デリーの へび使い。この画像はインドに行く前から頭にイメージとしてあった。まあ、典型的かつ凡庸なインド像ではある。
へび使いは観光地にいる。いや、観光名所でしか見なかった。といってもガンジーの火葬場。観光客目当てにへび使いが結構いた。キラー城にもいるらしいが、おいらは見かけなかった。この写真は観光名所ではなくデリー中心街の小さなモールにて。ただ写真が撮りたかっただけっだたので、100ルピー(だったか20ルピーだか忘れたが)ほど渡して写真を撮らせてもらった。向こうはへびをおいらの肩にかけたりなんなりしようとしてきたが、勘弁ねがった。100ルピー(だったか20ルピーだか忘れたが)払った時、もっととねだられた。感じわるかった。少し怖かった。
デリー、インド門に近いニューデリーの静かな大通りの街路樹でその街路樹の実を売りながら、勉強する少年。その実は黒い。どうやらさくらんぼのようなやわらかさの実であるらしい。家族で拾って、売っているひとたちもいた。
インドの(義務教育相当年齢の)子供は全員が学校に行っているわけではない。web siteを見ると義務教育は無償であるとのことである。インド人に聞くと、学校に行かなくても「家業」を手伝うのは容認されているらしい。事実、道端の露店で多くの子供が親と働いていた。ちなみに「家業」と反対に工場での労働は禁止されている。がこれが社会問題、国際問題になっている。ときどき、欧米で、子供労働を使ったインド製品の不買運動とかのニュースがある。
さてこの少年が学校に言っているかはわからない。この日は日曜日であったので平日も物売りをしているのかはわからない。ただ、この写真のように独習しているのならば、どこかで教えてもらっているのだろう。ちなみにこの日もデリーは40℃。先日の東京の39.4℃並の猛暑である。
とまれ、学校化社会が行き過ぎて弊害が生じている日本とは全く違う状況である。インドに ひきこもり とかいそうにないもんね。
写真:ナタラージャ 昔から印度人は踊ってたんだ。
デリーの国立博物館(National Museum)は、デリー中心部インド門と国会議事堂を結ぶ緑化レーンの真ん中にある。静かな環境にあり、博物館内も平和でる。インダス文明、ハラッパの遺跡から始まりインド全史を網羅している。特にガンダーラ美術、イスラム美術細密画などがおいらの印象に残った。入場の時写真撮影料を払えば写真は撮り放題である。入場前に荷物は別棟の小屋に預けなければならない。ちょっと怖い。貴重品は身につけることにこしたことはない。3階まで展示フロアがあり、真面目に見学すると丸一日以上かかる。付属のショップ、役人がやっている、は品数は少ないが質はよく価格は安い、極めて安い。いかに外でぼったくっているかわかる。入場料150ルピー、写真撮影料300ルピー。
話題は変わるが、インドは今年5月の選挙で政権交代した。つまり人民党から国民会議派に政権が移った。国民会議派とはネルーに始まりインディラ・ガンディと流れたあの党である。ガンディ王朝という揶揄もある。ところで、インドでは、他の発展途上国のような、独裁者・独裁性・不正蓄財などなど後進国特有の政治的暗部が意外と少ない。(ただし政治的暗殺はある。)この原因は、おいらには、わからない。
インド最終日の思い出。ひとりでデリーを歩く。40℃、湿度50%。国立博物館からコンノートプレースまでの約2kmを歩く。2kmというと徒歩30分の距離ではあるが、そう簡単にたどりつけなかった。まずは、デリーの道は時々交差点ではなく、円環状道路変更場所に出会う。つまり真ん中が緑の小さな公園で放射状に道が出ている。来た道から入ってどの道かに進む。このとき道の選択ミスを繰り返したらしく、相当遠回りした。
仕方なく、オートリキシャでコンノートプレースに向かう。が、運ちゃんが頼みもしないお土産やに連れて行きやがる。まあ、観光客なら遭遇するトラブルなのだが。「こらー! てめえ警察呼ぶぞ!」と、言うと素直にコンノートプレースまでつれって行ってくれた。
コンノートプレースでは、こじきにずーっとつきまとわれたし、訪印前からほしかったものも見つかったりした(後日報告)。
で、コンノートプレースからホテル・ニッコーへ歩く。これもいろいろ大変で、やっと、ホテル・ニッコーにたどり着いた。泊まり先でもなんでもないけど、づかづか入り込んでアイスティーとケーキにありついてほっとしたのですた。アイスティ70ルピー、ケーキ100ルピーですた。インドの普通の店ではアイスティーはないところが多いがホテルのコーヒーショップにはある。たいてい、最初から砂糖が入っている。レモンばかりでなくアップルその他のアイスティーがある。おいらはチャイはほとんど飲まなかった。暑いしミルクがおなかにわるいかなともおもったから。もっぱら、アイスティー。もっとも、iced teaといいます。
JG おいら。
今朝成田にたどり着いた。トランクは空港で宅配業者に預ける。夕方には家に届いた。それにしても、蒸し暑い。荷物を整理する気力もなく、トランクはそのまんま。
昨日はデリーの繁華街、コンノートプレースなどに行く。ただ、日曜なのでほとんどの店が休み。独りで行ったので、リキシャはぼろうとするし、インチキ情報は言ってくるし、うざくて大変だった。猛暑のデリーをひたすら歩く。でもその猛暑、今思えば今日の東京の猛暑よりまし。
成田空港では、日本人中高年男性&組織人の醜悪さが目について不快だ。なんで、あんな旅行帰りのボスを集団でわざわざ空港まで出向かいに来るんだ?もちろん、そうやって気に入られて出世するためなんだろうけど、生産性がないじゃん。こんなんことばっかやってるから、日本の産業は衰退するだんよね。
