いか@ 筑豊境 寓 『看猫録』

Across a Death Valley with my own Distilled Resentment

なつかしい本の話; 石田保昭、『インドで暮らす』

2012年07月29日 18時25分01秒 | インド

二か月あまり前、猫々センセに言及されていた、石田保昭、『インドで暮らす』 (2012-05-30 何ゆえに)。

この石田保昭、『インドで暮らす』は、半世紀前に出た本だ。

小谷野さんはこの石田保昭、『インドで暮らす』の蝋山芳郎が書いた序文について、「序文に書くことじゃないというような感じの文章なのである」といっている。そして、「何ゆえに」と疑問を持っている。

「何ゆえに」?という疑問へのおいらの邪推は後段で書くこととして、そもそもこの石田保昭、『インドで暮らす』について書く。

▼こ の猫々センセの記事を見て、あーなつかしや、とおいらは思った。おいらがこの本を読んだのは1980年代前半。まさに小谷野さんが「83年の22刷だから 売れた本」というように、本来は1963年に出版された本なのに20年経っても巷では読まれていたのだ。ちなみにこの石田保昭がインドに滞在したのは 1959-1962年なので、60年安保の頃である。

すでに1980年代でも時代錯誤の印象が強い本だった。この後の日本保守革命とバブルでこの石田保昭、『インドで暮らす』を読む人は絶えたのだろう。

石田保昭という人は1930年生まれ。父も祖父も職業軍人という系譜。陸軍エリートの家庭の家風なのか、石田は陸軍幼年学校へ。そこで敗戦。

「一九四五年八月二日、西八王子にあった東京陸軍幼年学校に二万発の小型焼夷弾が落とされた。直撃弾で死んだ三人の戦友の死体が、焼け残った倉庫にころがされていた。」

「 一九五六年、私は修士コースを終った。博士コースの入学試験に落第したので、高等学校の講師をしながらひきつづき『インド・イラン評論』に仕事に従事していた。

 日本ぜんたいがぬるま湯のような太平な社会であった。私の頭のかたすみには、一九四五年八月二日になくなった戦友の死顔が消え去らないのに、世間の人びとの顔つきからは戦争のきずあとはもはやかげをひそめてしまった。(中略)私は日本人のものわすれの早いのに絶望した。」 (石田保昭、『インドで暮らす』)

という意識をもちながらインドに行ったということだ。ここで、「戦友」の表記に注意。陸軍士官学校はともかく、幼年学校の生徒も軍籍をもっていたのであろうか?もし軍籍をもっていたなら、すなわち軍人であったなら、おいらの愚記事の題名「日帝海軍最年少の復員兵、あるいは日帝廃棄物; 木田元さん私の履歴書」に疑問符がつきそうであった。なぜなら、木田元さんは1928年生まれであり、石田保昭さんは1930年であるから、石田さんの方が若いのだ。でも、日帝海軍最年少の復員兵という題は、日帝海軍と限定されているので、まぁ大丈夫。でも、石田保昭さんは、15歳で、敗戦。15歳の日帝陸軍復員兵となる。ゾル転して、一高(?)⇒東大と進む。

東大文学部の東洋史でインド史を専攻する。マスターは出たけれど、ドクターコースの試験に落とされる。その落第の後に「インドに行って日本語を教えないか?」と指導教官あたりから勧められた。

奇書、『インドで暮らす』

突然ではあるが、林真理子の業績として”「ねたみ・そねみ・しっとを解放」したことである”との斎藤美奈子の評(『文壇アイドル論』)が知られている。しかしながら、この本『インドで暮らす』石田保昭では、呪い、が公然と吐露されている。そして、僻み根性に基づくぐち、ひいては中傷が舞う。

