いか@ 筑豊境 寓 『看猫録』

Across a Death Valley with my own Distilled Resentment

ぐるっとパス使用記録4; 渋谷・日本橋方面

2015年04月30日 19時15分07秒 | 東京・横浜

ぐるっとパス使用記録1; 新宿方面、  ・ぐるっとパス使用記録2;目黒方面、  ・ぐるっとパス使用記録3; 多摩方面、に続く第4弾。

▼ 31;戸栗美術館

ぐるっとパスで只。

戸栗美術館 web site; 初期伊万里展

磁器が日本に来たのは秀吉の朝鮮出兵が原因。朝鮮儒者も{来た/連れてこられた/連行された/拉致された}が、磁器の陶工たちもそうだ。

陶器と磁器の違いは物質材料科学的には、教科書的で、おもしろい。

key word; partial melting (鍵用語; 部分溶融)。

磁器の具現化には、material (塑性のある材料と耐火性のある材料) と process (高温炉) が必須だったのだ。 高温炉の実現あたりが、それまでの日本人にはできなかったことなのだろう。 カオリン族カオリンは、あった。

そして、磁器が伝わった直後の日本では、陶工の人種的役割分担があったとわかる;

寛永7(1637)年、佐賀鍋島藩は窯焚き用の薪材確保のために山林が切り荒らされているとして、伊万里・有田地域の陶工・窯場を削減する政策を実施しま す。結果、日本人陶工826名が追放され、窯場は13ヶ所に統合。これにより磁器(伊万里焼)専業の生産体制が整うこととなりました。初期伊万里の華とも 言える口径40㎝を超える鉢などの大作は、この政策以降に製造されたものと考えられています。ソース

磁器製作は朝鮮人の特権だったらしい。

   :: 地下鉄銀座線で移動 ::

▼ 17; ブリジストン美術館

ぐるっとパスで只。

2015年5月18日より数年間休館とのこと。 混んでた。

web site; ベスト・オブ・ザ・ベスト 、 現在展示中の作品群

 


昭和の成仏のために、2015

2015年04月29日 20時17分15秒 | その他

愚ブログでは、昭和の成仏のためにシリーズをやっている。最近、成仏が手薄になっていた。今日は昭和の日なのでひとネタ。


     ―今週撮影―

この人たち、おいらががきんちょの頃から指名手配されている。

彼らが、生きていれば、61歳と66歳。 この手配ポスターには事件の日時や生まれた年が元号で書いてある。今の若い人は、彼らが今何歳なのかすぐにはわからないよ。

何よりすごいのがこの顔写真は彼らが若い時のもの。「この顔に見覚えはありませんか?」って、今じゃ、親兄弟友人しか覚えていないだろう。

でも、ネット時代。調べた。なんと、大阪正明さんは結構尻尾がつかまりかけらしい。

また、2012年3月に警視庁公安部が東京都立川市の中核派秘密アジトへ家宅捜索で押収した暗号文書を解読した結果、逃亡中の大坂正明が2012年2月まで別の秘密アジトに潜伏していたことや群馬県内の病院で治療を受けていたことが報道された。 (wiki

  桐島聡さんについては、東アジア反日武装戦線のメンバーの中で一度も逮捕されなかった唯一のメンバーである。出典

■ ネットサーフィンの副産物として、元東アジア反日武装戦線「さそり」メンバーの黒川芳正(wiki)のtwitterを見つけた→これ

▼ 「テロリスト」という言葉

東アジア反日武装戦線は「過激派」と認定されている。1970年代の爆破事件当時、「テロリスト」という言葉は使われていない。「テロリスト」という言葉の使用は結構「最近」なのではないかだろうか?

