いか@ 筑豊境 寓 『看猫録』

Across a Death Valley with my own Distilled Resentment

筑紫洲 (つくしのしま) でもぶどう記録;第39週

2024年12月21日 18時00分00秒 | 筑紫洲 (つくしのしま)

▲ 今週のみけちゃん
▼ 筑紫洲 (つくしのしま) でもぶどう記録;第39週

■ 今週のよその猫

■ 今週の草木花実

■ 今週の鬼

鬼柚子(おにゆず)は、獅子柚子(ししゆず)とも呼ばれ、文旦の亜種に属する柑橘類です。主に九州地方で栽培されており、濃厚な香りが特徴です。google

■ 今週の丼

りゅうきゅう丼

りゅうきゅうは、大分県を代表する郷土料理で、アジやサバ、ブリ、カンパチなどの魚の切り身を醤油、酒、みりん、ごま、しょうがなどで作ったタレに漬け込んだ料理です。薬味にはネギやワサビが添えられることが多く、酒の肴や丼飯に載せて食べられます。google

■ 今週の泉都
 
別府市 鉄輪(かんなわ)温泉
 
■ 今週の田園に架ける
 
 
■ 今週の郷土料理:やせうま
 
 
やせうま:やせうまは、大分県を代表する郷土料理で、小麦粉を練ってひも状にのばし、ゆでた後にきな粉や砂糖をまぶして食べるおやつです。google
 
■ 今週のオブジェ
 
 
ぶんぶん童子:「ぶんぶん童子」は奈良のせんとくんをデザインした薮内佐斗司氏が制作した作品です大分駅のキモかわオブジェ !改札口にある昆虫のせんとくん【大分市】
 
■ 今週の展示
 
 
 
大分県立美術館
 
■ 今週のレコンキスタ史跡探訪(現、別府公園)
 

元は1907年(明治40年)10月に完成した公園である。現在の公園の南側一帯が、当時の別府公園であり、現在の市営テニスコートや元・青山幼稚園などに位置していた。完成直後の11月7日には皇太子時代の大正天皇が巡幸している[2]。1928年(昭和3年)の中外産業博覧会、1937年(昭和12年)の別府国際温泉観光大博覧会は、いずれも別府公園を主会場として開催された。

しかし、第二次世界大戦後に接収されて駐留米軍のキャンプ(キャンプ・チッカマウガ。チッカマウガはチカマウガ戦争で知られるインディアンの呼称。)となり、1957年(昭和32年)に日本に返還された後も、引き続き陸上自衛隊別府駐屯地として使用された。wiki

 
 
 
 
さて、このツリーは「正の遺産」なのか?、「負の遺産」なのか? どちらなのだろう?
 
 
別府公園
 
下の地図での「下士官宿舎」、「将校宿舎」の方面
 
 
■ 今週の気づき:進駐軍はお熱いのがお嫌い?(Some dislike it hot?)
 
 
1922年7月より研究所本館の建設工事が始まり、翌1923年12月竣工、明けて1924年1月26日より別府地域の予備調査と事務が開始されました。日本での地球科学的温泉研究のあゆみ(5)
 
1923年にできたこの京大の附属研究所の建物は、敗戦時にもあった。つまり、米占領軍が別府に進駐して来たとき、あった。でも接収されなかった(ようだ)。事実当時の地図を見ると京大施設ととなりの建物(現市立美術館、当時おそらく旧制中学?)は接収されていないようだ。なお、上のキャンプ・チッカマウガのポンチ絵地図はその部分は不正確である。
 
つまり、現京大熱学研究所は米軍に接収されなかった。これは、北大の低温研が進駐軍に接収されたことと対照的である。愚記事:敗戦後、1946年、札幌に進駐した米陸軍、第11空挺師団の演習場所:札幌飛行場、羊ヶ丘、あるいは、接収された北大。北大の低温研を接収し駐屯した米軍部隊のひとつが米陸軍第187空挺歩兵連隊(第11空挺師団)である。朝鮮戦争前に米国に帰り、朝鮮戦争後に別府に進駐/「帰還」した。進駐/「帰還」先がキャンプ・チッカマウガ。米陸軍第187空挺歩兵連隊は低温研は接収したが、熱学研は接収しなかったのだ。進駐軍はお熱いのが嫌い?
 
北大低温研。
 
敗戦で北海道大学(北大)は接収されたのだ。あんまり、知らなかった。はっきりした資料があった。北大の低温研は敗戦後、1945年10月3日に接収された。「48時間以内に出ていけ」と通告されたのだという。低温研の所長はあの中谷宇吉郎 [wiki]だ。愚記事
 
■ 今週の訃報
 
渡辺恒雄死去(google
 
愚記事:「代々木の隠しだま
 
ネット情報によると、歴代内閣の官房長官は月に一度、渡辺恒雄に政情説明を読売新聞本社に出向き、実施していたとのこと。渡辺恒雄のマスコミと政治の癒着は周知であるのに読売新聞以外のメディアは何も批判しなかった。これは日本にjournalismがないことの証左である。渡辺恒雄もジャニー喜多川もマスコミのだんまりで安泰として死を迎えた。
 
強烈な体験がその後の一生を決めてしまうのは起こりうることである。同情するしかない。渡辺恒雄は東大生として兵役に従事し、受難したことが、その後の渡辺恒雄をつくったのは有名な話だ。「軍国日本」を呪詛することとなる。インテリさまの自尊心を踏みにじって [1]、かつ、生かして返すと、後でとんでもない復讐を受けるよい例だ。戦後はこういう「傷つけられた自尊心(自己愛!)」をもつインテリさまたちが「日本」に復讐をし続けた時代であった。
 
[1] どっかで読んだ気がするのだが、東大のナベツネを殴ったのは早大の兵隊であったと。フミオか!
 
この渡辺恒雄に代表される兵役経験による受難を受けた人を参照として見るべき人は、渡辺恒雄より1歳年上の三島由紀夫である。もし、三島由紀夫が兵隊に行ってたら、三島のその後はどうなったであろう?
 
この人たち↓は、三島事件について、「あいつは戦争を知らないんだよ」と了解していたのだろう。
 
世代の昭和史 「戦争要員世代」と「少国民世代」からの告発

■ 今週のキリ番
  ブログ開設から7474日
 

筑紫洲 (つくしのしま) でもぶどう記録;第38週

2024年12月14日 18時00分00秒 | 筑紫洲 (つくしのしま)

▲ 今週のみけちゃん
▼ 筑紫洲 (つくしのしま) でもぶどう記録;第38週

■ 今週のよその猫

■ 今週の筑豊境

■ 今週の草木花実葉

■ 今週の黒酢

百菜 白身魚の黒酢炒め定食 (web site)

昔、グルーポン おせち騒動(google)というのがあった。wiki [スカスカおせち事件]。この「白身魚の黒酢炒め定食」でも、同様の事象が生じていたらしい ⇒ しかし、何か変だ。ホント、変だよ。騙されたのだよ。

■ 今週知ったパンの種類:クッペ

お米が高いので、パンの購入を強いられている。割引のパンを買う。

クッペ(coupé)はフランス語で「切られた」という意味で、中央に1本のクープ(切れ目)が入ったハード系のパンです。バゲットと同じ生地を使い、ラグビーボール型に成形して作られます。食べきりやすい大きさで、バターをのせて焼き上げます。google

どうやら、コッペパンと関係があるらしい。
 
■ 今週の「品質の劣る」もの、あるいは、没落「武士」のおコメ事情
 
関東(筑波山麓、横浜)にいたころは、ある農家からお米を、 おいらがお武家さま然としているからか、献上してもらっています  40歳すぎて非正規労働者なので恵んでもらっています、という状況だった。しかしながら、つくしのしまに来てからは、運送費が高いので、お米を恵んでもらう境遇から「没落」した。座食の停止。
 
 
お米が高い。ももたろう印の生活支援米を贖う。銘柄米と比べ、品質の劣るブレンド米だ。(Amazon
    • 規格外・未検査米といった低品質米を原料として使用しています。
    • 白いお米や小粒なお米、割れたお米、発育不良によるヤケ(黒い部分)が入っています。
    • 銘柄米と比べ、品質の劣るブレンド米です。
    • 品質にこだわりのあるお客様のご購入はお控えください。

■ 今週の「後見人」


https://x.com/mikishidaimon/status/1857035142046376026

↑ アカの方ではなく、 ↓この方です

愚記事より 山東昭子

■ 今週のお城、しかも、鳥瞰、小倉城

後述の博物餡から撮影

■ 今週の博物館:ゼンリンミュージアム(北九州市小倉)

ゼンリンミュージアム web site 

cocura:小倉、Cecugen:筑前、Bugen:豊前、Figen:肥前、Nagoya:名護屋。「十字」はキリスト教領ということか?

