いか@ 筑豊境 寓 『看猫録』

Across a Death Valley with my own Distilled Resentment

博多散歩:博多ポートタワー ⇒ 博多駅

2024年02月13日 20時29分28秒 | 散歩

福岡県に行った。私的旅行ではあるが、ある要件のため行ったので、観光や遊びの準備は特にしていかった。しかし、時間が2-3時間空いた。博多ポートタワーに行くことにした。博多ポートタワーへは、博多駅からバスで行った。博多ポートタワーから港や街の展望のあと、帰りは博多駅に歩いた。

1.博多マリンタワー、2.対馬小路、3.古門戸町、4.西中島橋、5.中州、6.冷泉公園、7.祇園、8.博多駅

■ 1.博多マリンタワー

福岡市のサイト 入場無料

■ ⇒ 2.対馬小路

■ 3.古門戸町

■ 4.西中島橋、

福岡市赤煉瓦文化館(旧日本生命九州支店)(google


振り返って、出発点の博多マリンタワーを見る。

■ 5.中州、

■ 6.冷泉公園

7.⇒ 祇園


地下鉄祇園駅

如水庵公式 web site

8.博多駅

■ まとめ 通過街

築港本町、対馬小路、古門戸町、須崎町、中州中島町、上川端町、冷泉町、祇園町、博多駅前


横須賀散歩:汐入駅⇒ 軍港めぐりクルーズ⇒ ヴェルニー公園⇒ 三笠公園⇒ 横須賀中央駅

2024年01月28日 15時56分45秒 | 散歩

横須賀参りは4度目。これまでの3回は、2015年2018年春2018年秋。これらの横須賀参りでは、横須賀の目玉、米海軍基地付近やドブ板通りあたりは行ったことがなかった。今回は"アメリカ海軍や海上自衛隊の艦船を間近で見られる"「YOKOSUKA軍港めぐり」クルーズに乗ることが目的。

1.京急汐入駅、2.汐入桟橋、3.ヴェルニー公園、4.三笠公園、5.横須賀中央駅、  
赤点線:クルージング航路、 六芒星A:空母ロナルド・レーガン停泊位置  

■ 1.京急汐入駅 ⇒ 駅の北側

  ⇒ 風、ひと、酒-横須賀【後編】2つの国が混ざり合うカオスを体験する街

上記リンクより

■ 1.汐入駅 ⇒ coaska コースカベイサイドストアー:軍港めぐり 受付ブース


google map より


YOKOSUKA軍港めぐり web site


平日は1,800円、土日は2,000円。クレジットカードで割引で今回は1,620円だった。

coaskaベイサイドストアーズの2階からの眺め。クルーズの船。

■ ⇒ 2.汐入桟橋

▼ 出航

混んでいた。屋上階はほぼ満席。女性も多いばかりか、艦船の写真撮りまくり。ミリオタ?


100円で双眼鏡を借りる

▼ a 楠ヶ浦地区の海上自衛隊地区


ドライドック (横須賀海軍施設ドック wiki

▼ 海上自衛隊の潜水艦

▼ b 米海軍ミサイル駆逐艦 [米海軍 ミサイル駆逐艦 wiki]


船体番号83 = ミサイル駆逐艦「ハワード」[wiki]


船体番号86= ミサイル駆逐艦「シャウプ」[wiki]


船体番号に105とあるので、デューイ (ミサイル駆逐艦・2代)[wiki]


▼ c 米海軍空母 ロナルド・レーガン


map

空母ロナルド・レーガンの乗組員数は約6,000名とのこと。現在、上の画像で分かる通り同艦は横須賀に寄港中だが、6,000名はどこにいるのだろう?

クルーズから離れてネットで米軍基地内を見てみた。


google map

もちろん平屋の「米軍ハウス」とは思っていなかったが、白い建物と緑の芝が広がるという基本は同じであった。

この米軍占拠地域には米軍・関係者が2万人暮らしているとのこと。米軍コロニーだ。

なお、この米軍コロニーの「生き写し」(!?)がゴビ砂漠にあることは有名である。

* google map

 

google mapで米軍占拠地区を見ると「白紙」となっていると昔から気づいていた。同じ縮尺の条件で「日本領」は地図情報が出ているが、米軍占拠地区を見ると「白紙」となっている。これは「秘密」だからだろうと思い込んでいた。違った。縮尺の倍率を挙げれば、米軍占拠地区でも詳細がわかるのだ。航空画像も普通に見られる。

▼ 吾妻島の北東


横須賀消磁所(wiki

横須賀消磁所(よこすかしょうじしょ)とは、神奈川県横須賀市泊町、横須賀造修補給所内に存在する艦船の消磁所である。日本では唯一の施設で、海上自衛隊が使用している。アメリカ海軍とは共同使用施設となっている。 

