いか@ 筑豊境 寓 『看猫録』

Across a Death Valley with my own Distilled Resentment

新しい街でもぶどう記録;第312週

2020年10月31日 18時06分13秒 | 草花野菜

▲ 今週の看猫;みけちゃん
▼ 新しい街でもぶどう記録;第312週

脱走したみけちゃん、ぶどうの木の傍で

■ 今週の武相境斜面

■ 今週の草木花実

■ 今週の「蒙古斑」

■ 今週のいすゞ のトラック

■ 今週の「レコンキスタ史跡」探訪

和光ビル(旧服部時計店本社ビル)[1]、銀座4丁目。米陸軍、第八軍の購買部(Eighth Army Exchange Service PX) [1]  建物解説web site

▼ 占領下の画像


引用元 https://twitter.com/yukin_done/status/928784189805158400


引用元 https://www.youtube.com/watch?v=VgNLMiesBPk

第8軍の記章が見える。

 wikipedia

■ 今週知ったこと;ウドゥ

ウドゥ=イスラム教で礼拝の前に体の一部を水で洗う清めの行為のこと。wiki

銀座に行ったとき、ラオックスによった。ラオックスとは外国からの観光客向け、端的に中国人向けの店。

トイレの注意書きに、「ここで足を洗わないで下さい」とあった。中共の党員の転向を禁じたもの、ではないだろう(当たり前だ)。???で家に帰ってググった。わかった。注意書きの下の「お祈り場」にも注目すべきだったのだ。ムスリム向けのようなので、インドネシア人観光客へのメッセージか?

■ 今週の「吸人力」;カナダ、毎年40万人、向こう3年で120万人の移民を受け入れ

ソース

毎年40万人の移民。 日本の新生児は86万人なので、その半分の人数をカナダは移民として受け入れるのだ。 カナダの新生児数は10万人。カナダの新生児の4倍を移民として受け入れるのだ。(根拠:人口増加がカナダ経済の成長を下支え

移民受け入れの背景は、経済成長が目的とのこと。


東京散歩;東急中目黒駅 ⇒目黒駐屯地 ⇒有栖川公園 ⇒麻布十番 ⇒芝 ⇒西新橋 ⇒浜離宮恩賜公園

2020年10月26日 19時03分37秒 | 武相境

1;東急中目黒駅、3;自衛隊目黒駐屯地、4;恵比寿(旧伊達町)、5;有栖川公園、6;麻布十番、7;西新橋、8;浜離宮恩賜公園

■ 1;東急中目黒駅 ⇒ 3;自衛隊目黒駐屯地


東急中目黒駅


目黒川


中目黒公園


目黒川沿いの桜並木

陸上自衛隊においては目黒駐屯地、海上自衛隊においては目黒地区、航空自衛隊においては目黒基地と呼ばれる wiki

駐屯地内に段丘崖がある。

1945年(昭和20年)11月:イギリス連邦占領軍(オーストラリア軍)が進駐(エビスキャンプ)。英連邦軍東京分区本部(Headquarters, British Commonwealth Sub Area Tokyo)を設置 (wiki

駐屯していたのは、3 RAR = 第3大隊、王立(royal)オーストラリア連隊らしい;

3 RARは、1945年10月20日に第67大隊として最初に結成されました。大隊は、日本の英連邦占領軍の一部としての占領任務を目的としており、オーストラリア第3、第6、第7、第11師団の志願兵で構成されていました。大隊は、1948年11月に連隊が結成されたときに、オーストラリア連隊の第3大隊に再指定された。1949年3月に「ロイヤル」接頭辞が追加された。

第67大隊は、1946年2月にオーストラリア第34旅団の一部として日本に到着した。[3]他の占領軍と同様に、大隊は重大な抵抗や市民の不安に遭遇しなかった。日本のオーストラリア軍は徐々に縮小され、朝鮮戦争の勃発時に国内に残された唯一のオーストラリア大隊は3RARであった。出典


