリシアこども短期大学」に生まれ変わりましたweb site

鶴見川クリーンセンター

町田市議会は2月21日、鶴見川クリーンセンター(町田市三輪緑山1)の多目的広場をゼルビアに無償で貸し付ける議案を賛成多数で可決した。敷地面積は約4万888平方メートル。町田市5ヵ年計画17-21の重点事業「スポーツをする場の環境整備」に基づき、「天然芝グラウンド等のスポーツ施設」の用地として活用。相模原町田経済新聞

■ ⇒ 三輪新田けやき通り ⇒ 9.三輪緑山住宅中央入口(T字路のどん突き=尾根道へ出る)


三輪新田けやき通り


三輪新田けやき通りを脇に入って、住宅を見てみる;


三輪緑山、土地価格は坪50万円くらい


三輪新田けやき通りに戻る


三輪緑山住宅中央入口。T字路のどん突き=尾根道へ出る


赤丸が、三輪緑山住宅中央入口。赤矢印が歩いて来た道。


岡上地区

中央を上下(北南)に走っているのが、尾根を走る県道、139。画像で尾根道の右が三輪緑山(造成された住宅地)、右が川崎市、岡上(農地)。土地利用が対照的。


上の図;地形図、下の図;1960年代の航空写真。三輪緑山の宅地造成前。谷戸の様子がわかる。

南北に走る谷戸の南側(下)への末端が、各谷戸にある。その末端を左右(東西)、左斜め上20度ほどの線が東西に走る尾根。つまり、赤丸付近は東西と南北の尾根の交点=最高度地と思われる。

図中の「+」が、現在の「三輪緑山住宅中央入口」の位置。尾根を走る小道が確認できる。

尾根道。このあたり最高標高地。

■ 9.三輪緑山住宅中央入口 ⇒ 10.緑山 ⇒ 11.こどもの国駅

緑山スタジオ。正式には、(株)緑山スタジオ・シティ、というらしい(web site)。

ほんと、緑山。

 

 

 

 

 


新しい街でもぶどう記録;第305週

2020年09月12日 17時42分46秒 | 草花野菜

▲ 今週の看猫;みけちゃん
▼ 新しい街でもぶどう記録;第305週

■ 今週の武相境斜面

■ 今週の空

■ 今週の川;鶴見川

■ 今週の花

■ 今週の「東京への道」;谷戸を抜けて

このあたり、神奈川県横浜市

このあたり、都県境

東京を進む

切通し

切通しを抜けて、初めて見る東京の民家

Google map  神奈川県横浜市青葉区寺家町、寺家ふるさと村から東京都町田市三輪へ抜ける。都県境は赤丸の位置。

 

 


仙台 雨宮地区の更地化;2020

2020年09月09日 19時09分52秒 | 仙台・竹雀・政宗

愚記事:仙台参り 【2015】 雨宮地区;「無用の用」は、220億円にて落札 で、仙台の雨宮地区の「再開発」について書いた。


google map

今日、Googleを、たまたま、見たら、雨宮地区は更地となっていた。もっとも、今日Googleで見ている画像はいつ撮影したものかわからない。今日現在は、もう、建設工事が始まっているかもしれない。いや、始まっているのだろう。

仙台は杜の都とよばれる(こともある)。定禅寺通りや青葉通りの街路樹を見て、なるほど、仙台は杜の都だと思ってしまっては困る。仙台が杜の都であるとは、藩政時代の屋敷の敷地内の樹木をさして、杜の都といっていた(らしい)。定禅寺通りや青葉通りの街路樹は戦後のものだ。そもそも、定禅寺通りや青葉通りという大通りは戦前にはなかった。

樹木を敷地内に持つ区画が、次ぐ次と消えていったのが近代の仙台。戦災で焼け残った樹木を敷地内に持つ区画も消えていくのだ。日本のどこのまちでもいいような街になっていくのだ。


横浜発札幌行 直通寝台列車 ヤンキー・リミテッド@占領軍専用列車

2020年09月06日 20時43分23秒 | 東京・横浜


横浜駅東口駅舎。RTOとあるのはRailway Transportation Officeのことで連合軍専用列車の運行管理、進駐軍将兵への切符販売などを行っていた。昭和21年ごろ。 ※Robert V. Mosier撮影 国立国会図書館 蔵 (引用元

■ おいらは横浜に住んでいる。生まれは札幌だ。最近、占領時代のことを調べていたら、横浜から札幌へ、青函連絡船を経て、直通する寝台列車があったと知る。連合軍専用列車、ヤンキー・リミテッド。札幌で生まれ横浜に住んでいるおいらはこれまで仙台とつくばに住んだことがある。つくばの最寄JR鉄道駅は土浦だ。この連合軍専用列車、<ヤンキー・リミテッド>は土浦も仙台も通るのだ。常磐線回りなのだ。

