いか@ 筑豊境 寓 『看猫録』

Across a Death Valley with my own Distilled Resentment

新しい街でもぶどう記録;第484週

2024年02月24日 19時15分52秒 | 草花野菜

▲ 今週のみけちゃん
▼ 新しい街でもぶどう記録;第484週

■ 今週の武相境斜面

■ 今週の草木花実

■ 今週の宮城県産

■ 今週の購書

カストリ雑誌と近衛文麿『平和への努力』の2点をyahooオークションで買う。両者とも昭和21年(1946年)刊行。800円(送料300円)と500円(送料300円)。近衛文麿『平和への努力』はAmazonで3,000円を超えている。

カストリ雑誌というものを始めて買った。

カストリ雑誌は、太平洋戦争終結直後の日本で、出版自由化(ただし検閲あり、詳細は下段参照)を機に多数発行された大衆向け娯楽雑誌を指す。

これらは粗悪な用紙に印刷された安価な雑誌で、内容は安直で興味本位なものが多く、エロ(性・性風俗)・グロ(猟奇・犯罪)で特徴付けられる。具体的には、赤線などの色街探訪記事、猟奇事件記事、性生活告白記事、ポルノ小説などのほか、性的興奮を煽る女性の写真や挿絵が掲載された。wiki

昔、1980年代に札幌の古本屋で見たことがあったが、丁寧に放送され、容易く買える値段ではなかった記憶がある。覚えている内容は共産党のゴシップで徳田球一がどうのこうのというものだった。今回買ったカストリ雑誌は『ホープ』(創刊号)という実業の日本社というところから発行されたもの。表紙を開けると新生 日本の使命と題し、賀川豊彦の文章。続いて、「アメリカ兵の一日」となる。

賀川豊彦の文章は、「戦争に敗北したために却って国際的な発言権を獲得したというような例は、 世界の歴史に決して少なくないのであって、 我々は釈迦の例においても あるいは キリストの例においても教えられる点が非常に多い。」で始まり、「もし日本がこの度の敗北により、 文芸復興、宗教改革、 または新しい自然科学の振興などを実現することができるならば、今度の敗戦は日本にとって どれほど大きな幸福となるかは計り知れないものがある。 」と最初の段落を終える。他の執筆者として、辰野隆(wiki)や出隆(wiki)が見える。出隆は、この後、「1948年(昭和23年)、日本共産党に入党。1951年には東大を辞職して東京都知事選挙に無所属で出馬し落選」したことは有名(wiki)。

▶ 近衛の動向のゴシップが載っていた。


この写真の題は「望郷」。

■ 今週の内部:湯島聖堂、大成殿の内部

湯島聖堂の大成殿の中に初めて入った。200円。2019年が最後に湯島聖堂を参拝した。その時は大成殿は開いていなかった。

2019年12月

でも、おいらの愚記事に筑波山麓で湯島聖堂の内部を見る; 『江戸前期の湯島聖堂』がある。

下の画像は今週、湯島聖堂内部での展示。2005年にこういう展示会が2005年にあったのですよと。おいらは、行っただよ。

■ 今週の「子」:鬼龍子


鬼龍子:想像上の聖獣

■ 今週のウェールズ系:グリフィン、あるいは、西洋の想像上の聖獣

横浜の市街地において「グリフィン」と表示された看板を大きく掲げたビルをしばしば見る。これは「グリフィンシリーズで知られる陽光都市開発」(google)という会社のビルとのこと。

さて、「グリフィン」という固有名詞、名前は知っていた。昔自分と同じ研究分野で「グリフィン」という名前の研究者がいて、その人の論文を集めていた。ただ「グリフィン」というのは人の名前なんだなとしか思っていなかった。今週、調べた。何を調べたかったかというと何系の名前であるかを。ヨーロッパ系の名前なのであろうと思うが、どこの国、あるいは、地方の名前であるのか?ググった。わかった。ウェールズ。さらに、「グリフィン」というのは聖獣の名前なのだ。知らなかった。

 


横浜散歩:石川町駅⇒ 山手イタリア山庭園⇒ 横浜マリンタワー⇒ 馬車道⇒ 野毛山公園 ⇒稲荷台小学校

2024年02月23日 17時34分30秒 | 東京・横浜

横浜を去ることになった。横浜でまだ行っていない場所は多い。横浜有名地基本編[1]でも行けなかった場所として、横浜マリンタワーがある。行ったことがなかった。さらに、山手イタリア山庭園の洋館にも入ったことがなかったので、行くことにした。歴史探訪としてホテルグランドの玄関の写真を撮りたかった。一方、有名ではないし、行っても痕跡はないであろう史跡である「稲荷台小学校」=昭和天皇の戦後巡幸初日の訪問地に行くことにした。したがって、その間を歩いた。

[1] 横浜散歩;基本編、中華街、山下公園、大桟橋、みなとみらい地区

1.JR石川町駅、2.山手イタリア山公園、3.山手商店街、4.横浜マリンタワー、5.馬車道、6.野毛町、7.野毛山公園、8.稲荷台小学校

■ 1.JR石川町駅


JR石川町駅のホームから外交官の家が見える。

■ ⇒ 2.山手イタリア山公園


Google Map

明治13(1880)年から明治19(1886)年まで、イタリア領事館がおかれたことから「イタリア山」と呼ばれています。イタリアで多く見られる庭園様式を模し、水や花壇を幾何学的に配したデザインの公園で、整形花壇では四季折々の花、植栽を見ることができます。また、テラスからは横浜ベイブリッジやみなとみらい21を一望することができ、写真や絵画のモチーフとして人々に親しまれています。
フランス瓦の屋根の「ブラフ18番館」は平成5(1993)年に、とんがり屋根の「外交官の家」は平成9(1997)年に、移築復元されました。

