いか@ 筑豊境 寓 『看猫録』

Across a Death Valley with my own Distilled Resentment

ウエストミンスター寺院の思い出  2012年

2022年09月19日 19時37分00秒 | 欧州紀行、事情

今日、エリザベス2世女王の葬儀がウエストミンスター寺院でおこなれている。ウエストミンスター寺院は10年前に見たことがある。出張でのこと。その出張で5日間通った「クイーン エリザベス II カンファレンス センター」はウエストミンスター寺院の向かいにあった。その時の記憶を整理するため、当時のデジカメ画像を見直した。さらに、ネット検索して当時のことを再整理した。「ウエストミンスター寺院の思い出」といっても見ただけ、中に入ったわけでもないんだが。


ウエストミンスター寺院


同じく、寺院


Queen Elizabeth II Conference Centre/クイーン エリザベス II カンファレンス センター


赤い「風船」マークの建物がカンファレンス センター、通りの右は寺院

■ クイーン エリザベス II カンファレンス センターからの眺望


Westminster Scholars War Memorial (wiki)。 この記事作成の過程で初めてこの記念塔を知った。インド大反乱で死んだウェストミンスター・スクール[1]出身者=同窓生も9人、記念されているとのこと。

[1] ウェストミンスター・スクールは、1560年にエリザベス1世によって創設されたイギリスのパブリックスクール。ロンドンの中心シティ・オブ・ウェストミンスター、ウェストミンスター寺院の隣に位置するwiki

搭の奥の建物は、Attorney General's Office. 法務長官府は、イギリスの法務官を補助する行政機関である。「法務官の法律上の事務局」と呼ばれることもある。 (wiki)


ビッグベンが見えた

■ 地図上の位置

上の地図で「ヴィクトリア」は駅。この駅そばの「ヒルトンホテル」に泊まった。ホテルから寺院までは直線距離で1.3Km。毎日、歩いて通った。

■ ヴィクトリア駅

■ ヴィクトリア駅からウエストミンスター寺院

ヴィクトリア駅からウエストミンスター寺院の道は、ヴィクトリア通り(Victoria street)。テムズ川方面に向かう。この道を歩いて5日間通った。

■ バッキンガム宮殿

■ ホテル(ダブルーツリー・バイ・ヒルトン ロンドン・ビクトリア


関連記事群

 


【2013年回顧 ①】 スターリンゴシック: ワルソー、モスコー

2013年12月15日 20時16分48秒 | 欧州紀行、事情

今年のブログ投稿もあと5回(ぶどう記録を除いて)。今年のまとめをしないといけない。

今年は、ロシアのモスクワ、ポーランドのワルシャワと他の地方都市と中国の北京に行った。

みんな、旧・現共産圏の都市。

 スターリンゴシック建築を確認した。wikipedia[スターリン様式]

おいらはスターリンゴシック建築とは摩天楼のような塔のような、しかも尖塔のような建物のことかと思っていた。

違った。

北京の人民大会堂もスターリン様建築だそうだ(wiki)。北京に行ったが人民大会堂は見なかったので、画像はない。

■ ワルシャワ

  

ポプラ、すずらん、そして、ライラックとおいらの(まだ幸せだった?)がきんちょの頃を思い出した。

 → ポーランド関連の今年の愚記事; 『勧進帳』を読み上げるヤルゼルスキ、でも、21世紀、『立ち往生』は免れる。

 → ポーランド出身科学者に関連する愚記事;  帰化、あるいは、the first Hibakusha 

■ モスクワ

→ 関連愚記事; モスクワの敵(かたき)を、横浜で討つ; あるいは、田舎者の収集品を田舎者がみる 

→ 関連愚記事; モスクワっ子は、犬派が多いのか? 


モスクワっ子は、犬派が多いのか?