■ 今週知ったこと:1826年から認識、上記ゼンリンミュージアムにて

愚ブログでは札幌郊外にあった米軍基地キャンプ・クロフォードについて書いている。これだ↓

この地は現在、陸上自衛隊真駒内駐屯地である。真駒内というのは地名だ。元来、アイヌ語。その真駒内=マコマナイは1826年(文政9年)の和人の地図(高橋景保「蝦夷図」)で認識されている(地図の左下)。真駒内以外、琴似、当別、豊平(トイピラ)などが認めらる。

■ 今週気づいたこと、あるいは、米陸軍第187空挺グライダー歩兵連隊の履歴

2020年の3月末、すなわち、コロナの流行が始まった頃、おいらは、187GLI、第187空挺グライダー歩兵連隊を認識した。おいらが生まれた札幌に進駐してきた米軍部隊を調べた結果だ。その米軍の部隊名は187GLIという記号の情報だけがわかった。半日かけて、ネットで、187th Glider Infantry Regimentとやっとわかった。wikiedia: 第187歩兵連隊(アメリカ)。第187歩兵連隊は第11空挺師団の配下の部隊。


記号の横の文字は、187GLI、CAMP SEIENBERG。187GLIは、第187空挺グライダー歩兵連隊。CAMP SEIENBERGは札幌の月寒(ツキサップ)基地(愚基地:Camp Seidenberg Sapporo Japan, キャンプ シーデンバーグ 月寒 札幌)。

さて、第187歩兵連隊について、おいらが自覚的に認識した2020年3月末より以前に、愚ブログで紹介していると今週気がついた。新しい街でもぶどう記録;第194週 2018年07月28日 における「今週のどさくさ」に第187歩兵連隊の朝鮮戦争からの大分県別府への「帰還」に言及している。リンクした動画が下記だ;


「歓迎 187落下傘部隊 朝鮮からの帰還  別府市」

1953年の別府駅。朝鮮から日本に「帰還」し、別府の米軍基地に入る第187空挺歩兵連隊。

星条旗と日の丸と紙吹雪と大勢の日本人/別府市民に迎えられる第187空挺歩兵連隊兵士。
歓迎する温泉業?のおじさんたち ↓

この動画はプロパガンダ動画であり、前半では朝鮮戦争後の米軍の日本進駐の様子を映している。多くの日本人が歓迎している。もちろん、これは日米共同の歓迎組織がお膳立てしたのであろう。一方、動画の後半では敗戦直後(1945年)の占領軍の進駐の様子が移されていて、8年の歳月を経ての変化を示すことが、この動画の製作者の意図だ。米軍の占領で日本はこんなに米軍に友好的になりましたと。さて、後半の敗戦直後の様子で空襲による瓦礫の街が映るのだが、この光景は前半の別府の街とは違う街のはずだ。なぜなら、別府は空襲に遭わなかったからだ。今週知った。

■ 来週のレコンキスタ史跡探訪(現、別府公園)、あるいは、B-29が来なかった街

ということで、来週、別府の米軍基地のお参りに行くことにした。米軍基地の名はキャンプ・チッカマウガ。現在の別府公園とその周辺。


中学校 学習資料 ソース

映像がある(YouTubeにはない):昭和館デジタルアーカイブ キャンプ・チッカマウガ(野口原)別府、日本  米軍が進駐した大分県別府市を撮影した映像。米軍キャンプ内の様子や別府市内を観光する米軍兵士の様子が記録されている。

 


筑紫洲 (つくしのしま) でもぶどう記録;第37週

2024年12月07日 18時00分01秒 | 筑紫洲 (つくしのしま)

▲ 今週のみけちゃん
▼ 筑紫洲 (つくしのしま) でもぶどう記録;第37週

■ 今週のよその猫

■ 今週の筑豊境

■ 今週のメタセコイア

■ 今週の実

■ 今週の道産品含有品

北海道練乳ホワイト4個入り(フランソワ)。練乳クリームが甘い。

■ 今週の道産品2、かつ、半額

朝いか沖漬 北海道函館産イカ沖漬 (google) (楽天市場)(Amazon)。ようは塩辛なのだ。しょっぱい。醤油が甘い九州の人の口に合うのだろうか?

■ 今週出て来た旅の思い出

本ブログを始める前だと思う。2003年頃か?入場番号が179348とある。2008年のある人のweb site で見える入場番号は578380。年間約10万人の来訪者がこの頃(2003-2008年)にあったらしい。 泉涌寺公式 web site

■ 今週のモフ⇒モフ(MOF)

国民民主党は、女性との不倫関係を報じられた玉木代表を役職停止3か月とすることを決めました。
そして、期間中は、古川代表代行が、代表の職務を担うことになりました。(google)

  ⇒ 

ふたりともMOF (Ministry of Finance)。

■ 今週の来週公開物件のお知らせ:荻窪の「荻外荘」が復原、一般公開へ

愚記事より

今年3月、まだ公開前の工事中であることを知りながら、関東を去るので、「荻外荘」を見に行った。来週、公開されるのだ。 Google(荻外荘一般公開


Time Out Tokyo Editors(写真 Genya Aoki様)
この部屋だ↓。上下の写真をよく見ると、屏風の絵柄が似てる。よく照合すると違う気もする。

 愚記事より


■ 今週の訃報、あるいは、昭和の成仏のために

中山美穂って昭和なんだよね。 この頃からおフランスだったらしい。 でも、英語。

再生できないらしい。直接どうぞ:https://www.youtube.com/watch?v=qqRFicWlRLE

■ 今週の謎;なぜ、<奴ら>はおいらの立ち回り先に居るのか?

おいらはガキンチョの頃、キチ〇イの症例集を読むのが好きだった。その中でしばしばあるのが、「CIAに追われている!」という患者さんの証言だ。

今週のおいらだが、米陸軍第187空挺グライダー歩兵連隊(187th Infantry Regiment (United States))に追われているのだ。

まずは、<奴ら>米陸軍第187空挺グライダー歩兵連隊がおいらが生まれた札幌にきた。おいらが生まれる約20年前だ。その時の写真だ。昭和21年早春、札幌は北一条通りを示唆的行軍(パレード)をしたのだ。この時、おいらのとうちゃん8歳。沿道に写るがきんちょたちの中にいることは否定できない。下記画像の「札幌神社」は現在の北海道神宮のことでこの時まだ神宮ではなかったのだ。さらに、<奴ら>の旗はstars and stripesというらしいが、stripesしか写っていない。<奴ら>米陸軍第187空挺グライダー歩兵連隊はこの「ベレー帽」 ギャリソンキャップが好きらしい。


愚記事より

<奴ら>が札幌に来る前に、<奴ら>は、おいらが大学時代を過ごした仙台にいた。おいらが仙台にたどり着く約40年前だ。やはり、ギャリソンキャップをかぶっている。

 愚記事より

そもそも<奴ら>は最初に「厚木」に来た。ギャリソンキャップはかぶっていない。何より、敵陣への第一陣なのだから完全武装である。ミズーリ号での調印式の数日前だ。もっとも<奴ら>の記録では日本軍が整然と降伏したことに驚いている。子猿を抱いて平然と着陸できたのだ。今から思えば、お得意のギャリソンキャップで十分だったのだ。

 愚記事:マッカーサーと一緒に「厚木」に来たこの子猿はどこへ行った?

この子猿を抱いた兵士は第11空挺師団の所属であるが、第11空挺師団の配下である第187空挺グライダー歩兵連隊の所属かは、断定できない。ただし、記録では「厚木」に第一に降り立ったのは第187、188空挺グライダー歩兵連隊である。

第 11 空挺師団は、1943 年 2 月 25 日にノースカロライナ州キャンプ マッコールでジョセフ M. スウィング少将の指揮の下、正式に活動を開始しました。最初の戦闘編成には、第 511 空挺歩兵連隊、第 187 および第 188 グライダー歩兵連隊、第 457 空挺野戦砲兵大隊、第 674 および第 675 グライダー野戦砲兵大隊が含まれていました (ソース

「厚木」から横浜に進駐した。


横浜での第11空挺師団の配下、第187空挺グライダー歩兵連隊(ソース

さて、<奴ら>米陸軍第187空挺グライダー歩兵連隊の行方であるが、上記愚記事で追った。「厚木」➡横浜➡仙台➡札幌だと知っていた。

記号の横の文字は、187GLI、CAMP SEIENBERG。187GLIは、第187空挺グライダー歩兵連隊。CAMP SEIENBERGは札幌の月寒(ツキサップ)基地(愚基地:Camp Seidenberg Sapporo Japan, キャンプ シーデンバーグ 月寒 札幌)。上記、1946年の札幌進駐の時、キャンプ・クロフォードはなかった。月寒(ツキサップ)に駐屯した。日本陸軍の月寒陸軍官舎を彼らはキャンプ・シーデンバーグと名付けた。キャンプ・クロフォードをつくったのは第11空挺団のスイング少将だ。


札幌キャンプ・クロフォードでの第187空挺グライダー歩兵連隊 (同ソース)


札幌キャンプ・クロフォード、鳥瞰写真 (愚記事

最後は札幌から米本国に帰国した。それで、<奴ら>は日本から去ったとおいらは考えていた。<奴ら>の歴史に書いてある;

第 11 空挺師団はその後、戦後の日本占領軍の先鋒として沖縄に再配置され、1949 年 5 月まで日本に留まり、その後ケンタッキー州フォート キャンベルに移転しました。ソース

その前提で、最近、おいらが驚いたことは記事にした:子猿をめぐる冒険 :米陸軍第11空挺師団の再興2022と再来;They shall return, again since 1947。つまり、<奴ら>は、2022年に再興し、再来日したのだ。

しかしながら、誤解があった。1948年に米本国(ケンタッキー州フォート キャンベル [下記])に帰国した<奴ら>米陸軍第187空挺グライダー歩兵連隊は、朝鮮戦争勃発で、再来日していたのだ。(おいらが生まれた)札幌から米本国に帰った<奴ら>は、(おいらが今住んでいる市のとなり町である)福岡県芦屋町の航空基地に帰ってきたのだ。

1950 年、第 187 グラ​​イダー歩兵連隊と第 674 空挺野戦砲兵大隊は第 187 連隊戦闘団に編成替えされました。同団は 2 年間にわたり朝鮮戦争で戦い、2 回のパラシュート降下攻撃を実施しました。ソース

1950年に朝鮮戦争が勃発し、米本国から日本に再来したのだ。

(From Fort Campbell) Fourteen trains were used in the move. Train number one, carrying the advance party, departed at 0001 hours, 1 September 1950, destination, Fort Lawton, Washington. Transferring to airlift, the party flew to Ashyia Air Force Base, Kyushu, Japan, via Anchorage, Shemya and
Tokyo.ソース) ↓ 訳

(ケンタッキー州のフォルト・キャンベルから)移動には14両の列車が使用された。 先遣隊を運ぶ1番列車は、1950年9月1日午前0時01分に(フォルト・キャンベル)を出発、目的地はワシントン州フォート・ロートン。航空機に乗り換えて一行は、アンカレッジ、シェミア(アリューシャン列島の島)、東京を経由して、九州の芦屋空軍基地へ飛んだ。

何だ!先日おいらが散歩した芦屋に来ていたのだ(福岡県散歩:遠賀郡芦屋町、JR遠賀駅⇒ 航空自衛隊芦屋基地 /Ashiya Air Base、米軍ハウス、イカ丼、遠賀川河口)。

なぜ<奴ら>はおいらの立ち回り先に居るのか?


