いか@ 筑豊境 寓 『看猫録』

Across a Death Valley with my own Distilled Resentment

『英国人捕虜が見た大東亜戦争下の日本人』、デリク・クラーク 著、和中光次 訳;or 米俵が the white man's burdenになった時

2019年12月30日 19時41分22秒 | 

And mark them with your dead!
諸君は死して標を残すのだ。

(Rudyard Kipling,  "The White Man's Burden" [ラドヤード・キプリング、"白人の責務"] [1] の一節、)


英連邦戦死者墓地(横浜市保土ヶ谷区)。『英国人捕虜が見た大東亜戦争下の日本人』において、その死が描写されているConstable Royの墓がある イギリス区画(Brit. Sec.)。


『英国人捕虜が見た大東亜戦争下の日本人』(Amazon)

原著のタイトルは No Cook's Tour 。ここでCookとは、奇しくも今年倒産した、英国老舗の旅行会社Thomas-Cook [トーマス・クック] のこと。日本でいえばJTB(日本旅行:戦前からある)。つまり日本でいえば、大岡昇平の『俘虜記』の題として、No JTB's tourと名乗るようなこと。この著者のデリク・クラーク(1921年生まれ、1942年に捕虜)はキップリングの『少年キム』を読んで兵役に志願する夢想家であることが、この体験記の売り物。なお、キップリングはトーマス・クックの世界一周旅行を利用してインド⇒シンガポール⇒香港⇒長崎と日本に来ている(1889年)。デリク・クラークはインドからシンガポールに行き、捕虜となり日本に移送される。つまり、原著のタイトルは No Cook's Tourはキップリングのインド⇒シンガポール⇒日本の旅行を「本歌」としたもじりであることがわかる。

キップリングといえば the white man's burden という詩も有名。白人の世界支配を鼓舞した。そんなキップリングにかぶれて大英帝国の軍人になった人物の体験記ということで、おいらは興味をもち、読んだ。英軍捕虜の記録といえばタイメン鉄道の話など深刻なものがある。しかし、このNo Cook's Tour はその体験を深刻、悲壮な物語にはしていない。

内容は、むしろ、体験を淡々と書いたもの。大英帝国を翼賛する視点や情念を持って、捕虜となった境遇を悲嘆し、敵である日本を罵倒するといったものではなかった。あるいは、キップリングが好きであれば、文学的構成で以て物語をつくるというものでもなく、よくもわるくも実体験を書いたものであった。もちろん、それは良くて、シンガポール戦の実際や捕虜としての日本での労働について具体的に記述されている。ただし、繰り返すと、感動は書かれていない。例えば、シンガポール戦で斥候の日本兵を後ろから一気に殺害するのだが、恐らく生まれて初めての殺人のはずなのに、具体的に日本兵はどう死んでいったのか書かれていない。さらに、特に心理的状況は書かれていない。動揺したとか、成功感に漲り歓喜したとか書かれていない。

●この本の特徴は訳註が充実していること。註というばかりでなく、情報豊富で、解説の役割をはたしていて、当時の状況についてなじみがない読者には大変役立つ。

■ このブログ記事では、『英国人捕虜が見た大東亜戦争下の日本人』での著者デリク・クラークの体験記で;①おいらが興味深く感じた点、そんなことがあったのかと初めて知って驚いた点を書く。②もうひとつ、この本は注をつけるのが楽しそうなので、おいらが見つけて、本書に書いてない点(註)を書く。

①. おいらが興味深く感じた点、そんなことがあったのかと初めて知って驚いた点

1.米英の親密さと物量格差

デリク・クラークの所属する英陸軍は1941年10月に英国から中東に向かう。日米開戦前。米海軍が護衛。デリク・クラークの所属する英陸軍は結果的にシンガポール防衛に向けて出発したことになる。日本の対米英宣戦布告前に出発していたことになる。当時英国はヒトラーのドイツの上陸の脅威にあったはず。ドイツの対ソ戦開始で、英国はドイツの英国への侵攻はないと読んだのではないだろうか?

英兵は米艦に乗るのだが、食料事情が米英で違うと書いてあった。米軍は捨てるほどの食料で過ごしていたのに、英軍はそうでもなかったと。

2.日本兵3名を瞬殺

デリク・クラークはシンガポール戦で日本兵3名を背後から瞬殺している。そして、殺した日本兵の最後の姿の絵を載せている。

戦争であるからそういうこともあるのだろうが、日本兵3名を一気に殺して、うれしかったとか後味が悪かったとか書いていない。

3.シーク兵とグルガ兵

シンガポールでの英軍降伏後、英印軍に所属していたであろうシーク教徒が日本側へ寝返り、降伏英軍兵の管理をしたとある。そして、そのシーク兵の英兵の取り扱いが日本兵よりひどかったと書いている。一方、グルガ兵は降伏後も英兵への忠誠心が高かったとのこと。このグルガ兵の話は、会田雄次の『アーロン収容所』にグルガ兵の忠誠心として出てくる内容と整合する。

4.日本到着、一般車両で移動

キプリングは香港から長崎へと来たが(1889年)、デリク・クラークは台湾から門司へと来た(1943年)。そして、一般客と混じって列車で東京まで来たとある。山陽本線、東海道線を通ったのだ。列車から見えたのどかな日本の風景が書かれている。デリク・クラークは廣島など数年後に空爆で灰燼に帰す各都市の風景を見たことになる。

汽車は村々を、そして街を通過した。街は古い日本と現代米国が入り混じった、風変わりな姿をしている。

街の景色は、明るい花柄の着物と地味な色合いの制服、活き活きした漢字とモダンなひらがな(漢字は中国の文字、ひらがなは単純な表音文字)、人力車と流線型の車が入り混じっている。
 日本は、我々と長期にわたって近代戦を戦い抜けるようには思えなかった。だが、彼らの最大の強みはその恐るべき精神力にあった。(第18章 大森捕虜収容所)