2013年09月11日 20時16分08秒 | 欧州紀行、事情

この夏、モスクワに行った。 仕事だ。 地下鉄に乗った。用もないのに乗った日もあった。

前回モスクワに行ったときは(愚記事; スターは多種類あるから、どれも見逃さないように! )、観光のパックのツアー(ロシアに行った。サンクトペテルブルグとモスクワ。パックツアー。費用は20万円ちょっと。生まれて二度目の海外観光旅行。)だったので、自由に動き回ることができなかった。 

ましてや、地下鉄に乗ることなぞできなかった。 

ロシア旅行は、ビザを取るのに、ひと苦労するのだ。

■ モスクワの地下鉄は すごい! という話だ; ⇒ ①Amazon: モスクワ地下鉄の空気―新世紀ロシア展望 ② ソ連時代に建設が開始され、「地下宮殿」と称されるほど華麗な装飾で有名なモスクワの地下鉄。

 

そのモスクワの地下鉄駅で、モスクワっ子が通りすがりに、さすっているものは;

犬だ。 さんざん、さすられて、色がかわっちまっている。 恐るべし、犬派のモスクワっ子。

▼ 犬派のモスクワっ子@筆頭は、彼にほかならない。

 


『勧進帳』を読み上げるヤルゼルスキ、でも、21世紀、『立ち往生』は免れる。

2013年08月18日 18時48分56秒 | 欧州紀行、事情

   
           ―ポーランドにて、 今年初夏―

▼ 今年、初夏、ポーランドに行った。 仕事だ。 今、普通の日本人に、「ポーランド人で知ってる人は?」と尋ねるとどういう答えが返ってくるのだろうか。 おそらく、ほぼ無回答なんだろう。 特に今、有名な人がいない。 普通のもの知りなら、ショパンとかキュリー夫人とかあたりか。 ずーっと知名度が落ちて、ヨハネ・パウロ2世とかワレサ議長(レフ・ヴァウェンサ wiki)とかかな。

さて、ヤルゼルスキ。 まだ存命である。

1980年代、ソ連崩壊の少し前、おいらが、ヤルゼルスキを認識した時、絵に描いたようなスターリニスト然としていたので、にこにこできた。 彼は、戒厳令を出した。


― 絵に描いたようなスターリニスト然 ―

でも、事情は複雑だったのだ。

1980年代初め、ソ連崩壊にさきがけて、ポーランドでは「民主化」が進展していた。独立自主管理労働組合「連帯」(wiki)の運動があり、体制を揺るがしそうであった。その体制とはソ連に裏打ちされた共産主義の体制だ。「連帯」運動が高まり過ぎ、このままではソ連軍が出動し、治安維持をするのではないかと世界は恐れていた。その時、ヤルゼルスキは、大統領として、戒厳令を敷いた。

 ▼勧進帳を読み上げるヤルゼルスキー

 この頃なのだろう、おいらは、雑誌、中央公論の巻頭近くの短い文章で「勧進帳を読み上げるヤルゼルスキー」(記憶)という題の文章を読んだ、と記憶している。書いた人の名前は覚えていない。ただし、その書いた人は北大のスラブ研の学者であったと記憶している。内容は、戒厳令を敷いているヤルゼルスキを歌舞伎の勧進帳[1]における武蔵坊弁慶になぞらえたもの。ワレサ議長(彼は拘束された)の連帯を弾圧し、戒厳令を敷くヤルゼルスキは世界=西側から批難を浴びていた。この「勧進帳を読み上げるヤルゼルスキー」はその状況と解釈、普通の人には気付きにくい隠された意味を解説した文章だった。すなわち、戒厳令を敷いたヤルゼルスキは単純な専制支配者ではなく、本当の専制支配者であるソ連の介入を招かないうちに、戒厳令を敷いたのだ。目的はポーランドと連帯を守るためだ。これは、義経を守るために弁慶が勧進帳を読んで、その場をしのいだようなものだ、と解説していたのだ。

[1] 勧進帳 あらすじ (wiki)

