いか@ 筑豊境 寓 『看猫録』

Across a Death Valley with my own Distilled Resentment

「侵略と植民地支配」の張本人@子供の孫崎享さんは、一体、何に対して「点」を稼いでいるのだろうか?

2015年07月30日 19時21分58秒 | 日本事情

みていて楽しい、孫崎享さん。

孫崎享さん関連愚記事;
① 吉田ドクトリンは永遠なり 2009
② 孫崎 岡崎さんならば、アメリカは、日本にも、こういうインテリがいるのかと大事にしてきたと思う。しかし岡崎さんの目から見て、日本の官庁で安全保障を担当している人びとがイギリスのレベルに達していると思うか?

 おいらは、みていないが、聞いている。

毎週、木曜日の朝の民放ラジオは、元外交官の日である。

6時からの文化放送では、孫崎享、7時からのニッポン放送では、佐藤優がコメンテーターだ。

おいらは、両者とも尊敬しないが、おもしろいから、聴いている。 暇なのだ。

最近の両者に共通する点は、ポツダム宣言には逆らうな!ということだ。

戦後日本の外交官の基本らしい。教祖はもちろん「ハンディキャップ国家」理論の小和田さまである。

孫崎享は積極的「逆らうな!」派だ。

佐藤優は消極的「逆らうな!」である。 佐藤優は「戦後何十周年なんて年は、敗戦国にとっては天中殺みたいもんだから、静かにしておれ!=安倍談話とかやめとけ」という趣旨。

さて、現在の新安保法制に反対の論客でがんばっているのが、外務省出身で防衛大学校でも教官をしていた、孫崎享さんである。

孫崎享さんは安倍政権が嫌いで、新安保法制にも反対だ。

その孫崎享さんは今日の下記ニュースでのコメント。 まずは、そのニュースとは、

 米南部テキサス州にある国立太平洋戦争博物館に対し、在米中国公館の関係者を名乗る複数の人物が、展示物の記述を書き換えるよう圧力をかけていたことが分 かった。博物館関係者が明らかにした。戦後70年を利用し、組織的に活発化させている反日宣伝の一環であるとともに、中国共産党支配の正統性を国内外にア ピールする狙いもあるとみられる。(中略)

今年4月ごろ、テキサス州の在ヒューストン中国領事館員を名乗る男が博物館に電話をかけ、展示物の記述を書き換えるよう求めてきた。

 対象部分は、「中国共産党の前身である八路軍と名乗る集団が日本軍との交戦を避けてゲリラ活動を続けながら山岳地帯に逃れた」という説明部分だ。

 これを、「中国共産党軍は日本に宣戦布告をして戦い、勝利した。日本国天皇は領土拡大の野心をもって中国大陸に迫り、尖閣諸島などを含めた中国領土を侵略した」-などと書き換えるよう、再三要求しているという。 (ソース [1])

このニュースに対し、孫崎享さんは、「日本国天皇は領土拡大の野心をもって中国大陸に迫り」というのは事実ではないので、上記の中国による抗議は無効である、と主張している。

さて、話は、新安保法案の話に戻って、孫崎享さんは新安保法案に反対する最大の理由は専門家である憲法学者の95%が違憲といっているということを挙げている。

でも、これは理屈にならない。なぜなら、95%ではないにせよ、戦後ずーっと専門家である憲法学者の大多数は自衛隊は憲法違反といっている。防衛大学校の教官であった孫崎享さんは違憲行為をしていたのだ。

さて、孫崎享さんは、おいらはその認識を採らないが、かの村山談話の定義に従うならば、孫崎享さんの御尊父は「侵略と植民地支配」にいそしんでいたらしい。そして、孫崎享さん自身が「侵略と植民地支配」の賜物として、「侵略と植民地支配」の精華である満州国で、ご誕生あそばされたのだ(wiki:1943年、満州国の奉天省鞍山市にて生まれた[1]。日本の特殊会社たる南満州鉄道が設立した鞍山製鉄所(のちの昭和製鋼所)に父が勤務していたため、満州国にて暮らす)。

いうまでもなく、孫崎享さんは、村山談話が大好きである。

そして、孫崎享さんの主張はこうではないだろうか?; ポツダム宣言に侵略戦争は軍部(無責任な軍国主義者)がやったのだ。戦後、日本政府はそれを認めた。だから、「史実」は侵略戦争は軍部がやったのだ。天皇や国民には責任がないのだ! 全部、軍部が悪いのだ!

実際はこうなのに; 恐慌で放浪した庶民が求めたものが、「植民地支配」と「侵略」である。政府・軍部はその「庶民」の「願い」に応えたのだ。(愚記事

でも、"無責任な軍国主義が日本の人々をだまし、間違った方向に導いた"という考えを孫崎享さんが持っていることを仮定すると、彼の日ごろの言動の説明がつく。こういう考えだ;

「侵略戦争をやった戦前の軍部は戦後我々民主主義者のおかげで駆除されてきた。でも、最近は、侵略戦争をやった戦前の軍部の残滓が復活しようとしているのだ!それが安倍政権だ!これには、闘いわなければいけない! ファイト! 闘うもののうたを、闘わないものが、嗤うだろう! ファイト!」

でも、おいらには、こうみえる。

侵略戦争をやった戦前の軍部の亡霊をつくっては、それと闘って、自分は戦争や侵略に対し闘っていることにする。そして、それを以って、自分が本当の「侵略と植民地支配」の当事者であったことをごまかしているのだ。 

孫崎享さんに限らず、安保法制に常軌を逸して反対している人たちである澤地久枝さんや瀬戸内寂聴さんを見よ! みんな、「侵略と植民地支配」の当事者ではないか!(愚記事:日本政府の公式見解たる村山談話の精神に則った言葉遣いで彼女を称すると、瀬戸内寂聴さんは日帝侵略者 or 植民地支配者なんじゃないか!

「侵略と植民地支配」の当事者なら世間の隅っこで、恥を知って、ひっそりしていればいいのにね。

なぜ、安倍ちゃんばかり、ファシスト/軍国主義者/戦争屋よばわりされのか?