4人の豪兵  この豪兵カルテットは上記の王立(ロンドンの女王陛下に忠誠を誓う)オーストラリア第3大隊の所属ではなく、第67歩兵連隊の所属。岡山に駐屯していた部隊。撮影場所は皇居。記録によれば、第67歩兵連隊は岡山から東京に2ヶ月東京に防衛任務遂行のため来たことがあるらしい。なお、豪兵を含む英連邦軍が連合国として割り当てられた領地は中国地方(中国、四国の中国)。呉や鳥取などに英連邦軍が進駐、占領した。鳥取にはインド兵部隊がいた。

■ 3;自衛隊目黒駐屯地 ⇒ 4;恵比寿(旧伊達町)


新茶屋坂通りを上り切ったあたりで後ろ(目黒川方面)を振り返る


恵比寿駅方面へ下る

このJR線(山手線、埼京線、湘南新宿ライン)を跨ぐ橋がアメリカ橋=恵比寿南橋と今回初めて知る。wikiに下記あった;

もともとはアメリカセントルイスで1904年に開催されたセントルイス万国博覧会に展示されていたものであった。それを日本の鉄道作業局(当時)が買い取り、鉄製の橋のモデル橋として1906年(明治39年)に現在地に架設したことが愛称の由来である。橋は1970年(昭和45年)に改築されている。


日仏会館。ここにあると初めて知る。

恵比寿(3)あたりを歩いていると、ばったり出くわした伊達情報。伊達といっても、宇和島伊達家だ。

恵比寿3丁目付近を散策していると「伊達坂」や「伊達マンション」なる、「伊達」という文字をよく目にする。1928年~1966年まで恵比寿3丁目付近は「伊達町」という町名でした。

江戸時代、恵比寿三丁目付近は宇和島藩伊達家の下屋敷が存在した

下屋敷は前藩主がすむ「おじいちゃんの家」的な扱いだそうです。そんな前藩主の住んでいたのが恵比寿三丁目にあった「下屋敷」 (恵比寿新聞より)

伊達坂という地名が残っていると初めて知る。仙台坂は聞いたことがあったが。

■ 4;恵比寿(旧伊達町)⇒ 5;有栖川公園


渋谷川を渡る。つまり、谷の最低地にたどりついたということ。


広尾

昭和のおもちゃ屋。 トミカのミニカーって今もある知る。


広尾、外苑西通りを渡る。広尾は低地(谷底平地、沖積平地)にあると知る。


外苑西通り


外苑西通りを渡り、有栖川宮記念公園に向かう。低地から台地(淀橋台)を登る。淀橋台は古い台地なので、そうとう開析され、段丘崖はなめされて、緩い坂となっている。淀橋台のなかでこの有栖川宮記念公園が乗っている部分を麻布台地という呼ぶ例もある。つまり、この散歩では「麻布台地」の登り、降りをする。

ちなみに、地名として「麻布台」がある。しかし、この「麻布台」が載っている台地は飯倉台地なのだ。ややこしいが。麻布十番の低地を越えて、古川を越えて北上すると台地があり、それが飯倉台地。(ラジオ日本がある)「麻布台」はこの飯倉台地にある。

▼ 有栖川宮記念公園

最高部へ登る。

最高部は台地面。「麻布台地」は淀橋台なので、この面は下末吉面ということになる。

有栖川熾仁親王像

■ 5;有栖川公園  ⇒ 6;麻布十番

麻布台地の最高面にある、仙台坂上交叉点。五差路とわかる。上の画像の奥へ行く道が下り坂で、仙台坂。

おいらは、仙台坂を下るのではなく、麻布台地の平坦面を北上する道を、麻布十番へ向けて、行く。

このあたり、麻布台地の北側の端。この先、下り坂。台地も終わりだ。

麻布十番に降りる。


きみちゃん像

麻布台地の地形図(左)と地図。地形図(左)での赤矢印が仙台坂。おいらの散歩経路は黄色田印。

■ 6;麻布十番 ⇒ 7;西新橋


一の橋


西新橋

■ ⇒ 浜離宮恩賜公園

■ まとめ;通過町名

目黒区

上目黒、中目黒、目黒

渋谷区

恵比寿、広尾、

港区

南麻布、元麻布、麻布十番、三田、東麻布、芝公園、西新橋、新橋、東新橋

 

