いか@ 筑豊境 寓 『看猫録』

Across a Death Valley with my own Distilled Resentment

初めての「命がけの飛躍」、あるいは、なぜ本気で死にたくなるのか?

2013年10月30日 19時49分33秒 | その他

(― 大学卒業者にとって日本は天国である ― 森嶋通夫、『なぜ日本は行き詰ったか』、原著 2000年、訳本2004年 [1] ) 

― W-G、商品の第一変態または売り。商品体から金体への飛び移りは、(中略)、商品の命がけの飛躍である。この飛躍に失敗すれば、商品にとっては痛くないが、商品所持者にとってはたしかに痛い。 ― 『資本論』、第3章、第2節 流通手段、A 商品の変態


就職活動生の1割「本気で死にたい」 若者の「就活自殺」なぜ急増

 ニュースで、就職活動をする大学生が、その就活がうまく行かないと死にたくなるという話。

このニュースをダシに、よしなしごとを....。

就職活動の指南でよく見る常套句;

就職活動 自分という商品を販売するセールスマン

就活 あなたという商品を販売するセールスマン

これを踏まえると、新卒の就職活動は、初めての、命がけの飛躍、ということになる。

就職活動は、労働力商品をその商品所有者である商品所持者が、商品体から金体への飛び移り=W-G=商品の第一変態=売り=内定獲得を目指すことに他ならない。

だから、この飛躍に失敗すれば、商品にとっては痛くないが、商品所持者にとってはたしかに痛い。

そして、この飛躍に失敗し続けると、死にたくなるのである。

 おもしろい点は、「本気で」死にたくなりことである。 つまりは、今までは、本気で命がけの飛躍をしたことがなかったのである。

さて、上記「第一変態」の変態とは、形態が変わることである。 特殊個別な価値形態から一般的価値形態への変化である。

それにしても、不思議な話だ。商品体から金体への飛び移り。100円でカルビーポテトチップスは買えますが、カルビーポテトチップスで100円は買えません、と昔あった。これを踏まえると、ある人が握りしめていた100円硬貨でカルビーポテトチップスを買ったとき、つまりは、W-G=カルビーポテトチップス―100円、この「商品体から金体への飛び移り」において、飛び移ったものは何なのだろう。 商品体から金体へと何かが飛び移ったということなのだ。

(後述:あーそうか、何かは「カルビーポテトチップス」から、それまで握りしめられていた100円硬貨に飛び移ったのだから、元々、100円硬貨を握りしめていた人には、関係ないんだ。)

それにしても、飛び移る「もの」は何なんだ!

 変態または売り: さて、「変態」に異常に反応した御仁には、まだ、言葉はある。 「第一変態」とは、何より女王さまの前での「変態」だと思う御仁である。そう思うことが、変態だ。

そんな変態さまは、心配ない。

女に成ったあたしが 売るのは自分だけで 同情を欲した時に 全てを失うだろう

なにやら、たくましそうではないか。

■ まとめ

    自分でも、何が言いたいのか、よくわからない。


[1] 2000年には、まだぬっぽんは本当には「行き詰って」いなかったと、どん詰まりの今となっては、わかる。 もっとも、この現状を「どん詰まり」と言っていること自体が楽観なのかもしれない。 わくわくどきどきだな、今後のぬっぽん。

 


今日の筑波山 2013/10/27

2013年10月27日 19時21分10秒 | 筑波山麓

仕事が炎上した。昨日今日(午前)は休日でも出勤。 実験。 

11月の3連休はふっとぶであろう[未来形]ことが決まった。

ディフェンス前の院生のようで、楽しい。

炎上したのが、北京への物見遊山の後で、よかった。

もし、2週間前に炎上していたなら、北京に行けなかったであろう。

ありがとう、おいらの運命!

