杉原薫、『世界史のなかの東アジアの奇跡』、2020年、名古屋大学出版会という本を借りて読んだ。2回借りだし、計8週間かけて読んだ。もちろん、かなり理解していない。そこで、興味ある事項いついて、メモをつくった。
出版社の広告での内容概要紹介文(ソース)ではこう説明されている;
脱〈西洋中心〉のグローバル・ヒストリー。—— 豊かさをもたらす工業化の世界的普及は、日本をはじめとする「東アジアの奇跡」なしにはありえなかった。それは「ヨーロッパの奇跡」とは異なる、分配の奇跡だった。地球環境や途上国の行方も見据え、複数の発展径路の交錯と融合によるダイナミックな世界史の姿を提示する、渾身のライフワーク。
このブログ記事ではこの本『世界史のなかの東アジアの奇跡』の第12章、"戦後世界システムとインドの工業化"の概要をメモする。なぜこの本なのか?というのは後日別途書く。
この本は東アジアの経済発展を奇跡として論じている。その中でインド=南インドにも言及している。東アジアも南アジアも西洋の衝撃、支配を受け、没落した地域だ。特にインドはイギリスに完全支配された。そのインドの経済発展経路は、東アジアの経済発展経路を検討するうえで、良い参照対象となるからだ。著者は「戦後インドの工業化の奇跡をたどることによって、東アジアの奇跡と冷戦体制はどのように構造的に関連していたかという問題意識がある」と云っている。
この記事では下記3項に分けて本書の概略と第12章のメモを書く;
A. この本の概要、特に19世紀まではインド、チャイナは世界一の生産大国だった、そして今
B. 第二次世界大戦以後のインドの衰退⇒復興
C. 『世界史のなかの東アジアの奇跡』 第12章 "戦後世界システムとインドの工業化"メモ
A. この本の概要、特に19世紀まではインド、チャイナは世界一の生産大国だった
① 昔豊かだった、インド、チャイナ
世界工業生産水準の地域別構成(元データはBairoch, 1982)本書では補論1(p191)。
19世紀が始まった時の中印の偉大さがわかる。これが毛唐の餌食となってしまうのだ。ムガール帝国(インド)は、英国に浸食され始めたころ、英国よりはるかに大きな工業国だった。インド大反乱(セポイの乱;1857年)の時には英国の工業生産の方が大きくなっている。
↓ 2010年までの各地域/国のGDPの盛衰。2000年以降のチャイナに注目;
ソース
② 経済発展経路 (南アジア(インド)の経済発展経路を論ずる前に、西洋、インド、チャイナ全体)
杉原薫 『世界史のなかの東アジアの奇跡』の要旨
杉原薫、東アジアの奇跡の要点。図序ー1 世界経済の発展経路。
縦軸が時間経過;上から1500年→1820年→1950年→2008年。横軸が地域;左から西洋→東アジア→南アジア。したがって、4X3=12のマトリックスがある。各マトリックスは経済規模=人口(世界に占める割合%)とGDP(世界に占める割合%)。各マトリックスの下段には特徴。
<この図の要旨>
1820年、東アジア(統計上、日本、チャイナのみ)は推定世界人口の41%、推定世界GDPの37%を占めていた。これに対し、ヨーロッパは、それぞれ12%、22%に過ぎなかった。ところが、御存知、産業革命、アヘン戦争(1840年)でアジアは西洋の餌食となる。この産業革命が「大分岐」。大分岐ということは、それまで似た道を来ていたが、大きく分かれたということ。産業革命前まではヨーロッパも東アジア(の一部;例えばポメランツが指摘する揚子江下流)は似たような「スミス的」経済発展をしていたという説。
「大分岐」
ポメランツの「大分岐」論とは、要約すれば、18 世紀半ばまでヨーロッパ(主にイングランド)とアジアの発達した地域(主に中国の長江デルタ)の農業生産性や生活水準はほぼ拮抗していたが、「石炭」と「アメリカ新大陸」という「偶発的」な要素が、木材不足や人口増加など、ヨーロッパで生じていた生態環境的な諸問題を解決し、最終的にヨーロッパはアジアから「分岐」して成長に向かうことができた、という議論である (斉藤 誠によるポメランツ、「大分岐」への「書評」link)