富士山が右手に見えたとある。???と思った。調べた。昔は東海道線は今の御殿場線を走っていたのだ。おいらは、今知った。

東京駅から大森駅まで行った。

電車の中はもう満員で、ロンドンの地下鉄のラッシュアワーと同じだ。車内には好奇心旺盛なニップもいて、ジロジロ見てヒソヒソ話している。しかし、ほとんどの乗客は全く我々に関心を示していなかった。(第18章 大森捕虜収容所)

5.池田徳眞(のりざね)との面接

 一日がものすごく長く感じられる。まだ我々は何もさせられておらず、東京に連れてこられた理由も聞いていない。 
 だがある日、状況に変化があった。
我々は一人ずつ事務所に呼び出された。二人のジャップが我々を聴取するという。
 やっと私の番がきた。事務所内に案内され、座るようにと言われた。質問者は二人の若いジャップだった[56]。洋服姿のきちんとした身なりで、そのうちの一人は完全な英語を話した。私の書類関係は彼の前にある。彼はいろいろと質問をした。
 まず次のように話した。
「えーと、あなたはウォトフォードに住んでいましたね。ウォトフォードはよく知っていますよ。バイパスやキングス・ラングレイの辺りをいろりろね」
 その後彼は、私が描いたスケッチのことや、演劇に関心があるか、絵を見せてもらえるか、どっちが戦争に勝つと思うか、などと質問してきた。それらの質問に答えると、彼はこういった。
「オーケー、これで終わりです。では次の人」
(第19章 ビーチの仕事)

完全な英語を話すジャップが池田徳眞(のりざね)[wiki]。訳注[56]に書いてあった;

56 クラークを面接した人物
参謀本部駿河台技術研究所放送部主任で日の丸アワー放送を担当した池田徳眞[のりざね](徳川慶喜の孫)と外務省ラジオ室の牧秀司。池田は外務省ラジオ室で海外放送傍受等を担当していたが、ゼロアワー放送の責任者に抜擢された。池田は東大文学部を卒業後、1932年に渡英し、オックスフォード大学に留学、英国で4年4ヶ月、豪州で一年半暮らした。放送開始前に、候補の捕虜53名のうち、40名が大森収容所に到着しており、池田は3週間前に10回大森収容所を訪問して、捕虜管理本部棟応接室で捕虜を面接、雑談しながら放送に使えるかどうか判断した。使えそうな捕虜には、その捕虜に応じたテーマで、文章を書く課題を与えた。最終的には恒石少佐と相談の上、最初の14名が選ばれた。

この池田徳眞は旧鳥取藩主池田氏第17代当主であり、18代目で鳥取(伯耆)池田家を絶家とする、つまり末代(鳥取池田家の絶家;marquiseの決断、あるいは、絶倫殿様の曾孫の絶家)の池田百合子の父親である。

6.苛酷労働をする日本人女性

捕虜たちが使役させられた仕事は日本人もやっていたし、女性もやっていた。セメント袋の荷運びという過酷な作業を日本女性もやっているのを見て英兵捕虜が驚く場面の描写があった。

7.市街を移動する捕虜

作業所へは捕虜収容所から市街を通ってトラックで移動。途中、市街の日本人から罵られることは(少)なかったとある。空襲の後も、敵を憎み、報復しようとする日本人もいなかったと書いている。クラーク本人は石でもぶつけられるのではと怯え、覚悟したが、実際はなかったと書いている。

8.8月15日の心境

「天皇がさっき、ラジオで戦争をやめるって言ったんだよ」
彼は戻っていき、我々はみんな腰を下ろした。
笑うことも、泣くことも、小躍りしてよろこぶこともなかった。 (第36章 冒険終わる)

9.米軍の東京初進駐は8/29

米占領軍の東京への進駐は、9月2日に横浜港から上陸した第1騎兵師団らしい(愚記事;1945年9月2日横浜(⇒東京)に進駐する米軍を米英旗で迎えるがきんちょたち)。8/30には米軍は横浜に進駐しているが、その軍は東京へ進駐したかわからない。一方、『英国人捕虜が見た大東亜戦争下の日本人』では8/29に上陸舟艇で大森捕虜収容所に米軍が捕虜を救出しに来たとある。 (第36章 冒険終わる)

10. 英兵捕虜の復讐

註より

114 渡邊軍曹の異動とその後任
実際にバードこと渡邊睦裕軍曹が直江津収容所に異動したのは、1945年1月だった。畑で開かれたお別れパーティーでは、捕虜士官たちが餞別として渡邊軍曹にライスケーキを贈った。これには赤痢菌患者の排泄物が微量混入されていたが、渡邊軍曹には何の異常もなく、捕虜たちを落胆させた(終戦近い時期に渡邊軍曹が異動した満島収容所でも捕虜軍医らが同じことを試み、この時には渡邊軍曹を発病させることに成功している)。

 

解放されるまで

②. おいらが見つけて、本書に書いてない註を書く。

▼1.

『英国人捕虜が見た大東亜戦争下の日本人』に書かれる大森捕虜収容所で日本軍に直接殺された人の話はない。一方、作業場で事故死した事件が書かれている。

 数日後の、じめじめしたうっとうしい日。午後、我が班は、貨車から旋盤を降ろす作業をしていた。破壊工作に勤しんだ後、次の貨車を引っ張ってくる機関車を待っていた。一日4回、機関車は貨車を運んできては、空になった貨車を引っ張っていった。
 機関車が入ってくる時は、作業員は貨車から外へ出ることになっていた。機関車が貨車が貨車に追突することがあり、積み荷に潰される危険があるからだ。
 次の機関車がこっちのにくる音がする。突然、激しい衝突音がした。一瞬、我々は顔を見合わせたが、バジーはすぐに走り出し、他の連中もそれに続いた。カミバラのほうだ。貨車は脱線し、荷物を積んでいたトラックも横転して、ひどい有様だ。
 地面には鉄の棒が散乱し、楽団員のロイが倒れていた。運命のいたずらだった。本当は今日、ロイはここで作業をするはずではなかったのだ。
 ロイの班が荷おろししている作業現場での衝突事故だった。全員、咄嗟に飛びのいたのだが、ロイだけは反対側に逃げてしまい、鉄の棒に、そして運命に捉えられてしまったのだ。
 ウェグスが応急処置を施したが、だめだった。ロイは死んだ [106]。
 翌日、芝浦班はロイの告別式に出席するため、仕事は休みとなった。我々は集合場に整列、英国国旗がかけられた棺がその中央に運ばれてきた。従軍神父が葬送の辞を読み、収容所の所長が短い言葉を述べ、花輪を棺に捧げた。ラッパ手が軍葬ラッパを奏で、担ぎ手の親友が火葬場まで付き添い、将来英国の墓地に埋葬するため、遺骨を引き取った。
 全員、大変なショックを受けていた。ロイはみんなからとても好かれていたからだ。
 ジャップに対する憎悪は、その後しばらく、かなり激しいものとなった。決して起きてはならぬ事故であった。ジャップが注意を怠らなければ、起きるはずがない事故であった。 (第31章 悲劇と喜劇)

