いか@ 筑豊境 寓 『看猫録』

Across a Death Valley with my own Distilled Resentment

日本製 サン・ファン・バウティスタ号、メイフラワー号の代替として注目;様々なる米国建国神話

2020年12月30日 18時01分53秒 | 北米出張・事情

上の絵;1619年の「サン・ファン・バウティスタ号」[1]。北米のバージニア植民地にアフリカ(アンゴラ)からアフリカ人を北米に運んだとされる。

[1] 伊達政宗が徳川家康の了解を取り仙台伊達家の領地の牡鹿郡月浦でスペインの技術で1613年に建造され、支倉使節団を乗せ太平洋を渡った。(関連愚記事:大泉光一、『伊達政宗の密使』、あるいは、王と坊主の同床異夢の野望の果てに

【アメリア「建国」神話、メイフラワー号】

アメリカの「建国」[2] は1620年にメイフラワー号に乗ってやってきたピルグリムーファーザーズとする歴史が通説である。高校生向けの歴史参考書にも載っている(上画像)。

16世紀、イングランド女王エリザベス1世がイングランド国教会を確立したが、17世紀にかけて、教会の改革を主張する清教徒が勢力を持つようになり、特に国教会からの分離を求めるグループは分離派と呼ばれ、弾圧を受けていた。

この為、信仰の自由を求めた清教徒を含む102人がメイフラワー号に乗ってアメリカに渡った。メイフラワー号船上での「メイフラワー誓約」は社会契約説に基づくものとして知られる。1620年11月に北アメリカ大陸に到着したピルグリム・ファーザーズは、キリスト教徒にとって理想的な社会を建設することをめざした。wikipedia

[2] アメリカ建国は1776年のアメリカ独立と認識されているが、その「建国」を行ったキリスト教(カトリックではプロテスタント、もっと云ってピューリタン)白人がアメリカに来たアメリカ創設の起源をここでは「建国」といっている。

【1619プロジェクト】

一方、去年から新しい歴史が提案されている。すなわち、「奴隷制の結果と黒人アメリカ人の貢献を[米国の]全国的な物語の中心に置くことによって、国の歴史を再構成することを目的とする」ものだ。は、wikipediaの "1619Project" の機械翻訳。従来の通説の白人キリスト教徒中心史観とは真逆の史観だ。アフリカ人(オランダ人に連れてこられた)がアメリカに来たのが1619年。ピルグリムーファーザーズより1年早いこととなる。

 「1619プロジェクト」の歴史観の"斬新さ"は、1776年のアメリカ革命、あるいは、独立革命を植民地人が奴隷制を維持するために行ったことであるという歴史認識である。

 確かに、アメリカ独立/「建国」の父、ジョージ・ワシントンは奴隷主であった。さらには、インディアン撲滅にも促進していたとのこと(wiki)。


https://twitter.com/timand2037/status/1279912127252140032

当然、保守派からは反論が生じ、歴史認識論争となっている。2020年の大統領選挙もあり、一種の文化戦争となっている。このあたりの事情は、ネット上で、会田 弘継 の「あのニューヨーク・タイムズが突き進む歴史歪曲、記事改竄、批判封殺」という記事に書いてある。

【いきなり、サン・ファン・バウティスタ号】

その米国で論議を呼んでいるが、日本にはおよそ関係がないと思われる1619プロジェクトにいきなり、サン・ファン・バウティスタ号が出てくる。


サン・ファン・バウティスタ号の復元船(愚記事より)。 宮城県石巻市 サン・ファン館(web site

1619年にアフリカからヴァージニア植民地(現、アメリカ合衆国ヴァージニア州)にアフリカ人を運んだのが、サン・ファン・バウティスタ号だというのだ。その根拠として、wikipediaに下記ある;

一行は1618年8月10日(元和4年6月20日)にルソンのマニラに到着したが、そこでサン・ファン・バウティスタ号はオランダへの防衛を固めていたスペインに半ば強制的に買収された。
その後
サン・ファン・バウティスタ号のその後は不明であり、スペイン戦艦としてミンダナオ島方面へ向かったなど複数の説がある。2018年にはアメリカの奴隷史研究を行う『Project 1619』に参加している歴史家の調査により、奴隷貿易に関わっていたという説が提唱された[出典1]。 

上記の「『Project 1619』に参加している歴史家の調査により、奴隷貿易に関わっていたという説が提唱された」の出典1は、河北新報の新聞記事であるが、現在リンク切れであり、詳細はわからない。一方、ググってみると、あるweb siteにDonna M. Owensという人が書いた"It Has Been 400 Years Since The Beginning Of American Slavery "という文章があり、冒頭に;

“The captives had to march hundreds of miles to the coast to Luanda,” Summers adds, referring to the major slave-trade port. Then, about 350 Africans were put on board the "San Juan Bautista," a Spanish slave ship built by the Japanese and originally used for diplomatic missions.

