いか@ 筑豊境 寓 『看猫録』

Across a Death Valley with my own Distilled Resentment

福岡散歩:西戸崎(さいとざき)⇒ 国営・海の中道海浜公園/旧キャンプ・ハカタ/Brady Air Base

2024年12月30日 04時49分04秒 | 筑紫洲 (つくしのしま)

福岡県福岡市の北に陸繋砂州 [google]がある。上地図の半島。海の中海(wiki)。半島の先に志賀島がある。海の中海の大部は国営公園となっている。国営・海の中道海浜公園。元は米軍基地だった(キャンプ・ハカタ)。つまり、米軍基地を日本政府が取り戻し、国営公園にした。これは東京都の立川の国営・昭和公園と同じだ。公園造園の時代も近い。1970年代米軍撤退の時期だ。レコンキスタ史跡訪問の散歩をした。

陸繋砂州・海の中道の大部が国営公園であるが、そうでない地域もある。西戸崎駅付近の街とか。そういう地域は占領時代も米軍に接収されていない地域。ただし、米軍基地の近隣地域であり、基地外の米軍住宅があった。


1.JR西戸崎駅、2.キャンピングハウス海の中道、3.米軍ハウス(ブレディハウス)、4.西戸崎5丁目・浜辺、5.国営公園・海の中道海浜公園西口、6.動物園、7.日本の名車歴史館
 a, bは(1960年代の)航空写真で建物群が認めらる位置。兵舎と思われる。


現在の航空写真


1960年代の航空写真。a,bに建物群がある。3.5.6.の位置を含む地域はゴルフ場と見える。

▼ 海の中道全体図。1960年代(米軍時代)の航空写真。


10.ラッキーラガー円石柱看板、A.雁ノ巣飛行場 (後述)

1961年(昭和36年)の日米合同委員会でキャンプ博多・ブレディ飛行場・西戸崎通信施設の三施設を統合し、「雁ノ巣空軍施設」(Gannosu Air Station、施設番号・FAC 5005)として在日米軍に提供することが合意された。wiki

雁ノ巣飛行場は「A」の位置。上の5,6はゴルフ場。上のwikiの説明では西戸崎は通信施設のみが書かれ、ゴルフ場への言及はない。

■ 1.JR西戸崎駅

■ 2.キャンピングハウス海の中道

キャンピングハウス海の中道(google

■ ⇒ 3.米軍ハウス(ブレディハウス)

▼ 「豪族」の家


google map

■ 3.米軍ハウス(プレディハウス)


google map

この米軍ハウスはリノベーションされたもの。リノベした会社(只松建設ホールディングスパワーハウス株式会社)がweb siteでこのリノベを紹介している。リノベ前の様子↓。

ソース

■ 5.国営公園・海の中道海浜公園西口

国営・海の中道海浜公園(公式 web site)。

国営海の中道海浜公園(こくえいうみのなかみちかいひんこうえん)は福岡県福岡市東区にある公園。全国で5番目に設置された国営公園である。

昭和18年5月に九州飛行機により西戸崎飛行場が完成。対岸の香椎工場より運ばれた海軍哨戒機、東海などの試作実験が行われる。昭和19年4月1日、戦局により、隣接する博多海軍航空隊が同飛行場を接収、陸上機実用機教育が開始。本土決戦に備え、練習機を用いた特攻訓練が行われる。、戦後は福岡第一飛行場を含め、アメリカ合衆国空軍[1]博多基地となり、西戸崎飛行場はそのまま米軍のゴルフ場となる、その跡地返還を受けて開設されることになったものである。wiki

カナール。カナールは造園用語で「修景手法のひとつで細長い直線水路」を意味しています(google)。カナールは知っている。国営・昭和記念公園にもあった。


国営・昭和記念公園のカナール@噴水付き(愚記事

薔薇園があった。年の瀬でもいくばくかの薔薇は咲いてた。

■ 6.動物園

■ ⇒ 7.日本の名車歴史館

■ 7.日本の名車歴史館

 

展示内容:主に昭和20年代から40年代にかけて国内で生産された四輪車・三輪車・二輪車を常時60台以上展示しています。

特徴:この歴史館では、日本のモータリゼーションの先駆的な役割を担った、主に昭和20年代から40年代にかけての馴染み深い国産車(四輪・三輪・二輪)を常時60台以上展示。実働車がそのほとんどを占めることからも、年代物のヴィンテージ車を集めた展示資料館とは一線を画し、より身近な存在として訪れるものに語りかけてくれます。のりもの博物館 web site

■ 海ノ中道駅より東側


7.日本の名車歴史館、8.海ノ中道駅、9.テニスコート/Brady air base キャンプ博多HQ跡、10.ラッキーラガー円石柱看板、11.海の中道海浜公園 光と風の広場口、12.光と風の広場前バス停

■ 海の中道海浜公園 海の中道駅口

■ 8.海ノ中道駅

■ ⇒ 9.テニスコート/Brady air base キャンプ博多HQ跡

■ 9.テニスコート/Brady air base キャンプ博多HQ跡

このあたりが、Brady air base / キャンプ博多HQ(司令部)跡地らしい。HQ(司令部)に限らず、米軍の施設、建物が並んでいた↓


ソース


20が司令部(HQ: Head Quater) ↓ 当時の写真

▼ キャンプ・ハカタ/ブレイディ空軍基地  Camp Hakata/Brady Air Base

この基地は米軍の陸海空三軍が利用していた。だから名称にcampとbaseの両方が使われている。米三軍が使用の基地が他にあるのだろうか?

この基地は敗戦時1945年9月に占領米陸軍の第5水陸両用軍団 (V Amphibious Corps) [wiki]が進駐した。その後、第24歩兵師団[wiki]が駐屯する。1950年朝鮮戦争。米陸軍と米空軍のさまざまな部隊が博多駐屯地に配属された。博多のブレイディ飛行場と近くの板付空軍基地は北朝鮮に対する航空作戦を実施した。駐屯地は、韓国に派遣される部隊の拠点としても使用され、LSTやその他の上陸用舟艇が基地から出発した。」「1956 年 7 月 1 日、米空軍が基地の指揮と兵站の責任を引き継ぎました。この日、基地の名称はキャンプ博多からブレイディ空軍基地に変更され、第 5 米空軍の主要施設となりました」。(ソース

■ 海の中道海浜公園 カモ池口

■ 10.ラッキーラガー円石柱看板

 

■ 博多湾に面する海岸

 

 

■ ⇒ 11.海の中道海浜公園 光と風の広場口

かも池

■ 11.海の中道海浜公園 光と風の広場口

■ 12.光と風の広場前バス停

■ ⇒ 海の中海を東へ。雁ノ巣方面

バスから元の雁ノ巣飛行場(Bray Air Base)を見る

福岡第一飛行場:戦後はアメリカ軍に接収され「ブレディ飛行場」(Brady Air Base、施設番号・FAC 5006)の名称で主に輸送部隊の飛行場として使用されたwiki

戦前、福岡県粕屋郡和白村 雁の巣(がんのす)(現 福岡市東区)に「福岡第一飛行場」と呼ばれる日本最大規模の民間国際空港がありました。
戦後はアメリカ軍に接収され「ブレディ飛行場」の名称で輸送部隊の飛行場として使用され、1977年(昭和52年)に返全面返還されました。雁ノ巣飛行場の痕跡を訪ねて

「ブレディ飛行場」、 Brady Air Base。 この件 google)が有名らしい;

■ まとめ 通過街

福岡県福岡市東区

西戸崎 (のみ!)

 


筑紫洲 (つくしのしま) でもぶどう記録;第40週

2024年12月28日 19時29分37秒 | 筑紫洲 (つくしのしま)

▲ 今週のみけちゃん
▼ 筑紫洲 (つくしのしま) でもぶどう記録;第40週

■ 今週のよその猫

■ 今週の筑豊境

■ 今週の種取り&ジャムつくり

■ 今週の大福

ゆきだるま大福: 商品紹介

■ 今週の百万個突破

【阪急ベーカリー】【フレッズカフェ】シリーズ累計販売数100万個突破!大人気商品の「生ドーナツ」に『リプトン』のロイヤルミルクティーをイメージした新フレーバーが登場!

1個買った。220円。

リプトンってオランダの会社と知る(wiki)。

クリームの量が多い。紅茶風味クリーム。この紅茶風味はどうやってつけるのか? 紅茶の濃厚「シロップ」があるのか? 紅茶の葉から抽出した「原液」みたいなものがあるのか?

「生ドーナッツ」というより、リプトンのロゴデザインって印象的だなぁと思ったので、買った。

■ 今週のレコンキスタ史跡訪問

国営・海の中道海浜公園(公式 web site)。福岡県福岡市東区西戸崎。

日本には国営公園が16あると知る(全国の国営公園)。そのうち少なくとも3つは米軍からの返還の土地である(レコンキスタ!)。去年まで毎年お参りした立川の昭和記念公園もそうだ。そして、ひたち海浜公園もそうであった;射爆場(愚記事:ネモフィラで有名なこの公園は、国営公園であり、公園造成以前は米軍の射爆場であった)。

今週、お参りした国営・海の中道海浜公園もその例。元は、キャンプ・ハカタ(Camp Hakata)[wiki]。

公園内に米軍の痕跡はほぼない。例外はこれ;

  

▼ カモ池

■ 今週の基地外米軍ハウス

福岡県福岡市東区西戸崎

■ 今週の親米派:福岡県福岡市東区西戸崎

➡ SAITOZAKI アメリ化(カ)再現プロジェクト

西戸崎を盛り上げるために集まった町おこし集団のことを、キャンプハカタプロジェクト(略して”CHP”)と呼んでいます。 ➡ キャンプハカタプロジェクトとは?