朝鮮戦争の時の米陸軍第187空挺グライダー歩兵連隊 (同上ソース

いや、まて。「厚木」、横浜、仙台、札幌、芦屋にいたのは、70年も前のことだ。そうなのだ。おいらが、<奴ら>米陸軍第187空挺グライダー歩兵連隊を追っているのだ。

ストーカーよばわりされないように、気をつけよう。

■ 今週の購書(九州に来て2冊目)

現代思想2001年7月臨時増刊号 総特集=戦後東アジアとアメリカの存在 -〈ポストコロニアル〉状況を東アジアで考える- (青土社


福岡県散歩:遠賀郡芦屋町、JR遠賀駅⇒ 航空自衛隊芦屋基地 /Ashiya Air Base、米軍ハウス、イカ丼、遠賀川河口

2024年12月05日 05時41分05秒 | 筑紫洲 (つくしのしま)

福岡県遠賀(おんが)郡遠賀町と芦屋町を散歩した。芦屋町には現在航空自衛隊の芦屋航空基地がある。この芦屋基地は元は旧軍(陸軍)の航空基地。終戦後から米軍に接収され朝鮮戦争時は日本で最大級の米軍出撃基地だった。主に輸送基地。のべ300万人の米兵を朝鮮戦争の舞台の半島に送り、迎えたとある。日本人従業員が1万人を越えた時期もある。

さて、朝鮮戦争の出撃基地、すなわち朝鮮への出撃基地という観点から見ると、先日行った名護屋と同じ目的で栄えた街といえる。ところで、朝鮮戦争で、芦屋と並んで、重要な米軍基地を下の地図で記す。雁ノ巣、板付(関連愚記事)、築城。いづれも米空軍基地。もちろん、米海軍の佐世保もある。

JR遠賀川駅から海の方へ向かう散歩。


1.JR遠賀川駅、2.若松付近、3.堂塔寺、4.浜口町:米軍ハウス、5.航空自衛隊蘆屋基地、6.味処 大丸7.西浜町・河口付近、8.芦屋海浜公園

■ 1.JR遠賀川駅

■ ⇒ 2.若松付近

■ 2.若松付近

■ ⇒ 3.堂塔寺

きれいな工場↓、そうでない工場↑

■ 3.堂塔寺

永禄(西暦1558-1570)年間、この地は薬師山(現堂塔山)とも呼ばれ、おそらくは薬師如来を本尊として、一堂をなす寺であったが、その昔、大友宗麟の兵火により廃絶されしも、弘法大師のお告げを受け、住職、川端亮貞尼により、昭和三十八年八月、中興され、現在に至っております。九州二十四地蔵尊霊場巡り web site

■ ⇒ 4.浜口町:米軍ハウス


遠賀川(wikipedia)

■ 4.浜口町:米軍ハウス

見つけた。実はこの散歩そんなに占領軍(進駐軍)/米軍の遺構を期待していなかった。もっというと、期待していないということも意識していなかった。ただ、航空自衛隊芦屋基地は元米軍基地ということのみ。散歩から帰ってしたべると、そもそも米空軍芦屋基地は軍需貨物の航空基地としては日本最大と知る。意識しないで、航空自衛隊芦屋基地に向かうと、見つけた。これは、米軍ハウスの残棟ではないか!。米軍ハウスには以前から興味がある(関連愚記事)。

▼ 上航空写真の「2」

1棟見つけたので、周辺を歩くと、ザクザクみつかった。

▼ 上航空写真の「2」

きれいに改装して洒落た店となっている。典型的な米軍ハウスの再利用方法だ。その場でスマホでググルと、果たして、【芦屋町浜口町】米軍住宅リノベーションのカフェで、ビーフロコモコ!とあった(食べログ)。

▼ 上航空写真の「3」

 

航空写真で見ると、赤矢印の幅をもった境界が基地の外壁。左が基地内。基地内にも住宅らしき建物が見える。おそらく、基地内だけでは住宅が足りずに、基地外にも米軍ハウスを建てたのだろう。

■ ⇒ 5.航空自衛隊蘆屋基地

▼ 米軍基地としての芦屋飛行場:Ashiya Air Base の日本語の情報は少ない。写真も少ない。

「九州ジプシー」という日本語をググると、出てこない。むしろ出てくるのは、ジプシー・ローズ。この有名なストリッパーは福岡県大牟田の出身。だから九州ジプシーでヒットしたのだろう。

九州ジプシーとは朝鮮戦争勃発で米空軍が急遽編成した航空輸送部隊。

1950 年に朝鮮戦争が勃発すると、米国極東空軍は陸軍を支援するために航空貨物資産の編成を急いだ。これらの資産の中でも特に重要だったのが、戦場から負傷兵を避難させるための航空機だった。これらの航空機は、整備されていない荒れた韓国の飛行場から離陸し、乗客を日本海を越えて日本最南端の島、九州まで運んだ。米軍はここで高度な医療施設を維持していた。
 
アメリカ製のダグラス C-47 ダコタ (別名「グーニーバード」) は、その数の多さから、この空輸活動の主力機となった。日本各地から C-47 が集められ、臨時飛行隊「九州ジプシー」が編成された。この名前は、飛行隊の当初の作戦基地が日本列島最南端にあったことを反映している。(ソース)
九州から朝鮮半島を任務のため転戦したらしい。転戦したひとつの根拠地が芦屋基地。

▼ 米軍時代の芦屋基地について、ひとつだけ日本人によるYouTubeがあった;


芦屋基地で撮影された米軍のC-119(1955年)(リンク)

第314輸送隊の歴史:パイロットで第314輸送機群司令官のリチャード・W・ヘンダーソン大佐は、このC-119「ルオード​​ラ」が日本の芦屋基地から朝鮮半島に向けて離陸の準備をしているときに、操縦席から副操縦士のジャック・B・ロビンス中尉と航空技術者のオーティス・D・グラハム軍曹に合図を送っている。ソース

▼ 芦屋基地で勤務していた米兵の証言

サービスまたは関係: 空軍退役軍人

コメント: 私たちは、ニューヨーク出身のドナルド・ニグローニ空軍兵という友人を失ったとき、大切な楽しい思い出と悲しい思い出を共有しました。
私たちの飛行隊は家族のように仲が良く、団結していました。私たちはチームであり、九州ジプシーと呼ばれることを誇りに思っていました。
私たちの主な目的は、陸軍を降ろし、航空機で避難させ、負傷した兵士や死亡した兵士を日本に連れ戻すことでした。

キーワード: 1952年から1955年まで、芦屋でC-47、後にC-119ボックスカーの整備に従事
。その期間中、クルーチーフとしてK-18とK-16に飛行。
仲間の名前は、芦屋の整備施設でフットボールをしていたジョン・ジョンソン、
幼少期にジョージアで育ったオハイオ州出身のヒルダーブランとヘイズ、整備に携わっていたサム・モスなど。 (引用元

■ ⇒ 味処 大丸

■ 6.味処 大丸

アオリイカでした。(歯ごたえのある食感ではなく)まったり系の肉感。

■ ⇒ 7.西浜町・河口付近

岡湊神社

「岡湊」は「おかのみなと」と読み、「日本書紀」には「崗之水門」として登場する芦屋の大変古い呼称です。実に1800年の歴史を誇り、「古事記」にもその記載があります。御祭神は「日本書紀」に記されている「大倉主命」と「菟夫羅媛命」のほかに、相殿として「天照皇大御神」「神武天皇」「素盞雄命」とが祭られています。(芦屋町観光協会 web site)

■ 遠賀川河口付近

↑河口を向く  ↓上流を向く

■ ⇒ 8.芦屋海浜公園

町の北側、響灘に隣接した広い芝生広場と眺めの良さが自慢の総合公園です。芝生広場「わんぱーく」には大きなコンビネーション遊具やベンチ、テーブルも設置しています。また、海とも隣接しているため浜辺でも遊ぶことができ、夏は多くの人で賑わいます。芦屋町 web site

■ ⇒ 芦屋町役場へ

白浜町。基地傍の街。米軍ハウス? 1960年代の航空写真お見るとこの家屋はその頃にはある。


芦屋町役場。

ここからバスに乗り、JR折尾駅へ向かった。

■ まとめ 通過街

福岡県遠賀郡
遠賀町
遠賀川、松の本、鬼津、若松

芦屋町
芦屋、浜口町、正門町、高浜町、船頭町、西浜町、白浜町、幸町


筑紫洲 (つくしのしま) でもぶどう記録;第36週

2024年11月30日 18時00分00秒 | 筑紫洲 (つくしのしま)

▲ 今週のみけちゃん
▼ 筑紫洲 (つくしのしま) でもぶどう記録;第36週

■ 今週のよその猫

■ 今週の筑豊境

■ 今週の草木花実

■ 今週の訳あり

70玉(小玉)、10kg、3,400円。

竹城青果(楽天市場 site

■ 今週の訳ありりんごが運んでくれた山形情報:芋煮は女の仕事か

 6月に放送されたNHKのクローズアップ現代で、山形出身という女性が「東京が令和だったら、地方は江戸時代」と話したことに衝撃を受けている。

■ 今週の久しぶりに食べた

「オムライス(ビーフシチューソース)」(ガスト) この商品、相当以前からあると思う。ネットで見たら、販売休止していたが復活したとのこと。

■ 今週の丼

福岡県の北九州市の西に遠賀川というのが南北に流れていて日本海へ注いでいる。その河口の街が芦屋町。あの神戸の芦屋と同じ字ではあるが、違う街。海鮮丼の店が多いと知る。「九州でイカと来れば呼子ですな。 しかし、知名度は低いのですが「芦屋」のイカも相当ウマい」とネットにあった。行ってみた。

