■ 1週間前の連休は、北京に行った。
3泊4日。下記12の場所に行った(表1と図1)。行った場所は、時代で2分した。行った場所ごとの節をつくり、画像を貼り、絵日記とした。ただし、8節の"友誼賓館"は特に観光名所ではない。おいらの定点観測に行った。
(なお、goo blogの画像アップロードは1日100枚までなので、打ち止めとなってしまった。この記事の途中制作御免。明日以降完成に向けて継続するつもり)。
表1. 3泊4日の北京旅行で行った場所。
図1 表1の12場所を示した。
1章 清朝時代からの史跡
1節 孔子廟と国士監
大成殿内部
2005年との対比
2005年の孔子廟: 愚記事より
2005年には大成殿が改修中だった。 なにより、大成門がなかった。 今の大成門は21世紀につくられたものなのだ。
やはり、"捏造"される「伝統」、である。
▼ 国士監は孔子廟の隣。 清朝では皇帝自身が講演したらしい。
科挙合格者名簿。石に刻まれ、後世に伝えられている。なお、これはあの「虎榜」、つまりは中島敦の『山月記』の"若くして名を虎榜に連ね、"ではないようだ。なぜなら、虎榜とは科挙に及第した者の名を記した「札(ふだ)」のことらしい。これらは「札」でなない。石碑なのだ。
2節 雍和宮
チベット仏教のお寺です。地下鉄雍和宮のすぐ傍にあります。
中に入るとイチョウ並木が長く続きます。
西蔵僧さんをみつけました。半袖ではないのですね。西蔵僧さん=半袖というステレオタイプをもっていたので。
チベット仏教につきもののクルクルまわすやつ: 釣鐘という名前であると知る。
3節 牛街礼拝寺
北京の南西部には回族の居住区がある。清朝からすでに回族が住んでいるらしい。モスク=牛街礼拝寺がある。
モスクは特にイスラム建築のわけではない。むしろ、清朝調だ。そして、偶像崇拝を禁じているイスラム教だけあって、像がない。ただ、モスクの重要な役割は信徒が集まって祈ることである。それらしき広場らしきものはあった。寺院に来ていた信徒らしき人はムスリム男性が被るあの白い円筒の帽子をつけていた。
回族街の胡同。 胡同の細い道を抜けようと、進んでいった。この入口の段階では気づかなかったが市場横丁だった。この日が日曜日だったせいかもしれない。
最後は大きな通りに出た。
4節 円明園
5節 瑠璃廠
清朝時代からあって、「筆、硯、墨、紙の文房四宝と印章、書画骨董などを販売する店が立ち並び、多くの文人墨客が訪れることで知られる」街。
2章 近現代の観光名所
6節 798芸術区
建物まるごとが作家さん(アーティスト)の展示会場となっている。
例えば、張林海の展示をみた。こういう芸風 ↓
芸術区の写真というよりは、「工場萌え」ではないか!?という疑問も出る。当然である。この798芸術区は今は現在アートのセンターになっているが、元々は1950年代に東ドイツの援助でつくられた工場群。そして、画像を見ていただきわかるように、戦前のモダニズム建築様式、しかも工場という建物へのモダニズム建築様式の適用というすごいものだ。これは産業遺跡だろう。1950年代にバウハウス風建築群が北京に忽然と出現していたのだ。798とはその東ドイツとの共同での工場の名前番号。このモダニズム建築様式の特徴は、建物の簡素な外形、機能性、工場の場合単純で重厚となる、採光のための広い窓。例えば、極端な例として、AEGタービン工場(google 画像)やバウハウス デッサウ舎(google 画像)がある。この北京の1950年代にこんなに窓を広くとった建築はめずらしいのではないか?今でこそ、全面ガラス張りのビルなぞなんらめずらしくないが、20世紀初頭は材料としての大面積ガラスの製造技術がそんなに発達していなかったのである。そして、その大面積ガラスを組み込む建築技術も未発達。
この東ドイツの設計になるモダニズム工場建築物の材料(一部?)と工業の機械はシベリア鉄道経由で東ドイツからここ北京まで列車で輸送されたとのこと。中国の歴史での特徴は対ソ連問題。スターリン時代の中ソ蜜月時代もスターリン批判の修正主義に中国・毛沢東が反発し、中ソは決別する。中ソ関係とは別に独中関係があったのだ。その独中関係の賜物がこのモダニズム建築様式工場群だ。解説書では、ソ連流の装飾的建築物ではなく、質実剛健で実用的、そして実は美的なものをドイツは中国に移注したのだと書いてあった。、ソ連流の装飾的建築物って、当時ソ連が東ヨーロッパに広めていたスターリンゴシックのことなんだろうか?