とある(強調おいら)。この記事では、 Robert Trent Vinson, Ph.D., a professor of History and Africana Studies at William & Maryにインタビューして、1619年にヴァージニアにアフリカ人を連れてきた船が「サン・ファン・バウティスタ」とのコメントを得ている(上の文章)。しかし、どのように1619年にヴァージニアにアフリカ人を連れてきた船が「サン・ファン・バウティスタ」であると同定したの詳細はない。

つまりは、新提案の説に従えば、アメリカ人のご先祖様正嫡を乗せてきた船はメイフラワー号(通説)ではなく、サン・ファン・バウティスタ号ということになる。

■ 

Many Rivers to Cross: The First Africans in Virginia

1619プロジェクトの web site   、 機械語翻訳

 


板付@1952; 福田恒存『平和論にたいする疑問』への註、あるいは、福田恒存の「演技」について

2020年12月27日 13時00分55秒 | 日本事情


板付飛行場(現、福岡空港)、1952年 [Itazuke 1952]

The flightline at Itazuke Air Base, Japan, 1950. The F-82 in the foreground belongs to the 69th All Weather Fighter Squadron, and the F-80s are assigned to the 8th Fighter-Bomber Group  (出典)

【福田恒存、『平和論にたいする疑問』とは?】

福田恒存に『平和論にたいする疑問』という文章がある。1954年(昭和29年)の雑誌『中央公論』に出た論文である。有名であり、wikipediaにも項目がある。

この『平和論にたいする疑問』の書かれた年は1954年。1951年7月に朝鮮戦争休戦会談開始。1951年9月、サンフランシスコ講和会議。講和条約と安保条約(内乱に米軍が出動でき、米軍の日本に対する防衛義務がない駐兵条約)に調印。1952年4月、講和条約発効、日本国「独立」/被保護国日本 [protectorate-Japan] 誕生。つまり、占領が明けて2年後という時期。一方、朝鮮戦争は、1953年7月に休戦協定署名。よって、この『平和論にたいする疑問』は、朝鮮戦争の記憶が新しい時期のものである。

『平和論にたいする疑問』は、(岩波書店の雑誌)『世界』と平和問題談話会に代表される進歩的文化人を批判した論文である[上記wiki]。論点は、安全保障の政策論そのものではない。文章には、朝鮮戦争も安保条約も出てこない。平和論を唱導する「文化人」批判である。「文化人」の挙動への批判。その「文化人」批判は主に2点ある。第1点目は、「文化人」は何にでもコメントする。第2点目は平和運動としての基地周辺の生活環境改善などに具体的に現地解決せず、目的を平和のための民主統一戦線拡大としている。そのため個別の案件解決に対し無責任となっている。「文化人」の狙いは、「平和」の実現(福田は書いていないが、日米安保廃棄、自衛隊廃止、非武装中立のこと)である。その前提として、共産主義と自由主義の平和共存が可能と「文化人」は考えている。すなわち、共産主義は戦争で攻めてこないという認識を「文化人」はもっている。この2点を「文化人」の特徴として、福田は批判している。一方、福田の安全保障に関する考えは次の通り;

 まだまだききたいことはたくさんありますが、最後にひとつ重要なことを平和論者におたづねしたいとおもいます。私は、今日、完全な意味のー十九世紀的な意味のー独立というものはありえないと信じています。そのはっきりした回答を、私は平和論者からいただきたいのです。私はけっして意地悪くいびっているのではありません。私としても、去就を決したいのです。いまのところアメリカと協力したほうがいいとおもっています。しかし、これは絶対的なものではない。まちがいと気づけばいつでも改めるつもりです。もちろん、アメリカと協力することを前提としたうえで、いくらでも注文は出したいとおもいます。その点、平和論者はどう考えているのでしょうか。なんでもかんでも協力はいけない、それは植民地化だというのでしょうか。日本の平和論の影響なしに、二つの世界の冷戦は現在小康を保てそうな気配にあります。すると、アメリカと協力していても、共存絶無ともいえないように、私には思われる。

【板付(いたづけ)に関心を示さない福田恒存】

本ブログ記事の目的は、『平和論にたいする疑問』について論じることではなく、その文章の冒頭の一部について言及することだ。福田は文化人批判として、文化人が何にでもコメントすることを挙げている。さらに、何でもコメントする文化人に加え、文化人に何でも聞くメディアを批判している。その批判の例として、自分の経験を書いている。すなわち、飛行機で羽田から福岡に行った時の経験だ。なお、この経験は1952年(春か夏)のことである。占領明け直後であり、朝鮮戦争はまだ休戦協定調印前の時期だ。

板付の飛行場に降りて、飛行場と福岡との間を往き来するバスに乗りこもうとした瞬間、新聞社のひとが来て、「福田さんですか?ひとつ新鮮なところで九州の印象をきかせてください」という。私は茫然としてその人の顔を眺めました。九州もへったくれもあったものではない。私にはまだ九州なんてものは見えていません。眼のまえにあるのは飛行場だけです。羽田と板付との差がわかるほど、飛行場にたいする私の眼は肥えておりません。第一、私に飛行場の趣味なんかありはしない

