いか@ 筑豊境 寓 『看猫録』

Across a Death Valley with my own Distilled Resentment

新しい街でもぶどう記録;第264週

2019年11月30日 19時11分45秒 | 草花野菜

■ 今週の看猫

■ 今週の武相境斜面


彼女のライフスタイル―暮らしの遊[すさ]び展の街角の傷ついたポスターを見た

■ 今週の草木花実

■ 今週の車輪

■ 今週の日帝の小春日和の残存建築


旧公衆衛生院(wiki)港区白金台、1938(昭和13)年竣工、内田祥三(wiki)設計. 現在、港区歴史郷土歴史館.
400円で入れる。

1920-30年代、北は札幌の北海道大学・理学部(画像wiki)から東京は本郷、白金、その他日本各地に鉄筋コンクリート製のゴシック風建物ができた。今からみれば、大日本帝国の小春日和だったのだ。


講堂

■ 今週の元サポーターが伝える訃報

中曽根政権って今からみると、本格パフォーマンス政治の嚆矢。さらに、日本エスタブリッシュメントの要所要所に味方・サポーターをつくって政権維持に利用した。自分の派閥がLDP内で弱小だったことを補償するためだ。その味方・サポーターの最大勢力が渡辺恒雄・読売新聞。今日、たまたま、読売をみた。

■今週の公園;薬師池公園(東京都町田市)

■今週の植物園


国立科学博物館付属自然教育園(港区白金)。 紅葉の木がたくさんあるのだが、まだだった。

■ 今週のまさかのフランシスコ

フランシスコ教皇 来日 (google

 
アッシジの         筑豊の

安倍晋三首相は25日夜、フランシスコ・ローマ教皇と共に出席した各国外交団との集いで、同席した麻生太郎副総理兼財務相を「教皇と同じ『フランシスコ』の洗礼名を持つ人だ」と紹介した。(google

合計 7,653 2,894
日付 閲覧数(PV) 訪問者数(IP)
11月23日 937 401
11月24日 1,176 478
11月25日 1,253 459
11月26日 1,029 331
11月27日 1,068 424
11月28日 963 392
11月29日 1,227 409

 

 


昭和記念公園2019、砂川口から出て基地外の米軍ハウス(維新もの)を見た

2019年11月27日 18時48分25秒 | 日本事情


赤矢印は基地拡張を図った方向。反対闘争で実現しなかった(砂川闘争 wiki)。
7: 基地外の米軍ハウス、1:立川駅、2-5: 昭和記念公園

立川の昭和記念公園、今年で4年目(2016, 2017, 2018)。レコンキスタ史跡探訪のルーチン化。今年は、例年通り公園内の紅葉を見て(【前半】)、北側の砂川口から出て、「基地外の米軍ハウス」を見物(【後半】)に行く。

【前半】

1 JR立川駅 ⇒ 2 昭和記念公園・曙口 ⇒ 3 立川ゲート


立川ゲート ここで入場料350円を払います。

3 立川ゲート ⇒ 4 大きな池(水鳥の池)の畔

4 大きな池(水鳥の池)の畔 ⇒ 5 日本庭園


残堀川

▼ 日本庭園

日本庭園 ⇒ 6 砂川口

▼ こもれびの里


万延元年の幟(のぼり)

■ 砂川口

【後半】 砂川口から出て基地外の米軍ハウスを見た

 
旧「基地外の米軍ハウス」。上砂町。Google Map3D


自衛隊のサイトよりの画像(に加図)。赤矢印が滑走路を延長、基地拡大を図った地域。黄色矢印は「基地外の米軍ハウス」

見物に行った;

 

 


⇒立川上砂町にある旧米軍住宅のアメリカンハウスのレストラン (site 立川新聞

■ いつできたのか? 非Occupiedもの

上の米軍ハウスは占領軍用住宅(接収地域に[1945-1952])ではなさそうだ。ワシントンハイツで建設された米軍住宅ほどの古さはないらしい。ネットではこの立川上砂町の米軍ハウスの情報が少なくないが、由来、歴史の情報は少ない。過去の航空写真から調べた。結論から云うと、1965年から1968年の間に建設されたとわかる。1965年の航空写真ではこの地が耕作地であることがわかる。一方、1968年の写真では建物が確認できる。街になっている。