山手イタリア山公園 web site

▶ ブラフ18番館

▶ 外交官の家

ニューヨーク総領事やトルコ特命全権大使などを務めた明治政府の外交官内田定槌氏の邸宅として、明治43(1910)年に東京渋谷の南平台に建てられました。 設計者はアメリカ人で立教学校の教師として来日、その後建築家として活躍したJ.M.ガーディナーです。
建物は木造2階建てで塔屋がつき、天然スレート葺きの屋根、下見板張りの外壁で、華やかな装飾が特徴のアメリカン・ヴィクトリアンの影響を色濃く残しています。1階は食堂や大小の客間など重厚な部屋が、2階には寝室や書斎など生活感あふれる部屋が並んでいます。これらの部屋の家具や装飾にはアール・ヌーボー風の意匠とともに、19世紀イギリスで展開された美術工芸の改革運動アーツ・アンド・クラフツのアメリカにおける影響も見られます。外交官の家

内田 定槌(うちだ さだつち):豊前国小倉(現在の福岡県北九州市)出身。1889年(明治22年)、東京帝国大学法科大学を卒業し、外務省試補となった。翌年、上海副領事となり、漢城領事、ニューヨーク領事、同総領事を歴任した。1906年(明治39年)にブラジル弁理公使となり、翌年に特命全権公使となった[3]。その後、スウェーデン公使に就任し、デンマーク公使、ノルウェー公使も兼ねた。1920年(大正9年)、トルコに派遣され、のち大使に昇格した。wikipedia

■ ⇒ 台地を降りて、山手

⇒ 横浜ウォッチャー: 石川町「かき氷店 小桃」パフェのようなかき氷が大人気!国産イチゴにこだわる「小桃ちゃん」が絶品

▼ 大丸谷震災地蔵尊


Google Map

▼ 元町ショッピングストリート

■ ⇒ 横浜マリンタワー


中村川

■ 横浜マリンタワー

展望台入場料、1,100円。

横浜マリンタワー 公式 web site

横浜マリンタワー(よこはまマリンタワー)は、神奈川県横浜市中区山下町にある、横浜開港100周年記念事業として建設されたタワー。横浜のシンボルのひとつとなっている。

旧横浜居留地(山下居留地)の東南、横浜港フランス波止場跡(山下公園中央部)とフランス橋の間に位置する。かつては灯台としても機能していた。1961年1月15日開館。wikipedia


瑞穂埠頭(米陸軍管轄埠頭)。 接収日:昭和21年4月15日(横浜市web site)

上陸艦


さっき行った山手イタリア山庭園を見る。 ↓その遠望

赤煉瓦で象徴される新埠頭地区は、1910年代に建設された。「建設費用はアメリカに支払った下関戦争の賠償金がアメリカから返還され、これを充てた」(wiki)。

■ ⇒ 5.馬車道


ホテルニューグランド 1927年開業(wikipedia

マッカーサーは1945年8月30日に「厚木」に、子猿も連れて、飛来。その晩は横浜のホテルグランドに宿泊。3-4泊して、山手のC.マイヤー邸(google)に滞在した。そして、1945年9月8日に東京入城を果たした。しかし、その晩は横浜に帰ったのだという(根拠)。ところで、マッカーサーは1937年に新婚旅行からフィリピンへ帰る途中このホテルグランドに泊まった。つまり、8年後、横浜は灰燼に帰していた。ただし、このホテルや港湾地区を除いて。それにしても、マ元は1937年から「I shall return to be the SHOGUN」だったのだろうか?


第11空挺師団の米兵

タイル模様の柱がそのまま。中央のタイル模様の柱は撤去されたとわかる。階段が微妙に変わっている。

■ ⇒ 野毛町


大岡川。弁天橋を渡る。

■ ⇒ 野毛山


日本中央競馬会ウインズ横浜

▶ お昼


ハラミペパーライス:ダイニング×ダイビング リコモ(google map

■ ⇒ 7.野毛山公園


坂を登り、振り返って図書館をみる

水道みち(横浜の水道は野毛山にあり野毛山貯水場跡で歴史を知ろう
下の凹凸図で2つの赤矢印の間が(/も)水道みち。2つの谷を越えている。


振り返って野毛山動物公園方面を望む。尻こすり坂(google map)。


県営藤棚団地(google

■ ⇒ 稲荷台小学校

この坂を昭和21年2月19日に昭和天皇が上った。その日は敗戦後の全国巡幸の第1日目だった。この坂を登った先には、戦災者共同住宅があった。そこを訪問したのだ。戦災者共同住宅は、横浜市稲荷台国民学校があったが、1945年・昭和20年5月19日の横浜空襲で焼失する。その焼跡に戦災者共同住宅が建てられた。現在は、横浜市立稲荷台小学校。

愚記事:昭和の成仏のために:横浜市立稲荷台小学校、元戦災者共同住宅、昭和天皇、戦後巡幸第1日目


航空写真(左:1945-1950年)、現在の航空写真(右)。〇印が上記坂

■ 通過街

横浜市:
中区
石川町、山手町、元町、山下町、日本大通、本町、太田町
西区
桜木町、野毛町、宮川町、老松町、西戸部町、藤棚町、

 


昭和の成仏のために:横浜市立稲荷台小学校、元戦災者共同住宅、昭和天皇、戦後巡幸第1日目

2024年02月19日 06時44分14秒 | 東京・横浜

敗戦後の天皇巡行。この写真を子供の頃から見ていた。歴史の本によく出てくる。この場所は横浜と知ったので、場所を調べて、行ってみた。この写真は78年前の今日。


昭和21年2月19日 横浜市 戦災者共同住宅、現在 横浜市立稲荷台小学校
(神奈川県横浜市西区藤棚町2丁目220)