特盛イカ月見丼 味処 大丸、福岡県遠賀郡芦屋町高浜町 (食べログ

アオリイカ。出汁がかかっていて、このまま食べる。

■ 今週のアクセスページ

札幌に"北極熊"がいた頃;1948-1950
米陸軍・北極熊連隊はバターン死の行軍の残党. 1948年おらほの街に;第31歩兵連隊、キャンプ・クロフォードへ

■ 今週の空似

チャイナ出身の呉軍華という中国の政治・経済/日中関係/米中関係を専門とする研究員(出典)がいる。今週みたら、江青が「入っていて」、ぎょっとした。

 

今、改めて気づいたのだが、この呉さん、1983年の復旦大学卒業。ということは1979年入学組だ。チャイナで1979年入学組といえば、それまで文革で大学が閉鎖されていたのが再開された頃であり、それまで大学に入るの待っていた若者が入試に殺到した頃だ。この頃大学に入ったチャイニーズは、科挙の伝統をもつチャイナ史上にいても、最強の秀才たちだ。呉さんはそのひとりなのだ。

■ 今週のレコンキスタ史跡探訪

現・航空自衛隊芦屋基地


Google map

この芦屋基地は占領時代も Ashiya Air Baseと呼ばれた。占領時代、米陸軍の駐屯地(camp)はよく米軍名で呼ばれたが(キャンプ・ドレイク、とかキャンプ・マクギルとか、そして、キャンプ・クロフォードとか)、米空軍の英語名で呼ばれるのはJohnson基地くらいではないだろうか?あと、福岡はキャンプ・ハカタ(通称ブレディ・エア・ベース)。一方、横田、立川、板付などは日本語の地名をそのまま使っている。

さて、このAshiya Air Baseは朝鮮戦争の時、大盛況であったとのこと。朝鮮戦争が始まり、休戦協定が結ばれる3年間(1950-1953)に空輸された兵員は300万人、負傷兵は30万人、物資は70万トンと推定されるとのこと。さらにこの朝鮮半島への出撃基地え働いていた日本人従業員はピーク時には1万人を越えた(出典、”前方支援”の立場もあり得た日本の”後方支援”、佐々木隆爾 [wiki]、『歴史群像シリーズ 朝鮮戦争(下)』)。

ここで兵員300万人とある。これは延べ人数と思われる。朝鮮戦争での米軍出兵数は33万人(wiki)とある。米軍は日本での休養を行っていたので、その往復の人数も含まれているのだろう。

■ 今週の役瓦

瓦ぶきの家には必ず役瓦があるはずだ。この家の役瓦は「鬼」なのか、長年の風雨で丸まった元鬼なのか、そもそも鬼瓦ではなかったのか、わからない。下記、基地外ハウスに続く:

■ 今週の基地外ハウス

下の航空写真の「1」の建物。

立川の基地外ハウス ↓

愚記事(昭和記念公園2019、砂川口から出て基地外の米軍ハウス(維新もの)を見た)より

下の航空写真の「1」の建物。側面。


航空写真、左:1960年代、右:現在

上の航空写真の「2」の建物。公式 web site.  Google [米軍住宅リノベーションのカフェ ottimo]

上の航空写真の「3」の建物3件のうちの1件。3軒健在。

▼ その基地外性

航空写真で見ると、赤矢印の幅をもった境界が基地の外壁。左が基地内。基地内にも住宅らしき建物が見える。おそらく、基地内だけでは住宅が足りずに、基地外にも米軍ハウスを建てたのだろう。土地は基地外でも、一部、国有地を使ったと推定できる。米軍ハウス撤去後の土地えあろう↓。

 それまで(朝鮮戦争が始まるまで)は13しかなかった飲食店が、開戦から9月までの間に、「女」のいるハウスが400戸、キャバレーなどが24軒に増えた。
 それまでほとんどなかった貸間兼業農家が1951年には317戸にのぼり、新築家屋は50年に289戸、51年には106戸にもなり、建材が底をつくまでになった。基地がどれほど慰安婦を必要としたかを示している。(同上、佐々木隆爾)

■ 今週の訃報、あるいは、なつかしい本の話

 

訃報(google)。

猪口孝、『世界変動の見方』1994年。30年前の本だ。この頃「ちくま新書」が刊行され始めた。この本は4番目。なお1番目は今村仁司の『貨幣とは何だろうか』である。

さて、この本では1994年時点での今後の日米関係を予想した項でいくつか考えられうるシナリオを論じている。そのひとつが「アメリカの徹底的反日化」。

 アメリカの徹底的反日化自体はいまだにありうる選択肢である。とりわけ日本のバブル経済崩壊までは、アメリカの反日世論は急激に増大していた。バブル崩壊後は少しおさまっているかのようにもみえるが、対日不信感は基本的に引き潮になったとはみにくい。むしろアメリカ社会の内部矛盾が退潮にならない限り、そしてアメリカ経済の競争力低下に対して実効を挙げる政策がとられない限り、対日不信の感情はなかなか消滅はしないだろう。幸いアメリカ経済が復調しつつあり、技術革新でもはっきり活力を回復した様子である。したがって対日不信も沈静化しつつあるといえる。

失われた30年が始まった頃だ。その後、日米関係がよくなった、21世紀になってますますよくなったのは、日本が衰退したからだ。

この本のまえがきの最後に、「こいのぼりの歌をピアノを囲んで 四人で合唱しながら」とある。 哀しい話だ。

■ 今週返した本

■ 今週の「なぜ本を読むと貧乏になるのか?」

堀江貴文氏「京大なんか行くのバカ」、京大卒女性文芸評論家に

このYouTubeの19分頃。 文字起こし↓

堀江氏が「そんな経済状況悪いと思う?」と質問。三宅氏が「悪いと思いませんか?」と聞き返すと、堀江氏は「なんでなんで?」とさらに質問した。

三宅氏はそれに対し「私、京大出身なので、私の友達はけっこう割とエリートが多いんですけど、それでも“生活が厳しいから子供産むのやめとこうかな”と思ったりする人が多いです」などと答えた。

ホリエモンは京大行くのがバカというより、「私たち、京大出たエリートなんですけど、生活が苦しい」とこの京大出の文芸評論家・三宅香帆が答えたことに応答して、京大=エリート=生活が楽であるべきという考えを批判したもの。

この話の流れとして京大とか全然関係なく、ホリエモンは「若者の経済状態は悪いのですか?」と聞いた。もし、三宅香帆が本当の「エリート」ならば、大空幸星のように?、若者の中の苦境の人を「針小棒大」に挙証すればいいのだ。ところが、よりによってエリートの私たち京大卒が生活が苦しいならば、他は推して知るべし的な回答をしたこと。これにホリエモンは切れたのであろう。文芸評論家・三宅香帆、世間知らずだな。


筑紫洲 (つくしのしま) でもぶどう記録;第35週

2024年11月23日 18時37分51秒 | 筑紫洲 (つくしのしま)

▲ 今週のみけちゃん
▼ 筑紫洲 (つくしのしま) でもぶどう記録;第35週

■ 今週の筑豊境

■ 今週の花実

■ 今週の端役

巻物の端っこ。

たっぷり上穴子の 湯葉巻き:はま寿司
上穴子や野菜を湯葉で巻いた「たっぷり上穴子の湯葉巻き」 ↓広告画像

Yahoo知恵袋:「巻き寿司の端っこが好き」っていう人よくいますが、あれはどういう気持ちで言っているんでしょうか?

■ 今週のイカ

ヤリイカ:はま寿司

■ 今週のイタリア産、あるいは、手を変え塩を変え

シチリア産の塩使用。

表面のカリカリとした食感と生地のサックリとした食感のコントラストに、コクのあるキャラメルの味わいがマッチしている。シチリア産天日塩を加えることで、キャラメルの風味を引き立て、すっきりとした後味に仕上げた。

ブルボン、シチリア産天日塩を練り込んだ「塩キャラメルクッキー」発売

産地別塩シリーズ: スペイン産の塩。 淡路島の塩

■ 今週の a still life (静物画像)


訳あり洋梨

■ 今週の訳あり洋梨が運んでくれた山形情報

山形から来る訳あり洋梨は、新聞紙に守られ送られてくる。御丁寧に全国紙ではなく山形新聞を使ってくれる。過去の偉業は、訳あり面子が運んだ、本間さまの訃報である。今年も特ダネがないかな?と思い、丸まった緩衝材の新聞をほどき、延ばし、目を皿にして、読んだ。本間さま情報はなかったが、鮎子さま情報があった;

おいらが好きな日本語:緊急来酒。来酒とは山形県の酒田に来ることらしい。
おいらのイメージは酒場で強面の酔っ払いが「酒もってこい!」とくだをまき、慌てた店員が酒を持って来るといったもの。

 愚記事:東アジア太子党の時代より

さて、この前の総選挙で石破さんは緊急来酒してくれたのだろうか?(むしろ、迷惑だから断ったんだろうなぁ)

■ 今週の「豚のように幸福に熟睡

愚ブログの度重なるお題は、おいらがKOとアメリカが嫌いなことである。もちろんこれはおいらのねたみ・ひがみ根性に発したもので、こちらに原因があるのであって、KOさまやアメリカさまは、やはり、「王者(おうじゃ)」であらせられるに違いない。


愚記事より

さて、そんなおいらが幸せだ。KO出世襲議員の筆頭あった石破さんの「育ち」の悪さが露呈したからである。これは全く意外だった。全く、予想もしなかった。 KO出の世襲議員は、〇は悪いかもしれないが、あるいは鮎子さまの事例で明らかになったように我がままで気に入らないと権力を振るう傲慢なパワハラ議員だったりすることは、十分予想できた。つまり、〇や性格は悪いかもしれないが、まさか、育ちが悪いとは思われないであろう。ところが、こともあろうに、石破さんのものの食べ方。これはひどい。本当においらは驚いている。こんな育ちが悪いとは思わなかった。匹夫のおいらもこういう食べ方はしない。箸は持ててないし、茶碗に指をつこんでいる。さらには、この食事作法だけでなく、外国首脳との挨拶など日本人の社会人としても劣悪だ。

▼ 熟睡させてくれるKO2

■ 今週のアクセス

今日はつくば記念日;松竹梅のつくば戦後開拓集落について

何があったのだろうか?