● 東アジア反日武装戦線とおいら

1974年の東アジア反日武装戦線による事件:三菱重工ビル爆破事件::は、おいらが日時を覚えている自分の記憶の最初の事件だ。1972年の終日テレビで中継されていたという浅間山荘事件は全く記憶にない。ただ、浅間山荘事件より少し前の札幌オリンピックの開会式の記憶はある(愚記事;おいらが、畏れ多くもひろひとさん御臨席の場に、衆の一滴としてあったのは、1972年2月3日のことである)。

なぜかしら、小谷野敦の『ヌエのいた家』にはこの事件が書かれている(愚記事)。

なお、北海道庁爆破事件(関連愚記事;そして、どうでもいいことだが、おいらは大森勝久さんを見たことがある。)の当日の記憶はない。自分の街のできごとなのに。ただ、親が道庁に勤めている同級生と話をした記憶はある。当日ではない。

小学生のおいらが、その爆破事件後、東アジア反日武装戦線に興味を持った理由は、「狼」、「さそり」、「闇の土蜘蛛」、そして、「大地の豚」といった彼らの自称である。

「狼」、「さそり」だけだと、悪者集団にまぁ似合ってるなぁぐらいで済んだであろうが、「大地の豚」である(後記、まつがい。本当は、「大地の牙」;)。これらの「言葉」に非常に掴まれた。

昭和の話である。


ぐるっとパス使用記録3; 多摩方面

2015年04月28日 19時35分25秒 | 東京・横浜

ぐるっとパス使用記録1; 新宿方面、  ・ぐるっとパス使用記録2; 目黒方面、に続く第3弾。

▼ 76; 多摩動物公園

帰り際、坂を下っていると、園内でライオンの咆哮が轟いた。スピーカーがハウリングしたんじゃないかというような音。驚いた。おいらがちょうどライオンが見える場所から離れた少しあと。ライオンの咆哮にみんながライオンが見える場所へ足早に向かっていた。一方、園内の掃除の人は普通に仕事をしていた。獅子の咆哮は、日常茶飯のことなのだろう。

▼ 65; 武蔵野市立吉祥寺美術館

浜口陽三作品が常設。浜口陽三がヤマサ醤油の御曹司だったと知った。

(なお、針生一郎も醤油屋の「御曹司」である;出典; 仙台屋敷

企画展示室 小林路子の菌類画 きのこ・イロ・イロ

(▼ 66; 井の頭自然文化園)

井の頭公園に行った。併設の「井の頭自然文化園」は月曜休館で入れなかった。


ぐるっとパス使用記録2; 目黒方面

2015年04月26日 20時11分50秒 | 東京・横浜

ぐるっとパス使用記録1; 新宿方面、に続く第2弾。

▼ 36;目黒区美術館

企画展: 新潟市美術館の名品たち

1920年代、1930年代の作品・作家、佐藤哲三、安宅安五郎を知る。 一方、阿部展也、難波田龍起、Lee U-Fan、瑛九などの作品あり。そして、おいらは初めて相笠昌義を知る。 「La Vida en Madrid」。Google画像で la vida en Madrid を引くと、こういうイメージ。相笠昌義のみたMardidの建物はおいらのイメージと調和的ではあるが、人々がおもしろい。相笠昌義の作品群の人物は誰も視線をこちらに向けていない。おもしろい&なぜなんだ?!


目黒川沿いの葉桜並木

目黒駅付近、坂多し。沖積面を現在削っている目黒川を渡る。ここまでJR目黒駅からは、行人坂を下ってたどり着く。

そして、お貴族様のアールデコ邸は、当然、高いひな壇(武蔵野段丘面)にある。権之助坂を登り、向かう。

▼ 35;東京都庭園美術館

 

ぐるっとパスのお得感が最近なくなってきていると「ぐるっとパス使用記録1; 新宿方面」では書いた。この東京都庭園美術館はまだ普通に入れば1200円だけど、ぐるっとパスで只。だって、税金(庶民から搾り取った富でつくった)アールデコ邸だからね。

1930年代見物のいちみせもの。それは、朝香宮邸。つくってよかった朝香宮邸。残ってよかった朝香宮邸。彼らは、臣籍降下したけど。

入場料以前に、草莽微賤のおいらもどしどし入れる制度が重要なのだ。林芙美子は、パリはみたが、朝香宮邸を見ることなく、死んでいったのであろう。朝香宮邸公開は1980年代以降。

ありがとう!戦後[参照惹句]。 ありがとう、”貴族”さまのいない、ぬっぽん![1]

( [1]ホントはいる。現在の国家「貴族」:国家から金が支払われて生活と職位と職場を含む身分が保障されている国家貴族さまである。  うらやましいな、生活保護受給者!

