いか@ 筑豊境 寓 『看猫録』

Across a Death Valley with my own Distilled Resentment

「奇妙な文革批判の声明」::隣邦の芸術家として座視するに忍びず; あるいは、倭国の反文革四人組@1967

2016年05月31日 06時43分24秒 | 日本事情


「中国の文化大革命に関して学問芸術に自律性を」と会見で声明文を読み上げる三島由紀夫、安倍公房、石川淳、川端康成

([1967年] 2月28日 – 川端康成、三島由紀夫、安部公房、石川淳が帝国ホテルで記者会見し、中国の文化大革命が学問・芸術の自由を圧殺しているとする抗議声明を共同発表する。 [wikipedia (1967年の文学)])

この時点で、老舎は、紅衛兵に、事実上、嬲り殺しにあっていた(関連愚記事; 蒙童、老舎老師を知る、あるいは、文革血祭り第一号、そして、毛唐兵と紅衛兵の間で)。

下記、針生一郎の記述で知った東夷の倭人作家四人組の反「プロレタリア文化大革命」声明の画像をネットで発見! パクって、貼りつける (ソース)。

六七年のはじめ、川端康成、三島由紀夫、石川淳、安倍公房の四人が、「学問・芸術の自由と自律性が、時の権力の恣意によって圧殺されるのは、隣邦の芸術家として座視するに忍びず、左右いずれのイデオロギー的立場をも超えて抗議する」といった、奇妙な文革批判の声明をだした。わたしはある新聞に、それにたいする反論を書いたが、それは第一に、中国文化大革命の主要問題は、芸術対権力といった次元にはない、第二に、四人の作家が中国には芸術の自由がないが、日本にはあると考えているとしたら、思い上がりもはなはだしい、第三に、『憂国』や『英霊の声』で、ヴァルター・ベンヤミンがファシズムの本質として定義した、「政治の耽美主義」への傾斜を濃厚に示した三島が、政治からの芸術の自由を語るのは片腹いたい、といった論旨であった。今となってみれば、この声明が三島の反革命的画策によることは明らかで、その三島と川端はその後「政治の耽美主義」をいっそうあらわにしてあいついで自殺した。 針生一郎、『文化革命の方へ』

 

▼ 参照; マオ派@1960年:文革前@@大躍進(チャイナ全土餓死者累々)直後


マオ大尊師、西園寺公望、亀井勝一郎、大江健三郎
ネオナチがいけないなら毛沢東と写真撮ったやつなんかどうなるんだ出典

● 針生一郎さんがなぜこんなにも文革に入れ込んだのか?不思議だ。針生一郎さんは「中国派」ではなかったらしい。針生一郎自身が旧制大学時代を過ごした片平に1965年に来た老舎も三島ら日本人作家たちが声明を出す前に事実上殺されていたのだ。老舎は自殺に追い込まれた。

なお、上記針生の文章では「イデオロギー」的に三島が非難され、ウヨの三島と川端は、自己破綻して自殺したのだ。ちんけな奴らだったのだ、みたいな言い分だ。一方、共産党時代に盟友だった安倍公房は特に論難されていない。

▼ 針生一郎さんがなぜこんなにも文革に入れ込んだのか?  ひとつおいらが最近知ったことがあった。 もちろん公知。 実は中国文革礼賛は欧米経由という動きもあったのだ。針生一郎自身云っている;

わたしが文化大革命をみずからの課題として自覚しはじめたのは、むしろ外国人との接触をとおしてだといっていい。六七年の春、わたしはベイルートでのAA作家会議に参加したあと、ヨーロッパ諸国をまわり、秋にはアメリカに一カ月滞在したが、いたるところで反戦運動や黒人闘争、民族解放闘争のにない手、学生、婦人、リベラルな市民からさえ、現代世界で現状変革の包括的な展望と力量をそなえているのは、中国だけだという意見をきいた。彼らはおそらく、中国の実状について日本人よりかぎられた情報しか得ていないと思われるにもかかわらず、率直な共感と親近感を語ってやまないのだ。 針生一郎、『文化革命の方へ』


