いか@ 筑豊境 寓 『看猫録』

Across a Death Valley with my own Distilled Resentment

横浜市の思い出:最後に借りた本『デペンデント ハウス 連合軍家族用住宅集區』GHQ DESIGN BRANCH JAPANESE STAFF/商工省工藝指導所編 1948年

2024年04月19日 18時15分03秒 | 武相境

横浜市に10年弱住んだ。横浜市で印象深かったのは市立図書館の充実ぶりだった。つまりは、「今の住居から約1キロメートル先に公民館的なものがある。そこで市立図書館(本館分館あわせて18館あるらしい)の蔵書400万冊が貸り出し可能なのだ。ネットで検索できて、サイトで申請すれば、その近所の公民館に届くのだ」という状況だった。古書価格が数万円であり、ちょっと自分では買えない本も蔵書としてある。上のリンク愚記事にある。こういう状況で、そのうち借りようと思っていた本がたくさんあった。でも、九州に転居することになり、もう借りられない。最後にこの『デペンデント ハウス 連合軍家族用住宅集區』を借りた。今日現在古書市場にない。以前調べた時は10万円した。なにせ終戦直後の1948年刊行の本だ。こういう本が横浜市では借りられるのだ。この本はワシントンハイツの紹介「図録・写真集」だ。ちなみに、横浜市立図書館はこの本を古書店から購入している。

この本の古書店による解説は下記;

B4横判266P 限定版 カバー・函 但し状態下記

旧代々木練兵場跡地(現・代々木公園)に建設された連合軍家族用住宅「ワシントンハイツ」の写真資料集。

設計は住宅をGHQ技術本部設計課日本部員が、家具・什器を商工省工芸指導所が担当。工事は日本建設工業統制組合の全面的協力の下、国産資材と技術により短期間で遂行された。
本書はそれら各担当組織の編集による「建設篇」「家具篇」「什器篇」の三篇と、各担当者の解説、資材表・用語彙・家具仕様書等から成る。

本文には経年薄ヤケ有り。見返に「august 27th 1948」の年記有り。表紙は僅かに変色有り。
カバー・函共に出現は稀だが、カバーには経年少疵有り。函の瑕疵はかなり甚大で、表面・裏面は経年ヤケと少疵がある位で比較的無事だが、背と天地は完全に壊れている。
 (解説:日本の古本屋より

端的に云って、ワシントンハイツの「完成図書」を一般向けに表現したといったもの。

占領軍の建築の責任者が ヒーレン サミュエル クルーゼ (Heeren S. Krusé)という少佐。

ヒーレン・S・クルーゼ少佐 (Heeren S. Kruse)が率いる太平洋陸軍總司令部技術本部設計課は、住宅から家具、調度、電気製品まで設計し、日本の業者に作成させた。(愚記事:「白物家電」(家事関連電気製品)は、なぜ白い?

日本の商工省の工藝指導所に指示して(要求仕様と設計を米軍が行い)、米軍家族住宅コロニー=ワシントンハイツを日本につくらせた。材料は日本産のものを使った。


検索すると(のち)有名となる専門家多数:豊口克平[wiki]、金子徳次郎、秋岡芳夫 [goo blog記事:進駐軍家族用家具の生産]

その成果を報告したのがこの本。この建設はワシントンハイツに限るものではなく、汎用性があるべきというコンセプトが示されている。読みづらいが、示す;

日本で調達できる資材を使い、米国人の設計、デザインで、米国人の生活様式を実現しようというコンセプト。なお、お代を払うのは日本人だ(⇒「日本占領米軍に払ったわれわれのお金」)。

■ ワシントンハイツ


現在、唯一残っているワシントンハイツの米軍家族住宅

▼ クラブハウス

▼ PX(「スーパー」)

▼ チャペル

▼ 幼稚園・学校

◆ 家具編

◆ 什器篇

● 関連リンク

Made in Occupied Japan 日本における耐久消費財産業の到来と工業デザイン 

Dependent House Series PACIFIC FURNITURE SERVICE
http://pfservice.co.jp › news pfservice.co.jp からの進駐軍家族用家具の生産
2019/06/21 — ディペンデントハウスとは、G.H.Q.(連合軍最高総司令部)による日本占領下に於ける米軍家族用住宅、いわゆる進駐軍住宅のことである。

戦後日本の主要木製家具メーカーにおける家具スタイルの展開

1946年 焼け跡からのモノづくり—DH家具

 

 


さよなら、武相境:こどもの国駅から武相荘へ

2024年04月12日 18時42分11秒 | 武相境

3月22日、晴れ。横浜を去ることになったので、最後のお別れの散歩。都県境を越える散歩をした。この付近は1960年代までは丘陵地帯で谷戸が発達していたが、高度経済成長による人口の首都圏への流入と生成した中産階級、しかも「アッパーミドル」層用の住宅地が造成された地域。小田急や東急の私鉄が走り、それら電鉄会社などが開発した住宅地が広がる。一方、開発されない、開発できない域も残っていて、旧来の丘陵、谷戸の面影を残している。特に、東京都と神奈川県の境は自然の境界、つまり、地形が厳しくて元来人の往来が難しい処が境界となっている。そういう往来の難しい場所はけものみちのようなものがある。その道を散歩するのが武相境での10年の暮らしの趣味だった。実はこの道はかつて紹介したことがある(愚記事:横浜・川崎・町田散歩;こどの国駅⇒川崎・岡上⇒鶴川)。