■ 今週見つけた《奴ら》の中の《俺たち》、あるいは、1945.8.30,  Atsugi

フィリピンから子猿が来たこの日、この場所。これまで《奴ら》が写った画像しか見たことがことがなかったが、《俺たち》を見つけた。《奴ら》が撮ったのだ。ソース

白腕章は、受け入れ担当者の印。軍刀を握っているのが哀しい。

もちろん、この我らが敗残日本兵3人らが目の当たりにした光景はこれだ;

■ 今週気づいたビンゴと元キャンプ・クロフォード住民

 愚記事より

AC&W SQDN=Air Control and Warning Squadron。
848th Air Control and Warning Squadron(Google
北海道にもいたとある(リンク元)。 奥尻島の米軍施設

去年、横浜市内の駅のホームでスカジャンの絵柄からこの米空軍組織を知った。そして、今週、この組織に属していた人が、札幌郊外の米軍基地、キャンプ・クロフォードのハウジングエリアに住んでいたと知る。


848th Air Control and Warning Squadron/第848航空管制警戒飛行隊のネット掲示板 ソース

勤務地は「サイト45」とある。調べた。下記情報で、石狩当別がわかった;

どうやら、勤務地は当別だ。毎日、通ったのだろうか?


バルーン印の阿蘇岩山に米軍のレーダーサイトがあった。現在は空自が管理。地図中の青〇がキャンプ・クロフォード、赤丸がキャンプ・千歳。千歳は米空軍が1975年まで駐屯。昔、キャンプ・クロフォードから千歳基地まで米軍の毎日バスがあったとネットでみたことがある。バスの時刻表が載っていた。残念なことに保存するのを忘れてしまった。

航空自衛隊 第45警戒隊の沿革

■ 今週の訃報、あるいは、死蔵本を開く

阿川尚之さん死去 慶応大名誉教授、知米派として知られ駐米公使もgoogle

愚ブログを始めた年にすでに言及している:アメリカが嫌いですか 阿川尚之の著作のタイトル。おいらは読んだことがない。 その後、ブックオフかどこかで100円で買って、死蔵していた。今日、少し、読んだ。

 

阿川尚之が学部(ジョージタウン大学)時代を過ごした1970年代中頃は、今でいうラストベルトも錆はじめという段階か?この本はDC(インテリの街、政治都市)での生活といくばくかの旅行が書かれていて、のちのトランプ支持者となる「21世紀初頭の普通のアメリカ人」は出てこない。出てくるのは、貧困家庭から工場に勤めたのち大学に進み物理学の博士でNASAで働くユダヤ人のマルキンさん。もっとも、当世のヴァンスに境遇が似てるかもしれない。やはり、大統領が変わっても、変わらない”普通のアメリカ”を知っていますか。???

なお、2004年の上記愚記事を書いた時点では知らなかったのだが、ジョージタウン大学というのはあの「人道への罪」の元祖イエズス会の大学であり、19世紀に至っても大学が奴隷売買で収益を上げていた(ソース:自供文書)。1838年。ペリー来航のわずか15年前。こんな国から「脅されて」外交条約を結んだんだよ、日本は。

■ 今週知った集団:九州ジプシー(Kyushu Gypsies)

「九州ジプシー」という日本語をググると、出てこない。むしろ出てくるのは、ジプシー・ローズ。この有名なストリッパーは福岡県大牟田の出身。だから九州ジプシーでヒットしたのだろう。

九州ジプシーとは朝鮮戦争勃発で米空軍が急遽編成した航空輸送部隊。

1950 年に朝鮮戦争が勃発すると、米国極東空軍は陸軍を支援するために航空貨物資産の編成を急いだ。これらの資産の中でも特に重要だったのが、戦場から負傷兵を避難させるための航空機だった。これらの航空機は、整備されていない荒れた韓国の飛行場から離陸し、乗客を日本海を越えて日本最南端の島、九州まで運んだ。米軍はここで高度な医療施設を維持していた。
 
アメリカ製のダグラス C-47 ダコタ (別名「グーニーバード」) は、その数の多さから、この空輸活動の主力機となった。日本各地から C-47 が集められ、臨時飛行隊「九州ジプシー」が編成された。この名前は、飛行隊の当初の作戦基地が日本列島最南端にあったことを反映している。(ソース)
九州から朝鮮半島を任務のため転戦したらしい。
 
■ 今週のキリ番


筑紫洲 (つくしのしま) でもぶどう記録;第34週

2024年11月16日 18時19分38秒 | 筑紫洲 (つくしのしま)

▲ 今週のみけちゃん
▼ 筑紫洲 (つくしのしま) でもぶどう記録;第34週

■ 今週のよその猫

■ 今週の訳あり1

山形県の「洋梨」。5Kg, 1980円。


竹城青果

■ 今週の訳あり洋梨が運んでくれた文化財情報


訳あり洋梨を包んでいた山形新聞

・文化遺産オンライン 小嶋総本店店舗兼主屋
弊社店舗兼主屋など12件、文化財へ 国文化審答申、県内登録208件に。

■ 今週の訳あり2

すべてが、でかい。 愛媛産、15Kg、2300円。

■ 今週のアクセス:キャンプ・クロフォード4部作への閲覧多し

札幌郊外の「アメリカン・スクール」(1946-1958);道庁から9km;敷地は牧場をつぶしたのだ。
札幌郊外の"ワシントンハイツ";幻と現(うつつ)の五輪を挟む敗戦・占領・DH(ディペンデント・ハウス)
札幌、キャンプ・クロフォードにおける定山渓鉄道からの引き込み線; Do you know the way to Korea, in the Camp Crawford ?、
札幌郊外米軍キャンプクロフォードのペンタゴンと定山渓鉄道引込線の車両のカラー画像

■ 今週のアクセス

今週アクセス数が多かったページ:新しい街でもぶどう記録;第377週

ページ内のどの内容を目当てにアクセスしてきたが不明であるが、おそらく、有吉佐和子、『非色』だろうか?

■ 今週のダブルバインド(二重拘束)の片側

トランプ政権で国家情報長官になるとされるトゥルシ・ギャバード(wiki)(元陸軍少佐)が去年、日本に防衛努力を要請すると、そのうちハワイに責めてくるぞ!と警告していた。

ダブルバインドとは、矛盾する2つのメッセージを同時に受け取ることで、どちらの指示も受け入れられず、不審を抱いたりストレスを感じる状態です。日本語では「二重拘束」とも呼ばれます。google

■ 今週返した本

『証言三島由紀夫・福田恒存たった一度の対決』
『沖縄文学選』

▼ 『証言三島由紀夫・福田恒存たった一度の対決』

三島由紀夫と福田恒存が対談した。1967年・昭和42年、雑誌「論争ジャーナル」[wiki]においてだ。これが公開された二人だけの対談の唯一のものとのこと。集団対談でのものが別途ある(「現代日本人の思想」という座談会:後述)。二人は演劇についての見解で疎遠になったらしく、この1967年の対談では冒頭にそのことに振れ、今日はおてやわらかにと言い合っている。この対談は現在『若きサムライのために』(文春文庫)に入っている。今週返した『証言三島由紀夫・福田恒存たった一度の対決』はこの対談についての持丸博[1]と佐藤松男の対談。佐藤松男は日大出身。大学紛争で反左翼運動を行い、福田恒存に師事した。

持丸博は盾の会の初代学生長であり三島の側近であった。ただし、歴史認識、すなわち二・二六事件の決起における昭和天皇の拒否を認めるか認めないかで意見が分かれるなど思想の相違が明らかになった。持丸博は、元もと、「論争ジャーナル」という右派学生が創った雑誌の編集人。『論争ジャーナル』を作ったのは、中辻和彦。三島は原稿料を取らずに、この雑誌に貢献した。しかし、三島と中辻和彦が仲違いした。原因は中辻の性格が奔放であったことと田中清玄からの資金援助を受けた/受けようとしたことであると、持丸は言っている。三島は中辻と絶交した。三島は中辻と絶縁したが、持丸には期待していた。三島の費用負担で、盾の会の専従にならないかと打診があった。持丸は断った。そして、盾の会と論争ジャーナルの両方と縁を切った。この時持丸は中辻に同調し三島から離れた。その理由は中辻と持丸は平泉澄一門で、昭和天皇による226事件鎮圧を支持。その国体観の相違で、持丸は三島と袂を分かったというのだ。

[1] 持丸博の妻は松浦芳子。彼女の『自決より四十年 今よみがえる三島由紀夫』については愚記事に書いた。

★ 三島由紀夫と持丸博との関係

三島と持丸博との関係は微妙なものである。すなわち、持丸との決別後に三島は森田必勝と死ぬ。ここで、持丸との決別後に三島は森田必勝と「心中」するという視点で見れば、持丸博の特異な立場がわかる。

 実のところ、私は長いこと森田氏が一緒に自刃したことについて複雑な気持ちを持っていました。そこで一昨年、小賀正義氏(盾の会二期生、市ヶ谷事件に参加、二人の自決を見とどけ、人質の益田総監を解放後、縛につく。裁判で懲役四年の判決を受く)に会うために彼の住む和歌山を訪ね、事件に関するある質問をしました。(中略)それは、あの場で三島先生が最後に「森田お前はやめろ」と叫んだということでしたので、その真偽のほどを確かめたかったからでした。彼の答えは、やはり予想通りでした。 『証言三島由紀夫・福田恒存たった一度の対決』持丸博の証言

しかしながら、この発言は、小賀正義宛の三島由紀夫の命令書の一部、下記と整合的でない;

今回の事件は楯の会隊長たる三島が計画、立案、命令し、学生長森田必勝が参画したるものである。三島の自刃は隊長としての責任上当然のことなるも、森田必勝の自刃は自ら進んで楯の会全会員および現下日本の憂国の志を抱く青年層を代表して、身自ら範をたれて青年の心意気を示さんとする鬼神を哭(な)かしむる凛烈(りんれつ)の行為である。

 三島はともあれ森田の精神を後世に向かって恢弘せよ。 (全文

すなわち、三島は森田の死を起こるものだとの認識で生前に命令書を書いている。「森田お前はやめろ」という三島の発言とこの命令書は整合性がないのではないか?