『中国女』(ちゅうごくおんな、原題:La Chinoise、「中国女性」の意)は、1967年(昭和42年)製作・公開のジャン=リュック・ゴダール監督によるフランスの長篇劇映画である。
中華人民共和国が文化大革命のさなかで、その運動が世界の青年層に影響を与えていた1967年初夏のパリを描いた映画である。 (wikipedia

今からみれば、ゴダールの『中国女』は1967年制作、公開なのであるから、文革の欧米インテリへの影響の証左なのだ。

 

 


50年前の今日 [1966.5.29]、北京円明園で紅衛兵が誕生!

2016年05月29日 10時43分50秒 | 中国出張/遊興/中国事情

 


2013年の北京参りにて [愚記事: 北京参り 2013]

北京の北西に円明園がある。天安門広場から10kmくらい。現在では地下鉄でいける [下記地図1参照]。円明園は「西洋楼遺址区の廃墟」として有名。

 清朝の乾隆帝の時代に、円明園の東にイエズス会士のブノワ、カスティリオーネらが設計にかかわった噴水が設けられ、西洋風の建物・西洋楼が建てられた。嘉慶帝の時代にも大規模な修築が行われ、揚州から最高級の建具が取り寄せられた。
 1856年(咸豊6年)に勃発したアロー戦争(第二次アヘン戦争)に際して、北京までフランス・イギリス連合軍が侵入、フランス軍が金目のものを全て略奪したのち、遠征軍司令官エルギン伯の命を受けたイギリス軍が「捕虜が虐待されたことに対する復讐」として徹底的に破壊し、円明園は廃墟となった。(wiki)

おいらが円明園に行ったとき、がきんちょが写生していた。背中からわかる学校名は、清华大学附属中学朝阳学校 [google]。このがきんちょが「紅衛兵」を知っているのかわからない。


地図1

■ 紅衛兵。 1966年5月に毛沢東により発せられたプロレタリア文化大革命の勃発直後に世界の注目の的になったのが武闘と称し文化人など毛沢東派が標的とする人物たちをつるし上げ、暴力を振るい、あまつさえ、殺したりした。彼ら紅衛兵の惹句は「世界を震撼させる」であった。

老舎の死はその一例だ (愚記事; 蒙童、老舎老師を知る、あるいは、文革血祭り第一号、そして、毛唐兵と紅衛兵の間で)。

当時の最初で最大の目標は国家主席である劉少奇の打倒である。国家主席を未成年の造反者が弑逆するのだ。

  

■ 「紅衛兵」誕生

その「紅衛兵」の誕生の日と場所がわかっているというのだ。「紅衛兵」という言葉をつくったのは、張承志。 

張承志著、『紅衛兵の時代』 (岩波新書) に書いてある;

 当時は円明園の廃墟が私たち造反派学生のたまり場になっていた。ここは第二次アヘン戦争の時、英仏侵略軍に焼き払われてからこの当時に至るまで一面の廃墟で、ところどころに水田が点在していた。学校と円明園は一本の通りで隔てられていただけで、付属中の生徒たちは朝早く円明園に行って本を読み、夕方にはここを散歩するのを好んでいた。五月下旬、円明園は私たちの秘密の活動の隠れた基地となり、いつもこの廃墟で状勢を検討し、対策を講じた。私たちの心は、革命者が非合法活動に従事するさいの高揚した感情と、闘争や犠牲へのあこがれに満たされた。

(中略)

 円明園だけが私たちの家だった。かつての戦乱で焼け焦げた石や起伏のある荒れ果てた野原は、隠れ場所を提供しただけでなく、そこに入ると豪放不屈の情念が沸々と湧き上がってきた。私たちが円明園で感じとったものは、中華民族新生への使命感とでも言うべきものだった。修正主義的な精華付中の教育制度のみならず、過去百年来の中華民族の屈辱と没落の歴史が、今やわれわれの奮闘によって終わりを告げようとしているのだ!と。当時十六、七歳だった私たちの心情を正確に描き出すことは、困難であるばかりか、書いたところで到底信じてはもらえないだろう。