で、本日午後は、つくばのショッピングモールである イーアス に行った (1円も使わなかった。くまざわ書店@アカデミアで立ち読みしただけ、 ごめんね、イーアス)。

このイーアスの住所は、茨城県つくば市研究学園C50街区、である。

研究学園C50街区! 何か、中国の新開地みたいで、素敵。 事実、東夷の新開地にほかならない。 

さて、そのイーアスから少し道に迷った。なぜなら、新しい道ができたりしたからだ。コストコなどという新参者が商売を始めたりしていた。

その「新しい」道の脇の並木が立派。 この画像は車中から撮ったので、ちゃちいが、実物は立派。

この辺↓

■ 今日知ったこと、今日、改めて思ったこと;

同時代の人、いや2世代あとの人も、その時代の歴史は知らないのである。

文化大革命を知ることで知ったこと。

現在、2013年の視点で見ると、中国で毛沢東が発動した文化大革命の重要なエピソードのひとつが、劉少奇の吊し上げと事実上の殺害。そして、それに先立つ、劉少奇夫人・王光美の吊し上げが挙げられる。 今では有名なこの画像だ↓

 

1967年に劉少奇夫人・王光美は紅衛兵によって、北京の精華大学で、吊し上げられた。

理由は、インドネシア訪問で「ブルジョア風」(下記画像左)の=共産党員にあるまじき格好をしたからである。 

もっとも、"ブルジョア"風というより、清朝風なのであるが。

今日、おいらが知ったことは、この1967年の王光美の紅衛兵による北京の精華大学での吊し上げられたときの画像は、(少なくとも)1989年には公開されていなかかったのだ。 なぜわかったかというと、草森伸一の『中国文化大革命の大宣伝』に、文書では伝えられていたこの1967年の王光美の紅衛兵による北京の精華大学での吊し上げについて、写真がないの! (写真がないの!@豊田順子 風)と草森は1989年に叫んでいたからである。

果たして、写真はあったのだ。

何年に公表されるようになったが不明であるが、1989年=64天安門事件が起こった年には、普通の中国人と世界の人は見たこともなかったのだ。

言いたいことはこうである。

文化大革命は1966-1976年に起きた。でも、その事実=経過=「歴史」を一般人=含む歴史研究者が、大概に知ることができるようになったのは、1990年代以降なのである。

同時代の人、いや2世代あとの人も、その時代の歴史は知らないのである。

なお、王光美は2006年まで生きた。 北京で2006年10月13日に北京で死んだ、とされる[wiki]。

なんだ、(北京に着いた2005/10/10)おいらは、王光美と同じ空気を吸ったのか。 ただし、その時のPM2.5の濃度はわからない。

 


ぶどうの木再生日記;第32週目

2013年10月26日 08時19分07秒 | 草花野菜

■ 今週のお花

▼ 今週のおいらをぎょっ! とさせた お ば か さ ま@食税;


https://twitter.com/ProfMatsuoka/status/393359605658447872

明治維新は日本の大学の卒業生の所業らしい。

???????


 日本の大学の卒業生 ???? 出典:むつひとさんのとりまき

いいえ、掘立小屋の私塾の出です。 [彼らは後に只の秀才ちゃんたちのために大学を作ったが、] 彼ら自身デーガクなんか出てないから、明治いすんなんぞ、できたんだがとです(←どこの言葉だ!!??)

もっとも、彼らの幾人は、えげれすの大学に通ったので、むしろ、明治維新は英国大学の 卒業生 聴講生 の賜物という言い方はできるかもしれない。


ほったてごや。日帝発祥の地。

噴出してうれしい、自分のヒステリー。 みていて楽しい、他人のヒステリー。

この無知で無教養な食税研究家さまのヒステリー(=事実誤認=非理性的判断)は、例えば、このようなネット記事から引き起こされたのかもしれない;

“日本の大学”が消滅する未来  菅谷 明子

そして、上記、無知で無教養な食税研究家さまのヒステリーについて、冷静なコメント;

菅谷 明子さんと同様、やまとなでしこ さまからだ、


https://twitter.com/yaskoma/status/393399605313806336

https://twitter.com/yaskoma/status/393401903414910977

典型的、ぬっぽんの無教養で自我自尊(@しかも、事実誤認に基づく)的 えすたぶりっしゅめんと さまの自己賛美に、やんわりと、物言いしているのだ。

さもないと、再びぬっぽんが亡びるからだ。 大日本帝国のように。

と、おいらのヒステリーを発散させてみた。

やはり、噴出してうれしい、自分のヒステリー。

(蛇足ながら、菅谷 明子さんの記事を見て、鳥尾鶴代とかを想起した、やまとなでしこ さまとして。おいらが十代の頃みた彼女の言葉とされるもの;「彼には日本男性にはない全てがあった!」(ってな内容:記憶)。 ぬっぽんダメダメ、非日本モデル マンセー!の例だ)

