いか@ 筑豊境 寓 『看猫録』

Across a Death Valley with my own Distilled Resentment

筑紫洲 (つくしのしま) でもぶどう記録;第43週

2025年01月18日 18時00分00秒 | 筑紫洲 (つくしのしま)

▲ 今週のみけちゃん
▼ 筑紫洲 (つくしのしま) でもぶどう記録;第43週

■ 今週のよその猫

■ 今週の筑豊境

■ 今週の炎:どんと焼き

■ 今週の訳あり

品種:ふじ と 王林

■ 今週の尾頭付き: ししゃも

■ 今週の紅白: お餅

■ 今週の小国

阿蘇小国ジャージー ダブルクリームシュー(フランソア) 今知った。小国(しょうこく)ではなく、固有名詞の地名で、小国=おぐに公式web site)だった。

カスタードクリームと普通のクリームの2色。

■ 今週の万延元年

■ 今週の30年:阪神大震災30年(google

阪神大震災の時、1995.1.17は、鳥取県にいた。石破茂「領」だ。目が覚めていた。今の記憶ではおいらの部屋の震度は3位の印象。ネットでググると鳥取は震度4とある。当時、鳥取では地震が珍しい(事実上ない)地域だったので、震源は遠いはずだ。遠い震源で、かつ鳥取で震度3ということは相当大きな地震が起きたのであろうとすぐ考え付いた。おそらく、東海地震だろうと思った。ラジオを付けて、阪神地区とわかった。

なお、上の忘備の文字: あさ目さます トイレ 前後わすれたが 地震 かなりゆれた

トイレで目が覚めていたとき、揺れたのだ。

■ 今週の訃報、あるいは、ゾル転



https://x.com/Chisaka_Kyoji/status/1615375907719634944

知らなかった。加賀乙彦が陸軍幼年学校にいたとは。東京なのか?そうであるなら、空爆を逃れたのだ。

■ 今週の大移動:おまいらもな


mass deportation :大量強制送還 google 
・それにしても、左の座っているお爺さん、黒の蝶ネクタイの方が似合うかもしれない。

ヨーロッパに帰る? ↑  見送る人↓

 

■ 今週知ってびっくりしたこと

1952年(米軍占領終了年)に日本に耶蘇の宣教師(新旧耶蘇あわせて)が、3万5千人滞在していたという。にわかに信じられないのだが。一方、1952年の在日米軍は15万人(以上)とされる。宣教師が軍人の3分の1もいたのか!? 松田武、『戦後日本におけるアメリカのソフトパワー 半永久的依存の起源』2008年(岩波書店)に書いてあった。

つまり、米国は占領という米軍の軍事独裁政権下で耶蘇教の布教に勤めたのだ。そして、結果は周知。

日本はキリスト教が広まらなかったことが文明的特徴である。さて、この日本で耶蘇が広まらなかった原因をある牧師は悪魔(サタン)の暗躍であると解説している;

 YouTube

でも、日本の首相には耶蘇が多い;

 

なお、石破は長老派教会という宗派であり、その宗派の熱心な信徒は「善が悪と闘っているという善悪二元論のマニ教的世界観」(同上、松田2008のp91)をもつのだという。

さらに、松田武、『戦後日本におけるアメリカのソフトパワー 半永久的依存の起源』で言及される、南原繁、田中耕太郎、高木八尺、松本重治など対米協力者(コラボ!)は、皆、耶蘇である。


筑紫洲 (つくしのしま) でもぶどう記録;第42週

2025年01月11日 18時00分00秒 | 筑紫洲 (つくしのしま)

▲ 今週のみけちゃん
▼ 筑紫洲 (つくしのしま) でもぶどう記録;第42週

■ 今週の筑豊境

■ 今週の仙台でもつくばでも横浜でも見たかったもの:つらら

氷点下2℃であったらしい。

■ 今週の干したもの

干しトマト(google)。初めて食べた。

■ 今週知ったこと:佐賀県にも白石(しろいし)という地名がある。

札幌市白石:愚記事
宮城県白石:wikipedia

■ 今週の「小」:中共の踊り

The Chinese Communist Party leaders in Beijing are dancing in the streets (google

「中国共産党の指導者たちは北京の路上で小躍りしていることだろう(The Chinese Communist Party leaders in Beijing are dancing in the streets)」(ソース)[1]

dancing:小躍り、なぜ「小」がつくのか?


CCPの路上での踊り(not leaders but 紅衛兵)

■ 今週の些細:三島由紀夫『鏡子の家』から、あるいは、愚ブログ内ビンゴ

先週報告した40年あまり積読であった三島由紀夫『鏡子の家』を読んだ。この作品の主人公は時代であると三島が云っているらしい。時代が主人公であるとすると、1954-1956年の東京ということになる。40年前はネットもないので、作品に出てくるわからない事項はどうにも調べるわけにはいかなかった。それじゃ、今では大違い。すぐ、ググれる。

三島由紀夫『鏡子の家』にジョセフィン・ベイカーの公演というのが出てくる。鏡子が行く。最初、(商社員の)清一郎を誘うが、清一郎は断る。理由は鏡子のお供で晴れの場に出るのが嫌だからだ。そして、鏡子は俳優の収を誘い、行く。なお、この東京公演にはある目的があったとされる(後述)。

さて、ジョセフィン・ベイカーの1954年の東京の公演というのは事実だとわかる(wiki)。ジョセフィン・ベイカーとは、米国生まれの黒人女性歌手。アメリカにおける人種差別に嫌気がさしたベイカーは、1937年にフランスの市民権を取得。来日は下記;

1954年(昭和29年)4月11日にエールフランス機でパリを出発。4月13日午後8時半に羽田空港に到着し、来日を果たした[4]。4月19日長崎市、4月20日佐世保市、4月21日福岡市、4月22日名古屋市[4] と各地でのコンサートに出演。4月23日、広島市で公演。原爆死没者慰霊碑に参拝[5]。4月25日から29日まで東京都・帝国劇場、5月1日には京都の弥栄会館で公演を行い人気を博した[4]。 また、5月2日から3日まで宝塚大劇場でも公演を行った。 

エリザベス・サンダース・ホーム沢田美喜とは同志かつ親友と呼べる間柄で、養子をサンダースホームから譲り受け育てた。 1954年に来日。4月28日の帝国劇場で行われたコンサートは、混血児救済を目的としたものとなり[3]、公演収入をホームに寄付するなど惜しみない援助を行っている。 

つまり、三島は、鏡子をして混血児救済を目的とした公演にいかしめたのだ。

[1]

中国の鉄鋼業界が抱える爆弾とは?