消磁所とは、船体消磁(Deperming)を施す施設である。海面に突き出た多数の構造物に係留し、艦体の磁力を測定し、消磁装置で逆向きの磁気を当てて打ち消す。

ほとんどの艦船は磁性体である鋼製であり、長時間使用すると地磁気の影響や接触による接触電気により強い磁性を帯びる。定期的に消磁作業を行わないと敵国などが敷設した磁気感応式機雷に反応するリスクが高まる。

住友重機工業。見える文字:SUMITOMO よこすか の「よこすか」の文字を書くのに1,000万円掛かったと、ガイドの大島さんが教えてくれた;


https://yokosuka-gunko.jp/#guide

▼ f  横須賀市 環境部リサイクルプラザ・アイクル(web site

▼ e  船越地区


掃海母艦 うらが (海上自衛隊 web site

▼ g  比与宇地区

潜水艦には艦艇番号や船名は書かれていないとガイドの大島さんが云っていた。


2:護衛艦「もがみ」、6102:試験艦「あすか」 海上自衛隊 艦番号一覧表

富士山見えた

▼ h 新井堀割水路

▼ i 逸見地区


右2隻は、101:護衛艦「むらさめ」、  110:護衛艦「たかなみ」
左2隻は、護衛艦「やまぎり」、「うみぎり」(呉 所属)(らしい)


101:護衛艦「むらさめ」


右 174:護衛艦「きりしま」イージス艦、真中154:護衛艦「あまぎり」、左 護衛艦「たかなみ」

▼ いずも

▼ 同じ便に乗ったひとの動画投稿がXにあった;

■ ⇒ 4.ヴェルニー公園

なんと、休みだった。また、事前調査を怠ってしまった。

■ ドブ板通り

ドブ板通り 公式 web site

■ 米海軍基地正門

この横断歩道の向こうのタワー。米軍関係者は2階を経由して基地外に出てきているようだ。行ってみた。2階に行くとゲートがあり、デジカメを向けると黒づくめの守衛が出てきて手でバッテンを組んで、警告された。したがって、画像なし。

■ ⇒ 4.三笠公園

三笠公園には奥に庭園があると、「今」知る。知った経緯は、「ロナルド・レーガン一般公開」について調べていたら、公開時には、三笠公園から米軍基地に入るのだ;

入門ゲート:三笠公園ゲート
 (三笠公園の奥まで進み、噴水池の横からご入門下さい)(ロナルド・レーガン一般公開)

■ ⇒ 5.横須賀中央駅

■ まとめ 通過街

神奈川県 横須賀市 汐入町、本町、逸見町、稲岡町、小川町、大滝町、若松町


神奈川県散歩:大和駅⇒ 「厚木」基地⇒ さがみ野駅

2023年11月23日 07時45分44秒 | 散歩

 

われらが大日本帝国が敗北し、マ元と米兵とがやって来たのが「厚木」だ。敗戦日本の原点だ。武相境に来て10年目に入ったが、その敗戦日本の原点をお参りしたことがなかった。お参りした。今google mapで距離を測ったら、ここから10kmだった。歩いていける距離だ。もっとも、基地を1周すると約10kmなので、電車で大和駅まで行った。

なお、「厚木」とかっこがつくのは、「厚木」基地は厚木市にあるわけではなく、大和市と綾瀬市にあるからだ。ちなみに、あの靴下屋さんのAtsugiは海老名市の会社であり、その社名をマ元が到来した「厚木」から取ったとされる [wiki]。これは2重に間違っていることになる。

今まで、うかつにも、特に意識していなかったのだが、「厚木」基地は米海軍の基地なのだ。横田は米空軍の基地。棲み分けていたのだ。おいらは、「厚木」飛行場は米軍基地という認識は強くあったが、漠然と米空軍の基地なんだろうと過ごしてきた。実際は、「厚木」基地は米海軍の航空基地なのだ。気づかなかった理由のひとつは、以前やっていた米海軍航空隊の離発着訓練が行われていないからだ。昔は、騒音が激しかったとのこと。

現在「厚木」基地は自衛隊との共用になっている。どんな自衛隊というと海上自衛隊だ。なので、米海軍航空隊はルメイの系譜ではない。ルメイが創設に尽力したのは航空自衛隊だ。すなわち、飛行機は飛行機でも、海上自衛隊の航空隊はルメイ・チルドレンではないのだ。でも、海上自衛隊も「米」衛隊だ。極東米軍の補助的戦力を担っているのだ。古い話だが、1977年の「厚木」基地から出撃した米海軍航空機が日本の民間地に墜落した事件では、「米」衛隊としての本領を発揮いている;

事故発生から10分後の13時23分に出動した海上自衛隊のS-62J救難ヘリコプターは、13時25分頃黒煙を目撃、30分頃事故現場上空に到着した。既に消防車が来ているのを確認した上でパイロットを収容し、再度事故現場上空に状況を確認(放水が開始されていた)上で、基地に帰還した。wiki