もちろん、話は簡単で、孫崎享さんや澤地久枝さんや瀬戸内寂聴さんはポツダム宣言の精神に従い、闘っているのだ。

ポツダム宣言第6項にこうある;

6.日本の人々をだまし、間違った方向に導き、世界征服に誘った影響勢力や権威・権力は、排除されなければならない。無責任な軍国主義が世界からなくなるまでは、平和、安全、正義の新秩序は実現不可能である。

孫崎享さんや澤地久枝さんや瀬戸内寂聴さんにとっては、日本の人々をだまし、間違った方向に導くのが、安倍ちゃんなのだ。

そして、「侵略と植民地支配」に乗じ、あるいは先頭に経って、生業としてきた自分たちの親や自分自身の「悪行」を度外視するのだ。

このポツダム宣言の精神に従い闘う孫崎享さんや澤地久枝さんや瀬戸内寂聴さんら「侵略と植民地支配」の当事者に働く心理的メカニズムも簡単ではないか。戦勝国の論理をあやつることで戦勝国側にもぐりこみ、侵略者を摘発し懲罰する立場をとることに躍起である。そうして、自分が本当の「侵略と植民地支配」の当事者であったことをごまかしているのだ。

● まとめ

やはり、自己処刑をなした林芙美子は偉かったのだ(愚記事: 林芙美子が死ぬ3か月前に書き上げた『浮雲』を読んだ。この作品が林芙美子の「自己処刑」の話だとわかる )。

孫崎享さんや澤地久枝さんや瀬戸内寂聴さんは、「侵略のと植民地支配」であった当時者の親御さんを、文学的にでも、「処刑」できていないのだ。 そして、自分は、自分を"反省したお利口さん"として存続させているのだ。

謝れば済むと思っているのだ。 


林芙美子 些細; スキー編

2015年07月28日 19時55分30秒 | その他

林芙美子、『北岸部隊』に下記ある;

 この船は六千五百トンくらいで、〇〇〇丸と云った。印度航路の貨物船だったのだそうである。現役の兵隊や予備の兵隊の人達が私の周囲にいっぱいだった。私はここで味岡少尉という方に逢った。文学の話も造園の話も出来る人である。一度、草津のスキー大会で、私をみかけた事があると味岡さんは云っていた。自動車の方で、九江へ着いたら御便宜をはかりましょうと云って下すった。

昭和12年(1937年)9月の出来事。「〇〇〇丸」と伏字になっているのは、今となっては、ぜのあ丸とわかっている。このぜのあ丸の船倉には300頭の軍馬が積まれていた。なお、上の「自動車の方で、」とは軍馬を用いる部隊ではなく、自動車(軍用トラック)の専門家ということなのだろう。

この文章でわかることは、当時の職業軍人は、当然ではあるが、アッパーミドル階級であり、教養のある人種であったということ。それは常識として、赤の他人である高級軍人が見て、"林芙美子"を「林芙美子」とわかった、という事実が読み取れる。テレビの無い時代にどういうことだ? 「スキー"大会"」とあるから何かイベントがあって、文化人が参加して、「林芙美子さんです」と客衆に紹介があり、味岡少尉は 林芙美子を認識したのだろうか?

年譜にこうあった;

昭和12年(1937年)2月、小林秀雄、深田久弥と草津温泉へスキーに行く(河出書房新書、現代の文学 17 林芙美子集の年譜より)。

草津のスキー大会」とはこのことに違いない。

別途、ネット情報で、小林秀雄の来草は、昭和12(1937)年2月、林芙美子ら文壇の仲間とともに 宿をとり、真冬のスキーを楽しんだことが、芙美子の記録に残されています。 とあった(ソース)。

文人同志の仲間うちのスキー旅行だったらしい。すなわち、文化講演会でもなかったということは、味岡少尉は、紹介されずとも、林芙美子の顔を知っていたことになる。

なお、深田久弥は改造社の編集者で、小林秀雄との関係は下記のごとき;

 学校を出ると、一年ほど関西を放浪していたが、その間「文藝春秋」への匿名連載原稿は、毎月送っていた。東京に還り、母親と一緒に弟夫婦のところに厄介になる様になって、生活上の必要から、はじめて文壇に出たいと本気で思った。
 丁度「改造」で、文藝時評の懸賞募集をしているので、これに応ずるのが一番の近道と思い、ひと月ほど田舎に行って書き、当時「改造」の編集部にいた深田久弥に渡した。一等当選については、書く前から一度も疑ってさえみなかった。発表されたら二等だったのでびっくりした。 (小林秀雄、「文藝春秋と私」、現在、新潮社版小林秀雄全集 第九巻)

ところで、小林秀雄には、「林芙美子の印象」という文章がある。昭和9年/1934年。すなわち、このスキー旅行の3年前。「林芙美子の印象」は深田が小林に、林芙美子の印象を書け、書け!というので、困ったが(しぶしぶ)書いたみたいなことを、小林はこの文章で云っている。そして、ねじり酒のせいにして、「林芙美子の印象」が書いてある。その内容は、また、今度。

■ 別途、週末、ある本を読んでいたら、1930年代の東京人にとっての「スキー」の意味が中野重治を通してわかった。

 ある小説での設定。転向左翼で今では支那戦線で特務機関の手先となっている青年(洲之内徹が自分をモデルにした)が、中野重治を心配する場面;

中野重治と交際のある若い女性が支那戦線に来る。そして、中野重治の近況を青年(洲之内徹)に伝える。

「Nさんはいまどうしていられますか。書くことをとめられてから、金沢かどっかで、郷里で印刷屋をやってられるということを聞きましたが...」

「いいえ、ずっと東京です」

「(中略) それにしても、ああいう人たちの生活は、いまは大変なんでしょう」

「でもね、傍で想像するようなのとは、あの方たちの生活は、前からすこし違うんです。奥さんとお二人のスキーが書斎に飾ってあったり、どちらかというと小市民的というのじゃないかしら」

(大原冨枝、『彼も神の愛でし子か -洲之内徹の生涯-』の洲之内徹の小説『流氓』(意味)からの引用)

スキーが小市民的=プチブルの象徴らしい。

● まとめ


1937年の"私をスキーに連れてって"

プチブル遊びに興じていた文士や軍人は、半年後には、現世と地獄の境目=戦線へ。

プチブル遊びに興じていた女の文士が、いくさ遊びに飛び込み、見て、報告したものは; 

濛々たる黄塵の街道の左右は、支那兵の死体がるいるいとしています。血は溢れ、服は裂けて、手は手、足は足とばらばらになっているものもありますが、流石に生々しい戦線のありさまを見ますと、私は何と云うこともなく、蒋介石に憤りのようなものを感じました。 (林芙美子、『戦線』)

プチブル遊びに興じていた男の文士が、いくさ遊びの結末のあとで語ったとされる言葉は;

僕は無知だから反省なぞしない。利口な奴はたんと反省してみるがいいぢゃないか!