黄色矢印:上砂町の旧米軍ハウス地域

【基地外の米軍ハウス】  建設されたのが1965-1968とわかった。したがって、これらの米軍住宅はオキュパイものではない。さらに、これらの米軍住宅は基地外にあるとわかる。すなわち、上の図で基地の境界は黄色線で示される。北側(上)が基地外。1965-1968のある時期に基地(Tachikawa Air Base)の北側の隣接域の元は耕作地であった場所に、米軍ハウス群ができたとわかる。

ネットでみると現在この旧米軍ハウス群は「アメリカンハウスバンブーヴィレッジ」といってある業者が管理し、賃貸し(site)しているようだ。さらに、もともとは、民間会社が米軍人用の住宅として建設したらしい。つまり、米軍は直接関与しない民間の案件らしい。さらに航空写真から元来耕作地であったので、農民が土地を売ったか、貸したかしたはずである。

■ <砂川闘争>の中で

建設されたのが1965-1968とわかり、疑問をもった。米軍は、1955年、Tachikawa Air Baseの滑走路を北側へ延長させたかった。米軍は日本政府の調達庁をして土地を買収さしむることを要求した。そこで生じたのが砂川闘争(wiki)。

土地収用のための測量実施と測量阻止闘争とのせめぎあいが続く中、1956年10月13日には砂川町の芋畑で地元農民らと武装警官隊が衝突、1195人が負傷し13人が検挙される「流血の砂川」と呼ばれる事態に至った。10月14日夜、日本政府は測量中止を決定した。wiki

結局、米軍は1968年12月に滑走路延長を取りやめ、翌1969年10月には横田飛行場(横田基地、東京都福生市)への移転を発表した

この砂川闘争というのは、つまりは、農民が土地を日本政府の調達庁⇒米軍に売る/貸すことを拒否した行動である。一方、上記上砂町1丁目の【基地外の米軍ハウス】の用地はどうしたのか?誰かが、売る/貸すことをしたのだ。滑走路など基地施設にために売る/貸すことは嫌だが、民生用である住宅はよかったということか?

■ 米軍ハウス(維新もの)

上記の上砂町1丁目の【基地外の米軍ハウス】はとてもきれいである。占領下に建てられたオキュパイドものでないことは前述の通り確認した。1965-1968にできたのだ。それにしては、きれいである。つまりは、上砂町1丁目の【基地外の米軍ハウス】はつねに化粧直しされ、restoration (維新=これあらたに)され、維持されているのだ。

■ 【基地の米軍ハウス】、Tachikawa Air Baseの米軍ハウス

上砂町1丁目の【基地外の米軍ハウス】はオキュパイドものではない。一方、基地内の米軍ハウスの映像がYouTubeにあった。これは本物のオキュパイドに違いない。なお、映像途中でゲート(砂川方面だろう)があり、赤旗を持った抗議団が基地ゲートに居るのが写っている。

Tachikawa Air Base Japan 1961 Base Housing

 

▼ 帰りは砂川からバスで立川へ向かった。 バスの中から見た;

 


修正;江藤淳が、三島由紀夫を「殺した」のか? or "兵隊ごっこ"について

2019年11月25日 05時48分35秒 | 日本事情

2015年11月25日の記事「江藤淳が、三島由紀夫を「殺した」のか?」に修正が必要であるとわかった。

2015年の記事で江藤淳が『「ごっこ」の世界が終ったとき』の中で"自主防衛ごっこ"とは云っているが"兵隊ごっこ"とは云っていないと指摘した。この指摘は、西尾幹二の誤解を発見したつもりだった。すなわち、西尾幹二が『三島由紀夫の死と私』の江藤を批判する文章で江藤の『「ごっこ」の世界が終ったとき』を引用し、江藤が"兵隊ごっこ"と三島を揶揄していることについて江藤を非難した。しかし、『「ごっこ」の世界が終ったとき』の中で"兵隊ごっこ"という言葉は使っていない。些細なことだが、そうなのだ。

でも、最近わかった。江藤淳は別の文章で"兵隊ごっこ"という言葉を使っていた。

今日の日本の男は税金を払うことを義務づけられてはいない。愛するものが突然死地に赴くという可能性のない社会で、女は果して真の所有感と充足を、あるいは愛の緊張感を経験できるであろうか。交通事故その他の私的な死は現代日本にも充満している。新左翼のゲバルトややくざへの憧れのような、疑似公的な集団の兵隊ごっこも流行しはじめているようである。 [強調、おいら](江藤淳、「モンペとミニと」、1970・8・20、初出不明、江藤淳著作集続4 旅と犬と生活と)