[106]  芝浦駅での死亡事故
ロイ・コンスタンブル(ノースランカシャー連隊第2大隊所属の兵卒 [private])の死亡事故は1945年5月20日に起きた。享年27。楽団の一員で、200ページの大森バンドの写真の中に、トランペットを吹くコンスタンブルの姿がある。事故10日前のショーでは、バシーらとともに「シバウラ・セレナーデ」に出演している。

「将来英国の墓地に埋葬するため」とあるが、現在は、横浜の墓地に眠っている(本記事最上部の写真)。ネットで確かめることができる;



https://www.cwgc.org/search-results?term=constable%2Broy&name=constable%2Broy&fullname=constable%2Broy

 
https://www.cwgc.org/find-war-dead/casualty/2207796/constable,-roy/


英連邦戦死者墓地(横浜市保土ヶ谷区)。愚記事より。


愚記事より

▼2.米俵が the white man's burden になった時

 我々は米の荷おろし作業に取りかかった。これは小屋のすぐ近くの長いプラットフォームで行われた。そこで我々を待ち受けているのは、無蓋貨車の長い列だ。英国の貨車と似ている。
 貨車には米俵が大量に積まれていた。一つが60キロほどの重さで、それをプラットフォームに降ろす。みんな英国の港湾労働者が使うような鉄のフックを持っており、それを手にして作業に取りかかった。最初私は、他の連中が作業するのを見ていた。
(中略)
 しかし実際にやってみると、なんてことだ。転がってきた俵が側頭部にぶち当たり、ものすごい衝撃を受けた。首が折れ、耳がもげるかと思った。必死にフックで俵を押さえようとしたが、後ろに滑り落ちたようだ。膝が震え、俵を担ごうとしても後ろに落としてしまう。(第20章 クリスマスの願い)


手鉤(てかぎ)[右手に握っている]で米俵を運ぶ作業者(物流博物館の展示より)
手鉤(google画像

鉄のフックを持っており、それを手にして作業に取りかかった。は上記の手鉤のことだろう。

本書ではデリク・クラークは米俵を担ぐことに苦労したことは書かれているが、無事運べるようになった、運んだということは書かれていない。結局、米俵を担げなかったらしい。

The white man's burdenも大したことがなかった(!!! ???)とわかるのであった。


[1]

The White Man's Burden

Take up the White man's burden --
Send forth the best ye breed --
Go bind your sons to exile
To serve your captives' need;
To wait in heavy harness
On fluttered folk and wild --
Your new-caught, sullen peoples,
Half devil and half child.

Take up the White Man's burden --
In patience to abide,
To veil the threat of terror
And check the show of pride;
By open speech and simple,
An hundred times mad plain.
To seek another's profit,
And work another's gain.

Take up the White Man's burden --
The savage wars of peace --
Fill full the mouth of Famine
And bid the sickness cease;
And when your goal is nearest
The end for others sought,
Watch Sloth and heathen Folly
Bring all your hope to nought.

Take up the White Man's burden --
No tawdry rule of kings,
But toil of serf and sweeper --
The tale of common things.
The ports ye shall not enter,
The roads ye shall not tread,
Go make them with your living,
And mark them with your dead!

Take up the White man's burden --
And reap his old reward:
The blame of those ye better,
The hate of those ye guard --
The cry of hosts ye humour
(Ah, slowly!) toward the light: --
"Why brought ye us from bondage,
"Our loved Egyptian night?"

Take up the White Man's burden --
Ye dare not stoop to less --
Nor call too loud on freedom
To cloak your weariness;
By all ye cry or whisper,
By all ye leave or do,
The silent, sullen peoples
Shall weigh your Gods and you.

Take up the White Man's burden --
Have done with childish days --
The lightly proffered laurel,
The easy, ungrudged praise.
Comes now, to search your manhood
Through all the thankless years,
Cold-edged with dear-bought wisdom,
The judgment of your peers!

Rudyard Kipling


白人の責務

白人の責務を果たせ ―
諸氏の育てた俊勇を送れ ―
諸氏の息子を海外に送り
困窮せる虜囚のために働かせ
一致団結して役務につかせよ
動揺する蛮族のために ―
被征服民、うっとうしい連中
半ば悪魔、半ば子供のために。

白人の責務を果たせ ―
忍耐強く我慢して
恐怖の脅しを隠し
誇りを見せびらかすな。
百倍も分かりやすく
率直かつ明快に語れ。
連中の利を追求し
連中の益を齎すため。

白人の責務を果たせ ―
平和ため残忍な戦闘に参加し ―
飢饉の口を一杯に満たし
疫病を追放せよ。
諸君の連中への目的が
達成目前に注意すべきは
諸君の希望を無にする
怠惰や邪教の愚行だ。

白人の責務を果たせ ―
豪奢な王者の支配ではなく―
奴隷や掃除人の苦役を ―
普通の連中の話を。
諸君に禁じられた港を
諸君に禁じられた道を
諸君は生きてこれらを使い
諸君は死して標を残すのだ。

白人の責務を果たせ ―
そして白人の報酬を得よ。
連中の非難を和らげ
連中の憎悪を見守れ ―
大勢の嘆きに同調し
(徐々に!)光明に向ける ―
「わしらが好きなエジプトの夜
なんで解放するのかね?」

白人の責務を果たせ ―
諸君は卑下することはない ―
といって疲れを隠そうとして
声高に自由を叫ぶことはない。
諸君が叫ぼうとも囁こうとも
投げ出そうとも努力しようとも
不機嫌で無口な連中は
諸君の神と諸君を信じ始める。

白人の責務を果たせ ―
子供の時代に別れを告げ ―
さっそく差し出される月桂冠
躊躇なき賞賛の声。
さあさあ、男らしさを
尊い知恵で研ぎ澄ましても
報われざる歳月を終え
同胞の評価を求めよ!