「紅衛兵」という言葉は、張承志が精華大学付属中学のクラスの小字報(壁新聞)を貼り出すさいに、張承志のグループに名前をつけることとなり、いくつかの名のなかに「紅衛兵」の名が含まれてた。

 一九六六年五月二九日、私たちの仲間は円明園に入り込んだ。小高い丘の上に桃の木がびっしり植えてあった。私たちは組織を結成することを決めた。
 この日以前には、私は決して中心的な人間ではなかった。

(中略)

 張暁賓(彼は周恩来総理によく似た風格をもち、親しみやすく、人に信頼感を与えた)がこう言った。
「じゃ、ぼくたちは主席が言ったとおり、組織を作ろうぜ」と。
 小鳥の鳴声さながらの歓声、ペチャクチャと長く続いた議論の中味は、その後私の記憶からすっかり薄れてしまった。私が覚えているのは、さんざめく若い声に交じって、高洪旭 [カオホンシュイ] がひときわ高い金切声で叫んだことだ。
 「これからぼくたちは同じ署名を使おう。だれが書いた大字報や小字報にも、自分の名前の前に『紅衛兵』という字を書こう、集団で書く文章には『紅衛兵』と署名しよう・・・・」と。
 私はまっかになり、頭がガーンとなった。私がたまたま思いついたこの名称が、仲間たちにこのように注目され、愛されるなんて思ってもいなかったのだ。
 「紅衛兵だって! そりゃすげえや・・・・」
みんな歓声をあげた。

上記は清華大学付属中学 (ここでの中学とは大学進学前の年齢の生徒用の学校;日本での高校に相当)の造反派の誕生の場面。これが紅衛兵と名乗った最初の文革造反派ということらしい。もっともこれは名目的なことだろう。実際に「実権派」を虐待した文革造反派はこの時点ですでに別途誕生していて、この後、紅衛兵を名乗る。

張承志のその後。 紅衛兵誕生の後、張承志は学内での内ゲバに巻き込まれ、2年後、1968年6月にモンゴルに下放。

そして、まだ存命らしい ⇒ wikipedia [張承志]

 


新しい街でもぶどう記録;第83週

2016年05月28日 18時12分27秒 | 草花野菜

■ 今週の看猫

■ 今週の武相境斜面

■ 今週の草木花木

名前を知らない花。でもブラシみたいだなと毎年思う。ガラス管の内側を洗うあのブラシ。

■今週の握乳

シヴァとパールヴァティ像 (インド、11-12世紀)、松岡美術館 (ぐるっとパスで行った)
紹介サイト ⇒ 今回は白金台にある松岡美術館をご紹介します。

⇒⇒ 関連重点愚記事;  インド人は、おっぱい星人

■ 今週の道産子

■ 今週の道産子炭鉱夫の孫@ 二世 偽道産子


横路孝弘元衆院議長、引退を表明 「社会党のプリンス」

町村は死んだって知っていたが、横路は未だ現役だったんだ。知らんかった。

リャンファン(二翻)=世襲&東大法学部=aristocracy(世襲主義)とmeritocracy(能力主義)の精華。

ぬっぽん衆議院議員の鏡!


meritocracyのみ
 
aristocracyのみ

メリトクラシーとアリストクラシーの半端者

横路孝弘の父、横道節雄は師範学校出の教師。そして、国会議員。横道節雄の父は夕張の炭鉱夫 ⇒ Google

横路孝弘北海道知事。おいらが、サヨ知事誕生の現実を目の当たりにして、「~♪~ おら~♪~ ~♪~ こんなムラいやだ~♪~、~♪~ こんなムラいやだ~♪~、内地に出てって、~♪~、~♪~立派なぬっぽんずんになるだ~♪~、~♪~」と思った時代だ。東京は遠く、ましてや、京都は、なお、遠く。仙台止まりだったのだ。