この日の巡行について、例えば、古川隆久『昭和天皇』では神奈川県京浜地区の簡易住宅街、吉田裕『昭和天皇の終戦史』では神奈川巡行とだけあり、具体的にどこであるのかはわからない。

 

この巡行は1946年から1954年8月の最後の北海道[1]まで全国(沖縄/琉球を除く)を廻った天皇の全国行幸の第1日目である。Wikipedia [昭和天皇の戦後巡幸]。場所は上記の通り、横浜市の戦災者共同住宅、現在 横浜市立稲荷台小学校。

[1] 北海道問題は本記事に末尾にメモ


Google map

横浜市立稲荷台小学校は、横浜港の西の台地域にある。台地にある野毛山公園の北西だ。

ここは、横浜市稲荷台国民学校があったが、1945年・昭和20年5月19日の横浜空襲で焼失する。その焼跡に戦災者共同住宅が建てられた。昭和26年(1951年)から、戦災者共同住宅が昭和28年(1953年)に撤去されるまで、小学校(稲荷台小学校稲荷台分校)は共存していた(ソース:横浜市立稲荷台小学校 沿革)。上の昭和天皇の写真を見ると、写真の奥の方が土地が低いことがわかる。すなわち、昭和天皇は坂を登って来ているのを、坂の上から撮影した。

■ 行ってみた。

この坂だ ↓。 坂を登り詰めると、稲荷台小学校・戦災者共同住宅がある/あった。


「御幸坂」。上記昭和天皇の写真はこの坂道で撮影されたらしい。エビデンスは後述。


坂を登りきると、稲荷台小学校に至る。


稲荷台小学校の門。中はグランンドが広がる。この現在グランドなっている平坦地に戦災者共同住宅があった。下の航空写真で建物が見える。


地図(左)、地形凹凸図。丸印は坂道での写真撮影場所。


航空写真(左:1945-1950年)、現在の航空写真(右)。

■ 「御幸坂」のエビデンス

この昭和21年2月19日の昭和天皇の巡行で、昭和天皇と話したという人の回顧があった;

横浜市旭区の石川啓次郎さん(81)は、2月19日の稲荷台共同宿舎(横浜市西区)への巡幸の際、昭和天皇に話しかけられた体験を持つ。当時、西前国民学校5年生だった石川さん。学校の先生から昭和天皇が横浜に来ることを知らされ、友人らと見に行った。両手のしもやけがひどく、母親から「粗相がないように」と渡された軍手を両手にはめ、寒さに耐えながら1時間ほど待ったという。

 「シーンと静かに、みんなでただお辞儀をしていた」という中、昭和天皇は石川さんの前で立ち止まって帽子を取り、「家は焼けましたか」「学校の道具は焼けなかったのか」と尋ね、石川さんは無我夢中で答えたという。巡幸で声をかけられた最初の児童となり、そのやりとりは翌日の朝日新聞などに取り上げられた。 (朝日新聞 web site

昭和天皇を迎えた場所の写真が朝日新聞に示されている。この坂道だ。

■ なぜ、そこに?

上記の昭和天皇から声をかけられた石川啓次郎さんは、「学校の先生から昭和天皇が横浜に来ることを知らされ、友人らと見に行った。」と云っている。これを読むと興味本位で昭和天皇を見に行ったとも思える。でも、そうであるなら、上記写真は興味本位で集まった子供や、そして大人で、あふれてしまうはずだ。おそらく、興味本位ではなくて、「選ばれた」人たちが「動員」されたのではないだろうか。そもそも、「学校の先生から昭和天皇が横浜に来ること」ではなく、学校の先生は天皇が稲荷台小学校・戦災者共同住宅にこの日午後(昭和21年2月19日)来ることを知っていたのだ。それは政府からお達しがあったのだろう。

 一九四五(昭和二〇年) 秋から秋から、国内安定に資したいとして 天皇・宮中に巡幸実施の意向があった。 そのきっかけの一つが、四五年十一月中旬に行われた、終戦奉告のための伊勢神宮への行幸である。 この行幸に同行した木戸内大臣は、「沿道の奉迎者の奉迎振りは、何等の指示を今回はなさざりしにかかわらず、敬礼の態度等は自然の内に慎みあり、如何にも日本人の真の姿を見たるが如き心地して、大いに意を強ふしたり」と国民の天皇支持の強さを認識した(『木戸日記』 11月12日)。 実際には沿道の人々の多くは 行幸ルート上の自治体が独自に動員したものだったが、木戸ら天皇・宮中はそれを知らなかったのである( 瀬畑二〇一〇[昭和天皇「戦後巡幸」の再検討]) 。古川隆久『昭和天皇』

こういう事情なので、「行幸ルート上の自治体が独自に動員」したのではないだろうか。

■ 「御幸坂」を登ったあとで

昭和天皇は、坂道を登り、戦災者共同住宅に向かったはずだ。戦災者共同住宅での住民との会見の様子を報道する新聞記事が、文藝春秋のweb siteにある。

■ この日の戦災者共同住宅への訪問は、昭和天皇実録に書いてある;

一時三十分県庁を発御、伊勢佐木町通を経て、西区の稲荷台国民学校の焼け跡に建設された稲荷台戦災者共同宿舎に着御され、住宅営団横浜支所長副見喬雄より罹災(りさい)者を収容する同住宅建設概況についてお聞きになる。副見の説明により宿舎内を御巡覧になり、罹災者に種々労(いたわ)りの御言葉を賜う