福田は、板付の飛行場(現、福岡空港)について、何の印象も、あるいは、コメントしたい衝動に駆られる事物も見聞きしなかったかのごとく書いている。しかしながら、板付飛行場は、当時日本での屈指の米空軍基地である。なるほど、福田が住んでいた東京都にも日本での屈指の米空軍基地である立川や横田があったのであろう。しかし、板付飛行場は、朝鮮戦争への前線基地である。朝鮮戦争の時には、空襲警報も鳴った。ソ連兵が操縦する北朝鮮のミグ戦闘機が飛来する可能性があったのだ。福田が乗ってきた旅客機は、米軍管理の軍事飛行場の片隅に着陸したに違いない。本ブログ記事冒頭に示した画像のように、米軍のジェット戦闘機が多く駐機していたに違いない。そんな、板付飛行場は羽田空港とは大違いだろう。そして、その航空部隊こそが国際共産主義勢力による朝鮮半島制圧を阻止した軍事力の一端である。福田はその阻止こそが重大であり、その阻止を台なしにする「平和運動」を批判しているのだ。したがって、「羽田と板付との差がわかるほど、飛行場にたいする私の眼は肥えておりません」なんてことは言えないはずだ。はたして、思想信条的に米軍に期待しているはずの福田が、朝鮮戦争を戦った米軍の主力である板付航空隊に何の印象も、あるいは、コメントしたい衝動に駆られる事物も見聞きしなかったかのだろうか?本ブログ記事の冒頭は板付の写真。下記添付のyou tubeを見ると白亜の典型的米軍住宅が並んでいたはずだ。飛行機で福田は来たのだから、鳥瞰的にも見分できたはずだ。

「文化人」とにらまれたからにはしかたがない。なにか発言しなくてはならぬとしても、自分にとってもっとも切実なことだけを口にだすという習慣を身につけたらどうでしょうか。ほんとうに腹がたったことだけに怒り、大げさにいうと、これがなければ自分は生きがいなしとおもうことだけを求めるーいわゆる社会の不安など、それでだいぶ落ちつきを得るのではないか。

なぜ、板付飛行場のことを例示するのか? つまり、福田は板付飛行場は「自分にとってもっとも切実なことだけを口にだす」ほどのものではない、と言っているのだ。しかも、『平和論にたいする疑問』でわざわざ。この板付飛行場のことは、文化人のだらしないコメント垂らしとその呼び水のメディア批判の例示として登場する。つまり、新聞記者がコメントを求めてきた例であれば、何でもよいのだ。なぜ、福田は、板付飛行場のことを例示としたのか?

推定するに、福田の思想信条からして米軍の駐留は必要であり、当然。米軍基地や白亜の典型的米軍住宅に興奮するのは、「自分にとってもっとも切実なこと」のはずである。そして、このことを心に秘めて、『平和論にたいする疑問』に、板付で新聞記者にコメントを求められたが、何も言うことはないと言ったことを書いたのだ。

▼ 1954年の板付の様子

Home Movies: Itazuke AB 1954 - 68th FIS "Lightning Lancers"

朝鮮戦争航空戦Ⅰ(MiG15登場)


■ 蛇足  1954年の板付にMarilyn Monroeが来たと知った; google画像


新しい街でもぶどう記録;第320週

2020年12月26日 17時18分21秒 | 草花野菜

▲ 今週の看猫;みけちゃん
▼ 新しい街でもぶどう記録;第320週

■ 今週の武相境斜面

■ 今週の草木花実

■ 今週の「週2便」、駄菓子 付き

鎌倉 長谷観音停留所

■ 今週の、欧米先進国で稀な、日本事情

Merry Christmas の文字が公共交通機関に踊る。横浜市バス。周知の通り、移民国家を建前とする「先進国」では、今ネトウヨさんが鼻の穴を膨らませて期待している?5Gの国々など、multi-clutursim (多文化主義)とpolitical correctness(政治的正しさ奨励運動)で、特定の宗教であるキリスト教のMerry Christmas !ははばかられ、かわりに、happy holidays!などというらしい。 Merry Christmas!と公言するのはトランプ大統領やその支持者たちだ。 multi-culturalisim (多文化主義)推進のリベラルさまは眉をひそめている。そんな先進国の状況での日本は横浜市の公共バスでにの風景。これをみた毛唐のリベラルさまは眉をひそめるのだろうか?

■ 今週の広告

■ 今週の鮭図

■ 今週の石造家屋

旧横浜銀行由比ヶ浜出張所 (鎌倉市)

■ 今週のお寺

長谷寺(鎌倉市)

■ 今週の伏流史料の湧出

政府 天安門事件当日 中国に融和方針決める NHK 政治マガジン)[1]

1989年に起きた中国の天安門事件で、日本政府が、事件当日に中国に融和的対応をとる方針を決めていたことが、23日公開された外交文書で明らかになりました。人道的見地から容認できないものの、中国の国内問題だとしていて、専門家は「改革開放を支援して中国を安定させることが世界の利益になると判断したのではないか」と指摘しています。

おいらは、このニュースをNHKのラジオで聞いた。その時、東大教授の高原基彰がコメントしていた。そのコメントの一部がリンク先の記事に書いてある。ただし、ラジオで「この時の日本政府の優和策を現在の価値基準から判断することは誤りである」と断言した。その旨はリンク先の記事には書いていない。

「現在の価値基準から判断することは誤りである」、誤りであると断言したのは印象深かった。この牽制感は何だろう? この時の融和策を検討、価値判断することに釘を刺している。

1938年のチェンバレンの宥和策を、現在の視点、価値観から検討することは、おかしいことなのか?