つまり、海上自衛隊は米海軍になにかあったらすぐ出動できるようにスタンバっていたとわかる。

■ 

1.相鉄大和駅;2.草柳1丁目;3.Atsugi East Gate;4.福田/代官;5.代官3丁目;6.綾瀬市本蓼川816付近;7.サントリープロダクツ 神奈川綾瀬工場;8.Atsugi West Gate;9.綾瀬市大上付近;10.大上橋/東名高速道;11.東柏ケ谷 近隣公園;12.さがみ野駅

■ 1.相鉄大和駅 ⇒ 2.草柳1丁目

中央に写っている円筒型の容器は「篩」である。これだ。見た目はともかく、骨董には全く場違いで、驚いた。見た目が骨董ぽいからに違いない。

▼ 厚木街道 草柳1丁目付近

■ 2.草柳1丁目 ⇒ 3.Atsugi East Gate

この手のしぐさは何かを意味しているのだろうか?

 ソース

右上のでっぱり部分がEast Gate。「厚木」基地の内部にはジョギングコースがあるとネットでわかった。今思えば、フェンスの向こうで走る「米兵」が見えた。

■ ⇒ 4.福田/代官;5.代官3丁目

「厚木」基地の反対の方向。台地が開析された地域(低地)。もちろん、米軍「厚木」基地は「丘の上」[*1]にあるのだ。 [*1] 「厚木」基地を創ったのは大日本帝国海軍だ。

海上自衛隊の官舎。

■ ⇒ 5.代官3丁目

■ 代田3丁目

■ ⇒ 6.綾瀬市本蓼川816付近

何か「幻視」できないかと目を凝らしたが、何も見えず。つわものどもが、夢のあと。

 
航空写真 左 1960年代、右 現在

■ 6.綾瀬市本蓼川816付近から引き返す ⇒ 7.サントリープロダクツ 神奈川綾瀬工場

▼ 7.サントリープロダクツ 神奈川綾瀬工場

■ ⇒ 8.Atsugi West Gate

また犬か!

■ ⇒ 9.綾瀬市大上付近

フェンス越しに「Coral Sea St.」の標識が目に入る。米海軍基地でCoral Seaといえば、珊瑚海海戦だ。

今、調べると、「厚木」基地内には Midway St.とかHalsey Aveとかがあると知る。もちろん、ミッドウエイ海戦、ハルゼー提督 [wiki] にほかならない。MacArthur fieldもある。Ranger St. のRangerはわからなかった。調べた。アメリカ海軍の伝統の艦名(USS Ranger)wiki

 ソース

▼ 10.大上橋/東名高速道

ここで「厚木」基地から離れる。

▼ 11.東柏ケ谷 近隣公園:海老名市

まとめ

通過町

神奈川県 大和市 中央 草柳 福田 蓼川 

綾瀬市 深谷上 寺尾南 大上 

海老名市 東柏ヶ谷 

▼ 補遺

「厚木」基地の正門に行かなかった。今後、行くかわからない。行かないだろう。
Google Mapのペグマンの画像を取った;

それにしても、facility と baseの違いがわからない。


逗子・葉山散歩:逗子・葉山駅⇒ 逗子海岸⇒ 葉山港⇒ 森戸大明神⇒ 神奈川県立近代美術館 葉山館

2023年10月29日 08時13分29秒 | 散歩


1.京浜急行逗子・葉山駅;2.逗子海岸;3.葉山アリーナ;4.森戸大明神;5.神奈川県立近代美術館 葉山館

■ 1.京浜急行逗子・葉山駅 ⇒ 2.逗子海岸

■ 2.逗子海岸

▼ お昼は「大戸屋」

株式会社大戸屋が運営する SEASIDE ITALIAN「CANTINA」(シーサイドイタリアン カンティーナ)[google]

 

ランチ:サルシッチャと牛蒡のアルビアータ、鶏モモ肉と茸のフルカッセ

■ ⇒ あぶずり港(鐙摺港)・葉山港


あぶずり港(鐙摺港)


葉山港

 

「ヨットハーバー」のすぐ隣に「やつら」のアジトが目に入った。

■ ⇒ 森戸大明神

森戸大明神(もりとだいみょうじん)は、神奈川県三浦郡葉山町の神社。森戸海岸の南端に、森戸川を挟んで所在している。単に森戸神社(もりとじんじゃ)とも。
歴史
1180年(治承4年)に創建された。源頼朝は以仁王の令旨を奉じて挙兵し、紆余曲折はあったものの鎌倉を拠点とする勢力を築いた。頼朝は三嶋明神(現・三嶋大社)から分霊を勧請して神社を創建した。以降、歴代鎌倉幕府将軍が訪れる場所となった。当地を所領とする三浦氏の祈願所ともなっている。wikipedia