白洲次郎・正子夫婦が鶴川の能ヶ谷の百姓屋敷を購入し「疎開」してきた昭和18年[1943年]に、そのうち東京は焼け野原に帰すと予測したが、30年も経ないで周囲が突如勃興した中産階級に包囲されるとは予想しなかったであろう。その能ヶ谷の百姓屋敷は、今では、武相荘として有名だ。人気らしい。でも、その人気の担い手は中産階級の俗物に違いない(???!!!)。白洲次郎ブームとか、おいらは、身の毛がよだつ。でも、中産階級を俗物だと思う本当の俗物のおいらは、武相境を去ることになったので、これが最後だと、お参りに行った。


1,こどもの国駅、2.玉川学園台団地/横浜市・川崎市境の尾根、3.鶴見川渡河、4.武相荘

▼ 谷戸を潰した日本中産階級

 

 

■ 1,こどもの国駅 ⇒ 2.玉川学園台団地/横浜市・川崎市境の尾根

玉川学園台団地の地区概要(横浜市の web site

 ・昭和46年の造成から40年以上が経過
 ・約500世帯、約1,500人
 ・高齢化率:奈良町30.2%(青葉区17.7%)【2013年9月末】


尾根に登る階段


「芝の庭を持つ白い平屋の家」


GooleMapより


横浜市と川崎市の境界のフェンス

■ 横浜市・奈良 ⇒ 川崎市・岡上


a:「芝の庭を持つ白い平屋の家」、 b:尾根に登る階段、c: 横浜市と川崎市の境界のフェンス、d:川崎市岡上の谷へ下る入口、 e:岡上の谷へ下る急崖の階段、 f:十番坂

岡上:川崎市の飛地:これから急崖を下っていく地域は岡上といいますが、川崎市です。東京都町田市と横浜市に囲まれ川崎市本体とは切り離されています。飛地となった経緯は、川崎市麻生区に飛び地ができた経緯とは!?に詳細がある。説明に「隣接していても奈良村などとは山や坂が険しいという地形的理由で交流が少なかった」とある。まさに本散歩はその山や坂が険しいけもの道を行くのだ。


岡上の周囲の奈良の玉川学園台団地や町田の三輪は丘陵を大規模造成して宅地化されている。一方、岡上は造成された大規模宅地はなく、農地が多い。

1938(昭和13)年、同じ都筑郡の南にあった田奈村、中里村、二俣川村、新田村が横浜市と合併し、東の稲田村、向丘村、宮前村、生田村は川崎市と合併。

このとき岡上村は、横浜市か川崎市のどちらかとの合併を迫られた。岡上村は関係の強かった柿生村と協議を行い、川崎市との合併を決定し、翌年1939(昭和14)年に川崎市と合併した。

岡上村は関係の強かった柿生村と同じ市になることを第一に考えたようである。特に小田急線開通後は交流が活発になり、逆に隣接していても奈良村などとは山や坂が険しいという地形的理由で交流が少なかった。
1938(昭和13)年、同じ都筑郡の南にあった田奈村、中里村、二俣川村、新田村が横浜市と合併し、東の稲田村、向丘村、宮前村、生田村は川崎市と合併。

このとき岡上村は、横浜市か川崎市のどちらかとの合併を迫られた。岡上村は関係の強かった柿生村と協議を行い、川崎市との合併を決定し、翌年1939(昭和14)年に川崎市と合併した。

岡上村は関係の強かった柿生村と同じ市になることを第一に考えたようである。特に小田急線開通後は交流が活発になり、逆に隣接していても奈良村などとは山や坂が険しいという地形的理由で交流が少なかった。
ソース


T字路。左折すると十番坂。


十番坂

十番坂についてはたくさんの情報がネットで見ることができる;
Google [十番坂 画像]。 特に詳しいブログ記事:川崎市岡上の急坂に挑む(俺の居場所 様)


和光大学

■ 3.鶴見川渡河

■ 小田急線鶴川駅付近

■ 武相荘

▼ カフェ

▼ 内門

▼ レストラン

▼ 母屋・ミュージーアム

公式 web site       ミュージアムエリア(母屋)入場料 1,100円


縁側の外からの室内撮影。ひな人形に五人囃子がいなかった。

家屋の内部は撮影禁止。でも、どうしても撮りたい場面があった。撮った。許してください。

現在の旧白洲正子邸は、正子の死後そのままの状態を保持しているらしい[1]。

[1] 武相荘は町田市の史跡に指定されている。通常、史跡等に指定された民家は建築当初の形に復元されている場合が多く、現在の生活から切り離された昔の空間が再現されているが、武相荘は白洲正子の亡くなった平成10年の時をそのまま展示してある。(タウンファクトリー一級建築士建築設計事務所  建物雑想記 「モダンな古民家の史跡・武相荘」 町田市)