1950年、第二時世界大戦後5年、朝鮮戦争勃発時。アメリカの絶頂期。欧米で世界のGDPの51%を占める。今から見れは、毛唐文明の絶頂期。その後、朝鮮戦争、ベトナム戦争の中、「東アジアの奇跡」。2008年で東アジアの世界のGDPに占める割合は31%。欧米、33%。1820年と比して、インドはともかく、チャイナは復興してきた。「東アジアの奇跡」とは東アジア型経済発展経路と西洋型経済発展経路との「再編」、「融合」なのだというのが本書の大仮説。
この「東アジアの奇跡」とは何であったのか? それは、「融合なのだ」という説を検討するのが本書、杉原薫 『世界史のなかの東アジアの奇跡』の新規性の提案(他の経済史では見ない)。
◆ 2つの経路;ヨーロッパの発達経路と東アジアの経済発達経路
昔(1980年代以前)はヨーロッパの発達経路が典型的、あるいは唯一無比の経済発展経路とされ、日本などの他の地域はヨーロッパ経済社会とは異なった「遅れた」地域、「遅れた」文明、専制政治に支配される東洋専制国家、20世紀になっても「独立で自由な自作農民層」がいない封建制色濃い絶対主義政治社会(その中から軍国主義が出て来てこの世を亡ぼす)であるとの信念があった(日本の"インテリ"層に支配的な観念)。
ヨーロッパの発達経路(西洋型経路)とは「私的所有権の確立と土地なしの労働者の集積、都市人口の増加によって成立したイギリス資本主義と、資本集約的・資源集約的な経路を発達させたアメリカ資本主義によって牽引された」経済社会の発達経路。この経路は「産業革命」が決定的に重要。「生産の奇跡」。「ヨーロッパの奇跡」。
一方、東アジア型経路は、中国と日本にみられる経済成長経路であり、近世における「勤勉革命」による「スミス的成長」が特徴。「スミス的成長」とは、産業革命以前の漸進的な経済成長であり、市場の発展とプロト工業化、農業の商業化を属性とする経済成長のひとつの形態。 しかし、東は西洋勢の来襲した「19世紀後半から1930年代までの時期に、日本と中国は労働集約型工業化を、生活水準を上げることができないままにではあるが、遂行した。そして、第二次世界大戦後、日本、NIES, ASEAN, 中国と続く、一連の高度成長を経験し、その一部では高い生活水準を実現した。」 「東アジアの奇跡」 。
B. 第二次世界大戦以後のインド、チャイナの衰退⇒復興
インド、チャイナのGDPに占めるシェアの変化
🔻 1950年→1980年; インドのシェア低下の時代、あるいは、非同盟時代の顛末
アジアのGDPに占めるシェアの変化 1950年→1980年(%);杉原薫、『東アジアの奇跡』、第3章、図3-14(部分)
第二次世界大戦後、インド、中華人民共和国ともに独立。インドは非同盟、中共は中ソ同盟&非同盟オブザーバー国。ウエスタンインパクト以来、独立以前からの凋落は免れず、相対的繁栄はアメリカと連携する他のアジア諸国に転移する。
↓こういう時代だ;周恩来とネルー、1950年代。中印直接武力紛争は1962年[wiki]。
🔻 1980→2016年; 中印の開放政策とシェアの拡大、あるいは、BRICSの時代
杉原薫、『東アジアの奇跡』、第3章、図3-15 (部分)
すべてはここから;1972/2/21
中共対外開放の1980年以降、1991年インド経済自由化。相対的繁栄が中共へ、そしてインドに「戻り」始める。
これはアメリカとの関係が改善したことが背景。
C. 『世界史のなかの東アジアの奇跡』 第12章 "戦後世界システムとインドの工業化"メモ
第12章の項目;
■ 第12章 戦後世界システムとインドの工業化
1. はじめに
世界の生産と貿易の中心の移動
アジアの地域ダイナミクス
2. インドの輸入代替工業化の特質
輸入代替戦略の二類型
労働集約型工業の運命
3. 自由化への試みとその挫折
冷戦体制と成長イデオロギー
繊維貿易と自由化
4. アジア太平洋経済圏との接触
1991年の政策転換
中国との比較
5. むすび
▼1. はじめに