なお、横路孝弘自身、高校時代、東京の高校に出て行っているのだ。 ⇒関連愚記事;  東京時代の参勤交代。 情弱だったんだよ、当時のおいら。

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(忘れてた)先週の木曜、5/19は つくば記念日 ! ぎょめーぎょじ

2016年05月26日 20時46分35秒 | 筑波山麓


愚記事より   昭和45年=1970年
筑波研究学園都市建設法(つくばけんきゅうがくえんとしけんせつほう)は、1970年5月19日に公布され同日に施行した日本の法律 (wiki)

▼そして15年後の彼(1985年)

来週5/29の「50年前の今日、XXXにて○○○誕生!」(投稿予定!)のネタに現を抜かし、つくば記念日を忘れていた。

 


村上春樹、『1973年のピンボール』に現れたる「華青闘告発」的視点

2016年05月24日 23時34分57秒 | 日本事情

「よかったら一緒に飲まないか?」鼠はそう訊ねてみた。
ジェイは少し困ったように微笑んだ。「ありがとう。でも一滴も飲めないんだよ。」
「知らなかったな。」
「生まれつき体がそう出来ているんだね。受けつけないのさ。」
 鼠は何度か肯き、黙ってビールを飲んだ。そして自分がこの中国人のバーテンについて殆んど何もしらなかったことに改めて驚いた。
村上春樹、『1973年のピンボール』

絓秀実さんによると1970年7月7日の「華青闘告発」が、マイノリティーによる対抗運動の初めての勃発として、重要だそうだ。

知らなかった。重要な点は、そんなことが本当かにわかに信じられないのだが、新左翼でさえ1970年までは「日帝本国人」によるマイノリティー抑圧に没批判的であったというのだ。その無定見な日本人意識を前提にしていた新左翼など「革命」運動参加者に「コペルニクス的転回」をくらわしたのが、「華青闘告発」ということらしい。

華青闘は当事者無視の中核派の行動に反発し、7月7日の集会当日に新左翼各派に対して訣別宣言を出した。この宣言は別名「華青闘告発」ともいい、「当事者の意向を無視し、自らの反体制運動の草刈場としてきた新左翼もまたアジア人民に対する抑圧者である」という痛烈な批判であった。華青闘はこの日をもって解散した。 wiki

おいらは、浅間山荘事件の記憶はなく、(「左翼」・テロリストに関する)記憶の最古は三菱重工爆破事件 (関連愚記事群) である。つまり、おいらがものごころついたときは既にマイノリティーによる対抗運動を出汁にした「日帝本国人」による反日テロ運動は始まっていたのだ。そしてその反日的雰囲気は戦後のデフォルトのものだとおいらは、それこそ没批判的に認識していた。違うのか?

全共闘運動の初期は、のちの連合赤軍リンチ事件や内ゲバとは違う、何か恒常学園祭的ムーヴメントだったらしい。呉智英さんもその時の「学生運動」に参加していたのだ。

そして、30年経ってやっとわかってきた。1980年代初頭、おいらが初めて呉智英さんを読んだとき、彼の主張は反「反差別」。行き過ぎたマイノリティーによる対抗運動への批判だったのだ。だから、津村喬を批判していたのだ。やっと、わかってきた。

そして、呉智英さんや津村喬が過ごしたあの時代の早大に村上春樹もいたのだ。

村上春樹、『1973年のピンボール』は学生運動での「敗残者」のその後の記録に他ならない。

▼ 

鼠が大学を去ったのには幾つかの理由があった。その幾つかの理由が複雑に絡み合ったままある温度に達した時、音をたててヒューズが飛んだ。そしてあるものは残り、あるものははじき飛ばされ、あるものは死んだ。    村上春樹、『1973年のピンボール』

愚記事


わざわいでのすめろぎさまのかしらのたかさのうつりゆき; 縮減される庶民の頭の置き場の空間

2016年05月22日 19時03分22秒 | 日本事情


馬上から; 関東大震災における摂政の宮(ひろひとさん)


徒歩にて; 東京大空襲のひろひとさん


ひざをついて; あきひとさん

で、このさき日本で災いが続くと、被災日本庶民はみんな高山彦九郎みたいにぺっちゃんこにならなきゃいけなくなるってことだ。

 