産経新聞の記事(昭和天皇 終戦翌年の地方巡幸 神奈川から 川崎→横浜→皇居→横須賀 「実録」からひもとく第一歩)から孫引き。

■ 昭和天皇、戦後巡幸の第1日目

昭和天皇の戦後巡幸は神奈川県の横浜、横須賀から始まった。2日間。皇居から日帰りで通った。

■ 北海道問題

昭和天皇の戦後巡幸の北海道に関する情報;

天皇の「戦後巡幸」(以下「」を略す)とは 1946 年 2 月の神奈川県から 1954 年 8 月の北海道にかけて(米国占領下の沖縄県を除き)行われた全国視察のことである。しかし、本稿では占領下の 1951 年関西巡幸までを分析対象とする。北海道巡幸は、1949 年から定例化する国民体育大会への巡幸の流れに位置づけられるべきであり、他の戦後巡幸とは一線を画するものだと考える。昭和天皇「戦後巡幸」にみる象徴天皇制の形成過程

昭和天皇は占領期に当時の日本の施政権下では唯一北海道を訪問していませんでしたが、朝鮮戦争の勃発後も「私が行けば北海道を何かの時見捨てぬといふ証拠ニなる」などど繰り返し、北海道への訪問を強く希望していたことがわかりました。 (戦後占領期 北海道への巡幸 強く希望戦後占領期 北海道への巡幸 強く希望

 


新しい街でもぶどう記録;第483週

2024年02月17日 18時00分00秒 | 草花野菜

▲ 今週のみけちゃん
▼ 新しい街でもぶどう記録;第483週


来る春に備えます

■ 今週の武相境斜面

■ 今週の草木花実

■ 今週のメタセコイア


横浜市中区山手町の「外交官の家」の横にあるメタセコイア並木。

■ 今週のレコンキスタ史跡訪問@鳥瞰

横浜マリンタワーから山下公園やホテルニューグランドの方面。

①山下公園


今の山下公園の米軍宿舎

■ 今週のレコンキスタ史跡訪問@虫瞰


ホテルニューグランド 

■ 今週のピン抜き


野毛山の横浜市立図書館前

■ 今週のオノマトペ

ピヨピヨフライ [google]。ピヨピヨの由来は鶏肉使用からとのこと。

食べると、ハンペンフライって感じ。サクサク感はない。

■ 今週のオノマトペ2,あるいは、今週知ったこと

半熟卵の黄身がとろり。とろとろではない。とろり。とろとろというと流れ出る感じがする。

とろりは擬態語であり、オノマトペとなる。おいらは、オノマトペはピヨピヨとかザーザーとかクルクルとか同じ音が2回繰り返される擬態語のことと思っていた。違った。繰り返さなくてもオノマトペ=擬態語なのだ。

■ 今週のキリ番

 ブログ開設から7171日。365で割ると、19.6。

■ 今週の訳あり

山形産リンゴ。 10kg, 3,580円。 今季、3度目の訳ありリンゴ。

■ 今週の類似品

 

クロレラ乳酸菌とヤクルトの違い|類似品の比較・摂りすぎの注意点を調査

福岡県に行ったら、マドルなるヤクルトみたいものがあった。

「クロレラ乳酸菌飲料は」クロレラ抽出液を含んだ乳酸菌飲料、

クロレラとは淡水に生息する植物性のプランクトンのこと。 他の植物の何十倍もの光合成能力と繁殖能力を持ち、良質のたんぱく質が多く含まれている。 9種類の必須アミノ酸を全て含み、ビタミン・ミネラルもバランス良く多く含有。 人類の食糧難を解決する「夢の未来食」として注目されている。

■ 今週知ったこと:桐野利秋の札幌訪問@明治4年

幕末の四大人切りのひとり中村半次郎(人切り半次郎 [1])、のちの桐野利秋。西南戦争で、西郷とともに死ぬ。天皇を震怒させた逆賊。

[1] 今日のニュース:この長さ、重さよ…「人斬り半次郎」の愛刀は規格外の大きさだった 鹿児島市・黎明館で展示中 2024/02/17 15:00 (南日本新聞google

愚記事[西郷南洲墓地]より

その桐野利秋が札幌に来たことがあると知る。明治4年とのこと。詳しいことはわからない。ネットでググると、どうやら、屯田兵制度の創設のための調査が目的であったらしい。なお、桐野利秋はクーデター政府(それを明治新政府と呼ぶのも勝手)の軍事部門の構成員について、士族軍隊論を主張したとされる(ソース)。

桐野利秋は、西郷の命を受け明治4年に真駒内~藻岩~琴似を視察、鎮台設置には琴似が適地と復命」(いしかり市民カレッジ 第1回「開拓使の主要人物を輩出した薩摩の旅」

皮肉なことに、桐野利秋ら天皇に弓引く逆賊・叛乱軍を討伐した軍隊には屯田兵も含まれる(愚記事:屯田兵、北へ南へ。あるいは、賊軍・官軍。)。

桐野利秋が札幌に来た明治4年は、すでに島義勇は開拓判官の職を離れて札幌を去っていた。桐野利秋と島義勇が会ったことがあるのか、知り合いだったのかわからない。ただ、ふたりともクーデター政府(それを明治新政府と呼ぶのも勝手)に叛逆し、返り討ちに逢い、殺されるのだ。(関連愚記事:また、君か! 岩村高俊、あるいは、挑発して戦争を惹起させる人)。