この杉原薫 『世界史のなかの東アジアの奇跡』、12章は、貿易を中心とする国際経済史的観点から、20世紀後半のインドと東アジア、東南アジアとの比較と関係についての一つの歴史像を提出する。
インドの特異性: インドは戦後、つまり独立後、政治的には非同盟の立場を取り、アメリカの自由主義的経済圏に加わらなかった。独立後は計画経済(マハラノビス・モデル)であった。むしろ、ソ連・東欧との貿易関係が強かった。それは、1991年のインド経済大転換まで続いた。冷戦終結の国際的環境変化を受けて、インドは経済の自由化路線を始めた。
さらに、インドが労働集約的工業化(「東アジアの奇跡」(後述)の肝)がうまくいかなかった理由は、繊維商品の市場を、「東アジアの奇跡」を経た東アジア諸国に奪われたことである。これはインドが非同盟路線を選び、米国の経済圏に参加しなかったからである。これについて杉原は「発展途上国の戦略にとって重要なのは、貿易の量やそのGDP比で表現される開放度だけではない。どの国と貿易を行い、どの国から資本を輸入したのかということが決定的に重要である。例えば、1950年代は、アメリカが世界経済の成長の原動力だった時期であり、自余の世界に願ってもない貿易と技術移転の拡大の機会を提供していた。日本はその機会の主要な受益者だったのに対し、インドはあえてそれを利用とはしなかった。」(p563)と云っている。
1991年以降、経済爆発する東アジア、東南アジアにインドは対応する。インドの対応の鉱区歳経済的背景を検討する必要がある。
世界の生産と貿易の中心の移動
「東アジアの奇跡」の実現。1950年には欧米で世界のGDPの半分を占めていたが、現在では東アジア・東南アジアを含む環太平洋諸国で、世界のGDPの半分を占めることとなった。特に、1960-200年で一番成長したのは東アジア・東南アジア。「東アジアの奇跡」は、これまでの欧米中心の国際秩序を根本的に変えた。東アジア・東南アジアが工業化以降の世界で初めて自立的な経済成長の核となった。そして、インドにも直接、間接に影響を与えるようになった。
東アジア・東南アジアが成長に核になるまでの経緯は、第二次世界大戦後、ヨーロッパ諸国はアジアに復帰し再支配を進めた。しかし、イギリスは衰弱し、ヨーロッパ諸国は欧州経済k李愛共同体を形成、保護主義的貿易政策を採り、脱植民地化していった。その後のアジアの国際秩序の枠組みは中共革命、朝鮮戦争を経ての「冷戦」体制である。反共戦略のもと、日本などアジア食は経済成長が許された。特に、アメリカは日本に対して軽工業だけでなく、非軍事部門での比較的労働集約型の重化学工業(造船、自動車、家電製品)の発展による産業構造の高度化を許した。
20世紀後半ー世紀末に世界貿易におけるひじゅうがもっとも増加いたのが日本とアジア9カ国であった。つまり、インドは東側地域に活発な経済圏をもつことになる。それはインドの植民地時代と独立後10数年の期間は世界貿易の中心が大西洋であったこととは大違いである。
アジアの地域ダイナミクス
東アジア、東南アジアでは雁行型発展で工業化が急速に普及。雁行型発展:比較的技術的水準の低い労働集約的な工業は、先進国から次に発展する国に急速に工業化が移転される。さらに10年といった短い時間で次に発展する国に工業化が移転される。例えば、日本⇒台湾⇒マレーシアとか。すべの相対的先進国は絶えず低賃金諸国からの競争による産業構造の行動が迫られる。このお尻に火が付くメカニズムで相対的先進国は成長する。
wikipedia [雁行型発展論]
さらに重要なのは、東アジア・東南アジアの域内貿易の自由。例えば、繊維は1970年代に日本、台湾、香港が分担・連携して生産し、アメリカ市場で売った。つまり、対米輸出が可能であったことが東アジア・東南アジアの経済発展の主要因。技術移転のための域内自由経済体制(貿易、資本移動、人間・情報の移動の自由)も重要。
1980年代は、この地域の経済圏に中共が参入。市場の拡大。民需に特化した東アジアの対米消費財輸出やアジア域内貿易が急速に拡大。戦後の世界貿易は、アメリカのリーダーシップと日本のNIES、 ASEAN、後には中国(中共)も含めたアジア諸国の高度成長によって牽引された。