筑紫洲 (つくしのしま) でもぶどう記録;第41週

2025年01月04日 18時00分00秒 | 筑紫洲 (つくしのしま)

▲ 今週のみけちゃん
▼ 筑紫洲 (つくしのしま) でもぶどう記録;第41週

■ 今週のよその猫

■ 今週の筑豊境

■ 今週の九州限定1

■ 今週の九州限定2

九州は麦みその人気が高く、喜代屋でもベストセラーのみそです。昔ながらの麦みそは懐かしくほっと幼い子供のころを思い出します。(喜代屋 web site

甘い。

■ 今週読んだ本:40年の積読の果てに、色褪せた本を読む

10代の頃に買って、少し読んで、面白くないのでやめて、積読してあった三島由紀夫『鏡子の家』を読む。40年あまり前に買った。色あせている。新潮文庫の三島由紀夫は明るい橙色(オレンジ色)[1]。

[1] 橙色=オレンジ色ではないと気づく。

▼ 作品の時期と場所が明確に示されている。1954-1956年の東京。主な登場人物は、杉本清一郎(1929)、山形夏雄(1930)、深井俊吉(1932)、舟木収、 友永鏡子、民子、光子。括弧内は生年。題名にもある鏡子の家は現在のJR信濃町駅の北の高台の洋館。日本家屋も含むお屋敷。その屋敷に母娘(8歳の真砂子)の主、友永鏡子と4人の青年の物語。4人の青年は22-25歳であり、少年時代に焼跡の廃墟を目の当たりに育ったことが本書で強調されている。そして、退屈を感じていると。4人とも大卒(のよう)だ。ちなみに1950年の大学進学率は約10%である。杉本清一郎は丸の内に勤める商社社員、山形夏雄は裕福な家の画家、深井俊吉は大学在学の拳闘(ボクシング)選手、舟木収はボディビルをする俳優。

三島由紀夫は、1955年にボディビルを始め、1956年に拳闘を始めた。1957年に2度目の渡米、1958に結婚している。これらの三島の実人生と登場人物の属性が重なる。重ならないのは山形夏雄の絵画であるが、小説の内容は画家の所業としては容易に想像がつく記載となっている。

問題は登場人物の世界観である。清一郎と夏雄は世界の破滅を考える。一方、世界の破滅を自覚的には考えていないような俊吉と収は「挫折」あるいは「失敗」する。ボクサーの俊吉は日本チャンピオンになり次は世界チャンピオンという時にチンピラに遭難し怪我を負い選手生命を絶たれる。そして右翼団体に入る。俳優の収は美貌にもかかわらず役をもらえず、母親の事業の借金のため高利貸しの醜い女に飼われる。女は収のボディビルで鍛えられた体を刃物え切るつけその出血を啜る。最後は無理心中となり、収はこの醜い女に殺される。

何だ!三島の最期が書かれているではないか。

三島論ではなぜ三島由紀夫はああいう最期を遂げたのか?への回答として、セバスチャンコンプレックスであるとしている(澁澤龍彦 1971、井上隆史2020、 愚記事)。さらに佐藤秀明、『三島由紀夫』(岩波新書 2020)で、「前意味論的欲動」という鍵語で三島由紀夫の作品、言動を読み取る。「前意味論的欲動」とは、「悲劇的なもの」と「身を挺している」のふたつの情動を駆動するものらしい。

難しい鍵語によらず、端的に三島由紀夫の「前意味論的欲動」とは、「腹を切って血まみれになって、至高のために身を挺して、死ぬこと」である。事実、最期にそうした。

腹を切って血まみれになって死ぬことを三島が作品化したのは『憂国』である。その前の作品の『鏡子の家』に血まみれになって死ぬことが出ていた。かつ、無理心中。

無理心中。「無理心中」とは言い過ぎかもしれない。三島由紀夫が自衛隊を襲撃し自殺した時、一緒に死んだのが森田必勝。中村彰彦『三島事件もう一人の主役』によれば、森田必勝は「僕は絶対に三島先生を逃しません」、「ここまできて三島がなにもやらなかったら、おれが三島を殺[や]る」と云っていたとのこと。いくら三島由紀夫が血まみれで死ぬことを欲望していても一人えは踏ん切りがつかなかったのであろう。

▼ 鏡子の家

 車は信濃町にある鏡子の家へ行くのである。
 何となく男たちの集まる家というものがあるものだ。おそろしく開放的な家庭で、どことはなしに淫売屋のような感じがある。そこではどんな冗談も言え、どんな莫迦話もできる。しかも金は要らず、ただで酒が呑める。誰かしらが酒を持って来て、置いて帰るからである。テレヴィジョンもあれば、麻雀もできる。好きなときに来て好きなときに帰ればよく、そこの家にあるものは何でも共有財産になり、誰かが自分の車で来れば、その車はみんなで自由に使うことになるのである。(『鏡子の家』第一部、第一章)

この『鏡子の家』の家の建物のモデルはデ・ラランデ邸(wiki)とされる。デ・ラランデ邸は現在江戸東京たてもの園(wiki)にある。『鏡子の家』では建物の描写は仏蘭西窓についてくらいしかなく、瀟洒であるとか内装についての豪華さについては特に表現されていない。現在でこそこのデ・ラランデ邸がモデルであり、イメージ喚起に役立つかもしれないが、当時は信濃町の高台の洋館の屋敷という記述であり、イメージ喚起に貢献してないと思う。建物の様相はともかく、鏡子の家の雰囲気は上記の状態。つまり、「アナルヒー」、アナーキーと云っている。

藤森照信は『建築探偵の冒険 東京篇』で、まだ信濃町にあったデ・ラランデ邸(三島邸)を実際に訪れた後、『鏡子の家』を読んでみて、その描写が"信濃町の三島邸をそっくり写している"と記し、"おそらく、「西洋かぶれ」の作者は、電車の窓からこの家を見つけ、散歩がてらに建築探偵し、<三島>という表札が気に入って、モデルにしたんだろう"と推測している。wiki

当時の信濃町での位置は下記地図の「南元町」の「南」の字の左の区画である。

▼ 廃墟の巷低く見て? 自分たちは無被害域に生きる

 
東京大空襲 wiki より

空爆により瓦礫と化した東京が復興でその廃墟の姿が消えてゆくことを、鏡子や清一郎は嘆く。廃墟と瓦礫の存在が彼らを安心さえるらしい。その心的機構は不思議である(というか、今では中二病と呼ばれるものか!?)。それがニヒリズムらしい。

さて、廃墟と瓦礫の存在に安心する鏡子や清一郎、鏡子の家は戦前からのお屋敷であり空爆の被害は受けていない。敗戦後は進駐軍に接収されたくらいであるから、屋敷は安泰であったのであろう。清一郎の家については書かれていない。しかし、勤め先は皇居付近のビル街とある。丸の内だ。しかも8階建ての古い財閥の建物とある。三島の念頭には丸ビル(8回建て)があったのであろう。とにかく、戦災とは無縁だ。

戦災に無縁であった建物に暮らし、働く人たちが、空爆により瓦礫と化した東京が復興でその廃墟の姿が消えてゆくことを残念がる物語が『鏡子の家』とわかった。

 


福岡散歩:西戸崎(さいとざき)⇒ 国営・海の中道海浜公園/旧キャンプ・ハカタ/Brady Air Base

2024年12月30日 04時49分04秒 | 筑紫洲 (つくしのしま)

福岡県福岡市の北に陸繋砂州 [google]がある。上地図の半島。海の中海(wiki)。半島の先に志賀島がある。海の中海の大部は国営公園となっている。国営・海の中道海浜公園。元は米軍基地だった(キャンプ・ハカタ)。つまり、米軍基地を日本政府が取り戻し、国営公園にした。これは東京都の立川の国営・昭和公園と同じだ。公園造園の時代も近い。1970年代米軍撤退の時期だ。レコンキスタ史跡訪問の散歩をした。

陸繋砂州・海の中道の大部が国営公園であるが、そうでない地域もある。西戸崎駅付近の街とか。そういう地域は占領時代も米軍に接収されていない地域。ただし、米軍基地の近隣地域であり、基地外の米軍住宅があった。


1.JR西戸崎駅、2.キャンピングハウス海の中道、3.米軍ハウス(ブレディハウス)、4.西戸崎5丁目・浜辺、5.国営公園・海の中道海浜公園西口、6.動物園、7.日本の名車歴史館
 a, bは(1960年代の)航空写真で建物群が認めらる位置。兵舎と思われる。