 


深大寺そば「湧水」、新作 "とり天"と使いまわしのクーポン、あるいは、コロナのあとさき

2020年10月21日 19時06分39秒 | 東京・横浜

神代植物公園にバラを見に行った(神代植物公園 2020 秋の"バラフェスタ" )後は、深大寺そば。

毎年の春秋に深大寺に来るが、ほとんどこの店。いつも、行列。

店の前にコの字の椅子があり、みんな並んでいる。上の画像は、13:10。これまでは、この時間帯は椅子は埋まっている。場合によっては道に立って並ぶ人がいるくらい。でも、今秋は違った。コロナのせいだ。やはり、人出は最盛期よりは少ない。

湧水もりそば(九割蕎麦) ¥750

とり天。初めて見た。¥700。最近できたメニューだと思う。ちなみに、現在の店のweb siteのメニューにはでていない。さくっと揚がっていた。ゆず風味のつけダレがさっぱり。タルタルもついていた。

店のweb siteのクーポンで「そば羊羹」がもらえる。

5年くらい前からこのい店に来て、クーポンでそば羊羹をもらっている。クーポンは使いまわしでOK!

■ コロナ禍の影響

丼もののテイクアウトをやっていた。やはり、そばはのびるから無理なのか。

▼ 店主インタビューがネットにあった;

そば処「湧水」二代目 児玉 友輔氏インタビュー 

1994年開業と比較的歴史の浅い店ながら繁盛期には1日1000杯ものそばを売る人気店が「湧水」だ。

とある。客単価を1500円として、1日1000人の来客とすると、1日の売り上げが150万円。これは最高値として、1年=200日営業として、年商(max)は、3億円となる。売上には波があるだろうから、半分(最低予想)としても、年商1.5億円だ。すごい、そば屋さん。

 


神代植物公園 2020 秋の"バラフェスタ"  

2020年10月18日 07時10分57秒 | 東京・横浜

毎年、春と秋に行く神代植物公園のバラフェスタ。秋の「バラフェスタ」は6度目。過去記事は; 2015年、 2016年2017年2018年2019年)。今年の春はコロナ禍で行けなかったので、丸1年ぶりとなる。ただし、今秋は「バラフェスタ」ではないようだ。web siteを確認すると、神代植物公園「秋のバラ早朝開園」とあり、「バラフェスタ」の文字はない。確かに当日の看板(上画像)にも「バラフェスタ」の文字はなかった。

毎年同じようなブログ記事になるので、今年は遠景のバラ画像を載せる;

 

 


新しい街でもぶどう記録;第310週

2020年10月17日 17時46分11秒 | 草花野菜

▲ 今週の看猫;みけちゃん
▼ 新しい街でもぶどう記録;第310週

■ 今週のよその猫

■ 今週の草木花実茸

▼ 以下、神代植物公園の温室(バラは除く)



ドラクラ属(wiki)。属名は伝説の吸血鬼(ドラキュラ)による。「吸血コウモリに似た面妖な花の姿」とまで言われる

▲ 以上、神代植物公園


うちの猫草に茸が生えた

■ 今週の多摩川

■ 今週の「派生物」

本歌 ↓

■ 今週の「記入」

  

JR町田駅ホームにて

■ 今週の「無くなっていることに気付いた」

溝の口駅から見える山にあったはずの看板「谷風」

あった頃の看板;ネット上からパクリ

■ 今週の「ひらかな」

ブログの「アクセス元ページ」にあった検索用語
「こうそん」と呼ぶ通ぶった人はいるが、そういう人はひらがな入力して検索しないだろう。訓読みできない=やまとことばに弱い御仁による検索なんだろう