サンルームの下は「藤棚」であった。参照にありしびの秋の日の画像を示す。

特別展示は; フランス国立ケ・ブランリ美術館所蔵 マスク展

■ ぐるっとパス以外

東京都庭園美術館の後は、地下鉄で北上。 六義園。

撮影場所は「築山」である。すなわち、武蔵野台地の上に人造でヤマをつくったのだ。

柳沢吉保がつくった「六義園」と『松蔭日記』が関係あると初めて知った。園内の説明立札に書いてあった。

おいらは『松蔭日記』を持っている(はずである)。今[武相境では]は段ボール箱の中のはずだけど。なぜ持っているかというと、これは作り話ではなく、『松蔭日記』を吉田松陰の日記だと思い買ったのだ。

今、2重(3重)にまぬけだと気づいたのが、『松蔭日記』が吉田松陰の日記ではないと気づいた時、それならば、『松蔭日記』がどういうものであるか読まなかったことだ。

 


新しい街でもぶどう記録;第26週

2015年04月25日 20時17分25秒 | 草花野菜

■ 今週の看猫

■ 今週の武相境斜面


散った桜の子房群

■ 今週の励まし合う二人、あるいは、21世紀初頭の「アジア」総体の敗北の確認


ジャカルタの「アジア・アフリカ会議」での二人
関連愚記事群

1955年、インド・ネルー [1]、中国・周恩来 [2]、エジプト・ナセル、インドネシア・スカルノが開いた「第一回アジア・アフリカ会議」の60周年記念。

 [1] 関連愚記事; 1957年訪印しネルーと会う岸信介 
  [2] 愚ブログに現れたる 周恩来

なお、1955年、日本は占領下にあり、国家ではなかった。

日本は高碕達之助経済審議庁長官を代表として十数名が参加した。
加瀬俊一外務相参与(後に国連大使となる)は、外務大臣代理で出席したのだが、その時の模様を 「この会議の主催者から、出席の案内が来た。日本政府は参加を躊躇していた。アメリカへの気兼ねもあったが、何分現地には反日感情が強いに違いない、と覆っていた。私は強く出席を勧めて遂に参加が実現した。出てみるとアフリカからもアジアの各国も『よく来てくれた』『日本のおかげだ』と大歓迎を受けた。日本があれだけの犠牲を払って戦わなかったら、我々はいまもイギリスやフランス、オランダの植民地のままだった。それにあの時出した『大東亜共同宣言』がよかった。大東亜戦争の目的を鮮明に打ち出してくれた。『アジア民族のための日本の勇戦とその意義を打ち出した大東亜共同宣言は歴史に輝く』と大変なもて方であった。やっぱり出席してよかった。日本が国連に加盟できたのもアジア、アフリカ諸国の熱烈な応援があったからだ」と語っている。 (コピペ元;wiki

 (なお、大東亜共同宣言というのは実は米英製であるというのは有名な話である(愚記事)。)

■ フラッシュ・バック; 1955-1957の日中印。

 
ネルーと周恩来                  岸信介とネルー
1955-1957; ともだちのともだちは、みなともだちだ!!!???

