―科学技術や高等教育の業界の外ではあまり認識されていなかったようだが、日本では一九九五年に「科学技術基本法」という法律が成立し、一九九六年以降、五年ごとに「科学技術基本計画」という財政支出の目標金額を掲げた振興策を定め、科学技術関連予算の増額を図ってきた。科学技術基本法は議員立法であった(中略)。この政策の推進者は通産官僚上がりの自民党代議士(当時)尾身幸次であり、震源地をただせば一九八〇年代の日米貿易摩擦や冷戦崩壊後を見据えたアメリカの科学技術政策の変更であった。― 佐藤文隆『職業としての科学』
-A day in my life across the death valley. 足軽雑兵がみた総大将、2006年-
―バブルのあとさき―
『科学と幸福』初版1995年 (Amazon)
(ポスドク1万人計画 1996年~2000年、wiki)
『職業としての科学』2011年 (Amazon)
三十前で『科学と幸福』を読んでいた頃、まさか、四十過ぎて、death valleyでバイトしているとは思わなかった。上記尾身センセを目撃した時はすでに「業界」からは足を洗って、death valley稼業に励んでいた。「役に立つ」ものを作って「お金」に変えなければならない。その「役に立つ」ものの展示会という場で潜在顧客に宣伝する。その展示会に律儀にも科学技術利権グループのドンである尾身幸次センセが御出馬され、"謁兵"されたのだ。足軽でお調子者のおいらは自分の展示ブースをほっぽらかして、デジカメを撮りにいったのだ(その日の記録;成均館大学校に遭う。 )。
ところで、おいらは、四十過ぎて、death valleyでバイトしているとは思わなかったと書いた。尾身センセも、財務大臣までやったのに、選挙に落ちて引退することになるとは思ってもみなかったであろう。やはり、一寸先は闇なのだ。でも、安穏とした食税役人どもの高笑いが聞こえるのはひがみによる幻聴か?
以下、佐藤文隆、『職業としての科学』を読んでの思いつきメモ;
■『職業としての科学』って、ドイツ語に訳すとWissenschaft als Beruf。これはマックス・ウェーバーの『職業としての学問』と同じ、Wissenschaft als Berufとなる。つまりは、学問と科学の間を語りたいのであろうか?
(― 言いわけめくが、訳語について一言だけ付言しておきたい。本書の標題にも出てくる Wissenshaft を拙訳ではその場に応じて「学」「学問」「科学」と訳し分けた。こうした基本的用語には同じ一つの訳語を当てるのが望ましいのであるが、ドイツ語の Wissenshaft が豊かな含蓄をもっているのに対して、日本語のこれらの言葉はそれぞれにかなり限られた意味とニュアンスをもっており、そのいずれかですべての場合を蔽うことがむずかしかったからである。―
フッサール、『ヨーロッパ諸学の危機と超越論的現象学』の訳者・木田元による"解説"より 拙記事)
1995年の『科学と幸福』の時からマックス・ヴェーバーの『職業としての学問』に言及している。
道徳的響きの「学問する」に愛着を持つ私はマックス・ウエーバー著の『職業としての学問』なる表題が気になった。もしかしたら「学問は職業に就く知識だ」などといっているのではないだろうにね、と思ったからである。もちろんそんなことはなく学問と人生の価値観に一定の距離を置くこと、人間が学問に呑みこまれないようにすること、などを呼びかけているのだと読んだ。科学者について当てはめれば私はこれは、「坊主か?職人か?」という問いかけと読んでいる。 佐藤文隆、『科学と幸福』
「坊主か?職人か?」という意味は、坊主とは世俗の知識でない聖なる真理の探究者の象徴であり、職人とは文字通り生活で役に立つ技術を発揮する人の象徴である。
■「坊主でもなく、職人でもなし」;
食税研究者サマの少なからずは「坊主でもなく、職人でもなし」という皆みなさまである。お貴族サマなので、坊主でもなく、職人でもないというのは、当然と言えば当然なんですが。
科学技術立国の政策理念を利用(悪用)して、何の役にもたたない技術、実現する目途がない技術、できたらそりゃすばらしいが絵空事の技術に政府予算を注いでいる。さらには、目標が何だかわからないというのまであって、驚愕ではある。
佐藤をして『職業としての科学』を書かせたのは、1996年の『科学と幸福』以来の中長期的日本科学技術ウオッチングばかりではなく、去年の事業仕分けの衝撃に違いない(愚記事;①宇野弘蔵と蓮舫、②やはり、陶酔権干犯問題だった。 )。そして、いわゆる過剰博士問題も動機のひとつだろう。