■ ⇒ 真名瀬海岸(しんなせ かいがん)

⇒ 真名瀬海岸 | 葉山を代表する映えスポットは白いバス停から

この日の散歩では白いバス停には寄らなかった。

■ ⇒ 5.神奈川県立近代美術館 葉山館

■ 5.神奈川県立近代美術館 葉山館

葉山館20周年記念 100年前の未来:移動するモダニズム 1920-1930google公式web site

肝心なのは、神奈川県立近代美術館 葉山。日本での近代は実際には1920年代以降に興隆。特に、関東大震災後の復興での近代化・モダニズムの興隆についての展示。ただし、御存じ、1931年に満州事変、1945年に大日本帝国瓦解。1920年代にモダニズムは1945年の破局への一里塚ともいえる。

企画概要

葉山館の開館20周年を記念して、当館が館名に掲げる「近代(モダン)」の文化が多様に展開した20世紀の20年代を再考します。
1917年のロシア革命と1918年終結の第1次世界大戦により国際的な移動と伝播の時代が到来し、スペイン風邪によるパンデミック後の世界で、芸術家たちは国境を越えて活動しました。中村彝と鶴田吾郎が描いたエスペランティストの詩人ヴァシリー・エロシェンコの肖像を筆頭に、夭折画家・久米民十郎、土田麦僊や前田寛治、藤田嗣治などの滞欧・滞米作品、石本喜久治らが招来したドイツ新興美術、MAVOや三科など1923年の関東大震災とその復興を挟んで都会に展開した前衛諸派、シュルレアリスムの端緒から魯迅の木版画運動まで、大正から昭和へと移る100年前の世界が夢みた新しさの諸相を紹介します。    

 

支那の踊り(久米民十郎 [google])1920年、  支那の賭博室(重松岩吉)1921年(画像ソース

この時代、ヨーロッパは遠く、日本に一番近い「ヨーロッパ」は上海であったとされる。上海には疎開地があり、ヨーロッパ人・アメリカ人と文化が興隆していたからだ。モダン:近代といえば、事実上、ヨーロッパ化:欧米化であるので、日本に一番近い「ヨーロッパ」である上海:支那は、モダンを求める日本人には特別であった。

▼ 上海、版画、魯迅

この時代(1930年頃)の上海での版画についの展示ブースがあった。以前読んだ本に書いてあった;

 また 魯迅は木版芸術の 複数性と民衆性にも注目していた。廉価な費用により 一枚の版木から100枚以上の絵を刷り出すことができる版画は、民衆の現実をテーマとして優れた技術で表現すれば革命の武器たりうると考えたのである。一九三一年八月成城学園の美術教師で夏休みに 兄・内山完造を訪ねて上海に来ていた 内山嘉吉に講師を依頼して、その後は内山完造の協力を得て外国版画展を開いた。またドイツのケーテ・ コルビッツやソ連の芸術家たちなど、多数の外国プロレタリア版画集を刊行しており、中国現代版画復興の父とも称されている。(藤井省三、『魯迅 ー東アジアを生きる文学』)

「木版画講習会記念撮影」 魯迅は前列右から3番目。 内山嘉吉と木版画

展示版画に作家・陳普之(google)の一連の作品があったのだが、題名が印象的だった:「疲れた」、「こんな生活倦きた」、「十字路で迷う」、「金は使い果たし、家にでもいるか」など。作品の画像はネット上にはなかった。


鄭洛耶(鄭川谷)《風景》 1931年 

 
チラシ(ママ)

■ バスでJR逗子駅へ帰る

まとめ

通過町

逗子市 逗子、新宿、桜山、

葉山町 堀内

 


座間・大和散歩:芹沢公園、泉の森

2023年10月24日 19時50分55秒 | 散歩

座間の散歩は3回目。①座間散歩; 座間丘陵、開析谷、台地・段丘、段丘崖 ②座間散歩 2022年;座間駅 ⇒ 座間谷戸山公園 ⇒目久尻川の谷 ⇒中央林間駅。これまでは主に座間の北の方を散歩した。座間には地形の多様性を利用した大きな公園が多い。南東側の芹沢公園や座間市のとなりの大和市の大きな谷戸公園、泉の森へは行ったことがなかったので、散歩した。芹沢公園は、昔、海軍工廠の一部があったとのこと。海軍といっても航空隊の飛行機をつくっていた。そして、そこでは三島由紀夫がいたというのだ。