あと、持丸博は、宮崎正弘の証言に苦言を呈している。

★ 「暗渠(あんきょ)で西洋に通じている」問題、あるいは、なぜこの二人は米国の悪意を直視できないのか?、はたまた、偽毛唐

福田恒存は三島由紀夫の死について当時何もいわなかった。昭和63年・1988年に「福田恒存全集 第六巻」の巻末の覚書で三島の死について言及している。その言及の冒頭で福田が三島に言われた苦言/嫌味について述べている;

 さて、昭和四十三年の一月、原書房の企画で国民講座「日本人の再建」のなかの一冊、「現代日本人の思想」という座談会を、会田雄次、大島康正、鯖田豊之、西義之、林健太郎、福田信之、三島由紀夫、村松剛の諸氏とともに試みたことがある。どんな話をしたか全く覚えていないが、その席上でか、その後の食事の時にか、私は三島に「福田さんは暗渠で西洋に通じているのでしょう」と、まるで不義密通を質すかのような調子で決め附けられたことがある。先日、たまたまその話が「日本人の再建」であり、座談会が「現代日本人の思想」というからには、どう考えても三島はそれを良い意味で言ったのではなく、未だに西洋の亡霊と縁を切れずにいると男という意味合いで言ったのに相違ない。それに対してどう考えてたか、それも全く記憶にないが、私には三島の「国粋主義」こそ、彼の譬喩を借りれば、「暗渠で日に通じている」としか思えない。

この福田の発言に佐藤と持丸がコメントしている;

福田恒存が三島由紀夫から「福田さんは暗渠で西洋に通じているでせう」ということを言われたそうです。これを福田は良い意味で言ったのではなく、あなたは、未だに西洋の亡霊と縁が切れずにいるのではないかと、まるで不義密通を質されるかのようなことを言われた。(要約)

 それに対して、福田先生は、むしろ三島の国粋主義こそが、彼の譬喩を借りれば「暗渠で日本に通じている」と書いていますが、これは、三島の国粋主義こそ彼の譬喩を借りれば「暗渠で西洋に通じている」の間違いではないかと思います。おそらく書き損じがあったのではないか。これはどう読んでも、三島の国粋主義こそ「暗渠で西洋に通じている」でなければ意味が通じないのです。
 福田恒存読者の多くは、これをそのまま素直に捉えているようです。しかし、これを「日本に通じている」と捉えると文章としてもつながらなくなるし、三島由紀夫に不義密通していると質されたのに対して、これじゃ有効なカウンターパンチになっていないわけです。あくまでも三島由紀夫に反論しているのですから、それならば三島のほうこそが暗渠で西洋に通じているのだという意味だと思いますね。(佐藤)

持丸:「暗渠で西洋に通じている」、ことの当否は別にして三島先生らしい表現ですね。それに対する福田先生の反論は、佐藤さんのおっしゃる通り、文脈から言っても、三島の国粋主義こそ「暗渠で西洋に通じている」と解すべきでしょう。

佐藤・持丸は「暗渠で日本に通じている」は「暗渠で西洋に通じている」の福田の書き間違えと主張する。そうだろうか?福田は変な家に住んでさんざん稽古した英語を話し英語人に自己喧伝しノーベル賞を希求して「西洋」からの承認を求めさらにはディズニーランドが大好きな三島由紀夫は暗渠でなく太陽に照らされた明々白々たる人工水路で西洋に通じているのが一目瞭然であることを自明の前提として、偽毛唐でしかありえない三島由紀夫の異常行動の動機は「日本」から由来するのではないかと云いたいのだ。「暗渠で日本に通じている」。なぜなら、偽毛唐は偽物であることに居心地が悪く、つい「日本」を希求し、窒息に絶えられず「日本」を吸ってしまうのだ。吸ったのが二二六事件とその周辺思想であり、天に拒まれ死んでいく思想に捕らわれた。これを生来の自傷自殺願望が「憂国」思想とそのための死という症状として発作が出たと云ってもよい。「暗渠で日本に通じている」。

なお、佐藤は福田恒存が西洋化にも日本回帰にも走らず、自分を維持したことを称賛している。さて、この本で注目すべきことは佐藤松男が日米安保条約は幻想であると言明していること。現在(2010年頃)の日米同盟の深化(イラク派兵など)は日本の米国への従属化であるとして、米国・米軍の手足として使われるだけだと云っている。日米安保も発動されるかは米国大統領/議会の意志/承認が必要なので実際に発動されるかは疑問だと指摘している。そして、核の傘の幻想を指摘。これこそ日本保守の原則であり、佐藤はそういう人だとわかる。

ただし、憲法・安保体制という日本が米国の保護領となっているのは、憲法改正を民主的に実行することは事実上に不可能=日本の軍事権放棄状態の継続、これが原因で日本が米軍の駐屯を求めざる得ない結果できた安保条約は、講和条約後も米国が日本を米軍天国にしたい米国の意志の結果である。

福田恒存は憲法改正を民主的に実行することは事実上に不可能と認識しながら、これを制定した米国の意図=悪意を認めないのが不思議だ。さらにそれを指摘しない佐藤松男も不思議だ。この頃福田恒存が云っていたのは「アメリカを孤立させるな」である。

■ (ネタバレ注意)『沖縄文学選』に収録の『カクテルパーティー』大城立裕

1967年に沖縄出身の作家が初めて芥川賞を受賞した小説。今借りている本、マイク・モラスキー著『占領の記憶/記憶の占領』のある章に出てくる。その章はこの『カクテルパーティー』と小島信夫、『アメリカンスクール』(1954年、芥川賞)が評されている。『カクテルパーティー』は読んだことがなかったので、借りて読んだ。この本の要旨はこの作品を文庫としてを出している岩波書店のweb siteにある;

米軍統治下の沖縄を舞台にし,米軍属に暴行を受けた娘を持つ主人公が,不利だと分かっている裁判に事件を訴えることを決意するまでの展開を描いた物語である.そのテーマ性と,沖縄の近現代史が重層的に織り込まれた物語は,九五年の事件をはじめとした数々の基地被害をほうふつさせるだけではなく,依然基地の重圧が押し付けられている沖縄をめぐる複雑な政治状況をも浮かび上がらせる.その意味においてこの小説は,決して単なる古色めいた「古典」にはなることはなく,同時代的な緊張を読む者に強いてくる.
――本書「解説」(本浜秀彦)より

娘を米兵に強姦されるという話ではあるが、その父たる男はかつては支那大陸への兵隊として出陣していたことがあり(つまりは、日帝侵略兵士であった)、そして、娘の件を相談した中国人弁護士に日帝侵略を糾弾される話。

なお、この作品の芥川賞の評価で選定委員であった三島由紀夫の評;

他の審査委員は褒めるだろうから、私は(引用者中略)欠点をはっきりと述べておく。」「「広場の孤独」以来の常套で、主人公が良心的で反省的でまじめで被害者で……というキャラクタリゼーションが気に入らぬ。このことが作品の説得力を弱めている、という風に私には感じられた。」「主人公の社交能力の欠如が、事件をこじらせる一因でもあろうが、作者はそれをすべて大きな政治的パズルの中へ融かし込んでしまう。」(引用元:)

一方、一番誉めているのが大岡昇平;

困難な沖縄の状況の下で、これだけの作品が出たということは、慶賀すべきことである。内地にはない深刻な状況が取扱われていて、切迫した小説的興味を生み出している。」「この作品の下には、表面に出ていない、多くのものがある、という感じである。それをどういう風に書きあらわすか、に作者の将来の問題がかかっていると思われる。」(引用元:同上)

この小説の主題についてではなく、気づいた些細な点について書く。

大城立裕さん、芥川賞受賞作「カクテル・パーティー」を語る 「米琉親善」の仮面はぐ
読書メーター 『カクテル・パーティー』

★ 米軍住宅の曲線道路

この小説『カクテルパーティー』には多くのことが多くの人に語られているらしいのだが、この点、米軍住宅の曲線道路についての言及はあるのだろうか?おいらは、そうだよね、沖縄もそうなのか、と思った。

 ゲートをはいると、きれいに舗装された道が二手にわかれて、ハウスの立ちならんだ奥へ流れていた。奥のほうで、また幾手かに岐れて、基地住宅[ベースハウジング]、あるいは沖縄の住民のよびかたによれば「家族部隊」とよばれるハウスたちをつないえいる。この道路設計がくせもので、直線でなく曲がりくねっているものだから、十年前にひどいめにあったことがある。はやり今日のように蒸し暑い午後だった。(中略)
・・・私は少年の頃から、知らない道の方角だけを見定めて歩きまわるという、妙な趣味をもっていた。いわば、ささやかな探検趣味である。私はゲートをすべりこんで歩きだした。ところが誤算に気づいたのは、およそ二十分ほど歩いたところか。私の計算では、ほぼ直線に突っきれば十五分、ぶらぶら見物しながらでも二十分、というつもりだったのに、三十分ほど歩いても東端の金網らしきものは見えないのだ。私は、おなじ道をぐるぐるまわっていた。ハウスはどれもおなじ形をしていて、たまに植えこみの形ちがっていたりするだけだ。洗濯物の色やかたちで、おなじところへ舞いもどっていることに気がついた。外人やメイドたちは、私をみてもなんの表情もみせなかったが、道をみうしなったとき、ふと恐怖がきた。 (大城立裕、『カクテルパーティー』)