(http://kubrick.blog.jp/archives/52074616.html様よりコピペ [訳者不明])

 

 

 

 


新しい街でもぶどう記録;第268週

2019年12月28日 18時17分20秒 | 草花野菜

▲ 今週の看猫

■ 新しい街でもぶどう記録;第268週

■ 今週の武相境斜面

■ 今週のメタセコイア

■ 今週の草木花実

■ 今週の連打

今週ある日、F5を連打されたらしい。

■ 今週知ったこと;池田徳眞(のりざね)に会った英国人捕虜の記録

愚記事で「鳥取池田家の絶家;marquiseの決断、あるいは、絶倫殿様の曾孫の絶家」というのがある。

鳥取池田家の当主池田百合子さんが絶家を宣言したというニュースについて。その池田百合子さんの父親、つまり先代は池田徳眞(のりざね)=旧鳥取藩主池田氏第15代当主についての描写に出会った。

その池田徳眞(のりざね)に会った英国人捕虜の記録を読んだ。

その英国人捕虜はシンガポール戦で捕虜になり、出征前の職業に画家と書いたので、選ばれ東京に連行された。1943年11月。そして、大森収容所に到着;

 一日がものすごく長く感じられる。まだ我々は何もさせられておらず、東京に連れてこられた理由も聞いていない。 
 だがある日、状況に変化があった。
我々は一人ずつ事務所に呼び出された。二人のジャップが我々を聴取するという。
 やっと私の番がきた。事務所内に案内され、座るようにと言われた。質問者は二人の若いジャップだった[56]。洋服姿のきちんとした身なりで、そのうちの一人は完全な英語を話した。私の書類関係は彼の前にある。彼はいろいろと質問をした。
 まず次のように話した。
「えーと、あなたはウォトフォードに住んでいましたね。ウォトフォードはよく知っていますよ。バイパスやキングス・ラングレイの辺りをいろりろね」
 その後彼は、私が描いたスケッチのことや、演劇に関心があるか、絵を見せてもらえるか、どっちが戦争に勝つと思うか、などと質問してきた。それらの質問に答えると、彼はこういった。
「オーケー、これで終わりです。では次の人」
デリク・クラーク、和中光次訳、 『英国人捕虜が見た大東亜戦争下の日本人』(Amazon

完全な英語を話すジャップが池田徳眞(のりざね)[wiki]。訳注[56]に書いてあった;

56 クラークを面接した人物
参謀本部駿河台技術研究所放送部主任で日の丸アワー放送を担当した池田徳眞[のりざね](徳川慶喜の孫)と外務省ラジオ室の牧秀司。池田は外務省ラジオ室で海外放送傍受等を担当していたが、ゼロアワー放送の責任者に抜擢された。池田は東大文学部を卒業後、1932年に渡英し、オックスフォード大学に留学、英国で4年4ヶ月、豪州で一年半暮らした。放送開始前に、候補の捕虜53名のうち、40名が大森収容所に到着しており、池田は3週間前に10回大森収容所を訪問して、捕虜管理本部棟応接室で捕虜を面接、雑談しながら放送に使えるかどうか判断した。使えそうな捕虜には、その捕虜に応じたテーマで、文章を書く課題を与えた。最終的には恒石少佐と相談の上、最初の14名が選ばれた。

面接でプロパガンダ要員に選ばれなかったデリク・クラークは都内で捕虜労働に従事することとなる。(『英国人捕虜が見た大東亜戦争下の日本人』の内容は後日ブログ記事となる予定。)

■ 今週の破笑


google [日中韓首脳会談  2019]

何か嬉しいことがあったのか?

合計 8,606 2,522
日付 閲覧数(PV) 訪問者数(IP)
12月21日 1,074 380
12月22日 1,331 431
12月23日 993 323
12月24日 1,616 328
12月25日 1,147 331
12月26日 1,179 331
12月27日 1,266 398

 

 


この「子」の100のお祝いに;D論の被引用数が100を超えた、あるいは、死んだ子の年を数える。

2019年12月26日 18時06分00秒 | ぐち

2011年の記事に「この「子」の50のお祝いに、あるいは、死んだ子の年を数える。」というのがある。

内容は論文の引用数についてのこと。研究者は論文を書く。その論文は他の研究者によって引用される。たくさん引用される論文は学術に貢献していることを示す。なので、研究者はたくさんの論文を書くことを目指し、その論文がたくさん引用されることを望む。その両方が研究者の業績ということになる。

研究者は博士論文(D論)を書いて学位を取得し、ポスドクをやり、アカデミックの常勤職(パーマネントのポスト)の獲得を目指す。おいらは、アカデミックの常勤職を得ることができず、ポスドク任期切れとなり、無職を経て[1]、産業界で、10年の非正規雇用職で生きて来た。のち、「正社員」となり現在に至る。

[1] 2001年 9.11、米国同時多発テロ事件、十年ひと昔。あの時おいらは失業者で、death valleyのとば口だった。

さて、おいらをアカデミックの常勤職を得ることができない運命にしたD論の一部の論文とポスドク時代の論文2報が、20年を経て、今年、引用数100を超えた。下記表で「前世」というのがアカデミック時代、「現世」が産業界での論文である。

「前世」と「現世」は分野が全然異なる。文学研究で例えれば、英文学と仏文学くらい違う。したがって、学部 or 修士を出て今の「現世」の分野の産業界に入っていれば、会社でよほど出世できたであろう。「前世」は全くもって無駄であった。今でも奨学金を年20万円返している。本当に人生を棒に振ったと思っている。