新しい街でもぶどう記録;第82週

2016年05月21日 19時23分22秒 | 草花野菜

■ 今週の看猫

■ 今週の通りすがりでみた猫


都内新宿区中井。

■ 今週の草木


都内、目黒区にて。

先週お花部分だけ道端でみたカルミネは立派な樹木と知る。 都内新宿区にて。

■ 今週の50年

中華人民共和国プロレタリア文化大革命 =略して、文革。

文革勃発、文革発動、... とにかく、50年。


愚記事より

最悪の時代と英国、エコノミスト誌。 つまりは、阿片戦争や日帝侵略はよりましだったってことを言明しているのだな!????

The Cultural Revolution, 50 years on It was the worst of times

一方、It was the best times、でもありということか???!!!

・ 日本でも50年としての報道多数 [google]

■ 文革50年で万馬券


ソース; 報道されなかった北京―私は追放された (1967年)

Amazonで1万円越え。当時販売価格 350円。

おいらは、1232円で買った。でもおいらのは、表紙がないのだ。

表紙はこういうものらしい。ネットのおかげで初めてみた。

■ 今週の駒場村的禁止脳; 止めろ! やめろ!

 そんなことよりも朝日ジャーナルが由良教授の「証言」に頼ったのは失敗であった。よりによって、まずい証言をひきずりだしてきたものだ。この教授は、一年ちょっと前のこと、早朝に、駒場村のあちこちで授業中の教室を襲い、「下らないことは止めろ」と叫んでまわり、事務員たちにとりおさえられえた人物である。 「西部邁の反批判」、初出『正論』 1988年7月号、現在、『剥がされた仮面 東大駒場騒動記』、西部邁

 

記者「三島由紀夫賞を受賞した心境は」 作家「私の中に心境という言葉はない。馬鹿な質問はやめろ

anti-駒場村的禁止脳; 止めろ! やめろ! 辞めない! やめない! 

=google [舛添要一 東大駒場]

そして、上記三御仁 を「先生」と分節化する、われ[1]らネット愚民の尊師は、

([1] 該当愚記事;「バカが意見する世の中」なんてブログ界への9・11テロみたいで、ちょっとびくっとする。)

何をやめて、何をやめられないのか?、探索・調査・思索は続く!!!???

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川本三郎は、津村喬にくびを賭けず、赤衛軍・Kにくびを賭けた

2016年05月19日 20時19分50秒 | 日本事情

馬場公彦、『戦後日本人の中国像 日本敗戦から文化大革命・日中復交まで』Amazon)にはその当時(日本敗戦から文化大革命・日中復交まで)に中国と関係が深かった人(学者、文化人)のインタビューが載っている。

そのインタビュー記録には、あの西園寺一晃も載っている。

そして、津村喬のインタビューも載っていた。 津村喬については、今もよくわからないのだが、昭和末期から名前だけは知っていた。「悪名」として。この本に呉智英により、名指し批判されている;

   
5つ星のうち 5.0 風俗史・思想史的に重要な文献

おいらは、この「保守反動思想家に学ぶ本」をよく読んだが、別に「保守思想」を学ぶためではなかった。とっくに、反動極右であったし、そもそもこの「保守反動思想家に学ぶ本」には東京裁判も靖国神社も出てこない。「保守反動思想家に学ぶ本」ででてくる保守思想家とは戦後保守思想のリアリズム的思想家が主である。むしろ、おいらがこの本をよく読んだ理由は、団塊の世代、いわゆる全共闘世代の「文化人」が語るところであった。

現在、われらがネトウヨがやっている朝日新聞批判も、新左翼(崩れ?)的いわゆる全共闘世代の「文化人」が語るところが穿っていたことに由来すると、再確認してておもしろい。つまり、この「保守反動思想家に学ぶ本」とは、夢想家的主義者であったバカ左翼が、現実にぶちあたり、リアリストってすごい!と「知恵遅れ」的に気づき、その「知恵遅れ」的所業を見せつけているものなのだ。だから、右翼夢想家の東京裁判史観打破! 靖国神社のためなら世界で孤立してもかまわない!という「保守反動思想家」はお呼びでなかったのだ。