■ 今週の浜辺


福岡県福岡市東区西戸崎

■ 今年の訃報

 竹本信弘(wiki)

元新左翼理論家・活動家の竹本信弘(たけもと・のぶひろ)さんが7月14日、肺炎のため死去した。84歳。葬儀は近親者で営んだ。ソース

過激派を扇動する滝田修氏(本名・竹本信弘)の言葉が注目されるようになったのは、1969年ごろからである。当時、滝田氏は京都大学の助手。全共闘系で頭角を現すが、組織や教条主義を嫌い、「ごちゃごちゃ言わんで、やらないかんのや」と既成の左翼を批判していく。

評論家の呉智英氏は言う。

「活動家として真面目というより、あけっぴろげで、おっちょこちょいに感じました。話や文章はロマンチシズムに富み、だんだん自己陶酔していく面がありました」ソース

今週は今年最後。竹本信弘/滝田修は7月に死亡し、8月に公表されたらしい。当時、気づかなかった。2月に死んだ桐島聡の報道の大きさとは対照的に地味だった。

 桐島聡

竹本信弘/滝田修の容疑は1971年の自衛官殺害事件。いわゆる「1968年革命」の盛りが過ぎたあとの事件。竹本信弘/滝田修の容疑は桐島聡とは世代が違う。1940年生まれ。西部邁と同じ年なのだ。三島由紀夫の事件に煽られ、自ら「左翼」を煽った;

「われわれ左翼の思想的敗退だ。あそこまでからだをはる人間をわれわれは一人も持っていなかった。動転した」「70年代の闘争をやり抜くためには、新左翼の側にも何人もの"三島"をつくらねばならん」と発言し、パルチザンを組織して闘争を行うことを主張。

1971年の自衛官殺害事件後、10年間逃亡生活をする。1982年、逮捕。この逮捕を、おいらは憶えている。この頃/この直後、呉智英や村上春樹が彼らの「潜伏期」を経て、世に出てくる。

愚記事より;

「赤衛軍事件」についておいらが知ったのは1980年代に入ってから。当の滝田修が、10年にもおよぶ逃亡の末、遂に逮捕された後。ただ何となく知っただけで、事件の詳細は知りようもなかった。ネットで何でも検索できる現在とは、情報の環境が全然違う。ただ、その事件で当時現職の京大経済学の助手が指名手配され、10年逃亡したことが話題になっていた。それだけ。最近、この昭和の一事件の回顧を読むこととなった。昭和の成仏のために。

指名手配され、10年逃亡した滝田修が、逮捕された1983年に言う;

―  わけても「王様は裸だッ!」などと、ホントウのことを大声で叫ぶ輩は、ふん縛ってぶち込まなければならぬ。だれでもよい、イケニエの羊をひきずり出して、痛い目に合わせろッ!と。イケニエは、それらしい匂いがいささかでもすれば、だれでもよかったのであろう。彼らが問おうとしていたのは、たんに「一個の人間」ではなく、「時代の全体」であったのだから―。
「あの時代」そのものを封じ込み、抹殺すること、まさにその点にこそ、権力の利害はかかっていたのである。
  - 滝田修、『わが潜行四〇〇〇日』

■ 


大分県散歩3:別府、キャンプ・チッカマウガ跡地

2024年12月27日 06時20分55秒 | 筑紫洲 (つくしのしま)

大分散歩3:別府、キャンプ・チッカマウガ跡地。別府に行った目的は、別府公園=キャンプ・チッカマウガ跡地へのお参り。大分県の別府には戦後米軍基地があった。キャンプ・チッカマウガ。この米軍基地の特徴は新築であること。日本敗戦後の進駐軍の基地は旧軍の施設(大日本帝国陸海軍の基地)を利用した例が多い。この新築の米軍用の基地というのは、札幌郊外のキャンプ・クロフォードもそうである。さらに、この札幌に進駐し駐屯した米陸軍・第187空挺グライダー歩兵連隊第11空挺師団の傘下)が、その後遍歴を経て、この別府に来たと知る。札幌と別府の共通点があって、それは戦時中に空爆を受けなかった都市であること。その別府のキャンプ・チッカマウガ跡地をお参りした。もちろん、レコンキスタ史跡探訪だ。

前の晩は鉄輪温泉に泊まったので、バスで別府駅へ向かう。途中に別府公園前というバス停があったので降車。


1.別府公園、2.グローバルタワー、3.京都大学熱学研究所、4.別府翔青高校、5.大学橋、6.新六角温泉

▼ キャンプ・チッカマウガの地図 ↓ 。 番号は上と同じ。

■ 1.別府公園

元は1907年(明治40年)10月に完成した公園である。現在の公園の南側一帯が、当時の別府公園であり、現在の市営テニスコートや元・青山幼稚園などに位置していた。完成直後の11月7日には皇太子時代の大正天皇が巡幸している[2]。1928年(昭和3年)の中外産業博覧会、1937年(昭和12年)の別府国際温泉観光大博覧会は、いずれも別府公園を主会場として開催された。

しかし、第二次世界大戦後に接収されて駐留米軍のキャンプ(キャンプ・チッカマウガ。チッカマウガはチカマウガ戦争で知られるインディアンの呼称。)となり、1957年(昭和32年)に日本に返還された後も、引き続き陸上自衛隊別府駐屯地として使用された。wiki


別府国際温泉観光大博覧会(google画像


メタセコイア。戦後派だ。


旧来の松林。

▼ キャンプ・チッカマウガ時代の写真


ソース


ソース


ソース 松林の中に基地ができたらしい。

■ 2.グローバルタワー

大分県出身の世界的建築家、磯崎新氏の設計による
ビーコンプラザのシンボルタワー

2本の支柱とそれを支える弧状の柱がユニークなデザインのビーコンプラザのシンボルタワー。
地上100mに位置するガラスの箱のような印象の展望台から別府市内を一望することができます。
昼間は別府温泉の立ち上がる湯気、青く広大な海、標高1,375mの鶴見岳などの大パノラマが、
夜には「日本夜景遺産」に認定されたムード満点な街の煌めきが眼前に広がります。web site


利用料、300円です。

■ 3.京都大学熱学研究所

➡ この戦前からある建物は進駐軍に接収されなかった(愚記事:進駐軍はお熱いのがお嫌い?(Some dislike it hot?)

■ ⇒ 4.別府翔青高校

旧キャンプ・チッカマウガ地域。このあたりはディペンデント・ハウジング(将校宿舎)域。

キャンプ・チッカマウガは米軍撤退の後、自衛隊駐屯地となる。さらにその後自衛隊は移転。現在は自衛隊の施設ではないと思うだのだが、張り紙がある。

■ 4.別府翔青高校

■ キャンプ・チッカマウガの当時の様子:撤退する米陸軍・第187空挺歩兵連隊、1955年

キャンプ・チッカマウガに駐屯した米陸軍・第187空挺歩兵連隊の別府到着と別府撤退の両方の動画がある。YouTubeで見ることができる。
到来・United States Army 187th Airborne Regimental Combat Team returns to Japan from Ko...HD Stock Footage
撤退・Big Picture: Operation Gyroscope

下記画像は上記「撤退」の動画から取った(到着時の画像切取りはこの記事);


packing(引越しの梱包)


米軍を撮ったあまたの写真において、この写真の特徴は「松」


正門を出る米陸軍・第187空挺歩兵連隊


キャンプ・チッカマウガから別府駅までの行軍。紙吹雪で送られる。


別府駅。 FAREWELL  TO 187 ABN □□ :さらば!第187空挺歩兵連隊

「farewell」は英語で「別れ」を意味する言葉で、友人や家族、同僚などとの別れを表現する際に用いられます。特に永遠の別れや、再会の見込みが薄い場合に使われることが多いです。google)。 ところが、<奴ら>は、一昨年(2022年)に再来したことは報告した(愚記事:子猿をめぐる冒険 :米陸軍第11空挺師団の再興2022と再来;They shall return, again since 1947)。なお、since1947は間違いである。since 1956である。1956はもちろん上記別府から去った年だ。

別府市長さん(右から2番目)だそうです。

▼ 米軍基地の特徴:兵舎域と将校用家族住宅域の相違


曲線道路で特徴づけられる占領軍住宅地 

一般兵士用の兵舎は整然とした区画に建てられている。一方、将校用の家族住宅は曲線道路で特徴づけられる区域にある。これはキャンプ・クロフォードと同じ。

■5.⇒ 大学橋

この大学橋の通りは当時基地外ではあったが、道路は接収されていたとのこと。キャンプ・チッカモウガの北側には境川を越えて南荘園町というのがある。ここに基地外の米軍住宅があったらしい。それらは日本人用住宅を米軍が借り上げて、住んでいたらしい。

第187空挺歩兵連隊と交代してキャンプ・チッカマウガに駐屯した第508歩兵連隊(wiki)のweb siteにあった;
OFF-BASE DEPENDENT HOUSING = 基地外の扶養家族用住宅



http://www.508pir.org/odessey/japan/beppu_10b.htm

この第508歩兵連隊、のちにテト攻勢のフエの戦い [wiki]に参加

■ ⇒ 境川沿いを歩き、新六角温泉へ

6.新六角温泉

キャンプ・チッカマウガ跡地をお参りするため予習をした。そのとき地図で特徴的街並み・区画を見つけた。あぁ、何かこれは米軍と関係するのあろうか?と思った。それにしても、米軍駐屯地で多角形の街並みというのは見たことがない。多角形なのは<奴ら>の司令部の建物だ(愚記事:札幌郊外の米軍ペンタゴン)。道ではない。歴史を調べるためには、過去の航空写真を見ればい良い。見た。何と、戦前からある。進駐米軍より以前からあるのだ。奇妙な街並み。この時点で、田園調布を散歩したことがあるのに、全く気付かなかった。検索して、知った、緑ヶ丘中央温泉(六角温泉)について。


昭和14年(1939年)の航空写真

緑ヶ丘中央温泉(六角温泉)について

昭和8年、泉部土地建物の全身の会社である、国武合名会社は観海寺・荘園一帯を郊外型高級別荘地として開発を計画し、荘園は「緑ヶ丘(みどりがおか)」「雲雀丘(ひばりがおか)」「百花村(ひゃっかそん)」「鶯谷(うぐいすだに)」と4つのエリアに分け、それぞれの中心付近に共同温泉を建設した。

「緑ヶ丘」(現南荘園町)は、同心六角形の放射状街路で構成され、その中央には街のシンボル的な存在の六角形の外観を持つ緑ヶ丘中央温泉(通称六角温泉)が建設された。この共同温泉は地域の社交の場、娯楽の場である。放射状の街づくりの原型として考えられたのが「東京・田園調布」「パリ・シャルルトゴール広場」であった。

六角温泉は昭和8年浜脇の大工・田仲亀鶴によって建築された。

平成16年9月、六角温泉は大型台風の罹災に遭い大破。

平成17年1月より「新六角温泉」の建設が始まり、同年5月完成する。

⇒ 「別府=パリ?」80年前には放射状の形に 中心のシンボルは会員限定の温泉
⇒ 【大分・別府】温泉地に現れた謎の道路模様

■ ⇒ 境川沿い、バス停・野口原へ

栄光園は、戦後の窮乏と困難のなかにあって捨てられた混血児を暖かく迎える施設として1950年財団法人基督教栄光園として発足しました。web site


大分県散歩2:別府市、鉄輪(かんなわ)温泉

2024年12月24日 16時46分50秒 | 筑紫洲 (つくしのしま)