   ●ひがみ篇

例えば、石田が駐印中に東大の考古学調査団が来る。この東大考古学調査団への感想がすごい。

このくだりは本書をコピーした↓ (クリックで拡大)。酔狂な方はお読みください。

 コピペ画像1

 コピペ画像2

東京大学インド史蹟調査団が来た(上のコピペ画像1の③段落)。⇒ニューデリーの日本人社会⇒ある商社のニューデリーの駐在員は、・・・スキヤキ、・・・ジョニー・ウォーカー、・・・ボンベイは公認売春地域である・・・さっぱりしたほうがいいね・・・アングロ・インディアンを買いに行く(上のコピペ画像1の⑤~⑦段落、コピペ画像2の⑧~⑨段落)。⇒⇒

 このオッサンは極端な例だが、日本人のあいだにこのようなことを赦す雰囲気があるかぎり、インドの人びとの持つ悲しみはわからないはずだった。
 そして、日本の「伝統ある」東洋史学をどう考えればよいのであろうか。-私が日本にいた時から抱いていたこの疑問は、ついに結論に達するに至った。  (上のコピペ画像2の⑪段落) 石田保昭、『インドで暮らす』

 つまり、東大の調査団が来たことに始まるこの話は、なぜかしら商社のオッサンの酒池肉林ばなしを挟んで、最後は日本のアカデミズムである東洋史学へのある種の評価断定に終わるのである。

  呪い篇

 そして、石田保昭は、のろう。

 私は、インド人官吏と同じ待遇を要求してインドにやってきた自分自身の馬鹿さかげんをのろった。へんな意地をだして給与改訂願を提出しなかった自分をのろった。また、外国人がインドで、三一〇ルピーの収入で、食事、部屋代、敷金、計六四五ルピーを支払わなければならないことに少しも神経をはらわない校長をのろい、事務長をのろい、インド政府をのろった。

「何ゆえに」?

この石田保昭、『インドで暮らす』の冒頭にある、蝋山芳郎が書いた序文が小谷野さんが興味、あるいは疑問をもった。なぜこんな「ひどい」文章を序文で載せるかと。例えば上の商社マンの話との関連を踏まえて、蝋山芳郎は書いている; 

石田君のような二七五ルピーという低額所得者は、当然のこと、日本人コロニ―から離れ、孤独のなかに、生活していかざるをえない。ときには冷房のバンガローに住み、冷蔵庫、自動車、自動車をもつほかの日本人の生活を横目でみながら、彼らの暮らしをぜい沢な生活として(中略)、思わずうらやむ気持ちになって、ひがんでみたくもなろう。また自分が招いた生活であって、他人に責任を転嫁すべき筋合いのものでないにしても、そのようなねたみの感情のとりこになるのもいたしかたなしと理解できる状況のひどさなのである。  石田保昭、『インドで暮らす』の冒頭にある蝋山芳郎の序文より

こういう物言いを小谷野さんは「序文に書くことじゃないというような感じの文章」と指摘している。

おいらは、以下の理由からこの序文は蝋山芳郎の「親心」なんじゃないかと思う。そして、この一見失礼な序は岩波の編集者からの依頼なのではないかと邪推する。

①まず、この新書の刊行に先立ち、石田保昭はトラブルを起こしている。すなわち、1961年頃、岩波の雑誌『思想』で現代インド知識人論を書き、インド人から批判を受けている。そもそもその石田のインド知識人論がインド駐在経験にかさをきた印象論のようなものだったと、今から見れば、推測できる。

②当時、1960年代初頭、岩波新書や『思想』に執筆できるのは、相当の文化人か大学教官であった。例えば、この1962年の時点でのインド記は堀田善衛の『インドで考えたこと』(1957年)[関連愚記事: 【堀田善衛が『インドで考え』なかったこと】]、海外記という観点からは、小宮隆太郎、『アメリカン・ライフ』(1961年)などある。堀田は、かっぱらいだったけど、芥川賞作家だし、小宮は当時東大助教授だ。この頃の岩波新書の刊行点数は極めて少ない。 