車谷長吉の『赤目四十八瀧心中』があった。なお、江藤淳の『南洲随想』もあった。正子は薩摩の樺山伯爵家の出だ。車谷長吉と白洲正子は縁がある。車谷長吉の本のどこかに、正子の生前、能ヶ谷に来た話がある。白洲正子は早くから車谷長吉を認め、それが故車谷は正子を崇拝していた。でも、よく考えると自分を認めた人を崇拝するのは自分が映った鏡を崇拝することではないか(!!!???)。

参考ブログ:百休庵便り 様 白洲正子さんと車谷長吉さん~「かくれ里」&「特別展 作家 車谷長吉。魂の記録」図録より 、 あべまつ行脚 様 「白洲正子から、車谷長吉へ

さて、白洲次郎は「かっこいい」として大人気だ。そして、車谷長吉...。ふたりは、「超俗性」ということで共通している(???)。

 


間取り(上のリンクより)

 
1960年代の航空写真と現在のそれ。「+」が武相荘。中産階級に包囲されることになった顛末だ。
なお、白洲次郎が、越してきて間もなくの頃だろう、戦時中だから、この地で近所の竹槍訓練に出た話は以前の愚記事でした。隣組の竹槍訓練に参加した白洲次郎はどうなったか?

  

■ まとめ 通過街

横浜市 青葉区 奈良

川崎市 麻生区 岡上

町田市 能ヶ谷


さよなら、武相境;松岳院の朝7時の鐘

2024年03月25日 18時06分04秒 | 武相境

毎朝7時に鐘の音が響いていました。

横浜市青葉区奈良のこどもの国通り、バス停奈良橋近くの高台に宗派は曹洞宗(禅宗)・大峰山(山号)・松岳院(寺号)がある。ここは江戸時代、武蔵国都筑郡奈良村だった場所である。
 當山は元亀三年(1572年)に東京屈指の名刹、青梅市にある天寧寺の八世 正翁長達大和尚(1601寂)によって開山された。松岳院 web site


東京・神奈川散歩:[後編] こどもの国⇒ 玉川学園構内⇒ 小田急線踏切⇒ 薬師池公園⇒ 自由民権資料館⇒ 鶴川駅

2023年11月17日 09時38分46秒 | 武相境

東京・神奈川散歩:[前編] こどもの国⇒ 玉川学園構内⇒ 小田急線踏切⇒ 薬師院公園⇒ 自由民権資料 の続き

1.こどもの国駅;2.玉川学園台団地;3.玉川学園大学:4.小田急線踏切;5.金井1丁目交差点;6.薬師池公園;7.ぼたん園;8.自由民権資料館;9.鶴川駅


a:玉川学園5丁目付近高台 b:ゆうき山公園 c:団地いちょう通り

■ 3.玉川学園大学 ⇒ 4.小田急線踏切

4.小田急線踏切 ⇒ 5.金井1丁目交差点

玉川学園5丁目付近。昭和のアッパーミドル住宅地風。
老夫婦と歩く小学校高学年くらいの女の子が「おはようございます」とあいさつしてきた。

▼ 金井

▼ ゆうき山公園

■ 金井1丁目交差点付近

▼ 団地いちょう通り

■ 薬師池公園 ⇒ 福王寺薬師堂 ⇒ ぼたん園 ⇒ 鶴見川


α:福王寺薬師堂、β:七国山風致地区、γ:鶴見川・丸山橋、δ:新袋橋

薬師池は低い場所にある。だから、水が溜まっている。その池の周囲は尾根。尾根の斜面を登ると福王寺薬師堂がある。さらにその奥の屏風のように立ちはだかる尾根を登って超えると、やや緩やかな斜面が広がっている。草原の広がる。その中の道を北上。丘陵地を抜けていく。七国山風致地区。その中にはそば畑もある。そして、ぼたん園公園。

■ 6.薬師池公園

web site: おにわさん 「福王寺旧園地(薬師池公園)」

▼ 

福王寺薬師堂(wikipedia, google

【薬師堂】 薬師池公園周辺は、戦国時代には北條氏照(ほうじょううじてる)の支配領域であった。野津田薬師といわれている薬師堂は、天平年間(729~749)行基(ぎょうき)の開基と伝えられており、現存する薬師堂は、福王寺薬師堂のことで、明治16年(1883)の再建されたものです。 御本尊の薬師如来様は、秘佛の為、12年に一度、寅年の4月10日から5月10日までの一月間だけ扉が開かれ、拝観することができます。天井絵は墨絵の龍と彩色された二人の天女様が、狩野派の絵師、狩野信矩により描かれています。 この御堂の特徴は、彫り物と、総欅造りで御堂の入口にまりを抱えた獅子が彫られており、まりの中の玉は、ころころと動くようにまりの外から彫りぬかれているとのことです。 境内には采女霊神(うぬめれいじん)、お稲荷さんがあります。ソース

この日、堂の中に入れた。

中央におまつりされている御本尊様は、薬師如来様です。お薬師様の右には日光菩薩様が、左には月光菩薩様が脇佛としてまつられています。更に右側と左側に六人ずつ、十二人の神様がまつられています。全部で十五体の佛像がまつられています。(上のリンク)

画像撮影は、もちろん、禁止だった。像の写真はリンク先にある。

Google [町田 木造薬師如来坐像]