リスキーな職業選択、業界の信用度悪化という項目で言及している。
ところが現実には、研究者の増加に見合う安定的ポストは増えずに、任期付きの流動的研究員の増加や時限付きの組織の数が急増したのである。数少ない上位のポストを目指す競争の期間が長期化して、過労ともいえる状態を甘受する事態が蔓延している。(中略)
こうした事態が続けば、まさに科学研究という業界の世間からの信用度はがた落ちとなるでしょう。賢明な親は子弟のこんなリスキーな職業選択に不安をもつだろう。
■佐藤はこういう状況を考える参照枠(reference)として歴史を考える。あるいは、メタ科学。でも、科学の理念を考えるという方法は放棄している。理念ではなく歴史。事例研究か? たとえば、プランクVSマッハ、あるいは、クーンVSポパーという事例で、「坊主か?職人か?」、つまりは「何のための科学か?」を考える。
■でも、今の食税科学研究者は歴史意識なんてもっていない。佐藤は「生みだした思想なしでやっていける科学」と題した項で、広重徹を引いていう;
広重徹は「二〇世紀の自然科学は、大局において思想なしでやっていける科学になっていた」のであり、「一九世紀のあいだに科学は、それを生みだした思想的なものをはなれ、どこでも誰にでも使うことのできる、道具的なものに変貌していった」し、またそうなることによって、科学は技術と結びつき、経済・政治・社会・文化のなかでメジャーな存在になったのである。
でも、生みだした思想は不要でも、いや不要だからこそ、維持費は必要だ。だから彼らはノーベル賞受賞者を先頭に「金出せ!、金出せ!」というのだ。
愚記事参照⇒歴史意識が希薄(=動物=スノビズムとしてのサイエンス⇒とにかく金出せ!⇒すなわち、鈴木宗男)。
■佐藤は長岡半太郎がなぜ日本人が科学?の問題に悩んだことを紹介。これだ⇒捏造の阪大
■佐藤文隆センセの現状認識のずれ。
佐藤文隆センセの現状認識ってどうなんだろう? 物理帝国が輝いていた時代の臣民として君臨していた佐藤センセは、現在が物帝が終焉したこと。バイオ帝国が隆盛していること。それへの過剰期待で法外な予算がつぎ込まれていること。つまり体系的理論が求められない分野が、予算の観点でみての科学の中心に踊りでているのだ。同様なことが材料科学についてもいえるかもしれない。両者の象徴としてiPS細胞と鉄系超電導を看板にJSTが予算確保のプロパガンダを行っていることは周知。くりかえすと、今の科学研究者は佐藤文隆センセの時代や分野の知的、理論的能力とは、良くも悪くも違うのだ。今のそういう分野の研究者の"夢"は一発当てること。頭つかうより金を使って、人海戦術でいきあたりばったり、絨毯爆撃的実験である。そして、実際に社会に役立つか?などいうことの目途なぞたってはいないのだ。そして、たぶん、そんなことに関心なぞないに違いない。もちろん、口先でおためごましは言いますが。実現しなくたって、何の責任もとらなくていいわけです。
つまり、坊主でもなく、職人でもないのだ。
だから、予算が必要なのです。
こういう現状を踏まえてのの本とは思えなかった。
↑まちがい、少し書いてあった。
著者は長く税金で楽しく研究をやってきたが、同業者には半分本気、半分冗談で、「これはお国のためであって、「面白いから」とか「楽しいから」などとは口が裂けてもいってはいけない」といっていた。
(略)
「仲間内の楽しみなら、税金で面倒をみられない」といわれることに気づき、「一〇〇年先には大いに役立つか可能性が・・・」などと心にもないことをいわざるをえないのである。
去年からの赤ピーマンの枯れ残り
梅が次々咲いてきていた
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画像上、筑波山腹の地表の"黒御影"(くろみかげ)石。(筑波山腹みかん狩り、2010 )
画像下、小惑星イトカワの表面・探査機はやぶさからの画像(画像左下に1mのスケールバーあり)。
■日本で唯一?、惑星探査機によるイトカワの試料採取は
上記画像は筑波山のみかん園にみかん狩りに行ったとき筑波山を構成する(らしい)黒御影石を撮影したもの。ちょうど、探査機はやぶさが撮影した惑星イトカワの表面にある岩石とスケールが似ていた。1メートル。そんな探査機が採取(サンプリング)した莫大なる個数の試料の大きさは塵のサイズである。
隕石の定義のひとつは1mm以上であること。それより小さいものは宇宙塵(うちゅうじん)。塵(ちり)である。学術的用語法である。報道では「イトカワから微粒子を持ち帰った」という言い回し。なぜ、学術に従い、「イトカワから塵を持ち帰った」といわないのだろうか?