源頼朝の怒りを買った源義経一行が、北陸を通って奥州へ逃げる際の加賀国の、安宅の関(石川県小松市)での物語。義経一行は武蔵坊弁慶を先頭に山伏の姿で通り抜けようとする。しかし関守の富樫左衛門の元には既に義経一行が山伏姿であるという情報が届いていた。焼失した東大寺再建のための勧進を行っていると弁慶が言うと、富樫は勧進帳を読んでみるよう命じる。弁慶はたまたま持っていた巻物を勧進帳であるかのように装い、朗々と読み上げる(勧進帳読上げ)。

なおも疑う富樫は山伏の心得や秘密の呪文について問い質(ただ)すが、弁慶は淀みなく答える(山伏問答)。富樫は通行を許すが、部下のひとりが義経に疑いをかけた。弁慶は主君の義経を金剛杖で叩き、疑いを晴らす。危機を脱出した一行に、富樫は失礼なことをした、と酒を勧め、弁慶は舞を披露する(延年の舞)。踊りながら義経らを逃がし、弁慶は富樫に目礼し後を急ぎ追いかける(飛び六方)。

 やはり、今となってはwikiでこう解説されている;

ヤルゼルスキは、戒厳令を敷いたことで非難されており、事実、戒厳令中、民主化を主張するポーランド人を弾圧したが、熱心なカトリック信徒である彼は、教会に逃げ込んだデモ隊に対して弾圧を行なうことは決してなかった。またソ連の衛星国である当時の東欧諸国がその影響下から離脱しようとした時、ソ連が容赦なく軍事侵攻している事実がある以上(例、ハンガリー動乱、プラハの春)、戒厳令を敷かなければソ連政府はポーランドへ軍事侵攻を実行に移すことは明白であった。実際にソ連からは有効な対策を打たなければ実力行使を行うという期限付き最後通告を受けており、放置しておけばソ連の介入でポーランドが壊滅すると考えた末の決断であったとされる。

・この当時(1980年代のソ連崩壊前)、カチンの森事件 (wiki) だって、ナチス・ドイツがやったことになっていた時代だ。

 ■ そして、21世紀;

ヤルゼルスキがまだ生きていると知って驚いたが、去年(2012年)、ワレサと会っていたのだ(報道された公知です)。

知らなかった。


Walesa takes tea with former communist leader
そして弁慶は、無事関を越えられた後、主を殴った事について義経に泣きながら謝った。という筋である。 wiki 武蔵坊弁慶

このワレサ―ヤルゼルスキ会見は、死期を悟ったヤルゼルスキの意向と推定できる。なぜなら、この後の5月に、「ポーランドのヴォイチェフ・ヤルゼルスキ元大統領は、新聞「Super Express」のインタビューに応じた中で、自分は死に瀕していると語った」とされるからだ。


  ニュースソース

家で死を迎えるのだ。 立ち往生google 画像)ではないのだ。 ソ連崩壊の賜物だ。


 


1980年代初頭の日本で、ガウディーは知られていなかったという説

2013年08月04日 22時17分19秒 | 欧州紀行、事情


 ― スペイン、バルセロナのガウディー設計のカサミラの中の展示室で見学する幼いカタルーニアン ―

今年の春に出た、田澤耕、『カタルーニャを知る辞典』 (Amazon)に書いてあった;

一九八〇年前半には私を含め、ガウディーの名を知る人さえほとんどいなかった。八四年に放送された「スペイン、バルセロナ。ここは建築家アントニオ・ガウディーに会える街・・・・・・」で始まる、世紀末の雰囲気ただようサントリー・ローヤルのCMが彼を一気に有名にしたが、それでカタルーニャが注目を浴びたわけでもなかった。

ということは、epo の Goodiesは、日本であまり知られていなかったガウディーに触れた詩なんだ。 今調べたら、1980年発売だ。


http://www.kasi-time.com/item-12603.html                 Amazon

もっとも、大貫妙子の『果てしなき旅情』 (1980年発売 wiki)では、~♪~ エクスプレス 揺られていく Le Mistral ~♪~ 国境超えれば Barcelona Valencia ~♪~ と唄っている。

その頃、彼女たちの間で、バルセロナ―カタロニア ブームがあったのだろうか?