1.小田急相武台駅;2.小池坂/目久尻川/栗原 谷筋;3.芹沢陸橋;4.芹沢公園;5.東原;6.さがみ野駅付近;7.上草柳交差点;8.泉の森

■ 1.小田急相武台駅 ⇒ 2.小池坂/目久尻川/栗原 谷筋


小池坂(坂のプロフィール)。


目久尻川の両岸に耕作地。豊かな地域。☛「豪族」の家


目久尻川(wiki


下小池坂。

相模原台地に登る。平坦地。

■ 芹沢公園

芹沢公園(せりざわこうえん)は、神奈川県座間市に位置する都市公園(総合公園)である。1985年に建設計画が立てられ、2017年3月30日に全面開園した。wikipedia

台湾少年工顕彰碑

高座海軍工廠で働いていた台湾少年工のための顕彰碑が管理棟近くの丘の上に建てられている。台湾少年工来日75年を記念して、元少年工22人とその家族らが出席して、2018年10月20日に除幕式が行われた。顕彰碑の横には、座間市教育委員会による説明板が設置されている。 (wiki)

地下壕の跡

座間市・海老名市・大和市にまたがる地域にあった高座海軍工廠の地下壕の跡が公園内に残されている。芝生広場の下に「あみだくじ」状に掘られ、局地戦闘機「雷電」の部品製造のための工場等が置かれていた地下壕は、総延長1.5キロメートルに及ぶ。現在一般公開はされていないが、いくつかの入り口からなかを覗くことができる。灯りが灯され、戦闘機の模型が置かれている地下壕もある。入り口付近には、座間市教育委員会による説明板が設置されている。(wiki)

⇒ 三島由紀夫が高座での生活の一端は彼の『私の遍歴時代』にある

白い層は火砕流なのだという。箱根東京軽石層google).

約40cmの厚さの黄白色の地層が茶色いローム層の間に挟まって堆積している。これは、約6万6千年前に箱根火山から噴出した大規模火砕流噴火の堆積物であり、箱根東京軽石層と呼ばれる。引用元

箱根火山 6 万 6 千年前の大噴火と謎

水のみなもと芹沢公園     おいしい座間の水。この水のみなもとが芹沢公園近くに水源井として、掘られています。公園の西側には芹沢川が流れ、東側には水源涵養林があって広場・川・林とのコントラストが、見事です。起伏もあり散策コースとして、いろいろと楽しむことが出来ます。座間市の web site

■ ⇒ 5.東原

↑この坂を上って、 ↓ 西側は低地

下って↑、また上る↓

▼ 途中の夢庵さがみ野店でお昼:カキフライ定食

  

■ ⇒ 6.さがみ野駅付近

■ ⇒ 7.上草柳交差点

■ ⇒ 泉の森

▼ 泉の森

泉の森(いずみのもり)は、神奈川県大和市にある公園である。引地川の水源地を中心に、国道246号を挟むようにして約42ヘクタールが整備されている。特別緑地保全地区。 

概要一帯はかつて引地川沿いの谷戸田だった。しかし都市化が進むと雨量の流入が多くなり、洪水が発生するようになった。そこで1982年(昭和57年)に上草柳調整池を整備し、周囲を公園として開放した。

水源地を含み緑地が多いのが特徴となっている。設備としては、湿生植物園、緑のかけ橋、水車小屋、郷土民家園、ふれあいキャンプ場、自然観察センター・しらかしのいえなどがある。  (wiki)

泉の森停留所から大和市のコミュニティバスに乗り、南林間駅へ行く。

 


逗子・鎌倉散歩:京急 逗子・葉山駅 ⇒逗子海岸/披露山公園 ⇒材木座海岸 ⇒長谷寺 ⇒江ノ電 長谷駅

2022年12月29日 04時40分15秒 | 散歩

神奈川県、逗子市の京急電鉄、逗子・葉山駅から、鎌倉市の長谷の江ノ電、長谷駅まで散歩した。特に、逗子市と鎌倉市を隔てる新宿-小坪の丘陵地帯を越えていくところ。見晴らしがよい披露山公園が高地にあるが、そこを抜けるための登り、降りの散歩。さらに、この前後は逗子と鎌倉の海岸。そして、長谷寺。これも丘陵の腹にあり、見晴らしがよい。たまたま、御開帳で本尊をみることができた。


1:京急 逗子・葉山駅、2: 逗子海岸、3:披露山公園 、4:小坪漁港、5:小坪隧道、6:材木座海岸 、7:由比ヶ浜、8:長谷寺

■ 京急 逗子・葉山駅

京急 逗子・葉山駅

逗子市役所

■ ⇒ 逗子海岸へ

▼ 逗子海岸

▼ 

シーサイドイタリアンカンティーナ逗子店 でお昼

■ 逗子海岸 ⇒ 披露山公園

逗子海岸(右下)から丘陵の崖を登り、披露山公園にたどり着く。その先は、「披露山邸園住宅敷地(google)」。その中央通りを抜け、丘陵を小坪漁港に崖を降りる。

▼ 披露山公園

披露山公園(ひろやまこうえん)は、神奈川県逗子市新宿の披露山の頂上にある逗子市立の都市公園(風致公園)である。 

披露山の山頂(標高92m)に位置する公園である[2]。眺望がよいことで知られ、三浦半島や相模湾の景色を一望できる。また園内では、ニホンザルや水鳥などの動物を飼育している。