この文章では「盾の会」とは名指ししていない。が、「盾の会」に違いないだろう。やくざへの憧れのような、疑似公的な集団と分析している。かなり批判的である。そして、兵隊ごっこと形容している。

繰り返すと、『「ごっこ」の世界が終ったとき』では、"兵隊ごっこ"とは云っていない。

したがって、2015年11月25日の記事で指摘した;

楯の会=三島事件=「兵隊ごっこ」の用例は下記ある;

これがたとえば三島由紀夫がバタイユから読みとったもののすべてであり、その結果があの面白くもない兵隊ごっこだった。 (浅田彰、『構造と力』)

について、そもそも、江藤の文章にあったのだ。


新しい街でもぶどう記録;第263週

2019年11月23日 17時46分27秒 | 草花野菜

■ 今週の看猫

■ 今週の武相境斜面

 ■ 今週の堀った井戸の管理、96歳

 
・「米国と中国は「冷戦の麓」にある、対立暴走は危険」-キッシンジャー氏 (google)

掘った井戸は古井戸となって、毒噴出ってとこか。


地獄への道の入り口だった??? 

関連記事:キャリアポルノ三昧;サオ師編、序説:: それはキッシンジャーの発案ではなかった

■ 今週の200年


https://www.google.com/doodles/200th-anniversary-of-museo-del-prado

内戦時のプラド美術館の様子の画像がネットにあった;


出典

1936年11月16日にマドリッドに落下した空爆のいくつかは、プラド美術館とその周辺地域を襲いました。この日付以前に博物館のスタッフが講じた予防措置により、建物内で影響を受けたのは16世紀のレリーフのみでしたが、建物自体の構造は近くの爆発、特に壁の爆発波の影響を受けました。

関連記事: プラド美術館のベラスケス門は、夜開く...


 ■ 今週のメモ; 大江健三郎の江藤淳批判  [1]

<1994-1996年>

 『大江健三郎 柄谷行人 全対話 世界と日本と日本人』(2018年、講談社)をみたら、大江は1994年-1996年の柄谷行人との対談で、江藤淳を批判しているとわかる。時期としては、1999年の江藤淳の自殺の3-5年前となる。
 大きな視点からの批判は1996年の対談、「戦後の文学の認識と方法 1996年5月21日」。そこに下記、書いてある;

 今から根本的に考えてみると、戦後文学は十分ではありませんけれども、小説家が小説を通じて、哲学者の認識、哲学者の自己表現に近づいていこうとした時代だったのではないだろうか。それに対して、江藤さんは特にそうですが、現在に至るまで批評家は哲学とは無関係に生きてきたのではないか。
 戦後五十年の中で意識的に批評家になろうとすれば、ほかの批評家、現在の批評家とはすっかり違った意識によって出発するか、あるいは、のんき坊主に先行者にならって出発するかの二つしかなかっただろうと思うんです。あなたの場合は、根本的に批評の役割を哲学と文学の間に見定めて、批評独自の世界を確立しようとしたということじゃないですか。

この大江の発言に対し柄谷は、「すばらしい言い方で、返答に窮します(笑)」と答えている。

 そこから振り返ってみると、もちろん僕はそういう批評家に教えられてきたわけで、裏切り者みたいな言い方になりますけれども、日本の批評家は、日本語と固有名詞に全面的に寄りかかっている、あるいはそれを手がかりにしていて、日本語と切り離すと普遍的な文学の問題は出てこないのみならず、なにひとつ進まないという仕事をずっとしてきたのじゃないか。戦前の批評家として小林秀雄がそうだし、戦後の批評家として、江藤淳など、もっぱら日本語の固有名詞、日本語の文学というものを検討してきた。普遍的な原理は考えないで来た。彼の本領は『荷風散策』ですよ。それが日本批評の一般的な形になってしまっていると思います。

注目すべきは「普遍的」という言葉。大江は、柄谷や自分は普遍的であるが、江藤淳はそうではないと批判している。

 さらに続いて大江は「その点、若い批評家がこれからつくり直していかなければいけない。四方田犬彦のような優秀な人に期待するほかない。」と言って、江藤は四方田犬彦のような若い優秀にとってかわられるべきだとの旨を述べている。大江は江藤批判するばかりでなく、柄谷や四方田に替わるべきだという言い方をしている。評論家・江藤淳の存在そのものを否定するかのごとくだ。これは後述する1967年の”けんか”の引きずりなんだろうか? それにしても大江はアリストテレスからデカルト、そしてスピノザと耽読し理論武装に励んでいると顕示している。 一方、世界共通語は英語であるより仕方がないと英語帝国主義を容認してもいる。この大江の世界観は冷戦後はじまり現在行き詰った「グローバリズム」の文化面でのイデオローグとなっていることを示す。