たとえば、筑波山に行く。筑波山の素性を知るため試料を得るためだ。"いつかノーベル賞でも貰うつもりで頑張ってるんじゃないのか"と思われているあなたは、当然、スコッチテープを持参する。そして、そっと筑波山の表面にスコッチテープを張り、そっとはがす。そのテープを持って、はるばる歩いてつくばセンターまで帰還するのだ。
スコッチテープにはたくさんの塵がはりついているだろう。その塵で筑波山の素性を調べるのだ。そして、日本列島の起源についても語って欲しい。あるいは、地球の起源も語ってほしい。なぜなら、イトカワが持ち帰った塵は、太陽系の起源を研究する目的ももっているらしいからだ。
■
はやぶさが持ち帰ったカプセルの内部の物質を掻きとったヘラの画像。採取してきたイトカワの
おいらの邪推では、試料がごっそり(数グラム)とれるから、内壁にへばりついたアルミナ粒子なぞ関係ないだろうと踏んだのではないだろうか?まさか、貴重な試料がアルミナ粒子と"競合"するとは思わなかったのではないだろうか?
それにしても、今回のプロジェクトでの残念な点はサンプリングの時に弾丸が発射されなかったことである。でも、弾丸が発射されたとしても、塵を舞いあげることしかできなかったのではないだろうか?惑星塵リターン計画。はやぶさはイトカワの地表に座屈したらしいが、パフパフの惑星塵の上に鎮座したのではないだろうか?
さて、もし、はやぶさのサンプリング用の口が上記イトカワの表面画像にある1メートルの岩石の上にきて、さらにサンプリング用に発射された弾丸が岩石に当たったとしたら、ちゃんと砕いて岩片を形成でき、かつサンプリングできたのだろうか?
■研究目的の達成のためには正しいサンプリングを!と訴えている一群を見たことがある。彼らは、~♪~サンプリング~ サンプリング~ ヤッホー! ヤッホー!~♪~と歌っていた。
「青春サイクリング」小坂一也さん
●
筑波山の標高は877メートルである。イトカワの大きさは、535 × 294 × 209 メートルなのだ(wiki)。すごいぞ!、筑波山より小さな岩体なのだ。
そんなちんけな岩体のさらには塵から太陽系の起源を研究するというその戦略に驚くとともに、太陽系内といえども宇宙空間に浮かぶ筑波山の黒御影岩体より小さな岩体に、はやぶさがたどり着いたことにも驚く。
* ナノテク=ナノテクノロジーのナノは10のマイナス9乗のこと。この10のマイナス9乗を示す数概念の漢字が「塵」。塵=ナノ。ナノテクノロジー=塵技術⇒ナノテク=塵わざ⇒結局、ゴミ。目標が何だかわからない!という塵(ごみ)わざ。
踊らされる雑民なおいら; チェブラーシカ・キャンペーン (ローソン篇)に続く、 怒涛の、踊らされる雑民なおいら; チェブラーシカ・キャンペーン II(ドトール篇)。
ドトール・プレミアムマイルドブレンド
▼今夜もぐちだ。おいらはdeath valleyでがんばっている。「役に立つ」ものを作って「お金」に変えなければならない、バイトなのに。さもなければ、解散で失職である。
すなわち、・役に立つこと ・お金になること ・職にありつけることがすべてである。
▼ 『役に立つこと』、『お金になること』、『職にありつけること』ことがすべてではない。▼
いいなぁ、そんなこと考えられる人生。うらやましい。
でも、まるでニートじゃないか。お貴族さまもそうだけど。
いや、違うのだ。
『役に立つこと』、『お金になること』、『職にありつけること』ことがすべてではないことを"示し"(?)