福王寺薬師堂の裏山をのぼる階段があり、奥に抜けられる。こ抜け道は尾根を横切る道。

■ ⇒ ぼたん園

■ 7.ぼたん園

ぼたん園は、薬師池から徒歩で7分ほどのところにあります。
園内にはボタン(約330種類1700株)とシャクヤク(約60種類600株)が植栽されており、関東有数のボタンの名所です。
ボタン・シャクヤクが開花する時期(例年4月中旬から5月上旬)は有料開園、それ以外の時期は民権の森公園として無料開園しています。
ぼたん園は民権の森公園の一部であり、隣接地に自由民権運動の指導者であった「石阪昌孝」氏の墓があります。
園内にはその長女「美那子」と「北村透谷」が出会ったゆかりの地を記念した自由民権の碑もあります。
また、公園の東側に東京都が指定する「町田民権の森緑地保全地域」約19000平方メートルが広がっています。(町田市 web sit : 町田薬師池公園 四季彩の杜 ぼたん園(町田ぼたん園)

■ ⇒ 鶴見川

▼ 瓦屋根の家にアメリカンな張り出し

▼ 鶴見川

▼ 新袋橋交差点:町田市野津田。鎌倉街道と芝溝街道 [google] との交差点。

■ 8.自由民権資料館

自由民権資料館常設展示「自由民権運動と町田」その1

みずから憲法をつくる (google)

■ ⇒ 鶴川駅


道産品:オホーツク人参と北見玉ねぎ(右下の段ボール)


本を読みながら歩く人をみた。

まとめ

通過町

横浜市青葉区 奈良町
東京都町田市 玉川学園 金井町 金井 野津田町 大倉町 能ヶ谷  

 


東京・神奈川散歩:[前編] こどもの国⇒ 玉川学園構内⇒ 小田急線踏切⇒ 薬師池公園⇒ 自由民権資料館⇒ 鶴川駅

2023年11月10日 15時56分28秒 | 武相境

1.こどもの国駅;2.玉川学園台団地;3.玉川学園大学:4.小田急線踏切;5.金井1丁目交差点;6.薬師池公園;7.ぼたん園;8.自由民権資料館;9.鶴川駅

■ 都県境の「壁」を抜ける道


地図ソース

上の航空写真の+のあたりは自動車で通過できないことを示す図↓

こんなわずかな距離を自動車で通過できない。

自動車で移動するためには大回りしないといけない。

■ 都県境&小田急線沿いの大学:和光大、玉川学園大学

小田急線の鶴川駅と玉川学園駅の間には東京都と神奈川県の境界が走る。その境界を都県を越えて行く道は少ない。尾根があるからだ。このあたりには和光大と玉川学園大学がある。両大学は(おそらく)隣接している。横浜側、こどもの国駅から歩いていくことができる。ただし、道は簡単にはわからない。もっとも今ではgoogle mapでも確認できるので、よく調べれば行ける。

今回の都県境・小田急線越えは、玉川学園大学の構内を通過して東京都側へ抜ける散歩をした。

このあたりの散歩はこれまで何度かしたことがある:横浜・川崎・町田散歩;こどの国駅⇒川崎・岡上⇒鶴川。今回は途中までは前回と同じ経路であり、途中に右(北)は和光大学、左(南)は玉川学園大学という分岐地点があるところを、玉川学園の方へ歩いた。

■ 1.こどもの国駅 ⇒ 2.玉川学園台団地

 

玉川学園大学を出る。

▼ 都県境・小田急線横断散歩経路

▼ 玉川学園大学構内経路


マップリンク元(公式 web site


新しい街でもぶどう記録;第462週

2023年09月23日 18時00分00秒 | 武相境

▲ 今週のみけちゃん
▼ 新しい街でもぶどう記録;第462週

■ 今週の武相境斜面

■ 今週の草木花実

■ 今週のもったいない本舗

大きな袋だった。

10月、神無月の絵柄は、流鏑馬だった。鬼はいなかった。

■ 今週の宣伝と中身の異同

箱買いしたジュリーズの オーツ25 ストロベリーが残りひとつとなってしまった。

ジュリーズ オーツ25 ストロベリー(Amazon)。広告や包装の絵図は赤い粒が鮮やかに輝いている。でも、現実は上、画像。

■ 今週のいろいろの最後の2個

Google [お菓子のシアワセドー 喫茶去 240g] なお、「喫茶去」とは、「まあお茶でもお飲みなさい」という意味和楽 web


桃山(左)と満月

詳細は:⇒ 懐かしいお菓子ブログ(画像有り)ー時代遅れ団塊ジュニアのブログ 様  [懐かしいお菓子]お菓子のシアワセドー「和菓子の音色(和菓子のアソート袋)」を食べて画像撮りました。

■ 今週知ったライン:帝国海軍航空隊、谷田部ー神町

米陸軍、第11空挺師団の敗戦後の日本占領での駐屯基地を調べていたら、Jimmachiというのがあった。

Places of Significance in the History of the 11th Airborne Division in World War II