ところで、樺山紘一の 『カタロニアへの眼』 が刀水書房から出たのが、1979年だ。 "バルセロナの町  ガウディのある街"と、こってり書いてある。

それらには、何か関係があるのだろうか?

それにしても、やはり、樺山紘一が、サントリー(愚ブログの天敵である)CMの黒幕であったことは、邪推できる。

なお、、田澤耕、『カタルーニャを知る辞典』 の巻末には、「本書では数多くの参考文献を用いた。ここでは、日本語で手軽に読めるものだけを挙げておく」と但し書きで、日本語参考文献が23点挙げられている。 樺山紘一、『カタロニアへの眼』はない。 中公文庫にもなっていたし、最近、刀水書房から再販されたのに。

気づいた; ガウディー ⇔ ガウディ 、 カタルーニャ ⇔ カタロニア、 表記が違う。


A famous (well-known) woman named Unknown ; トレチャコフ美術館に行けるかな?

2013年07月07日 05時38分36秒 | 欧州紀行、事情


Неизвестная (google

Неизвестнаяの英語訳は、unknownだ。 知らない人。

この絵は4年前に日本に来た (国立トレチャコフ美術館展 忘れえぬロシア; google)。 この絵のタイトルの日本語訳のひとつが、「忘れ得ぬ女(ひと)」。訳し過ぎである。もちろん、その絵画作家は偶然の通りすがりの女から一瞥をもらった刹那を、精魂かけて描いたのだから、unknownの女は、作品となり作家の分身となるわけだから、作家にとって忘れ得ぬ女に他ならない。 でも、その精魂かけて描いた後に、その作家がНеизвестная (unknown)と名付けたのであるから、やはり、「見知らぬ女」なのだ。 そして、野暮な解説をすると、「見知らぬ女」を、心血注いで描き込んだその作品を、作家自身が、Неизвестная (unknown)と名付けた意味を、この絵を見て感嘆して観た者どもが考えて、なるほど、これは「忘れ得ぬ女(ひと)」ではないか!とこの絵を見て感嘆して観た者どもが自ら想起することを作家は期待しているのだ。 だから、「忘れ得ぬ女(ひと)」というのは、訳し過ぎなのである。越権行為なのだ。最近では、「見知らぬ女」の日本語タイトルが流通しているらしい(wiki)。

おいらの、Неизвестная、Russsian unknown は、もちろん、彼女だ↓ !


 愚ブログ; 知らないロシア人

さて、Неизвестная (unknown)はモスクワのトレチャコフ美術館にある。昨日知ったが、トレチャコフ美術館は旧館と新館があるらしい。どちらも見逃さないように!

プラドに行きたい
エルミタージュに行きたい-のか?

に続く第3弾「トレチャコフ美術館に行けるか?」。

マレーヴィチも待っている(愚記事; 黄色きものども、あるいは、カジミール・マレーヴィチに気づいた )。
[google 画像:トレチャコフ美術館 マレーヴィチ]

なお、プーシキン美術館のfamous women@ただし、おフランスずんは、来日中らしい。


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google; プーシキン美術館展 フランス絵画300年


東宮殿下、スペイン(西国)を南へ北へ;あるいは、マドリ―っ子は、みんな高踏派::東南西北揃ったょ

2013年06月12日 20時14分17秒 | 欧州紀行、事情


 ↑まさこさまもついていけない、東宮殿下のスペイン弾丸ツアーがこれだ!

東宮殿下は今頃、マドリ―だ。今度のスペイン訪問は実に、6回目だという。

(おいらは、4回すか行ったことがありません。 露払いができず、ごめんなさい。)

(2008年の関連愚記事; 東宮殿下の行きなさる Zaragoza サラゴサ I、  東宮殿下の行きなさる Zaragoza サラゴサ II 

東宮殿下は、米国に何度行ったことがあるのだろう?