おいらはかつて指摘した;両住宅地とも曲線道路で特徴づけられる(愚記事:札幌郊外の"ワシントンハイツ";幻と現(うつつ)の五輪を挟む敗戦・占領・DH(ディペンデント・ハウス)

★「華青闘告発」以前に芥川賞作品に現れたる日帝批判

愚記事:「村上春樹、『1973年のピンボール』に現れたる「華青闘告発」的視点」で書いたことだが、絓秀実さんによると1970年7月7日の「華青闘告発」が、マイノリティーによる対抗運動の初めての勃発として、重要だそうだ。すなわち、1970年に在日中国人たちが対支日帝侵略(侵華)の責任、むしろ一般日本人の責任、特に没批判的な日本人左翼を糾弾しはじめたというのである。

でも、1967年の芥川賞受賞作品の『カクテルパーティー』には中国人による告発が出てくる;

(中国人・孫)「あなたは何の悪いこともしなかったとおっしゃりたいのでしょうが、あなたの眼の前で日本人が中国人にたいしてとっている態度にあなたが批判的でありながら無関心をよそおったことはありませんか」
(日本人・小川)「それはしかし、あなたがいまこの土地でとっていらっしゃる態度と同じだ」
(中国人・孫)「そうです。恥ずかしいと思います。私もいずれは懺悔しなければなるまいと考えています。それでもしかし、私はあなたがたの責任を追及しなければならない。(以下略)」

現実ではない。小説の中での話だ。でも、文学評論家はこういう作品の中の「その無定見な日本人意識を前提にしていた新左翼など「革命」運動参加者に「コペルニクス的転回」をくらわした」話にも言及すべきではなかったか?

★ 強姦と逆襲

三島由紀夫がこの大城立裕『カクテルパーティー』大城立裕を嫌った理由は、主人公を被害者と設定としたことだろう。これは小説=作り話において、米兵が強姦者とされている。作品のために設定=つくられたのだ。三島はこういう「作り」を嫌ったのではないか?こう設定してしまうと、もう、向こうが悪で、こちらが被害者。そして、被害者というのは、論理的にはすぐそうにはならないのだが、正義であり、さらには復讐権を付与され、その実行が正義の名の元に実行されることが、物語において、期待される。三島はそう考えて、嫌ったのではないだろうか?相手の悪魔化。これは彼の趣味の問題だが、三島は弱者と被害者、そして彼らの被害者意識に基づく行動が嫌いだ。さらには、強姦事件というのはその立証が困難である。でも、この作品、大城立裕『カクテルパーティー』は興味深い。犯された娘が米兵に逆襲して米兵に怪我を負わせる。そのせいで米占領軍に告訴される。ただし、この米兵への犯罪という行為が彼女の被害性を証明することとなる。なぜなら和姦なら、その後傷害を負わせないからである。
 それにしても、米兵を犯行者としての強姦というのは小説=作り話としても、ベタというか、とってつけたような受難の話である。相手を悪魔化する。米軍支配を批判するにしても、その米軍を強姦者と設定することは安易、やりすぎ、といえるかもしれない。
 しかしながら、この大城立裕『カクテルパーティー』がその後も存在意義を認められるのは1995年の沖縄米兵少女暴行事件(wiki)が現実に起きたことだ。
 ところで、現実性というと、沖縄では1853年に「ウイリアム・ボード事件」が起きた。この事件は、ペリー提督率いる米国海軍艦隊が琉球王国に来航した時、水兵のウイリアム・ボードが民家に押し入り54歳の女性を強姦した。注目すべきはその後の経緯。事件を知った近所の琉球人が逆襲。ウイリアム・ボードを捉えようとするもウイリアム・ボードは海に転落し、溺死する。この事件を受けて、米国が取った態度は、ウイリアム・ボードを追い詰めた琉球人を処罰することを琉球王国に武力威嚇を含め求めたことだ。(ペリー艦隊の来航と女性犯罪)⇒ ウイリアム・ボード事件
 この1853年の事件における米国の態度は、大城立裕『カクテルパーティー』において、米軍占領府が強姦された主人公の娘を米兵への傷害で告訴したことと同じである。
 大城立裕『カクテルパーティー』がその後も存在意義を認められると書いたが、今に至るまで存在意義を認められつづけるというのが沖縄の現状だ。今年2024年には「16歳未満の少女を誘拐し性的暴行を加えたとして、わいせつ目的誘拐と不同意性交の罪に問われた米空軍兵長ブレノン・ワシントン被告(25)」(google)が裁判中だ。被告の主張は未成年であったことは知らずかつ和姦であったというものらしい。そこで興味深いのは、米国人というのは初めて会った言葉の通じない相手とセックスするということだ。年齢がわかるほど相手の素性は気にしないということだ。

★ 仏桑花を知る

 愚記事より

大城立裕『カクテルパーティー』に、仏桑花なる花が出てくる。ハイビスカスだ。

 

 


散歩:北九州市八幡東区七条⇒ 戸畑区・市立美術館⇒ 八幡東区・JRスペースワールド駅

2024年11月10日 15時34分26秒 | 筑紫洲 (つくしのしま)


google map

北九州市で新幹線が停まるのは小倉。小倉の西の方に八幡がある。製鉄所の八幡。製鉄所は海岸近くにある/あったが、背後に山があり、さらにその背後に平地がある。その山に北九州市立美術館がある。平地から美術館の山を越え、海岸のJRスペースワールド駅まで散歩した。ところで、北九州市立美術館の位置は戸畑区に属する。


1.八幡東区荒生田2丁目、バス停:七条、2.戸畑区東鞘ケ谷町8、3.市立美術館、4.戸畑バイパス下トンネル、5.白川町、6.枝光1丁目、7.アウトレット、8.イオンモール、9.JRスペースワールド駅


航空写真 現在


航空写真 1960年代

■ 1.八幡東区荒生田2丁目

■ 3.北九州市立美術館


北九州市立美術館。磯崎新 [wiki] 設計。

市立美術館は上部に突き出た二つの直方体が特徴で、「丘の上の双眼鏡」とも呼ばれる。大分県出身の建築家・磯崎新さんが設計し、1974年に完成。磯崎さんが2019年に「建築界のノーベル賞」と言われる米プリツカー賞を受け、改めて注目された。(大野博昭 眼前の風景が絵画のよう 磯崎新さんが設計した北九州市立美術館の「美」

北九州市立美術館開館50周年記念 大コレクション展 ―あの時、この場所で。―(web site


2025年1月4日ー3月16日 開催予定 web siteはまだ

■ ⇒ 美術館の山を海側へ下る

■ 4.戸畑バイパス下トンネル

■ 5.白川町

■ 6.枝光1丁目

■ 7.アウトレット、

■ 8.イオンモール

50歳代半ばを過ぎたが、今までブラック・フライデーを知らなかった。カナダで暮らしていた時はハロウインの現物は見たが、ブラック・フライデーなんて知らなかった。

現在↑、 ↓ 1960年代 工場多し

■ 9.JRスペースワールド駅

この日、「起業祭」ということで、人出が多かった。

明治34年(1901年)から続くまつり起業祭八幡

明治34年(1901年)、官営八幡製鐵所の作業開始式から始まった起業祭。
昭和60年に市民のまつりに生まれ変わった「まつり起業祭八幡」は本年で36回目を迎えました。
この市民参加の「まつり起業祭八幡」は、市民の連帯感を深め、明るく住みよい、
元気あるまちづくりに寄与するとともに、北九州市の活性化と国際化を図ることを目的としています。web site

■ まとめ 通過街

北九州市 
八幡東区 荒生田、高見
戸畑区 西鞘ケ谷町、
八幡東区 日の出、枝光本町、東田


佐賀県散歩:名護屋城址

2024年11月06日 17時29分45秒 | 筑紫洲 (つくしのしま)

呼子に泊まった翌日朝、バスで名護屋城址に移動。途中、バス車中から伊達政宗陣屋跡を見る。バスは昭和バスだ。名護屋とは「豊臣秀吉は、肥前名護屋の地に大陸への出兵拠点となる城を築き、全国の諸大名たちを集めて、まちをつくりました。世界最大規模を誇った、7年間のみ存在した、人口20万人を超える幻の都市。引用元)」。


A.呼子、B.伊達政宗陣屋跡、1.道の駅桃山天下市、2.佐賀県立名護屋城博物館、3.名護屋城址

■ B.伊達政宗陣屋跡

走行中のバスの中から見る

■ 1.道の駅桃山天下市

佐賀県唐津市鎮西町名護屋1859 桃山天下市 (web site

道の駅桃山天下市は、呼子より3キロの国道204号沿いにあり、特別史跡名護屋城跡の玄関口に位置しています。 さらに3キロ先には海の渚百選の波戸岬があり、海中展望塔では自然の魚と海底を見ることができます。 駅では鎮西町でとれた新鮮な農産物、水産物等を豊富に揃え、食事処ではイカ活造定食等の活魚料理が楽しめます。 (九州の道の駅、桃山天下市)

うにご飯というものを見た。買わなかった。どうやらウニは火が通っているらしい。

▼ 呼子でつくられるイカの塩辛のイカの原産地は?