■ JR大分駅

JR大分駅から別府駅まで普通列車で向かう。

中山香=なかやまが、初めて知る。


ワンマンカーの運転席。

■ JR別府駅

■ 駅周辺

駅周辺には昭和レトロの通りや街並みがあり、猫も多いとネットにあったが、逢えなかった。

大きなスーパーで見た↓

りゅうきゅう:瀬戸内海に面し、豊富な魚介類に恵まれる大分県では、アジやタイ、太刀魚、イワシ、サバなど四季折々のさまざまな魚介が水揚げされる。
「りゅうきゅう」は、地元でとれた新鮮な魚を、醤油、酒、みりん、ごま、しょうがでつくるタレと和えていただく、大分県の代表的な郷土料理。一種の保存食として地元に浸透していった。
「りゅうきゅう」という名については諸説ある。大分の漁師が、沖縄(琉球)の漁師につくり方を教わり、地元に持ち帰ったことから「りゅうきゅう」と呼ばれるようになったといわれる説や、ごま和えにする料理を「利休和え」と呼ぶことから派生したという説がある。漁師たちにとってのまかない飯、また保存食として、南部の沿岸地域から大分県全域に広まった。農水省 web site

別府駅から鉄輪温泉に行かねば。

■ ➡ 鉄輪温泉

バスに乗ると、本日無料と知る。

■ 鉄輪温泉

鉄輪温泉(かんなわおんせん)は、大分県別府市(旧国豊後国速見郡)にある温泉で、別府八湯の一つ。温泉の湧出量では日本最大である別府の源泉の大半が鉄輪に集中している。湯治場の面影を濃く残し、レトロな町並みと別府地獄めぐりの多くが鉄輪温泉にある。wiki

バス停、地獄原・ひょうたん温泉で、別府駅からのバスお降りる。

▼ いでゆ坂

大江戸温泉物語Premium ホテル風月(web site)。じゃらん web site

別棟の風呂↓

▼ ホテルの部屋の窓からの風景

■ ごはん:(疑似)「地獄蒸し」

夕食、朝食、共に、バッフェイ(バイキング)。蒸し料理があった。ただし、温泉の蒸気えはなく、固形燃料を使った加熱形式。

温泉から噴出する高温の蒸気熱を利用した調理法で、別府では江戸時代から用いられていました。 食材をざるにのせ「地獄蒸し釜」と呼ばれる約100度の蒸気が噴き出す釜の中に入れ、蓋をするだけ。 塩分を含む温泉蒸気で一気に蒸すため、食材本来の旨味が閉じ込められます。google

さざえ、豚、いか、そして、キャベツ。

 頑張って燃える固形燃料

▼ 郷土料理

やせうま:

■ 夜の散歩 

マルショク。北九州では「サンリブ」というのだ。同じ「系列」。

マルショクとサンリブは、かつてはグループを形成していましたが、2017年9月1日にマルショクがサンリブに吸収合併され、法人としては「サンリブ」や「サンリブグループ」を名乗っています。マルショクは引き続き運営店舗のブランド名として残っています。google

▼ 支那物産展?

■ 夜明け前の散歩


↑おるで↑

温泉が流れる側溝のふたの上に陣取る猫。別府、鉄輪温泉ではよくある風景とのこと。ネットの案内に書いてあって、実物を確認できた。

■ 地獄

落ち着いた雰囲気の和風庭園にある白池地獄は、噴出した無色透明の温泉が、池の底面に落ちる際に温度と圧力が低下することにより、自然と蒼白い色合いになることから「白池地獄」と命名されました。web site

■ そして、郭沫若

何の予習もなく散歩してたら、ばったり見つけた。郭沫若詩碑。現在、中文研究者で郭沫若を研究している人っているのであろうか? その昔、1980年代後半は、その言動で、すっかり、相手にされなくなっていたような気がする。

郭沫若の自己批判の劇的なる文章は下記;

 数十年来、ずっとペンを持ってものを書き、そしていくらか翻訳もしました。字数から言えば、恐らく数百万字があったかもしれません。しかし、今日の基準を持って判断するなら、以前書いたものは、厳格にいうなら、全て焼き尽くすべきで、まったく価値がありません……。わたくしは今労農兵に学ぶべきです。そし て彼らを師として仰がなければなりません。わたくしはすでに七十いくつになりましたが、志なら大きなものがあります。つまり全身泥まみれ、油汚れまみれ、そして血まみれになりたい。もしもアメリカ帝国主義が攻撃してくるなら、彼らに向かって手榴弾でも投げたいものです……。

(愚記事:福田恒存の「支那通」力、あるいは、「文革劇」に、自ら、参加していたこと

▼ 石碑解説

この詩碑に刻まれているのは、郭沫若先生が昭和三十(1955)年に別府温泉を訪れた際に詠んだ自筆の詩です。郭沫若先生は、地獄めぐりの後、別府に投宿し、心ゆくまで別府の味と温泉を堪能しました。
地獄の凄愴な光景と湯のぬくもりは、よほど心に残ったのでしょう。後日、別府でのおもてなしのお
礼にと、この自作の詩を関係者に贈りました。

郭沫若先生(1892~1978)は、中国の政治家、文学者で、歴史学者としても世界的に著
名な業績があります。また、戦前は、九州大学に留学し、その後、中日友好協会会長として両
国の友好親善に大きな足跡を残しました。

別府市は、昭和五十三(1978)年、別府市日中友好協会のご協力のもと、各界の日中友
好人士や団体・企業などから、詩碑建立の浄財を集め、翌五十四年に除幕式を執り行いまし
た。この詩碑により、世界に誇るわが別府温泉が日中両国の懸け橋となり、末永い友好に寄与
できますよう念願しております。 別府市 web site

■ 八仙人彫刻像

「八仙人」は、中国で広く伝わっている男性7人、女性1人の計8人の仙人のこと。悪人を懲らしめ、貧しい人を助けると言われ、多くの伝説が伝わっている。日本でいう「七福神」のようなものだという。鉄輪地獄地帯公園内の十万公園に設置されている。ソース

■ 鉄輪バス停

 

 

 


大分県散歩:大分市、OPAM 大分県立美術館 、ダリ展、そして、りゅうきゅう丼、鶏天、あるいは、ぶんぶん童子

2024年12月23日 05時00分00秒 | 筑紫洲 (つくしのしま)

大分県の大分市と別府市に行った。まず、大分市に行く。大分県立美術館(OPAM:Oita Prefectural Art Museum)のダリ展を見にいくためだ。JR日豊本線で南下し、大分に向かった。

1.JR大分駅、2.大分銀行 赤レンガ館、3.若草公園、4.大道入口、5.OPAM 大分県立美術館、6.中央町2(寿司ろばた、八條)

■ 日豊線で北九州市から大分市へ

■ 1.JR大分駅

ぶんぶん童子:ミツバチの子 ぶんぶん童子は、大分県の分(ぶん)と豊後の豊(ぶん)にちなんだ「ぶんぶん号」の安全と子どもたちの笑顔と幸せを見守っています。google

大分駅前のクスノキ(google)。

■ 2.大分銀行「赤レンガ館」

1913年(大正2年)、旧二十三銀行本店として建てられた大分銀行「赤レンガ館」。 東京駅なども手掛けた辰野金吾氏による設計で国の登録有形文化財にも指定されています。 2018年には、外観や内装の一部を改装し、美しいルネサンス様式の歴史ある建物が一層魅力的に生まれ変わりました。web site

辰野金吾だ。なお、大分市は磯崎新の出身地で、「作品」がたくさんある➡大分市内の磯崎建築を紹介します

大分銀行「赤レンガ館」は、敗戦前は大分貯蓄銀行であり、大分空襲で市街は焼け野原となるも、同銀行の赤レンガ外壁は残る。

大分貯蓄銀行:大分市貯蓄銀行は大工町の西北角にあり正面玄関は竹町の面していた。向いは一丸百貨店で、一丸も焼け落ちた。建物は2階建て、483㎡の総床面積をもっていた。10mの軒高があり、43㎝の暑さの耐火レンガの外壁で覆われていた。内部には金庫があり、その扉は火災でひどく歪んだが、その内部と内容物は被害を受けなかった。主要な建物の大部分は外壁を残して完全に燃え尽きた。外壁は構造的な損害を受けなかった。この建物に火災を起こしたのは直撃弾であった。入り口から内部の様子が少し見えるが、完全に破壊されているのが伺われる。米軍資料の写真で見る大分市の空襲

■ 3.若草公園

公園内には、国鉄C55形蒸気機関車が静態保存されている。この蒸気機関車は1937年(昭和12年)に製造されたもので、1971年(昭和46年)まで主に日豊本線で旅客列車に使用されていた。1972年(昭和47年)に大分鉄道管理局から大分市に無償で貸与され、大分駅からの約700mを仮設線路を敷いて一晩かけて公園まで移動[7]。4月11日から展示された[8]。大分市内の小中学生から募集して、戦国時代の豊後国の大名大友義鎮(宗麟)に因む「そうりん号」という名称が付けられているwiki

■ ➡ 4.大道入口

■ 4.大道入口

■ 5.OPAM 大分県立美術館

生誕120周年 サルバドール・ダリ ―天才の秘密― (google)


ダリの生誕120周年、シュルレアリスム宣言100年の記念すべき節目に開催する本展は、世界屈指のダリ・コレクションを誇る諸橋近代美術館の所蔵品を中心にダリの生涯を概観し、ダリの渡米以降の活動にも注目します。ダリが私たち観衆に魅せた「シュルレアリスト・ダリ」とその背景にある「人間・ダリ」の複雑で繊細な内面を探り、世界中で愛されている サルバドール・ダリがいかなる芸術家であったのか、ダリの油彩、素描、 版画、彫刻のほか、シュルレアリスムの作家の作品群から明らかにします。作品約70件と関連資料を展示いたします。(Opam web site)

ダリとはいかなる芸術家であったのか。
「シュルレアリスト・ダリ」とその背景にある
「人間・ダリ」の複雑で繊細な内面から天才の秘密を探ります。
サルバドール・ダリ(1904-1989)生誕120周年、シュルレアリスム宣言100年の記念すべき節目に開催する本展は、世界屈指のダリ・コレクションを誇る諸橋近代美術館の所蔵品を中心にダリの生涯を概観し、ダリの渡米以降の活動に注目します。ダリが私たち観衆に魅せた「シュルレアリスト・ダリ」とその背景にある「人間・ダリ」の複雑で繊細な内面を探り、世界中で愛されているダリがいかなる芸術家であったのか、ダリの油彩、素描、版画、彫刻のほか、ミロやマグリットなどシュルレアリスムの作家の作品などから、ダリの多様な側面を明らかにいたします。作品約70件と関連資料を展示いたします。 (Opam web site)

▼ ダリ展

 

 

下段はダリの作品ではない。下段左:ジョルジオ・デ・キリコ《イタリア広場》1914年 

➡ 諸橋近代美術館 主なコレクション

▼ 2階へ

美術家たちは自らの心の中で作り出したイメージを様々な手法で表現しています。江戸時代の南画家たちは、見ることのできない中国の仙境を心の中でイメージを膨らませながら描き出しました。近代に入ると眼に見える世界を超越した心の内面を表現しようとする美術家たちがあらわれます。日本画家・髙山辰雄は、自然と人間とのつながりや、生命の不思議に思いをめぐらせ、その思念の先に紡ぎ出した象徴的なイメージを通じて独自の画境を切り拓きました。洋画家・糸園和三郎は、シュルレアリスムを創作の起点として、静謐な心象風景の中に、現代に生きる人々の不安や孤独を詩情豊かに描き出しました。
本展は「生誕120 周年 サルバドール・ダリ」展の開催にあわせて、大分県立美術館のコレクションより人間の心の内面を写し出した作品を紹介します。Opam web site