⇒ 案外、お利巧さんだった お芙美さんは、自己処刑 (愚記事; 林芙美子が死ぬ3か月前に書き上げた『浮雲』を読んだ。この作品が林芙美子の「自己処刑」の話だとわかる


改造社、新鋭文学叢書; 林芙美子 『放浪記』はその一巻

2015年07月26日 19時52分08秒 | 


 上画像はネット上からパクリました。

もちろん公知のこと。おいらは、知らなかった。 林芙美子 『放浪記』は1930年に改造社から発刊されたと本に書いてある。その 林芙美子 『放浪記』は、改造社の新鋭文学叢書の企画シリーズ(全部で20冊程度)の一冊として刊行された。そして、シリーズの中で、林芙美子 『放浪記』が50万部売れたのだ。この年は、世界恐慌が日本にも波及した頃だ。さらに1931年には東北、北海道地方はひどい冷害であった。「1931年(昭和六)には東北・北海道が冷害による大凶作となって、岩手県三万人、青森県一五万人、秋田県一万五千人、北海道二五万人など、計四五万人が餓死線上にたたされた」(大系昭和の歴史⑭、「二つの大戦」、江口圭一)。

林芙美子って、その名前と代表的作品名、『浮雲』、『清貧の書』、『牡蠣』、『風琴と魚の町』など古臭い印象を今の人に与えているのではないだろうか?おいらだけが持った印象であろうか?事実は、林芙美子は1920年代のモダニズムの寵児である。さらにはモダニズム主流派?より過激なアナーキズム的グループにもいた。一方、プロレタリア文学にも少し参画している(雑誌、文藝戦線)。なにより、性的アナーキスト(平林たい子 評) だ。

 
   あっぱれ人妻 (ともに身長145cm)

そのモダニズムの時代の子という証拠が、林芙美子 『放浪記』の装丁である。上図。改造社の新鋭文学叢書の企画シリーズは全てこのデザインであったらしい。典型的、モダニズム(ロシア・アバンギャルド風味の)である。

新鋭文学叢書の企画シリーズの著者を見ると、その錚々たること、驚く。すごいな、当時の改造社の編集者。

『東倶知安行』   小林多喜二
『耕地』      平林たい子
『暴露読本』     貴司山治
『海と飛魚の子と』  林房雄
『鉄の規律』    明石鐵也
『傷だらけの歌』   藤澤桓夫
『浮動する地価』  黒島傳治著
『労働日記と靴』  鹿地亘
『辻馬車時代』   藤澤桓夫
『労働市場』     橋本英吉
『研究會挿話』   窪川いね子
『正子とその職業 』 岡田禎子
『情報』      立野信之
『歩きつゞける男』  片岡鐵兵
『ボール紙の皇帝萬歳』  久野豊彦
『約束手形三千八百圓也』 徳永直
『ブルヂョア』   芹澤光治良
『十九の夏』   龍膽寺雄
『屍の海 』   岩藤雪夫
『反逆の呂律』  武田麟太郎
『放浪時代』   龍膽寺雄
『隕石の寝床』   中村正常
『不器用な天使』  堀辰雄

(情報の元:cini 新鋭文学叢書 )

当然だが、この新鋭文学叢書シリーズには「右翼/ファシスト/日本浪漫派」はいない。もっというなら、その頃「右翼/ファシスト/日本浪漫派」の思潮は「なかった」のだろう。彼らは、モダニストやプロレタリア文学者たちであったのだ。

彼らの多くが、林芙美子も含めて、後に逮捕される。そして、転向。つづく総動員・戦争時代を生きていく。

というか、満州事変・支那事変(日中戦争)・大東亜戦争での文化活動の主要実施者はこの1930年組(彼らの多くは1900年前後に生まれている)である。

この中で、一番商業的に成功したのが、林芙美子 『放浪記』とのこと。50万部売れたそうだ。

一方、外国語に訳されたのは徳永直である。林芙美子の訪欧記に徳永の「太陽のない街」がドイツ語に訳されたことを知る場面がある。

 

 

 


新しい街でもぶどう記録;第39週

2015年07月25日 18時10分40秒 | 草花野菜

■ 今週の猫

垂直立ちしている猫を見た;

よそんちの三毛猫だ。

■今週の看猫

■ 今週のグローバル化による資本の文明化作用

以前、三菱マテリアルの件に言及した(愚記事

今週、元米兵捕虜と三菱マテリアルが和解したというニュースがあった(google; 戦時下強制労働、三菱マテリアルが元米兵に謝罪)。このニュースをみて、中国の方はどうするんだろう?と疑問に思った。果たして、数日後、発表された;google; 戦時中の中国人強制連行 三菱マテリアルが「賠償金」)。70年も経ってなぜこうなったのか?=なぜ70年もかかったのか?と考えると、資本のグローバル化で三菱マテリアルも米国や中国でもっと手広くビジネスをしなければならない。そのためにはこういう問題にケリを付けたほうがいいという算盤勘定なのだろう。グローバリゼーション時代の資本の文明化作用。今回の三菱マテリアルの謝罪の重要な点は被害者に元米兵捕虜もいたこと。もし、中国人だけなら、しらばくれて逃げようとしたのかもしれない。でも、中国経済の巨大化が、市場目当てで、「妥協」しようとの経営判断をもたらすのは必至であったかもしれない。

■今週の屋久島

今週、おいらは、林芙美子の『浮雲』が"自己処刑小説"であると気づいた(愚記事林芙美子が女主人公「ゆき子」を処刑したのが、屋久島だ。そして、林芙美子を屋久島に土葬にした。四六時中雨が降っているという屋久島で地表からの雨に浸り、腐敗していくのだ。

そんな屋久島で今週、内閣府情報保全監察室参事官が死んだとのニュース(google)。事故死とされているが、何があったんだ。

■ 今週の限りなくデマに近い科学の誇大成果発表 (とばし)


米航空宇宙局(NASA)は23日、地球から1400光年離れたはくちょう座の方向に、 太陽(恒星)までの距離や大きさが地球と似た「いとこ」のような惑星を見つけた、と発表

ただ、①太陽と同程度の大きさの恒星がある;②その恒星のまわりのある軌道半径にある惑星がある。その軌道半径と惑星の規模が地球と同程度、というだけのことである。その惑星が金属-岩石からなる惑星であることも検証されていない。ただ、「表面に岩で覆われた大地や大量の液体の水がある可能性がある」というだけ。可能性。なんら観測データはない。あほか。

可能性がある科学=ペテン科学。 「表面に岩で覆われた大地や大量の液体の水がある可能性がある」。そりゃ、ありますがなぁ。絶対可能性はある!可能性は否定しきれない!ティラノサウルスがいる可能性だって否定できない!烏賊だっている可能性は否定できない。もう、絶対否定できない!知的生命体だっている可能性は否定できない!いやいや、大日本いとこ帝国の存在だって否定できない!そう、絶対、否定できない!