■ そして、2015年。 インドも中国もアメリカを中心とした資本主義体制と協調し、自国を富化している。日本は戦後ずっとそうだった。そして、富国化した中国は大国主義を背に負い、強兵にも怠りない。 インドもそうだ。日中印みんな、21世紀の新帝国主義時代の競争に必死である。

A・A会議60周年。 一番喜んでいるのは米国である。 なぜなら、今じゃ日中印みんな米国流の価値観にまっしぐらであるからだ。

1955年のA・A会議の精神は解毒された/骨抜きにされたのだ。 

2015年バンドン会議の宣言のひとつがこれだ:: アジア・アフリカ会議閉幕 連携して過激派と闘うことを確認 (google)。

A・A会議60周年。 一番喜んでいるのは米国である。

アジア・アフリカ会議閉幕 連携して過激派と闘うことを確認

米国のナショナリズムに奉仕する思潮が、アジア・アフリカの「穏健」な諸国に浸透しているのだ。

それなら、これ↓はイカンだろう;


造反戦争としての1941年の対米英宣戦布告

関連愚記事; 10年ひと昔::  バンドン会議でのおわび考 

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佐伯祐三 「郵便配達夫」、佐藤哲三 「赤帽平山氏」

2015年04月23日 20時52分55秒 | その他

 昨日、独力で[1]、気づいた。

おいらは、両方の絵を以前から知っていたはずだが、一昨日までは、結びつかなかった。

昨日、気づいた。

[1]ネットでググると、既にこのことは指摘されていた。

  
佐伯祐三 「郵便配達夫」(1928)                  佐藤哲三 「赤帽平山氏」(1929-1930)

▼ 愚ブログに現れたる「赤帽氏」; 昨日の赤帽さん 

■ ヨタねた

赤帽平山氏がのち画家になったかは不明


ぐるっとパス使用記録1; 新宿方面

2015年04月21日 19時30分27秒 | 東京・横浜

ぐるっとパスという「美術館・博物館等共通入場券&割引券」というものがある。都内、78施設で使える。2000円。有効期限2カ月。

→ ぐるっとパス 公式サイト

G.W.前後に都内のあちこちに行こうと思い買った。 筑波山麓にいたときも買っていた。でも1日だけ使用。そんな何度も都内に通うには交通費がかかるから。でも、逆にいうと、1日3つくらいの美術館を回るのは、ぐるっとパスを買った方が安いのだ(った)。

(数年前と比べ、あるいは、昨年度と比べ、入場券が少なくなり、ただの割引券が多くなっている。前売りと変わらない。数年前は普通に入れば1000円の入場のところが、このぐるっとパスを使うと、バンバン只だった。)

■ 先週末は、「ぐるっとパス」78施設の内、42;新宿区立 新宿歴史博物館49;新宿区立 林芙美子記念館に行った。途中、別途、中村佐伯祐三アトリエ、中村彝アトリエの見物にもいった(両者、新宿区立で入場無料)。

▼ 42;新宿区立 新宿歴史博物館

5000年前の縄文人の全身の骨が数年前新宿区で発掘されたことの研究成果の展示。

新宿歴史博物館 特別展「新宿に縄文人現る~市谷加賀町二丁目遺跡の発見~」

(この御尊顔が復元された縄文人さまは、頭がい骨にぼこられあとがあり、それが治癒しているのである。

そして、数年前、この縄文人さまの全身人骨が発見されたとき、まず出動したのは、現行の警察である。事件性の有無の検証だ。でも、腓骨からして、どうみても縄文人、ってことで警察は手を引いた。

でも、!!!この 頭がい骨のぼこられあと、については何ら捜査が進んでいない!!!に違いない。

 陥没骨折は頭頂部にあり、自然治癒していた。国立科学博物館の坂上和弘研究員(自然人類学)は「強い衝撃によって表面が円形に割れていた。脳への障害が あったかどうかは不明だが、感染症にもならず生き抜いたようだ」とみる。骨折した場所が場所のうえ、手足に骨折の痕がないことから打撃によるものの可能性 も高いという。

ソース:縄文の「濃い男」、リーダーの威信…男の顔は履歴書?