そして、さらには、
"より崇高な価値やかけがいのないもの"に向けてがんばっている集団らしい。税金で。
大学。
やっぱり、そうだったのだ。バルク金属ガラスは崇高だったのだ。特に役にも立たず、金にもならず、巷の労働者のための職創出に貢献したわけでもない、バルク金属ガラス。
誰ですか!? 大学人の金とポストづくりには役に立ったと言ってるのは!
やっぱ、"お武家さま"いいよ。民百姓からふんだくったカネで研究道楽ができる。
■でも、こんな本をみると少しは、あぁ大学ってこういう人がでるんだなぁと思える。
この本は、今売れてる本のコーナーで、我らが猫猫センセの『母子寮前』の横に平積みされていた。買った。
■いい本です。人文学者を目指す若者向けの"自己啓発本"でしょうか?テンション高いです。
古典を読め!という人文学者修業には不可欠であたりまえのことを、正論なのに、主張することは実は大変なことなのです。傍からみていて。しばしば、大学教授群から出される読書案内/教養教科書がボコボコにされます。つまり、古典を読め!という人文学者の王道を導くのは案外 芸 藝がいるのです。
それをやったのが、この、佐々木中(あたる)、『切りとれ、あの祈る手を -<本>と<革命>をめぐる五つの夜話』。
本の後半では、「文学の擁護」が熱く、怒りをもって語られています。ベタにならず「文学の擁護」をしなければいけなかった状況をお察しします。でも、"ベタ"とか言ってると、中(あたる)センセに叱られます。
■西洋文明(愚ブログでは毛唐文明)史における革命、ルターの宗教改革や12世紀革命(中世解釈者革命)には思想行為が不可欠であった。具体的には、ルターの宗教改革は聖書の読解・註釈が、12世紀革命(中世解釈者革命)は古代ローマ法の読解・註釈が引き金を引いたことが書かれている。
『切りとれ、あの祈る手を』、本文から抜き書き;
・ルターはおかしいくらいに―「おかしくなるくらい」に―徹底的に聖書を読み込みます。
・本を読んでいるこの俺が狂っているのか、それともこの世界が狂っているのか。
・彼は読んだ。そして不意に気づいた。この世界の根拠であり準拠であるテクストに則していないのではないか、と。
・彼は言葉の人です。彼は、読み、彼は書いた。彼は翻訳し、彼は説教した。彼は歌い、彼は論争した。
12世紀革命(中世解釈者革命)は愚ブログで以前書いた・12世紀ルネッサンス、アリストテレス翻訳事情 、 ・ R.E. ルーベンスタイン、 『中世の覚醒』、小沢千重子 訳 の時代の話。イスラム経由のアラビア語アリストテレス文献翻訳の時代に、毛唐さんたちは古代ローマ法を発見。読解・註釈した。つまり、アリストテレスを"発見"し、古代ローマ法を"発見"し、来る膨張ヨーロッパの礎を築いた。
■勢いで読むと、人文大好き、読解・註釈大好き、読解・註釈で新しい思想、そして社会変革へ!と楽しい。勢いがいいが、ヨタも多い。それも魅力ということにしましょう。でも、冷静に考えると、なぜ日本人に必要か?という問題が生じる。西洋文明を普遍的とみなし同化する路線はどうよ!という愚ブログのいつものつっこみ。でも、佐々木中は答えています。彼は西洋文明を学ぶことは猿真似であることは否定していないようです。