③つまり、無名な石田が、しかもドクターの試験に落ち、インド滞在という経験だけで書いたものを出版するかどうするか編者者・出版社で議論になったのではないだろうか?出版をしたい担当編集者は、他の編集者、出版社側そして岩波で本を書きたいと願う凡俗なあまたの文化人・大学教官などの作家予備軍の目を気にしなければいけない。

④そこで、石田保昭、『インドで暮らす』出版をしたい担当編集者は、この本やそれまで書かれた石田の文章に「偏り」があることをあえて認め、それを自覚していることを表明するために、思わずうらやむ気持ちになって、ひがんでみたくもなろう。また自分が招いた生活であって、他人に責任を転嫁すべき筋合いのものでないにしても、そのようなねたみの感情のとりこになるのもいたしかたなしと理解できる状況のひどさであったと、蝋山芳郎の「親心」としての序文を巻頭に載せることにしたのではないだろうか?それを進めたのは担当編集者であり、その動機は、印象論に基づくインド論への批判をかわすための保身的なものである、とおいらは邪推する。


▼ 

上記の「東京大学インド史蹟調査団」の代表として来たのが、荒松雄 (関連愚記事: 若泉敬 荒松雄 インド1952)に違いない。

 (その成果は現在ネットで見れる; 東京大学東洋文化研究所所蔵 デジタルアーカイブ デリーの中世イスラーム史跡:図面・拓本・地図集成 インド史跡調査団 )

東京大学インド史跡調査団は、山本達郎(団長・現東京大学名誉教授)、荒松雄(副団長・現東京大学名誉教授,歴史学)、月輪時房(現聖心女子大学名 誉教授、考古学)、三枝朝四郎(写真撮影)、大島太市(写真測量)の諸氏から構成され,1959~60年、1961~62年の二回にわたって現地調査を実 施しました。 (情報元: デリーの中世イスラーム史跡:図面・拓本・地図集成とは

『インドで暮らす』にも書いてある。

調査団の先生はときどき私をまねいてごちそうしてくれた。だが私には、日本から持参の食料も胃に苦しく感じられ、私は調査団のニューデリー滞在中、彼らのやることを他人の目で見ているようなことになったのだった。

恐らく、その石田を招いて日本からの食料を恵んでくれたのが、荒松雄ら偉いセンセたちだ。そして冒頭にも書いたが、彼らこそ石田保昭をドクターコースの試験に落第させた御先生たちでもある。

ただ、石田はひねくれて(?)傍観者きどりではよろしくなかったかもしれない。なぜなら、その時石田が就任していたインド国防省の外国語学校に日本語教師のポジションに、その数年前に就いていたのが、荒松雄だからである。恐らく、過酷なデリーで日本語教師をやっている石田を荒が気に掛けないはずがない。なぜなら、東大東洋史学は、日本の他のあらゆる組織と同様に、ムラ社会であるに違いないからだ。荒はムラ人として、同じムラ人、しかも同じ役職に今ついている石田に気遣いしないはずはない。

でも、石田はムラ人として「素直」になれなかったようだ。つまり、積極的に「東京大学インド史蹟調査団」の仕事を手伝い、大センセに媚を売り、あまつさえ、潜りんで込んでしまって、日本でよいポジションを得ようなどいう魂胆は見えない。石田のしたことは、私は調査団のニューデリー滞在中、彼らのやることを他人の目で見ているようなことになったのだった。

その理由は、「時がたつにつれて疑問がわきはじめた。日本が中国を侵略していたころ、京都大学でも東京大学でも、東洋史学は戦争に反対もせず象牙の塔にこもって沈黙を守っていたといわれる。」という意識を持っていたからだ。おそらく、へんな意地をだしたに違いない。

 

 

 

 


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2012年07月28日 07時58分52秒 | 草花野菜

 