現在の航空写真


1960年代の航空写真。a,bに建物群がある。3.5.6.の位置を含む地域はゴルフ場と見える。

▼ 海の中道全体図。1960年代(米軍時代)の航空写真。


10.ラッキーラガー円石柱看板、A.雁ノ巣飛行場 (後述)

1961年(昭和36年)の日米合同委員会でキャンプ博多・ブレディ飛行場・西戸崎通信施設の三施設を統合し、「雁ノ巣空軍施設」(Gannosu Air Station、施設番号・FAC 5005)として在日米軍に提供することが合意された。wiki

雁ノ巣飛行場は「A」の位置。上の5,6はゴルフ場。上のwikiの説明では西戸崎は通信施設のみが書かれ、ゴルフ場への言及はない。

■ 1.JR西戸崎駅

■ 2.キャンピングハウス海の中道

キャンピングハウス海の中道(google

■ ⇒ 3.米軍ハウス(ブレディハウス)

▼ 「豪族」の家


google map

■ 3.米軍ハウス(プレディハウス)


google map

この米軍ハウスはリノベーションされたもの。リノベした会社(只松建設ホールディングスパワーハウス株式会社)がweb siteでこのリノベを紹介している。リノベ前の様子↓。

ソース

■ 5.国営公園・海の中道海浜公園西口

国営・海の中道海浜公園(公式 web site)。

国営海の中道海浜公園(こくえいうみのなかみちかいひんこうえん)は福岡県福岡市東区にある公園。全国で5番目に設置された国営公園である。

昭和18年5月に九州飛行機により西戸崎飛行場が完成。対岸の香椎工場より運ばれた海軍哨戒機、東海などの試作実験が行われる。昭和19年4月1日、戦局により、隣接する博多海軍航空隊が同飛行場を接収、陸上機実用機教育が開始。本土決戦に備え、練習機を用いた特攻訓練が行われる。、戦後は福岡第一飛行場を含め、アメリカ合衆国空軍[1]博多基地となり、西戸崎飛行場はそのまま米軍のゴルフ場となる、その跡地返還を受けて開設されることになったものである。wiki

カナール。カナールは造園用語で「修景手法のひとつで細長い直線水路」を意味しています(google)。カナールは知っている。国営・昭和記念公園にもあった。


国営・昭和記念公園のカナール@噴水付き(愚記事

薔薇園があった。年の瀬でもいくばくかの薔薇は咲いてた。

■ 6.動物園

■ ⇒ 7.日本の名車歴史館

■ 7.日本の名車歴史館

 

展示内容:主に昭和20年代から40年代にかけて国内で生産された四輪車・三輪車・二輪車を常時60台以上展示しています。

特徴:この歴史館では、日本のモータリゼーションの先駆的な役割を担った、主に昭和20年代から40年代にかけての馴染み深い国産車(四輪・三輪・二輪)を常時60台以上展示。実働車がそのほとんどを占めることからも、年代物のヴィンテージ車を集めた展示資料館とは一線を画し、より身近な存在として訪れるものに語りかけてくれます。のりもの博物館 web site

■ 海ノ中道駅より東側


7.日本の名車歴史館、8.海ノ中道駅、9.テニスコート/Brady air base キャンプ博多HQ跡、10.ラッキーラガー円石柱看板、11.海の中道海浜公園 光と風の広場口、12.光と風の広場前バス停

■ 海の中道海浜公園 海の中道駅口

■ 8.海ノ中道駅

■ ⇒ 9.テニスコート/Brady air base キャンプ博多HQ跡

■ 9.テニスコート/Brady air base キャンプ博多HQ跡

このあたりが、Brady air base / キャンプ博多HQ(司令部)跡地らしい。HQ(司令部)に限らず、米軍の施設、建物が並んでいた↓


ソース


20が司令部(HQ: Head Quater) ↓ 当時の写真

▼ キャンプ・ハカタ/ブレイディ空軍基地  Camp Hakata/Brady Air Base

この基地は米軍の陸海空三軍が利用していた。だから名称にcampとbaseの両方が使われている。米三軍が使用の基地が他にあるのだろうか?

この基地は敗戦時1945年9月に占領米陸軍の第5水陸両用軍団 (V Amphibious Corps) [wiki]が進駐した。その後、第24歩兵師団[wiki]が駐屯する。1950年朝鮮戦争。米陸軍と米空軍のさまざまな部隊が博多駐屯地に配属された。博多のブレイディ飛行場と近くの板付空軍基地は北朝鮮に対する航空作戦を実施した。駐屯地は、韓国に派遣される部隊の拠点としても使用され、LSTやその他の上陸用舟艇が基地から出発した。」「1956 年 7 月 1 日、米空軍が基地の指揮と兵站の責任を引き継ぎました。この日、基地の名称はキャンプ博多からブレイディ空軍基地に変更され、第 5 米空軍の主要施設となりました」。(ソース

■ 海の中道海浜公園 カモ池口

■ 10.ラッキーラガー円石柱看板

 

■ 博多湾に面する海岸

 

 

■ ⇒ 11.海の中道海浜公園 光と風の広場口

かも池

■ 11.海の中道海浜公園 光と風の広場口

■ 12.光と風の広場前バス停

■ ⇒ 海の中海を東へ。雁ノ巣方面

バスから元の雁ノ巣飛行場(Bray Air Base)を見る

福岡第一飛行場:戦後はアメリカ軍に接収され「ブレディ飛行場」(Brady Air Base、施設番号・FAC 5006)の名称で主に輸送部隊の飛行場として使用されたwiki

戦前、福岡県粕屋郡和白村 雁の巣(がんのす)(現 福岡市東区)に「福岡第一飛行場」と呼ばれる日本最大規模の民間国際空港がありました。
戦後はアメリカ軍に接収され「ブレディ飛行場」の名称で輸送部隊の飛行場として使用され、1977年(昭和52年)に返全面返還されました。雁ノ巣飛行場の痕跡を訪ねて

「ブレディ飛行場」、 Brady Air Base。 この件 google)が有名らしい;

■ まとめ 通過街

福岡県福岡市東区

西戸崎 (のみ!)

 


筑紫洲 (つくしのしま) でもぶどう記録;第40週

2024年12月28日 19時29分37秒 | 筑紫洲 (つくしのしま)

▲ 今週のみけちゃん
▼ 筑紫洲 (つくしのしま) でもぶどう記録;第40週

■ 今週のよその猫

■ 今週の筑豊境

■ 今週の種取り&ジャムつくり

■ 今週の大福

ゆきだるま大福: 商品紹介

■ 今週の百万個突破

【阪急ベーカリー】【フレッズカフェ】シリーズ累計販売数100万個突破!大人気商品の「生ドーナツ」に『リプトン』のロイヤルミルクティーをイメージした新フレーバーが登場!

1個買った。220円。

リプトンってオランダの会社と知る(wiki)。

クリームの量が多い。紅茶風味クリーム。この紅茶風味はどうやってつけるのか? 紅茶の濃厚「シロップ」があるのか? 紅茶の葉から抽出した「原液」みたいなものがあるのか?