神秘主義だ、神学だ、否定神学だ、などと言って悪口を言った気でいる人間の神経がね。そんなものは、単にヨーロッパ人の内輪揉めの罵倒語でしょう。連中が前の世代を乗り越えるための内ゲバの悪口じゃないですか。そんなことまでヨーロッパ人の猿真似をしなくてはならないのか。逆です。彼女ら彼らの偉大なる足跡を見据えるためにこそ、こうした卑屈さを踏み越えなくてはならないのです。頭を冷やしましょう。連中の自作自演に、もう付き合っていられないのですよ。そうした冷徹さをもってこそ、こうした死を賭けて読みまた書くということが、抵抗と革命を呼び寄せる遥かな前兆なのだとうことが明らかになる。これは話のはじめから繰り返している通りです。
連中呼ばわりしていますが、冷徹さをもって"死を賭けて読みまた書くということ"を猿真似しましょうといっています。なぜなんら、本文では「そんなことまでヨーロッパ人の猿真似」とあります。までです。猿真似すべきものもあるということです。
::思いつきメモ;
■著者の言いたいことのひとつ。自分と世界の区別がつかないのは幼稚なことだ。自分と世界の区別がつかない人間は、
こうして、「読めぬものを読む」という苦難とは逆の、「どうせ読めてしまうものしか読まない、読まなくても先刻承知だと高を括って読まない」という安逸が、死を、とめどない死を生みだすわけです。
となじられます。
■現在の日本の思想状況にも苦言です。そして、著者の生まれた頃の革命家の口吻で攻め立てます。
アガンベンごときの尻馬に乗って、終わりだ終末だ動物だなんて言っている人は世界にうようよいますが、少しは自分がどういう低劣で無惨で粗悪な思考の形態に媚びへつらっているのか、胸に手でもあてて考えてみたほうがいい。これは忠告です。今ならまだ間に合います―と言いたいところなんですが、どうもね。まあ彼らがナチスやオウム真理教のごとき惨禍を起こさないことだけを願いますよ。
事情はこちらの見巧者のブログ記事を;東浩紀界隈の動揺。
■でもさ、ルターって元祖"反ユダヤ思想家"とされているんだけど。Google; ルター 反ユダヤ
■読んで・読み込んで"革命"って、日本でも例は多いよね。
本居宣長:::古事記
吉田松陰:::孟子
徳川家康:::吾妻鏡
気づいたら、おいらの梅が咲いていました。
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傾く林檎
わけあり林檎、青森産、10kg/1800円
■余韻;
▼
●変なの。父・梅三が妻の見舞いに行かないことを、父・梅三の妹の所に問題解決を振る敦。これは、筋ちがいじゃないのかなぁ。すんごい違和感。自分ちの問題。父と直接対決できないのが問題。もっとも、直接対決はただのけんか別れで終わる、というのは書かれいることからわかる。そもそも話にならない。でも、こういう没交渉関係になったのが悲劇。息子を東大(有名大学)に進ませたいという両親の欲望がそもそもの悲劇のはじまりか?
↑愚記事
# 父親ががんの母親に暴言を吐くので切羽詰まって父の姉妹に相談する、ってこれのどこが変なのだ? もしそれで父親を殺していたら「その前に誰かに相談すれば」とか言うくせに。 11:16 AM Jan 19th webから
↑小谷野さんtwitter
「もしそれで父親を殺していたら」って、なんだその飛躍は!?