            
糸園和三郎《鳥と青年》1959年     田口壮《季節の停止》1938年

■ 県立美術館から駅へ戻る。途中、中央町でお昼ごはん。

■ 6.中央町2(寿司ろばた、八條)

➡ 食べログ

■ 大分駅に戻る

大友宗麟像。大友宗麟の名前は知っていたが、大分とは知らなかった。そして、家に帰り調べると、やはり、やばい人だった;

大友宗麟の野望は、日向国の全領民をキリスト教徒に改宗させ、ポルトガルの法律と制度を導入してキリスト教の理想郷を建設することで、宣教師たちの言いなりになって現地の神社仏閣を焼き尽くしました。

島原半島南部を支配していた小領主の有馬晴信(大村純忠の甥)は、龍造寺隆信に圧迫されると、イエズス会からの支援を得るために洗礼を受け、キリスト教徒となりました。

軍事力を強化して和睦に成功すると、宣教師の求めるままに、家臣・領民の入信に加えて、40か所以上の神社仏閣を破壊したばかりか、領内の未婚の少年少女を捉えて奴隷として献上し、さらに浦上の地まで差し出してしまいました。 (1571年「日本人奴隷の買い付け禁止令」が出されたほどの悲惨な歴史

大友宗麟自身が日本人を奴隷として売ったかは書いていない。ただし、耶蘇となってのちの奴隷貿易をする耶蘇・毛唐の活躍の端緒をつくったらしい。

皮むき冷凍みかん(google)。 JX金属は佐賀関に精錬所があると知る(web site

■ まとめ

通過街
大分市 要町、末広町、中央町、寿町

 


筑紫洲 (つくしのしま) でもぶどう記録;第39週

2024年12月21日 18時00分00秒 | 筑紫洲 (つくしのしま)

▲ 今週のみけちゃん
▼ 筑紫洲 (つくしのしま) でもぶどう記録;第39週

■ 今週のよその猫

■ 今週の草木花実

■ 今週の鬼

鬼柚子(おにゆず)は、獅子柚子(ししゆず)とも呼ばれ、文旦の亜種に属する柑橘類です。主に九州地方で栽培されており、濃厚な香りが特徴です。google

■ 今週の丼

りゅうきゅう丼

りゅうきゅうは、大分県を代表する郷土料理で、アジやサバ、ブリ、カンパチなどの魚の切り身を醤油、酒、みりん、ごま、しょうがなどで作ったタレに漬け込んだ料理です。薬味にはネギやワサビが添えられることが多く、酒の肴や丼飯に載せて食べられます。google

■ 今週の泉都
 
別府市 鉄輪(かんなわ)温泉
 
■ 今週の田園に架ける
 
 
■ 今週の郷土料理:やせうま
 
 
やせうま:やせうまは、大分県を代表する郷土料理で、小麦粉を練ってひも状にのばし、ゆでた後にきな粉や砂糖をまぶして食べるおやつです。google
 
■ 今週のオブジェ
 
 
ぶんぶん童子:「ぶんぶん童子」は奈良のせんとくんをデザインした薮内佐斗司氏が制作した作品です大分駅のキモかわオブジェ !改札口にある昆虫のせんとくん【大分市】
 
■ 今週の展示
 
 
 
大分県立美術館
 
■ 今週のレコンキスタ史跡探訪(現、別府公園)
 

元は1907年(明治40年)10月に完成した公園である。現在の公園の南側一帯が、当時の別府公園であり、現在の市営テニスコートや元・青山幼稚園などに位置していた。完成直後の11月7日には皇太子時代の大正天皇が巡幸している[2]。1928年(昭和3年)の中外産業博覧会、1937年(昭和12年)の別府国際温泉観光大博覧会は、いずれも別府公園を主会場として開催された。

しかし、第二次世界大戦後に接収されて駐留米軍のキャンプ(キャンプ・チッカマウガ。チッカマウガはチカマウガ戦争で知られるインディアンの呼称。)となり、1957年(昭和32年)に日本に返還された後も、引き続き陸上自衛隊別府駐屯地として使用された。wiki

 
 
 
 
さて、このツリーは「正の遺産」なのか?、「負の遺産」なのか? どちらなのだろう?
 
 
別府公園
 
下の地図での「下士官宿舎」、「将校宿舎」の方面
 
 
■ 今週の気づき:進駐軍はお熱いのがお嫌い?(Some dislike it hot?)
 
 
1922年7月より研究所本館の建設工事が始まり、翌1923年12月竣工、明けて1924年1月26日より別府地域の予備調査と事務が開始されました。日本での地球科学的温泉研究のあゆみ(5)
 
1923年にできたこの京大の附属研究所の建物は、敗戦時にもあった。つまり、米占領軍が別府に進駐して来たとき、あった。でも接収されなかった(ようだ)。事実当時の地図を見ると京大施設ととなりの建物(現市立美術館、当時おそらく旧制中学?)は接収されていないようだ。なお、上のキャンプ・チッカマウガのポンチ絵地図はその部分は不正確である。
 
つまり、現京大熱学研究所は米軍に接収されなかった。これは、北大の低温研が進駐軍に接収されたことと対照的である。愚記事:敗戦後、1946年、札幌に進駐した米陸軍、第11空挺師団の演習場所:札幌飛行場、羊ヶ丘、あるいは、接収された北大。北大の低温研を接収し駐屯した米軍部隊のひとつが米陸軍第187空挺歩兵連隊(第11空挺師団)である。朝鮮戦争前に米国に帰り、朝鮮戦争後に別府に進駐/「帰還」した。進駐/「帰還」先がキャンプ・チッカマウガ。米陸軍第187空挺歩兵連隊は低温研は接収したが、熱学研は接収しなかったのだ。進駐軍はお熱いのが嫌い?
 
北大低温研。
 
敗戦で北海道大学(北大)は接収されたのだ。あんまり、知らなかった。はっきりした資料があった。北大の低温研は敗戦後、1945年10月3日に接収された。「48時間以内に出ていけ」と通告されたのだという。低温研の所長はあの中谷宇吉郎 [wiki]だ。愚記事
 
■ 今週の訃報
 
渡辺恒雄死去(google
 
愚記事:「代々木の隠しだま
 
ネット情報によると、歴代内閣の官房長官は月に一度、渡辺恒雄に政情説明を読売新聞本社に出向き、実施していたとのこと。渡辺恒雄のマスコミと政治の癒着は周知であるのに読売新聞以外のメディアは何も批判しなかった。これは日本にjournalismがないことの証左である。渡辺恒雄もジャニー喜多川もマスコミのだんまりで安泰として死を迎えた。
 
強烈な体験がその後の一生を決めてしまうのは起こりうることである。同情するしかない。渡辺恒雄は東大生として兵役に従事し、受難したことが、その後の渡辺恒雄をつくったのは有名な話だ。「軍国日本」を呪詛することとなる。インテリさまの自尊心を踏みにじって [1]、かつ、生かして返すと、後でとんでもない復讐を受けるよい例だ。戦後はこういう「傷つけられた自尊心(自己愛!)」をもつインテリさまたちが「日本」に復讐をし続けた時代であった。
 
[1] どっかで読んだ気がするのだが、東大のナベツネを殴ったのは早大の兵隊であったと。フミオか!
 
この渡辺恒雄に代表される兵役経験による受難を受けた人を参照として見るべき人は、渡辺恒雄より1歳年上の三島由紀夫である。もし、三島由紀夫が兵隊に行ってたら、三島のその後はどうなったであろう?
 
この人たち↓は、三島事件について、「あいつは戦争を知らないんだよ」と了解していたのだろう。
 
世代の昭和史 「戦争要員世代」と「少国民世代」からの告発

■ 今週のキリ番
  ブログ開設から7474日
 

筑紫洲 (つくしのしま) でもぶどう記録;第38週

2024年12月14日 18時00分00秒 | 筑紫洲 (つくしのしま)

▲ 今週のみけちゃん
▼ 筑紫洲 (つくしのしま) でもぶどう記録;第38週

■ 今週のよその猫

■ 今週の筑豊境

■ 今週の草木花実葉

■ 今週の黒酢

百菜 白身魚の黒酢炒め定食 (web site)

昔、グルーポン おせち騒動(google)というのがあった。wiki [スカスカおせち事件]。この「白身魚の黒酢炒め定食」でも、同様の事象が生じていたらしい ⇒ しかし、何か変だ。ホント、変だよ。騙されたのだよ。

■ 今週知ったパンの種類:クッペ

お米が高いので、パンの購入を強いられている。割引のパンを買う。

クッペ(coupé)はフランス語で「切られた」という意味で、中央に1本のクープ(切れ目)が入ったハード系のパンです。バゲットと同じ生地を使い、ラグビーボール型に成形して作られます。食べきりやすい大きさで、バターをのせて焼き上げます。google

どうやら、コッペパンと関係があるらしい。
 
■ 今週の「品質の劣る」もの、あるいは、没落「武士」のおコメ事情
 
関東(筑波山麓、横浜)にいたころは、ある農家からお米を、 おいらがお武家さま然としているからか、献上してもらっています  40歳すぎて非正規労働者なので恵んでもらっています、という状況だった。しかしながら、つくしのしまに来てからは、運送費が高いので、お米を恵んでもらう境遇から「没落」した。座食の停止。
 
 
お米が高い。ももたろう印の生活支援米を贖う。銘柄米と比べ、品質の劣るブレンド米だ。(Amazon
    • 規格外・未検査米といった低品質米を原料として使用しています。
    • 白いお米や小粒なお米、割れたお米、発育不良によるヤケ(黒い部分)が入っています。
    • 銘柄米と比べ、品質の劣るブレンド米です。
    • 品質にこだわりのあるお客様のご購入はお控えください。

■ 今週の「後見人」


https://x.com/mikishidaimon/status/1857035142046376026

↑ アカの方ではなく、 ↓この方です

愚記事より 山東昭子

■ 今週のお城、しかも、鳥瞰、小倉城

後述の博物餡から撮影

■ 今週の博物館:ゼンリンミュージアム(北九州市小倉)

ゼンリンミュージアム web site 

cocura:小倉、Cecugen:筑前、Bugen:豊前、Figen:肥前、Nagoya:名護屋。「十字」はキリスト教領ということか?