「生ドーナッツ」というより、リプトンのロゴデザインって印象的だなぁと思ったので、買った。

■ 今週のレコンキスタ史跡訪問

国営・海の中道海浜公園(公式 web site)。福岡県福岡市東区西戸崎。

日本には国営公園が16あると知る(全国の国営公園)。そのうち少なくとも3つは米軍からの返還の土地である(レコンキスタ!)。去年まで毎年お参りした立川の昭和記念公園もそうだ。そして、ひたち海浜公園もそうであった;射爆場(愚記事:ネモフィラで有名なこの公園は、国営公園であり、公園造成以前は米軍の射爆場であった)。

今週、お参りした国営・海の中道海浜公園もその例。元は、キャンプ・ハカタ(Camp Hakata)[wiki]。

公園内に米軍の痕跡はほぼない。例外はこれ;

  

▼ カモ池

■ 今週の基地外米軍ハウス

福岡県福岡市東区西戸崎

■ 今週の親米派:福岡県福岡市東区西戸崎

➡ SAITOZAKI アメリ化(カ)再現プロジェクト

西戸崎を盛り上げるために集まった町おこし集団のことを、キャンプハカタプロジェクト(略して”CHP”)と呼んでいます。 ➡ キャンプハカタプロジェクトとは?

■ 今週の浜辺


福岡県福岡市東区西戸崎

■ 今年の訃報

 竹本信弘(wiki)

元新左翼理論家・活動家の竹本信弘(たけもと・のぶひろ)さんが7月14日、肺炎のため死去した。84歳。葬儀は近親者で営んだ。ソース

過激派を扇動する滝田修氏(本名・竹本信弘)の言葉が注目されるようになったのは、1969年ごろからである。当時、滝田氏は京都大学の助手。全共闘系で頭角を現すが、組織や教条主義を嫌い、「ごちゃごちゃ言わんで、やらないかんのや」と既成の左翼を批判していく。

評論家の呉智英氏は言う。

「活動家として真面目というより、あけっぴろげで、おっちょこちょいに感じました。話や文章はロマンチシズムに富み、だんだん自己陶酔していく面がありました」ソース

今週は今年最後。竹本信弘/滝田修は7月に死亡し、8月に公表されたらしい。当時、気づかなかった。2月に死んだ桐島聡の報道の大きさとは対照的に地味だった。

 桐島聡

竹本信弘/滝田修の容疑は1971年の自衛官殺害事件。いわゆる「1968年革命」の盛りが過ぎたあとの事件。竹本信弘/滝田修の容疑は桐島聡とは世代が違う。1940年生まれ。西部邁と同じ年なのだ。三島由紀夫の事件に煽られ、自ら「左翼」を煽った;

「われわれ左翼の思想的敗退だ。あそこまでからだをはる人間をわれわれは一人も持っていなかった。動転した」「70年代の闘争をやり抜くためには、新左翼の側にも何人もの"三島"をつくらねばならん」と発言し、パルチザンを組織して闘争を行うことを主張。

1971年の自衛官殺害事件後、10年間逃亡生活をする。1982年、逮捕。この逮捕を、おいらは憶えている。この頃/この直後、呉智英や村上春樹が彼らの「潜伏期」を経て、世に出てくる。

愚記事より;

「赤衛軍事件」についておいらが知ったのは1980年代に入ってから。当の滝田修が、10年にもおよぶ逃亡の末、遂に逮捕された後。ただ何となく知っただけで、事件の詳細は知りようもなかった。ネットで何でも検索できる現在とは、情報の環境が全然違う。ただ、その事件で当時現職の京大経済学の助手が指名手配され、10年逃亡したことが話題になっていた。それだけ。最近、この昭和の一事件の回顧を読むこととなった。昭和の成仏のために。

指名手配され、10年逃亡した滝田修が、逮捕された1983年に言う;

―  わけても「王様は裸だッ!」などと、ホントウのことを大声で叫ぶ輩は、ふん縛ってぶち込まなければならぬ。だれでもよい、イケニエの羊をひきずり出して、痛い目に合わせろッ!と。イケニエは、それらしい匂いがいささかでもすれば、だれでもよかったのであろう。彼らが問おうとしていたのは、たんに「一個の人間」ではなく、「時代の全体」であったのだから―。
「あの時代」そのものを封じ込み、抹殺すること、まさにその点にこそ、権力の利害はかかっていたのである。
  - 滝田修、『わが潜行四〇〇〇日』

■ 


大分県散歩3:別府、キャンプ・チッカマウガ跡地

2024年12月27日 06時20分55秒 | 筑紫洲 (つくしのしま)

大分散歩3:別府、キャンプ・チッカマウガ跡地。別府に行った目的は、別府公園=キャンプ・チッカマウガ跡地へのお参り。大分県の別府には戦後米軍基地があった。キャンプ・チッカマウガ。この米軍基地の特徴は新築であること。日本敗戦後の進駐軍の基地は旧軍の施設(大日本帝国陸海軍の基地)を利用した例が多い。この新築の米軍用の基地というのは、札幌郊外のキャンプ・クロフォードもそうである。さらに、この札幌に進駐し駐屯した米陸軍・第187空挺グライダー歩兵連隊第11空挺師団の傘下)が、その後遍歴を経て、この別府に来たと知る。札幌と別府の共通点があって、それは戦時中に空爆を受けなかった都市であること。その別府のキャンプ・チッカマウガ跡地をお参りした。もちろん、レコンキスタ史跡探訪だ。

前の晩は鉄輪温泉に泊まったので、バスで別府駅へ向かう。途中に別府公園前というバス停があったので降車。


1.別府公園、2.グローバルタワー、3.京都大学熱学研究所、4.別府翔青高校、5.大学橋、6.新六角温泉

▼ キャンプ・チッカマウガの地図 ↓ 。 番号は上と同じ。

■ 1.別府公園

元は1907年(明治40年)10月に完成した公園である。現在の公園の南側一帯が、当時の別府公園であり、現在の市営テニスコートや元・青山幼稚園などに位置していた。完成直後の11月7日には皇太子時代の大正天皇が巡幸している[2]。1928年(昭和3年)の中外産業博覧会、1937年(昭和12年)の別府国際温泉観光大博覧会は、いずれも別府公園を主会場として開催された。

しかし、第二次世界大戦後に接収されて駐留米軍のキャンプ(キャンプ・チッカマウガ。チッカマウガはチカマウガ戦争で知られるインディアンの呼称。)となり、1957年(昭和32年)に日本に返還された後も、引き続き陸上自衛隊別府駐屯地として使用された。wiki


別府国際温泉観光大博覧会(google画像


メタセコイア。戦後派だ。


旧来の松林。

▼ キャンプ・チッカマウガ時代の写真


ソース


ソース


ソース 松林の中に基地ができたらしい。

■ 2.グローバルタワー

大分県出身の世界的建築家、磯崎新氏の設計による
ビーコンプラザのシンボルタワー

2本の支柱とそれを支える弧状の柱がユニークなデザインのビーコンプラザのシンボルタワー。
地上100mに位置するガラスの箱のような印象の展望台から別府市内を一望することができます。
昼間は別府温泉の立ち上がる湯気、青く広大な海、標高1,375mの鶴見岳などの大パノラマが、
夜には「日本夜景遺産」に認定されたムード満点な街の煌めきが眼前に広がります。web site


利用料、300円です。

■ 3.京都大学熱学研究所

➡ この戦前からある建物は進駐軍に接収されなかった(愚記事:進駐軍はお熱いのがお嫌い?(Some dislike it hot?)