ググると山形県の現在神町駐屯地 [wiki]とわかった。自衛隊の駐屯地であり、進駐軍の基地でもあったのだから、旧軍の基地なのだろうと察しがついた。wikipediaで調べると、敗戦前は神町海軍航空隊の基地とわかった。上の情報によると、神町駐屯地は米軍によって Camp Younghans と名付けられていた。なお、上表の左の「Tounghans」のTはタイポスである。wikipediaの神町駐屯地(日本語)とJGSDF Camp Jinmachi(英語)では記載情報が違う。英語版には、 Camp Younghans のことが書いてある。日本語版には、キャンプ・ヨンハンスの語はみえない。

この施設は、第二次世界大戦後、日本の降伏後の1945 年にアメリカ軍に接収されました。この基地は当初、第11空挺師団の第674空挺砲兵大隊が占領し、 1945年3月31日にフィリピンのルソン島で戦死したレイモンド・M・ヨンハンス中尉にちなんでキャンプ・ヨンハンスと名付けられた。JGSDF Camp Jinmachi(英語)の機械語訳

さらに、この神町海軍航空隊は、谷田部航空隊の下部組織と知る。谷田部航空隊は現在のつくば市にあった基地。愚記事に「旧谷田部航空隊跡地」ある。谷田部海軍航空隊(wiki)。

なお、現在、つくば市の谷田部航空隊の基地は占領軍に接収されなかったようだ。緊急開拓地となった。愚記事:「今日はつくば記念日;松竹梅のつくば戦後開拓集落について」参照。

■ 今週の御達者倶楽部


https://twitter.com/nahotoyamamoto/status/1705211613039698248

十代の頃、アダルトビデオが蔓延しているわけでもなく、まして、ネット・スマホでAV動画が気軽に見れる時代でなかった頃、おいらは、オンナの裸目当てに見ていた深夜番組「トゥナイト」で、利根川裕が「今日、小林秀雄が死にました」と感慨深げに言ったのを覚えている。「書物に傍点をほどこしてはこの世を理解して行こうとした」ばかりの頃だった。

■ 今週の購書 1868年と1937年の皇軍

村松剛、『歴史に学ぶ』、1982年。Amazonでは500円ほどで売ってる。おいらは、もったいない本舗から919円、ポイント利用割引を使って、実際は、321円で購入(送料込み)。この本を買った理由は、村松が会津について語っていると知ったからだ。保守派、右翼は明治維新をどう語るか?特に、会津をどう了解するかは、傍から見ていて、興味深い。村松は、会津に同情的である。薩長をほぼ「鬼畜」扱いしている。

 会津城下にはいってからの官軍は、婦女子への強姦輪姦をほしいままにしていた(この事態は、落城後までつづく)。元和堰武(げんわえんぶ)[1]以降、徳川幕府支配下の日本は治安がきわめてよく、戊辰戦争がはじまってからも会津が暴虐を働いた場所はほかにない。要するに会津人の立場からいえば、史上類を見ない無頼の集団が、錦旗をかかげて乗り込んできたのである。 [1] 元和堰武(げんわえんぶ): wikipedia 村松剛、『歴史に学ぶ』 会津の悲劇


この記述を今の我らがネトウヨさんが読んだら、どう反応するだろうか?もっとも、我らがネトウヨさんの日本デヴューでの初陣は、『戦艦大和の最期』を読んで、吉田満を「サヨク!」、「反日!」よばわりしたことだ。

さて、唐突だが、最近のユダヤ系英国人戦略学者の見解を見てみよう;

一九三七年十二月(十三日)に日本軍は街(南京)を占領した。彼らは入城したとたんにやりたい放題の状態となり、約六週間にわたって殺人、略奪、強姦を行った。彼らは国民党軍の軍人を探すためと主張したが、それでも残虐行為を正当化することはおろか、それを説明できなかった。今回は「ニューヨーク・タイムズ」紙のF・ティルマン・ダーティン記者が自分の目撃した恐怖を語っている。彼はこの激しい暴力を「戦略的なもの」であるとして「日本軍は、日本に抵抗した結果の恐ろしさを中国人に印象づけるために、できるだけ長く惨状を残したいと考えているようだ」と説明している。 L・フリードマン、『戦争の未来』2017年(奥山真司 訳 2021年)、第6章 総力戦

会津と南京で「活躍」したのは、我らが「皇軍」である。もちろん、村松剛は1868年と1937年の皇軍を同一視をしていない。薩長軍は赤軍に同一化されたのだ;

 薩長の藩兵が会津で行ったことは、第二次世界大戦の末期にソ連軍が満州やベルリンで行ったこととほぼ同じである。掠奪強姦が、白昼あたりまえのようにくりひろげられた。 村松剛、『歴史に学ぶ』 会津の悲劇

 


新しい街でもぶどう記録;第460週

2023年09月09日 18時00分00秒 | 武相境

▲ 今週のみけちゃん
▼ 新しい街でもぶどう記録;第460週

■ 今週の武相境斜面

■ 今週の花

■ 今週の10%引き

 