(東京)陸軍幼年学校、1945年(昭和20年)、あるいは、8月2日の空襲の回想

2020年10月11日 13時01分02秒 | 日本事情

西村京太郎 1930年9月6日 -   (作家)[wikipedia]
石田保昭 1930年9月30日-2018年5月18日 (インド学者)[wikipedia]
加藤秀俊 1930年(昭和5年)4月26日 - (社会学者)[wikipedia]

■ 石田保昭が陸軍幼年学校に在学していて、敗戦を迎えたことは知っていた。敗戦を迎えたばかりか、東京の陸軍幼年学校は空爆され破壊された;

石田保昭という人は1930年生まれ。父も祖父も職業軍人という系譜。陸軍エリートの家庭の家風なのか、石田は陸軍幼年学校へ。そこで敗戦。

「一九四五年八月二日、西八王子にあった東京陸軍幼年学校に二万発の小型焼夷弾が落とされた。直撃弾で死んだ三人の戦友の死体が、焼け残った倉庫にころがされていた。」(『インドで暮らす』)

(愚記事;なつかしい本の話; 石田保昭、『インドで暮らす』

■ さて、あの西村京太郎が同じく陸軍幼年学校にいたとのこと。2017年に出版された『十五歳の戦争』という自伝で書いている。この本、出版当時から知っていたが、先日、ブックオフで100円になったので、買って読む。石田保昭の本には詳細が書かれていない1945年8月2日の八王子にあった東京陸軍幼年学校の空爆について、西村京太郎は書いている;

 そして、八月二日、B29の大編隊による空襲が、東京陸軍幼年学校を襲った。
 深夜の午前〇時過ぎである。警報が鳴っていたが、今日も、こちらには来ないだろうと考えて、私たちは生徒舎で、眠っていた。
 それが、いきなりの爆発音である。眼を開くと窓ガラスの外が、真っ赤だった。あわてて、起き上がったが、隣のベットの千葉という生徒が、まだ眠っている。彼は、仙台の生まれで、両親に会って帰ったばかりだったから、疲れ切っていたのだろう。とにかく、叩き起こして、生徒舎を飛び出した。
 別の生徒舎や、大食堂から、炎が吹き上がっている。
 生徒舎の横に作られた防空壕は、満員だった。
 私と千葉は、どこへ逃げるか一瞬、迷ってから
「雄健神社へ行こう」
と決めて、走り出した。
 その間も、バラバラと、焼夷弾が落下してくる。E46と呼ばれる新型の焼夷弾だった。何十発も束ねられ、投下されると、空中でバラバラになり、広い範囲に、バラまかれるのだ。
 私たちにとって、幸いだったのは、それが爆発力よりも燃焼力に優れていることだった。とにかく雨のように降ってくるのである。それが全て爆発していたら、雄健神社に集まる私たちは、全員が、死亡していただろう。ところが、問題の焼夷弾は、地面に突き刺さってから、炎を吹き出す。消化は難しいが、炎を吹き出すまで、逃げれば助かることがわかって、とにかく、走った。
 雄健神社のある丘には、二、三十人の生徒たちが集まってきた。誰もが、疲れ切って、座り込んでいる。私と千葉も座り込んで、眼の下に広がる火炎を見ていた。
 全ての建物が真っ赤に燃えあがっていた。
 怒りよりも、ただ、呆然としていた。
 今日の昼間まで、走り廻り、鉄棒で苦労し、剣道をしていた場所である。その全ての建物が、燃えていた。
 B29の大編隊は、次から次へと現われ、夜明け近くまで、焼夷弾を落とし続けた。
 この空襲で、七人の生徒と三人の教師が亡くなった。
 私たち一年生の死者は一人。名前は及川である。彼と同じ訓育(クラス)でもなかったし、言葉を交わしたこともなかった。それでも、七十年たった今でもはっきり名前を覚えているのは、一年生の死者が、及川一人だったこともあるが、それ以上の理由が、彼の死に方だった。
 及川は、今、靖國神社に祀られていることからもわかるように、陸軍幼年学校の生徒は、兵士だった。だから、私たちは、入校と同時に短剣を渡された。
「この短剣は、天皇陛下から頂いたものであるから、常に身につけていなければいけない」
 と、繰り返し、教えられた。
 だから、私も千葉も、短剣を腰につけて、雄健神社に逃げた。
 ところが、及川は、短剣を忘れて、生徒舎を飛び出してしまったのだ。気がついた及川は、短剣を取りに、炎上している生徒舎に引き返し、死んだ。
 その及川の行動を、校長は絶賛した。
「及川生徒は、死を覚悟して、天皇陛下から頂いた短剣を求めて燃えている生徒舎に引き返した。これは、名誉ある戦死である」
 だから、及川は、靖國神社に祀られた。
 反対に、学校の外に逃げた生徒は、校長から叱責された。
「学校の外まで逃げるのは、兵士が戦線を離脱するのと同じだ」
と。今なら、校長は何というだろうか? (西村京太郎、『十五歳の戦争 陸軍幼年学校「最後の生徒」』)