■ ⇒ 4.別府翔青高校

旧キャンプ・チッカマウガ地域。このあたりはディペンデント・ハウジング(将校宿舎)域。

キャンプ・チッカマウガは米軍撤退の後、自衛隊駐屯地となる。さらにその後自衛隊は移転。現在は自衛隊の施設ではないと思うだのだが、張り紙がある。

■ 4.別府翔青高校

■ キャンプ・チッカマウガの当時の様子:撤退する米陸軍・第187空挺歩兵連隊、1955年

キャンプ・チッカマウガに駐屯した米陸軍・第187空挺歩兵連隊の別府到着と別府撤退の両方の動画がある。YouTubeで見ることができる。
到来・United States Army 187th Airborne Regimental Combat Team returns to Japan from Ko...HD Stock Footage
撤退・Big Picture: Operation Gyroscope

下記画像は上記「撤退」の動画から取った(到着時の画像切取りはこの記事);


packing(引越しの梱包)


米軍を撮ったあまたの写真において、この写真の特徴は「松」


正門を出る米陸軍・第187空挺歩兵連隊


キャンプ・チッカマウガから別府駅までの行軍。紙吹雪で送られる。


別府駅。 FAREWELL  TO 187 ABN □□ :さらば!第187空挺歩兵連隊

「farewell」は英語で「別れ」を意味する言葉で、友人や家族、同僚などとの別れを表現する際に用いられます。特に永遠の別れや、再会の見込みが薄い場合に使われることが多いです。google)。 ところが、<奴ら>は、一昨年(2022年)に再来したことは報告した(愚記事:子猿をめぐる冒険 :米陸軍第11空挺師団の再興2022と再来;They shall return, again since 1947)。なお、since1947は間違いである。since 1956である。1956はもちろん上記別府から去った年だ。

別府市長さん(右から2番目)だそうです。

▼ 米軍基地の特徴:兵舎域と将校用家族住宅域の相違


曲線道路で特徴づけられる占領軍住宅地 

一般兵士用の兵舎は整然とした区画に建てられている。一方、将校用の家族住宅は曲線道路で特徴づけられる区域にある。これはキャンプ・クロフォードと同じ。

■5.⇒ 大学橋

この大学橋の通りは当時基地外ではあったが、道路は接収されていたとのこと。キャンプ・チッカモウガの北側には境川を越えて南荘園町というのがある。ここに基地外の米軍住宅があったらしい。それらは日本人用住宅を米軍が借り上げて、住んでいたらしい。

第187空挺歩兵連隊と交代してキャンプ・チッカマウガに駐屯した第508歩兵連隊(wiki)のweb siteにあった;
OFF-BASE DEPENDENT HOUSING = 基地外の扶養家族用住宅



http://www.508pir.org/odessey/japan/beppu_10b.htm

この第508歩兵連隊、のちにテト攻勢のフエの戦い [wiki]に参加

■ ⇒ 境川沿いを歩き、新六角温泉へ

6.新六角温泉

キャンプ・チッカマウガ跡地をお参りするため予習をした。そのとき地図で特徴的街並み・区画を見つけた。あぁ、何かこれは米軍と関係するのあろうか?と思った。それにしても、米軍駐屯地で多角形の街並みというのは見たことがない。多角形なのは<奴ら>の司令部の建物だ(愚記事:札幌郊外の米軍ペンタゴン)。道ではない。歴史を調べるためには、過去の航空写真を見ればい良い。見た。何と、戦前からある。進駐米軍より以前からあるのだ。奇妙な街並み。この時点で、田園調布を散歩したことがあるのに、全く気付かなかった。検索して、知った、緑ヶ丘中央温泉(六角温泉)について。


昭和14年(1939年)の航空写真

緑ヶ丘中央温泉(六角温泉)について

昭和8年、泉部土地建物の全身の会社である、国武合名会社は観海寺・荘園一帯を郊外型高級別荘地として開発を計画し、荘園は「緑ヶ丘(みどりがおか)」「雲雀丘(ひばりがおか)」「百花村(ひゃっかそん)」「鶯谷(うぐいすだに)」と4つのエリアに分け、それぞれの中心付近に共同温泉を建設した。

「緑ヶ丘」(現南荘園町)は、同心六角形の放射状街路で構成され、その中央には街のシンボル的な存在の六角形の外観を持つ緑ヶ丘中央温泉(通称六角温泉)が建設された。この共同温泉は地域の社交の場、娯楽の場である。放射状の街づくりの原型として考えられたのが「東京・田園調布」「パリ・シャルルトゴール広場」であった。

六角温泉は昭和8年浜脇の大工・田仲亀鶴によって建築された。

平成16年9月、六角温泉は大型台風の罹災に遭い大破。

平成17年1月より「新六角温泉」の建設が始まり、同年5月完成する。

⇒ 「別府=パリ?」80年前には放射状の形に 中心のシンボルは会員限定の温泉
⇒ 【大分・別府】温泉地に現れた謎の道路模様

■ ⇒ 境川沿い、バス停・野口原へ

栄光園は、戦後の窮乏と困難のなかにあって捨てられた混血児を暖かく迎える施設として1950年財団法人基督教栄光園として発足しました。web site


大分県散歩2:別府市、鉄輪(かんなわ)温泉

2024年12月24日 16時46分50秒 | 筑紫洲 (つくしのしま)

■ JR大分駅

JR大分駅から別府駅まで普通列車で向かう。

中山香=なかやまが、初めて知る。


ワンマンカーの運転席。

■ JR別府駅

■ 駅周辺

駅周辺には昭和レトロの通りや街並みがあり、猫も多いとネットにあったが、逢えなかった。

大きなスーパーで見た↓

りゅうきゅう:瀬戸内海に面し、豊富な魚介類に恵まれる大分県では、アジやタイ、太刀魚、イワシ、サバなど四季折々のさまざまな魚介が水揚げされる。
「りゅうきゅう」は、地元でとれた新鮮な魚を、醤油、酒、みりん、ごま、しょうがでつくるタレと和えていただく、大分県の代表的な郷土料理。一種の保存食として地元に浸透していった。
「りゅうきゅう」という名については諸説ある。大分の漁師が、沖縄(琉球)の漁師につくり方を教わり、地元に持ち帰ったことから「りゅうきゅう」と呼ばれるようになったといわれる説や、ごま和えにする料理を「利休和え」と呼ぶことから派生したという説がある。漁師たちにとってのまかない飯、また保存食として、南部の沿岸地域から大分県全域に広まった。農水省 web site

別府駅から鉄輪温泉に行かねば。

■ ➡ 鉄輪温泉

バスに乗ると、本日無料と知る。

■ 鉄輪温泉

鉄輪温泉(かんなわおんせん)は、大分県別府市(旧国豊後国速見郡)にある温泉で、別府八湯の一つ。温泉の湧出量では日本最大である別府の源泉の大半が鉄輪に集中している。湯治場の面影を濃く残し、レトロな町並みと別府地獄めぐりの多くが鉄輪温泉にある。wiki

バス停、地獄原・ひょうたん温泉で、別府駅からのバスお降りる。

▼ いでゆ坂

大江戸温泉物語Premium ホテル風月(web site)。じゃらん web site

別棟の風呂↓

▼ ホテルの部屋の窓からの風景

■ ごはん:(疑似)「地獄蒸し」

夕食、朝食、共に、バッフェイ(バイキング)。蒸し料理があった。ただし、温泉の蒸気えはなく、固形燃料を使った加熱形式。

温泉から噴出する高温の蒸気熱を利用した調理法で、別府では江戸時代から用いられていました。 食材をざるにのせ「地獄蒸し釜」と呼ばれる約100度の蒸気が噴き出す釜の中に入れ、蓋をするだけ。 塩分を含む温泉蒸気で一気に蒸すため、食材本来の旨味が閉じ込められます。google

さざえ、豚、いか、そして、キャベツ。

 頑張って燃える固形燃料

▼ 郷土料理

やせうま:

■ 夜の散歩 

マルショク。北九州では「サンリブ」というのだ。同じ「系列」。

マルショクとサンリブは、かつてはグループを形成していましたが、2017年9月1日にマルショクがサンリブに吸収合併され、法人としては「サンリブ」や「サンリブグループ」を名乗っています。マルショクは引き続き運営店舗のブランド名として残っています。google

▼ 支那物産展?