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モンドリアン再見; 四半世紀ののちに

2012年07月22日 21時07分07秒 | 欧州紀行、事情

 
    ― ハーグ市立美術館、モンドリアンブース―


   ― ハーグ市立美術館―

オランダの辺鄙な街での出張業務の後、アムステルダムへの帰途、ハーグで途中下車。

ハーグ市立美術館はモンドリアンのコレクションをもっている。ただし、ニューヨークブギウギ(google)など最後記の作品以前のコレクション。習作からある。

●  もちろんハーグ市立美術館はモンドリアンコレクションだけではなく近世以来のオランダ絵画が展示してある。特に解説で印象深かったのは、オランダでは近世、painting industryが発達したのである、との文句。 industry!

さらには、現代美術の展示も強烈に行っている(例えば、図Z)。おいらが不意打ちを食らったのが、先日ネットで話題になっていた「ラジコン猫」。すなわち、交通事故で愛猫を失った"アーティスト"が、その愛猫を剥製にしてしかもラジコン仕掛けにして「作品」としたもの ( google)。 日頃、キチガイだなんだと奇を衒っているおいらもドン引きの作品。あったさ。全く、不意打ちに目に入ってしまった。その猫と目があった。どうやらビー玉の 目を入れ直してあるらしくまんまるとひらいた目を見てしまった。でも、それ以上見ないことにして、去った。もちろん、画像なし。

 図Z

■ 1987年

今回ハーグ市立美術館で見たモンドリアンコレクションを前回おいらが見たのは四半世紀前だ。1987年。宮城県立美術館 (関連愚記事:仙台参り【2009】 川内・宮城県立美術館 )。

当時の記録を見ると、おいらは1987年10月3日(土)に仙台市川内の宮城県立美術館で開催のモンドリアン展に行っている。午後3時。昭和の時代だ。記録を見ると、土曜の午前は授業に出ている。土曜は半ドンという昭和の時代!

モ ンドリアンをどうして好きになったか覚えていない。ただ、西部邁の『ソシオ・エコノミクス』の表紙がモンドリアンの『赤・黄・青のコンポジション』であっ た。この表紙でモンドリアンを知って好きになったのか、元々モンドリアンが好きで西部の本にひかれたのかは覚えていない。もっともこの本は1975年刊行 である。

このモンドリアンを表紙に採用したことについて西部邁は1987年に書いている; 

私は自分の最初の書物にモンドリアンの絵を使用した。一五年前の私がフォーマリズムの危険についてまだ無頓着だったともいえるが、それ以上に、形式化への要求が私にあって根深いものであることの確認でもあった。 (西部邁、『貧困なる過剰 ビジネス文明を撃つ』 第五章 形式主義・・・・ 意味の無化)

1987年当時、西部は1980年前半から『大衆への叛逆』を出し、大衆批判へ爆走していた。その頃、浅田彰と西部邁の対談で、浅田に"偉い先生も悪しき文学に目覚める例が多い"と西部を当人の前で揶揄した。果たして、『ソシオ・エコノミクス』という美しい本を出した西部も今じゃ出す本のタイトルが『小沢一郎は背広を着たゴロツキである。』だ。ずんせいは悲しいのだ。読んでみると、おもしろかったけど。 でも、(何かから)一番"逃走"したのは西部邁センセなのかもしれない。西部邁センセが真正保守というのもおかしいし、生き方が全然真正保守じゃないと思う。"逃走"だろ。"逃走"。そして、「ゴロツキはおめぇ~さんだろう!」というつっこみも否めない。

● なぜ「近代」はオランダで生まれたのか? なぜ、ミッフィーとモンドリアンはオランダで生まれたのか?

        

なぜ近代はオランダで生まれたのか?     なぜ、ミッフィーとモンドリアンはオランダで生まれたのか?