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ポルノ三昧; キャリアポルノ編2、将来のノーベル学者の買い出しと落花生に関するメモ

2013年10月23日 20時48分45秒 | 日本事情

 
    ― 積み上げられた落花生 -
 

ポルノ三昧; キャリアポルノ編、 「血反吐を吐くぐらい」、体当たり五十路本番女優に関するメモ、に続く第2弾。

 

おいらはポルノ三昧で暇を潰している。 ポルノとは、それを見るものが他人の性交動画をみて、あたかも自分が性交に耽っている気分させるための、材料である。主に、センズリこくのに用いられる。

出世しそこなった出世主義者のおいらは、現実では出世の果実を享受できないので、他人の出世物語をおかずに、 つまりはポルノ=あたかも自分がやっているように幻想させる材料を以って、自涜に耽っているのだ。 どうせなら、偉大な出世人の伝記の「キャリア・ポル ノ」をおかずに、実際の人生では所を得られなかったちんけなおいらが、あたかも自分が成功に耽っている気分になるのだ。

今夜のズリネタは、将来のノーベル学者さまの若かりし日の「敗戦」日記&餓えても勉強日記である。

 疎開の荷物を出した後、ラジオは正午に重大な放送があると報じた。私は急遽、荷馬車を追って二条城に走った。私が終戦の詔書を聞いたのは二条駅の駅員詰め所の一隅である。荷物の発送を停止したことは言うまでもない。
 その後、大学は九月に再開されたが、東京で待っていたのは、すさまじいインフレーションと食糧難であった。それでも戦時中よりよほど明るい生活ができるようになった。
 買い出しの時の記録がある。
『今日は温暖。実験室に行く足を転じ、京成電車に乗ること一時間、足の向くまま印旛沼に到る。舟あり対岸に渡る。行きか買い出しの人達、明媚なる風景に気づかぬか。荷物の重たきためか。下を向いて歩くばかりである。とある農家で落花生と小豆を求む。落花生一貫(3.75キログラム)二八〇円、小豆一升(容積1.8リットル)八五円也。印旛沼にも春来たり水温む。壮快な一日であった。』
 買い出しの落花生をかじり、小豆の餡子を糧としてその頃学んでいたのは、分子や原子、ミクロの世界を支配する量子力学であった。ニュートン力学を超えるこの学問の基礎は大正の終わり、私が生まれた頃に固まったが、一九四六年当時、まだ日が浅く、習熟された先生方は物理学科や化学科の限られた教授にとどまり、秘蔵の学という感があった。

江崎玲於奈 『限界への挑戦 私の履歴書』

 

すごい! 闇米ならぬ、闇落花生で、餓えをしのぎ、勉強していたのだ!

どうすた! 暖衣飽食の現代ぬっぽん食税研究者さま! 小人閑居して不善を為す、なんだろう!

なお、江崎玲於奈センセは、今なお、筑波山麓の住民とのこと(伝聞)。


 予算乞食さまとして、責務を全うしているらしい。


(関連愚記事; 罹災の巷低く見て、 

 - - そして、この朝も、すでになじみになった例の二十五番教室で、田中務教授はいつもと少しも代わらぬ調子で、「物理実験第一」の講義を行った。私は必死に なってノートを取った。前夜のことから離れ、物理学の世界に没頭した。東大アカデミズムの存在感が身に伝わったときであった。- - (昭和20年3月10日朝[東京大空襲の翌朝]の回顧)






北京参り 2013

2013年10月20日 19時32分09秒 | 中国出張/遊興/中国事情

■ 1週間前の連休は、北京に行った。

3泊4日。下記12の場所に行った(表1と図1)。行った場所は、時代で2分した。行った場所ごとの節をつくり、画像を貼り、絵日記とした。ただし、8節の"友誼賓館"は特に観光名所ではない。おいらの定点観測に行った。