日本の"いわゆる「保守派」"が、日ごろ、同盟国であると主張する米国を、である。

6回は行ってないだろう。

なぜ、そんなにスぺインに行くのであろう?逆に考えて、なぜそれだけ頻繁に行けるのか?という視点で考える。ひとつはスペインに王室があること。現在のスペイン王室は1975年に王政復古した。たった40年前だ。もうひとつは、1945年9月1日の東京湾上の戦艦ミズーリの上にスペイン代表がいなかったことだ (関連愚記事; 帰路東京湾中より富士見事に見ゆ。) 。つまりは、日本とスペインは交戦関係になかったのだ。先の大戦の対日戦勝に一番効果があったのが米国、ソ連、ついで英国か。中華民国は事実上無力。なのに、敗戦後約70年経って、中国の北京政府や戦争の勝ち負けと関係ない韓国までが、対日勝利に基づく戦後国際環境を、「現在の日本が打ち破ろうとしている」というプロパガンダを発し、世界世論を味方につけて、日本を掣肘しようとしている。米国の一部世論や政治家も中国、韓国に同調しはじめている。こういう日本を取り巻く状況で皇室が訪問できる外国は限られるのだ。

関連愚記事;  マドリードにおいてフランコ総統を始め,多くの人々から温かく迎えられましたが,

▼ 「時」政学、あるいは、「相」政学

地政学をもじって、ヨタ用語を考えた。

20世紀直前から20世紀中ばの約50年の間に、米国を敵としたのが、スペインと日本。

米西戦争(wikipedia)と日米戦争だ。

アメリカ帝国主義は、日西尊王家の共通の敵!なのだ(???)。 

もっとも、日西の方が「帝国性」が高いかもしれないのだが... [1]


革命国家の (=王室、皇室を持たない) 方々

そもそも、今年は日西交流400年記念である (関連愚記事; 大泉光一、『伊達政宗の密使』、あるいは王と坊主の同床異夢の野望の果てに)。

その頃、United States of America なんてものはないのだ!

アメリカさまなんて、ポッと出の「ちんぴら」じゃないか! 憲法つくってもらったけど....

そして、何より、今年、すめろぎさまが、印度に行きなさるのだ! (おいらは、印度は 6回 いきました! 関連愚記事; チャンドラ・ボース;おぼえてね!(^_^)  )

何という、戦略的皇室外交!

● マドリ―っ子は、みんな高踏派

今日滞在しているマドリ―の東宮殿下が心配だ。なぜなら、空気がちょっぴり薄いかもしれない。

アトーチャ駅からプラド術館へ行く道すがらにあった、スペインの「国土地理院」。

マドリ―は、標高が627メートルなのだ。日本の県庁所在地で標高の一番高いのが長野市の372メートル。そして同県の松本市が592メートルだ。

一方、ヨーロッパではアルプスで有名なスイスの首都ベルンの標高は、542メートルだ。 すなわち、マドリ―は高い位置にあるのだ。


[1]

~あわせて読みたい???~

  
西帝               日帝


in 1952年@ぬっぽん"主権"回復, ロンドンで ひと冬, over 1万人死亡、大気汚染で

2013年03月13日 22時04分24秒 | 欧州紀行、事情

おいらは、2006年5月に書いた;

■事実、戦後一貫して、4月28日を「日本独立記念日」として祝う風潮は、左右ともに、なかったといえる。む しろ、4月28日を「日本独立記念日」として祝うのを嫌ったのは、保守・体制派であろう。だから彼らは1970年代になって、日帝時代の紀元節を、「建国 記念日」として復活させた。それは占領されたことに目をそむけたい心理を動機としている。従って、竹村らの感覚と「建国記念日」を復活させ日本は2600 年前から「独立」していたと主張したい従来保守派には温度差があることが明らかになった。これは、竹村が対米従属体制においてフルブライトの資金支援で留 学して米国流に生きることを実践し受益してきたことに加え、日本社会全体が戦後数十年たって米国流の生き方が人間の善い生き方という暗黙の合意が拡散浸透 し、血肉化してきたことを背景とする。 (愚記事; 4・28伝説 