なお、融和と宥和の違いは こう だそうだ。

■ 今週の顎髭


JR東海道線・横須賀線 戸塚駅のホームより。

家に帰りググるとわかった; JR戸塚駅の線路沿いにヤギが出現!?

 


[1] 将来のリンク切れを予想し、コピペ;

政府 天安門事件当日
中国に融和方針決める

1989年に起きた中国の天安門事件で、日本政府が、事件当日に中国に融和的対応をとる方針を決めていたことが、23日公開された外交文書で明らかになりました。人道的見地から容認できないものの、中国の国内問題だとしていて、専門家は「改革開放を支援して中国を安定させることが世界の利益になると判断したのではないか」と指摘しています。

公開された1万ページ余りの外交文書には、1989年6月4日に中国の北京で、民主化を求める学生や市民の運動が武力で鎮圧され、大勢の死傷者が出た天安門事件に関連する記録が含まれていて、日本政府が、事件当日に中国に融和的対応をとる方針を決めていたことが明らかになりました。

この中で、日本は自由、民主という普遍的価値を西側諸国と共有しており、中国政府が学生や一般市民を武力鎮圧し、多数の死傷者を出したことは、人道的見地から容認できないと指摘しています。

一方で「今回の事態は、基本的にわれわれとは政治社会体制や価値観を異にする中国の国内問題であり、対中国非難にも限界あり」としています。

そして「西側諸国が一致して中国を弾劾するような印象を与えることは、中国を孤立化へ追いやり、長期的、大局的観点から得策ではない」として、各国が一致して中国に制裁措置を行うことには反対すると明記しています。

また、中国が改革開放政策を維持することは西側にとっても望ましいという観点から、国際的にも納得が得られる国になることを表明するよう働きかけ、関係を徐々に修復していくことが必要だとしています。

中国の現代政治が専門の東京大学公共政策大学院の高原明生教授は「人権じゅうりんに強く抗議するのはいいが、それによって何が実現できるのかという問題がある。改革開放を支援して中国全体を安定させることが、日本やアジア太平洋地域、そして世界にとって利益になるという基本認識は、事件が起きても変えないという判断だったのではないか」と指摘しています。
天安門事件後 経済協力懸念のアメリカへ外務省反論

1989年の天安門事件のあと、日本の中国への経済協力を懸念するアメリカ側に対し、外務省の担当者が「非民主的な国に機械的に経済協力を行わないということには必ずしもならない」と反論していたことが、公開された外交文書で明らかになりました。

中国への経済協力をめぐって、日本政府は、1989年6月に北京で天安門事件が発生した際、ODA=政府開発援助の大部分を占める円借款をいったん延期しましたが、翌年の7月には再開することを表明しました。

23日公開された外交文書では、天安門事件から10日余りたった6月15日、外務省の幹部がアメリカ政府の高官との会談で、日本の中国への経済協力を懸念するアメリカ側に反論している様子が記されています。

この中で、アメリカのロバート・フォーバー国務次官補代理は「日本政府が中国に対する経済協力案件を次々と承認すればワシントンを刺激することになる」と指摘しました。

これに対し、外務省アジア局の鈴木勝也審議官は「天安門における発砲事件については、われわれも遺憾と考えている」と述べる一方、「西側の価値観や体制とは、ともに異なる中国に同様の物差しをあてはめるのは無理がある。非民主的な国に機械的に経済協力を行わないということには必ずしもならない」と主張しました。

宮本雄二 元中国大使は「中国のいわゆる『改革派』と呼ばれる人たちは、『改革開放を進めたから天安門事件が起こったんだ』という中国国内の批判にさらされ、窮地に立っていた。われわれには、改革開放が正しい道であり、円借款を決して途絶えさせることはできないという明確な認識があった」と話しています。

日中関係に詳しい東京大学公共政策大学院の高原明生教授は「アメリカには、自分たちは人権問題を重視して中国との交流をセーブしているのに、日本の企業は構わず活動していると見えたのだと思う。日本と中国が、いわば結託するのではないかという懸念があったのではないか」と指摘しています。
天安門事件直後のサミット 中国の孤立回避へ日本が働きかけ

1989年の天安門事件直後に開かれたサミット=先進国首脳会議で、中国を厳しく非難する政治宣言の採択を目指す各国に対し、日本政府が中国の孤立化を防ぐため、より穏当な表現にするよう働きかけていたことが、24日公開された外交文書で明らかになりました。

1989年6月に起きた天安門事件直後に、フランスのパリ郊外で開かれたアルシュサミットでは、民主化を求める学生や市民を武力で鎮圧し、多くの死傷者を出した中国政府への対応が最大の焦点となりました。

公開された文書では、議長国のフランスをはじめとする各国が、中国を厳しく非難する政治宣言の採択を目指したのに対し、日本政府が中国を孤立化させないよう、より穏当な表現を目指して各国に働きかけていたことが明らかになりました。

当初、フランスが各国に示した宣言のたたき台では、中国政府の対応を「凄惨(せいさん)な鎮圧および処刑」と表現し、ハイレベルの交流や軍事協力の停止、世界銀行による新規融資の延期などといった制裁の実施に言及していました。