▼ 1987年はNHKの大河ドラマで独眼龍政宗を放映した年。おいらは見なかった。

【政宗公とおいら】:会ったことはない。1987年・昭和62年、おいらは仙台にいた。NHK大河ドラマ「独眼竜政宗」が 放映された年だ。その春、夏、おいらは仙台のお菓子工場(こうば)でバイトしていた。時給480円。その強欲なお菓子会社(従業員10人くらい)の社長夫 婦は大河ドラマによる仙台観光ブームに便乗してひともうけを企んでいた。白松がモナカから人を引き抜いて工場長(こうばちょう)とし、自分の店をたたんだ 元零細自営和菓子屋さんを職人1とし、和菓子屋の次男坊を職人2とし、ゆべしや笹かまパイなど既存の仙台菓子のコンセプトをぱくっては上記職人さんたちに 作らせて売っていた。(20年経ってその工場をセンチメンタルジャーニーしたら操業していなかった。当時からあった隣の雑貨屋に事情を聴くと、従業員との トラブルで操業中止となったらしい。あの強欲な社長夫婦を思い出し、当然と思った)。

そんな状況なので、その頃の仙台の政宗ブームは知っている。でも、おいらにとって伊達政宗っ て町内会長の先祖に過ぎなかった。全然興味なし。なぜなら、その頃のおいらは概念による全世界の掌握を試みていた (w!)のだ。町内会長はいいのだ。そもそもテレビなぞもってなかったし。仙台に住んでた頃は、青葉城址、大崎八幡宮、 瑞鳳殿など政宗ゆかりの名所は行ったことがなかった。なぜなら、彼は町内会長でしかなったからだ。なにせ、おいらは全世 界の概念的掌握を目指していたのだ

Wach Watch your step !】そして、40歳を過ぎた。全世界の概念的掌握どころか、何も掴めなかった。少年老い易く、学成り難し。筑波山麓でぼーっとしてたら、やってきた、伊達 政宗。仙台で未履修だった伊達政宗。筑波山麓で再履修せよ!だって。Watch my step ! 恐るべし、独眼竜。町内会長の逆襲。 (愚記事: 伊達政宗来ました; 霞ヶ浦湖畔・蔵福寺

▼ 2009年にはあった姿。今日もあれば四半世紀変わらぬ姿。

● 1987年からおいらがよく聞いている曲;

PSY.S - レモンの勇気 [PV]


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2012年07月21日 09時07分44秒 | 草花野菜

▼おいらのえさの出来具合;

▼今週のうめちゃんと三毛猫

 

 

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アムステルダム再訪; スピノザ像参拝

2012年07月18日 21時14分52秒 | 欧州紀行、事情

 

  
- 図1. アムステルダムのスピノザ像 -

おいらは、アムステルダムに縁がある。今回で3回目だ。外国の街で、長期滞在した街を除いて、これだけ何度も行くのは、6回行ったデリー(愚記事群:インド記)や観光も含め行ったマドリッド(3回行った)以外では、このアムステルダムだ。

縁がある理由は明確である。おいらの携わっている技術そしてその科学がヨーロッパで盛んなのだ。なぜかしら北米では盛んではない。次に盛んなのはアジア。ヨーロッパで盛んと書いたが、特にオランダ。だから、オランダに縁がある。あと、技術そしてその科学という観点からは、Elsevierの本拠地がオランダにあることも多かれ少なかれ関連している。

はじめて、オランダに行ったのは2008年

そして、去年(愚記事:スピノザ、 意志の自由、 ルサンチマン)。

その去年、オランダに行く前に、思わせぶり風に、書いた。

▼さて、「近代」はなぜオランダで生まれたのか?という上記『近代ヨーロッパの誕生』に、セファルディ 商人の活躍が書いてあるのかは、これから読んでみる。そして、本記事のスピノザに関する情報は工藤喜作、『スピノザ』である。ところで、よく本出てるスピ ノザ像は、ハーグにあるもの。