■ <ヤンキー・リミテッド>;いくつかのひとつ

<ヤンキー・リミテッド>、「Yankee Limited」とは、ヤンキー=アメリカ人限定の列車だと思った。もちろん、占領下なので<われらジャップス>は乗れないのは当然なので、他の連合国軍兵士、例えば、豪兵とか英兵とかが乗れないのかと思った。その背景は、西日本には英連邦軍がいたので、米陸軍の第八軍のみが支配する東日本は、<ヤンキー・リミテッド>なのだろうと思った。

全然、違った。そもそも、リミテッド=limitedとは停まる駅が限定されるという意味なのだ。<ヤンキー・リミテッド>は、いくつかの連合軍専用列車の種類のひとつ。行先の方角で、 「Dixie Limited」(ディキシー・リミテッド、「南部特急」もあるのだ。wikipediaに書いてあった;

    「Allied Limited」(アライド・リミテッド、「連合軍特急」の意) 
    「Dixie Limited」(ディキシー・リミテッド、「南部特急」の意)
    「Yankee Limited」(ヤンキー・リミテッド、「北部特急」の意)
    「Osaka Express」(オオサカ・エクスプレス、「大阪急行」の意)
    「BCOF train」(ビコーフ・トレイン、「英連邦軍列車」の意)
    「Rest Camptrain」(レスト・キャンプトレイン、「休暇客列車」の意)

北に行くので、<ヤンキー・リミテッド>なのだ。もっとも、札幌に進駐した米軍部隊のうち第77歩兵師団はニューヨークの部隊らしいので、ヤンキーでよいのだが、同じく札幌に、この後進駐した第11空挺師団、第一騎兵師団、オクラホマ州兵などは南部の部隊なので、ヤンキーではないのだ。

■ 時刻表

 

横浜発札幌行きは、夜の22時に横浜を出発。翌朝は、まだ仙台。2日目の夜に青函連絡船に運ばれ3日目に日付が変わる寸前に函館を出発。札幌には3日目の朝に到着する。

■ 横浜

横浜は、米陸軍第八軍司令部があった。<ヤンキー・リミテッド>が行く街(東京以外)の米軍の各部隊はすべて、米陸軍第八軍司令部の配下の組織である。

■ 敗戦まで東京駅⇒秋葉原駅構内⇒上野駅という経路はなかった。

<ヤンキー・リミテッド>は、東北・北海道へ向けて、横浜から行くには、東京を抜けて常磐線に乗らないといかない。敗戦までは、この経路の実績はなかったとのこと。占領軍の命令で実現。

■ 土浦

土浦駅にはRTOはなかった。土浦は空爆から免れた。ただし、近隣の海軍霞ヶ浦航空隊はB29の空爆を受けた(阿見大空襲 [google])。敗戦後、海軍霞ヶ浦航空隊は当然進駐軍から武装解除を受けたはずである。第1騎兵師団。ただし、その後進駐軍の基地、駐屯地になった記録はない。この地は茨城県なので、東京の方が近いが、県庁所在地の水戸軍政部の管理下にあったとのこと[出典]。

■ 水戸

水戸には米軍の射爆訓練場があった。<ヤンキー・リミテッド>が常磐線回りの理由のひとつが、この米軍の射爆訓練場に携わる米兵のためであろうか?でも、そうなら、わざわざ夜行に乗る必要もない。なぜ、常磐線回りなのか? <ゆうづる>と同じ理由(東北本線を避ける)か?

■ 仙台


米軍による占領時代、仙台駅舎の北隣におかれたRTO(米軍鉄道輸送司令部) / 昭和20年9月20日開所、昭和27年4月1日廃止 / RTOは米軍駐屯地の最寄駅におかれ、米軍の国鉄側に対する輸送上の要求や駅と進駐軍兵舎(キャンプ)との間の輸送連絡などが主な業務 / 敗戦後、空襲の傷跡が生々しい仙台市内とは対照的に、RTO事務所の前には緑の芝生の広い庭が造られていた / 右隣は戦後2代目の仙台駅舎(昭和24年7月に中間竣工) 引用元

仙台には、第7師団の司令部があった。マッカーサーからラインを辿ると、総司令部(マッカーサー、東京)⇒ 米陸軍第八軍司令部(アイケルバーガー、横浜)⇒ 第7歩兵師団司令部(第11空挺連隊、 仙台)