死ぬまで、やってろ! 可能性ヨタ科学。

しかも、地球とこの惑星を比較すると、半径も1.6倍の違い、質量に至っては5倍の違い、重力2倍って、全然、類似していないじゃん。その表面環境は相当異なると推定できる。 「牛と蛙はにてる。だって、目がふたつあるじゃないか!」程度のオツムの科学的成果報告だな。

こいつら、アホやろ。

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クーリエ芙美子; 「デカダンのうまき酒」のひと口目;酸っぱいような勇ましい気持ち:会えなかったふたり

2015年07月23日 19時02分01秒 | 日本事情

ゆき子がラジオをひねると、富岡はおっかぶせるように、
「外国のでもやってくれよ。ダンス曲でもやってくれないかね?日本のラジオは胸に痛いンだ。聞いてはいられないじゃアないか。やめてくれよ」
 ラジオは戦犯の裁判に就いての模様だった。
ゆき子はそのラジオを意地悪く炬燵の上においた。富岡は急にかっとし、そのラジオのスイッチをとめて、床板の上に乱暴に放った。

「何をするのよッ」
「聞きたくないンだ」
「よく聞いておくもンだわ。誰の事でもありゃしないでしょ?
私達の事を問題にされているんでしょう?
だから、あなたって駄目ッ。甘いのねぇ・・・」

(林芙美子、『浮雲』)

今週、おいらは、林芙美子の『浮雲』が"自己処刑小説"であると気づいた(愚記事:いくさのあとさき; 軍事冒険主義時代の冒険家: 林芙美子)。戦犯問題について、誰の事でもありゃしないでしょ?私達の事を問題にされているんでしょう?といっているのだ。ここで「戦犯」とは、”国際法でいう戦争犯罪、すなわち戦争にもルールがあり、戦争だからといって何をやってもいいわけではなく、戦闘以外の逸脱行為は犯罪である"という意味ではない。広く、戦争の結果の惨禍をもたらした政治的社会的道義的責任のことである。戦争に加担したという意味だ。その責任があると『浮雲』の女主人公ゆき子に言わせているのである。

政治的社会的道義的責任とは林芙美子が「デ カ ダ ン の う ま き 酒」をたんまり飲んだことである。その「デカダンのうまき酒」の芙美子のひと口目と、それから20年あまり後、戦勝国に縛り首にされ殺された文官と因縁があるという話。

■ クーリエとは外交行嚢(がいこうこうのう)の保持・運搬者。ウイーン条約では「外交伝書使」というらしい。外交行嚢とは、「外交文書には機密文書も多く含まれることから、運搬業務に当たっては厳重に封印が施され "DIPLOMAT"(外交官)の文字が印刷された機内持ち込み可能な巾着袋「外交行嚢」(外交封印袋)を用いる。また、一般に外交特権の一種として、行嚢の中身に関しては税関などで確認を行われないことが認められている。」(wiki)。

林芙美子は1931年(昭和6年)11月、シベリア鉄道でパリへ行く途中、クーリエをやっている。そして、クーリエ仕事とは関係なしに経験的にソビエトを嫌いになった。

夫への手紙にある;

マンヂウリではひどかった。日本人は私一人皆おどろいていた。マンヂウリではレウジ館のヒミツ書類をモスコーまで持って行くのを託された。一寸、これは小説になる。ロシヤはこじきの国だ。ピオニールが私に、マドマゼルパンをくれと云ってくる。
(林芙美子の夫への手紙、 『林芙美子 巴里の恋』) 

実際に売文・公表された文章はこれ;

 モスコーへ行く日本人は私一人なのです。マンジュウリの領事から、モスコーの広田大使へ当てての外交書類を是非持って行ってほしいと云う事が持ち上がりました。

 共産軍はもうチチハルへ出発したとか、露西亜の銃器がどしどし支那の兵隊に渡っているとか、日本軍は今軍隊が手薄だとか、兵匪の中に強大な共産軍がつくられているとか、風説流々なのです。

 戦いを前にしての静けさとでも云いますのか、マンジュウリの駅は、この風説に反してひっそり閑としていました。私はあずかった、五ツ所も赤い封蝋のついた大きな状袋をトランクに入れて鍵をかけると、何だか妙に落ちつけない気持ちでした。

 もし調べられた場合は・・・・・その時の用意に、露文で、外交官としての扱いをして戴きたいと云った風な、大した添書も貰っているのでしたけれど、全くヒヤリッとした気持でありました。

 愛国心とでも云うのでしょうか、そんな言葉ではまだ当はまらない、酸っぱいような勇ましい気持ち、―――何にしても早く国境を越えてくれるといい。

林芙美子、『西比利亜の旅』 (現在、岩波文庫、『下駄で歩いた巴里』に収録)

それで、実際にモスクワでどうなったかについてと、モスクワの印象も林芙美子、『西比利亜の旅』に書いてある;

――― 二十日の午後四時にモスコー着の予定の汽車が、モスコーへ着いたのは夜の九時頃でありました。屋根の無いホームに列車が這入りますと、乗客はほとんどモスコーで下車してしまうのです。同室の彼女も、板製のトランクを赤帽に持たして元気よく手を振ってピオニールたちと降りて行きました。乗客が去ってしまうと、妙に森としてただ遠くの方から女性のコーラスが聞こえて来るきりでした。――― この列車がベロラスキーの停車場へ廻って、モスコーを発車するまでには、三時間ばかりも時間があります。その間に、満洲里(まんじゅうり)で託された書類を広田大使のところまで持って行かねばならないのですけど、夜更けではありますし、初めての土地ではあるし、改札口へ出るのにどんな手続きがいるのか、そんな事を考えながら、私は焦々してホームに降りていますと、大毎の馬場氏がポクポク歩いて来られました。

「やれやれ、助かりましたよ。」

「何です?」

 私は馬場氏に連れられてホームを出ました。駅の前には、三角巾を頭に巻いた若い女の行列が、大きな声で勇ましい歌を唄っていました。ああここがモスコーだ。働く人の街だ。一週間ほど滞在してみませんかと、馬場氏が親切にこう云って下すったのですけれど、p、よゆうが無いのであきらめてしまいました。日の丸の旗のついた自動車に乗せて貰って、街を見せて貰いました。(中略)

 言葉の通じないせいもありましょうが、全く不思議なインショウになってしまいました。何故なら私の目にはいった露西亜は、日本で知っていた露西亜と大違いだからです。日本の無産者のあこがれている露西亜はこんなものだったのでしょうか?日本の農民労働者は露西亜のおこなった何にあこがれていたのでしょう?――― それだのに、露西亜の土地は、プロレタリヤは相変わらずプロレタリアです。すべていずれの国も、特権者ははやり特権者なのではないでしょうか?その三ルーブルの食堂には、兵隊とインテリゲンチャ風な者が多くて、廊下に立って眠っている者たちの中には、兵隊もインテリもいません。ほとんど労働者の風体のものばかりでした。

林芙美子、『西比利亜の旅』 (現在、岩波文庫、『下駄で歩いた巴里』に収録)