20年前のD論は今でもコンスタントに毎年5報程度に引用される。それらの論文をみて、20年前においらが携わっていた分野の現在の動向がわかる。 おいらの論文を引用している最新の論文を見ることだけが楽しみだ。


東京散歩;目黒駅 ⇒科博自然教育園 ⇒池田山公園 ⇒物流博物館 ⇒品川駅

2019年12月22日 09時50分59秒 | 東京・横浜

東京散歩;目黒駅から品川駅まで。動機;今月初めに目黒駅近くの国立科学博物館自然教育園に行った(記事:東京散歩;目黒駅 ⇒ 科学博物館自然教育園⇒ 港区立郷土歴館(旧公衆衛生院))。紅葉を期待して行ったが時期が早かった。なので、再び訪れ、強く色づいた紅葉を見ようとした。散歩の経路は品川へ抜けることにした。台地を横断する。この台地は淀橋台であり表面は下末吉面、つまりは下末吉海進で形成された古い台地。なので、地表面は侵食が進み、結構ズタボロ。横浜の同時代の下末吉台地ほどでもないが。散歩経路の南側は目黒川でできた谷に沖積層が堆積した沖積平野。東側は海食で台地が削られ、平地となった域(品川駅・JR線より海側)。散歩経路は侵食でできた谷を下ったり、上ったりする。途中、地形を活かした池田山公園がある。


1;目黒駅、2;上大崎交差点、3;国立科学博物館自然教育園門、4;同園、5;芝白金団地、6;池田山公園、7;雉子神社(東五反田1丁目)、8;東五反田3丁目、9;物流博物館、10;品川駅


google map

■ JR目黒駅 ⇒ 国立自然科学博物館付属自然教育園


前回の散歩でみたnew world cleaning serviceのとなりは、銭湯であると気づく。高松湯⇒ web site(まさか目黒にこんな渋い銭湯があるとは!)


国立科学博物館自然教育園 門

■ 国立科学博物館自然教育園の中

以上、自然教育園

▼ 3b; 白金交差点 ⇒ 池田山公園門

■ 白金交差点 ⇒ 


池田山公園門

▼ 池田山公園の中

公園の高いほうの域は工事中だった。

■ 池田山公園出る ⇒ 国道1号線南下 ⇒ 東五反田・北品川境を北上 ⇒ 物流博物館


池田山公園の向かいは、第三日野小学校。台地が開析された低地にある。


国道1号線。五反田駅に向かって下る坂。


国道1号から脇をみる。


再び、国道1号線の五反田駅の方向をみる。


東五反田1丁目。台地から平地に降りる。 支那そば はせべ ⇒ google


平地から再び台地へ。北へ向かって坂を上る。

■ 物流博物館内部

現代物流の要所である空港、港湾、鉄道、トラックの各ターミナルのジオラマ模型のほか、物流に関する映像、クイズ、ゲームなどを通して、暮らしと産業に欠かせない物流のしくみをわかりやすく紹介しています。また、主に江戸時代から昭和までの物流のあゆみを展示しています。天びん棒や米俵などを担ぐ、ふろしきでエコバッグ作り、物流会社の制服着用、段ボール工作など各種体験もできます。(物流博物館 web site より)


体験コーナー。薪を担げます。

戦前の運輸は牛馬頼みだったのだ。

■ 物流博物館 ⇒ 品川駅


高輪から品川へ下る。この坂が「柘榴坂」(wiki)と今知った。


品川駅前、第一京浜道路。平地に降りる。


品川駅港南口

■ まとめ


google 3D ①目黒駅;②銭湯・高松屋;④自然植物園;⑥池田山公園;⑧東五反田;⑨物流博物館;⑩品川駅

散歩した淀橋台の西側に目黒川が流れている。台地を刻み、海進時期の堆積作用で、平地となっている。目黒川の西は目黒台。これは武蔵野面という新しい時代にできた台地。侵食作用の経歴が浅く、平坦地が卓越している。ズタボロの淀橋台=下末吉面と対照的。


新しい街でもぶどう記録;第267週

2019年12月21日 18時01分37秒 | 草花野菜

■ 今週の看猫

▼ 今週のよその猫


都内港区

■ 今週の武相境斜面

■ 今週の月

月を撮ったら、「月の海」(黒い部分:もちろん水がある"海"ではなく、マグマが固化した岩石が分布する域 )が写っていた。普通のデジカメなので、驚いている。

■ 今週のメタセコイア

■ 今週の草木花実

■ 今週の「江戸しぐさ」

宿では日暮れにもなると、「留女(とめおんな)」と呼ばれた女たちの旅籠への客引きがさかんで、画中のような有様も決して大げさではなかったようだgoogle



「男につかみかかる女」、物流博物館展示(都内港区)[web site]

■ 今週のLDP

カジノを含む統合型リゾート(IR)への参入を目指していた中国企業関係者による外為法違反事件で、東京地検特捜部の捜査が拡大している。google

LDP(=Liberal Democratic Party; 自民党)の秋元議員は特捜に徹底抗戦するようだ。全くの印象だが、こんなのは氷山の一角で中国の工作資金はLDP、あるいは野党に蔓延していると邪推している。

合計 6,624 2,466
日付 閲覧数(PV) 訪問者数(IP)
12月14日 1,085 435
12月15日 1,068 435
12月16日 889 351
12月17日 778 265
12月18日 882 288
12月19日 906 336
12月20日 1,016 356

 

 


東京散歩;地形図に残る仕事、仙台堀(牛込橋・飯田橋⇒和泉橋・秋葉原)、あるいは、芝居に残る仕事

2019年12月15日 13時15分46秒 | 東京・横浜


地形図1.左:等々力渓谷(世田谷区)、右:神田川(千代田区)

地図に残る仕事」ではなく、「地形図に残る仕事」。「地図に残る仕事」は大成建設のコマーシャルの惹句(web site)。でも、「地図」に残る仕事は案外簡単だ。一戸の家でも、密集地でないところに建てれば、地図に残る。難しいのは「地形図」に残る仕事だ。「地形図」に残る仕事;仙台堀。