1989年の冷戦崩壊以後。 アメリカの金融的覇権への志向。冷戦体制の崩壊は、ソ連との結びつきが大きかったインドへの貿易構造再編を迫った。1991年のインドの政策転換。
▼2. インドの輸入代替工業化の特質
輸入代替戦略の二類型
インド:植民地時代、自由貿易、第一次産品輸出、輸出志向の輸送システム(鉄道というインフラ)
脱植民地化: 外国貿易と外国資本からの脱依存; 国産の機関車製造国営工場
植民地を経たインドは豊かな天然資源と膨大なインフラがあり、雇用と市場があった。しかし、世界的競争力がなく、世界貿易から孤立していった。
計画経済:マハラノビス・モデル 重工業優先の発展戦略==農業や軽工業の発展と国内市場の拡大に結び付かない
日本:同じく輸入代替を試みたが、目的は国の産業構造全体の高度化。国際的競争力をもった産業のために、農業部門や比較的低技術の産業を切り捨てた。自給化ではなく貿易による相互利益を目指した。近隣諸国の雁行型発展を可能にした。
労働集約型工業の運命
独立時のインドは、国際競争力と雇用創出の両方で有望な労働集約的工業部門をもっていた。綿製品の生産。1950年にはインドは世界最大の綿製品輸出国であった。下の図は、「インド輸出貿易の商品別構成」。第一次産品は経年で減少し、工業製品が増加している。
繊維製品は経年で安定している。ただし、東アジア、東南アジアの諸国のように、拡大しなかった。それはインドでの労働集約的工業化の経路が東アジア、東南アジアの諸国のそれと違ったからだ。インドでの労働集約的工業化の経路での成長阻害要因は、輸入代替型工業化戦略のせい。織物機械の輸入規制で、生産性が向上せず、国際競争力が向上しなかった。インドの保護貿易主義のせい。インドは自ら国際綿製品市場での競争から撤退した。
このインドの撤退に乗じて、伸長したのが、東アジア、東南アジアの諸国。アメリカ主導の自由貿易と資本の自由化の制度的枠組みにおいて、労働集約的工業と自由貿易を発展させた。
インドは国際政治上も非同盟政策をとり、米ソとも距離を置き、米ソから援助は埋めたが、市場メカニズムでない方法で貿易に結び付けられたので、経済成長に至らなかった。インドは労働集約的工業と自由貿易の恩恵に無縁となった。
▼3. 自由化への試みとその挫折
冷戦体制と成長イデオロギー
東アジアの経済成長は、1980年代後半の韓国と台湾の民主化の時代まで、「開発独裁」のもと行われた。冷戦下のアメリカの反共政策における開発独裁容認。自由貿易と投資の自由、非国有化を条件に容認。この東アジアの開発主義は国民の同意があり、開発の成果は国民に還元された。
冷戦終結後、反共戦略は不要となったが、アジアの政治においては開発独裁主義が中心的役割を果たしている。成長イデオロギーが国民に共有されている国、韓国、台湾では容易に民主化した。
一方、インド。 成長イデオロギーが根付かなかった。4つの要因;①自立イデオロギーが強かった。ネルー路線。輸入代替戦略。インド・ルピーの為替を高く維持。輸出産業が育たなかった。外貨獲得能力低下。貿易に依存したくなかった;②所得分配の不平等性。貧困層の存続。貿易推進勢力が国内に少なかった。保護貿易主義。③国内における中産階級育成(労働集約的生産現場の労働者であり、消費者でもある人々)のための投資をしなかった。教育と福祉の問題。;④ソ連など社会主義諸国との貿易関係が深く、労働集約的工業を犠牲にして、重化学工業工業を優先させる政策を採った。南アジアの軍事大国。
冷戦終結(1989年)以後、インドはソ連・東欧共産圏との貿易を激減させる。1991年、インド経済自由化。
第12章、図12-3 インド輸出貿易の地域期別構成 1950-2000 年(%)
繊維貿易と自由化