基地は、Camp Sendai と Camp Schimmelpfennig


Camp Schimmelpfennig (出典) 軍標(CAMPの字の左の馬のマーク)から第1騎兵師団時代の頃(朝鮮戦争後)とわかる。 現在、自衛隊苦竹駐屯地

関連記事;アイケルバーガーが「お召列車」で苦竹への引き込み線で直接来訪。映像がある。


Camp Sendai 仙台市青葉区川内。(出典)川は(当然)広瀬川。川の向かって右側の低地は角五郎。

関連記事:子供ながらに魅せられた陥落街

■ 陸奥市川

 青森県の東北本線・陸奥市川駅は、かつてアメリカ軍の要求で、構内の造成から駅の建物まで全面的に改造させられた。占領下に、引込線の改造やRTOの設置などの要求は多いが、施設全体を作り直した工事は、この駅以外にない。完成した駅を、アメリカ軍の司令官は、「東北の白象」と呼んだという。 (河原匡喜、『連合軍専用列車の時代』)


引用元) 現在に一部が残る占領時代に造られた駅施設

下の図のY字が2つ並んでいる。これがホームを覆う屋根。その左のY字の駅舎側半分が残っている。


図面(河原匡喜、『連合軍専用列車の時代』より)


Camp Haugen  現在、自衛隊八戸駐屯地

敗戦直後は第11空挺師団の第511空挺連隊が進駐した(出典[英語])

1945年8月11日、連隊はルソン島を空路で出発し、沖縄に向かった。1945年8月30日、第511号機は空軍で横浜近くの厚木基地に到着し、市を占領し、平和代表団がミズーリUSSに向かうために出港した停泊地と休戦調印のために立ち寄りました。1945年9月16日、511回目は日本の盛岡に移り、本州北部の岩手県と青森県の占領を始めた。本州の北、青森市まで、盛岡南部から別の企業が駐在していた。1947年1月、散在した部隊が八戸の近くのキャンプハウゲンに移動し始めました。1947年2月に、連隊本部は盛岡からキャンプ・ホーゲンに移転しました。1947年の1月から3月の間に、連隊はT / Oの力に回復しました。(機械語訳)

基地名は、戦死した部隊の司令官 Col. Orin D. Haugen    Jan. 1943 - Feb. 1945 に由来すると思われる。

▼ 朝鮮戦争前後(<ヤンキー・リミテッド>と直接関係しないが、米軍の朝鮮戦争での鉄道輸送について)

●朝鮮戦争勃発時

河原匡喜、『連合軍専用列車の時代』によれば、朝鮮戦争勃発(1950年6月25日)に伴い日本占領米軍が朝鮮半島に動員された様子が、軍事輸送の処理史に残っているという;

陸奥市川駅は東北地区「動乱輸送取扱主要駅」に入っているが、当初は、七月五日、筑前芦屋行き客車四両、貨車一一両の混合列車と、七月七日、大阪行き客車一四両編成の列車の二本だけが処理史に記録されている。

なお、河原匡喜、『連合軍専用列車の時代』では、このキャンプ・ホーゲンの部隊で陸奥市川駅から出動した部隊について、「朝鮮戦争に派遣されたのはキャンプ・ホーゲンの第二四師団の将兵だったと言われる。」と書いている。これは、おそらく違うだろう。確かに、第二四師団は朝鮮半島に動員されたが、駐屯基地は別府であった(根拠)。

では、この朝鮮戦争勃発の時、大規模の列車群で出動した部隊はどの部隊なのか?直接的情報はまだないが、前述の最初にキャンプ・ホーゲンに進駐した第11空挺師団の第511空挺連隊のうちの残留部隊と推定している。

● 補充戦力

出払った後に空になったキャンプ・ホーゲンには、補充戦力としてカリフォルニア州兵の第40歩兵師団(national guard)が進駐した。

1950年9月1日、第40歩兵師団は朝鮮戦争のための現役の連邦軍に再び召集された。1951年3月下旬にカリフォルニア州オークランドとサンフランシスコから出荷されたこの部門は、日本配備されましたはトレーニングのためにれました。次の9か月間、彼らは水陸両用の航空輸送能力と富士山から仙台までの実射訓練に参加しました。 12月23日、部門は韓国に移動するよう警告命令を受けました。師団は1952年1月に韓国に移動しました。(機械語訳 出典

河原匡喜、『連合軍専用列車の時代』には下記記されている;