結局、林芙美子はモスクワの日本大使館に出向いたわけではなく、大毎(大阪毎日新聞)の馬場という新聞記者に外交行嚢を渡したと林芙美子は報告している。時間が遅くなって、日本大使館の「営業時間」ではないと判断したのか?もっとも、モスクワの日本大使館に行ったからといって大使に会えたわけでもないだろう。下級の館員が受け取ったのであろう。

それにしても、林芙美子がモスクワを通り過ぎた1931年11月は確かに満州事変は始まっていたが、1945年夏の大破局に至る日帝とアジアそして西太平洋地域の大惨禍は予想もつかなかったに違いない。でもわずか14年(1931⇒1945)ともいえる。14年で世界が壊れたのだ。1931年にはマンハンッタン計画だってなく、そもそもまだアウシュビッツもなかった。14年の間に〇〇〇が世界を壊したのだ。この〇〇〇が何であるか?は今でも正確には分からない。でも、林芙美子は〇〇〇の世界破壊をみたのだ。例えば、ねえ、この戦争の使命は、老いたる大陸に一つの新しいバイブレイションを捲きおこすのですよ。兵隊は実に元気です。愚記事)。そして、林芙美子は〇〇〇の世界破壊を享受 (enjoy) した。 「デカダンのうまき酒」をのんだのだ。


     世 界 を 壊 せ ! (愚記事)

1948年に、世界を壊した〇〇〇と戦勝国から認定されたのが我らが(いわゆる)「A級戦犯」である。そして、1931年に林芙美子が外交行嚢を渡すはずの駐ソ連日本国大使こそ、東京裁判で刑死した「A級戦犯」のひとりでありただ一人の文官であった広田弘毅に他ならない。

その時、1931年、広田も芙美子もイノセントであったのに...。

そして、時が経て、世界が壊れ、日帝が瓦解し、広田らいわゆる「A級戦犯」が処刑されたのを受けて、林芙美子は自己処刑を行う。

『浮雲』の女主人公ゆき子は林芙美子の投影であり、処罰されたのだ。罪科は「デ カ ダ ン の う ま き 酒」を飲んだことである。処刑されたゆき子は急病の床で喀血し自分が吐いた血糊で顔面を染め、死んでいった。

この『浮雲』=自己処刑小説であるひとつの証拠が最上部の引用の東京裁判の模様をラジオで聞いて、ゆき子が誰の事でもありゃしないでしょ?私達の事を問題にされているんでしょう?ということだ。

林芙美子の『浮雲』は、自己処刑小説であるとともに、「A級戦犯」刑死・後追い心中小説でもあるのだ!

今、気づいたよ。 恐るべし、林芙美子! 最初の芙美子はクーリエ芙美子。酸っぱいような勇ましい気持ち。いたいけだったあの頃。

 
YouTube 東京裁判で判決を受ける各被告の広田の部分

この「絵」は有名。他の被告と違うところ。広田は傍聴席の家族に視線を合わせ、あいさつしたのだ。


いくさのあとさき; 軍事冒険主義時代の冒険家: 林芙美子

2015年07月21日 20時17分24秒 | 日本事情

■ はじめに

林芙美子が死ぬ3か月前に書き上げた『浮雲』を読んだ。この作品が林芙美子の「自己処刑」の話だとわかる。『浮雲』の女主人公ゆき子は林芙美子の投影であり、処罰されたのだ。罪科はデ カ ダ ン の う ま き 酒(後述)を飲んだことである。

処刑されたゆき子は急病の床で喀血し自分が吐いた血糊で顔面を染め、死んでいった。

この話を作りあげて3か月もたたないで林芙美子は突然の心臓麻痺で苦悶し、死ぬ。48歳。

今日の記事の下記本編をブログ記事を完成させ公開してから、『浮雲』を読めばよかったのだが、もたついていた。なお、下記本編の情報を得た時点[今週末]でも、『浮雲』の話の内容を知らなかった。

『浮雲』についての記事は後日、また。

■ 本編

3月から針生一郎のものを集めて読もうとしてきた。今年3月に仙台に展覧会に行ったことがきっかけだ(『わが愛憎の画家たち; 針生一郎と戦後美術 』)。針生一郎についておいらが関心のあるのは、針生一郎と戦争。針生は敗戦前に日本浪漫派にしびれていたとのこと。これについて、いいだもも[wiki]は針生との対談でこう言っている;

戦争と専制の時代に、単なる封建的反動でない、下層の情念をすくいあげようとした日本浪漫派、近代日本の原罪としてのアジアの問題をすくいあげようとした大東亜イデオロギーに代表されるニヒルでデカダンな - 針生さんあたりは高等学校時代にそのデカダンのうまき酒をたっぷり飲まれた経験がおありだろうと思うんだけど(笑) -  そういう独特な酸味のある揺れもどしが起きてくる。 (『反現代文学、 いいだもも対論集』)

この「デカダンのうまき酒」というのがおいらの関心事。

林芙美子の「デカダンのうまき酒」は2点; ① 不貞恋愛(性的アナーキズム [平林たい子の評])と、②軍事冒険主義への参画 (含む、ボルシェビキ/ファシズム/アナーキズムの試飲)。

林芙美子の書いたものは、昭和恐慌→満州事変→支那事変→対米英蘭戦という大日本帝国瓦解への流れの中での出来事の報告による歴史への註となっていると気づいた。

例えば、デビュー作の『放浪記』にある(もっともこの部分は後に付加されたらしい)

―― そのころ、指の無い淫売婦だけは、いつも元気で酒を呑んでいた。 「戦争でも始まるとよかな。」

 この淫売婦の持論はいつも戦争の話だった。この世の中が、ひっくりかえるようになるといいと云った。炭坑にうんと金が流れて来るといいと云っていた。

まさに、恐慌を戦争で克服しようとして、失敗したのが、我らが大日本帝国である。その流れに「ルンペン」として参加したのが、林芙美子だ。実際、『放浪記』が売れた当時、林芙美子は「ルンペン作家」とよばれていた。

この『放浪記』が売れた林芙美子のしたことは旅行である。海外旅行。

とにかく彼女の行動力には驚く。上海には満州事変前の平時から第一次上海事変直後、支那事変・第二次上海事変・南京陥落直後と4回(以上)訪れている。そして、パリ・ロンドンへの旅行が有名。

■ 林芙美子は小説家、というより、売文冒険家@しかも、軍事冒険主義時代のボルシェビキ/ファシズム/アナーキズム的冒険家なのではないか?