■ 夜明け前の散歩


↑おるで↑

温泉が流れる側溝のふたの上に陣取る猫。別府、鉄輪温泉ではよくある風景とのこと。ネットの案内に書いてあって、実物を確認できた。

■ 地獄

落ち着いた雰囲気の和風庭園にある白池地獄は、噴出した無色透明の温泉が、池の底面に落ちる際に温度と圧力が低下することにより、自然と蒼白い色合いになることから「白池地獄」と命名されました。web site

■ そして、郭沫若

何の予習もなく散歩してたら、ばったり見つけた。郭沫若詩碑。現在、中文研究者で郭沫若を研究している人っているのであろうか? その昔、1980年代後半は、その言動で、すっかり、相手にされなくなっていたような気がする。

郭沫若の自己批判の劇的なる文章は下記;

 数十年来、ずっとペンを持ってものを書き、そしていくらか翻訳もしました。字数から言えば、恐らく数百万字があったかもしれません。しかし、今日の基準を持って判断するなら、以前書いたものは、厳格にいうなら、全て焼き尽くすべきで、まったく価値がありません……。わたくしは今労農兵に学ぶべきです。そし て彼らを師として仰がなければなりません。わたくしはすでに七十いくつになりましたが、志なら大きなものがあります。つまり全身泥まみれ、油汚れまみれ、そして血まみれになりたい。もしもアメリカ帝国主義が攻撃してくるなら、彼らに向かって手榴弾でも投げたいものです……。

(愚記事:福田恒存の「支那通」力、あるいは、「文革劇」に、自ら、参加していたこと

▼ 石碑解説

この詩碑に刻まれているのは、郭沫若先生が昭和三十(1955)年に別府温泉を訪れた際に詠んだ自筆の詩です。郭沫若先生は、地獄めぐりの後、別府に投宿し、心ゆくまで別府の味と温泉を堪能しました。
地獄の凄愴な光景と湯のぬくもりは、よほど心に残ったのでしょう。後日、別府でのおもてなしのお
礼にと、この自作の詩を関係者に贈りました。

郭沫若先生(1892~1978)は、中国の政治家、文学者で、歴史学者としても世界的に著
名な業績があります。また、戦前は、九州大学に留学し、その後、中日友好協会会長として両
国の友好親善に大きな足跡を残しました。

別府市は、昭和五十三(1978)年、別府市日中友好協会のご協力のもと、各界の日中友
好人士や団体・企業などから、詩碑建立の浄財を集め、翌五十四年に除幕式を執り行いまし
た。この詩碑により、世界に誇るわが別府温泉が日中両国の懸け橋となり、末永い友好に寄与
できますよう念願しております。 別府市 web site

■ 八仙人彫刻像

「八仙人」は、中国で広く伝わっている男性7人、女性1人の計8人の仙人のこと。悪人を懲らしめ、貧しい人を助けると言われ、多くの伝説が伝わっている。日本でいう「七福神」のようなものだという。鉄輪地獄地帯公園内の十万公園に設置されている。ソース

■ 鉄輪バス停

 

 

 


大分県散歩:大分市、OPAM 大分県立美術館 、ダリ展、そして、りゅうきゅう丼、鶏天、あるいは、ぶんぶん童子

2024年12月23日 05時00分00秒 | 筑紫洲 (つくしのしま)

大分県の大分市と別府市に行った。まず、大分市に行く。大分県立美術館(OPAM:Oita Prefectural Art Museum)のダリ展を見にいくためだ。JR日豊本線で南下し、大分に向かった。

1.JR大分駅、2.大分銀行 赤レンガ館、3.若草公園、4.大道入口、5.OPAM 大分県立美術館、6.中央町2(寿司ろばた、八條)

■ 日豊線で北九州市から大分市へ

■ 1.JR大分駅

ぶんぶん童子:ミツバチの子 ぶんぶん童子は、大分県の分(ぶん)と豊後の豊(ぶん)にちなんだ「ぶんぶん号」の安全と子どもたちの笑顔と幸せを見守っています。google

大分駅前のクスノキ(google)。

■ 2.大分銀行「赤レンガ館」

1913年(大正2年)、旧二十三銀行本店として建てられた大分銀行「赤レンガ館」。 東京駅なども手掛けた辰野金吾氏による設計で国の登録有形文化財にも指定されています。 2018年には、外観や内装の一部を改装し、美しいルネサンス様式の歴史ある建物が一層魅力的に生まれ変わりました。web site

辰野金吾だ。なお、大分市は磯崎新の出身地で、「作品」がたくさんある➡大分市内の磯崎建築を紹介します

大分銀行「赤レンガ館」は、敗戦前は大分貯蓄銀行であり、大分空襲で市街は焼け野原となるも、同銀行の赤レンガ外壁は残る。

大分貯蓄銀行:大分市貯蓄銀行は大工町の西北角にあり正面玄関は竹町の面していた。向いは一丸百貨店で、一丸も焼け落ちた。建物は2階建て、483㎡の総床面積をもっていた。10mの軒高があり、43㎝の暑さの耐火レンガの外壁で覆われていた。内部には金庫があり、その扉は火災でひどく歪んだが、その内部と内容物は被害を受けなかった。主要な建物の大部分は外壁を残して完全に燃え尽きた。外壁は構造的な損害を受けなかった。この建物に火災を起こしたのは直撃弾であった。入り口から内部の様子が少し見えるが、完全に破壊されているのが伺われる。米軍資料の写真で見る大分市の空襲

■ 3.若草公園

公園内には、国鉄C55形蒸気機関車が静態保存されている。この蒸気機関車は1937年(昭和12年)に製造されたもので、1971年(昭和46年)まで主に日豊本線で旅客列車に使用されていた。1972年(昭和47年)に大分鉄道管理局から大分市に無償で貸与され、大分駅からの約700mを仮設線路を敷いて一晩かけて公園まで移動[7]。4月11日から展示された[8]。大分市内の小中学生から募集して、戦国時代の豊後国の大名大友義鎮(宗麟)に因む「そうりん号」という名称が付けられているwiki

■ ➡ 4.大道入口

■ 4.大道入口

■ 5.OPAM 大分県立美術館

生誕120周年 サルバドール・ダリ ―天才の秘密― (google)


ダリの生誕120周年、シュルレアリスム宣言100年の記念すべき節目に開催する本展は、世界屈指のダリ・コレクションを誇る諸橋近代美術館の所蔵品を中心にダリの生涯を概観し、ダリの渡米以降の活動にも注目します。ダリが私たち観衆に魅せた「シュルレアリスト・ダリ」とその背景にある「人間・ダリ」の複雑で繊細な内面を探り、世界中で愛されている サルバドール・ダリがいかなる芸術家であったのか、ダリの油彩、素描、 版画、彫刻のほか、シュルレアリスムの作家の作品群から明らかにします。作品約70件と関連資料を展示いたします。(Opam web site)

ダリとはいかなる芸術家であったのか。
「シュルレアリスト・ダリ」とその背景にある
「人間・ダリ」の複雑で繊細な内面から天才の秘密を探ります。
サルバドール・ダリ(1904-1989)生誕120周年、シュルレアリスム宣言100年の記念すべき節目に開催する本展は、世界屈指のダリ・コレクションを誇る諸橋近代美術館の所蔵品を中心にダリの生涯を概観し、ダリの渡米以降の活動に注目します。ダリが私たち観衆に魅せた「シュルレアリスト・ダリ」とその背景にある「人間・ダリ」の複雑で繊細な内面を探り、世界中で愛されているダリがいかなる芸術家であったのか、ダリの油彩、素描、版画、彫刻のほか、ミロやマグリットなどシュルレアリスムの作家の作品などから、ダリの多様な側面を明らかにいたします。作品約70件と関連資料を展示いたします。 (Opam web site)