パイン&ココナッツ ココナッツ入りのカスタード風クリームとパイナップルを合わせたジューシーなデニッシュ。
・白桃パイ 夏季限定 サイト無効中

神戸屋エクシード

■ 今週気づいた「古い」教会、あるいは、住宅より早く

筑波みことば教会は茨城県つくば市東のプロテスタント教会です。同教会 web site

上の画像は1984年の筑波大学学生新聞から。住所が、谷田部町東、となっている。

40年前からあったのだ。下の1984年の航空写真で「+」の位置。右の楕円が梅園公園、左端の林が赤塚公園。

図中の西大通りという文字の右は、鉄塔の絵。これは、気象研究所の気象観測鉄塔。これは1975年にできたらしい。昔はつくばのランドマーク的存在だった。しかし、2011年に撤去された。

ソース

■ 今週のおフランス

フランス、学校でのアバヤ着用禁止

Google

フランスの行政裁判所の終審である国務院は7日、イスラム教徒の服「アバヤ」の学校での着用を禁止するとした政府の決定を支持し、差別的で憎悪をあおりかねないとするイスラム教系団体からの訴えを退けた。 (ソース)

■ 今週借りて読んだ本

 

神谷光信、『村松剛』。2023年4月刊行。法政大学出版、4,500円。ごめんよ、買わなくて、法政大学出版と著者。読みやすく、たくさんのことが書いてあり、とても勉強になった。 ⇒ 出版社による本書情報:『村松剛』 

出版社の内容紹介;

東西冷戦期、福田恆存や江藤淳と似た「保守」の立場から活動したフランス文学者・文芸評論家、村松剛。小林秀雄との出会い、ヴァレリー研究、アイヒマン裁判の傍聴、アルジェリア戦争の取材、中東戦争への眼差し、内閣調査室への協力、三島由紀夫や遠藤周作らとの人的交流。その生涯を丹念に追い、いかにして議会制民主主義を尊ぶ保守派のリベラル知識人となったのかを記す、初の評伝的一冊。法政大学出版

特徴は公知情報に基づく評伝。村松を知る人へのインタビューなどから得られる未公開情報はない。さらに、評伝の進め方は、複数の各テーマについて、村松と同時期にその問題を考えた人の見解を紹介して、村松の見解と比較して村松の特徴をはっきりさせる方法をとっている。例えば、中東問題では板垣雄三、日米関係の問題では江藤淳とか。繰り返すと、この本は(おそらく)すべて公知情報から成り立っている。その整理、提示の仕方が「独創」である。なお、村松剛の公知文献、出版物のリストはあるが、新聞、雑誌への寄稿のリストはない。したがって、村松が「世界日報」や統一教会系の雑誌(「思想新新聞」)に寄稿していなか、明らかにされていない。

本業はフランス文学、ヴァレリー、その後、(フランスの植民地の)アルジェリア、イスラエルに行き、当地の知見を深める。さらに米国にも滞在し、体験記を書く。これら日本から地理的に離れた水平的に隔離した視点から日本を見る水平的視線、そして、後醍醐研究という歴史的に現代日本から離れた垂直的視点という2つの視点から現状を見て、評論、情勢論を書く。背景が海外見聞と強記博覧。こういう背景で、村松は公知情報から、日本の素人向けの解説書が多い。これはよい商売になったのだろうが、後世に残る創作物とは言い難い。村松は死の直前、偉大な創作を残せなかったと遠藤周作に云ったとされる。余談だが、遠藤周作の作品は遠藤の死後もものすごく売れているそうだ [1]。

[1] 何といっても一番売れているのは『沈黙』です。遠藤さんが亡くなった後で、文庫だけでも40万部出ています。(出典)

▼ 始まりは小谷野敦学術博士

小谷野敦学術博士が2007年に指摘した:「なお村松剛には年譜がないようで、これには驚いた」。(jun-jun1965の日記 2007-12-21 南日恒太郎と村松剛)。同年、小谷野博士は「村松剛を見損なう」と書いている。見損なったということは、それまでは、高く評価していたことを示している。村松剛のどういう点を評価していたのか、わからない。そして、出た。村松剛の評伝。この書への小谷野博士の評がある(神谷光信「村松剛: 保守派の昭和精神史」アマゾンレビュー(削除された))。

なお、小谷野博士は、下記、云っている;

学者というのは、定年退官、退任する際に大学紀要に年譜が載ることが多くこれはいい資料になる。東大には紀要がないが、比較文学の人は『比較文学研究』に載るともいえるが、実際は著作一覧だけである。あと東大教授の場合は学会誌に載ったりする。 
 しかし時おり、載らない場合があって、片々たる学者ならそれでもいいが、割と重要な学者の年譜がなかったりする。村松剛が、ない。 (2011-07-03 パヴェーゼに挫折する

1992年に村松 剛先生略歴・著書目録 (村松剛先生退官記念号)がある。

▼ 『村松剛』の著者、神谷光信 さんについて

村松剛の評伝を書いた神谷光信 さんとはどんな人なんだろう?と素朴な疑問がわく。著者紹介には下記ある;

1960年横浜市生まれ。関東学院大学キリスト教と文化研究所客員研究員。昭和文学会会員。博士(学術)。著書に『ポストコロニアル的視座から見た遠藤周作文学の研究』(関東学院大学出版会、2017年)ほか。 (もっと詳しいプロフィールはこちら

関東学院大学キリスト教と文化研究所の研究員であり、遠藤周作の研究家であるということは、キリスト教徒なのだろうと思い込んだ。さらには、『須賀敦子と9人のレリギオ カトリシズムと昭和の精神史』という著作がある。

なお、先日本屋に行ったら、『世界文学としての遠藤周作文学:ポストコロニアリズムと移動の観点から』(Amazon)、董 春玲、という本があった。ポスコロと遠藤周作、流行っているのか?