1980年代、インドの繊維産業は政府の規制外にあった。すなわち、自由貿易にさらされていた。インドからの繊維製品の輸出は多く、インドの工業製品の半分であった。1980年代は、輸出の伸びは緩慢だった。一方、1980年代、中共も繊維製品を輸出していた。アジア太平洋経済圏に参入して、輸出を増加させた。中共の低賃金と労働集約的生産に基づく競争力の強さで、インドは中共に対し、アジア太平洋経済圏での競争に勝てなかった。つまり、インドはアジア太平洋経済圏から隔離された。
▼4. アジア太平洋経済圏との接触
1991年の政策転換
1989年冷戦終結。計画経済から自由経済への転換。世界銀行、IMF、アメリカからの圧力。 ソ連崩壊でインドの兵器購入先がなくなり、安全保障上の問題。外貨獲得の必要性。労働集約型輸出製品の市場機会をアジア太平洋の高度経済成長市場に求める必要性が高まる。1991年以降、一人当たりのGDPが46%増加。輸出先、アジア太平洋地域。ここで、イギリス植民地時代、インド独立後訳45年のインドの歴史で特筆すべき貿易相手地域の大転換が生じた。成長地域への参画。
ブッシュ@父米国大統領とラオインド首相、1992年、ホワイトハウス
PV Narasimha Rao Remembered as Father of Indian Economic Reforms(site)
中国との比較
インドの輸出増加に貢献したのは、労働集約型の輸出商品の織物とアパレル。輸出先はヨーロッパにあわせて日米アジア諸国。中共と市場が重なりはじめた。インドが参入して、アジア内の織物・アパレル市場がより競争的となり、地域間貿易の成長がアジア太平洋経済圏の成長につながりはじめた。
1984年、北京
▼5. むすび
東アジア・東南アジアの経済発展の特徴;
・労働集約型工業化のためのインフラ整備
・労働集約的な工業における生産性の急速な上昇
・大衆消費市場の形成
・職場でのスキルを育むような人的資本への投資
これらはインドの発展経路で認められないことであった。さらにこれらは、欧米の歴史的経験を念頭に置いた経済発展や工業化モデルではあまり強調されてこなかった。
上記のように、東アジア・東南アジアの経済発展経路と比較して、インドは国際競争力をもつ労働集約的な工業を発展させなかった。実際のインドは、計画経済に基づく、輸入代替的工業化のため資本集約的工業を目指した。この路線はイギリスの植民地主義時代の遺産の克服のつもりであったと端からは見える。その結果、繊維製品のような労働集約的工業品の世界市場での競争力をなくした。その背景は経済的政治的自立を求めるインドの国家的イデオロギーが原因だ。さらに、それは植民地体験の結果に違いない。労働集約的工業品の世界市場での競争力をなくしたことはインド国内での良質な労働者層の形成の阻害ももたらした。
1991年の経済自由化後、繊維製品の競争力向上で、アジア太平洋圏の市場に参入し、インドは恒常的成長過程に入っている。
● いか@メモ
『世界史のなかの東アジアの奇跡』=アメリカの影
この本のこの第12章の「1.はじめに」で杉原の"思想"が書かれている;
工業化は先進国からの遮断ではなく、接触、融合によって達成できるというのが、東アジア型発展経路が示唆するメッセージであり、日本からNIESへ、NIESからASEAN、中国へと続いた、高度経済成長そのもの普及の論理であた。
この観点から見ると、発展途上国にとって重要なのは、貿易の量やそのGDP比で表現される開放度だけではない。どの国と貿易を行い、どの国から資本を輸入したかということが決定的に重要である。例えば、1950年代は、アメリカが世界経済の成長の原動力だった時期であり、自余の世界に願ってもない貿易と技術転移の拡大の機会を提供していた。日本はその機会の主要な受益者だったのに対し、インドはあえてそれを利用しようとはしなかった。
インドのここ30年の経済成長は、アメリカの覇権がつくる舞台のアジア太平洋圏の市場に参入できたことが大きな原因。そもそも、東アジア・東南アジアの経済発展経路もアメリカ牽引のアジア太平洋圏の市場に参入できたから実現した、というのが杉原の論だ。
とすると、『世界史のなかの東アジアの奇跡』=アメリカの影ということだ。そして、インドもそこに入ったから経済成長できたということだ。