 一方、「中野重治のエチカ 1994年6月7日」 では、江藤淳が1989年に単行本化した『昭和の文人』の中野重治論に対し、江藤は中野を誤読しているでと批判している。

 このように考え進めてみると、やはり江藤淳がしたような中野重治に対する批判あるいは批判的な弁護は、原理的にも具体的な細部においても当たっていないことが明瞭になると思います。それは『村の家』を意識的に誤読したものだった、と思います。

<1967年>

 さて、大江健三郎と江藤淳は大江のデビューから10年ほどは文学活動を同伴していた。特に江藤は大江の『飼育』に感銘を受け、それ以来フォローしてきた。それが、1967年、大江の『万延元年のフットボール』を江藤が批判。「このままのかたちなら「万延元年」は存在しなくてもかまわない」という。その批判の理由は大江が『万延元年のフットボール』の登場人物に蜜三郎だの鷹四とか"変な名前"をつけている。これは読者に抵抗感をいだかせるものであり、その抵抗感を超えさせ自分の小説を読ませようとする大江の「党派性」と指摘。ここで、「党派性」とは抵抗感を超えて読む者どもとそうでない者どもを分けるという大江の意図。この意図に江藤は反発したらしい。両者のやりとりは対談「現代をどう生きるか」で読める。
 この対談では、「社会性」、「普遍」が評価基準となっていて、双方相手がそれらの基準に悖ると批判しあっている。例えば、大江は次のように言っている;1967年10月9日に行われた。対談の中に10・8羽田事件 [2] について激しいやりとりがあり、昨日の事件だと言っている。

 その言語の表現において、江藤さんが他者と見なしているものは、自分自身とすっかりちがった他者、対立物だろうか?もしそうだとすれば、それを自分でどれだけ許容できるかとういうことをつうじて、逆にその他者の他者性をどんどん大きくさせ強くするということは文学表現において最も大切なものだと思う。ぼくだって、たとえば蜜三郎という人物をなぜ健三郎と呼ばないかといえば、それは鷹四という他者をつくり上げていきたいと思うからです。しかしじつは江藤さんの、自分が許容していると思っている他者は、ほんとうは自分べったりの非他者です。それにもかかわらず、それを他者だと見くびったことを考えているために、自分自身の考え方に客観性があり普遍性があると容易に信じ過ぎてしまう。それがこんどの「一族再会」にしても、「アメリカと私」にしても、それらの根本的弱みをなしていると僕は思いますね。自分が一番ひねりやすいでくの坊をつくりあげて、それを他者だとかりに呼んでいるにすぎない。 (大江健三郎、江藤淳 対談「現代をどう生きるか」、1967年10月9日対談)

[1] 

江藤淳と大江健三郎の「絶交」は1967年10月9日の対談の頃に生じた。この対談は『江藤淳全対話〈2〉現代文学を生きる 』 (1974年)に入っている。でも、今、高い。今日、Amazonで、¥18.,862. でも大丈夫。横浜市立図書館から借りた。『大江健三郎 柄谷行人 全対話 世界と日本と日本人』もあわせて借りた。借りる前は、大江の江藤批判が載っているとは知らなかった。

[2] 関連記事:昭和の成仏のために;佐藤栄作訪米阻止・羽田空港闘争 - 1967

合計 11,275 2,657
日付 閲覧数(PV) 訪問者数(IP)
11月16日 1,199 397
11月17日 1,213 437
11月18日 4,501 425
11月19日 1,355 383
11月20日 1,189 387
11月21日 866 286
11月22日 952 342

 

 


丹沢・大山、阿夫利神社参り (富士山見えた)

2019年11月17日 12時54分53秒 | 日本事情

相模大山(さがみおおやま)=丹沢大山は2度目。一度目(ブログ記事:相模大山登山)は大山ケーブル駅がある表参道から登った。ただし、ケーブルが混んでいて最初から歩いて登った。山頂は濃霧で景色は楽しめなかった。今回は秋の晴れた日にヤビツ峠から大山に登る。