ニュース: 安倍晋三内閣、主権回復の日の式典開催を閣議決定

サンフランシスコにおいて、主権を放棄する=国家主権の発動たる戦争の放棄という憲法を抱えて、主権者たる旧敵国=占領軍諸国と調印したのが、1951年。その発効が1952年4月28日。

「国家正当防衛権に依る戦争は正当なりとせられるようであるが、私はかくのごとを認めることこそが有害であろうと思うのであります。」という思想を日本が甘受することが、「主権回復」だっていうんだから...。 このねじれが戦後日本のアルファでオメガである。はたまた、阿吽であり、この阿吽の呼吸こそ、「豊かで、平和」なぬっぽんを「実現」してきたというのも、ねじれに捻じれ切ったぬっぽんの元吉/元凶である。

■ まぁ、ぬっぽんのことは置いておく。 そして、話は飛ぶ、戦勝国の公害大量死へ。 1952年つながりというだけで。

この冬、北京をはじめ中国主要都市での大気汚染、公害問題が急激に大問題となった。

でも、他人事と嗤ってばかりもいられない。

なぜなら、ぬっぽんでも公害問題が深刻化した時代があった。「世界の工場」となった時代だ(関連愚記事;水俣病患者に土下座する石原慎太郎環境庁長官)。 中国も世界の工場となった。公害問題だっておきるだろう。

   子供叱るな来た道だもの、 年寄り笑うな行く道だもの

21世紀の世界の工場たる中国の公害問題の発生は、資本主義経済の発達には、やはり、一般則があるのだ、すなわち「経済学」はあってもいいのだ、と教えてくれる。

それにしても、最近しったよ。

日本が米英など旧敵国との講和条約が発効したその1952年に、旧敵次席の英国さまはロンドンで、わずかひと月あまりの間に、大気汚染=スモッグで、1万2千人が死んだって。

知らなかった。 ⇒ wiki ロンドンスモッグ

1952年12月5日から12月10日の間、高気圧がイギリス上空を覆い、その結果冷たい霧がロンドンを覆った。あまりの寒さにロンドン市民は通常より多くの石炭を暖房に使った。同じ頃、ロンドンの地上交通を路面電車からディーゼルバスに転換する事業が完了したばかりだった。こうして暖房器具や火力発電所、ディーゼル車などから発生した亜硫酸ガス(二酸化硫黄)などの大気汚染物質は冷たい大気の層に閉じ込められ、滞留し濃縮されてpH2ともいわれる強酸性の高濃度の硫酸の霧を形成した。

大スモッグの次の週までに、病院では気管支炎、気管支肺炎心臓病などの重い患者が次々に運び込まれ、普段の冬より4,000人も多くの人が死んだことが明らかになった。その多くは老人や子供や慢性疾患の患者であった。その後の数週間でさらに8,000人が死亡し、合計死者数は12,000人を超える大惨事となった。

知らなかったょ、戦勝国の公害大量死。

その数カ月後、明仁・皇太子はそのロンドンを訪れた。


愚記事; プリンスオブやまと (当時) が、尖兵だったのだ。  noblesse oblige! 