 井上円了 ハーグに至り博物館を一覧し、スピノザ翁の銅像に参拝す

でも、アムステルダムにもあるらしい。 (愚記事: 流浪と近代、そしてそのゆくえ...、なにより、隠れ家

去年、これを書いた時、つまりアムステルダムへの出発前、アムステルダムでのスピノザ像を撮ってこようと考えていた。今から思えば丹念にアムステルダムでのスピノザ像の在りかを調べておけばよかった。なのに、「市立音楽ホールの横にある」ぐらいの情報でアムステルダムに行った。そして、勘違いの別の音楽堂の周りを探した。当然、スピノザ像は無かった。

代わりにこの画像を去年は載せた;

 (愚記事:スピノザ、 意志の自由、 ルサンチマン

今年は、ちゃんと調べて行った。あったさ。最上図、最下図。

(それにしてもこのスピノザ像(図1)、iron meidenかよ!?と秘かにつっこみを入れてみた。
← iron meiden)

アムステルダムでのスピノザ像は最近建立された。そしてこの建立は意義がある。なぜなら、スピノザはアムステルダムのユダヤ人コミュニティから追放されたのだ。このアムステルダムでのスピノザ像の建立は、追放された者の「復権」という意味を持つ。


- 正二十面体のオブジェを含めたアムステルダムのスピノザ像全体図 -
アムステルダム City Hall 横の運河のほとりにて. この日は雨だった。

Goole Mapのペグマンで、晴れの日のスピノザモニュメントを見てもらった;


GoogleMap    下の地図の「Spinoza Monument」


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今日もつくばで; 1) 好きなデザイン、 2) 店舗型やきいも屋さん

2012年07月08日 20時01分44秒 | 筑波山麓

■ 好きなデザイン; 普通ポルトランドセメント、の袋のたたずまい。

でも、普通ポルトランドセメントというのは一般名詞であり、普通ポルトランドセメントはいろんなメーカーから販売されているらしい。

wiki; ポルトランドセメント

なので、この袋のデザインがどこのメーカーのものかが問題であると今知った。今度、調べよう。

店舗型やきいも屋さん

  

つくば市吾妻。

軽トラの焼きいも屋さんはよくみるが....。

店舗型だと真夏でもやらなくてはいけない(?)...

真夏にやっているか、今度、調べよう。

まとめ1;

  
  デリ型       店舗型

まとめ2;

「今度、調べよう。」 ⇒ to do リストに載せよう!

PDSAサイクルはちゃんとまわるかなぁ?

 


与太話;

おいらは、例えば、佐々敦行さんをスポークスマンとする、ぬっぽん・えすたぶりっしゅめんとを全く尊敬しないのではあるが(例えば愚記事:1)佐々淳行:おかしな「保守」言論人、 2)官軍は賊軍、賊軍は官軍 )、

(ちなみに、佐々敦行さんは小沢一郎さんを批難している)

小沢信者も、ちょっとねぇ、と思う。

ってか、大嫌いだ。 <TBSの「サキヤマ」←漢字知らない、 いいのか!?あぁいう非公然小沢信者を公共の電波で言いたい放題にさせて!>

おいらは、小沢一郎さんの相次ぐ訴追は、検察・ぬっぽん・えすたぶりっしゅめんとの小沢つぶしの権力闘争であると、特に確たる証拠もないが、思っている。 さらには、(元)妻の支持者への手紙とか、本物であれ、どうでもいいと思っている。

だけれども、小沢一郎さんには全然関心しない。 さらには、小沢信者ってかなりカルトである。

小沢一郎さんは、今日放送されたNHKのインタビューで、使用済み核燃料の処理技術は完成していないから、原発政策は縮小・見直しすべし!と主張している。

なぁ~に言ってんだか! 使用済み核燃料の処理技術は完成していないって昔から自明!