 
聖徳記念絵画館展示絵画 
<<北海道巡行屯田兵御覧>> 高村真夫 画、北海道庁献納、通し番号42

桐野利秋は札幌視察で藻岩も廻ったとある。この絵は藻岩山が描かれた山鼻屯田兵村での明治天皇行幸図。明治14年。西南戦争が終わった後だ。

■ 今週の生焼け、あるいは、和製英語

ラパウザ、レアチーズケーキ [メニュー]。 今日も、<荊の簪を挿した御方>様におごってもらった。

▶ レアチーズケーキは英語で「no-bake cheese cake(ノーベイク・チーズケーキ)」といいます


博多散歩:博多ポートタワー ⇒ 博多駅

2024年02月13日 20時29分28秒 | 散歩

福岡県に行った。私的旅行ではあるが、ある要件のため行ったので、観光や遊びの準備は特にしていかった。しかし、時間が2-3時間空いた。博多ポートタワーに行くことにした。博多ポートタワーへは、博多駅からバスで行った。博多ポートタワーから港や街の展望のあと、帰りは博多駅に歩いた。

1.博多マリンタワー、2.対馬小路、3.古門戸町、4.西中島橋、5.中州、6.冷泉公園、7.祇園、8.博多駅

■ 1.博多マリンタワー

福岡市のサイト 入場無料

■ ⇒ 2.対馬小路

■ 3.古門戸町

■ 4.西中島橋、

福岡市赤煉瓦文化館(旧日本生命九州支店)(google


振り返って、出発点の博多マリンタワーを見る。

■ 5.中州、

■ 6.冷泉公園

7.⇒ 祇園


地下鉄祇園駅

如水庵公式 web site

8.博多駅

■ まとめ 通過街

築港本町、対馬小路、古門戸町、須崎町、中州中島町、上川端町、冷泉町、祇園町、博多駅前


新しい街でもぶどう記録;第482週

2024年02月10日 23時59分00秒 | 草花野菜


▲ 今週のみけちゃん

■ 今週のよその猫


「西の街」で

▼ 新しい街でもぶどう記録;第482週

■ 今週の花

地面に場違いな鮮やかな花が落ちていた。切り花。おそらく、誰かが落としたのだろう。

■ 今週の隔操作

お菓子屋さんのディスプレイ。外にいるお偉いさんの指示で、内側から店員さんが展示品の再配置を行っている。

■ 今週の断面


いちご大福


クリームパン

■ 今週の「乳」


乳と峰って、すごいよね。 ロケットおっぱい ?  Google[乳峰禅寺]

 リンク先 google[乳峰]

■ 今週のキク科の野菜の天ぷら


ごぼう天うどん: 資さんうどん(公式 web site

■ 今週の購書


「体験者が語る 戦後も続いたタコ部屋労働 : 真駒内米軍基地建設工事」、札幌郷土を掘る会、1987年
ヤクオフで500円

愚記事に「いか@タコを思う。」がある。17年前だ。

タコとは、タコ部屋のタコである。タコ部屋とは、特に北海道で行われていた強制労働である。
愚ブログで言及されるキャンプ・クロフォード(札幌市郊外)の建設でもタコ部屋/タコ労働があったとされる。これは1980年代から知られていた。そのキャンプ・クロフォード建設でのタコ労働に関する冊子。「体験者が語る 戦後も続いたタコ部屋労働 : 真駒内米軍基地建設工事」、札幌郷土を掘る会、1987年 (日本の古本屋 品切れ)。


 キャンプ・クロフォード全景


引用元

朝鮮戦争の頃のキャンプ・クロフォード。この建物は現存する ⇒ google 画像

■ 今週の「」付きの空港:「板付」空港、あるいは、レコンキスタ史跡探訪


(旧名)「板付」空港=現、福岡空港

米軍板付空軍基地  敗戦によって旧日本陸軍の席田(むしろだ)飛行場が米軍管轄の板付飛行場(現・福岡空港)となり、周辺の射撃場や訓練場、住宅地区などと合わせて基地を構成した。沖縄が本土復帰した1972年に返還された。読売新聞 web site

 Google map [板付]

「板付」空港は、「厚木」空港と同様「」付きの空港だ。それというのも、「厚木」空港は厚木になく、「板付」空港は板付にはない。上の地図で赤線に囲われた地区の地名が板付。空港の敷地とは別地区。

「板付」空港=現、福岡空港へは10年前に一度行った。ただし、その頃は、「板付」空港を知らなかった。のち、朝鮮戦争に関する資料をみていると Itazuke(板付)がよく出てくる。空軍基地であるこことは文脈からわかったが、どこにあるのかわからなかった。ググるとすぐわかった。現、福岡空港だ。朝鮮戦争の時の前線空軍基地。一方、10代の頃から読んだ文章に板付が出ていた。特に気にすることもなく、読み飛ばしていたのだ。そのことは以前に記事に書いた(板付@1952; 福田恒存『平和論にたいする疑問』への註、あるいは、福田恒存の「演技」について)。2020年。つまり、「板付」空港=現、福岡空港を認識した頃だ。今回はおいらが「板付」空港=現、福岡空港を認識した後の初めての訪問だ。

■ 今週知ったこと;敗戦後もっとも引き揚げ者が上陸したのは博多港


博多港 2024/2/10

博多港は、昭和20年(1945年)の終戦直後、引揚援護港としての指定を受け、約1年5ヶ月にわたり中国東北部や朝鮮半島などから、一般邦人・旧軍人など139万人の人々が博多港に引き揚げてきました。福岡市 web site

■ 今週の初めて見た:「勝共連合の人たち」

おいらの勝共連合に対する印象を書いたことがある: 「勝共系の人たちというのは、かつて共産主義運動(山村工作隊とか)に参加し、党に裏切られ(と本人たちの認識)、運動に挫折した人たちなのだ。元アカ。その挫折でできた心の隙間を埋めるための思想、それが勝共思想と気づいた。」 (愚記事