 昭和二六年春、アメリカ軍の補充として、東北地区にカリフォルニア州第四〇歩兵師団の将兵が進駐した。州兵はアメリカ各州の在郷軍人を主力として年配の将兵が多かったというが、陸奥市川駅には久しぶりに横浜港駅発の部隊輸送となる臨時列車が到着した。
 四月一〇日、一三日、列車三本、客車四四両だった。これらの将兵は一年足らずしか駐留しないで、翌二七ねん一月下旬から二月にかけて部隊が交替した。
 このときは横浜から臨時列車一〇本、客車一三四両が到着し、列車はまた帰還兵を乗せて横浜港駅に向かった。(下線 ikagenki)

帰還兵というのは誤りで朝鮮半島に出兵したのである。第40歩兵師団が出兵して、第二四師団と交代したのだ。そして、その第二四師団がキャンプ・ホーゲンに移動したのだ。

1952年1月、18か月の戦闘で1万人以上の犠牲者を出した第24歩兵師団は、極東劇場の保護区に指定され、韓国から撤退しました。[23]再建のため日本に帰国した。第34歩兵連隊は再編成され、師団は翌年に全力に戻り、韓国ではカリフォルニア陸軍国家警備隊の第40歩兵師団に置き換えられました。(機械翻訳、出典

  ↓1952年3月31日、第24歩兵師団、第19歩兵師団、キャンプ・ホーゲン ↓



出典

■ 青函連絡船

列車を青函連絡船に乗せていたらしい。wikiにある;

青函連絡船での客車航送

1946年(昭和21年)2月の1101・1102列車で開始。日本人が乗る列車に関しては1950年(昭和25年)10月から「みちのく」で開始され、その後さまざまな変遷を経て、1954年(昭和29年)9月26日に発生した「洞爺丸事故」で危険と判断され中止されるまで継続した。その洞爺丸事故で沈没した一等寝台車のマイネフ38 5は1202列車のもので、当初第十一青函丸に積載されて出航したものの途中で引き返し、軍人・軍属とともに洞爺丸に移し替えたものだが、その第十一青函丸もこの台風で破壊され沈没した。 

■ 千歳

函館からは千歳線経由。当時、函館から札幌に行くには小樽回りの函館本線が主流のはず。ただし、米軍基地が千歳にあるので、千歳線回りとなったに違いない。

室蘭本線・千歳線経由での長万部 - 札幌間運転

1946年(昭和21年)11月5日の「Yankee Limited」で開始。1943年(昭和18年)8月1日に国家買収されるまで、現在の千歳線は私鉄の北海道鉄道の経営であり、そのこともあってかこの室蘭本線・千歳線経路での直通旅客列車は運行されたことはなかった。その後、函館本線(小樽)経由よりも同路線(苫小牧)経由の方が勾配が緩いなどといった理由もあり、徐々に小樽経由よりも苫小牧経由の方が同区間のメインルートとなっていき、1986年(昭和61年)11月には小樽経由での直通優等列車は消滅した。wiki


Camp Chitose (出典)


引用元  下青線が千歳駅が最寄り駅の米軍基地、施設; 下赤線が同札幌駅

■ 札幌

終点の札幌駅のRTO施設の画像は見つけられなかった。札幌駅の最寄の米軍基地は、キャンプ・クロフォード

 


新しい街でもぶどう記録;第304週

2020年09月05日 18時12分10秒 | 草花野菜

▲ 今週の看猫;みけちゃん
▼ 新しい街でもぶどう記録;第304週

■ 今週の武相境斜面

■ 今週知った日本語

吐き戻し。ググると、新生児の育児でよく使われる言葉らしい。「戻す」は、「吐く」という言葉が露骨なのでやわらげるための言葉と思う。だから、吐き戻しは加重的表現だと思うだが。吐き戻し=激しい嘔吐という語感か? うちのみけさんが、「吐き戻し」が頻繁なので、買ってみました。

■ 今週の「米帝」(=アメリカ帝国)

先週、「アメリカ帝国」というのが学術用語なのだろうか?と疑問を持った。一方、岩波新書ではアメリカを帝国と称することを指摘した。今週の購書;『20世紀アメリカの夢: 世紀転換期から1970年代 』(岩波新書)  2019年刊 [Amazon] を見てたらあった(上画像)。また、岩波新書だ。しかも、最近だ。

この本で「アメリカ帝国」とアメリカが示されるのは、米西戦争でフィリピンを領有する頃の時代。この時代、ハワイも領有した。さて、こういう認識、つまりアメリカを帝国と見ることに基づくと、日米戦争(1941-1945)は帝国主義間戦争ということになるのだろうか?これは、民主主義対ファシズム/軍国主義の戦争という認識とは異なることになる。