1945年8月2日の空爆での犠牲者は10人である。今では、名前が公知となっている(⇒東幼観音と東京陸軍幼年学校(八王子)の慰霊碑の画像に名前が刻んである;下記画像[ブログ 近代史跡・戦跡紀行~慰霊巡拝 様より])。なお、西村京太郎は、1年生の犠牲者は1名と書いてある。しかし、上のリンク先の画像ではその及川氏ともうひとりの名がある。1年生の犠牲者は2名だと思われる。

■ 陸軍幼年学校の体罰

 もう一つ、幼年学校の堀の内と外とでは、その違いに驚いたのは、私的制裁だった。
 軍隊では、制裁が日常化していると、よくいわれる。徴兵された初年兵は、毎日、理由もなく、古年兵から殴られると聞かされた。
 私も、幼年学校に入ると、上級生から殴られる覚悟をしていたのだが、一回も殴らられたことはなかった。
「将校生徒なら、殴られれなくとも、自分で反省するだろう」
というのが、制裁がない理由だった。 (西村京太郎、『十五歳の戦争 陸軍幼年学校「最後の生徒」』)

一方、仙台陸軍幼年学校にいた加藤秀俊は、『人生にとって組織とはなにか』で回想している;

一九四五年、つまり敗戦の年、わたしは陸軍幼年学校生徒であった。幼年学校というのは陸軍高級将校になるための予備校のようなものであって、十二、三で入学。つまり中学生である。それでも軍籍のうえでは「兵長」相当と見なされ、職階的にいえば二十歳の初年兵はもとより三〇歳をすぎた上等兵よりも偉かったらしい。それだけに、規律は厳格だった。(中略)
 ときには兵器検査がある。十二歳の少年であったわたしたちにも、ひとりに一挺「三八指揮歩兵銃」というのがあたえられており、毎日その手入れを怠ってはならなかった。ちょっとしたサビや曇りが見つかっただけでも強い戒告をうけたし、上級生からは横ビンタがとんできた。(加藤秀俊 『人生にとって組織とはなにか』)

つまり、東京では体罰はなかったが、仙台では体罰があったことになる。

■ 忘備

▼東京陸軍幼年学校:場所(敗戦時)、八王子長房町 [wikipedia]

上野地図の「白百合幼稚園」付近

▼仙台陸軍幼年学校:場所(敗戦時)、仙台市三神峯 [wikipedia]

上の地図の「東北大電子光理学研究センター」付近

 


新しい街でもぶどう記録;第309週

2020年10月10日 18時08分40秒 | 草花野菜

▲ 今週の看猫;みけちゃん
▼ 新しい街でもぶどう記録;第309週

■ 今週のよその猫

■ 今週の花

■ 今週の愛媛県

安売りしていたので購入。元来は高級品らしく、日ごろ飲む牛乳と違い、おいしかった。

▼ 吉田のみかん

web site; 頑張ろう!!吉田町!!