この日、生まれて初めて、おいらは、「勝共連合の人たち」を見た。博多駅前だ。

 


ネギごまラーメン、暖暮

2024年02月08日 06時24分48秒 | ラーメンたべた

九州ラーメン、『暖暮』、相模大野店に行った。駅ビルの上の方(8F)にあった。

お店のお品書きには「チャーシューとたっぷりのごまが入り、ねぎの量はラーメンの倍。ラードを使わず白ごまの搾り油で仕上げています。コレステロールを気にされているお客様にもおすすめします。」とある。

なるほど、とんこつ的くどさはないように感じた。とにかく、ごま、ゴマ、胡麻って風味。

九州ラーメンなので、麺が細い。今さら、なぜ九州ラーメンは麺が細いのか?調べた ⇒ Google [九州ラーメン なぜ麺が細い]。

長浜市場で働く人々は、時間の余裕がないほど多忙を極めていました。 忙しい市場関係者がすぐに食べられるようにという理由から、茹でる時間が短い細麺が採用されたのです。

九州ラーメンを食べるときに期待するのは、替え玉とお好みで選べる麺の硬さ。九州ラーメンでは、硬い麺を食べられる。この店には「バリ硬」はなかったが「超カタ」が選べた。それでも、バリ感はなかった。

それでも油が濃く、麺なきあとはくどいので、この回同様、酢を入れてスープをいただく。

ごちそうまでした。

950円+替え玉100円


都県境散歩:こどもの国駅⇒ 玉川学園大学・小田急線⇒ 玉川学園駅

2024年02月07日 20時00分18秒 | 東京・横浜

玉川学園を中心に都県境、小田急小田原線を横断する散歩をした。玉川学園は東京都町田市と神奈川県横浜市、川崎市の3市に跨る広大な敷地を持つ。広大な敷地を持つ大学として北大や筑波大を思い浮かべるかもしれない。でも、北大や筑波大は平坦な地形の上にあるが、玉川学園は凹凸地形にある。そして、樹木に覆われ、その敷地へは徒歩だけが可能な「けもの道」でもアクセスできる。もちろん正門や自動車で入れる門もある。

さらに面白いのは玉川学園は都県境、市境を跨いでいるばかりでなく、小田急小田原線を隧道(トンネル)にて跨いでいる。凹凸地形のせいだ。

今回の散歩は横浜市からアクセスできる徒歩だけが可能な「けもの道」(google mapに載ってない道)を通り、玉川学園に入り、前回の散歩で跨ぐことのできなかったトンネルを跨ぎ、さらに徒歩だけが可能な「けもの道」で玉川学園の敷地外で出る。そして、徒歩だけが可能な踏切(小田急小田原線)を渡り、再び玉川学園に入り、自動車が出入りできる門から出て、玉川学園駅まであるいた。


地図A

1.協和病院、2.横浜市青葉区奈良町2572付近(google map)山道入口、3.尾根(眺望良好)、4.玉川学園敷地入口、5.横浜市・川崎市・町田市境界3重点、6.トンネルの上通過、7.玉川学園小学校横の細道入口、8.細道出口、9.金井へ

現在の航空写真  、 1960年代の航空写真 

■ こどもの国 ⇒ 協和病院

■ 1.協和病院 ⇒ 2.横浜市青葉区奈良町2572付近


2000年6月に開局した青葉緑山薬局は、その名の通り、春は鶯が鳴き、初夏には青葉が繁り、緑に囲まれたのどかな環境にあります。青葉緑山薬局


尾根から南西側の奈良北団地方面


玉川台団地とその向こうの緑山スタジオ

▼ 玉川学園入口


道に白猫が歩いている。その白猫の顔はこちら⇒「今週のよその猫

▼ 5. 町田市、横浜市、川崎市3重点付近

この地点はこの後、戻ってくる。

このあたりがトンネルの上。下を小田急小田原線が走っている。

■ 7.玉川学園小学校横の細道入口

■ 8.細道出口


地図B

■ 金井

■ 10. 歩行専用踏切

■ ⇒ 玉川大学農場教室(google map

▼ 5.横浜市・川崎市・町田市境界3重点付近


戻ってきました。


出口に向かう。振りかってみた風景:Consilience Hall 2020(手前)とScience Hallが見える。


公道。左手は玉川学園


玉川学園正門

■ 玉川学園駅

■ まとめ 通過街

神奈川県
横浜市 青葉区 奈良町
川崎市 岡上
東京都
町田市 玉川学園 金井町


相模原散歩:小田急相模原 ⇒ 米軍相模原住宅 ⇒旧陸軍逓信学校門・相模女子大 ⇒相模大野駅

2024年02月04日 20時56分03秒 | 日本事情

1.小田急相模原駅、2.在日アメリカ陸軍 相模原住宅地区南口門、3.同西側、4.相模原病院、5.米軍住宅北側、6.文京2丁目、7.相模大野駅

相模原市の小田急線の小田急相模原駅近くに広がる米軍住宅地域周辺を散歩した。このあたりは戦前から旧陸軍の施設が集積されてきた。だからこそ、敗戦後、それら施設に占領米軍が進駐した 。そのうち戦後も占拠された区域もある。米軍の医療施設と住宅地域。後者は現在も米軍に占拠されている。前者は1981年に返還された。

ソース [#1]
陸軍病院、陸軍通信学校、陸軍電信第一連隊、臨時東京第三陸軍病院。青い斜線地域は敗戦後、1950年に接収地域、陸軍電信第一連隊の敷地と合わせて米軍住宅区域となる。