東京の唯一の渓谷とされる等々力渓谷(関連記事:東京散歩;等々力渓谷)が上の地形図1の左の赤矢印。武蔵野台地に深く刻まれているのがわかる。この渓谷は自然に形成されたもの。一方、地形図1の右の赤矢印はお茶の水の神田川。台地(本郷台地)に谷ができていることがわかる。これが仙台堀の一部の人工渓谷。「地形図」に残る仕事;仙台堀。

仙台堀は、飯田橋駅近くの牛込橋から秋葉原駅近くの和泉橋の間の神田川のこと。1660年(万治3年)に仙台伊達家が幕府から命じられた(1660年2月1日)。当時は「小石川堀浚(ほりさらえ)」と呼称したらしい。その時の仙台藩主は3代目の伊達綱宗。21歳。3年前に19歳で藩主となった。工事は重臣の片倉小十郎、茂庭周防らが普請総奉行として実務を実施。幕府による小石川堀浚命令が発せられた時、綱宗は仙台にいた。綱宗は1660年3月28日、江戸へ到着。5月30日には(当時の)吉祥寺小屋に出て鍬初めの式を行う。この後7月18日までほぼ連日、工事現場で督励した。そして、7月18日工事現場から屋敷に帰ると幕府からの逼塞命令。藩主の座を追われる [1]。これが寛文事件、そして芝居の「伽蘿先代萩(めいぼくせんだいはぎ)」[2](伊達騒動顛末)として後世に残る事件の幕開けとなる。

[1] 綱宗隠居事件 wikipedia
[2] 伽蘿先代萩(めいぼくせんだいはぎ)wikipedia

その仙台堀(牛込橋→和泉橋)を散歩した。

▼ 「地形図」に残る仕事;仙台堀(牛込橋→和泉橋)


1:牛込橋、2:小石川橋、3:水道橋、4:お茶の水、5:湯島聖堂、6:万世橋、7:和泉橋

■ 1.牛込橋 ⇒ 2.小石川橋


牛込橋付近から西側、外堀方面を望む


牛込橋付近から北側、神楽坂方面を望む


飯田橋から水道橋へ


水道橋駅付近

■ 2.小石川橋 ⇒ 3.水道橋


水道橋交差点。東京都立工芸高校。


北から都内中心へ向かう車群。

■ 3.水道橋 ⇒ 4.御茶ノ水


いよいよ台地を登ります。といっても坂は緩い。


対岸の崖は地表から水面まで20メートルほどある。これだけ掘り込んだろうか?おそらくある程度自然の谷ができていたのだろう(地形図1右の青矢印の部分のように)。


ここら辺が最高地。指圧屋さんがあった。ここからは下り坂。御茶ノ水へ向かう。


お茶の水橋


お茶の水駅


お茶の水は本郷台地にある。まだ高台。秋葉原に向かい下る。


本郷台地を裂いているので地下鉄がこの谷では表に出る。


Google 3D

■ 湯島聖堂

■ お茶の水、5.湯島聖堂 ⇒ 昌平橋、6.万世橋、秋葉原


昌平橋。孔子さまも渡ったことがない倭国の橋(昌平とは孔子さまの生地)。


万世橋


秋葉原


仙台堀はここまで


和泉橋

▲ 以上、散歩おわり。

 

 


新しい街でもぶどう記録;第266週

2019年12月14日 18時35分30秒 | 草花野菜

■ 今週の看猫

■ 今週の武相境斜面

■ 今週のメタセコイア

■ 今週の草木花実

■ 今週の屋台


東京都千代田区

■ 今週の「変」


都内千代田区

■ 今週の孔子さま


湯島聖堂。唐時代の衣装を現代風にした服を着た華人さまを見た。

■ 今週の壁画


東京・神奈川都県境

■ 今週の掘り出し物

西川長夫の『戦争の世紀を越えて―グローバル化時代の国家・歴史・民族』がAmazon中古で1500円で出ていたので、あわてて買う。何かの間違いかもしれないと思いあわてて落札する。無事来た。きれいだった。上記画像でごらんの通り9000円以上、今日現在4万-8万の値がついている。以前から高かった。なので、図書館で借りて読んだことがあった。手元に欲しかった。

西川長夫は<植民地支配>のための日帝<侵略>職業兵士の息子として朝鮮に生まれる。1945年夏のソ連侵攻時は満州に軍人家族として在住。ソ連侵攻時、日帝陸軍家族は「お召列車」を仕立てて、一般日本人植民者を置き去りにして、逃亡したと伝えられている。しかし、その当事者であった記録を見たことはない。西川長夫はソ連侵攻と同時に朝鮮に避難。終戦を迎え抑留。朝鮮まで「お召列車」で逃亡ことは藤原正彦ら日帝民間人とは違う。なお、<植民地支配>や<侵略>というエグい言葉はおいらの本意ではないが、日本政府の談話に従った言葉遣いである。

そんな西川長夫は<植民地支配>や帝国主義による<侵略>は、極悪の「軍国主義者」や「ファシスト」が善良な民衆を騙すことで生じた出来事であるという「神話」を信じず、近代においては人々が国民化することにより生じたと考える(国民国家論)。本書は2001年の米国9.11テロ後の対テロ戦争について論じている。さらに、「人々の国民化」こそが戦争の元凶であることに無自覚な民主主義者、左翼を批判する。理論的には最もラディカルな国家批判ということになります。スローガンは「非国民化」です。でも実践的には全然怖くありません。なにせ国家のイデオロギー装置でしかない大学で飯を食い、菊の紋章の入ったパスポートを持って世界を闊歩していたからです。

■ 今週の「なんだ薩長、おまえもか」

自衛隊は米軍占領時代に朝鮮戦争勃発で動転したマッカーサーの指示でできた警察予備隊が始まりです。発足時は占領米軍基地内で組織され、米軍装備を与えられ訓練を開始しました。今でも、自衛隊を米衛隊、あるいは、属軍とよぶ人がいます。

さて、本屋で下記本を立ち読みしたら書いてあった;


Amazon

明治維新の戊辰戦争で、薩長らクーデター勢力、自称新政府軍の軍服は統一したものを揃えることができず、外国から購入した。購入した軍服には南北戦争で米軍が使った中古品であったとのこと。薩長は維新から「アメリカの影」です。