■ 今週知ったこと; Offlimits to all allied forces: 連合国軍兵士立ち入り禁止

占領下のオフリミット(offlimits)って日本人立ち入り禁止ということなんだろうと思っていた。違った、あるいは、違う用法があったのだ。日本人しか入ってはダメという地区があったのだ。逆にいうと、Offlimits to all allied forces 以外の地域は占領軍はどこでも立ち入り可能ということだが。

以前、「今週の非接収地域史跡探訪」を書いた;


「横浜港隣接地帯接収現況図」より。
着色地域が米占領軍接収地域。色の違いは返還の時代の違い。①山下公園、②大桟橋、③中華街、④横浜球場

現在の中華街は、非接収地域だった。さらには、占領軍兵士立ち入り禁止だったのだ。

ちなみにこの頃は、「中華街」とは呼称されておらず、南京街と呼ばれた。

出典;

■ 今週の「共産主義的人間」

マルクスやレーニンについて本を書いている白井聡さん。 

荒井由実のまま夭折すべきだったね。本当に、醜態をさらすより、早く死んだほうがいいと思いますよ。 ご本人の名誉のために。Google

「共産主義的人間」とは、「オレの気に入らない奴は、死ね!殺せ!、滅びろ!」という身もふたもない情念を持つ人のこと。典型例に、非「文明的」なインド社会は、イギリスに滅ぼされて当然という思想(カール・マルクス、『イギリスのインド支配』和訳全文)がある。

なお、貴重な情報がネット(ni_ka 、叛乱論研のこと。 革命と父性 )にあった;

この研究会には、思想家の白井聡さんも参加していたのだけど、白井さんのご著書の『「物質」の蜂起をめざして ―レーニン、「力」の思想―』が課題の会で、長崎浩さんが白井さんのテクストやレーニン観について非常に厳しいご意見やご質問を示し、白井さんはしどろもどろになったりしたことがあった。白井さんは顔を長崎さんから背けながら、「それでも僕はレーニンのそういうところにも惹かれているんで……」と小さな声で仰っていたけれど応答しきれていなかった。長崎さんは強い眼差しで胸を張ったような姿勢で白井さんをみていた。私が意見や疑問を長崎さんに述べてもいつも長崎さんは丁寧だったし厳しいご意見は決して仰らなかった。優しいというのとは違う尊重があった。もちろん白井さんにもその尊重の姿勢は崩していなかったのだけど、長崎さんは白井聡さんのことを一人前の思想家として認めていらしたからこそ、白井さんに厳しいオブジェクションを投げたし返答を求め、白井さんと正面から対峙したのだと感じた。
けれど白井さんはそれからしばらく叛乱論研にいらっしゃらなくなった。みんなは「長崎さんにしばかれたからなぁ……」と言っていた。

(中略)

打ち上げでお酒もすすみ話が盛り上がり、小休止で静かになった時間帯があった。その時、白井さんが脈絡なく急に両腕を天井方向にぐうっと伸ばして、万歳して背伸びするようなポーズで
「あーー、革命してええーーーー!」
とわりと大きな声で満面の笑みで言った。私はふきだしそうになったのだけど、というかふきだしてしまったのだけど、私以外の人は誰も何もリアクションをしなかった。若手評論家さんや編集者さんは白井さんたちとは少し離れたお席で別のお話でわいのわいの盛り上がっていたので気づいていなかった。白井さんのすぐそばでお酒を飲んだりたばこをふかしていらした長崎浩さんと笠井潔さんは、白井さんの言動、背伸びしながらの「あーー、革命してええーーーー!」は、間近なので絶対に見えているし聞こえているはずなのに、ガン無視をしていて見ざる聞かざる言わざるという感じで、静かにそのままお酒やタバコを嗜み続けていらした。

(中略)

白井さんは最近制限選挙に部分的に理解を示したり、ご自分と政治信念や投票行動が異なる人に「判断力のない人々(愚民)」というような言葉を用いて批判をされていて私は悲しく思う。また、「判断力がない人間に参政権を与えるのは不適切」というようなご主張も、自分、或いは自分たちは判断力が常にある特権的な人間だと思い込んでいなければ、できないはずだ。自分の思うように選挙結果がいかなかったからと言って、ある人々に判断力がないとレッテルを貼って参政権に制限をなんて言ってしまったら、それは差別でしかないし子供の思い上がりでしかない。それに異なる政治信念や立場や意見にもどこかでその人なりの理があるのかもしれないと謙虚でなければ、多様な人同士で尊重し合う社会は決して訪れない。

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