【2012年回顧 ②】 bonjour !  と言ってみた。

2012年12月19日 21時32分56秒 | 欧州紀行、事情

 も うこれが生涯最後の機会かもしれないから、もう一度見ておこうと思った。しかし、そここそが惨憺たるありさまだったのである。あの円形の部屋いっぱいに 人々が犇き合い、あらゆる言語で声高に喋り、叫び、絶えず写真を撮り、自分のカメラと彫像の間に介入する邪魔者には険しい目を向けており、そうした中に何 とか身を割り込ませても、ひととき対象と内的な対話を交わすなどとという余裕はとうていない。結局ただぐるりと一周し、彫像の上っ面を視線で撫でたという 以上のことはできないままわたしは部屋を出なければならなかった。わたしは侘しかった。 松浦寿輝、『クロニクル』

これか!? ↓

 

 ミロのビーナス像と共にここに写るすべての人が、実は、"結局ただぐるりと一周し、彫像の上っ面を視線で撫でたという以上のことはできないままわたしは部屋を出なければならなかった。わたしは侘しかった。"、と思っていたとしたら、案外、世の中奥が深いんだと思うべな。

今年、生まれて初めて"実社会"で、 bonjour ! 、と言ってみた。 

● 《おふらんす》に行った。


到着したシャルル・ド・ゴール(wiki)空港では、《御大》(愚記事;日本の対米依存を減らそうとするゴーリスト [ド・ゴール主義者]の御本尊)が、顕彰されていた。外国からの首脳とド・ゴールさまの写真だ。ただし、われらが当時の御屋形様@トランジスタラジオのセールスマンさまの画像は見当たらなかった、残念!

■ あいさつは大切だ。

あいさつは大切だ。 スペインに行くには、おらー!、を覚えること。おらー!、といっていればとおりがいい。おいらが観察するに海外で日本人は声に出してあいさつしない。店に入る時も大きな声であいさつすれば、気持ちよく待遇してもらえる。英語圏でもそうだ。ハロー!、あるいは、ハーイ!と言えばいいのだ。そして、何より、作り笑いが重要だ。

これをフランスでも水平展開した。 ちゃんと言ったよ、大きな声で。bonjour ! きちんと、フランス語あのj や r の音もだしてみたよ。 そして、林檎のタルトや鴨を食べた。フランス人は意地悪なんじゃないかとびびっていたおいらは、拍子抜け。接客業なんだから、意地悪なわけないだろう!とお思いの若い人もおられるかもしれない。でも、四半世紀前の日本では、フランスでは接客業の人たちも日本人に意地悪!っていう"伝説"だった。フランスが変わったのか?、日本人の被害妄想が薄れたのか?いや、そもそもそんな伝説を真に受けたおいらがまぬけなのだろう。

  

■ ピレネーを越える(愚記事:  ピレネーを越えてみた、 【その1】)ためフランスに行った。せっかくなのでパリで1日過ごした。ルーブル⇒モンマルトル⇒オルセーというパリ入門編。

1.ルーブル

2.モンマルトル

3.オルセー

オルセーから見た、モンマルトル↓

 


セコムしてました、ロンドン。一方、演技に現(うつつ)を抜かしていた、ロンドン塔

2012年11月18日 14時15分32秒 | 欧州紀行、事情


図1

テムズ河の対岸から英国会議事堂・ウエストミンスター宮殿の画像を撮った(下記)。

そのときその議事堂の対岸には古めかしい建物、すなわちロンドンに19世紀の雰囲気を求める酔狂なお上りさんの期待をうらぎらない建物があった(図1)。プラタナスの木に囲まれていた (関連愚記事: なぜプラタナス)。

その使われていなさそうで、崩れかけそうな建物をしげしげと覗いていたら。 びっくり!

セコムしていた。

ネットでしらべた; ⇒google。 知らなかったょ。

■ そんな9月の思い出に、今月のニュース。

      ⇒ ニュース; 英国社会に衝撃!

 

盗まれた鍵は衛兵の管轄下にあるべきものなのだ。ビーフ・イーターたちには過失はないのだ。


 - ロンドン塔の衛兵 -

 
  -直立・無言修業の究極のperformanceでお客様に答える衛兵-

 
 - ロンドン塔のビーフ・イーター (画像右端の深紅のバラもよろしく)-

ロンドン塔では、衛兵とビーフ・イーターが、performanceにがんばっている。

でも、鍵も守ってね。

セコムしてくださいね。