1:ヤビツ峠、2:春岳山、3:大山、4:下社ケーブル駅、5:大山ケーブル駅、6:阿夫利橋バス停

■ 小田急秦野駅 ⇒ ヤビツ峠

秦野駅のバス停のヤビツ峠行きの便に乗るのはほとんどが登山客。15人ほどのがきんちょの集団がいた。他の登山客が保母さんに聞いていた。保育園児の彼らは、ヤビツ峠から大山へ登るとのこと。ヤビツ峠行きの便へは既に相当数の登山客が並んでいた。その後に最初がきんちょの集団は並んでいた。このままじゃバスでは座れないだろう。45分もかかる終点ヤビツ峠までどうするのだろう?と思っていたら、バス会社の人が来て、がきんちょの集団を別列に並ばせた。増発便が出るのだ。

ヤビツ峠に着く。45分ほどかかる。ヤビツ峠は 3年振り


ちょっと登って、振り返る。

■ ヤビツ峠 ⇒ 25丁目


この前の台風の被害らしい。


富士山1

■ 25丁目 ⇒ 大山山頂

 


富士山2 1に比べて、雲の帯が下がった。

■ 大山山頂

■ 大山山頂 ⇒ 16丁目

 
富士山3

■ 富士見台 ⇒ 16丁目


富士山4


おそらくランドマークタワー。横浜が見えるんだ。

大山山頂から神社までの標高差は約500mある。岩が転がる道を下る。

 

■ 下社への階段

 

阿夫利神社駅からケーブルカーに乗り、下る。片道、630円。


大山ケーブル駅で降りる。

参道は結構長い。両側に店が続く。

下って行くと、小田急伊勢原駅へ行くバスに乗れるバス停がある。

■ まとめ

・ヤビツ峠からイタツミ尾根は歩きやすく、樹木享受、見晴らしなど良い。ハイキング気分。
・さらに大山までの経路はやや急になるが、富士山の眺めがよい。
・山頂:(晴れていれば)眺めよい
・下山:富士見台の眺めよい。
・その後、岩が多い道。斜面が急。ハイキング気分ではない。

おしまい。

 


新しい街でもぶどう記録;第262週

2019年11月16日 18時26分46秒 | 草花野菜

■ 今週の看猫

■ 今週の武相境斜面

■ 今週の草木花実

■ 今週の月

■ 今週の富士山


丹沢、大山からの眺望。

■ 今週の道産米

道産米2種、「ななつぼし」と「ゆめぴりか」が売り切れだった。

関連記事⇒ 内地米、外地米、道産米、ゆめぴりか

合計 7,961 2,183
日付 閲覧数(PV) 訪問者数(IP)
11月9日 1,010 282
11月10日 954 298
11月11日 1,397 308
11月12日 1,068 317
11月13日 1,236 299
11月14日 1,244 320
11月15日 1,052 359

 

 


御岳山、武蔵御嶽神社参り

2019年11月10日 10時20分53秒 | 東京・横浜

 


1:JR御嶽駅、2:ケーブルー駅 滝本、3:ケーブルカー駅 御岳山、4:武蔵御嶽神社、5:長尾平展望台、6:天狗岩

■1.JR御嶽駅

JR御嶽駅からケーブルカーの駅へはバスで行った。

■2.ケーブルー駅 滝本

■3.ケーブルカー駅 御岳山


3:ケーブルカー駅 御岳山、4:武蔵御嶽神社、5:長尾平展望台、6:天狗岩 、(黄色矢印:「七代の滝」、「ロックガーデン」)

青梅市web site ⇒ 御岳山ハイキングコース;  観光歩き道マップ – 御岳山周辺エリア


武蔵御嶽神社参道入口

■3.→4.武蔵御嶽神社参道


ビジターセンター

■ 長尾平展望台

■6'. 奥の院方面

奥の院までは行かず、途中で引き返す。

■6.天狗岩


谷筋は土石流の痕跡。先日の台風15号、19号の結果。


天狗岩

名所の「七代の滝」、「ロックガーデン」はここから谷底へ降りる。が、ここで引き返す。

■ 武蔵御嶽神社

■ 4:武蔵御嶽神社

ケーブル駅滝本へ。バスで御嶽駅へ帰る。

 

 

 

 

 


新しい街でもぶどう記録;第261週

2019年11月09日 18時22分18秒 | 草花野菜

■ 今週の看猫

■ 今週のよその猫


Google [第29回青梅宿アートフェスティバル2019 猫たちの祝祭]