レストハウスが営業し、大崎公園・浪子不動へと向かうハイキングコースも整備されている。

戦時中は海軍の小坪高角砲台として2連装12.7センチ高角砲2基と高射装置(Director)を備えた鉄筋コンクリート製の円形砲座3基と、同じく鉄筋コンクリート製の半地下式の指揮所が存在した。指揮所跡にレストハウスを設け、砲台のすり鉢型の砲座跡を猿舎と展望台、花壇に利用している。   wikipedia

■ ⇒「披露山邸園住宅敷地」 ⇒ 小坪漁港

広告より

披露山邸園住宅敷地: 1968年(昭和43年)に住友建設(現・三井住友建設)がTBS不動産の企画開発の下に造成を担った総面積22ha、215区画の住宅団地で[2]、71年にTBS興発(現・三井不動産)によって分譲が開始された[3][2]。バブル期には日本のビバリーヒルズと一部メディアで評された地域であるが、侵入者を物理的に排除する塀が存在しない点で数ある国内の高級住宅地の中でも一線を画する宅地計画がなされている。 (wikipedia

▼ 丘陵地の端から小坪港へ崖を降りる

▼ 小坪漁港

小坪漁港は、逗子市の西部に位置しています。小坪漁港の歴史は古く、鎌倉時代より存在している本市唯一の地場産業です。昭和27年1月12日に第1種漁港と指定され、昭和30年8月19日漁港管理者として逗子市が指定されました。(逗子市 web site)


1960年代の航空写真  画像左部分にまだ小坪漁港、リビエラ逗子マリーナ(公式 web site)などが無いことがわかる。これは埋め立て地なのだ。中央の現在の「披露山邸園住宅敷地」も開発されていない。  
↓ 1980年頃の航空写真

▼ 小坪漁港から、峠のトンネルを通り、鎌倉市へ抜ける

小坪隧道。この先が鎌倉市。下の地形起伏図の青矢印の「峠」がこの隧道=トンネル。


赤線を辿り、散歩した。

▼ 鎌倉市 材木座海岸

材木座海岸は滑川で遮られる。その先の由比ヶ浜へは、足をぬらさない限り、歩いていけない。

■ 材木座海岸 ⇒ 由比ヶ浜 ⇒ 長谷

由比ヶ浜。

▼ 海岸から内陸部へ入る;

 

■ 長谷寺

▼ アジサイの頃の様子(愚記事

 

全身総開帳を見た。もちろん撮影禁止なので画像はないが、寺のweb siteで見られる。

■ ⇒ 江ノ電 長谷駅

この後、江ノ電で藤沢まで行って、小田急で武相境斜面へ帰った。

▼ まとめ

逗子市:逗子、新宿、小坪

鎌倉市:材木座、由比ヶ浜、長谷


座間散歩 2022年;座間駅 ⇒ 座間谷戸山公園 ⇒目久尻川の谷 ⇒中央林間駅

2022年12月11日 14時51分42秒 | 散歩

座間散歩は2度目。1度目は、座間散歩; 座間丘陵、開析谷、台地・段丘、段丘崖。今回は、県立座間谷戸山公園に再度訪問。その後、相武台前駅を通り、目久尻川の谷を横断して、平坦な台地を東へ。大和市に入り、中央林間駅まで散歩。途中、宇都宮記念公園なかよし公園に寄る。

1;小田急 座間駅、2;県立座間谷戸山公園、3;相武台前駅、4;目久尻川、5;イオンモール座間、6;宇都宮公園、7;むさしの森珈琲 中央林間店、8;東急 中央林間駅

■ 1;小田急 座間駅 ⇒ 2;県立座間谷戸山公園

■ 2;県立座間谷戸山公園

 


園内マップ

▼ 野鳥の原っぱ

▼ 里山体験館

▼ 水鳥の池

▼ 伝説の丘

▼ わきみずの谷

▼ 米軍施設へ向かう


米軍施設

▼ 


座間市役所

■ ⇒ 3;相武台駅

■ 3;相武台駅 ⇒ 4;目久尻川、

■ 4;目久尻川 ⇒ 5;イオンモール座間

旧日産座間工場(wikipedia);地図(左)、航空写真:1960年代(中)、1980年頃(右)

1960年代は全くの農地であったとわかる。

■ 5;イオンモール座間 ⇒ 6;宇都宮公園

宇都宮記念 公園仲よし広場 Google

■ 6;宇都宮公園 ⇒ 7;むさしの森珈琲 中央林間店

 