四谷からJR目白駅に移動。中村彝アトリエ→佐伯祐三アトリエ→49;新宿区立 林芙美子記念館は、パッケージ化された周知の散歩コース。 なぞる。


出展; 落合記念館散策マップ

■  中村彝アトリエ

■ 佐伯祐三アトリエ


アトリエ全体図:模型

愚ブログの佐伯祐三関連記事;

極右、あるいは偽毛唐、そして何より、狂気 

▼ 49;新宿区立 林芙美子記念館

私の唯一の理想は、女成金になりたいと云う事だった。(林芙美子、『放浪記』(新版))

昭和16年/1941年に林芙美子が建てた家が豪邸なので、感嘆した。「女成金」になってよかったね、と言ってあげたくなった。

なお、「放浪記」の初版には「女成金」になる理想をもって生きているとは書かれていない。つまり、「放浪記」初版が売れたあとに、後付けしたんではないか?

そして、気づいた。林芙美子のお屋敷は段丘崖/斜面に建っているのだ。下の図の中井駅の上(北)が林芙美子のお屋敷があるところ。中井駅がある面が河岸段丘でいうと沖積面で緑色の濃い面が段丘面でいうと武蔵野面。沖積面と武蔵野面は崖/斜面となっている。その崖/斜面に林芙美子のお屋敷はあるのだ。上のお屋敷の屋根は母屋より上の斜面を庭としている場所から撮影。

 

「放浪記」が売れて「女成金」になった林芙美子はパリに行った。当時の日本女性の「庶民」がひとりでパリに乗り込むとはすごいことなのではないだろうか?でも大丈夫。彼女は子供の頃から放浪には慣れているのだ。これをおいらは世界渡航の「原始的蓄積」と呼んでいる。「なんでもみてやろう!」なんて、林芙美子のための惹句ではないか。

林芙美子は運がいい。「放浪」家族に育った高女時代は大正デモクラシー&好景気。作家デビューを目ざしていた「放浪」時代は恐慌前で、「放浪」は深刻ではなかった。『放浪記』の出版は、恐慌の年。世間の多くが「放浪」に放り込まれた。恐慌で放浪した庶民が求めたものが、「植民地支配」と「侵略」である。政府・軍部はその「庶民」の「願い」に応えたのだ。

時流に乗る林芙美子は、この後、「なんでもみてやろう!」として、支那戦線、南方戦線に作家として、従軍。

さて、日本女性の「庶民」がひとりでパリに行く3年前、東京芸大出で、奥さんの実家が豪商だったので、パリに行っていた佐伯祐三が死んでいる。林芙美子が佐伯祐三を知っていたのか、今のおいらには、不明。 佐伯-林-落合-パリの経緯を略まとめてみた;

→ 林芙美子 年譜

楽しそうだな。 従軍任務中の林芙美子;


(太鼓鳴らして、笛吹いて、)「なんでもみてやろう!」

困難なことは、「なんでも書いてやろう!」ということだ。

彼女が、何を書かなかったのか!?(ナニカアル)

that is the question.

 


a modesty advertisement; or あやしい、情報

2015年04月19日 17時00分00秒 | 日本事情


都内、新宿区、下落合。 電柱の下部に張り紙広告。

▼あやしくない情報;


都内、新宿区、下落合。 中村彝アトリエ記念館への指標。

■ "通俗戦後民主主義者" たちの”内ゲバ”

 

桜がバカを見る会での一場面 ↓ ; ”バカといわれる馬鹿、バカといいう馬鹿”;

2015年4月18日;

太田光「安倍晋三は馬鹿」発言から一ヶ月後、花見で総理に笑顔でゴマをする姿をお披露目

今、TBSラジオ、「爆笑問題の日曜サンダー」の生放送で、太田光と大橋巨泉のトーク・バトルがおわった。

われらがネトウヨのヒーローたる安倍ちゃんをバカよばわりした太田光は、安倍ちゃんに会ったことを、大橋巨泉@S9生まれ@@B29空襲@@@ぬっぽん民族ホロコースト=消却、の生き残りに、弁明。 太田光の弁明!