これに対し、日本側は、中国への非難は抑制的にしたうえで、制裁には言及せずに、「中国の孤立化は欲しておらず、協調と自制の姿勢で国政運営にあたるよう強く要請する」という表現を宣言に盛り込む案で各国との協議に臨みました。

これに、各国が強く反発したため、日本側は、制裁に言及することは受け入れるものの、中国の孤立化を防ぐ趣旨の文言は必要だとして粘り強く交渉を続け、当時の宇野総理大臣みずから、フランスの交渉担当を務めるジャック・アタリ氏への説得を試みました。

その結果、宣言には「中国の孤立化を避け、可能な限り早期に協力関係への復帰をもたらす条件を創り出すよう期待する」という日本の方針を反映した文言が盛り込まれました。

当時、外務省職員として政治宣言をめぐる協議に携わった宮本雄二 元中国大使は「中国を孤立させることは正しくないし、中国を不必要に刺激し、中国国民の感情をあおることもよくない。ほかの国から『日本だけが浮き上がってしまうぞ』と言われたが、みな確信を持っていた」と話しています。

中国の現代政治が専門の東京大学公共政策大学院の高原明生教授は、「今の中国の状況からすれば、『なぜそんなに助けたんだ』と思うかもしれないが、今の尺度で当時を判断するのは間違いだ。中国の改革開放政策を支援しなければ、もっと大変なことになるという見方を多くの日本人がしていた。長い発展プロセスの中で起きた非常に不幸な事件と捉えるべきだというのが日本の立場だった」と指摘しています。
1989年サミット“水面下の駆け引き”明らかに

公開された外交文書には、1989年の天安門事件の直後に開かれたサミット=先進国首脳会議を舞台に、政治宣言で、中国政府を厳しく非難すべきだとする各国と穏当な表現を目指す日本が水面下で駆け引きを繰り広げた様子が記録されています。


鎌倉散歩 2020.12.24 長谷寺、由比ヶ浜

2020年12月25日 17時07分09秒 | 日本事情

1;由比ヶ浜、2;長谷駅、3;長谷寺、a;眺望散策路、b;見晴台

■ 12/24に鎌倉に行くことに今週初めに決めた。理由は、天気予報がこの日は終日晴れといっていたからだ。関東の冬晴れが好きだ。浜辺にでも行って、晴れた穏やかな小春日和を散歩しようと計画した。さらには、長谷寺の紅葉が12月下旬までとなっていたので、行くことにした。ところが前日の天気予報では12/24は午前中が晴れ、午後曇りと変わった。果して、当日は終日曇りだった。

■ 鎌倉駅

平日なのに鎌倉駅のホームの込み具合。混んでる。

旧横浜銀行由比ヶ浜出張所

若宮大路を南下、浜辺へ。

■ 由比ヶ浜

曇天。さらには風も強く、砂塵に襲われる。

■ 長谷寺

この場所。思い出した。紫陽花の頃のこの場所 ↓


愚記事: 鎌倉 長谷寺 あじさい路


見晴台

紫陽花の頃 ↓

紫陽花は「管理」されている=花の残りがきれいに裁断されている。 管理しないと、紫陽花の花は枯れても冬まで残る。

紫陽花の頃 ↓

マニ車の屋は立ち入り禁止となっていた。

■ 江ノ電 長谷駅

改修したらしい。  ↓ 2018年

車種混合であった。

 


神奈川散歩;小田急・相武台駅→キャンプ座間、基地地下横断→相模公園・メタセコイア屏風

2020年12月23日 20時36分44秒 | 日本事情



1;小田急・相武台駅、2キャンプ座間&自衛隊駐屯地 隧道出口、3;旧中村家住宅、4;峰山霊園付近、5;相模原麻溝公園・グリーンタワー、6;神奈川県立相模原公園(メタセコイア並樹)

■ 小田急 相武台駅 → 商店街 → 座間丘陵、キャンプ座間門

米軍基地を見物に行こうと進んでいたが、むしろ、先に出くわしたのがこれ。

キャンプ座間には日本人従業員[1]が1,700人余り雇用されているとのこと(神奈川県公式サイト)。

[1] 従業員とは、日本政府が雇用し、在日米軍の下で働く従業員

駐労とは、全駐留軍労働組合。在日米軍基地の日本人労働者の組合。→ web site

web site に組合の目標があった;

 

軍用犬。でも、先日の朝霞の軍隊犬という言葉ではない。いずれにせよ、<奴らは>犬出せば、<俺たち>がビビると思っているのか!?