林芙美子は、勉強して/学習して(書物に傍点を施しては世界を理解しようして)獲得した知識や思想ではなく、自分の経験で世の中に傍点を付けては理解しようとしたのだと思う。一番の林芙美子の背景はアナーキズムだ。そもそも、若いときの出身がアナーキズム・グループだ。アナーキストの野村吉哉と内縁関係にあった。でも、アナーキストの野村吉哉はDV夫であった(林芙美子、『清貧の書』)。そして、林芙美子の背景はアナーキズムに加えて必要なのは、ニヒリズムだ。このニヒリズムとは、「おいしいものが好きで、自分の舌(ベロ)だけを信じる」という意味だ。自分の舌(ベロ)で確かめる=自分の経験で確かめるため、出向いて、実際に体験するのだ。だから、林芙美子はあれだけ旅をうつのだ。実は、林芙美子は知識や思想を重宝しているかもしれないが、表出するときには、そういうことには依存せず、自分の経験に基づき書くのだ。

■元ネタ

林芙美子の作品はかなり限定されたものしか容易に、かつ、安く、入手しずらいというのが、おいらの感想。もっとも、『放浪記』など青空文庫などネットで無料で読める。おいらは現時点で、林芙美子の作品の5%もみていない。でも、林芙美子は人生そのものが面白い。なので、自伝的作品、日記、他人による評伝がおもしろい。

主な元ネタ; 『下駄で歩いた巴里』(岩波文庫)、『林芙美子随筆集』、『林芙美子 巴里の恋』、『戦線』、『北岸部隊』、『ちくま日本文学全集 林芙美子』。

林芙美子の伝記: 平林たい子の『林芙美子』。

(もっとも、これだけでも、いかに林芙美子が「デカダンのうまき酒」をたっぷり飲んだかわかる。)

すごい、林芙美子の人生。 Enjoy your  Decadent!

(なお、林芙美子・『浮雲』には、「エンジョイ」 と出てくる。)

(現在、"著名人"による林芙美子についての本、「ナニカアル」、桐野夏生;「林芙美子の昭和」、川本三郎; 「太鼓たたいて笛ふいて」、井上ひさし;「飢え」、群ようこ、などがあることは認識しているが、読んでいない。先入観を持つ前になるべく原作をみたかったから。これから読む。)

 

 ー 林芙美子の各時代での所業について; 各論 

▼ 満州事変前

満州と上海に行った。満州と上海に行った理由は、おいらの推定では、ロシア(当時はソヴィエト・ロシア)と英仏文化に触れるためであったのではないか。事実、ハルピンでは「日本の「改造」がすらすら読める」ロシア人の教師に取材し、「現在のソヴェートロシアの女流作家」は誰か聞き出し、旅行記のネタにしている(『哈爾浜散歩』 昭和5年/ 1930年、初出不明、現在、岩波文庫 『林芙美子紀行集 下駄で歩いた巴里』)。

林芙美子は、日本の拡張冒険主義が始まる前の小春日和に支那大陸を訪れている。この時期だから、魯迅にも、気兼ねなく、会えたのだろう。2回目の会見は支那事変直後。気まずかったであろう。このように、林芙美子は、戦争前の満州、支那を見物している。

 

▼ 満州事変直後(大日本帝国、その軍事冒険主義の公然化後)

そして、パリ、ロンドン。1931年6月にシベリア鉄道に乗って、ヨーロッパに行く。もちろんそれまでには、満州を通ってソ連-満州国境の満州里まで満州鉄道で行く。なんと、柳条湖事件の2か月後である。

この時期は、「デカダンのうまき酒」の戦争カクテルはまだ飲んでいないが、林芙美子自身人妻なのに、パリで恋愛に耽っている。このあたりの話は、『巴里の子小遣ひ帳』、『一九三二年の日記』、『夫への手紙』をあつめた今川英子編集、『林芙美子 巴里の恋』に書いてある。2000年に確認されたこととして、パリで白井晟一(wiki)と恋愛関係にあったこと。

そして、おもしろいのが、コミンテルン見物。

1933年にエドワード8世とエリザベス2世がナチス式敬礼をした前の年、林芙美子はロンドンで支那人コミンテルンの反日デモをみる。満州事変を受けての反日デモだ。そして、ロンドンのマルクスの墓参りをしている。ボルシェビキかファシズムかの時代だったのだ。林芙美子がアカであったという証拠はない。ただし、1933年に共産党への資金援助を疑われ9日間中野署に拘留されている。さらには、パリで恋人であった白井晟一は1933年にモスクワに行って、亡命を希望するも受け入れられずに帰国。その後、昭和研究会に参加。マッカだ。

▼ 支那事変

支那事変は漢口進撃への参画。現在、『戦線』、『北岸部隊』と文庫になっている。両者は同じ経験を別々の作品にしたもの。『戦線』の方が先に出版。報道的調子。おそらく作文は現地。『北岸部隊』は現地で書いた日記を元に少し時間を経て書き増したもの。

転がる支那兵の屍の3メートルでの寝食の話など、生なましい体験記。まさに、冒険談ではある。

薔薇 色の澄んだ夕焼がの兵隊たちの顔を赤く染めています。私はここへ今夜は露営するのかと思っていましたところ、渡辺さんは「もっと前進するんだ!新州ま で飛ばせ!」と寺田君に命令をしています。暗い凸凹道を、一つになったフット・ライトでアジア號はぐんぐん進んで行きます。ダウンと、何かに乗りあげては 突き進んでいますが、この狭い道では、何度となく支那兵の死體の上を乗り超えて行きました。

 ねえ、この戦争の使命は、老いたる大陸に一つの新しいバイブレイションを捲きおこすのですよ。兵隊は実に元気です。

(愚記事; 林芙美子、『戦線』 (昭和13年刊行、朝日新聞社)

▼ 大東亜戦争

林芙美子は対米英蘭戦争後、1947年(昭和17年)から1948年(昭和18年)にかけて、7か月もジャワ、スマトラ、マレー方面に旅をうっている。もちろん、軍の仕事である。この時期の旅行記、報告文などで手軽に入手できるものを探したが、ない。ひとつ、雑誌を買った。昭和18年(1943年)6月号の雑誌「改造」の、林芙美子、『スマトラ -西風の島-』(愚記事)。これは、上記の戦闘に参加した報告の文章とちがい、生なましいことは書いてない。

なお、 林芙美子は1932年のヨーロッパからの帰りは船でインド洋まわりで帰国。なので、シンガポールなど東南アジアの都市に寄航したはずなのだが、旅行記はない。

● いくさのあとさき; 軍事冒険主義時代の冒険家: 林芙美子

林芙美子の活動期は20年。1951年に死んだので、戦後の独立には間に合わなかった。大日本帝国⇒Occupied Japanに過ごし、「日本国」で生きることができなかったのである。 「デカダンのうまき酒」の飲み過ぎで。この 「デカダンのうまき酒」の"罪と罰"の話が、『浮雲』である。