■ 今週のメタセコイア

■ 今週の草木花実

■ 今週の43歳

1970年代末、今から思えば東急東横線に乗った。がきんちょのおいらは東京にやって来たのだ。その時、「ジュラルミン」の列車が印象深かった。5年前まで、この東急の銀色の電車が「ジュラルミン」と勝手に思い込んでいた。5年前、横浜にやっきて、改めてこの銀色の電車について調べると、ステンレス製とわかった。しばしばこの東急の銀色の電車について、銀色の材料以外、車両製造に関する情報は確かめていなかった。今週、"エビデンス"を取得。


ピンぼけの上、ホームドアのせいでよい車両全景とはならなかった。


昭和51年、1976年製造、とわかった。ネットで調べると、東急8500系電車(wiki)というらしい。「1975年(昭和50年)に登場した」とある。つまり、上の画像の電車は登場直後のもので、それ以来ずっと活躍しているのだ。43年。簿価はどうなっているのだろう?世界一?高い費用でつくっても、数年で、水没・廃車となる電車、43年走り続ける電車、いろいろあるのだ。

■ 今週の東京


東京都青梅市 御岳山 長尾平


東京都青梅市 御岳。茅葺屋根の建物。家に帰って調べた。 馬場家御師住宅(wiki)らしい。

合計 8,707 2,534
日付 閲覧数(PV) 訪問者数(IP)
11月2日 1,310 425
11月3日 1,360 387
11月4日 1,259 429
11月5日 1,487 325
11月6日 1,208 361
11月7日 1,071 286
11月8日 1,012 321

「日本占領米軍に払ったわれわれのお金」

2019年11月04日 13時33分36秒 | 日本事情

【要旨】敗戦後の米軍占領の費用は、実は、日本の税金であったと江藤淳は1986年に指摘している。その指摘は、米軍の占領の寛大なものではなく苛酷なものであったことを主張する証左(エビデンス)としてである。一方、小島信夫の『アメリカン・スクール』(1954年、芥川賞)には、少なくとも、占領軍の学校施設(アメリカン・スクール)は日本の税金で賄われていると書いてある。
 おいらはがきんちょの頃から占領軍施設を見て来たのだが、それらが「われわれのお金」でできたとは江藤の1986年の指摘まで知らなかった。そして、最近、小島信夫の『アメリカン・スクール』を読んだら、そのことが書いてあった。
 江藤の代表的評論は小島の作品を扱っている。ところで、占領史の本は多いが、「日本占領米軍に払ったわれわれのお金」について言及している他の例をおいらは知らなかったので、興味深く思った。

【本文】


陸上自衛隊第11旅団(札幌市郊外、旧Camp Crawford)GoogleMapよりコピペ。


同じく。

1951年5月20日撮影。キャンプ・クロフォード⇒真駒内駐屯。現在までに残存、サイロ隊舎。

■ 占領軍遺構/現行施設

 横浜に来て5年、歴史探訪がてら散歩する。横浜は大きく占領された地域なので史跡はある(愚記事群;今週のレコンキスタ史跡探訪)ので探訪している。さらには、東京は立川も行った。でも、実は、占領軍遺構、ましてや現在も使用している施設はほとんど残っていないのだ。東京の占領軍遺構(ワシントンハイツ)の例は、昨日の記事で書いた。


ワシントンハイツ唯一の遺構

 一方、先日札幌に行ったら、旧Camp Crawford跡地、現自衛隊第11旅団の占領軍遺構/現行施設はまだあった。遺構ではなく、現役施設なのだろう。地下鉄からみた。自分でデジカメで画像は撮らなかったので、Googleで上記画像を得た。

■ 旧Camp Crawford跡地とおいら

 がきんちょの頃から見ていた。昔は札幌雪祭りの会場は2か所。大通公園と自衛隊第11師団(当時)駐屯地であった。すなわち、旧Camp Crawford跡地は雪祭り会場であり、一般人も入れた。あと、年一回の一般公開でも一般人も入れた。上記(上)の白壁青屋根の建物は元来映画館として建てられ、雪祭りの一般公開のときも入れたような気がする。確かな記憶は赤レンガの建物(上画像(下)と同一)のひとつが史料館となっていた。雪祭りにも一般公開していた。旧軍に関する展示もあった。
 今思うと1980年代では、少なからず、もしかして大半が占領軍時代の建物だったような気がする。一方、がきんちょの頃から断続的に自衛隊基地以外の占領軍時代の建物は次々と取り壊されていった。大人になるまで、なんとなく、こういう建物は進駐軍が建てた、物量に勝る勢力で日本を敗戦に追い込み進駐してきた米軍が建てたと無意識に思っていた。すなわち、別に特に意識はしなくても、まさか日本が費用負担していたとは思わなかった。というか、焼け野原になったとされる日本がそんな負担をしたとは思わなかった。違った。