おめえ~さんが、大臣をやった中曽根内閣の御大・中曽根康弘さんこそ、ミスター・ぬっぽん原発さまである。

自民党の幹事長時代、そしてこの前の鳩山内閣の幹事長時代、使用済み核燃料の処理技術は完成していないってことになんら政治的に対処していなかったくせに、今頃何言うか!って、おバカなおいらもびっくりしてる。

そもそも角栄が、田舎の原発電源開発主義者だべさ、補助金目当ての。

元祖、補助金乞食。

でも、小沢信者はこういうところわからないんだよね。 見えない、見ようとしない。

今の政局への追い風の向きだけが気になる。

いま・ここ!

経緯や歴史には無関心。

政局カードでごろつくしか能がないんだろうね。

でも、素敵さ。 ごろつき野郎&野姫たち!

愚痴ばっかりのおいらより、ごろつくだけ、世に影響を与えることができる。

今度生まれ変わったら、おいらも身につけたいな、ごろつき力。

◆まとめ

官軍は賊軍、賊軍は官軍

         
鬼神に恥じぬ勇     ミスター警視庁
⇔元政権党幹事     ⇔御先祖さまは賊軍

 

 

 

 

 

 


毎週、ぶどうの木の画像を撮っています; 63週目

2012年07月07日 08時24分30秒 | 草花野菜


 -花盛りのきゅうり-


 -今週の三毛猫-


 -今週ある日の雲-

【いか@ 筑波山麓 『看猫録』】のアクセス・ランキング

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過去3週間の閲覧数・訪問者数とランキング(週別)

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幸せな X 印、あるいは、お見合い悲喜劇

2012年07月04日 20時04分13秒 | ねこ

行きつけの動物病院に行った。里親募集のポスターに茶トラの子にゃんの写真の上に、

バッテンが付けられていた。

里親が決まったのだ。

もらい手とこの茶トラの子にゃんのお見合いがうまくいったのだろう。

Sold out! の意味に他ならない。 幸せなバッテン印。

■ お見合い悲喜劇

ぬんげん(人間)、いろんなことをしないですんでいく(死んでいく)。

例えば、おいらは、これまで人を殺したことはないし、おそらく殺さないだろう。 いや、殺せないだろう、ヘタレだから。

こういう物騒なはなす(話)でもないのだが、

おいらはお見合いをしたことがないし、これからもしないだろう。

一度はしてみたかたったな、お見合いと、たまに思う。

ここで、お見合いとは結婚用のお見合いである。いまどき、お見合いとは結婚用のお見合いのことだろう。

▼養子縁組

むかす(昔)は、お見合いは結婚用に限られたものではなく、例えば、養子縁組などの結婚くらいに重大な社会的契約のために行われたらしい。

例えば、お殿様で、やたら子だくさんの御仁がいる。徳川将軍で言えば、家斉(いえなり)。特定されるだけで16人の妻妾を持ち、男子26人・女子27人を儲けた(wiki) この子だくさんのなかの少なからずが大名家の養子となる。これは将軍家による他大名への押し付け、押し込み人事である。将軍の息子にふさわしいポストに押し込もうとしたのだ。例えば、蜂須賀家なんかもそうだったと、おいらは、記憶している。この養子縁組には、お見合いがあったと思われる。

思われるとここでおいらが書いた理由は確たる証拠がないからである。確たる証拠があるのは井伊直中(いいなおなか)の息子たちのことである。井伊直中(いいなおなか)には息子が15人いた。そもそも、井伊直中(いいなおなか)って知らないだろう。井伊直弼のとうちゃんである。井伊直弼はone of fifteenだったのだ。もちろんかぁちゃんは側室である。しかも、お見合い失敗

井伊直弼がお見合いを失敗したのは、はたちぐらいの頃だ。

 井伊家の家風では、嫡子以外の部屋住(へやずみ)の子は、他家を継ぐか、家臣に養われるかするのが例であった。他家にも行かず、家臣にも列せぬ者は、わずかな宛がいぶち(あてがいぶち)を給されて、生活しなければならぬ慣わしであった。