■ 今週知ったこと:1826年から認識、上記ゼンリンミュージアムにて

愚ブログでは札幌郊外にあった米軍基地キャンプ・クロフォードについて書いている。これだ↓

この地は現在、陸上自衛隊真駒内駐屯地である。真駒内というのは地名だ。元来、アイヌ語。その真駒内=マコマナイは1826年(文政9年)の和人の地図(高橋景保「蝦夷図」)で認識されている(地図の左下)。真駒内以外、琴似、当別、豊平(トイピラ)などが認めらる。

■ 今週気づいたこと、あるいは、米陸軍第187空挺グライダー歩兵連隊の履歴

2020年の3月末、すなわち、コロナの流行が始まった頃、おいらは、187GLI、第187空挺グライダー歩兵連隊を認識した。おいらが生まれた札幌に進駐してきた米軍部隊を調べた結果だ。その米軍の部隊名は187GLIという記号の情報だけがわかった。半日かけて、ネットで、187th Glider Infantry Regimentとやっとわかった。wikiedia: 第187歩兵連隊(アメリカ)。第187歩兵連隊は第11空挺師団の配下の部隊。


記号の横の文字は、187GLI、CAMP SEIENBERG。187GLIは、第187空挺グライダー歩兵連隊。CAMP SEIENBERGは札幌の月寒(ツキサップ)基地(愚基地:Camp Seidenberg Sapporo Japan, キャンプ シーデンバーグ 月寒 札幌)。

さて、第187歩兵連隊について、おいらが自覚的に認識した2020年3月末より以前に、愚ブログで紹介していると今週気がついた。新しい街でもぶどう記録;第194週 2018年07月28日 における「今週のどさくさ」に第187歩兵連隊の朝鮮戦争からの大分県別府への「帰還」に言及している。リンクした動画が下記だ;


「歓迎 187落下傘部隊 朝鮮からの帰還  別府市」

1953年の別府駅。朝鮮から日本に「帰還」し、別府の米軍基地に入る第187空挺歩兵連隊。

星条旗と日の丸と紙吹雪と大勢の日本人/別府市民に迎えられる第187空挺歩兵連隊兵士。
歓迎する温泉業?のおじさんたち ↓

この動画はプロパガンダ動画であり、前半では朝鮮戦争後の米軍の日本進駐の様子を映している。多くの日本人が歓迎している。もちろん、これは日米共同の歓迎組織がお膳立てしたのであろう。一方、動画の後半では敗戦直後(1945年)の占領軍の進駐の様子が移されていて、8年の歳月を経ての変化を示すことが、この動画の製作者の意図だ。米軍の占領で日本はこんなに米軍に友好的になりましたと。さて、後半の敗戦直後の様子で空襲による瓦礫の街が映るのだが、この光景は前半の別府の街とは違う街のはずだ。なぜなら、別府は空襲に遭わなかったからだ。今週知った。

■ 来週のレコンキスタ史跡探訪(現、別府公園)、あるいは、B-29が来なかった街

ということで、来週、別府の米軍基地のお参りに行くことにした。米軍基地の名はキャンプ・チッカマウガ。現在の別府公園とその周辺。


中学校 学習資料 ソース

映像がある(YouTubeにはない):昭和館デジタルアーカイブ キャンプ・チッカマウガ(野口原)別府、日本  米軍が進駐した大分県別府市を撮影した映像。米軍キャンプ内の様子や別府市内を観光する米軍兵士の様子が記録されている。

 


東京散歩:敗戦国の混血少女・ノーマ・フィールドを探して、目黒区、碑文谷界隈

2024年12月08日 07時34分25秒 | 東京・横浜

ノーマ・フィールドという人がいる。wikipediaの冒頭には、「アメリカ合衆国の日本研究者、シカゴ大学名誉教授」とある。女性だ。存命。1947年/昭和22年、東京生まれ。父親が進駐軍兵士だ。生まれてから一度も日本人になったことはない。ずっと、アメリカ合衆国人だ。

主な著作は『天皇の逝く国で』(1994)、『祖母のくに』(2000)、『へんな子じゃないもん』(2006)。のちに、『平和の種をはこぶ風になれ-ノーマ・フィールドさんとシカゴで話す』(2006)、『ノーマ・フィールドは語る-戦後・文学・希望』(2010)では、「敗戦国の混血少女」が碑文谷(東京都目黒区)の母方の実家に元軍人で米軍属となった父親と暮らし、スクールバスでワシントンハイツ内の幼稚園、学校に通ったことなど詳細に語られている。さらに、ノーマ・フィールドの母親と父親の進駐軍兵士とのなれ初めも語られてる。

代表作は、やはり、『天皇の逝く国で』(1994)。現在出版元品切れ、中古価格2,500円ほど。内容は、昭和終焉の頃、「体制」にはなじまない3人、すなわち、「沖縄国体で日の丸を焼いた知花昌一、殉職自衛官の夫の靖国神社合祀に反対した中谷康子、天皇の戦争責任を明言して狙撃された長崎市長の本島等版元web site)」への面会、交流、インタビューをまとめた本。元は英語で書かれた米国人向けの昭和天皇崩御の頃の日本紹介。もちろん、ただの日本紹介ではなく、「体制」になじまず、抵抗し、さらにはくっきりとした個人を明徴化させ、「闘う」日本人だ。もちろん、昭和天皇への共感など微塵もない。

この『天皇の逝く国で』でノーマ・フィールドは自分のことは説明している。

私の母は(中略)比較的恵まれた、しかし結果的には不運な女。スコットランド系アメリカ人の父と横浜のアメリカ領事館で結婚したのは、一九四六年、まだ食料も物資も乏しく、闇市が盛んだったころのことである。かくて私は東京で両親、母方の祖父母、結婚まえの叔母たち、それに何匹かの猫にかこまれて、晴れ着にはオーガンジーのワンピースを与えられて育つことになった。敗戦国の混血少女にとって、それはまさしくイェイツの言う「しきたりと礼儀」の生活だった。

1964年、東京オリンピックの選手村が建てられたのは、ワシントン・ハイツという名のそういう幻想の国[ネヴァー・ネヴァー・ランド]の跡地である。私はそこの小学校に六年間通った。(中略)はじめての本格的なアメリカ体験は、ワシントン・ハイツの学校に入学手続きをした時から始まった。

ただし、『祖母のくに』、『へんな子じゃないもん』には碑文谷のことは明示されず、ワシントンハイツという言葉さえ出てこない。しかし、わかる人が読めば、ノーマ・フィールドはワシントンハイツの学校に通っていたとわかる。そして、わかる人が読めば、ノーマ・フィールドは碑文谷に住んでいたとわかる。

おいらは、『祖母のくに』、『へんな子じゃないもん』を読んで、ノーマ・フィールドはワシントンハイツの学校に通っていたと気づいた。「スクール・バスがわたしを運んでいったアメリカ軍基地は、三〇年まえのオリンピックで消えていまはない」(『へんな子』p100)とある [A]。『へんな子じゃないもん』は本来英語で書かれたせいか日本事情を説明する固有名詞は書かれていない。固有名詞を書いても英語人にはわからないので、意味がないと考えたのか、あるいは、個人情報の保護のためか。したがって、『へんな子じゃないもん』では、彼女がどこに住んで、どこからワシントンハイツの学校に通っていたのか?、その地名は書かれていない。しかし、状況的に示唆される文言として「品川港で明け方に船が鳴らす低い汽笛」とある。品川区か?でも、決定的な文言が見つかった。<おやど>ー住まいに指小辞の「お」をつけたもので、いかにも雀が寄りつきそうなところという意味の<雀のおやど>という言い方もある。祖母の家の近くの竹藪に囲まれた古い農家は、市の公園になってこの名で呼ばれている。これでわかった。これは、目黒区のすずめのお宿緑地公園のことだ。

▼ 今年(2024年)春に横浜を去ることになった。都内に行き、目黒区碑文谷を散歩した。
その散歩記録


1.東急東横線都立大学、2.すずめのお宿緑地公園、3.碑文谷八幡宮、4.サレジオ教会、5.円融寺、碑文谷1丁目はノーマ・フィールドが住んでいた地区(らしい)


東京における碑文谷1丁目(赤線で囲まれた5角形)

■ 1.東急東横線都立大学 ⇒ 2.すずめのお宿緑地公園


東急東横線、都立大学駅

■ 2.すずめのお宿緑地公園


すずめのお宿緑地公園(目黒区碑文谷三丁目11番22号)

・<ひるさがり>ー正午を過ぎたころの、昼のうちでももっとも昼の気分の濃厚な時間。<おやど>ー住まいに指小辞の「お」をつけたもので、いかにも雀が寄りつきそうなところという意味の<雀のおやど>という言い方もある。祖母の家の近くの竹藪に囲まれた古い農家は、市の公園になってこの名で呼ばれている。 「大人になっての帰省」 ノーマ・フィールド、『へんな子じゃないもん』(2006)

すずめのお宿緑地公園の由来
この付近は、昭和のはじめまで目黒でも有数の竹林で、良い竹の子がとれました。竹林には無数のすずめが住みつき、朝早くいづこへともなく飛び立ち、夕方には群れをなして帰ってくることからいつしか人々は、ここを「すずめのお宿」と呼ぶようになりました。
この土地の所有者角田セイさんは、長年ここで一人暮らしをしておりましたが、「土地は自分の死後お国に返したい」といって大事にしておられたそうです。
その尊いご遺志が生かされて、角田セイさんの没後、目黒区が国からこれを借り受けて公園を造り、多くの人々の憩いの場として、利用することができることとなったものです。
ここに「すずめのお宿緑地公園」の由来を記して、故人のご遺志に深い感謝をささげます。
昭和五十六年四月吉日 目黒区長 塚本俊雄  すずめのお宿緑地公園の由来

■ ⇒ 碑文谷八幡宮

たとえば、スクールバスを降りたときに、同じくらいの男の子から「アメリカ人!」って小石を投げられた記憶があります。あの八幡さまのところで。鳥居のそばでスクールバスが停まったでしょう? (ノーマ・フィールフォの回想、『平和の種をはこぶ風になれ-ノーマ・フィールドさんとシカゴで話す』p136)

■ ⇒ サレジオ教会

 でも、ウチのそばはつい最近まで田圃や畑があったじゃない。有名人。松田聖子が結婚式場として選んだサレジオ教会のあたり。 『平和の種をはこぶ風になれ-ノーマ・フィールドさんとシカゴで話す』p137

■ ⇒ 5.円融寺

近所のお寺が斎場を建てなおしている。たぶん、いちどきに何組もの葬式ができるようになるのだろう。忘れずに駐車スペースを十分残しておくだろうか。
「葬儀の道具立て III 移動式トイレと俳句[ポートレット ポエトリー] 」 (『へんな子じゃないもん』)