一柳展也のことを媒介にしないと結びつかない発想じゃないか? やはり、一柳展也のことを気にかけているのか?(おいらお得意の邪推)
▼
やはり、我利我利猫猫センセの戦略負け。
中卒・西村賢太;23歳のとき(貧乏作家@いか註)藤澤清造の作品と出会って共鳴して以来、清造の没後弟子を自称し、自費で朝日書林より刊行予定の藤澤清造全集(全5巻、別巻2)の個人編集を手掛けている。 wiki
東大博士・猫猫センセ; ●「自分、自分、自分」地獄。”当時はさまざまな悩みを抱えていた。恋愛の悩みや、自分が将来名を成せるか、学者として成功できるか、そして自分の書いた文章が評価されるかといった悩みである。” よく書けている。自分のことしか考えてないって。(愚評)
超大御所の評伝(『谷崎潤一郎伝―堂々たる人生』)で、....。超一流作家に"堂々たる"ぶらさがり。「自分が将来名を成せるか、学者として成功できるか、そして自分の書いた文章が評価されるか」ばっかり考えている。
↑愚記事
高卒の佐伯一麦とか、中卒の西村の私小説なら安心して読める、みたいなところが、坪内や福田には、あるな。だから福田はまさにそれで『赤目四十八滝』を批判したわけ。 2011年1月19日 12:45:26 webから
↑小谷野さんtwitter
●傾く林檎にはつぶやいてくれないんだろうなぁ、自分のことばっかり考えているから....。
■蛇足;
Google; 傾き路線
■猫猫センセ、残念でした;
次に、小谷野敦さんの『母子寮前』は非常にベタな私小説のスタイルで、末期がんの母親の看病という切実なテーマながら、自己批評が欠落しているのではないかと指摘があり、選に漏れた。
いまじゃ、トラックだって、自意識過剰、自己批評ぶってるのだから、いらないんだよ、そんなもん。
●挟撃された猫猫センセ;
銀の文学スプーンを咥えて生まれてきた朝吹真理子、と中卒西村賢太のダブル受賞。挟撃された猫猫センセ! 上流階層とガチ庶民階層に挟み撃ちされる中産階級の猫猫センセ。中産階級の没落、あるいは、ハンパな中産階級を嫌悪するちょっと前のネオリベ的風潮の象徴か? 帯に短し(ロウアーミドル出身)、タスキに長し(東大博士)。半端なアカデミシャンで、半端な壮絶なる人生をもつ私小説作家という二重に半端な役割を担わされてしまった猫猫センセ! かわいそうに!
やはり、我利我利猫猫センセの戦略負け。
中卒・西村賢太;23歳のとき(貧乏作家@いか註)藤澤清造の作品と出会って共鳴して以来、清造の没後弟子を自称し、自費で朝日書林より刊行予定の藤澤清造全集(全5巻、別巻2)の個人編集を手掛けている。 wiki
東大博士・猫猫センセ; ●「自分、自分、自分」地獄。”当時はさまざまな悩みを抱えていた。恋愛の悩みや、自分が将来名を成せるか、学者として成功できるか、そして自分の書いた文章が評価されるかといった悩みである。” よく書けている。自分のことしか考えてないって。(愚評)
超大御所の評伝(『谷崎潤一郎伝―堂々たる人生』)で、....。超一流作家に"堂々たる"ぶらさがり。「自分が将来名を成せるか、学者として成功できるか、そして自分の書いた文章が評価されるか」ばっかり考えている。
▲追記; やはり、氾濫、坂東太郎。
愚評で、小谷野センセの"坂東太郎"的性質をご指摘申し上げたら、はや、氾濫。
坪内祐三の父親が犯罪容疑者であったらしいことを指摘。 いいぞ、もっと、"坂東太郎"! 暴れろ!
家康公がお出ましになって、東遷されるまでは。
イカをひろげて干している、―
全国52,483人のjun-junセンゼニアのみなさん、ようこそ、キチガイブログへ。
読みましたよ、小谷野敦さんの『母子寮前』。えぇ、読みましたとも。小谷野さんが鵺の正嫡であることが知れる。
◆
―当初は、カセットデッキを持ってきて音楽を流し、私の神経を気遣っていたような父も、遂に怒り出して、「キチガイ病院へ行け」と行った。― 『母子寮前』9章
◆
―父は、私が院生の頃、目の病気で二、三ケ月D大学病院に入院したことがあった。私は一度しか見舞いに行かなかった。その時、大部屋で、看護婦などがいて、隣のベットの患者について、看護婦らが「XXさんはよく働くわねえ」などと話していたら、嫉妬した父が、「俺だって一所懸命働いてるよ!」と言ったという。母から聞いて、その幼児性に呆れたものだ。 ―『母子寮前』19章
―因みに私は、一度大学を辞めてはいるが、著書四十冊以上、学問的といえるものもその半分以上はあると思う。私が、単著もない東大教授を批判してきたのも、それでも定職がないことへの恨みからである。― 小谷野敦、『文学研究という不幸』
以下、思い付き;
●敦の母、清子の風貌が書かれていない。美人なのか、そうではないのか?さらに身体的特徴も書かれていない。細身だとか、肉感的だとか。一方、敦の父、梅三は「顔も田村高廣風のハンサムで、」と書かれている。病院での看護士が美人だ、不美人だと書いているのに。
これは、叙述者である「私」が清子を恋愛対象、性的対象とすることを禁じられているからか?