神谷光信 さんはキリスト教徒なのだろうと思い込んだのは、神谷さんっていうのだから、神谷美恵子さんの縁者なのかもしれないと空想が広がった [2]。違った。神谷光信 さんはキリスト教徒ではないそうだ。御本人のインタビュー記事がネットにあった;

2017年9月 放送大学博士号(学術)取得 神谷光信 さん(取得時57歳 )
文学を通して、世界を美しくしていくための人間的努力なのですソース

⇒ 神谷光信 さんTwitter

⇒ 書評 竹内洋  醒めた保守の論壇史 『村松剛』神谷光信著

[2] 今、ネットでググったら、あった: 神谷光信 さん、神谷美恵子さんを語る(彼のblog

▼ 以下、神谷光信、『村松剛』に関すること、本書には関係ないが村松剛についての思いつき

● 愚ブログと村松剛

おいらにとって、村松剛で印象的なのは、彼が進駐軍相手の闇商売で成金となったことと、幕末の安政の「大獄」についての事実の提示のふたつ。前者はこの愚記事で書いた。動機は統一教会問題。一方、後者は愚ブログの早い時期。こっちの記事。ただの引用であったが、おいらの明治維新・再認識の「おはよー!」体験でのこと。

もっとも、村松剛の代表作の『死の日本文學史』と『醒めた炎 木戸孝允』を読んでない。時評を中心に読んだのだ。

● 遠藤周作ー村松剛

なぜ神谷光信 さんが村松剛の評伝を書いたかの動機ははっきりと書いたものを確認していないが、推定できる。神谷光信 さんは遠藤周作について博士論文を書いた。遠藤周作と村松剛は若いころから死ぬまで交友があった。遠藤周作は村松の葬儀で弔辞を読んだ。神谷光信は『村松剛』は、博士論文からの「派生」なのだろう。

おいらは、去年9月に、遠藤周作が書いた村松剛像を引用した。遠藤周作と村松剛は深い仲だったのだ。今思えば、『西欧との対決』にも遠藤周作論があった。

● 最も受難した保守知識人

村松剛の特徴は左翼からの受難。1960年末の大学紛争の時、立教大学教授を辞めている。名目が懲戒免職なのだという。後、これは歴史に残すべきテロ事件だと思うだが、1990年の筑波大の村松剛居住である大学官舎の焼き討ち事件。

● 心の隙間?

村松剛を知ったのは1980年代初頭。おいらは10代の頃からソ連が嫌いで(米国も嫌いだったが)、反共主義の本を探していていた。勝共系の人たちの本もみた。読んで、違和感があった。その理由がわかった。勝共系の人たちというのは、かつて共産主義運動(山村工作隊とか)に参加し、党に裏切られ(と本人たちの認識)、運動に挫折した人たちなのだ。元アカ。その挫折でできた心の隙間を埋めるための思想、それが勝共思想と気づいた。典型例が、福田信之。そういう中で、村松剛を知ったので、この人もその種の人なのではないかと考えてきた。なにしろ、筑波大学にいたので。当時、雑誌、正論や諸君での村松の論文を読んで、その主張に関心をもったのだと思う。ただし、単行本には(本屋でみなかったので)縁がなく、今手元にある文庫、『帝王後醍醐』、『血と砂と祈り』を1980年代初頭ー中頃に買った。『血と砂と祈り』のアルジェリア兵士と肩を組む村松の写真は印象に残った。それでも、村松剛は統一教会系/勝共系のひとではないかという疑念は払拭できなかった。冷戦時代だ。

その後、冷戦が終わり、昭和の終焉と湾岸戦争で、村松は皇室論、主権国家論で活発化する。その頃の本を読んだ。

村松剛についてはその「本性」が別途あるのではないか?という疑問が抜けなかった。つまり、ある種のキリスト教、もっといえば統一教会の「エージェント」=宣伝工作員ではないかという疑問だ。本書(『村松剛』)により、他の家族はそうであったのに、村松剛はキリスト教徒ではなかったと、おいらは知った。なお、情報元は入江隆則。

 妹の英子は一九七八年、両親、娘とともにカトリックの洗礼を受けた。しかし、入江隆則に拠れば、本人は「キリスト教は、「村松剛の思想の否定を意味する」として強く拒んでいるとのことだった」(『衰亡か再生か 岐路に立つ日本』)。カトリシズムは西洋文明の骨格であるから、日本人として人生を締めくくるにあたり、「終油[病人塗油]の秘跡」を拒むことで「攘夷」に徹したかったのだろうか。われわれに残された謎である。  神谷光信、『村松剛』

● 東大仏文の御家芸?