(なお、goo blogの画像アップロードは1日100枚までなので、打ち止めとなってしまった。この記事の途中制作御免。明日以降完成に向けて継続するつもり)。

表1. 3泊4日の北京旅行で行った場所。


図1 表1の12場所を示した。

1章 清朝時代からの史跡

1節 孔子廟と国士監

大成殿内部

2005年との対比

 
2005年の孔子廟: 愚記事より

2005年には大成殿が改修中だった。 なにより、大成門がなかった。 今の大成門は21世紀につくられたものなのだ。

やはり、"捏造"される「伝統」、である。

 ▼ 国士監は孔子廟の隣。 清朝では皇帝自身が講演したらしい。

科挙合格者名簿。石に刻まれ、後世に伝えられている。なお、これはあの「虎榜」、つまりは中島敦の『山月記』の"若くして名を虎榜に連ね、"ではないようだ。なぜなら、虎榜とは科挙に及第した者の名を記した「札(ふだ)」のことらしい。これらは「札」でなない。石碑なのだ。

2節 雍和宮 

チベット仏教のお寺です。地下鉄雍和宮のすぐ傍にあります。

中に入るとイチョウ並木が長く続きます。

西蔵僧さんをみつけました。半袖ではないのですね。西蔵僧さん=半袖というステレオタイプをもっていたので。

チベット仏教につきもののクルクルまわすやつ: 釣鐘という名前であると知る。

3節 牛街礼拝寺 

北京の南西部には回族の居住区がある。清朝からすでに回族が住んでいるらしい。モスク=牛街礼拝寺がある。

モスクは特にイスラム建築のわけではない。むしろ、清朝調だ。そして、偶像崇拝を禁じているイスラム教だけあって、像がない。ただ、モスクの重要な役割は信徒が集まって祈ることである。それらしき広場らしきものはあった。寺院に来ていた信徒らしき人はムスリム男性が被るあの白い円筒の帽子をつけていた。

回族街の胡同。 胡同の細い道を抜けようと、進んでいった。この入口の段階では気づかなかったが市場横丁だった。この日が日曜日だったせいかもしれない。

 

最後は大きな通りに出た。

 4節 円明園

 

5節 瑠璃廠

清朝時代からあって、「筆、硯、墨、紙の文房四宝と印章、書画骨董などを販売する店が立ち並び、多くの文人墨客が訪れることで知られる」街。

 

2章 近現代の観光名所

6節 798芸術区

建物まるごとが作家さん(アーティスト)の展示会場となっている。

例えば、張林海の展示をみた。こういう芸風 ↓

芸術区の写真というよりは、「工場萌え」ではないか!?という疑問も出る。当然である。この798芸術区は今は現在アートのセンターになっているが、元々は1950年代に東ドイツの援助でつくられた工場群。そして、画像を見ていただきわかるように、戦前のモダニズム建築様式、しかも工場という建物へのモダニズム建築様式の適用というすごいものだ。これは産業遺跡だろう。1950年代にバウハウス風建築群が北京に忽然と出現していたのだ。798とはその東ドイツとの共同での工場の名前番号。このモダニズム建築様式の特徴は、建物の簡素な外形、機能性、工場の場合単純で重厚となる、採光のための広い窓。例えば、極端な例として、AEGタービン工場(google 画像)やバウハウス デッサウ舎(google 画像)がある。この北京の1950年代にこんなに窓を広くとった建築はめずらしいのではないか?今でこそ、全面ガラス張りのビルなぞなんらめずらしくないが、20世紀初頭は材料としての大面積ガラスの製造技術がそんなに発達していなかったのである。そして、その大面積ガラスを組み込む建築技術も未発達。

この東ドイツの設計になるモダニズム工場建築物の材料(一部?)と工業の機械はシベリア鉄道経由で東ドイツからここ北京まで列車で輸送されたとのこと。中国の歴史での特徴は対ソ連問題。スターリン時代の中ソ蜜月時代もスターリン批判の修正主義に中国・毛沢東が反発し、中ソは決別する。中ソ関係とは別に独中関係があったのだ。その独中関係の賜物がこのモダニズム建築様式工場群だ。解説書では、ソ連流の装飾的建築物ではなく、質実剛健で実用的、そして実は美的なものをドイツは中国に移注したのだと書いてあった。、ソ連流の装飾的建築物って、当時ソ連が東ヨーロッパに広めていたスターリンゴシックのことなんだろうか?