ということで、最後はモダン礼賛になってすまいますたが。
JG
さよならインド! おいらは、帰ります。
帰国を前にデリーの目玉ラールキラー、キラー城、東京なら旧江戸城、に行く。キラー城は首都デリーの要所のため半分はインド国軍が駐屯している現役の城である。ムガル朝時代の皇帝の居城であった。現在は城内の建物とともに博物館がある。その博物館は歴史博物館であり、主に19世紀中以降の独立史に重点をおいている。
マホトマ・ガンディの名前は多くの日本人は知っているが、スバーシュ・チャンドラ・ボースの名を知る人は少ないであろう。事実、二人はインド独立、対英闘争のライバルでもあった。余談だがデリーの本屋でチャンドラ・ボースの本を買うと店員がガンディの本も薦めてきた。いや、おいらは買わん、ボースが好きだというと、その店員は二人はこれだからなと言って両手の人差し指を交差させていた。現在でも国民的人気は大であり、ガンディーには及ばないが2位の地位は占めている。これは、実際インド人に聞いてみてもそうだった。ガンディとはタイプが正反対なので、なんとも言えないが、ある種現実的なところ、世俗的なところが人気の原因であろう。ガンディは政治家というより、聖者であるから。
チャンドラ・ボースとはインド東部カルカタの出身の対英独立闘争の戦士であり、先の大戦ではシンガポールを陥落させた日本軍のインド人捕虜を組織してインド国民軍の先駆けを作った人物である。博物館も彼のための展示スペースは広い(別途紹介する)。東京での大東亜会議にも参加。写真は日本の軍人との写真である。ボースのインド解放の夢は、日本軍のインパール作戦で実現するはずであったが、日本軍はとてつもない失敗をして大量の戦死者を出した(ビルマの竪琴の話)。
終戦直後、台湾で航空機事故で突然の死。なきがらは東京のあるお寺に埋葬されいる。なぜ、遺骨がインドに帰らないかはなぞである。(実はなぞでもないのだが、ベンガルの人に聞いた。これも別途書く。)
ということで、おいらのインド滞在も今日でおしまい。
さよなら、インド。
あんまり、考えなかったけど。インドに来たら何か考えるという発想があんまり考えてなかったかもしれない。
とまれ、今後はインドねたをぽつりぽつり書きます。
JG
インドの学校は政府の学校とプライベートスクールに分けられる。そこでの英語の使われかたについて興味があったのでいろいろインド人に聞いてみた。結果はちょっと複雑で一筋縄でプライベートスクールでは英語重視ということにはならなかった。
【例1、デリーのあるプライベートスクール】
理系など教科のいくつかは授業を英語で行う。英語を重視する考えのひとが集まっているとのおいらの印象。中産階級の師弟が多いようだ。ある親は自分の子供が英語を話すのを自慢していると言っていた。
【例2、カルカタのあるプライベートスクール】
授業は全て、理科系も含め、ベンガル語で行われる。ベンガル語はインド東部の公用語である。大学では授業は原則英語で行われるとのこと。従って、高校と大学には「ギャップ」がある。しかし、実際はカルカタの大学ではベンガル流の英語が使われ実際はギャップがないのだろうと、おいらは見ている。なぜなら、その人の英語はベンガル英語だからである。書き言葉は大学では完全英語である。ちなみにこのカルカタ出身の人はベンガル語が母語であり、英語は第二言語、さらに成人してヒンディ語を習得して仕事をしている。母語⇒英語⇒ヒンディという習得順番の人は結構多い。
【例3、インド北部出身者・ムスリム。プライベートスクール出身】
母語はウルドウ語。プライベートスクールでの授業は英語。子供のころから英語を学んでいるインド人の英語はわかりいい。例1の人も同様。現在のデリーの家庭ではウルドウ語を使う。この人も母語⇒英語⇒ヒンディというパターン。科学技術の仕事のためには英語が必要、地場のひととの仕事にはヒンディ語が必要であるからである。
そもそも、インドに出世という、あまりに俗で野暮な、概念があるかは知らないが、地方出身で大学を出て首都に来て働いて普通のインド人の何倍、十何倍の給料をもらっているような人たちについてのことです。
その生き方の価値判断はしないが、産業化(これもいい悪いは問わないが)に邁進するインドの只中にいる人たちです。
まとめ:中産階級としてやっていくには英語は必要であり、さらにその場での言語の習得が必須です。彼らはそれをやり遂げているのでした。
jg
インドには亡命チベット政府があります。
デリー北部のチベタン街に行きました。チベット亡命政府はインド北部のダラムシャーラーにあり、かのダライラマもそこにいます。そんなことで、デリーには結構チベタンがいます。先日もコンノートプレイスの本屋でお坊さんを見ました。この格好(写真参照)なのでわかりやすいです。インドは中国のチベット併呑を事実上黙認しましたが、その後中印戦争をして戦略的にも競合関係にありました。しかし、近年首脳の相互訪問もあり、チベットとは微妙な立場といわざるを得ません。それにしても、チベタンのコミュニケーション戦略による世界世論を味方にするやりかたは見事です。
チベタン街にはお寺、あの円柱のくるくる回すやつもあったよ、ホテルなどがあり、観光客も来ているようです。西洋人も結構いました。タージマハルやチャンドニーチョークで私がみた数より多かったです。チベタンマーケットでは衣料、靴などインド人が日常に必要なものを売っていました。店での品数は多かったです。デリーの他の街との違いは食い物屋の露店が少ない。そう混雑していない、などです。チベタンの子供は、インドの子と違って、デジカメを向けると隠れます。とてもかわいい。