■ 2.佐賀県立名護屋城博物館

佐賀県立名護屋城博物館は、特別史跡「名護屋城跡並びに陣跡」の保存整備事業と、文禄・慶長の役(壬辰・丁酉倭乱)及び日本列島と朝鮮半島との長い交流の歴史を調査・研究・展示紹介し、日韓の学術・文化の交流拠点となることを目的として平成5年10月に開館しました。web site 施設案内

特別史跡「名護屋城跡並びに陣跡」は、文禄・慶長の役の出兵基地であり、不幸な歴史の証人ではありますが、日本の歴史上、最大規模の城郭関係遺跡群という特徴ももっています。名護屋城博物館では、地元自治体とも協力しながら、名護屋城跡のほか、諸大名の陣跡、関連遺跡の発掘調査・保存整備に取り組んでいます。(同上)

不幸な歴史の証人なのだ。

 正面切って、朝鮮侵略とは書いてない。「世界史用語」では朝鮮侵略だ;

16世紀末、2度行われた豊臣秀吉の朝鮮侵略。日本では文禄・慶長の役、朝鮮では壬辰・丁酉の倭乱という。1592年、朝鮮に侵攻した倭軍は平壌まで進んだが、朝鮮の義兵の抵抗と明の援軍によって反撃を受け、さらに李舜臣指揮の朝鮮水軍によって補給路を断たれたため苦戦、一旦講和した。1597年に再び侵攻し、朝鮮南部で朝鮮・明の連合軍と戦った。98年、秀吉の死によって撤退し、戦争は終わったが豊臣政権は間もなく倒れ、朝鮮の国土は荒廃し、明もまた間もなく清によって滅ぼされる。またこのとき捕虜となって日本に連行された朝鮮人によって、日本の朱子学の興隆、陶芸技術の飛躍的発展などがもたらされた。世界史の窓

楊柳観音像(もちろん複製)が撮影禁止だったので、遠くから撮影。

楊柳観音像 鏡神社 web site


2. 歴史の中の名護屋城 2. 歴史の中の名護屋城 (web site


黄金の茶室 web site

▼ ばったり、姜沆(かんはん)

藤原惺窩(wiki)と姜沆(wiki)[右]。

愚ブログの標題を『看猫録』という。 もちろんこれは朝鮮儒者・姜沆(カンハン)の『看羊録』からのパクリだ(愚記事)。 看羊とは羊を看ることであるが、これは前漢時代の儒者・蘓武(wiki)が匈奴に抑留された時にしていたことだ。この故事を朝鮮儒者・姜沆が本歌とした。(愚記事より)

「ばったり」ということもないのだ。「このとき(文禄・慶長の役)捕虜となって日本に連行された朝鮮人によって、日本の朱子学の興隆、陶芸技術の飛躍的発展などがもたらされた」のだから、朝鮮儒者の姜沆が、おいらを待っていても不思議ではないのだ。

▼ 草庵茶室

山里丸の草庵茶室跡:草庵茶室とは、萱や藁などで屋根を葺いた簡素なつくりの茶室です。「茶の湯」でわび茶が主流となる16世紀以降には、多く建てられるようになりました。

 名護屋城では秀吉が山里丸に草庵茶室を建てています。博多の豪商神屋宗湛が記した『宗湛日記』の天正20年(1592)11月17日の記述には、山里丸の茶室は柱や、そのほか壁なども竹で造られ、四畳半の広さであったことが記されています。平成9年(1997)の山里丸の発掘調査で飛石と草庵茶室と思われる掘立柱建物跡が確認されて、秀吉の茶室の発見として話題となっています。「黄金の茶室」とは、趣が違い侘びさびを感じさせる茶室です。(佐賀県 web site: 豊臣秀吉の 草庵茶室 (復元)を展示・公開します

 

■ 3.名護屋城址

  • 名護屋城は豊臣秀吉の朝鮮出兵(文禄・慶長の役)に際して出兵拠点として築かれた城です。
  • 1592(文禄元)年の開戦から秀吉の死で諸大名が 撤退するまで、7年の間大陸侵攻の拠点となりました。
  • 城の面積は約17ヘクタールにおよび、当時では大坂城に次ぐ規模を誇りました。
  • 周囲には130以上に上る諸大名の陣屋が構築され、全国から20万人を超える人々が集ったとされています。
  • 現在、名護屋城跡と23箇所の陣跡が国の特別史跡に指定されています。 (ソース:名護屋城とは

■ 名護屋城址 ⇒ 唐津、大手口バスセンター

バス停、名護屋城博物館入口(google map



大手口(唐津バスセンター)[google map]

■ 唐津駅


唐津市近代図書館 (google)

▼ 唐津駅ホーム 筑肥線

博多へ向かう。


筑紫洲 (つくしのしま) でもぶどう記録;第32週

2024年11月02日 18時00分00秒 | 筑紫洲 (つくしのしま)

▲ 今週のみけちゃん
▼ 筑紫洲 (つくしのしま) でもぶどう記録;第32週

■ 先週のよその猫

■ 今週の筑豊境

■ 今週の花

アメリカからの外来植物であるセイタカアワダチソウは日本で消長があるらしい。昔は2mを優に超える背丈だった気がする。

■ 今週の「幕府参り」、あるいは、実家帰り

中谷防衛相、在日米軍司令官と面会 横田基地で

中谷元防衛相は1日、米軍横田基地(東京都福生市など)で在日米軍のジョスト司令官と面会した。北朝鮮が10月31日に弾道ミサイルを発射したことを受けて、自衛隊と在日米軍が連携して地域の平和と安定に貢献していくと確認した。日米同盟の抑止力・対処力の強化が不可欠だとの認識を共有した。ソース

中谷防衛相といえば自衛官出身だ。自衛隊といえばそもそもマ元(マッカーサー元帥)の命令で出来た組織警察予備隊が元祖である。「自衛隊は、アメリカの日本人によるアメリカのための兵力」という人もいる(江藤淳)。

そうなのだ、自衛隊の実父はマ元なのだ。実父の実家の在日米軍に里帰りしたのだ。

・以前は、「横田幕府」って言葉をしばしばネットで見たのだが、今日、ググってもそんなにヒットしなかった。X(横田幕府)にはそれなりにあった。

■ 今週の道産品入り

丸美屋、温 茶碗蒸し2個入り

■ 今週の輸入原料、あるいは、呼子のイカは南米産

呼子朝市通り お徳用しゅうまいの原料のイカの産地は?

いか(ペルー産、チリ産)   有限会社 木屋 web site

■ 今週の半額、あるいは、中国製造粒あん

塩豆大福(リョーユーパン)[商品紹介]

■ 今週の半額2


丸美屋 炒めて旨い チャプチェ 袋入 210g

「春雨」と「調味ソース」がセットになった、3人前。ボリュームたっぷり便利なメニューです。
玉ねぎとピーマンですぐできる、春雨と調味ソースのセット商品です。牛の薄切り肉・にんじん・筍入り。ほんのり甘い味付けに、香り高い胡麻油の風味で仕上げました。(ソース)

チャプチェ:春雨のほか、ピーマン、にんじん、赤パプリカなど彩り豊かな野菜やきのこ、牛肉の細切りなど、さまざまな具材を使った甘辛い味付けの炒め物です。 漢字では「雑菜(チャプチェ)」と書き、「雑(チャプ)」は混ぜ合わせる、「菜(チェ)」はおかずという意味です。google

■ 先週のもらい物

■ 今週の作り話よばわり

ハロウインで思い出したおいらの子供頃のある記憶を、初めて<荊の簪を挿した御方様>に話した。

子供の頃、浴衣を着て、子供集団として近所を練り歩き、「ローソク出せよ、出さなきゃ、かっちゃくぞ」と唱え、お菓子をもらうのだ。

この記憶を<荊の簪を挿した御方様>に話すと、「つくっているのか?」と頭から信じてもらえなかった。なお、「筑波山麓」出の<荊の簪を挿した御方様>は「かっちゃく」の意味はわかった。

ネットにはこの「ローソクもらい」(wiki)についていろいろ書いてあるが、「Trick or Treat」(「お菓子をくれなきゃいたずらするぞ!」)といってお菓子をもらう(先)耶蘇・毛唐の風習との関連がわからない。

■ 今週の同じ写真を表紙にもつ本たち

 

川名晋史『基地の消長1968-1973』とマイク・モラスキー『占領の記憶/記憶の占領』という本の表紙が共に同じ写真だ。この写真は写真家、東松照明 の「チューインガムとチョコレート」だ。現在、東京都写真美術館蔵(googe)。前書は2021年に借りて読んんだ(愚記事)。後書は今借りて読み始めた。

■ 今週借りて読み始めた本の「誤り」

 沖縄が日本へ復帰してから約二年、そして沖縄本島へ初上陸してからちょうど二九年が経った一九七四年四月一日は、コザの街が美里村と合併し、その独特な響きを持った名が一新されて「沖縄市」となった日である。それまでの二〇年間においてカタカナで公式登録された名を持つ街は、沖縄にも日本にも、このコザ以外には存在しなかったという。[強調、いか](第二章 文学に見る基地の街、マイク・モラスキー『占領の記憶/記憶の占領』)

違うよね。あるよ、カタカナの街。ニセコ町(北海道)。1964年発足(wiki


ニセコアンヌプリ(wiki

米国の大学の日本研究者なのだという。大丈夫なんだろうか?この本。なお、翻訳者は鈴木直子という人[清泉女子大学]。翻訳者は事実関係にも物言いしないのだろうか?大丈夫なんだろうか?

さらに、上記で記したこの本の表紙(カバー)の写真について、なんと、東松照明「横須賀」(1958)と写真出典一覧に示してある。

まちがい。

大丈夫なんだろうか?この本。

■ 今週の「フェンスの向こうのアメリカ」

愚ブログでは「フェンスの向こうのアメリカ」がネタだ。それにしてもこの写真はすごい。蝉かよ。写真は2枚上の画像のマイク・モラスキー『占領の記憶/記憶の占領』の写真出典一覧のp64-65の写真(呉屋永幸撮影)。それにしても沖縄/琉球の子供たちはフェンスによじ登り基地の何を見たかったのだろうか?見たかったものは見えたのだろうか?