 

 


エリザベス女王がナチス式敬礼;~ あなたは右に、わたしは左に、~; 1930年代の大英帝国君臣事情

2015年07月19日 18時18分39秒 | その他

 

 むろん今日からでは想像しにくい、ボルシェビキかファシズムか、この二つの選択肢しかないように思われた -日本にも共通していた- 当時の資本主義後発国の特殊な状況も考慮しなければいけないだろう。
    木田元、 『ハイデガーの思想』


  ~♪~ あなたは右に、~♪~ わたしは左に、目を合わせたら負けよ  ~♪~
     ~♪~ 忘れないわ、 手のぬくもり  ~♪~

←         

上記、思わせぶりの引用は、もちろん、ドイツのハイデガーについての記述だ。資本主義後発国の症候群として、ボルシェビキか、ファシズムか、しか選択肢がなかったと書いてある。しかしながら、資本主義発祥の英国でもそうであったのだ。 ボルシェビキか、ファシズムかは資本主義国家の普遍的課題であったのだ。

Google  エリザベス女王がナチス式敬礼


http://www.thesun.co.uk/sol/homepage/news/royals/6548665/Their-Royal-Heilnesses.html

■ 両刀づかいのわれらが日帝

 
松岡洋右とヒトラー        スターリンと松岡洋

ボルシェビキかファシズムか、この二つの選択肢しかないように思われた -日本にも共通していた-

って、違うよね。 ボルシェビキファシズムっていう政治・文化運動が1930年代にわれらが列島にはあったらしい。

海軍兵学校でボートばっかり漕いでいた(かもしれない)木田元さんは知らなかったのかもしれない。

愚記事: 東條内閣は"ボルシェビキ"と外相が書いていた

■ 両刀づかいのわれらが日帝2

        
さて、チャーチルと会って話を
したことがある日本人って何人
くらいいるんだろうか?の問い;
一枚見つけた;

 ■ まとめ

だから、言ったろう。俺の課題は人類最前線の課題だったんよ。
 ~ ファイト!(我が闘争)、闘う者の詩を闘いわない者が嗤うだろう...ファイト!(我が闘争)!~

 

 


新しい街でもぶどう記録;第38週

2015年07月18日 19時18分32秒 | 草花野菜

■今週の武相境斜面

■今週の看猫

■今週の学者の訃報

青木昌彦の訃報がニュースのトップになってまもなく、南部陽一郎の訃報が流れ、青木昌彦の訃報がニュース欄から押し流された。

(関連愚記事: 南部陽一郎 ■すごいな、日帝学徒! よかったよ、最後の本命・真打。 老兵は死なず、栄誉を待つのみ。

青木昌彦と南部陽一郎の共通点は在米学者ということなのだが、それに関連し、昔米国入国はすんなりいかなかったこと。青木の件は公知。南部については、おいらの邪推。

青木昌彦と南部陽一郎は世代が違う。青木昌彦の問題はゼンガクレンでブントだったので、反米政治活動家ということで米国入国ビザ発給にひともんちゃくあったこと。 一方、南部陽一郎は軍歴があった。戦後しばらくは米国入国ビザ発給の審査に軍歴調査があり、場合によっては米国に入国できなかった。

今でもある。 1933年から1945年の間に何らかの形でドイツ・ナチス政府やその同盟国に関連して迫害行為に関係していましたか? 

これは証拠はないのだが、一般論として、軍歴のある南部は controvertial matter であったにちがいない。でも、南部陽一郎は本来学者だから、ビザ発給の審査にパスしたのだろう。この当時のビザ発給は米国の受け入れ側の出す書類次第であったと推定される。

現在、60年安保というのは「日帝自立論」に基づく、反日帝闘争であり、反米運動ではなかったという青木昌彦の主張は、米国のビザが欲しかった青木昌彦のプロパガンダだとおいらは邪推している。なぜなら、現在、日帝は全然自立していないじゃないか!?

ところで、西部邁の初の非学術書は『蜃気楼の中へ 遅ればせのアメリカ体験』、1979年である。「遅ればせのアメリカ体験」というのが意味不明であるが、実は明快だ。青木昌彦や今でも友達らしい榊原英資、などなど多くの西部周辺の経済学者は米国で「コースをとって、学位をもらう」道を経て、出世していった。そういう戦後日本の学者社会では40歳近くで外国に「留学」/「学術目的滞在」するのは遅いということだ。

 

なお、西部が米英に行き滞在したのは、1977-1978年。 この時、すでに西部邁と青木昌彦は絶交していた。

このころ(1972年頃)、かつてブントから一緒に「戦線逃亡」し、
東大教養学部で経済学を教え始めていた西部邁と交友を再開した。
彼は新古典派経済学批判からさらに進んで、社会学や言語学などの本を広く渉猟し、
その読みの深さは舌を巻くほどだった。
(中略)
西部は、「青木と俺とは双曲線のように、無限の彼方からやってきて、今は近づいているが、
そのうちまた無限の彼方に別れていくだろう」と言った。
彼は北海道出身、私は湘南出身で、家族背景でも我々2人は遠く離れたところから来た。
そして、私の再婚の式の夜の飲み会で口論となり、絶交した。
 (青木昌彦、『人生越境ゲーム―私の履歴書』)

なお、西部邁は上記1979年の本ですでにその後の彼の言い分のエッセンスを書いている;

僕が太平洋戦争について「アメリカの挑発にまんまと乗った指導者を持ったのは僕たちの父親の世代の不幸であったけれども、それも今から振り返ってみれば半ば必然であったような気がする。それよりも、生き残った日本人たちがアメリカ文明を無批判に受け入れてしまったことの方が僕にとっては気掛かりだ」といったとき、彼は黙って頷いていました。 (註: 西部が当時60歳くらいの日系人にいった言葉) 西部邁、『蜃気楼の中へ 遅ればせのアメリカ体験』 

●映画好きだった南部陽一郎

 昔は映画の文化的な位置は決して「高い」ものではなかった。そして僕は勤勉な映画鑑賞者ではなかった。一人で行ったり同年の友人と行くことも全然なかった。あなたは南部陽一郎という物理学者を知っていますか。彼は文化勲章や、大統領の勲章や、ベンジャミン・フランクリン・メダルを貰ったシカゴ大学の名誉教授ですが、東大理学部の物理学科の時、研究室に布団と机を持ち込んで住んでいたことがありました。長兄の友人で、僕の家へよく遊びに来たものでした。ところで、南部さんは映画に行きたがったのですが、兄は行きたがらなかった。そこで僕と行きことになったのです。僕は彼より七、八歳年下だからまだ小学生か五中の一年でした。けれども、なぜか彼と僕は映画を見に行き、議論し合ったのです。
 僕たちが見たのはだいたいフランス映画とドイツ映画などでした。僕たちは家に帰ってきて、見た映画についてよく議論し合ったものでした。南部さんは今でも僕たちが何の映画を見たかなどを覚えています。彼はまだシカゴに住んでいるのです。

