■ なぜ、絓秀実の「1968年論」に、柴田翔の『されど、われらが日々』が出てこないのか?
最近、柴田翔の『されど、われらが日々』を読んだ。理由は、白鳥事件のことを調べていて、六全協前の日本共産党の山村工作隊や中核自衛隊が出てきたのを受けて、そういえば、柴田翔の『されど、われらが日々』は六全協前後の話だったよなぁ、と思いだしたからだ。
約四半世紀~30年ぶり位に読んだ。(関連愚記事;『されど、われらが日々』(柴田翔)。おいらは、思いだし、読む。)
そして、気づいた重要な点は、この『されど、われらが日々』は1964年に発表された。第51回芥川賞受賞。すなわち、全共闘運動の前に発表、販売されているのだ。そして、非常に売れたとのこと。つまりは、のち、全共闘に参加する当時の若者が読んだと思われる。
全共闘論、「1968年論」といえば、絓秀実。
1968年を語ってやまないわけ[理由]は、1968年の革命は歴史上の二大革命のひとつで、その1968年革命は狭義の全共闘運動だという。新左翼運動だ。絓秀実は、なぜかしら、ほとんどの書で、ニューレフトと呼称する。同じ意味なんだろうけど、このカタカナ日本語には少し違和感。
さて、その全共闘運動に参加した若者に影響を与えたであろう柴田翔、『されど、われらが日々』を、絓秀実はほぼ無視する。
絓秀実は、1968年革命を語る時、その革命を準備したいきさつも語る。ニューレフトを準備したものだ。見取りは、日本のニューレフトは日本共産党、もっと端的に言って、宮本顕治周辺から出来したと。そして、その契機は1955年のフルシチョフによるスターリン批判だと指摘する。1956年2月のスターリン批判で、スターリンと路線が違い、かつ殺された、世界革命を目指すトロツキーを奉ずるトロツキストの発生に説明のページを割く。
-六全協もほぼ無視-
そして、軽視されるのが、1955年7月の六全協(日本共産党 第6回全国協議会)である。
日本共産党 第6回全国協議会(にほんきょうさんとうだい6かいぜんこくきょうぎかい)とは、1955年7月27~29日に行われた、日本共産党がそれまでの中国革命に影響を受けた「農村から都市を包囲する」式の武装闘争方針の放棄を決議した会議である。「六全協」(ろくぜんきょう)と略して呼ばれることも多い。 (wikipedia)
絓秀実の2冊の本、『革命的な、あまりに革命的な』と『1968年』の年表は1956年から始まり、スターリン批判は載っているが、1955年7月の六全協は載っていない。本文では言及されている。日本の新左翼の発生の時系列的原因は、六全協の武装路線放棄に対する学生活動家の造反なのではないだろうか?確かに、スターリン批判も日本共産党からの学生離れ、新左翼増大の大きな要因ではあるが、まずは、六全協だろう。
さて、柴田翔、『されど、われらが日々』はその六全協前後で翻弄された学生運動活動家とその周辺人物のお話だ。上に、”のち、全共闘に参加する当時の若者が読んだと思われる”と書いた。『されど、われらが日々』は日本共産党への嫌悪が横溢するお話である。そして、『されど、われらが日々』を読んだ段階の世代の中で、『されど、われらが日々』でのお話のような政治運動・男女関係にあこがれて大学に入ったと回顧するものがいる。中野翠(おいらの記憶;引用なし。ソースは、『ノルウエイの森』と『されどわれらが日々―』」 『諸君!』1988年11月号)。そして、その中野翠が嫌悪するのが、ミンセー(民主青年同盟)である。
なお、小説一般が「1968革命」当時者に大きな影響を与えたことを、絓秀実は言っている;
(前略;大意は大江健三郎と江藤淳が編集・刊行した全集「われらの文学」が1968年革命当時者に大きな影響を与えたということ)今からは考えにくいが、当時は文庫本ではなく、いわゆる文学全集によって若年層の「教養」が形成される時代だった。私的経験も踏まえて言うのだが、日本の六八年世代は、この文学全集をとおして現代文学を読み、大江を中心とする文学史的パースペクティブを与えられたという以上に、そこで吉本隆明とともに江藤淳を知り、六八年革命という「われらの時代」へと―――「われら」という気恥ずかしい文脈を構成しつつ、---突入していったとさえいって過言っではない。 絓秀実、『JUNKの逆襲』
(関連愚記事; 『われらの文学 22 江藤淳 吉本隆明』 講談社 1966年 490円。)
■ 探した、あった。
『知の攻略 思想読本11 1968』(絓秀実 編、作品社、2005)。
▼ 六四年に、五〇年代日本共産党の内紛に題材を採った抒情的な挫折小説『されど、わららが日々』で芥川賞を受賞した柴田翔(当時、東京都立大学の教員)は、構造改革系の統一社会主義者同盟(統社同)に属していた(あるいは近傍にあった)と思われるが、六八年にはニューレフト系学生に「ファシズムにもなりうる心情」を見ている...