それにしても、中華国さまの西洋風の端成分が上海である(google画像:上海 バンド)。海から来た"西洋"である。一方、この798工場、そして、後述の友誼賓館は、ソ連・東ドイツからのシベリア経由の陸から来た"西洋"である。つまり、上海と北京の間には、海から来た"西洋"と陸から来た"西洋"の「西洋の谷間」があるのだ。

ところで、気圧の谷間とは、しばしば、暴風雨をもたらす気象現象を生み出す。

英露=海洋国家:大陸国家の boundary が、上海(愚記事;上海参り 2012)と北京の間にあるのだ。

おそるべし、マッキンダー!

 7節 老舎記念館

老舎記念館に行く途中。「英文高中」と看板が出ている。それより、このハンマー打ちにほれぼれした。石畳を打ち砕いているのだ。

知ってからまだ1か月もたっていない老舎(愚記事:蒙童、老舎老師を知る)の記念館に行った。

館は作家の人生と作品の解説。そして、作品の背景、地理・歴史・風俗を説明展示。

もし、老舎に全く興味がない人でも、中国の伝統的家屋建築である四合院 (wiki)が楽しめる。

展示にビデオが見られた。それは、老舎の最後をその場にいた人たち、関係者のインタビューである。そのインタビューは死後10年以上たった1980年代にビデオで撮られたものである。インタビューに答えている人たちは老舎が紅衛兵に連れ出され、糾弾された模様を語っている。

マオさんとの握手の写真が悲しい。

日本に来たときの写真。死ぬ前の年。

 

 8節 友誼賓館

ここは名所でもなんでもない。ただ、おいらが2005年、2006年に北京に来た時に泊まった。初めての北京だったので、印象深い。

もともとは1950年代にソ連の技術者のためにつくられた宿舎。前述の798芸術区でもそうだが、大戦終戦から共和国ができたころの時代には近代西洋風の建物が極めてすくなかったらしい。 そして、人民共和国ができて、国家建設をソ連の援助で実施した。その援助のためのソ連人の居住域といしてこの友誼賓館はつくられた。館といっても建物ひとつではなく、1区画の敷地に建物群があるのだ。

いまでこそ北京にはホテルが余るほどある。でもオリンピックの前はそうでもなかったのであろう。外国人が泊まる宿は限られていた。友誼賓館は外国人を「放り込んでおく」典型的は宿舎なのだ。特に長期滞在の学者など。あの今村仁司さん(wiki)は、1988年(64天安門事件の前年)に半年間北京に滞在したとき、この友誼賓館、第四号館「南工字楼」の6階に滞在した(『中国で考える』)。

そこの北京科学会堂に2005年に行った。たしかに、今日まで残っていることが確認でできた。しかし...

たしかに、今日まで残っていることが確認でできた。しかし...、投資会社も事務所を開いていた。

庭にはバラが育てられていて、服務員が水をやっていた。この風景は変わらない。

長毛猫。その昔ロシア人がおいていった猫の子孫と空想してみた。

投資会社もできていたが、敷地内には銀行の事務所も店子として入って、商売を始めていた。そして、建物はアパート化していた。

つまりは、急激な経済成長で経営部門の事務所床面積の不足が北京全体で生じ、もともと近代的な建物で、少しは瀟洒な 友誼賓館に店子が集まったのだろう。友誼賓館の管理組織も経済主義で間貸し、切り売りを始めたのであろう。

 

 9節 三里屯

 

最近できたきれいなモールと通り1本隔てたところでは、猥雑な街が広がる。

そして、三里屯は外国大使館の「団地」がある。各国大使館とも同じ面積の敷地に、似たような単純な建物を割り振られ、大使館業務を行っているらしい。

10節 潘家園旧貨市場

 

空を指さすマオ像、腕を組む骨董マニア・マダム?

(と、ここまできましたが、goo blogから、1日100枚までのアップロードの上限を超えています!と warning.

今日はこれ以上画像を張り付けることができず、お仕舞。残念!)

10/21 継続

文革中の印刷物の販売物で、林彪が目立った。売っている人たちは林彪を知っているのだろうか?

康煕字典がおいらを待っていた。天の配剤か?

「獲物」を取得して嬉々として帰っていく骨とう品マニアマダム?