マサオ・ミヨシ、『抵抗の場へ』 2005年のインタビュー

■ 今週の学者(東大名誉教授@高卒)の訃報(社会的死): 公開処刑

学者バカ= デザイン至上主義者=「わたし、総理大臣じゃないですからね」=専門バカは現実に対し無答責、無責任= テンノー陛下

憲法学者の95%声が違憲

学者は専門バカで、無責任。⇒ 「政治家が責任を持つ!」

「声なき声!」

「50年経ったらわかる!」

 ■

【いか@ 武相境斜面寓 『看猫録』】のアクセス・ランキング

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インドネシア語の三人称には性別区別がないと気づいた; パレンバンの瑞穂学園

2015年07月16日 19時47分59秒 | その他

先日、おいらは、ふとしたことで、インドネシア語の三人称には性別区別がないのではないかと仮説をもった。

ネットで調べると、果たしてそうであった;

「dia」は三人称単数の人称代名詞。英語だと性別で分かれますがインドネシア語では性別に係わらず「dia」です。ただ、インドネシア語の三人称単数に は「あのお方」という意味の尊敬形があります(日常会話ではまず使いませんので今は解説しません)。インドネシア語の人称代名詞は英語のように格変化 (I-my-me)しません。「I want her.」は「Saya mau dia.」。「She wants me.」は「Dia mau saya.」。「私」は主語でも目的語でも「saya」だし、彼女(彼)は主語でも目的語でも「dia」です。動詞も変化しません。楽ですね。 インドネシア語初めの一歩 殿よりコピペ)

この仮説をもった理由は、昭和18年/1943年/紀元2603年6月号の雑誌「改造」の、林芙美子、『スマトラ -西風の島-』に下記あったからだ。

この林芙美子、『スマトラ -西風の島-』は林芙美子が日本軍占領下のパレンバンを訪れたときの体験記である。当時、パレンバンには、日本語学校がにわかにつくられたらしい。瑞穂学園。現地の「一六歳から二十歳までの相当の家庭の子息ばかり」四十名の生徒がいたと林芙美子は報告している。教育は日本語で行われ、林芙美子がその教室で講演をした。もちろん日本語でだ。そのとき、講演をきいた生徒がその講演についての作文を日本語で書いて、林芙美子に提出したらしい。

その作文を林芙美子が『スマトラ -西風の島-』で引用してる。

--今日の朝に、一人の日本の女は私達を見る為に私達の学校に来ました。彼の名前は林芙美子です。彼は東京から飛行機でボルネオやジャワやスマトラや、本を書く為に行きました
 彼は私達に話しました。そして彼の声は小さいです。しかし聞くことが大変宜しく出来ます。それだから私達は彼の話すことを大変分かりました。(以下略)

林芙美子のことを彼といっているのである。すぐにおいらはインドネシア語には三人称には性別区別がないんだろうなとわかった。

文法を習得することは外国語の学習で難しい。例えば、日本人の多くは英語を学習するが、実際の使用で、過去形と現在完了形のつかいわけなどできない人が多い(これはほんの一例で、日本人が書いた英語は結構わかる、なぜなら⇒)。みんな母語である日本語の文法にひきずられているのだ。

なお、林芙美子は、このインドネシアの「相当の家庭の子息」の日本語の文法的間違い=御婦人を「彼」ということ=これは日本では"相当"失礼なことになりそうな錯誤については、一切言及していない。 これは、かつて、お芙美さんがロシア/ロシヤ語を学んで、外語語の習得の難しさをわかって上での、ご容赦ではないかと、おいらは、睨んでいる。

 さて、パレンバンといえば、当然、「神兵パレンバンに降下す」のあのパレンバンである。

もちろん、、林芙美子、『スマトラ -西風の島-』でも言及されている;

 昭和十七年の二月十四日にパレンバンの上空に空の神兵である日本の落下傘部隊が舞い降りてからのパレンバンは、日本の人々はスマトラのパレンバンの地名を永久に忘れる事は出来ない。三百年の長い夢をむさぼっていたオランダ人の頭上に、日本の落下傘部隊が降りて行った時の、その日の感激を想うと、パレンバンに赤土の飛行場に降りた私は、青い晴れあがった空を暫く見上げていた。

この文章は結構「官僚的」ではないか?

 (飛んで)

 空は雲一つなく森々と晴れている。この青い空にかつて水母[くらげ]のような落下傘が無数に飛んで降りたのかと、私は暫く空を眺めて勇ましい落下傘部隊のおもかげを瞼に描いていた。

 水母のようにという発想は、みたまんまでよい。さて、この時、林芙美子は鶴田吾郎の「神兵パレンバンに降下す」を見ていたのだろうか?この作品は昭和17年作なので、見ていたに違いない。なお、林芙美子はそもそもは画家志願であった。

 
       鶴田吾郎、「神兵パレンバンに降下す」

■ 関連愚記事;  パレンバン 「空の神兵」の稽古場

 

2603 というのは、もちろん、紀元2603年の2603です。

 


降伏文書に見える毛筆の痕跡; 重光と梅津の「払い」

2015年07月14日 19時27分41秒 | 日本事情

東京都江戸東京博物館で、1945年9月2日の戦艦ミズーリでの降伏文書のレプリカを見た(関連愚記事: ぐるっとパス使用記録7; 墨東(墨田・江東)方面+日本橋蠣殻町 )。

外相・重光の「葵」(まもる)の字の筆順最後の「はらい」と、参謀総長・梅津の美治郎の「美」と「郎」の字の筆順最後の「はらい」を書いたとき、署名用の万年筆のペン先が"割れた"とわかる。 筆圧が高かったのだ。 その署名用の万年筆は「さらさら」とアルファベットを流して書く「毛唐」さん仕様であったのであろう。

このミズーリ号の降伏文書で使われた万年筆は、幼い頃から毛筆で字の各所で筆圧が違う文字を書いてきた日本人にとっては、ペン先がやわらかかったのであろう。 重光と梅津は万年筆を持参しなかったのだ。


  重光と梅津

さて、1945年9月2日の戦艦ミズーリでの降伏文書になぜ二人の署名が必要であったか?というと、外相・重光だけでは日本政府は代表できても、日本政府の完全制御下にあったわけではない大日本帝国陸海軍を代表できなかったためであろうと思われる。でも、そうだとすると、海軍軍令部長はなぜ署名に参加しなかったのか?という疑問が湧く。何か、理屈があるのだろう。これから、おいおい、調べる。

関連愚記事群