■ 今週のLDP、しかも 薩摩



https://twitter.com/shukan_shincho/status/1204673444350169089

■ 今週知ったこと;やつらの自称


やつらはLDPと称しているわけではないのだ。 Lib Dems だって。

合計 9,306 2,758
日付 閲覧数(PV) 訪問者数(IP)
12月7日 1,730 407
12月8日 1,809 490
12月9日 1,976 405
12月10日 1,068 372
12月11日 879 346
12月12日 930 399
12月13日 914 339

 

 

 


東京散歩;等々力渓谷 ⇒ 九品仏浄真寺 ⇒ 自由が丘、+ 豪徳寺

2019年12月08日 08時35分24秒 | 東京・横浜


google 3D

 - 東京散歩;等々力(とどろき)渓谷 ⇒ 九品仏(くほんぶつ)浄真寺 ⇒ 自由が丘、+豪徳寺 -

東京は多摩川北東岸、世田谷区等々力の渓谷から九品仏・浄真寺、自由が丘まで散歩。自由が丘からはバスで三軒茶屋へ。三軒

茶屋からは世田谷線で豪徳寺へ。

等々力渓谷は2014年(記事:東京散歩2;渡れない橋から再出発、多摩川を渡る)以来、5年ぶり。


1;等々力駅、2;等々力渓谷入口、3;出口、4;尾山台駅、5;九品仏浄真寺、6;自由が駅

■ 1.東急等々力駅 ⇒ 2.等々力渓谷入口

■ 等々力渓谷入口ー出口


渓谷から上(段丘面)にあがる。庭園があった。

▼渓谷の形成

等々力渓谷は都内唯一の渓谷らしい。渓谷というのは一般的に河川争奪[1]という作用で形成される。この等々力渓谷の場合、まず九品仏川という川があった。等々力渓谷形成前だ。上図の矢沢川の上流(図のA地点より上流、北側)が九品仏川へ流れていた。現在の等々力渓谷は平坦地で川無し。そこへ、あるA地点から当時の九品仏川が南側(地図上で真下)へ流路を変えた[2]。その川の下流は段丘崖なので「滝」ができた(はず)。その滝は高低落差がある。これが(川の底を削る)侵食力となる。滝はどんどん段丘を削って北(地図の上)へ後退していった。その侵食でできたのが等々力渓谷。地点Aまで滝が後退したとき、高低差がなくなり、侵食力がなくなり、今に至る。([1] wiki, [2]wiki

■ 3.等々力渓谷 ⇒ 4.尾山台駅

■ ⇒ 九品仏浄真寺

▼ 九品仏浄真寺

■ 5.九品仏浄真寺 ⇒ 6.自由が丘


九品仏川緑道 wiki

自由が丘の繁華街は道が狭い

電車とセットの東急バスも狭い道を行く


東急自由が丘駅


東急バス;渋谷行きバス停留所。この渋谷行きバスの停留所の場所がわからなかった。駅員さんに聞いた。駅から少し歩く。
自由が丘駅は駅前にバスの乗降地帯をつくることができなかったらしく、バス停が駅周辺に点在している。

■ バスに乗って三軒茶屋へ

今年6月には自由が丘も通って豪徳寺まで歩いた(記事;東京散歩;武蔵小杉駅 ⇒ 豪徳寺駅)。今日は、バスと電車で豪徳寺へ向かう。

 

東急世田谷線に乗る。宮の坂で降りて、豪徳寺へ。

■ 豪徳寺を出て小田急豪徳寺駅へ

招き猫電車は3本に1本ほどとの観測結果。時刻表あり⇒幸福の招き猫電車の時刻表


小田急豪徳寺駅

■ まとめ

<世田谷区>
等々力
尾山台
奥沢
<目黒区>
自由が丘
↓ バス・電車
<世田谷区>
豪徳寺

 

 


新しい街でもぶどう記録;第265週

2019年12月07日 18時04分23秒 | 草花野菜

■ 今週の看猫

■ 今週のよその猫


豪徳寺

■ 今週の武相境斜面

■ 今週のメタセコイア

■ 今週の紅葉

▼ 等々力渓谷

▼ 九品仏、浄真寺

▼ 豪徳寺

■ 今週の忘備; 吉田茂が中曽根康弘に「非国民!」と云った"伝説"の実情

昭和27年、1952年に国会で首相の吉田茂に、野党議員=改進党の中曽根康弘が天皇の退位について質問した。これに対し、吉田茂が「非国民」といったと何かに書いたあったのを読みかじった。吉田茂といえば「バカヤロー!」の人なので、天皇退位を口にした質問者に「非国民!」と"暴言"を吐いたのかと思っていた。違った。その実情がネットにあった。

↓ ソース

第013回国会 予算委員会 第5号
昭和二十七年一月三十一日(木曜日)
    午前十時四十六分開議

該当部のコピペ (強調:ikagenki);