11節 南鑼鼓巷


たこ焼き屋さんです。

↓ 昔の名前で、出ています~;

 「文革のときは一度、輝煌街って改称されたの。でも後でもとの名にもどったわ」

:文化大革命中一度改稱輝煌街 (google)

12.王府井

赤い腕章...、紅衛兵のあろうはずもなし....、 走資派 と書かれているかと思いきや、判読不明。

百貨店の中では、毛唐さんのモデルと一緒に写真を撮ってもらえるという催し物をやっていた。

マンゴーのお団子を食べた。

 

 

 

 

 

 

 


ぶどうの木再生日記;第31週目

2013年10月19日 08時57分19秒 | 草花野菜

● 今週のお花

■ 今週の筑波山麓

 
台風一過  

■ 今週の訃報: 元越後屋のロゴデザイナー・やなせたかしさん死去 (googleニュース

 愚画像

▼ 今週のニュース、あるいは、おいらのルサンチマン炸裂


東北大教授:「千葉、滅びろ」とツイッターに投稿


東北大学 教授 沼崎一郎さん(楽天ファン)が「ロッテごときが」「千葉、滅びろ!」 →大炎上

御本人さまがおっしゃっている;

   ただのオッサンだよwww。

まつがい。 国家から金が支払われて生活と職位と職場を含む身分が保障されている国家貴族さまである。

うらやましいな、生活保護受給者! 

国家貴族さまのために国奴から搾り取った税金を蕩尽して暮らしているのである。

おいらもなりたかったよ!

生活保護を受給して、言いたい放題! やっぱり、暇なんだろう、おまいら!(愚記事:論文激減、twitterつぶやき激増; ぬっぽん食税研究者事情

それにしても、苦笑したのがこの沼崎一郎さまという文化人類学者の教授さまは、人権問題にとりくんでいて、特にDV問題、と教員紹介にある。

DV! 

(べたに解説にすると日常ではDVとはdomestic violenceの略で、家庭内暴力の意味として使われている。ところで、domesticとは「うちわのこと」つまりは「国内問題」という意味もある。つまりは国際的の対意語だ。家庭内暴力⇒domestic violence⇒国内での県争い=千葉県を罵倒する宮城県の教授さま! DVに淫する教授さま!)

 別途、この件でおもしろいのは、この文化人類学の教授さまの「アイデンティティー至上主義」である。そして、宮城県民はアイデンティティーがあって、千葉県にはないらしい。2つ疑問が湧く。1)アイデンティティーってなんだろう?2)なぜアイデンティティーが重要なんだろう?

なにより、この教授さまは自分を深くidentifyしているのだろう。だからこそ、あのような傲慢な振る舞いにご満悦なのだ。

おいらが思うことは、「日本で成功して高い地位についている人は、どうしてこんなに自己満足しているのだろう!」ということだけだ。

と、ルサンチマンを晴らしてみた;


ソース

(どうして自己満足しているかって、答えは簡単だ。 税金大学の教授さまで"日本で成功して高い地位についている"からだ。 あたりまえじゃないか!)

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ジコジコ、パパヤー~~~

2013年10月16日 19時01分13秒 | 中国出張/遊興/中国事情

 ~♪~ ジコジコ、パパヤー~~~ ~♪~

 

 

先日、お支那さまで2番目に偉い (1番目に偉いのは習主席である) 李克強 (wiki) さんはASEAN , APEC会議の帰りにタイ王国に行き、中国高速鉄道展を開催。そこに、その地のタイ国で2番目に偉いラック首相に(1番目に偉いのはタイ・プミポン国王である)、お支那さま新幹線の購入への宣伝を行った。

李克強首相は「中国の高速鉄道技術は進んでおり、安全で信頼でき、コスト的にも競争の優位性がある」と紹介し、「中国・タイが鉄道協力を強めれば、タイの インフラ建設と経済、社会の発展を促すことができるだけでなく、両国が互恵とウィンウィン関係を実現して、両国の人民に福祉をもたらし、域内インフラの相 互連結にも貢献できる」と述べています。  (強調、ikagenki)