#1元図;相模原市教育研究所編『地域歴史素材集』1990 年

敗戦後米軍に接収された区域
陸軍病院(原町田陸軍病院(のち相模原陸軍病院)) ⇒米陸軍第128衛戍病院 ⇒在日米陸軍医療センター(FAC3098)⇒1981年日本に返還 ⇒外務省研修所、神奈川県立相模大野高等学校、グリーンホール相模大野、市営立体駐車場、市立相模大野中央公園、伊勢丹相模原店 [wiki]

 
ソース                1960年代の米軍病院  

陸軍電信第一連隊 ⇒ 米軍住宅地区 ⇒ 現在に至る

占領明け以降日本領区域
陸軍通信学校 ⇒ 戦後、相模女子大など
臨時東京第三陸軍病院 ⇒戦後、国立病院

■ 1.小田急相模原駅

■ 在日アメリカ陸軍 相模原住宅地区南口門

■ ⇒ 米軍住宅西側

ただのフェンスに長尺の金属が嵌め込まれ、中が見えないようになっている。


ここらあたりは中が見えるただのフェンスとなっていた。人が住んでいる気配がない。

■ ⇒ 4.相模原病院

元:臨時東京第三陸軍病院  相模原病院 沿革


真中の航空写真は1960年代、右は現在の航空写真

この陸軍病院には常時4千〜5千名もの患者数(傷病兵)が収容され、時には6千名を超えることもあったそうです。職員は2千2百〜2千3百名いましたが看護婦は5〜6名しかいなかった第11回 「相模台地区の都市化の移り変わり」

 配置図ソース

■ ⇒ 5.米軍住宅北側


すし太郎 google map

水道道緑道を横断


右手側が米軍住宅。この先は行き止まりで、引き返す。


引き返して撮影。左手側(南)が米軍住宅。右手家は日本人居住地域の家。


米軍住宅と日本人住宅がフェンスを挟んで隣接している地域もある。左手が日本。


ここが米軍住宅敷地の北東側角。ここで、米軍住宅を離れる。

▼ 1965年米陸軍家族住宅地区に米空軍の戦闘爆撃墜落

相模原市米軍住宅地区墜落事故昭和 40 年5月5日午後9時 40 分ごろ、横田基地所属F-105 サンダーチーフ戦闘爆撃機が、横田飛行場に着陸するため飛行中、機体に異常を発見し、人口過密地を避け、機首を相模湾に向けたのち、パイロットはパラシュートで脱出したが、機体は反転し、相模原市上鶴間の米軍相模原住宅地区に墜落した。
この事故により、日本側は軽傷1人、家屋一部損壊3棟、また、米側には死亡3人、負傷7人、家屋の全半壊があった。 ソース

■ ⇒ 6.文京2丁目、旧陸軍通信学校敷地

■ ⇒ 旧陸軍逓信学校門・相模女子大

▼ 相模女子大門=旧陸軍通信学校表門

陸軍通信学校(wikipedia)=東部88部隊(google

陸軍電信学校は、通信に従事する幹部候補生、下士官候補生を教育する学校で、1925(大正14)年に設立されましたが、陸軍士官学校の練兵場を利用するため、1939(昭和14)年5月20日に東京杉並から相模原に移転してきました。
終戦後その跡地には、1945(昭和20)年4月14日に戦災のため校舎を焼失した、帝国女子専門学校(のち相模女子大学:【上の写真】陸軍通信学校当時のものを使用する相模女子大学正門)が東京小石川から1946(昭和21)年4月に移転しました(当初は1年間の貸与)ほか、相模原町立大野第三国民学校仮教場(のち市立谷口台小学校)、県立相模台工業高校(のち県立相模原総合産業高校)などに転用されています。現在、相模女子大学構内には陸軍通信学校表門(同大学正門)のほか、将校集会所(同大学茜館)及び庭園、高さ18メートルの高架水槽(鉄筋コンクリート造の打ち放しの配水搭で、今でも現役で使用されている)、陸軍のシンボルマークである五芒星の形が入ったマンホールなど、約10の施設が文化遺産(軍事施設)として残っており、市立谷口台小学校には、倉庫があり、軽油庫らしいが鳩の餌を入れていたとも言い伝えられています(陸軍通信学校には鳩部が設置されていました)。【Web企画展】 第18回企画展「『軍都計画』と相模原」第3弾~相模原陸軍病院(米軍医療センター)の変遷~

■ 鵜野森大野線


北へ伸びる通り。この通りの右手が陸軍病院、米軍病院の区域。

相武台陸軍病院 wiki

1940(昭和15)年3月には原町田陸軍病院(のち相模原陸軍病院)と、相模原台地一帯には、東京から続々と軍事施設や軍需工場の移転が進み、8つの陸軍施設が建設され、その後、終戦により、陸軍施設の多くが米軍に接収されました。
そのうち、相模原陸軍病院は1945(昭和20)年9月20日、調達要求書第4386号により接収され、同月25日に米陸軍第128衛戍病院(のち米陸軍第141衛戍病院)が開設されます。1958(昭和33年)1月15日には、在日米陸軍の病院を統括し、在日米陸軍医療センター(FAC3098)(以下「医療センター」という。)となりました。
医療センターは米陸軍の軍人、軍属とその家族等のための総合病院として診療業務のほか、予防医学の研究等が行われ、ベトナム戦争当時は約700床のベットが満床で、横田基地から昼夜を問わずヘリコプターで傷病兵が運ばれてきたといいます。そして、ベトナム戦争終結により、1973(昭和48)年1月以降は機能が縮小されていきました。【Web企画展】 第18回企画展「『軍都計画』と相模原」第3弾~相模原陸軍病院(米軍医療センター)の変遷~

■ ⇒ 相模大野駅

■ まとめ 通過街

相模原市南区 南代 桜台 上鶴間 御園 文京 大野

 