■ 1986年に知った

 江藤淳に『日米戦争は終わっていない』という本がある。1986年刊行。穏やかでない題名なのだが、なんと、江藤はこの本を昭和天皇に贈ったというのだ [1]。この『日米戦争は終わっていない』をおいらは仙台で買って読んだ。札幌から仙台に来たのだ。やって来た場所が山城である仙台城本丸のとなりの一段低い段丘面にある旧二の丸の地区。やって来て目についたのはいくつかの占領米軍の建物であった。つまり、日帝陸軍第二師団が占領軍に接収された故、当時建てたものの生き残りであった。もっとも、普通の人にはおいらには「目についたのはいくつかの占領米軍の建物」は、特に目にとまらなかったであろう。なぜなら、数は少なく、「占領米軍の建物」なぞ特に気にしないだろうから。今から思うと、旧占領接収地から旧占領接収地へとピンポイントで移ったにもかかわらず、昔から視野狭窄のおいらは、日本は戦争に負けたのだとつくづく思った。そして、無意識に、物量で戦争に勝った米占領軍が余裕で基地群を建設したと思っていた。そして、その後日本がもらったと思っていた。札幌のように自衛隊がもらって使うならともかく、大学が米軍から建物をもらって使っていたと知って、情けない気がした。でも、違った。


日米戦争は終わっていない―宿命の対決 その現在、過去、未来 (NESCO BOOKS) (Amazon

その江藤淳の『日米戦争は終わっていない』に書いてあった;

 (米国による日本占領は寛大どころではなかったことについて)ひとつのわかり例をあげると、当時の予算ー昭和二十一年度から二十六年度までの日本の国家予算の一般会計のなかには、終戦処理費という費目がありました。これは占領経費です。
 昭和二十年九月二日に降伏文書調印が行われて、公式の日本占領がはじまったのですが、その当初から日本政府は、占領当局から占領費用の調達を要求されていて、九月七日には政府は、日本銀行に占領軍の預金口座を開設し、とりあえず一億円交付しています。十月二日までに、この口座の残高は十億円に達しました。そしてこれは、各地に進駐してきた占領軍残って経理担当将校に宛てて、GHQからそれぞれ分配されています。十一月になると、占領将兵宿舎二万戸の調達が命じられました。この経費はだいたい当時の金で百億円でした。
 このためには、日銀券を刷り増す以外に方法がなかったので、非常なインフレ要因になりました。もちろん日本政府は降伏を予定していなかったのですから、昭和二十年度予算には、なんらこのような経費は計上されていなかったのです。
 というようなわけで、昭和二十一年度の予算を編成するときには、新たに終戦処理費という費目をたてなければならなくなりました。参考までに数字をあげておくと、昭和二十一年度で、三百九十六億円、一般会計の三十三パーセント。(江藤淳、『日米戦争は終わっていない』第3講 日米関係の構図、その(二)日本占領米軍に払ったわれわれのお金)

■ 小島信夫、『アメリカン・スクール』

 小島信夫の『アメリカン・スクール』を初めて読んだ。その存在は知っていた。評論などで言及されていた。占領下日本での対米挙動、対米感情を写すものとして。でも、その内容は、敗者の屈辱を含むものだろうし、読むおいらの敗者の屈辱を惹起せしむると察せられた。正視に堪えないだろうと、弱っちいおいらは思い、若いころから忌避してきた。でも、年を取ると面の皮も厚くなり、感受性も衰えて来たのでもう大丈夫と思えてきた。今年は、平山周吉の『江藤淳は甦える』を読んで、江藤淳を改めて読み直してみて、小島信夫の『アメリカン・スクール』を読んでみようと思った。江藤は小島信夫をよく語っている。上野千鶴子は云っている;「小島は江藤という読み手を持つ幸運によって、六十年代を代表する作家として長く記憶にとどめられることになった」。

 『アメリカン・スクール』を読んだら、書いてあった;