ソース: タイで開催の中国高速鉄道展に両国首相が出席

 李首相、ブルネイ、タイ、ベトナム訪問

そのニュースを見て、おいらはヒステリーを発作した。 ぬっぽんのすんかんせんさパクッて、おまけに事故まで起こしているのに、ホント、厚かましいな!と激怒した。それにしても、もっともらしい、展示とプレゼンには、驚愕した。⇒関連愚記事:いいたいことは、支那人は、昔から、P: プレゼンに秀でているのだ。 そして、P: プロパガンダにも秀でている。

ところで、中国に新幹線技術を渡してしまった日本側当事者は「売国奴」ではないか!? いまだに、誰も責任をとっていない。

さて、殊勝なおいらは、実施する;

おいらが、ルーチンでやることのひとつが、「嫌悪」する人を認識したら、その人の言動リストと自分の言動リストを照合することである。 あったさ。 
愚記事

あったさ; 事故っても平気! いや、事故こそ、兵器!

  

われらがぬっぽんで2番目に偉いアベちゃんも(1番目に偉いのは、あきえさん あきひとさんである)、世界を股に、原発の売り込みにがんばっているのだ。

今、「原発事故を起こした日本だからこそ、その教訓を繰り入れた新たな原子力発電技術を開発しよう!」という意見がある。

すごい!

前向きだ!

偉い!

おいらのように、常に後ろ向きで、再-感受(ルサンチマン)に淫しているヤカラとは違うのだ。

ジコジコ、パパヤー~~~

やはり、 似た者同士、やることも同じなのだ。 愚記事: 日支は、糾える縄の如し

  