 

■ ⇒ 8;東急 中央林間駅

■ まとめ 通過町
神奈川県
座間市 入谷 明王 緑ヶ丘 相武台 栗原 広野台 小松原
大和市 中央林間西 中央林間


散歩;神奈川県立座間谷戸山公園

2021年02月07日 10時32分50秒 | 散歩

神奈川県立座間谷戸山公園の散歩の記録です。過去記事、「座間散歩; 座間丘陵、開析谷、台地・段丘、段丘崖」の番外記事です。この公園は座間丘陵にあります。座間丘陵は両側を平坦な台地に挟まれいます。この公園域は特に凸凹が発達しています。丘陵の山が残り、谷が発達していて、谷戸もあります。



公園内での散歩順路;a⇒ b⇒ c⇒...⇒f  ⇒g; 右下の多目的広場(a)から公園に入り、南出口(g)から出た。

■ a; 多目的広場  ⇒ b:東入口 ⇒ c;ふれあい広場

公園の南東隅の入り口から入る。このあたりは平坦地。この平坦地が座間丘陵の最上部の平面なのか座間丘陵東の相模原段丘の平坦地なのかわからない。おそらく、後者。すなわち、古い残丘の座間丘陵の東側の谷部分は相模原段丘形成時に堆積作用で埋められたのであろう。その境界がこの公園の東縁となっているのではないか?でも違うかもしれない。この公園東がわの平坦地には座間市役所がある。少し、標高が低い。それが、相模原段丘面だとしたら、ここ公園の南東隅の多目的広場の平坦地は座間丘陵域なのかもしれない。



座間丘陵、相模原台地断面模式図。高さが誇張されている。座間丘陵の高地は、相模原台地に対し、こんなに標高差はない。

公園の東縁。

■ c;ふれあい広場

ふれあい広場

■ ⇒ d;クヌギ・ナラ観察林

■ ⇒ e;谷へ降りる


白鳥の池

■ 谷戸の田んぼ

里山体験館 ↓↑

■ ⇒ 谷から南側の斜面を登る


公園南端。座間丘陵域なのに平坦地。座間丘陵最上部の段丘面なのか、人工的平坦地なのかわからない。

公園南口から出る。


座間散歩; 座間丘陵、開析谷、台地・段丘、段丘崖

2021年02月01日 19時04分46秒 | 散歩

座間を散歩した。小田急座間駅付近は丘陵から台地、段丘崖、開析谷が「地形の標本」が、ところ狭しとある。歴史としては、征服者の街だ。ヤマトタケルを祀った座間神社、そして、日本を征服した米軍の「キャンプ座間」。


1;小田急相武台駅前、2;かにが沢、3;緑ヶ丘の谷、4;栗原中央、目久尻川ほとりの芸軍施設、5→6;県立座間谷戸山公園、7;小田急座間駅、8;入谷(段丘崖)、9;入谷西(台地面)、10;鈴鹿明神、11;番水堂、12;伊奴寝子神社、13;新谷、14;座間交叉点、15;キャンプ座間正門、16;大阪台公園 下


A;相模原段丘面、B;座間丘陵、C;中津原段丘面、D;陽原(みなはら)段丘面

■ 2 かにが沢、 3 緑ヶ丘

神奈川県座間市栗原中央1丁目22;下の地図の右下のバルーン印の場所

あるネット情報(ここ)によると旧軍の施設を米軍が引き継いだものとのこと。

■ ⇒ 5、6 県立座間谷戸山公園


上り坂。座間丘陵を登る。


途中の打越ふれあい公園。見晴らしがよい。


画像右手が、県立座間谷戸山公園。上り坂が続く。

■ 5、6 県立座間谷戸山公園

県立座間谷戸山公園 (web site)

この園内用地図は、上が西(小田急小田原線が南北に走っている)、北は右方向。aからb→c...→gの順序で園内を廻る。この図のaが冒頭の地図の5、gが6に相当する。

県立座間谷戸山公園はとてもよかった。別記事にする予定。

g(冒頭地図の6)の南口から公園を出る。ここは座間丘陵の尾根。西側の台地面に降りる。

■ 県立座間谷戸山公園の南口 ⇒ 7;小田急座間駅


南北方向。南北に細く連なる背骨状の座間丘陵の背骨方向。背骨方向にも高低があることがわかる。


西方向を望む。中津原段丘面と奥の山地が見える。


座間丘陵から中津原段丘面へ下る。

■ 7;小田急座間駅

丘陵を西へ向かい坂を下る。丘陵と平坦地の際を小田急線が走り、そばに昭和の団地が見えた。



小田急不動産・ホシノタニ団地

■ ⇒ 8;入谷(段丘崖)