▼ 一旦、座間丘陵から離れて、逆方向(東)へ向かい、道を変える。

トンネルから出る。出ると、やはり、切通し。見上げると、軍用車。米軍車両かと思いきや、自衛隊。

下図凡例:A;座間丘陵、B;中津原段丘面、C;陽原(みなはら)段丘面、D;沖積低地、あ;相模原段丘面。
黄色の矢印が、キャンプ座間東西横断の入り口、出口。

この隧道は旧軍の士官学校時代からあるらしい。まず、地元の人の生活道路があった。旧軍が土地を接収し、陸軍士官学校を建てたとき、地元人のために隧道を作ったとのこと。現在は、「市道新戸相武台道路」(google)という。この切通しと隧道をよく見るとわかった。西側の新戸地区は、陽原段丘面(上の図のC)にある。一方、小田急線・相武台駅は相模野段丘面にある。その間の座間丘陵と中津原段丘面を切通しと隧道で貫いている。まず、歴史的には、標高の高い座間丘陵が谷になっているところを道が通ったはず。さらに切り通しを作った。一方、中津原段丘面の上に載っている陸軍士官学校/キャンプ座間は、隧道を作って下を潜り通ることにした。

■ キャンプ座間西側、新戸から北上。

北上していたが、右折して東に向かい、座間丘陵方面へ。登り坂になっているのが見える。

磯部のねこ坂:磯部から勝坂に上がる小さな坂道 (相模原民話伝説集

坂の近くにすんでいるおヨネばあさんが、鼻歌を歌っているような声を聞いたのでひょいと坂道をみました。  なんと、大きな猫が踊りながら坂道を上がっていたのです。おヨネばあさんは腰を抜かしてしまいました。

■ 旧中村家住宅

木造2階建,寄棟造,金属板葺で,1階を整形四間取を基本とし,西側に式台玄関を設け,外壁も和風の要素でまとめるが,2階は外壁を海鼠壁とし,軒を曲線の白漆喰で塗り込め,正面に縦長の窓を配する。鎌倉大工の石井甚五郎の手による初期の擬洋風建築。文化遺産オンライン

 中村家住宅主屋は、相模原市南西部の磯部字勝坂にある、幕末期の和洋折衷住宅です。建築当初は3階建てでしたが、関東大震災後3階部分は取り除かれ2階建てとなっています。 
 建築を手がけたのは鎌倉大工の石井甚五郎で、10年の歳月をかけ完成したと伝えられ、詳細な板図が残されています。 
 建物の特徴は、1階が整形四間取りとし、西側に式台玄関を設け、外観は和風の要素でまとまっています。
 2階は、外壁を海鼠壁(なまこかべ)とし、洋風の要素として軒を曲線の白漆喰で塗りこめ、正面に縦長の窓を配しています。 (相模原市 web site

■ 3.旧中村家住宅 → 4.峰山霊園付近 → 5.相模原麻溝公園

座間丘陵の北端なのだろう。農作地が広がる。このあたり、戦前は陸軍士官学校の演習場。戦後は緊急開拓地。

さらに北上。このあたりはゴミの最終処分地が広がる。

■ 5;相模原麻溝公園、グリーンタワー

グリーンタワー相模原; 本公園を会場として開催された、第9回全国都市緑化フェア「グリーンウェーブ・相模原'92」を記念した恒久施設として建設された。  相模原に古くから伝わる伝説の巨人「でいらぼっち」の気分で相模原市を見渡せるようにとの願いを込めて高さが決められた。展望室は全面ガラス張りで、360度を見渡せる。相模原の街並や丹沢山地が望め、山や施設の名称を紹介する案内板がある。天候が良い時は、江の島灯台も望むことができる。wikipedia


南北に走る座間丘陵を北から南を見る。キャンプ座間方面


キャンプ座間


横浜港方面。ランドマークタワー。


北側を見ると、公園。温室とメタセコイア「屏風」が見えた。

■ 6.神奈川県立相模原公園(温室、メタセコイア並樹)

温室=サカタのタネグリーンハウス;

 サカタのタネグリーンハウスは、県立相模原公園内にある大温室です。館内は大人から子どもまで楽しみながら緑の大切さや尊さ、すばらしさを体験できるコーナーがいっぱいです。
  ガラス張りの休憩コーナー「アクアテラス」では、外を眺めながら、やすらぎの時をすごせます。中央の「グリーンシアター」では、臨場感あふれる迫力の大型映像で自然や都市における緑を体感できます。そして、「トロピカルガーデン」は、従来の生態温室とは少し趣を変えた花々が楽しめる屋内庭園です。
  2階では、珍しいサボテンや多肉植物を集めた「カクタスガーデン」や花や緑をテーマにした展示スペース「グリーンギャラリー“みどり”と“はな”」、噴水広場が一望できる「虹の展望室」などがあります。すみずみまで緑にあふれた楽しいサカタのタネグリーンハウスで緑の大切さとやさしさを体験して下さい。 (web site

▼ メタセコイア並樹

■ まとめ  通過町名

座間市 相武台

相模原 南区

相武台 (相武台(そうぶだい)は、神奈川県座間市と相模原市南区にまたがる地名。 wiki

新戸、磯部、麻溝台

 

 

 

 


新しい街でもぶどう記録;第319週

2020年12月19日 20時03分14秒 | 草花野菜

▲ 今週の看猫;みけちゃん
▼ 新しい街でもぶどう記録;第319週

■ 今週の草木花実+竹

■ 今週の筑波山


都内文京区より望む筑波山

■ 今週のメタセコイア、あるいは、レコンキスタ史跡探訪

相模原公園。この地は、敗戦までは陸軍士官学校附属小銃射撃場。敗戦後は米軍に接収され、厚木小銃射撃場、 座間小銃射撃場。1967.7.31に日本に返還(『米軍基地と神奈川県』、栗田尚弥)。レコンキスタ史跡には、メタセコイアがしばしば見られるが、これは最大規模。あけぼのすぎの木はのびにけり

■ 今週の地底から

地下鉄後楽園駅

共産圏の地下鉄を現代風にした感じ(?)