●元凶は敦、「私」である。敦が清子の愛情を独占しようとして、そもそも幼稚性の強い父がいじけ、ひねくれ、弟が怯え、やってられないよと去って行った。もっとも、敦が母の愛情をほぼ独占できたのは、息子を東大(有名大学)に進ませたいという両親の欲望によく従ったからである。この事情は本文によく書かれている。
ガンで入院したのに見舞いにいかない。さらには「死んでしまえ」と暴言を吐く。なぜか?これは理不尽だ。これは、妻清子が不義をはたらいていたほどの悪女でなければ、受けないはずの報いである。いや、梅三は清子が息子の異常な精神的依存を許していることを不義と解していたのかもしれない。
●敦は傲慢で無神経である。弟は親族と広くつきあっていた。たぶん、「トーダイのあっちゃんは偉そうで、無愛想だ」と陰口をいわれていたのだろう。時計職人の父が目のことで入院したのは、仕事のせいだろう。一家の生計を数十年支えてきたのに、入院しても息子が二、三ケ月で一度しか見舞いに来なかった。かわいそうなお父さん。ますます、ぐれていったと推定できる。こういうことを忖度しないで、父をなじる敦は無神経。
●高度経済成長の産業廃棄物としての梅三。ヌエになった。「「昭和一ケタ」で、いわゆる戦後の高度経済成長を支えた世代に属するだろうが、この世代特有の、仕事以外に能のない人間に、父はいつしかなっていった。」と書かれている。この世代特有ということもあるが、さらには出身の集団から離脱し自分(梅三)の親とは違う生活形態を過ごし、さらには子供たちも自分(梅三)たちとは違う文化・教育を受け将来は自分(梅三)たちとは違う生活形態を過ごすに違いないという「流民」に特有の悲劇だろう。それが、東京周辺の「山も海も、歴史もない」関東ローム層台地の文明的ビンボーくささ。それは書かれている。でも、父・梅三の稼ぎ、女房・子ども二人を食わして、大学出して、家を建てるというのは今では大卒の半数は将来不可能である。その父の稼ぎに無神経なのが、『母子寮前』。もちろん、それが作品の意図かもしれない。
●この母子関係は、やっぱり、異常だ。この異常さがこの作品の第一の売りなんだろうけど。おいらは「マザコン」というのは日本のアッパーミドルクラスのことで、庶民には関係ないと勝手に思い込んでいた。小谷野さんの例をみて、ぎょっとした。30過ぎて赴任先にママについて来てもらうとか信じられない。
●変なの。父・梅三が妻の見舞いに行かないことを、父・梅三の妹の所に問題解決を振る敦。これは、筋ちがいじゃないのかなぁ。すんごい違和感。自分ちの問題。父と直接対決できないのが問題。もっとも、直接対決はただのけんか別れで終わる、というのは書かれいることからわかる。そもそも話にならない。でも、こういう没交渉関係になったのが悲劇。息子を東大(有名大学)に進ませたいという両親の欲望がそもそもの悲劇のはじまりか?