そして、問題は、似た者同士・東アジア、内ゲバ問題だ。

~♪~ ゲバゲバ、パパヤー~~~ ~♪~

▼ まとめ

~~~ !


野暮なネタ解説;

「老人と子供のポルカ」(ろうじんとこどものポルカ)は、左卜全とひまわりキティーズの歌唱による日本の楽曲である。

 http://www.youtube.com/watch?v=z50cLrjj3Io

 

 


回顧;北京2005年、あぁ、あれは清朝残滓だったんだなぁ。 西蔵僧-毛肖像画像に至るまで

2013年10月13日 08時56分15秒 | 中国出張/遊興/中国事情

 

 2005年に北京に行った(中国出張① 北京に着いた )。当時は当然ながら北京という街の概略を全く理解していなかた。それを東京にたとえなるなら池袋と渋谷と新宿の東京での位置関係を知らないようなものだ。事実15年前、おいらが、始めて筑波山麓に来たときの東京についての理解だ。最近は東京の地理感は少しは高まった。一方、最近、旅行ガイドや本で北京の街の概略と、さらに由来を知った。

 2005年の当時は地下鉄が3線しかなかった、1号線、13号線、八通線だ。おいらが泊まった宿は都の西北にあった。今北京の街の概略を知ってみれば、北京の西北部は北京大学、精華大学、人民大学など有名大学が多い、いわゆる文教地域なのだ。もっとも、文教地域なのであの時期には紅衛兵が誕生し、跋扈した。


  -2005年の北京―

 夕方宿のまわりを歩いた。陽がすっかり暮れたあとで、街角に目立つ黄色の灯り。羊肉の字が見えた。店の前には数人の人がいた。よく見ると、焼きながら売っているのだ。1本買った。印象的だったのは、七味唐辛子みたいものをたくさんかけて、串をわたしてくれたこと。普通の日本人なら羊の肉を珍しがったかもしれない。日本の日常で羊の肉を食べることはめったにない。ただし、この中国に来た前の日もおいらはつくばで羊の肉を食べた。ジンギスカンだ。この頃、つまり2005年頃、今となっては忘れ去られてしまったようだが、ジンギスカンブームというのが起きた。事実、つくばの西大通りの洞峰公園あたりには数件のジンギスカン屋が出現した。

  一方、村上春樹の『羊をめぐる冒険』にもあるように、近代より前の日本には羊はいなかった。だから、ふつうの日本人は羊の肉には縁がうすい。しかし、おいらは子供の頃から羊の肉を食べていた。なぜなら、おいらは道産子だからだ。ジンギスカンは北海道でふつうである。でも、北京ではふつうであるとは気づきもしなかった。

 北京は元々元の都で、明を経て、清朝の都になった。元はモンゴル人の国だし、清朝も北方の女真族の系統の満州人だ。彼らは放牧民族の系譜を持ち、羊を飼い、食べていたのだ。

 2005年当時、おいらは、北京は清朝の都であり、羊の肉売りは典型的清朝の伝統的残滓だと気付かなかったのだ。

西蔵僧

 北京で行った場所は少ない。おいらが選んだのは孔子廟だ。今思えば、回族、満州族、そして漢人などを束ねていた清朝帝国のうち、漢人文明しか目に入っていなかった。

中国=漢人→共産党の都というステレオタイプだ。がきんちょの頃、戦場のメリークリスマスはみなかったけど、ラストエンペラーは見たのに。2005年当時、紫禁城=故宮にも特に興味はなかった。むしろ、興味があったのは孔子廟。文化大革命で打ち壊されて、廃墟にでもなっているかと思った。違った。確かめた。すなわち、文化大革命で破壊されて廃墟になっているのではないかと思っていた。行ったょ。普通にあった。その時の訪問記はこれ⇒ 愚記事: 中国⑬ 孔子廟

 なお、当時は前述のとおり北京には地下鉄が少なく、宿からそこそこ歩いて大鍾寺駅に行き、西直門で2号線で乗り換えて行った。今では、おいらがこの時泊まった宿の通りには地下鉄が走っている。

 北京を歩いて、結局故宮に行った。ただし、北門から。現在では故宮の見物は一方通行らしい。すなわち、南門からのみ入ることができて、北門に抜けるのだ。北門から入ったおいらは南門へ向かった。今から思えば あたりで 西蔵僧の集団をみた。びっくりした。まさか、北京でチベット僧がいるとはおもわなかった。チベット人ならともかく、法衣を着たお坊さんの集団だ。「中国共産党はチベット仏教を弾圧している」はずなので、驚いたのだ。

 北京で西蔵僧に会うとは思ってもみなかったおいらは、その前年に行ったインドのデリーにおいては、意識的に西蔵僧をみに行った。次のダライラマはインドに亡命している。もちろん、中国共産党に襲われたチベットからインドに逃げたのだ。そして、デリーにはチベタン街があるのだ。愚記事; デリーのチベタン街

 こういう背景があったので、北京で西蔵僧を見て、びっくりした。でも、そういえば、次のダライラマは「ふたり」いて、中共が認めているダライラマがいるんだよな、と思いついた。そうなのだ、ここ北京にきている西蔵僧グループはチベタン中共派なのだとわかった。

 しばらく観察していた。まず驚いたのは毛沢東の肖像入りの冊子をもっている。ここで、彼らはチベタン中共派と確信した。そして、2013年の今となってわかったのだが、この冊子は「毛沢東紀念堂」のパンフレットなのだ。「毛沢東紀念堂」とは、毛沢東の遺体が「展示」されていて、人民がその"ミイラ"
に謁見できる場所だ。そこに行ったらしい。

出口前;


- 「毛沢東紀念堂」のパンフを手にする西蔵僧 -

そして、天安門

 かれらは、ずいぶんそこにいた。なかなか先へ行こうとする気配がなかった。西蔵僧の観察も十分かなと思ったおいらは先へ進んだ。出口だ。門をくぐれば、出られるらしいとわかった。その門をくぐった。門をくぐっているときに、門をくぐれば広場で、そこは外なんだとわかった。門からは直立した門衛が目立った。その直立した門衛の横を通りすぎた時、振り返った。

 

あー、ここが天安門なんだ!とわかった。

がきんちょの頃、康煕字典も知らないのに"書物に傍点をほどこしてはこの世を理解して行こうとし"ていた時、写真でみていたあの天安門なのだ。

   

 そして、気づいた。さっきの西蔵僧グループももうすぐここから出てくるだろう。マオさんの肖像とともに写真を撮ろうとおもいつたのだ。しばらく待った。そして、来た。 その時とった画像がこれなのだ;


  ―2005年-

2005年のおいらは、清朝皇帝がチベット仏教の「檀家」だって知らなかった。北京の西蔵僧は清朝残滓だったのだ。


 


ぶどうの木再生日記;第30週目

2013年10月12日 06時17分56秒 | 草花野菜

■ 今週のお花;

▼ 今週のニュース: パートタイム主婦@小梨

 
―パートタイマーさん「御出仕」 google―  家でごろごろなんて言わせない!

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