生放送なので、結構、緊張感があった。

もっとも、ネトウヨのおいらには、内輪もめにしか、聞こえなったが。

要旨;

大橋巨泉; 太田! おまえは利用されているのだ! これ、如何に???

太田光; 何をおっしゃる、ご老人! あなたがたのこれまでの、直接対話を拒否した闘争路線が、どんな成果をあげたのですか!?

それより、巨泉よ! あなたはいつも逃げている! 民主党から逃げ、そして、日本から逃げている! これ、如何に???

あなたの、安倍ちゃんに会わないって態度は、翁長沖縄県知事に会わないとダダをこねた安倍ちゃんと同じではないですか!!!???  これ、如何に???

■ おいらの感想;

 別に、太田光は安倍ちゃんに会って、何か政治的なことをいったわけでもない。

 ただ、これだ;

巨泉については、逃げ先がU.S.Aではなく、カナダ、ニュージーランドなどであることを説明して欲しい。何より、どうやって、英語を習得したんだ???。

 

 

 

 


新しい街でもぶどう記録;第25週

2015年04月18日 08時50分44秒 | 草花野菜

■ 今週の看猫 1. うちのねこ、みけちゃん;

■ 今週の看猫 2. ぎょっとした看板; 歩いていたらばったり見つけた。


都内、新宿区四谷。 猫が三味線を担ぐなぞ、末法の世の現象である。


有名な看板らしい; Google[四谷 三味線 ねこや]

しかしながら、事態は複雑らしい; 現在は稽古用など全体の7割程度が犬の革を使用している。 (強調、いか@)(wiki [三味線])

●今週の草木花 

つくしんぼう。 筑波山麓で見た記憶なし。

●今週の草木花2、 他場所

シロヤマブキ。 絶滅が危惧される落葉低木、だそうです。
都内、新宿区、下落合にて。

■今週の 「競争相手は馬鹿ばかりの世界」の地獄絵;

博士課程まで出た北澤さんの年収は現在250万円ほど。同い年で自分よりもできの悪かった大学院の同期は、今では関西の有名私大の準教授として教壇に立つ。その年収は約850万円と聞いた。

(ソース;清掃バイトで食いつなぐ研究者…年収200万円“高学歴女性”の悲哀

何が地獄って、収入が低いことばかりではなく、不当な人物が成功し、「優秀」な自分が不遇なことを 「呪っている」 愚痴っていることである。

よくわかるよ。

最近、おいらは、院生時代に知っていた人が、「国立」大学(理系)で、英語論文が5本もないのに、教授になったとネットで知ったょ。

世も末だ!って、愚痴りたいよ。 近所の野良猫が三味線担ぎだすのも、間もなくと思うよ。 目撃しだい、愚blogにて報告したい。

■ 今週の「尾」無し=頭のみ。 鯛の切り落としクズを煮て食べた。

この歯がすごいでしょう。

● 今週の東大出夫婦、あるいは、常在戦場夫婦

出典

 出典

夫はマシンガン乱射を夢想し、妻は未帰還兵! どんな、夫婦なんだ!!!???。

どんな夫婦なんだって、東大出夫婦だよ。 「いつでも戦場にいる心構えで事をなせという心得」で緊張感を持って、noblesse oblige を果たすべく、毎日を生きているのだ。 すごいにゃぁ~。 

なお、文脈からみて、未帰還兵の妻は炊事兵[1]らしい。

[1] 愚ブログに現れたる 炊事兵

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なぜ、絓秀実の「1968年論」に、柴田翔の『されど、われらが日々』が出てこないのか?

2015年04月15日 19時27分27秒 | その他

■ なぜ、秀実の「1968年論」に、柴田翔の『されど、われらが日々』が出てこないのか?