▲ 以上、散歩報告を終わる。

**以下、ノーマ・フィールドの著作から彼女の人生の周辺についての抜き書き**

■ 「パンパン」について

ノーマ・フィールド、『へんな子じゃないもん』(2006)で一番目を引いたのが「パンパン」問題。むしろ、今の日本で「パンパン」[#]は通じないだろう。つまりは、今の日本で下記のような文章を読んでも通じないのだ;

あれほど世界に喧伝された日本人の愛国意識が戦後において急速に表面から消えうせ、近隣の東亜諸民族があふれるような民族的情熱を奔騰させつつあるとき日本国民は逆にその無気力なパンパン根性やむきだしのエゴイズムの追求によって急進陣営と道学的保守主義者の双方を落胆させた事態の秘密はすでに戦前のナショナリズムの構造のうちに根ざしていたのである。([強調おいら] 五 日本におけるナショナリズム、第一部 現代日本政治の精神状況、『現代政治の思想と行動』、丸山眞男、1964年、初出は1951年。)

[#] パンパンとは誰なのか―キャッチという占領期の性暴力とGIとの親密性 (茶園 敏美)  (Amazon)

さて、ノーマ・フィールドの話に戻って、「パンパン」が出てくる。それも実の母が実の叔母にいわれるのだ。

確かにオバたちは、母や祖母と違って、活発に自己表現する。花騒動はほんの一例だ。母親が倒れて、今まで点検されなかった歴史が紛失するかのようだ。なぜ今、このことでこれほど怒られるのか、 当惑することも多かった。木に際した家庭にはよくあることだろう。ホームヘルパーに、姉はパンパンだったのよ、と言ったらしい。GI だった私の父と結婚したからだろう。だが空振りだった。叔母が売春婦の意味で使ったその言葉は、一回りほど若いヘルパーさんには通じなかった。

  その時の母の態度はあっぱれだった(ヘルパーさんは無論 この話を母に告げたのだ)。あの当時、 自分自身と家族を養うためには何でもやった女の人たちを見下す なんてしたくない、と言った。けれどと彼女は付け加えずにはいられなかったが、それを咎める資格は私にはない。 「音と身振り」 『へんな子じゃないもん』p139

これはすごい。事実は小説より奇なり。有吉佐和子に『非色』という小説がある(関連愚記事、あらすじ&感想:読書メーター)。進駐軍兵士と結婚して子を設け、渡米する女性の話。進駐軍の特権を利用して物資の調達など利便を家族・兄弟にもたらした主人公は、結局、家族に冷遇される。そういう小説なのに、おいらの記憶では、「パンパン」という言葉は出てこない。もちろん、主人公は売春婦ではないので、パンパンが出てこなくて当然なのだが。

ノーマ・フィールドの母は三姉妹の長女。ノーマ・フィールドにとって実の叔母ふたりは彼女の著作でしばしば言及される。長崎の叔母と碑文谷に残った叔母。実の姉を「パンパン」呼ばわりしたのは、碑文谷に残った叔母だ。

■ ノーマ・フィールドの実家、春美栄光堂(ブロマイド屋)

 ノーマ・フィールドの母は三姉妹の実家は、春美栄光堂(google)というブロマイド屋。それが碑文谷にあった。2000年頃までは続いていたらしい。

最初の著作『天皇の逝く国で』(1994)では、「真珠湾ののち、祖父母はアメリカやヨーロッパの映画スターの写真を売ることができなくなった」と言及されている。実家が洋画のスターの写真を売る商売をしていたことが紹介されている。ただし、具体的なことは何も説明されていない。のち、『平和の種をはこぶ風になれ-ノーマ・フィールドさんとシカゴで話す』(2006)では詳しく紹介されている。現在、ネット検索すると下記情報が得られる;


出典:駿河屋 web site



出典、
Amazon: 1941年発行 春美栄光堂 スターカレンダー 戦前 ハリウッド

戦前から、screen pictorial (google)という雑誌を刊行していたらしい。日米開戦の年まで、洋画女優のカレンダーを売っていたのだ。この経営者がノーマ・フィールドの母の親である。

スクリーン・ピクトリアル (天牛書店

■ その実父について、あるいは、ルサンチマン、はたまた、学歴、出身集団

ノーマ・フィールドは実父についていくばくか語っているが、否定的である。かわいそうな、お父さん。むしろ、ノーマ・フィールドが書いて報告しているのは義父(夫の実父)であり、その文章の題は「嫁ならざる嫁」である。ウヨのおいらでさえ、冷や冷やする。ポリコレ的に大丈夫なんだろうか?義父と嫁って家父長的なものを前提としていないか。なお、義父の名はジョージ・G・フィールドと明記されている。つまり、ノーマ・フィールドの姓は夫のものなのだ。日本の旧家のステロタイプでは、お嫁さんが舅さんに「野原」家の人間だってこと忘れないで下さいね!、といわれるのだ。その「嫁」だ。なお、実父の姓はノーマ・フィールドの著作で一切明らかにされていない。ノーマ・フィールドは「夫婦別姓」ではないのだ。

さて、ノーマ・フィールドの実父はスコットランド系米国人でカリフォルニア出身であると彼女から報告されている。そして、低学歴でルサンチマンの人だと娘から断定される。WW2直後のトランプ支持者!。

『平和の種をはこぶ風になれ』でノーマ・フィールドと母、美登里は語っている;

美登里 あなたのお父さんなんか、けっこうね、知識的に下のほうよね。

ノーマ だって、高校出てないでしょう。

美登里 わたしには高校、出たっていってたけれど。

『ハイスクール・セルフ・トートゥ』

美登里 わたしは高校を出たと思っていた(笑)。でも、そういう本があったっていうことは。

ノーマ そう。わたしはずっと軽蔑していた(笑)。

さらに、別途;

ノーマ そのスコットランド人の移民の祖母とは数か月一緒に暮らすことになるわけです。はじめてアメリカに行ったとき。確かに実直でいい人でしたが、もう偏見の塊なんです。貧しい生活をしていてー祖父はとっくに亡くなっていましたから、彼女は年金暮らしだったと思います。その地域は、南カリフォルニア大学の付近ですが、その地域に残っている白人は、彼女と彼女の家の向かいの小さな食料品をやっているジェリーっていう男性、その二人だけでした。まわりのアフリカ系アメリカ人の悪口ばっかりいっていました。

ノーマ・フィールドが直接語る実父の記憶:父はルサンチマンの塊のような人物

 アメリカ人としても背の高い父は、(中略)貧しいスコットランド移民の子で、高校も出たかどうか知りません。アメリカ社会の底辺で生きることを強いられた男性が、軍隊に入り、日本に来て、日本人女性と結婚する。

 父はルサンチマンの塊のような人物で、反共、核実験推進、という感じでした。(中略)父も父で、薄幸な人生だったと想像がつきます。 (『ノーマ・フィールドは語る 戦後・文学・希望』2010)

■ ノーマ・フィールドの両親の馴れ初め、あるいは、家父長制の賜物、はたまた、複製芸術時代の国際結婚

 ノーマ・フィールドの父親である米兵と日本人であったノーマ・フィールドの母親がどういういきさつで結婚することになったのか?それはノーマ・フィールドの母親の父親(以下、祖父)が進駐軍の米兵を家に連れて来たのだという。その祖父は前述の通り洋画俳優のブロマイド販売を行っていて、のち、80歳過ぎて、叙勲。理由は、「六十年間、日本における西洋映画振興に尽くした」。

 ノーマ・フィールドの両親が出会った場所は都内ではなく、座間だ。祖父の実家が座間であり、終戦直後は疎開していた。今のキャンプ・座間、当時の陸軍士官学校の近所だ。米兵である父はキャンプ・座間所属だった。つまりは、戦前は洋画の俳優、女優のブロマイドを刷って売っていた(複製芸術!)祖父が本物の白人に出会い、家に連れて来たのだ。当時、上述の本当の「パンパン」さんたちは家父長制のもと家から追い出されていたとされる時代に、ブロマイド屋の祖父は家父長制のもと進駐軍のスコットランド系アメリカ人と娘を結婚させたのだ。


J Koayama Land 様より

 ノーマ・フィールドの父親は1952年頃ひとりで帰国する。ノーマ・フィールドは両親の結婚について、母親は結婚に「失敗」したと認識し、結果的には不幸な女と書いている[B]。上記のいきさつは、当初から、第一作『天皇の逝く国で』で書いている(本記事冒頭での引用を繰り返す);

 そもそも私の父をほかのGIといっしょに、英語のできる娘たちに会わせようと言って家に連れてきたのは、祖父だった。私は沖縄の高良勉の詩集を読んだことがある。黒い肌・白い肌のGIを待ちつつ海をみつめる。腕の付け根まであらわな島の娘たち*。私の母は島の娘ではなかった。比較的恵まれた、しかし結果的には不幸な女。スコットランド系アメリカ人の父と横浜のアメリカ領事館で結婚したのは、一九四六年、まだ食糧も物資も乏しく、闇市が盛んだったころのことである。かくて私は東京で両親、母方の祖父母、結婚まえの叔母たち、それに何匹かの猫にかこまれて、晴れ着にはオーガンジーのワンピースを与えられて育つことになった。敗戦国の混血少女にとって、それはまさしくイェイツの言う「しきたりと礼儀**」の生活だった。(『天皇の逝く国で』)

 
*  高良勉「夢の黙示」、詩集『岬』(大阪、海風社、一九八四年)十八ー十九頁。
** イェイツの詩「わが娘への祈り」より。「・・・・しきたりと礼儀が守られなければ、無垢と美はどうして生まれようか」(訳註)

■ 天皇、庇護者、あるいは、<世界>/ 御代の崩壊

 ノーマ・フィールドは『天皇の逝く国で』では、昭和天皇ではなく、沖縄・長崎・山口の抵抗者たちを描き、『祖母のくに』、『へんな子じゃないもん』では混血児 [C]である自分を庇護してくれた祖母を語る。さて、上記抵抗者たちは天皇を中心とする国家がもたらす「悪」に抵抗する。その「悪」の源の天皇の死の重大さは、ノーマの祖母の「死」で明らかとなる。すなわち、天皇が日本にいる必要性、重要性、あるいは、<(疑似)超越的中心>を、ノーマ・フィールドは祖母が倒れたこと(社会的「死」)で知る。その「偉大な中心」が失われた時出来する「地獄」が報告されている。

(三姉妹は)絆が強いだけに、祖母が倒れてからはみんな対立するようになってしまうんです。さきほど触れましたが、祖母が一家の中心でした。(中略)ともかく、中心がなくなることによって、姉妹それぞれが置かれた社会的位置の経済的、精神的緊張感が一気に露呈してしまった感があります。姉妹ですから、幼児期に遡る感情のもつれもあるでしょう。子どもの頃かわいがってもらって、私の人格形成に大きく関わった叔母たちとの関係が切れてしまったことは残念としかいいようがありません。(『ノーマ・フィールドは語る』)