▼ ダリ展

 

 

下段はダリの作品ではない。下段左:ジョルジオ・デ・キリコ《イタリア広場》1914年 

➡ 諸橋近代美術館 主なコレクション

▼ 2階へ

美術家たちは自らの心の中で作り出したイメージを様々な手法で表現しています。江戸時代の南画家たちは、見ることのできない中国の仙境を心の中でイメージを膨らませながら描き出しました。近代に入ると眼に見える世界を超越した心の内面を表現しようとする美術家たちがあらわれます。日本画家・髙山辰雄は、自然と人間とのつながりや、生命の不思議に思いをめぐらせ、その思念の先に紡ぎ出した象徴的なイメージを通じて独自の画境を切り拓きました。洋画家・糸園和三郎は、シュルレアリスムを創作の起点として、静謐な心象風景の中に、現代に生きる人々の不安や孤独を詩情豊かに描き出しました。
本展は「生誕120 周年 サルバドール・ダリ」展の開催にあわせて、大分県立美術館のコレクションより人間の心の内面を写し出した作品を紹介します。Opam web site

            
糸園和三郎《鳥と青年》1959年     田口壮《季節の停止》1938年

■ 県立美術館から駅へ戻る。途中、中央町でお昼ごはん。

■ 6.中央町2(寿司ろばた、八條)

➡ 食べログ

■ 大分駅に戻る

大友宗麟像。大友宗麟の名前は知っていたが、大分とは知らなかった。そして、家に帰り調べると、やはり、やばい人だった;

大友宗麟の野望は、日向国の全領民をキリスト教徒に改宗させ、ポルトガルの法律と制度を導入してキリスト教の理想郷を建設することで、宣教師たちの言いなりになって現地の神社仏閣を焼き尽くしました。

島原半島南部を支配していた小領主の有馬晴信(大村純忠の甥)は、龍造寺隆信に圧迫されると、イエズス会からの支援を得るために洗礼を受け、キリスト教徒となりました。

軍事力を強化して和睦に成功すると、宣教師の求めるままに、家臣・領民の入信に加えて、40か所以上の神社仏閣を破壊したばかりか、領内の未婚の少年少女を捉えて奴隷として献上し、さらに浦上の地まで差し出してしまいました。 (1571年「日本人奴隷の買い付け禁止令」が出されたほどの悲惨な歴史

大友宗麟自身が日本人を奴隷として売ったかは書いていない。ただし、耶蘇となってのちの奴隷貿易をする耶蘇・毛唐の活躍の端緒をつくったらしい。

皮むき冷凍みかん(google)。 JX金属は佐賀関に精錬所があると知る(web site

■ まとめ

通過街
大分市 要町、末広町、中央町、寿町

 


筑紫洲 (つくしのしま) でもぶどう記録;第39週

2024年12月21日 18時00分00秒 | 筑紫洲 (つくしのしま)

▲ 今週のみけちゃん
▼ 筑紫洲 (つくしのしま) でもぶどう記録;第39週

■ 今週のよその猫

■ 今週の草木花実

■ 今週の鬼

鬼柚子(おにゆず)は、獅子柚子(ししゆず)とも呼ばれ、文旦の亜種に属する柑橘類です。主に九州地方で栽培されており、濃厚な香りが特徴です。google

■ 今週の丼

りゅうきゅう丼

りゅうきゅうは、大分県を代表する郷土料理で、アジやサバ、ブリ、カンパチなどの魚の切り身を醤油、酒、みりん、ごま、しょうがなどで作ったタレに漬け込んだ料理です。薬味にはネギやワサビが添えられることが多く、酒の肴や丼飯に載せて食べられます。google

■ 今週の泉都
 
別府市 鉄輪(かんなわ)温泉
 
■ 今週の田園に架ける
 
 
■ 今週の郷土料理:やせうま
 
 
やせうま:やせうまは、大分県を代表する郷土料理で、小麦粉を練ってひも状にのばし、ゆでた後にきな粉や砂糖をまぶして食べるおやつです。google
 
■ 今週のオブジェ
 
 
ぶんぶん童子:「ぶんぶん童子」は奈良のせんとくんをデザインした薮内佐斗司氏が制作した作品です大分駅のキモかわオブジェ !改札口にある昆虫のせんとくん【大分市】
 
■ 今週の展示
 
 
 
大分県立美術館
 
■ 今週のレコンキスタ史跡探訪(現、別府公園)
 

元は1907年(明治40年)10月に完成した公園である。現在の公園の南側一帯が、当時の別府公園であり、現在の市営テニスコートや元・青山幼稚園などに位置していた。完成直後の11月7日には皇太子時代の大正天皇が巡幸している[2]。1928年(昭和3年)の中外産業博覧会、1937年(昭和12年)の別府国際温泉観光大博覧会は、いずれも別府公園を主会場として開催された。

しかし、第二次世界大戦後に接収されて駐留米軍のキャンプ(キャンプ・チッカマウガ。チッカマウガはチカマウガ戦争で知られるインディアンの呼称。)となり、1957年(昭和32年)に日本に返還された後も、引き続き陸上自衛隊別府駐屯地として使用された。wiki

 
 
 
 
さて、このツリーは「正の遺産」なのか?、「負の遺産」なのか? どちらなのだろう?
 
 
別府公園
 
下の地図での「下士官宿舎」、「将校宿舎」の方面
 
 
■ 今週の気づき:進駐軍はお熱いのがお嫌い?(Some dislike it hot?)
 
 
1922年7月より研究所本館の建設工事が始まり、翌1923年12月竣工、明けて1924年1月26日より別府地域の予備調査と事務が開始されました。日本での地球科学的温泉研究のあゆみ(5)
 
1923年にできたこの京大の附属研究所の建物は、敗戦時にもあった。つまり、米占領軍が別府に進駐して来たとき、あった。でも接収されなかった(ようだ)。事実当時の地図を見ると京大施設ととなりの建物(現市立美術館、当時おそらく旧制中学?)は接収されていないようだ。なお、上のキャンプ・チッカマウガのポンチ絵地図はその部分は不正確である。
 
つまり、現京大熱学研究所は米軍に接収されなかった。これは、北大の低温研が進駐軍に接収されたことと対照的である。愚記事:敗戦後、1946年、札幌に進駐した米陸軍、第11空挺師団の演習場所:札幌飛行場、羊ヶ丘、あるいは、接収された北大。北大の低温研を接収し駐屯した米軍部隊のひとつが米陸軍第187空挺歩兵連隊(第11空挺師団)である。朝鮮戦争前に米国に帰り、朝鮮戦争後に別府に進駐/「帰還」した。進駐/「帰還」先がキャンプ・チッカマウガ。米陸軍第187空挺歩兵連隊は低温研は接収したが、熱学研は接収しなかったのだ。進駐軍はお熱いのが嫌い?
 