最近、柴田翔の『されど、われらが日々』を読んだ。理由は、白鳥事件のことを調べていて、六全協前の日本共産党の山村工作隊や中核自衛隊が出てきたのを受けて、そういえば、柴田翔の『されど、われらが日々』は六全協前後の話だったよなぁ、と思いだしたからだ。

約四半世紀~30年ぶり位に読んだ。(関連愚記事;『されど、われらが日々』(柴田翔)。おいらは、思いだし、読む。

そして、気づいた重要な点は、この『されど、われらが日々』は1964年に発表された。第51回芥川賞受賞。すなわち、全共闘運動の前に発表、販売されているのだ。そして、非常に売れたとのこと。つまりは、のち、全共闘に参加する当時の若者が読んだと思われる。

全共闘論、「1968年論」といえば、秀実。

1968年を語ってやまないわけ[理由]は、1968年の革命は歴史上の二大革命のひとつで、その1968年革命は狭義の全共闘運動だという。新左翼運動だ。秀実は、なぜかしら、ほとんどの書で、ニューレフトと呼称する。同じ意味なんだろうけど、このカタカナ日本語には少し違和感。

さて、その全共闘運動に参加した若者に影響を与えたであろう柴田翔、『されど、われらが日々』を、秀実はほぼ無視する。

秀実は、1968年革命を語る時、その革命を準備したいきさつも語る。ニューレフトを準備したものだ。見取りは、日本のニューレフトは日本共産党、もっと端的に言って、宮本顕治周辺から出来したと。そして、その契機は1955年のフルシチョフによるスターリン批判だと指摘する。1956年2月のスターリン批判で、スターリンと路線が違い、かつ殺された、世界革命を目指すトロツキーを奉ずるトロツキストの発生に説明のページを割く。

 -六全協もほぼ無視

そして、軽視されるのが、1955年7月の六全協(日本共産党 第6回全国協議会)である。

日本共産党 第6回全国協議会(にほんきょうさんとうだい6かいぜんこくきょうぎかい)とは、1955年7月27~29日に行われた、日本共産党がそれまでの中国革命に影響を受けた「農村から都市を包囲する」式の武装闘争方針の放棄を決議した会議である。「六全協」(ろくぜんきょう)と略して呼ばれることも多い。 wikipedia

秀実の2冊の本、『革命的な、あまりに革命的な』と『1968年』の年表は1956年から始まり、スターリン批判は載っているが、1955年7月の六全協は載っていない。本文では言及されている。日本の新左翼の発生の時系列的原因は、六全協の武装路線放棄に対する学生活動家の造反なのではないだろうか?確かに、スターリン批判も日本共産党からの学生離れ、新左翼増大の大きな要因ではあるが、まずは、六全協だろう。

さて、柴田翔、『されど、われらが日々』はその六全協前後で翻弄された学生運動活動家とその周辺人物のお話だ。上に、”のち、全共闘に参加する当時の若者が読んだと思われる”と書いた。『されど、われらが日々』は日本共産党への嫌悪が横溢するお話である。そして、『されど、われらが日々』を読んだ段階の世代の中で、『されど、われらが日々』でのお話のような政治運動・男女関係にあこがれて大学に入ったと回顧するものがいる。中野翠(おいらの記憶;引用なし。ソースは、『ノルウエイの森』と『されどわれらが日々―』」 『諸君!』1988年11月号)。そして、その中野翠が嫌悪するのが、ミンセー(民主青年同盟)である。

なお、小説一般が「1968革命」当時者に大きな影響を与えたことを、秀実は言っている;

(前略;大意は大江健三郎と江藤淳が編集・刊行した全集「われらの文学」が1968年革命当時者に大きな影響を与えたということ)今からは考えにくいが、当時は文庫本ではなく、いわゆる文学全集によって若年層の「教養」が形成される時代だった。私的経験も踏まえて言うのだが、日本の六八年世代は、この文学全集をとおして現代文学を読み、大江を中心とする文学史的パースペクティブを与えられたという以上に、そこで吉本隆明とともに江藤淳を知り、六八年革命という「われらの時代」へと―――「われら」という気恥ずかしい文脈を構成しつつ、---突入していったとさえいって過言っではない。 秀実、『JUNKの逆襲』