これはノーマ・フィールド自身気づいていないことではないか。ノーマ・フィールドの実家では、祖母が「ミクロの<(疑似)超越的中心>だったのだ。「天皇が逝く」とは耳にさわる言葉遣いではあるが、これをちゃんと天皇崩御と言えば、ノーマ・フィールドが祖母が倒れた時に受けた衝撃こそが崩御という事態であったろう。

■ 天皇、庇護者/激励者、あるいは、混血孤児、そして、エリザベス・サンダース・ホーム


エリザベス・サンダース・ホームを訪れる 昭和天皇・皇后両陛下(1955年10月30日)

沖縄・長崎・山口の抵抗者が抗う日本の「中心」である昭和天皇は、混血孤児を「励ました」ことがある。この訪問が、五か条の御誓文にある「天下億兆一人も其処を得ざる時は、 皆朕が罪なれば、今日の事、朕自ら 骨身を労し」の一環であるかは、わからない。おそらく、エリザベス・サンダース・ホームの少なからずの混血児はこの後日本で所を得なかったのであろう。それでも、少なくとも昭和天皇は混血孤児の「庇護者」(澤田美喜)を励ました。なお、平成の御代でもここにすめろぎさんは来るらしい(ソース)[D]。

さて、ノーマ・フィールドは、エリザベス・サンダース・ホームにはっきりと言及している;

エリザベス・サンダースホームという施設がありましたね、大磯に。沢田美喜さんが設立した、「進駐軍」男性と日本人女性の間に生まれて孤児となった子を収容するものでした。沖縄を避けていたもう一つの理由は、エリザベス。サンダースホームの話を母から随分聞かされていたこともあります。「言うことを聞かない」と、そこに送り出されてしまうのが怖かったのと、自分がそこにいる子たちにかなり似ているような気がして、必死に区別をつけようとしていました。きっと、沖縄に行ったら、そういう子にたくさん出会わなければならないんだろう、と潜在的に思っていたんでしょう。ワシントンハイツのヨヨギ・スクールやアメリカン・スクール在学中、私のような子は意外と少なかったねす。(『ノーマ・フィールドは語る』)

■ 古典を失わない敗戦国の混血少女・ノーマ・フィールド

ノーマ・フィールドは自作『天皇の逝く国で』について、「紀行文、日本では長い伝統のある紀行文の形式を借りてもいます」と云っている(『ノーマ・フィールドは語る』)。そもそもノーマ・フィールドは「源氏物語」の研究者らしい。「源氏物語」に耽ると四姉妹の物語を書きたくなるのかわからないが、自分を庇護した祖母とその娘たち3人、すなわちノーマ・フィールドの母とその妹たち二人の計3人姉妹について書いている。三姉妹であり四姉妹ではないのだが、ノーマ・フィールドが生まれ、育った頃は、その三姉妹と同居していた。祖母から見れば「四姉妹」みたいなものだ。ノーマ・フィールドの主要3作から読み取れる「四姉妹」の話は興味深い。特に長崎の叔母とその夫(おそらく東大出の三菱重工のエンジニア、子供の頃東京大空襲で近所の死亡者をたくさん荼毘にふす)の話、そして、上記に書いたノーマ・フィールドの母を「パンパン」よばわりした妹。それでも、読者は、ノーマ・フィールドの「四姉妹」の物語は安心して読めるだろう。なぜなら、「四姉妹」は下痢に悩まされることはないのだから。


[A] 四〇年このかたわたしにお馴染みのバス路線がある。最初はそこをアメリカ軍スクール・バスで通っていた。(中略)いまではその路線は東京の若ものに人気のある盛り場の一つを通る。スクール・バスがわたしを運んでいったアメリカ軍基地は、三〇年まえのオリンピックで消えていまはない。けばけばしい街並みが、バス会社の路線沿いに不規則にひろがっている。「バス・ツアー」(『へんな子じゃないもん』)

[B] ノーマ・フィールドの母(美登里)の夫(ロバート)への感想

やっぱり、夫の性格ですね。いい人だと思っていたのに、結婚してみると、なかなか口うるさいし、それから、日本人の社会にとけ込むとか、日本の食べ物を食べることもないから、いつもご飯のときには彼のために別のものをつくって、そういうことをやっていたのです。すごく偏狭で、ケチなところがあって。あ、両親がスコットランドの生まれだからスコッチなんだって(笑)、父ともよく話していたんです。(『平和の種をはこぶ風になれ-ノーマ・フィールドさんとシカゴで話す』)

アメリカはわたしにとって異国ですから、夫が、理解があって優しい人ならついて行ったかもしれませんが、「この人と一緒じゃとても行けない」と思って、それでわたし、「行かない」って。思いやりがない人間と感じていたんです。(同上)

[C] 混血児の中でもアメリカ占領軍兵士と地元女性の間の子を日本では「GIベイビー」(wikipedia)と呼称するらしい。米国では war baby というらしい。

自分で行きたくて行ったカリフォルニアの大学で、ある日そこを見学したいという父娘を案内していたとき、その父親は言ったものだ。「あのウォー・ベイビーというやつか!」(『天皇の逝く国で』)

[D]  社会福祉法人 エリザベス・サンダース・ホームの web siteで下記が記されている。「平成天皇」は不適切な表現えはないだろうか?

2002年11月6日 平成天皇・皇后両陛下ご来園

筑紫洲 (つくしのしま) でもぶどう記録;第37週

2024年12月07日 18時00分01秒 | 筑紫洲 (つくしのしま)

▲ 今週のみけちゃん
▼ 筑紫洲 (つくしのしま) でもぶどう記録;第37週

■ 今週のよその猫

■ 今週の筑豊境

■ 今週のメタセコイア

■ 今週の実

■ 今週の道産品含有品

北海道練乳ホワイト4個入り(フランソワ)。練乳クリームが甘い。

■ 今週の道産品2、かつ、半額

朝いか沖漬 北海道函館産イカ沖漬 (google) (楽天市場)(Amazon)。ようは塩辛なのだ。しょっぱい。醤油が甘い九州の人の口に合うのだろうか?

■ 今週出て来た旅の思い出

本ブログを始める前だと思う。2003年頃か?入場番号が179348とある。2008年のある人のweb site で見える入場番号は578380。年間約10万人の来訪者がこの頃(2003-2008年)にあったらしい。 泉涌寺公式 web site

■ 今週のモフ⇒モフ(MOF)

国民民主党は、女性との不倫関係を報じられた玉木代表を役職停止3か月とすることを決めました。
そして、期間中は、古川代表代行が、代表の職務を担うことになりました。(google)

  ⇒ 

ふたりともMOF (Ministry of Finance)。

■ 今週の来週公開物件のお知らせ:荻窪の「荻外荘」が復原、一般公開へ

愚記事より

今年3月、まだ公開前の工事中であることを知りながら、関東を去るので、「荻外荘」を見に行った。来週、公開されるのだ。 Google(荻外荘一般公開


Time Out Tokyo Editors(写真 Genya Aoki様)
この部屋だ↓。上下の写真をよく見ると、屏風の絵柄が似てる。よく照合すると違う気もする。

 愚記事より


■ 今週の訃報、あるいは、昭和の成仏のために

中山美穂って昭和なんだよね。 この頃からおフランスだったらしい。 でも、英語。

再生できないらしい。直接どうぞ:https://www.youtube.com/watch?v=qqRFicWlRLE

■ 今週の謎;なぜ、<奴ら>はおいらの立ち回り先に居るのか?

おいらはガキンチョの頃、キチ〇イの症例集を読むのが好きだった。その中でしばしばあるのが、「CIAに追われている!」という患者さんの証言だ。

今週のおいらだが、米陸軍第187空挺グライダー歩兵連隊(187th Infantry Regiment (United States))に追われているのだ。

まずは、<奴ら>米陸軍第187空挺グライダー歩兵連隊がおいらが生まれた札幌にきた。おいらが生まれる約20年前だ。その時の写真だ。昭和21年早春、札幌は北一条通りを示唆的行軍(パレード)をしたのだ。この時、おいらのとうちゃん8歳。沿道に写るがきんちょたちの中にいることは否定できない。下記画像の「札幌神社」は現在の北海道神宮のことでこの時まだ神宮ではなかったのだ。さらに、<奴ら>の旗はstars and stripesというらしいが、stripesしか写っていない。<奴ら>米陸軍第187空挺グライダー歩兵連隊はこの「ベレー帽」 ギャリソンキャップが好きらしい。


愚記事より

<奴ら>が札幌に来る前に、<奴ら>は、おいらが大学時代を過ごした仙台にいた。おいらが仙台にたどり着く約40年前だ。やはり、ギャリソンキャップをかぶっている。

 愚記事より

そもそも<奴ら>は最初に「厚木」に来た。ギャリソンキャップはかぶっていない。何より、敵陣への第一陣なのだから完全武装である。ミズーリ号での調印式の数日前だ。もっとも<奴ら>の記録では日本軍が整然と降伏したことに驚いている。子猿を抱いて平然と着陸できたのだ。今から思えば、お得意のギャリソンキャップで十分だったのだ。

 愚記事:マッカーサーと一緒に「厚木」に来たこの子猿はどこへ行った?

この子猿を抱いた兵士は第11空挺師団の所属であるが、第11空挺師団の配下である第187空挺グライダー歩兵連隊の所属かは、断定できない。ただし、記録では「厚木」に第一に降り立ったのは第187、188空挺グライダー歩兵連隊である。

第 11 空挺師団は、1943 年 2 月 25 日にノースカロライナ州キャンプ マッコールでジョセフ M. スウィング少将の指揮の下、正式に活動を開始しました。最初の戦闘編成には、第 511 空挺歩兵連隊、第 187 および第 188 グライダー歩兵連隊、第 457 空挺野戦砲兵大隊、第 674 および第 675 グライダー野戦砲兵大隊が含まれていました (ソース

「厚木」から横浜に進駐した。


横浜での第11空挺師団の配下、第187空挺グライダー歩兵連隊(ソース

さて、<奴ら>米陸軍第187空挺グライダー歩兵連隊の行方であるが、上記愚記事で追った。「厚木」➡横浜➡仙台➡札幌だと知っていた。

記号の横の文字は、187GLI、CAMP SEIENBERG。187GLIは、第187空挺グライダー歩兵連隊。CAMP SEIENBERGは札幌の月寒(ツキサップ)基地(愚基地:Camp Seidenberg Sapporo Japan, キャンプ シーデンバーグ 月寒 札幌)。上記、1946年の札幌進駐の時、キャンプ・クロフォードはなかった。月寒(ツキサップ)に駐屯した。日本陸軍の月寒陸軍官舎を彼らはキャンプ・シーデンバーグと名付けた。キャンプ・クロフォードをつくったのは第11空挺団のスイング少将だ。


札幌キャンプ・クロフォードでの第187空挺グライダー歩兵連隊 (同ソース)