●「自分、自分、自分」地獄。
当時はさまざまな悩みを抱えていた。恋愛の悩みや、自分が将来名を成せるか、学者として成功できるか、そして自分の書いた文章が評価されるかといった悩みである。
よく書けている。自分のことしか考えてないって。レンズを目の周りにはめて極微の時計部品と数十年格闘してきた父親の行く末なぞ全く頭の隅にもなかったのだ。
●本当の元凶は聖母清子。清子は夫と長男の教育に失敗した。二人は似た者同士だ。この失敗は、聖母清子の無償の愛という甘やかしを原因としている。その無償の愛という甘やかしが二人のだらしないナルシズムを育てたのだ。
よく書けている、『母子寮前』。
●「反」精神分析。父の死を願い、母と暮らすことを夢想するお話。「汎」精神分析、ですよね。
エディプスコンプレックスとは別に、阿闍世(アジャセ)コンプレックスというのがあるらしい。清子と敦の間には恨みは見当たらない。なので、阿闍世コンプレックスなぞ関係ないのだろう。ただ、不安神経症故新幹線に乗れず、のろい列車で旅する敦に付添う母、清子を思うに、息子、阿闍世は、原因の解らない皮膚病に苦しみ、恨んでいた母イダイケから手厚く看病を受ける場面を連想した。もっとも、阿闍世と母イダイケはこの後お釈迦様に出合う。清子と敦の親子は、敦が、父の死を願い、母と暮らすことを夢想するお話を発表。
▲あー、気づいた。阿闍世コンプレックスでは最初に母の勝手な欲望があった。それが因で、阿闍世がおかしくなった、あるいは親子関係がおかしくなった。『母子寮前』でそれに相当するのは、息子を東大(有名大学)に進ませたいという両親の欲望だ。
それにしても、梅三、清子夫婦は敦の東大入学式に行ったのだろうか?毎年ニュースで入学者より観覧保護者数の方が多いと報道されるアレだ。
▲関係ないけど気づいた。金属バット両親撲殺事件の一柳展也は小谷野敦の2-3歳上で、早大付属高校の試験に落ち、慶応付属高校にも失敗した。合格したのは私立の海城高校だった。これは、浦和高校に落ちた?らしく、海城高校に進学した小谷野さんと似ている。ただし、一柳展也の父親は東大出。息子を東大(有名大学)に進ませたいという両親の欲望の影響下で育った点は同じ。果たして、敦は東大に行ったのだから、両親の欲望は成就。一柳展也の両親は撲殺される。でも、数十年後、敦の父はヌエ。
この線でググッたら、金属バット両親撲殺事件の背景には近親相姦があるという口さがないネット情報。⇒2005-09-26
[雑記]一柳展也金属バット事件 。ひょえー。小谷野さんは、
私は江藤淳の身辺随筆を読んでいると息苦しくなる。概して言うと、既に敗戦後長い年月がたっているのに、江藤は自分の周囲だけを「戦前」にしておこうとしているからである。しかも海城学園の理事だったのだから、あの野蛮な学校にいた私としては怨恨すら感じる。
と書いている。ちなみに、江藤淳は幼少の頃母を失う。それが彼の原点である。母親を希求する江藤。そんな江藤が海城学園の理事だったという。その海城学園の一柳と小谷野が...野蛮な...母親との.....。江藤の呪いなんだろうか?
これ以上この線は触れない。
●坂東太郎としての敦。「私」はわかっている。
私がいなければ、父はもっとしっかりしただろうか、弟は関西へ行ってしまわなかっただろうか、と考える。
当然、そうに違いない。いなければ、とはいわないが、さっさと独立して出ていけば、梅三夫婦はうまくいったかもしれない。何より、敦自身が不安神経症を患う神経病障害者にならなくて済んだであろう。なぜなら、さっさと独立して出て行くには精神的乳離れが必要だからである。あるいは、さっさと独立して出て行って世間に揉まれれば、自ずと精神的乳離れをせざるを得なかったであろうから。
結局、敦は梅三家の暴れん坊として父弟に恐れれられる存在となった。坂東太郎。「私」はわかっている。自分が坂東太郎だって。ちゃんと書いてある、そんな自分に邂逅する場面;
学者人生のとば口に立って、神経を病んだり、女にふられたりして辛い時に、どうしようもない気持を晴らすため、元荒川に沿って延々と歩いた行ったら、吉川町との境の古利根川にたどり着き、そのまま大きな橋を渡ったのだ。時には自転車で同じ径路をたどったこともある。私の実家の東側を元荒川が流れていて、それが東流して吉川に至り。古利根川に合流する。だから、そこでは川が三叉に分かれていて、こんな何もない田舎には珍しい壮大な光景が見られるのだ。
利根川はしばしば氾濫/叛乱し、周囲に激甚な災害をもたらす暴れ川で、坂東太郎の異名をもつ。後日、敦は新妻を自分が壮大であると思い込んでいるこの古利根川の三叉に連れていくのだが。「特にどうってことない」と言う。大丈夫か!?新妻。
↓昨日都内に行ったら、梅が咲いていた。
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