それにしても、中華国さまの西洋風の端成分が上海である(google画像:上海 バンド)。海から来た"西洋"である。一方、この798工場、そして、後述の友誼賓館は、ソ連・東ドイツからのシベリア経由の陸から来た"西洋"である。つまり、上海と北京の間には、海から来た"西洋"と陸から来た"西洋"の「西洋の谷間」があるのだ。
ところで、気圧の谷間とは、しばしば、暴風雨をもたらす気象現象を生み出す。
英露=海洋国家:大陸国家の boundary が、上海(愚記事;上海参り 2012)と北京の間にあるのだ。
おそるべし、マッキンダー!
7節 老舎記念館
老舎記念館に行く途中。「英文高中」と看板が出ている。それより、このハンマー打ちにほれぼれした。石畳を打ち砕いているのだ。
知ってからまだ1か月もたっていない老舎(愚記事:蒙童、老舎老師を知る)の記念館に行った。
館は作家の人生と作品の解説。そして、作品の背景、地理・歴史・風俗を説明展示。
もし、老舎に全く興味がない人でも、中国の伝統的家屋建築である四合院 (wiki)が楽しめる。
展示にビデオが見られた。それは、老舎の最後をその場にいた人たち、関係者のインタビューである。そのインタビューは死後10年以上たった1980年代にビデオで撮られたものである。インタビューに答えている人たちは老舎が紅衛兵に連れ出され、糾弾された模様を語っている。
マオさんとの握手の写真が悲しい。
日本に来たときの写真。死ぬ前の年。
8節 友誼賓館
ここは名所でもなんでもない。ただ、おいらが2005年、2006年に北京に来た時に泊まった。初めての北京だったので、印象深い。
もともとは1950年代にソ連の技術者のためにつくられた宿舎。前述の798芸術区でもそうだが、大戦終戦から共和国ができたころの時代には近代西洋風の建物が極めてすくなかったらしい。 そして、人民共和国ができて、国家建設をソ連の援助で実施した。その援助のためのソ連人の居住域といしてこの友誼賓館はつくられた。館といっても建物ひとつではなく、1区画の敷地に建物群があるのだ。
いまでこそ北京にはホテルが余るほどある。でもオリンピックの前はそうでもなかったのであろう。外国人が泊まる宿は限られていた。友誼賓館は外国人を「放り込んでおく」典型的は宿舎なのだ。特に長期滞在の学者など。あの今村仁司さん(wiki)は、1988年(64天安門事件の前年)に半年間北京に滞在したとき、この友誼賓館、第四号館「南工字楼」の6階に滞在した(『中国で考える』)。
そこの北京科学会堂に2005年に行った。たしかに、今日まで残っていることが確認でできた。しかし...
たしかに、今日まで残っていることが確認でできた。しかし...、投資会社も事務所を開いていた。
庭にはバラが育てられていて、服務員が水をやっていた。この風景は変わらない。
長毛猫。その昔ロシア人がおいていった猫の子孫と空想してみた。
投資会社もできていたが、敷地内には銀行の事務所も店子として入って、商売を始めていた。そして、建物はアパート化していた。
つまりは、急激な経済成長で経営部門の事務所床面積の不足が北京全体で生じ、もともと近代的な建物で、少しは瀟洒な 友誼賓館に店子が集まったのだろう。友誼賓館の管理組織も経済主義で間貸し、切り売りを始めたのであろう。
9節 三里屯
最近できたきれいなモールと通り1本隔てたところでは、猥雑な街が広がる。
そして、三里屯は外国大使館の「団地」がある。各国大使館とも同じ面積の敷地に、似たような単純な建物を割り振られ、大使館業務を行っているらしい。
10節 潘家園旧貨市場
空を指さすマオ像、腕を組む骨董マニア・マダム?
(と、ここまできましたが、goo blogから、1日100枚までのアップロードの上限を超えています!と warning.
今日はこれ以上画像を張り付けることができず、お仕舞。残念!)
10/21 継続
文革中の印刷物の販売物で、林彪が目立った。売っている人たちは林彪を知っているのだろうか?
康煕字典がおいらを待っていた。天の配剤か?
「獲物」を取得して嬉々として帰っていく骨とう品マニアマダム?
11節 南鑼鼓巷
たこ焼き屋さんです。
↓ 昔の名前で、出ています~;
「文革のときは一度、輝煌街って改称されたの。でも後でもとの名にもどったわ」
:文化大革命中一度改稱輝煌街 (google)
12.王府井
赤い腕章...、紅衛兵のあろうはずもなし....、 走資派 と書かれているかと思いきや、判読不明。
百貨店の中では、毛唐さんのモデルと一緒に写真を撮ってもらえるという催し物をやっていた。
マンゴーのお団子を食べた。