北大低温研。
 
敗戦で北海道大学(北大)は接収されたのだ。あんまり、知らなかった。はっきりした資料があった。北大の低温研は敗戦後、1945年10月3日に接収された。「48時間以内に出ていけ」と通告されたのだという。低温研の所長はあの中谷宇吉郎 [wiki]だ。愚記事
 
■ 今週の訃報
 
渡辺恒雄死去(google
 
愚記事:「代々木の隠しだま
 
ネット情報によると、歴代内閣の官房長官は月に一度、渡辺恒雄に政情説明を読売新聞本社に出向き、実施していたとのこと。渡辺恒雄のマスコミと政治の癒着は周知であるのに読売新聞以外のメディアは何も批判しなかった。これは日本にjournalismがないことの証左である。渡辺恒雄もジャニー喜多川もマスコミのだんまりで安泰として死を迎えた。
 
強烈な体験がその後の一生を決めてしまうのは起こりうることである。同情するしかない。渡辺恒雄は東大生として兵役に従事し、受難したことが、その後の渡辺恒雄をつくったのは有名な話だ。「軍国日本」を呪詛することとなる。インテリさまの自尊心を踏みにじって [1]、かつ、生かして返すと、後でとんでもない復讐を受けるよい例だ。戦後はこういう「傷つけられた自尊心(自己愛!)」をもつインテリさまたちが「日本」に復讐をし続けた時代であった。
 
[1] どっかで読んだ気がするのだが、東大のナベツネを殴ったのは早大の兵隊であったと。フミオか!
 
この渡辺恒雄に代表される兵役経験による受難を受けた人を参照として見るべき人は、渡辺恒雄より1歳年上の三島由紀夫である。もし、三島由紀夫が兵隊に行ってたら、三島のその後はどうなったであろう?
 
この人たち↓は、三島事件について、「あいつは戦争を知らないんだよ」と了解していたのだろう。
 
世代の昭和史 「戦争要員世代」と「少国民世代」からの告発

■ 今週のキリ番
  ブログ開設から7474日
 

筑紫洲 (つくしのしま) でもぶどう記録;第38週

2024年12月14日 18時00分00秒 | 筑紫洲 (つくしのしま)

▲ 今週のみけちゃん
▼ 筑紫洲 (つくしのしま) でもぶどう記録;第38週

■ 今週のよその猫

■ 今週の筑豊境

■ 今週の草木花実葉

■ 今週の黒酢

百菜 白身魚の黒酢炒め定食 (web site)

昔、グルーポン おせち騒動(google)というのがあった。wiki [スカスカおせち事件]。この「白身魚の黒酢炒め定食」でも、同様の事象が生じていたらしい ⇒ しかし、何か変だ。ホント、変だよ。騙されたのだよ。

■ 今週知ったパンの種類:クッペ

お米が高いので、パンの購入を強いられている。割引のパンを買う。

クッペ(coupé)はフランス語で「切られた」という意味で、中央に1本のクープ(切れ目)が入ったハード系のパンです。バゲットと同じ生地を使い、ラグビーボール型に成形して作られます。食べきりやすい大きさで、バターをのせて焼き上げます。google

どうやら、コッペパンと関係があるらしい。
 
■ 今週の「品質の劣る」もの、あるいは、没落「武士」のおコメ事情
 
関東(筑波山麓、横浜)にいたころは、ある農家からお米を、 おいらがお武家さま然としているからか、献上してもらっています  40歳すぎて非正規労働者なので恵んでもらっています、という状況だった。しかしながら、つくしのしまに来てからは、運送費が高いので、お米を恵んでもらう境遇から「没落」した。座食の停止。
 
 
お米が高い。ももたろう印の生活支援米を贖う。銘柄米と比べ、品質の劣るブレンド米だ。(Amazon
    • 規格外・未検査米といった低品質米を原料として使用しています。
    • 白いお米や小粒なお米、割れたお米、発育不良によるヤケ(黒い部分)が入っています。
    • 銘柄米と比べ、品質の劣るブレンド米です。
    • 品質にこだわりのあるお客様のご購入はお控えください。

■ 今週の「後見人」


https://x.com/mikishidaimon/status/1857035142046376026

↑ アカの方ではなく、 ↓この方です

愚記事より 山東昭子

■ 今週のお城、しかも、鳥瞰、小倉城

後述の博物餡から撮影

■ 今週の博物館:ゼンリンミュージアム(北九州市小倉)

ゼンリンミュージアム web site 

cocura:小倉、Cecugen:筑前、Bugen:豊前、Figen:肥前、Nagoya:名護屋。「十字」はキリスト教領ということか?

■ 今週知ったこと:1826年から認識、上記ゼンリンミュージアムにて

愚ブログでは札幌郊外にあった米軍基地キャンプ・クロフォードについて書いている。これだ↓

この地は現在、陸上自衛隊真駒内駐屯地である。真駒内というのは地名だ。元来、アイヌ語。その真駒内=マコマナイは1826年(文政9年)の和人の地図(高橋景保「蝦夷図」)で認識されている(地図の左下)。真駒内以外、琴似、当別、豊平(トイピラ)などが認めらる。

■ 今週気づいたこと、あるいは、米陸軍第187空挺グライダー歩兵連隊の履歴

2020年の3月末、すなわち、コロナの流行が始まった頃、おいらは、187GLI、第187空挺グライダー歩兵連隊を認識した。おいらが生まれた札幌に進駐してきた米軍部隊を調べた結果だ。その米軍の部隊名は187GLIという記号の情報だけがわかった。半日かけて、ネットで、187th Glider Infantry Regimentとやっとわかった。wikiedia: 第187歩兵連隊(アメリカ)。第187歩兵連隊は第11空挺師団の配下の部隊。


記号の横の文字は、187GLI、CAMP SEIENBERG。187GLIは、第187空挺グライダー歩兵連隊。CAMP SEIENBERGは札幌の月寒(ツキサップ)基地(愚基地:Camp Seidenberg Sapporo Japan, キャンプ シーデンバーグ 月寒 札幌)。

さて、第187歩兵連隊について、おいらが自覚的に認識した2020年3月末より以前に、愚ブログで紹介していると今週気がついた。新しい街でもぶどう記録;第194週 2018年07月28日 における「今週のどさくさ」に第187歩兵連隊の朝鮮戦争からの大分県別府への「帰還」に言及している。リンクした動画が下記だ;


「歓迎 187落下傘部隊 朝鮮からの帰還  別府市」

1953年の別府駅。朝鮮から日本に「帰還」し、別府の米軍基地に入る第187空挺歩兵連隊。

星条旗と日の丸と紙吹雪と大勢の日本人/別府市民に迎えられる第187空挺歩兵連隊兵士。
歓迎する温泉業?のおじさんたち ↓

この動画はプロパガンダ動画であり、前半では朝鮮戦争後の米軍の日本進駐の様子を映している。多くの日本人が歓迎している。もちろん、これは日米共同の歓迎組織がお膳立てしたのであろう。一方、動画の後半では敗戦直後(1945年)の占領軍の進駐の様子が移されていて、8年の歳月を経ての変化を示すことが、この動画の製作者の意図だ。米軍の占領で日本はこんなに米軍に友好的になりましたと。さて、後半の敗戦直後の様子で空襲による瓦礫の街が映るのだが、この光景は前半の別府の街とは違う街のはずだ。なぜなら、別府は空襲に遭わなかったからだ。今週知った。

■ 来週のレコンキスタ史跡探訪(現、別府公園)、あるいは、B-29が来なかった街

ということで、来週、別府の米軍基地のお参りに行くことにした。米軍基地の名はキャンプ・チッカマウガ。現在の別府公園とその周辺。


中学校 学習資料 ソース

映像がある(YouTubeにはない):昭和館デジタルアーカイブ キャンプ・チッカマウガ(野口原)別府、日本  米軍が進駐した大分県別府市を撮影した映像。米軍キャンプ内の様子や別府市内を観光する米軍兵士の様子が記録されている。