■ 今週の「アカ」本 + "乱入者"の本

日本学術会議に任命拒否された6人の学者さま [1]。うち3人は法学者で共産党系の民主主義科学者協会の学者だという。別途、任命拒否された学者さまのうち2人の本がうちにあった。そのうちの宇野重規さんの本はつい最近ブックオフのゾッキ本として買った。内容(トクヴィル論)で買ったので、どういう人か知らなかった。今回のことで「アカ」らしいと知る。wikiにある;立憲デモクラシーの会呼びかけ人。 しんぶん赤旗に頻出。さらには、日本共産党の委員長との対談も複数あるとネットが言っていた。加藤陽子さんと二人とも、安保法制に反対していたとのこと。立憲デモクラシーの会 [wiki](日本国憲法の解釈を変更することによって集団的自衛権の内閣による憲法解釈変更など安倍内閣に対抗することを目的として活動)。

あと、おまけに、この問題で菅首相を「教養のレベルが図らずも露見した」と評した静岡県知事の本も添えて置く。

[1]

ソース

■ 今週の「野蛮な情熱」、あるいは、(休眠中)参謀本部を砲撃せよ!

 

菅義偉首相は、小泉純一郎的扇動をする政治家らしい。砲撃先が「司令部」ではなく、頭脳のはずである参謀本部、すなわち、内閣直属の学術会議である。文革ですよ、文革。

もっとも、日本学術会議はろくな提言を行わない、行革対象の組織との悪評が目立つ。

テレビ・新聞の主流派リベラル勢力は、学問の自由を侵害する首相の違法行為と非難している。さらに、拒否された学者さまも反発;


出典

さらには、静岡県知事の首相の教養評価発言。

こういう発言で、ネット界では、われらウヨが炎上し、反感を募らせている。

菅義偉首相に扇動された「紅衛兵」だ。

▼「民」に攻撃される「優れた者」

今回拒否された宇野重規さんの『トクヴィル 平等と不平等の理論家』では、デモクラシーとアリストクラシーが論じられている。デモクラシーは民主制であり、本当はリベラルさまや立憲デモクラシーの会呼びかけ人などが奉じるはずのものだ。一方、アリストクラシーとはギリシア語の語義は優れた者による支配という意味であり、端的には貴族政である。

国家貴族;宇野重規さんも加藤陽子さんも国家貴族である。税金で養われている教授さまだからだ。彼らが東大教授であるのは東大での人事権で決められた。もちろん、民衆は関係ない。デモクラシーは無縁だ。「公務員を選定し、及びこれを罷免することは、国民固有の権利」であることとは無縁だ。そして、今回。日本学術会議。日本学術会議の会員は国家公務員だそうだ。だから、民主的に選ばれた首相が任命拒否を行ったと首相は云っている。これまでは、日本学術会議の推薦で自動的に会員になれたはず(アリストクラシー!)なのに、デモクラシーが邪魔をしてきたのだ!

(宇野重規さんや今回拒否された民科の3人が親しい日本共産党も委員長は選挙もなしに何年もその地位についている。非デモクラシー!)

これで、学者さまたちが大騒ぎ。そうすると、我らネトウヨが大騒ぎ。

菅義偉首相の扇動政治で、思うように、炎上しているのだ。

現在、日本学術会議の改革委員会がLDPに発足したようだし、河野大臣も行革すると表明。つまりは、6人の任命拒否は、日本学術会議の改革のための一里塚だったのだ。そして、学者さまへ反感をもつ我ら無教養なネトウヨが煽られたのだ。

▼ 東大法学部の内ゲバか?

この件、実務は官房副長官の杉田和博がやっているという説。wikiによると、宇野重規さんと同じ東大法学部。学者と官僚の内ゲバらしい。

■ 今週の「参上」

岸信夫防衛大臣が横田基地に所在する在日米軍司令部を訪問し、在日米軍司令官のケビン・シュナイダー中将と会談を行ったシュナイダー在日米軍司令官、岸防衛相と会談

(建前は、横田基地にある航空自衛隊の航空総隊司令部への訪問とのこと)