(関連愚記事; 『われらの文学 22 江藤淳 吉本隆明』 講談社  1966年  490円

■ 探した、あった。

『知の攻略 思想読本11 1968』(秀実 編、作品社、2005)。

▼ 六四年に、五〇年代日本共産党の内紛に題材を採った抒情的な挫折小説『されど、わららが日々』で芥川賞を受賞した柴田翔(当時、東京都立大学の教員)は、構造改革系の統一社会主義者同盟(統社同)に属していた(あるいは近傍にあった)と思われるが、六八年にはニューレフト系学生に「ファシズムにもなりうる心情」を見ている...

つまりは、抒情的と判断し、切って捨てているのだ。そして、別途、柴田翔の話とは関係なく、構造改革派を罵倒している。

この切り捨ては、高橋和己への批判の方が明確に書かれている。

しかし、学生が高橋和己の作品を読んでいたとしても、それは単に「高度なインテリ向けの大衆小説」としてでしかなかったといえよう。

(中略)日共山村工作隊の学生コミュニストの理想と逡巡・挫折を描いて、「苦悩教」を自称した高橋の深刻さは、赤塚不二夫のマンガ『天才バカボン』に較べれば、はるかに通俗的な代物として受け入れられていたと断言できる。 (『革命的な、あまりに革命的な』)

秀実は再三書いている。「1968年革命」がおとしめられている、と。その貶めているというのが、「1968年革命」=全共闘運動というのは、発情期の青少年の何か情念の発露みたいなものである、という認識あたりだろう。 そして、秀実が嫌うひとつが、「反米」を動機することらしい。ニューレフト運動は反米運動じゃないんだよ、といいたいらしい。

■ それにしても、「1968年革命」参加者たち・付和雷同者たちは、そんなに偉かったのか?

秀実の「1968年革命」論では、「1968年革命」に参加の”革命家”は理論に従う理性的な人間たちでなければならない。なぜなら、秀実の「1968年革命」の説明は、理論の紹介と、あとは人間関係の説明である。各個人の情念には言及されない。

そして、2003年の『重力02』の68年を知るためのブックガイドは、”高級”な本ばかりである。

『されどわれらが日々―』なぞない。大学紛争周辺の学生の多くが読んだであろうに。1968年を理解するためには当時活躍していた人たちが何を読んでいたかが重要である。なぜなら、当時活躍していた人たちはその読んだ本の物語を遂行してるかもしれないからだ。この人たち↓がそんな高級な本を読んでいるように見えないのだが?

■ 針生一郎さんもほとんど出ない。

おいらの最近の歴史認識のチャンネルである「針生一郎」さん。 日本共産党を除名され、文化的には新左翼、ニューレフトであった針生一郎さん。秀実の脳内・「1968年」像には針生一郎さんはほとんどない。わずかに、”宇野経済学と「模型」千円札”という表題の章で(『革命的な、あまりに革命的な』)、赤瀬川原平の「模型」千円札裁判について;

この裁判は控訴審も含めて一九七〇年まで続いたが(最高裁で有罪確定)、滝口修造、中原祐介、針生一郎ら当時代表的な美術批評家の特別弁護人を擁し、六八年革命のシンボリックな闘争として遂行された。

とあるのみ。 ”六八年革命のシンボリックな闘争”にしては、滝口修造、中原祐介、針生一郎らと三把ひとからげ、である。

なお、”宇野経済学と「模型」千円札”&針生一郎 ⇒ 田舎大学・法文学部、という視点はもちろん、秀実さんにはない。 彼だって、案外、ものを知らないんだよ (???)

愚ブログに現れたる 宇野弘蔵

愚ブログに現れたる 針生一郎

■ まとめ

ろくでなし子の裁判で、当代 当時 代表的な美術批評家の特別弁護人はいるのか???!!!