丘陵から降りた進行方向である西を見た風景。平坦地。中津原段丘面。でも、奥に樹木が見える。これは段丘崖の林。


平坦地。南北方向。台地面が伸びる。


中津原段丘面の西端。

■ 中津原段丘面と陽原(みなはら)段丘面の境界の段丘崖

■ 9;入谷西(台地面)、10;鈴鹿明神、11;番水堂、

■ 10;鈴鹿明神

由緒  創建時期は不詳だが、第29代欽明天皇の御代(539年?〜571年?)に創祀したと伝えられている。一方『正倉院文書』によると、天平年間(729年〜749年)には当地は鈴鹿王の所領で土甘(とき)郷と呼ばれていたことから、王の名前より「鈴鹿」という字名が付けられたとも考えられている[2]。また、当社の縁起では「遠く伊勢の鈴鹿郷の祭礼において神輿が海上を渡御していた際、暴風によって漂流し相模国入海の東峯に漂着したといい、このことから里人が座間全郷の鎮守として社を創建し鈴鹿大明神を崇め祀った」という伝説も残されている。wiki

■ ⇒ 11;番水堂

■ 11;番水堂

■ ⇒ 再び座間丘陵を登り、キャンプ座間

▼ 思わぬ国連旗


中央の電柱の先の向こうの山(大山? 塔ノ岳?)に着目して下の画像を。


敗戦直後の頃の風景(出典

■ 伊奴寝子神社、座間神社

伊奴寝子神社と座間神社は同じ敷地にある。その敷地は座間丘陵から中津原段丘面への斜面にある。湧水があるのだ。

座間神社: 日本武尊(ヤマトタケルノミコト)景行天皇の皇子。古事記に「さねさし相模の小野に燃ゆる火の火中に立ちて問ひし君はも」とあるように凱旋の士で、東国従伐の途中、伊勢神宮へ参拝し、倭姫命より叢雲鶴剱を得られ、その威霊によって駿河国に於いて野火の難を免れました。そしてその賊を滅ぼされ、相模国より走水の海を渡られ、上総国に入られ東国蝦夷を平定するなど、歴戦のロマンを秘められた尊の御神徳と御功績をお慕い奉っております。座間神社 web site

13;新谷、

これは自衛隊らしい。以前(愚記事;神奈川散歩;小田急・相武台駅→キャンプ座間、基地地下横断→相模公園・メタセコイア屏風)見た光景だ。

14;座間交叉点 ⇒ 15;キャンプ座間正門 へ


先ほど、このトンネルの上を通った。


この隧道は旧軍時代にできたらしい。

15;キャンプ座間正門

[在日米陸軍司令部の設置]
 旧日本陸軍士官学校として使用されていた用地は、終戦後間もない昭和20年9月2日、調達要求書によって同月5日、師団長キング少将の率いる米陸軍第1騎兵師団が進駐し、第4兵站廠として使用するところとなった。そして、昭和25年6月、米陸軍第8軍司令部が設置され、施設名を「キャンプ座間」と呼ぶようになった。当時、近隣の旧日本海軍航空基地であった「厚木キャンプ」(現在の厚木基地)と共に、主として極東各地に往来する米陸軍部隊が船待ちをする一時的駐留基地となった。

 昭和32年7月、西太平洋・極東にいたる米陸軍の指揮・命令を統括する在日米陸軍司令部と基地司令部が設置された。その後、昭和44年9月に在日米陸軍の機構改革によって基地司令部は廃止されて在日米陸軍関東地区司令部と組織が改革され、昭和48年に在日米陸軍の主要部隊として本州駐屯部隊が発足し、昭和50年には太平洋地区米陸軍司令部の廃止に伴い、陸軍省司令部直下主要陸軍司令部となった。それ以後、現在に至るまで組織変更が行われており、平成19年12月に第一軍団(前方)司令部が発足し、第一軍団(前方)・在日米陸軍司令部となった。 (座間市のweb site)

「マッカーサーのペット」の第1騎兵師団は、座間にも進駐していたと知る。札幌朝霞の話は以前にした。

座間は現在、北東アジアの米陸軍の総司令部となるとの報道。米軍の再編。「今度の朝鮮戦争」に備えるのだ。先の朝鮮戦争で中共軍に(一部)壊滅させられた第1騎兵師団もかつてはここにいたのだ。

第1軍団司令部は、米軍再編の一環で、神奈川県座間市にある陸軍キャンプ座間への移転が予定されている。すでに移転の準備の一環として前方展開司令部が座間に設置されている。司令部移転後は、韓国駐留陸軍部隊を含む西太平洋全域の陸軍部隊を指揮下に収めるなど、複数の再編案があるとされているが、いまだはっきりした形は示されていない。wiki

16;大阪台公園 下

■ 武相台前駅

● まとめ;通過町名

相模原市南区相武台

座間市

緑が丘、栗原、栗原中央、入谷、座間、新戸