つまりは、抒情的と判断し、切って捨てているのだ。そして、別途、柴田翔の話とは関係なく、構造改革派を罵倒している。
この切り捨ては、高橋和己への批判の方が明確に書かれている。
しかし、学生が高橋和己の作品を読んでいたとしても、それは単に「高度なインテリ向けの大衆小説」としてでしかなかったといえよう。
(中略)日共山村工作隊の学生コミュニストの理想と逡巡・挫折を描いて、「苦悩教」を自称した高橋の深刻さは、赤塚不二夫のマンガ『天才バカボン』に較べれば、はるかに通俗的な代物として受け入れられていたと断言できる。 (『革命的な、あまりに革命的な』)
絓秀実は再三書いている。「1968年革命」がおとしめられている、と。その貶めているというのが、「1968年革命」=全共闘運動というのは、発情期の青少年の何か情念の発露みたいなものである、という認識あたりだろう。 そして、絓秀実が嫌うひとつが、「反米」を動機することらしい。ニューレフト運動は反米運動じゃないんだよ、といいたいらしい。
■ それにしても、「1968年革命」参加者たち・付和雷同者たちは、そんなに偉かったのか?
絓秀実の「1968年革命」論では、「1968年革命」に参加の”革命家”は理論に従う理性的な人間たちでなければならない。なぜなら、絓秀実の「1968年革命」の説明は、理論の紹介と、あとは人間関係の説明である。各個人の情念には言及されない。
そして、2003年の『重力02』の68年を知るためのブックガイドは、”高級”な本ばかりである。
『されどわれらが日々―』なぞない。大学紛争周辺の学生の多くが読んだであろうに。1968年を理解するためには当時活躍していた人たちが何を読んでいたかが重要である。なぜなら、当時活躍していた人たちはその読んだ本の物語を遂行してるかもしれないからだ。この人たち↓がそんな高級な本を読んでいるように見えないのだが?
■ 針生一郎さんもほとんど出ない。
おいらの最近の歴史認識のチャンネルである「針生一郎」さん。 日本共産党を除名され、文化的には新左翼、ニューレフトであった針生一郎さん。絓秀実の脳内・「1968年」像には針生一郎さんはほとんどない。わずかに、”宇野経済学と「模型」千円札”という表題の章で(『革命的な、あまりに革命的な』)、赤瀬川原平の「模型」千円札裁判について;
この裁判は控訴審も含めて一九七〇年まで続いたが(最高裁で有罪確定)、滝口修造、中原祐介、針生一郎ら当時代表的な美術批評家の特別弁護人を擁し、六八年革命のシンボリックな闘争として遂行された。
とあるのみ。 ”六八年革命のシンボリックな闘争”にしては、滝口修造、中原祐介、針生一郎らと三把ひとからげ、である。
なお、”宇野経済学と「模型」千円札”&針生一郎 ⇒ 田舎大学・法文学部、という視点はもちろん、絓秀実さんにはない。 彼だって、案外、ものを知らないんだよ (???)
・愚ブログに現れたる 宇野弘蔵;
・愚ブログに現れたる 針生一郎
■ まとめ
ろくでなし子の裁判で、当代 当時 代表的な美術批評家の特別弁護人はいるのか???!!!