そんな昭和末期、おいらは、江藤淳が「もっと崩れろ!、もっと崩れろ!」と「1968年革命」の時期に云っていたと知らなかったのだ。江藤淳の著作集をほとんど読んでいたのに。(なぜ、この「もっと崩れろ!、もっと崩れろ!」という革命国家日本的惹句を知らなかったのか?の事由は既に書いた; あるいは、「もっと崩れろ!」の江藤淳をみつけたょ  )

なお、「保守反動思想家に学ぶ本」には明治維新も言及されていない。 「保守反動思想家」VS左翼、ではなく、リアリストVS夢想家、であったのだ。

而して、われらが呉智英"尊師"は、サヨ夢想を諦め、封建夢想の桃源郷に「移民」したのだ。

そして、知ったさ。津村喬。呉智英さんによって新左翼=バカの張本人として名指し。昭和末期に。「保守反動思想家に学ぶ本」で。このとき、既に呉智英さんは封建主義者と名乗っていたので、左翼思想とは決別したのだろう。そのかつては信仰していた新左翼の残留者が津村喬とのこと。津村喬。文革に興奮したらいい。実際、文革中にも中国に行っている。

そういう文革に興奮した津村喬さんが、馬場公彦、『戦後日本人の中国像 日本敗戦から文化大革命・日中復交まで』のインタビューに応じているのだ。インタビューはいろいろおもしろく簡単には要約、説明できない。なので、ピンポイントで笑えるネタを。でも、とても些細です;


馬場公彦、『戦後日本人の中国像 日本敗戦から文化大革命・日中復交まで』よりコピペ
太字インタビュアーが馬場。応答が津村喬。

津村の朝日新聞批判の掲載運動には「ぼくはこんなことに首をかけないよ」と川本三郎は云った、と津村は回想している。

そして、川本が首を賭けたのが、赤衛軍だ;

― Kがその時弾いた曲がまた意外だった。日本のフォークソングでも弾くのかと思ったら違った。彼はクリーデンス・クリアーウォーター・リヴァイヴァル(CCR)の「雨を見たかい」を弾いたのである。英語の歌を歌いながら。
 宮沢賢治とCCR - この二つで私はKを信頼してしまった。
 ― 川本三郎、『マイ・バックページ』

(愚記事; I want to know, have you ever seen THE REIGN ?, つまり; 教えてくれ、ひろひとさんを見たかい?って


仙台八重洲書房; いがらしみきお の しおり

2016年05月17日 06時30分14秒 | 仙台・竹雀・政宗

週末、昔の本をみていたら、仙台八重洲書房(関連愚記事:旧仙台八重洲書房跡地をお参りした); いがらしみきお の しおりが出て来た。

Google [仙台八重洲書房]

今はなき、仙台八重洲書房の、ビブレに移った(1987年)後の、バブル期のしおりとおもわれる。

仙台八重洲書房は1993年になくなったらしい。この時、おいらは既に仙台にいなかった。

今からみると、このしおりは閉店数年前のものとなる。

さて、なぜ、いがらしみきお、なのか?

wikiでみると、いがらしみきおは中新田(なかにいだ)の出身なのだ。

 


2016春 神代植物公園バラフェスタ 薔薇の天国絵図

2016年05月15日 11時37分34秒 | 東京・横浜

 土曜日は、東京都調布市の神代植物公園に行った。春のバラフェスタを見物に行くためだ。


https://www.tokyo-park.or.jp/park/format/index045.html

これで3回目だ。これまで薔薇の地獄絵図は貼りつけてきた。

薔薇の地獄絵、秋編
薔薇地獄絵10枚貼ります; 

さらには、神代植物公園の薔薇さんの画像はネットに溢れているだろう。

そこで、おいらは、奇を衒い、この春は、薔薇の天国絵図を貼る;

 

 

 おしまい