新しい街でもぶどう記録;第481週

2024年02月03日 18時00分00秒 | 草花野菜


▲ 今週のみけちゃん

■ 今週のよその猫


▼ 新しい街でもぶどう記録;第481週

■ 今週の武相境斜面

■ 今週の草木花実

■ 今週の看板

■ 今週の会場


玉川学園の入学試験会場

■ 今週の玉


替え玉:超かた。

■ 今週の歩行者専用


歩行者専用踏切。小田急小田原線、東京都町田市金井町(google map

■ 今週の訳あり


山形リンゴ 10kg :3,350円

■ 今週のおフランス


ミルキーフランス.  ミルキーフランスとは何ですか?(google)。フランスパンに生クリームという組み合わせらしいのだが、本品は「フランスパン」ではなかった。

■ 今週の小田急に乗らむとする「親米派」

■ フェンスの向こうのアメリカ、あるいは、今週の死語:dependent house


在日アメリカ陸軍 相模原住宅地区(google

現在、米軍の家族用の住宅は famaily housing (google)と呼称する。現代的語句である。70年前は違った。dependent house(ディペンデント・ハウス)。dependent とは扶養者のこと。意味内容は家族のことなのであるが、語源は、主人の軍人にdependent(依存)する女、子供たちということだ。今では、ポリティカル・コレクトネスに鑑み、廃語になったらしい。

なお、おいらは、敗戦直後の進駐軍のことを調べていて、初めてdependent houseという語句に出会った時、占領地域=独立していない=indepedentでない=dependent=占領米軍に依存している地域、そういう地域の米軍住宅をdependent houseと云うと思った。もちろん、違った。dependent とは扶養者のことだ。

もっとも現行日本は、少なくとも軍事的には米国のdependentである。でも、普通dependentは養ってもらうのだが、日本は「見ヶ〆料」(みかじめりょう)=「おもいやり予算」、正式には「在日米軍駐留経費負担」費を払っている。

米軍の家族用の住宅は、白い平屋の、いわゆる米軍ハウス(google)といったあの建物ではなかった。2階建ての家屋だ。でも、この種の米軍住宅を見たことがある。敗戦直後の札幌だ。下記画像。本当の「dependent house」だ。基本的造りが似ていると素人には見える。

▼ dependent house


ソース 1950年代の札幌 キャンプ・クロフォード、 ハウジング・エリア

ディペンデントハウスとは、G.H.Q.(連合軍最高総司令部)による日本占領下に於ける米軍家族用住宅、いわゆる進駐軍住宅のことである。DEPENDENT HOUSEシリーズ

■ 今週のフェンスのこちらの"アメリカ"?

在日アメリカ陸軍 相模原住宅地区の近隣には鉄条網をも備えたフェンスを挟んで、日本の住宅が広がる。上の家は、白、平屋と、おいらにとって、記号的に米軍ハウスである。フェンスを挟んで日本側にあるのだ。


最左がフェンスを挟んで米軍地域

■ 今週のアジア、アメリカ

 
東アジア反日武装戦線               北アメリカ反日武装戦線

桐島聡は東アジア反日武装戦線の「さそり」なので、三菱重工爆破(「狼」が犯行)に関与していたかわからない。三菱重工のあった丸の内は先の大戦の東京ジェノサイドで米軍から壊滅的に攻撃されなかった。これは占領後この地域を使用したい米軍の意図と推定される。「北アメリカ反日武装戦線」のカーチス・ルメイ(wiki)がやらなかったことをやったのだ。時代を超えた反日武装連合とも云える。ところで、東アジア反日武装戦線は「米帝」には一切手出しをしていない。やはり、反日武装連合なのだ。

なお、東アジア反日武装戦線はひろひとさんの殺害を企てた。そして、カーチス・ルメイはひろひとさんから勲章をもらった。

■ 今週返した本

親が外交官だというコリアン女性の村上春樹本。どうやら韓国語でコリアン向けに書かれた村上春樹入門書らしい。基本的に公知情報に基づく村上春樹の紹介。ただ、著者イム・キョンソンの身の上話が面白かった。日本では「朝鮮人!」といわれることはなかったが、母国に帰って「チョッパリ!」と罵倒される、とか。あと、15歳で『ノルウェイの森』を読んで、「赤裸々なセックスの場面が出てくると恥ずかしくて下っ腹がこそばゆくなったりもした。」とあった。下っ腹がこそばゆくなるとは、googleでこう検索される内容ではないのだろう、と思うのだが...。こういうことだよね。村上春樹のせいでこういうことに...。

以前からうすうす気づいていたことで、今回、確認できた。本書では架空インタビューがある。答える村上春樹の発言は著者・の、村上春樹研究に基づく、作文だ。

架空インタビュー

著者:韓国でどうしてそんなに人気があるのかご存知でしょうか。

春樹: 1990年代前半から韓国の読者が僕の本をよく読んでくれたと記憶しています。 今は中国でよく売れているようですけれど。 偶然の一致なのかは分かりませんが、 理念の対決が崩れて若者たちが 革命への情熱に疲弊し、 『個人』 と『日常』の価値が大安としてやってきた時、 僕の本が読まれるようです。 そのせいか 当時韓国の記者たちは 『個人主義』や『都市的感性』、『西欧志向』、『脱理念』 といった コードについて 特によく聞いていましたね。 僕が 語ろうとしていたのは それがすべてではなかったけれど、やはり 時期的なものもあってそういう特徴が大きく 浮かび上がっていたんですね。

ツイッター/Xで得られるイム・キョンソン、および『村上春樹のせいで』情報: X[イムキョンソン]

■ 今週の購書


上から、700円、450円、250円。ブックオフ。