○中曽根委員 
 最後に御質問を申し上げますが、それは天皇御退位の問題であります。これは重大な問題でありますから、吉田総理大臣から御懇切なる御答弁を承りたいと思います。現天皇が一貫して平和論者であつて、戦争の形式的責任がないことは、世界及び国民のひとしく認めるところであります。しかし、現在旧憲法第三条、神聖不可侵の御身分より人間に解放せられた天皇が、地上のわれわれと同じ一員として、過去の戦争について人間的苦悩を感ぜられておられることもあり得るのであります。もしこの天皇の人間的苦悩が、外からの束縛によつてほぐされない状態であるならば、この束縛を解くことが、古くして新しい天皇制にふさわしいことといわなければなりません。外からの束縛と考えられるものは何でありましようか。その一は、終戦後の日本を安定させ、国際義務を履行するために、位におられる連合国に対する道義的責任感であります。その二は、戦争及び終戦後の悲劇と混乱を最小限に食いとめて、国家の秩序回復と民生安定のために在位される国民に対する責任であります。これら二つの問題は、しかしすでに解決され、またはまさに解決されようとしております。もし天皇が御みずからの御意思で御退位あそばされるなら、その機会は最近においては、第一に新憲法制定のとき、第二に平和条約批准のとき、第三には最後の機会として、平和条約発効の日が最も適当であると思われるのであります。しかしこの問題はあくまで天皇御自身の自由な御意思によつて決定さるべく、何らわれわれから論議すべき筋合いのものではないと思うのでありますが、国際情勢、国内情勢より判断して、天皇がもしその御意思ありとすれば、この御苦悩をお取払い申し上げることも必要かと存ずるのであります。皇太子も成年に達せられ、戦死者の遺家族たちにもあたたかい国家的感謝をささげ得ることになつた今日、天皇がみずから御退位あそばされることは、遺家族その他の戦争犠牲者たちに多大の感銘を与え、天皇制の道徳的基礎を確立し、天皇制を若返らせるとともに、確固不抜のものに護持するゆえんのものであると説く者もありますが、政府の見解はこの点についてはいかなるものでございましようか、御親切な御答弁をお願い申し上げます。
○吉田国務大臣 この問題は軽々に論ずべき問題でないことは、あなたも御同感であろうと存じます。私はここに一言申しますが、長くは申しませんが、今日はりつぱな日本に再建すべきときであり、再建すべき門出にあるのであります。日本民族の愛国心の象徴であり、日本国民が心から敬愛しておる陛下が御退位というようなことがあれば、これは国の安定を害することであります。これを希望するがごとき者は、私は非国民と思うのであります。私はあくまでも陛下がその御位においでになつて、そして新日本建設に御努力あり、また新日本建設に日本国民を導いて行かれるということの御決心あらんことを希望いたします。(拍手)

 

■ 今週の口喧嘩


https://twitter.com/fangyori/status/1202974782074966018

米議員が中国の人権状況を問題視していることを、華氏は「本当に無知で恥知らず、不誠実だ」と主張。米国史を持ち出し、アメリカ先住民を「ほしいままに殺戮(さつりく)し、数百万平方キロの土地を占拠し、同化政策を強制した」と非難した [google](中国猛反発「バカな法案」「米は先住民殺戮」 ウイグル人権法案

 

華春宝は(米国黒歴史として)インディアン虐殺に言及。ところで、米国黒歴史において、収容所といえば、日系人収容所。
(現在、中共のウイグル人収容所 Xinjiang 新疆収容所が話題)

https://twitter.com/CorbeauxInvest/status/1202144095512059905 に追コラージュ

合計 8,299 2,929
日付 閲覧数(PV) 訪問者数(IP)
11月30日 1,410 438
12月1日 1,398 517
12月2日 1,255 418
12月3日 1,114 348
12月4日 949 376
12月5日 1,134 429
12月6日 1,039 403

東京散歩;目黒駅 ⇒ 科学博物館自然教育園⇒ 港区立郷土歴館(旧公衆衛生院)

2019年12月04日 18時47分43秒 | 東京・横浜


1:目黒駅、2:上大崎交差点、3;国立科学博物館付属自然教育園、4:同園内の池、
5:郷土歴史館等複合施設「ゆかしの杜」(旧公衆衛生院)


google 3D

1.目黒駅 ⇒ 庭園美術館門


店の名前がすべて横文字;「ニューワールドクリーニング」web site

New World Cleaning Serviceは、 Virginia や D.C. にもある.


上大橋交差点


庭園美術館門

■ 国立科学博物館付属自然教育園門

320円で入れる。

■ 自然教育園

■ 4.植物園の奥の池

■ 自然教育園を出て、目黒通りを東へ

■ 5.港区立郷土歴史館


google 3D


港区立郷土歴史館(web site) 旧公衆衛生院(wiki) 300円(常設展)で入れる。

▼ 特別展示

港区立郷土歴史館特別展 日墺修好150周年記念「日本・オーストリア国交のはじまり -写真家が見た明治初期日本の姿-」
("チラシ" pdf)

日本とオーストリアが明治2(1869)年に国交を結んだ際に来日したオーストリア人写真家は、明治初期の日本の風景や人々を撮影しました。彼らが撮影・収集したガラス原板ネガから作成した高精細画像写真を中心に、日墺修好の歩みと明治初期の港区域の姿を紹介します。web siteより)

国交を結ぶために来日したオーストリア=ハンガリー帝国の東アジア遠征隊に随行した写真家ブルガーとモーザーが、収集・撮影したガラス原板ネガから作成した高精細画像写真をズームアップして展示します。さらに、遠征隊帰国後も数年間日本に残った若き写真家モーザーについて紹介します。(web siteより)

建物を出る。

▼建物について (wikiより)

建築家内田祥三により設計され、1938年(昭和13年)に竣工した。  旧国立公衆衛生院の建築様式にはゴシック(「内田ゴシック」)の特徴が取り入れられ、城壁のような高層の作りである。白金台の高台に位置し、建物の高さと併せ、広範囲から視認することができた。  昭和57年、日本建築学会によって、典型的な近代建築として選定され、保存に努めるよう要請されている。  敷地・建築物は2007年6月に用途廃止となり閉鎖されているが、2009年3月に港区虎ノ門3丁目の旧・港区立鞆絵小学校敷地と交換され港区所有となってい港区は2018年に港区立郷土歴史館、在宅緩和ケア支援センター、子育て関連施設、区民協働スペース、防災関連施設、自転車等駐車場といった複合施設「ゆかしの杜」として整備した。その後港区指定文化財となる予定。

    旧所在地:東京都港区白金台4-6-1     建築年:1938年(昭和13年)     設計:内田祥三     施工:大倉土木

▼ 内田祥三 ⇒ wiki

内田 祥三(うちだ よしかず、1885年2月23日 - 1972年12月14日)は、日本の建築学者、建築家。元東京帝国大学総長。1957年日本学士院会員。1972年文化勲章受章。関東大震災(1923年)後の東京帝大構内の復旧を主導。正門から続く銀杏並木などキャンパスに明快な軸線を導入し、「内田ゴシック」といわれるデザインパターンの建物を数多く建設した。

愚ブログに現れたる内田作品;


小石川植物園。これは「ゴシック」でない。 (愚記事より)