札幌キャンプ・クロフォード、鳥瞰写真 (愚記事

最後は札幌から米本国に帰国した。それで、<奴ら>は日本から去ったとおいらは考えていた。<奴ら>の歴史に書いてある;

第 11 空挺師団はその後、戦後の日本占領軍の先鋒として沖縄に再配置され、1949 年 5 月まで日本に留まり、その後ケンタッキー州フォート キャンベルに移転しました。ソース

その前提で、最近、おいらが驚いたことは記事にした:子猿をめぐる冒険 :米陸軍第11空挺師団の再興2022と再来;They shall return, again since 1947。つまり、<奴ら>は、2022年に再興し、再来日したのだ。

しかしながら、誤解があった。1948年に米本国(ケンタッキー州フォート キャンベル [下記])に帰国した<奴ら>米陸軍第187空挺グライダー歩兵連隊は、朝鮮戦争勃発で、再来日していたのだ。(おいらが生まれた)札幌から米本国に帰った<奴ら>は、(おいらが今住んでいる市のとなり町である)福岡県芦屋町の航空基地に帰ってきたのだ。

1950 年、第 187 グラ​​イダー歩兵連隊と第 674 空挺野戦砲兵大隊は第 187 連隊戦闘団に編成替えされました。同団は 2 年間にわたり朝鮮戦争で戦い、2 回のパラシュート降下攻撃を実施しました。ソース

1950年に朝鮮戦争が勃発し、米本国から日本に再来したのだ。

(From Fort Campbell) Fourteen trains were used in the move. Train number one, carrying the advance party, departed at 0001 hours, 1 September 1950, destination, Fort Lawton, Washington. Transferring to airlift, the party flew to Ashyia Air Force Base, Kyushu, Japan, via Anchorage, Shemya and
Tokyo.ソース) ↓ 訳

(ケンタッキー州のフォルト・キャンベルから)移動には14両の列車が使用された。 先遣隊を運ぶ1番列車は、1950年9月1日午前0時01分に(フォルト・キャンベル)を出発、目的地はワシントン州フォート・ロートン。航空機に乗り換えて一行は、アンカレッジ、シェミア(アリューシャン列島の島)、東京を経由して、九州の芦屋空軍基地へ飛んだ。

何だ!先日おいらが散歩した芦屋に来ていたのだ(福岡県散歩:遠賀郡芦屋町、JR遠賀駅⇒ 航空自衛隊芦屋基地 /Ashiya Air Base、米軍ハウス、イカ丼、遠賀川河口)。

なぜ<奴ら>はおいらの立ち回り先に居るのか?


朝鮮戦争の時の米陸軍第187空挺グライダー歩兵連隊 (同上ソース

いや、まて。「厚木」、横浜、仙台、札幌、芦屋にいたのは、70年も前のことだ。そうなのだ。おいらが、<奴ら>米陸軍第187空挺グライダー歩兵連隊を追っているのだ。

ストーカーよばわりされないように、気をつけよう。

■ 今週の購書(九州に来て2冊目)

現代思想2001年7月臨時増刊号 総特集=戦後東アジアとアメリカの存在 -〈ポストコロニアル〉状況を東アジアで考える- (青土社


福岡県散歩:遠賀郡芦屋町、JR遠賀駅⇒ 航空自衛隊芦屋基地 /Ashiya Air Base、米軍ハウス、イカ丼、遠賀川河口

2024年12月05日 05時41分05秒 | 筑紫洲 (つくしのしま)

福岡県遠賀(おんが)郡遠賀町と芦屋町を散歩した。芦屋町には現在航空自衛隊の芦屋航空基地がある。この芦屋基地は元は旧軍(陸軍)の航空基地。終戦後から米軍に接収され朝鮮戦争時は日本で最大級の米軍出撃基地だった。主に輸送基地。のべ300万人の米兵を朝鮮戦争の舞台の半島に送り、迎えたとある。日本人従業員が1万人を越えた時期もある。

さて、朝鮮戦争の出撃基地、すなわち朝鮮への出撃基地という観点から見ると、先日行った名護屋と同じ目的で栄えた街といえる。ところで、朝鮮戦争で、芦屋と並んで、重要な米軍基地を下の地図で記す。雁ノ巣、板付(関連愚記事)、築城。いづれも米空軍基地。もちろん、米海軍の佐世保もある。

JR遠賀川駅から海の方へ向かう散歩。


1.JR遠賀川駅、2.若松付近、3.堂塔寺、4.浜口町:米軍ハウス、5.航空自衛隊蘆屋基地、6.味処 大丸7.西浜町・河口付近、8.芦屋海浜公園

■ 1.JR遠賀川駅

■ ⇒ 2.若松付近

■ 2.若松付近

■ ⇒ 3.堂塔寺

きれいな工場↓、そうでない工場↑

■ 3.堂塔寺

永禄(西暦1558-1570)年間、この地は薬師山(現堂塔山)とも呼ばれ、おそらくは薬師如来を本尊として、一堂をなす寺であったが、その昔、大友宗麟の兵火により廃絶されしも、弘法大師のお告げを受け、住職、川端亮貞尼により、昭和三十八年八月、中興され、現在に至っております。九州二十四地蔵尊霊場巡り web site

■ ⇒ 4.浜口町:米軍ハウス


遠賀川(wikipedia)

■ 4.浜口町:米軍ハウス

見つけた。実はこの散歩そんなに占領軍(進駐軍)/米軍の遺構を期待していなかった。もっというと、期待していないということも意識していなかった。ただ、航空自衛隊芦屋基地は元米軍基地ということのみ。散歩から帰ってしたべると、そもそも米空軍芦屋基地は軍需貨物の航空基地としては日本最大と知る。意識しないで、航空自衛隊芦屋基地に向かうと、見つけた。これは、米軍ハウスの残棟ではないか!。米軍ハウスには以前から興味がある(関連愚記事)。

▼ 上航空写真の「2」

1棟見つけたので、周辺を歩くと、ザクザクみつかった。

▼ 上航空写真の「2」

きれいに改装して洒落た店となっている。典型的な米軍ハウスの再利用方法だ。その場でスマホでググルと、果たして、【芦屋町浜口町】米軍住宅リノベーションのカフェで、ビーフロコモコ!とあった(食べログ)。

▼ 上航空写真の「3」

 

航空写真で見ると、赤矢印の幅をもった境界が基地の外壁。左が基地内。基地内にも住宅らしき建物が見える。おそらく、基地内だけでは住宅が足りずに、基地外にも米軍ハウスを建てたのだろう。

■ ⇒ 5.航空自衛隊蘆屋基地

▼ 米軍基地としての芦屋飛行場:Ashiya Air Base の日本語の情報は少ない。写真も少ない。

「九州ジプシー」という日本語をググると、出てこない。むしろ出てくるのは、ジプシー・ローズ。この有名なストリッパーは福岡県大牟田の出身。だから九州ジプシーでヒットしたのだろう。

九州ジプシーとは朝鮮戦争勃発で米空軍が急遽編成した航空輸送部隊。

1950 年に朝鮮戦争が勃発すると、米国極東空軍は陸軍を支援するために航空貨物資産の編成を急いだ。これらの資産の中でも特に重要だったのが、戦場から負傷兵を避難させるための航空機だった。これらの航空機は、整備されていない荒れた韓国の飛行場から離陸し、乗客を日本海を越えて日本最南端の島、九州まで運んだ。米軍はここで高度な医療施設を維持していた。
 
アメリカ製のダグラス C-47 ダコタ (別名「グーニーバード」) は、その数の多さから、この空輸活動の主力機となった。日本各地から C-47 が集められ、臨時飛行隊「九州ジプシー」が編成された。この名前は、飛行隊の当初の作戦基地が日本列島最南端にあったことを反映している。(ソース)
九州から朝鮮半島を任務のため転戦したらしい。転戦したひとつの根拠地が芦屋基地。

▼ 米軍時代の芦屋基地について、ひとつだけ日本人によるYouTubeがあった;


芦屋基地で撮影された米軍のC-119(1955年)(リンク)

第314輸送隊の歴史:パイロットで第314輸送機群司令官のリチャード・W・ヘンダーソン大佐は、このC-119「ルオード​​ラ」が日本の芦屋基地から朝鮮半島に向けて離陸の準備をしているときに、操縦席から副操縦士のジャック・B・ロビンス中尉と航空技術者のオーティス・D・グラハム軍曹に合図を送っている。ソース

▼ 芦屋基地で勤務していた米兵の証言

サービスまたは関係: 空軍退役軍人

コメント: 私たちは、ニューヨーク出身のドナルド・ニグローニ空軍兵という友人を失ったとき、大切な楽しい思い出と悲しい思い出を共有しました。
私たちの飛行隊は家族のように仲が良く、団結していました。私たちはチームであり、九州ジプシーと呼ばれることを誇りに思っていました。
私たちの主な目的は、陸軍を降ろし、航空機で避難させ、負傷した兵士や死亡した兵士を日本に連れ戻すことでした。

キーワード: 1952年から1955年まで、芦屋でC-47、後にC-119ボックスカーの整備に従事
。その期間中、クルーチーフとしてK-18とK-16に飛行。
仲間の名前は、芦屋の整備施設でフットボールをしていたジョン・ジョンソン、
幼少期にジョージアで育ったオハイオ州出身のヒルダーブランとヘイズ、整備に携わっていたサム・モスなど。 (引用元

■ ⇒ 味処 大丸

■ 6.味処 大丸

アオリイカでした。(歯ごたえのある食感ではなく)まったり系の肉感。

■ ⇒ 7.西浜町・河口付近

岡湊神社

「岡湊」は「おかのみなと」と読み、「日本書紀」には「崗之水門」として登場する芦屋の大変古い呼称です。実に1800年の歴史を誇り、「古事記」にもその記載があります。御祭神は「日本書紀」に記されている「大倉主命」と「菟夫羅媛命」のほかに、相殿として「天照皇大御神」「神武天皇」「素盞雄命」とが祭られています。(芦屋町観光協会 web site)

■ 遠賀川河口付近

↑河口を向く  ↓上流を向く

■ ⇒ 8.芦屋海浜公園

町の北側、響灘に隣接した広い芝生広場と眺めの良さが自慢の総合公園です。芝生広場「わんぱーく」には大きなコンビネーション遊具やベンチ、テーブルも設置しています。また、海とも隣接しているため浜辺でも遊ぶことができ、夏は多くの人で賑わいます。芦屋町 web site

■ ⇒ 芦屋町役場へ

白浜町。基地傍の街。米軍ハウス? 1960年代の航空写真お見るとこの家屋はその頃にはある。


芦屋町役場。

ここからバスに乗り、JR折尾駅へ向かった。

■ まとめ 通過街

福岡県遠賀郡
遠賀町
遠賀川、松の本、鬼津、若松

芦屋町
芦屋、浜口町、正門町、高浜町、船頭町、西浜町、白浜町、幸町