■ 今週の江戸時代建築

<国登録有形文化財> 旧中村家住宅、1868年建築、神奈川県相模原市 (google

■ 今週知った言葉、枝物

枝がついている花のこと。 対義語は、草花 草物。 ところで、「浜松開拓」が気になる。維新後に浜松に逃げ帰った幕臣の開拓と関係があるのだろうか?

■ 今週見た電柱の表記


NTT東日本の大阪台支、TEPCP(東京電力) 米軍218 (神奈川県相座間市)

■ 今週の「隧道に入っていく女」

この隧道の先は、1kmあまり歩いて、私鉄駅に通じる。1本道。

■ 今週の切通し


神奈川県座間市。 散歩。進む、とにかく、進む。

■ 今週の隧道


切通しを進むと、隧道(トンネル)となった。進む。


進む、進む。

▼この切通しと隧道は座間丘陵にある旧陸軍士官学校跡地の米軍キャンプ座間(Camp Zama: google画像)を東西に横断する道。設備から見て、最近できたのであろう。下図は航空写真にこの切通し・隧道の入り口、出口を黄色の矢印で示した。

上記の「隧道に入っていく女」は、西側から隧道に入っていく後ろ姿。

■ 今週の基地外のおいら

キャンプ座間の門。門の名前はわからない。正門ではないことは確か。小田急線・相武台駅からまっすぐ行ったところ。上の航空写真の東側の入り口の黄色矢印の少し北付近。

パトランプが赤く点灯・回転していた。門のボックスには守衛がいて、おいらが近づくと出て来た。

■ 今週の昭和の成仏生霊のために;恩賜の地名は今でも米軍領

大日本帝国の陸軍士官学校があった地は「相武台」という。これは昭和天皇が名付けたとされる。戦後はずっと米軍駐屯地だ。 

1937年(昭和12年)、陸軍士官学校が当時の高座郡座間村(現座間市)に移転してきた(士官学校敷地・演習場は同郡新磯村、麻溝村(いずれも現相模原市)にまたがる)。 同年12月20日に行われた同校卒業式に昭和天皇が行幸した際に天皇から同校に相武台の呼称が与えられた。wikipedia

■ 今週の「アメリカ抜きの平和」と「アメリカ入りの平和」

 
「アメリカ抜きの平和」と「アメリカ入りの平和」:座間市の中学生の入選ポスター

どちらも、スイスが入っている。よくみると、「米中抜きの平和」と「米中入りの平和」でもあると気づく。

座間市市民健康文化センターでの中学生のポスター展より

■ 今週の<アメリカ真理教>信者のコメント

 読売新聞 2020.12.18

対中政策について、緩和と対立どちらにでも対応できるように日本はすべきと藤崎一郎さん(「人殺し」の玄孫さま)は主張している。確かに、「対応できるよう」にといっているのであって、「追随できるよう」にとは云っていない。でも、米国がどんな策をとるにせよ、日本は適切に順応せよ!と云っているのだ、つまり、日本はこうするという策を確固として立案するという姿勢を慫慂しているわけではない。

■ 今週の展望1 文京区シヴィックホールの展望ラウンジ(25階)


小石川植物園

■ 今週の展望2 相模原グリーンタワー

横浜ランドマークタワー

八王子方面と思うのだが、このクレーンの多さは何だろう?

■ 今週の剥いた皮と身/実

■ 今週のメッセージ

 

 


小石川後楽園 2020.12.17

2020年12月18日 15時36分06秒 | 東京・横浜

小石川後楽園(東京都、文京区)

園内マップ

江戸時代初期、寛永6年(1629年)に水戸徳川家の祖である頼房が、江戸の中屋敷(後に上屋敷となる。)の庭として造ったもので、二代藩主の光圀の代に 完成した庭園です。光圀は作庭に際し、明の儒学者である朱舜水の意見をとり入れ、中国の教え「(士はまさに)天下の憂いに先だって憂い、天下の楽しみに後 れて楽しむ」から「後楽園」と名づけられました。
庭園は池を中心にした「回遊式築山泉水庭園」になっており、随所に中国の名所の名前をつけた景観を配し、中国趣味豊かなものになっています。また、当園の特徴として各地の景勝を模した湖・山・川・田園などの景観が巧みに表現されています。web site

■ 地下鉄・後楽園駅 → 小石川後楽園入口

■ 小石川後楽園 入場料 300円

崖。小石川後楽園は小石川台地の先端にある。先端といっても切り離されている。下の地形図の上半分の中央部の台地が小石川台地。左右に走る崖が見える。その下にあるのが小石川後楽園と東京ドーム。東京ドームの右下に台地が残っている。

小石川後楽園の池の左がわの小さな山=小石川台地の残丘が上の画像の崖をもつ小山。

▲ 園を出る

■ この後、近くの文京シヴィックホールの展望台から見下ろした小石川後楽園

 


