いか@ 筑豊境 寓 『看猫録』

Across a Death Valley with my own Distilled Resentment

御存在と御時間

2005年01月27日 20時09分39秒 | その他
無教養なぬんげんがきらいだ、といささか暴言をはいてしまったが、

おいらこそ、むきょうーよーである。

あるブログで、

御存在

なる語を見て、そんな言葉あるのかな~?と思いgoogleったら、結構ある。

で、じゃ、御時間なんてことばはありや?とおもって、これまたgoogleった。

その時点で。こころの中では、ゴジカン、と発音していた。

googleったら、たくさんあった。なんのことはない。「今、おじかんありますか?」の御時間だ。

御製:ぎょ/せい

御存在:ご/そんざい

御時間:お/じかん

難しいぞ、というか、一貫性がないぞ!日本語。

というのは、さておき、ハイデガーセンセはえらいので、やはり『御存在と御時間』というのはどうでせう?

で、『御有と御時間』は変だ。

日本「親米保守」の根本問題

2005年01月23日 14時38分11秒 | 日本事情
◆おいらは、無教養なぬんげんが嫌いである。無教養とはただ知識・情報が少ないということではない。例えばこんなやから。電車の中で赤ちゃんが泣いていると異常にイライラして怒る御仁。おまいさんだって、赤ちゃんの時は泣いたんだよ。ましてや、今の行状からみて、あの赤ちゃんの3倍はうるさかったね。つまりは、自分の来歴やいま・ここに至るいきさつに無頓着なことが、無教養なのである。

◆現行憲法の見直しが日常に語られるようになった。当然である。現行憲法は敗戦日本の政府を法的に拘束するため、特に二度と米国の脅威とならぬように、米国の戦略で制定されたものである。憲法制定とあわせて、旧指導者の処刑も行われ、東条英機元総理以下A級戦犯と決め付けられた人々は昭和23年12月23日に殺された。この12月23日は あきひとさん(今上天皇陛下) の誕生日であり、米国がわざとやったんだなということは、おいらがガキの頃、昭和の御世でさえわかっていたことだ。

◆さて、本日のテレビで竹村健一は上記のことなどを、最近、初めてお知りになったようで、憤激をもって御紹介あそばされていた。そして、なぜかしら「米国」はひどいですねえ、とは言わず「占領軍っていうものはひどい」とのたもうていた。さらに自分は親米であるとも留保をつけていた。

◆ここで何が問題か? ①竹村氏は占領はひどいですねと人ごとにいうが、貴殿が現在のように出世できているのは英語という言語・伝達媒体技術をもとに言論活動、特に日本が英米と異なりいかにゆがんでいるかを指摘しているからである。世界の常識は日本の非常識というコピーを流行らせた。ここでの「世界」とは英語圏、特に米英のことであり、彼の「世界」は米英なのである。これを実現したのは彼のフルブライト留学であり、これは占領政策のGARIOA留学制度の延長からの竹村の受益である。②ひどいことをした米国と誼を通じ国を運営してきたのが日本「保守」である。③現在、日本「保守」は米国のイラク占領を容認、支持、支援している。米国は現在のイラク占領を半世紀前の日本占領の延長上と認識し、かつ喧伝し、米国の民主主義と自由を世界に広めた実績としている。つまり、日本「保守」は米国に屠られた大日本帝国に無縁である限り、東京裁判史観に従う限り、米国に承認されることになる。

尾道ラーメン

2005年01月18日 20時57分05秒 | ラーメンたべた


尾道ラーメン食べました。

スープは魚だしの醤油あじ。さっぱりでとてもびっくり。
めんはほそい。この店はスープの量がややすくなく、丼が小さい、麺がスープを泳げなく、
箸でほぐすのが難しかった。

あっさりスープの上にこってり豚肉(チャーシューではない)がのっている。写真に白い小玉が見えるがこれはなにか脂である。全然くどくなかった。

あっさり味なので、スープを全部飲んだら、店員さんが喜んでくれた。

札幌人のなぞ

2005年01月16日 10時06分23秒 | 札幌


◆札幌人のなぞ◆
札幌のデパート、丸井今井を、札幌人は「丸井さん」とよぶ。
同じく札幌のデパート、三越だのパルコだの西武だのは決してさん付けでは呼ばれない。

なお、「札幌」人のなぞと書いたが、狭義の札幌人(3代目以上)に顕著である。

ところで、札幌の丸井今井と東京の@I○Iは別ものである。つまり丸井今井という呼称は@I○Iを分節化するための呼称であり、通常の札幌人の生活では丸井さん、丸井さんと呼ばれる。

●さて、上記写真は、丸井さんとはなんの関係もない、北7条西5丁目からJR線高架を撮ったものである。
おいらのガキのころは、高架なぞなく、むしろ道路の方が陸橋で線路をまたいでいた。そのもっと昔にはその陸橋を越えて市電が北大の方まできていたらしい。

ここに来た理由は、がきのころこの辺に永倉新八を説明する史碑をみたからである。当時のおいらは、それが永倉新八と認識していたわけでもなく、新撰組もよく知らなかったし、そもそも戊辰戦争のなんたるかも知らなかった。ただ、何か残党みたい人が北海道に流れてきて長生きして、剣術がうまかったので、北海道のひとに剣術を教えたんだなあ、という程度の理解。のち、長じてあれこそが永倉新八であったとわかり、あーがきのころが縁があったのかと思っていた。

その史碑らしきものは、現在では、なかった。街のようすもかわったのだから、なくても当然かなとも思う。