  ウイリアム校長というより、通訳者山田の第一声は、次の如きものであった。
 「私たちのアメリカン・スクールの校舎は日本のお国のお金で建てたものです。お国の建築屋が要求通りにしないのとズルイために、ごらんの通り不服なものなんですが。(後略)」(小島信夫、『アメリカン・スクール』)

小島信夫の『アメリカン・スクール』は、1954年の作品。「日本占領米軍に払ったわれわれのお金」というのは公知だったのだ。でも、「日本占領米軍に払ったわれわれのお金」について言及している他の例を、あんまり、見ないような気がするのだが。

なお、以前(2013-2017年のいつか)、孫崎享がラジオ("おはよう寺ちゃん 活動中")で「日本占領米軍に払ったわれわれのお金」に言及していたと記憶している。


[1]  もちろん、勝手に贈ったわけではない。平山周吉の『江藤淳は甦える』(Amazon)に書いてある;

 雨中の園遊会での(昭和天皇からの)お尋ね「江藤かい、いまでも漱石やってるの」に何と答えたかを江藤は語ってはいない。漱石は一休みして、陛下の御時世に取りかかっております、とはまさか言上できなかったであろう。ただ幸いなことに江藤の近業が「天覧」を賜わる機会が二年後の昭和六十二年に訪れた。福田派の重鎮代議士・田中龍夫(田中義一の長男)を介して届けられた江藤の著作は『日米戦争は終わっていない』と時務評論『同時代への視線』であった。どちらも最新刊でありますと説明可能だが、「天覧」に相応しからぬ危険な選択である。前者はタイトルからして物騒である。後者には、小堀桂一朗との対談「「大東亜戦争」と「太平洋戦争」」、上山春平との対談、「大嘗祭の意義」、そして江藤の靖國神社擁護の論考「生者の視線と死者の視線」が収録されている。江藤としては御進講の代わりにという心づもりだったとしても、どれも機微に触れる、刺激的なテーマであり過ぎる。高齢の天皇のお手元まで確かに届いた可能性は低いのではなかろうか。江藤の尊皇は「ラディカル」な側面を有していたのである。(平山周吉、『江藤淳は甦える』、第四十三章 天皇崩御ーその喪失感と大河昭和史の中絶)


東京散歩;表参道 → 代々木公園 → 新宿

2019年11月03日 14時45分05秒 | 東京・横浜

代々木公園に行った。目的は「オキュパイ物」史跡訪問。ワシントンハイツの残存物があると、最近、知ったからだ。愚ブログでにおけるワシントンハイツの出現。初出は2004年(堀田善衛『インドで考えたこと』)、次が2012年(昭和の成仏のために; 幻の五輪、東條演説、占領、実現したオリンピック、そして、建築)、そして最近2019年(ジャニー喜多川ってワシントンハイツの住んでいたと知り)。代々木公園のワシントンハイツの残存物をみることを含む、地下鉄表参道駅から新宿駅まで散歩した。


1:表参道駅、2:代々木公園原宿門、3:代々木公園西門、4:神宮橋、5:代々木駅、6:新宿駅

■ 1.表参道 → 2.代々木公園


表参道


表参道は駅から明治神宮へ向かうとき、一旦、谷に降りる。最上地図の1→2の経路。
その谷を明治神宮側から見た様子。


山手線を跨ぐ。

■ 代々木公園

▼オキュパイもの

お目当ての「ワシントンハイツの残存物」は、敗戦直後、米軍用住宅施設(ワシントンハイツ)として建てられたもの。その後1964年東京オリンピックの選手宿泊施設として使われたらしい。このたった一戸だけが残っている。現在はこの建物を、「オリンピック記念の宿舎」と呼称されている。占領米軍のことは、公園の説明書きでは、言及されていない。


この建物は地図に載っている。上記、赤矢印。右は航空写真。


上図は現在の地形図、下図は占領時代の航空写真。赤矢印はこの1戸だけ残った米軍建物。
ワシントンハイツの東京オリンピックの頃の様子↓

▲ 以上、オキュパイもの

代々木公園内


閲兵式の松

・代々木公園を出る

■ 3.代々木公園西門 → 4.神宮橋


国立オリンピック記念青少年総合センター


神宮橋交差点


少し首都高4号新宿線にの横の道を行く。そして、左折して、北へ。


首都高4号新宿線と小田急小田原線に挟まれた地域を東へ。JR代々木駅へ。


JR代々木駅


北上。新宿駅へ。


新宿駅。


新宿駅南口。


花園神社


新宿駅に戻って、


小田急で武相境に帰る。