 この家風に従って、直弼の兄たちはいずれも他家を継いでいる。ここで直弼の兄弟についてみよう。

 七男・直教(なおのり)⇒中川久貴(なかがわひさたか)に養われ、豊後岡七万石藩主。
 八男・直福(なおとみ)⇒内藤政峰(ないとうまさみね)に養われ、三河挙母(ころも)二万石藩主。
 九男・勝権(かつまさ)⇒松平勝升(まつだいらかつゆき)に養われ、下総多古一万二千石藩主
 などなどは大名。 他の兄弟たちは家臣に養われる。
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しかし直弼にも希望があった。直弼の兄弟たちがそうであったように、彼もまた他家を継ぐ望みがあった。そしてあるいはその幸運をつかむことができるかもしれなぬ機会が、意外にも早く訪れたのである。
直弼が二十歳の時、江戸の直亮(なおあき)[井伊彦根藩主、直弼の兄]から、しかるべき大名の養子にするから出府するように、との命令が直弼・直恭の兄弟に伝えれた。直弼は再び彦根の土は踏むことはあるまいと思い、友人たちに和kれを告げ、勇躍して江戸に下っていった。しかし幸運をつかんだのは弟であった。 直恭は日向、延岡、内藤政順(まさより)の養子となり、一躍七万石の城主となり従五位下能登守に叙任した。直弼は失意のうちに江戸藩邸にすごすと一年、翌年八月むなしく彦根に帰った。

以上、吉田常吉、『井伊直弼』、吉川弘文館、よりコピペ&一部改変。


   直恭&直弼兄弟?

 直弼その後;⇒ 埋木舎 -京都参り2006④-

関連愚記事;  屠られた掃除のおじさん -横浜③- 

被害者の会 ⇒ほったてごやの人々  あのとき直弼のお見合いがうまくいっていれば...

● で、当時は気付かずに、ノラになって、すなわちdeath valleyで苦行して、何年もたってある日ふと気付いた。

そうなのだ、ふと気付いた。あれは、お見合いだった!って。

一度はしてみたかたったな、お見合いと、たまに思う、というのは違ったのだ。

まだ学位を取る前に、ある地方大学、しかも旧教養部!(失礼)の教授をおいらの指導教官がお呼び立てして3人で話をした。その会合で、おいらの指導教官はおいらの研究内容を説明した。そのある地方大学、しかも旧教養部!(失礼)の教授はそのおいらの研究内容と近いことを研究していた。でも、その時は全く「お見合い」だとは気付かなかった。理由はいろいろあるが、ひとつは、そのおいらの指導教官は策を弄することをしない人であり、人事で弟子を押し込むということなぞしない人と思われていたからである。なにより、おいら自身が指導教官がポストを見つけてくれるなぞ思ってもみなかった。ただ、よい研究をすればいいと信じていた(何てバカだったんだ、あの頃のおいら)。今から思えば、おいらの指導教官は、そういう策を弄することを許せない性格の人であったので、「お見合い」とはわからないように「お見合い」をした眞に策を弄する人であったのだろう。

今から思えば、大嗤い&冷や汗ものなのであるが、おいらはなぜ特に業績もない(失礼!)ある地方大学、しかも旧教養部!(失礼)の教授をと話し合いをしなければいけないのか、全く不可思議であった。 今から思えば、30近いのに、ホント無神経なおいらではあった。

さらには、おいらは、海外でポスドクになりたかった。そういうおいらの気持ちを察してか、あるいはそれに乗じてか?!、その後、今から思えば「お見合い」はなかった。「勝手にしろ」という気持ちも指導教官には涌いたのであろう。

果たしておいらは、35歳でノラになった。⇒失業者になったのは2001年3月末でポスドクの任期が切れたからである。

以来、おいらの自画像にバッテンがつけられないことが決まったのだ。

時効になったのだ。