六義園 2020.12.11

2020年12月14日 05時20分31秒 | 東京・横浜



六義園(りくぎえん)[東京都文京区駒込]に行く。入園料 300円。

六義園は造園当時から小石川後楽園とともに江戸の二大庭園に数えられておりました。元禄8年(1695年)、五代将軍・徳川綱吉より下屋敷として与えられた駒込の地に、柳澤吉保自ら設計、指揮し、平坦な武蔵野の一隅に池を掘り、山を築き、7年の歳月をかけて「回遊式築山泉水庭園」を造り上げました。

庭園は中の島を有する大泉水を樹林が取り囲み、紀州(現在の和歌山県)和歌の浦の景勝や和歌に詠まれた名勝の景観が八十八境として映し出されています。
明治時代に入り、岩崎弥太郎氏(三菱創設者)の所有となった当園は、昭和13年に東京市に寄付されて一般公開されることになりました。(東京都立 六義園の web siteより)

染井門から入り、池の中の島や池の外周を回って、正門から出た。

■ 染井門

前回来たときは、築山に登って、池から見下ろす風景を見たのだが、今回は築山に登るを忘れていた。

渡月橋

瀧見茶屋


国立科学博物館附属 自然教育園 (港区白金台) 2020.12.11

2020年12月13日 11時12分16秒 | 東京・横浜



ガイドマップ 

国立科学博物館附属 自然教育園 (港区白金台) [wikipedia]に行った。目黒駅から歩いてすぐ近く。

入場料 320円。正門から奥へ、館跡、水鳥の沼、さらに最奥の森の小道へ。そして、正門へ戻る。

紅葉は、森の小道と路傍植物園で見れた。下記に示す;

■ 森の小道

■ 水生植物園 → 路傍植物園

 


新しい街でもぶどう記録;第318週

2020年12月12日 17時47分08秒 | 草花野菜

▲ 今週の看猫;みけちゃん
▼ 新しい街でもぶどう記録;第318週

■ 今週の武相境斜面

■ 今週のメタセコイア

■ 今週の草木花実

■ 今週の原料納品

卵、粉、油。 「街なかベーカリー」への納品。

■ 今週の池田屋


東京、目黒

■ 今週の屋号? 丸庭


六義園。 柳沢家の御庭番なんだろうか?

■ 今週の広告、あるいは、民間への解放

PCR検査は、当初、保健所など限定された組織で行われていた。今では、街中の医院にも実施権が解放された。その広告。

■ 今週の東京のいちょう並樹


目黒


白金


新宿

■ 今週の巻物

菰巻き(こもまき)。

こも巻き(こもまき、菰巻き)とは、江戸時代から大名庭園で行われてきた害虫駆除方法で、マツカレハの幼虫(マツケムシ)を除去する方法のひとつ。

マツカレハの中齢幼虫は、冬になると地上に降り、落ち葉の中で越冬する習性を持つ。このため、11月頃、マツやヒマラヤスギの幹の地上2mほどの高さに、藁でできた「こも(菰)」を巻きつける。春先に、この「こも」の中で越冬したマツカレハの幼虫を「こも」と一緒に焼却処分し、マツカレハの駆除をする。施術の時期的に冬支度のように解釈する向きもあるが、決して防寒目的ではない。 wikipedia

■ 今週の貸し出し物

 
新宿中央公園

■ 今週の訃報

有馬朗人 死去 (google)。  有馬朗人元総長が死去 大学院重点化や法人化を推進

バブル経済崩壊前の大学改革改革開始から、大学の状況の今に至るまでの、最大責任者のひとりだ。

(今、有馬のプロフィールを見ていたら、彼が俳人であることを思い出した。愚記事;「俳句でっせ。だんな。」

有馬朗人は、小渕内閣の文部大臣、兼、科学技術庁長官だった。その時、JCO臨界事故が起きた。

有馬朗人・科学技術庁長官は、「極めて基本的なことが守られていない。使命感やモラルが弱まっている心配がある。」と述べた。(ソース;JCO臨界事故の概要

これとは別途、有馬朗人は作業者の「自己責任」といったと、おいらは記憶している。ただし、今、ネットでエビデンスは探しだせなかった。

現在では、「自己責任」という言葉に象徴されるネオリベ社会への大改革は小泉政権のものと記憶されていると思う。でも、「自己責任」という言葉は小渕内閣の頃からいわれ始めたのだ。このことを現在指摘する人はいない。さらには、北朝鮮工作船撃沈、国歌・国旗法制化も小渕内閣である。事実上の実行者は野中広務だ。ネオリベ社会&国家主義全面化の嚆矢が小渕内閣であることを指摘する人もいない。今では、何でも「小泉ー竹中路線」でくくっている。ただし、竹中は、確かに、小渕政権に入り込んでいる。

▼ 幻の江藤淳文部大臣

史実は、有馬郎人は文部大臣になった。一方、平山周吉の『江藤淳は甦る』によると、小渕内閣が発足した時、小渕首相から江藤淳に文部大臣就任の話が来たという。江藤は、妻の死と自分の弱体化で、断ったとのこと。もし、江藤が元気で文相になっていたら、有馬大臣はなかったことになる。