村松剛は東大仏文の出身。博士課程を満期終了するまで、つまり1959年まで、在籍していたのだ。本書で渡辺一夫との接点を知ったし、ヴァレリーで加藤周一との比較も興味深かかった。加藤周一が出てきて、ああ、ビンゴと、おいらが思いついたことがあった。加藤周一が辰野隆のマラルメについての講義に出ると、マラルメの借りた家の家賃がいくらかであったかを詮索していると驚く。落ちがあって、中村真一郎に愚痴ると、「運がいい。今年はマラルメの話だ。マラルメ誕生まで講義が1年かかった」。この家賃がいくらであったかということでマラルメとその時代を把握しようとする姿勢。思い出した。村松剛の『帝王後醍醐』。

 こんな状態でも米価は建武元年に一斗百文(『護国寺供養記』)で、それほど暴騰というわけではなかった。若狭が飢饉という報告があるが、一般には天候に、どうやらめぐまれたらしい。酒は一升二十文、兎が都では一羽九十五文である(『東寺百合文書』)。昭和五十三年の米価を基準にすると、酒一升が千円、兎が一羽五千円前後になる。 村松剛『帝王後醍醐──「中世」の光と影』

物価に敏感。東大仏文のお家芸?

● コラボで金持ち東大院生

 おいらにとって村松剛の属性で一番興味があるのは、村松が学生時代(彼は博士課程満期までやっているので、長い)進駐軍相手の「闇商売」をやって、大儲けしたこと。この学生時代の闇商売を語った1986年に「今より、金もちだった」といっている。この時村松は筑波大学教授だから、年収1000万円をもらっていなかったであろうが、学生時代に1000万円程度(以上)の稼ぎがあったと証言していることになる。なお、村松には自伝はなく、自分について体系的に語った文章はない。この点も村松剛の特徴である。もどって、コラボというのはフランスでドイツによる占領時代にドイツに協力した人たち;コラボラシオン: Collaboration。

 村松剛の属性の最大特徴は博覧強記で、情報整理能力が高いことである。一方、その能力が高くても元の情報が必要だ。神谷光信『村松剛』には書いておらず、さらにはどこにも書いていない、おいらの推定では、「闇商売」をやって、大儲けした金で、洋書・外国雑誌をたくさん買ったのではないか?当時の知的活動の多寡は、入手する情報が重要だ。小林秀雄は辰野隆からヴァレリーの本を貸してもらえたから仕事ができた。

● 大帝後醍醐の時代;地方史の重要性

『村松剛』第17章 和服を着た肖像では、日本史三部作のひとつ、『帝王後醍醐──「中世」の光と影』について書かれている。その中で、後醍醐を知るためには地方史研究が重要であり、村松は各地方の歴史家と交流し、歴史を研究し、『帝王後醍醐──「中世」の光と影』を書いた事情を説明している。後醍醐と地方史で思いついた;

村松の『帝王後醍醐──「中世」の光と影』の後、後醍醐論『異形の王権』を書くことになる網野善彦は、「茨城県」の中世史も書いている。なお、網野の『異形の王権』では、村松の『帝王後醍醐──「中世」の光と影』に言及し、後醍醐とその父後宇田との疎隔について述べるところで参照文献として挙げ、

村松剛『帝王後醍醐──「中世」の光と影』が細かく辿っているように、後醍醐の母忠子は亀山に寵愛され、亀山は孫後醍醐を一旦、皇太子にしようとしている。後宇多・後醍醐の父子関係は、この点からも疎隔があったのである。(強調:おいら、網野善彦『異形の王権』)

と云っている。

ここで、目を引いたのが、後醍醐の歴史そのものより、「細かく辿っている」。

● 細かく辿る村松剛

「細かく辿っている」がビンゴ!ビンゴ!ビンゴ!。なんのことかというと、村松剛の「レポート」は、細かいのだ。たとえば、中東戦争の解説。たしかに、村松剛は細かい。

 

● 情勢論/原理論

「細かく辿っている」の続き。下記の神谷光信の指摘は興味深い;

村松は中東情勢に関する該博な知識を披露しているが、全編を通してそこで述べられているのは情勢論であり、原理的省察ではない。

 村松の分析が情勢論に傾きがちであることは事実である。(中略)アメリカ合衆国とその「保護領国家」日本との関係も、イスラエルとパレスチナとの関係も、村松はそれぞれのケースにおける情勢論、状況論、相対主義で捉えている。それゆえ判断の基準が揺れ動く。  神谷光信、『村松剛』 p240 ch13

● ひっかかること

神谷光信、『村松剛』では村松像を現すため、類似の人物を比較参照として示し、相違を明らかにする方法を撮る。対外関係についての村松剛の態度・見識を「現実的な開化論」とし、対照となる江藤淳を「攘夷論、民族主義」とする。

大著『醒めた炎 木戸孝允』(一九八七年)で幕末明治を雄勁な文体で描くことになる村松は、本来は主知的な「現実的な開化論」の立場なのであって、西郷隆盛論『南洲残影』(一九九八年)を情念に満ちた文体でロマン主義的に描いた江藤淳が「攘夷論、民族主義」であったのとは対照的である。村松剛のナショナリズムは右翼的心情とは無縁である。 神谷光信、『村松剛』(p136 ch9)

これはよくないと、感じた。類型で考えている。しかも、スナップショット。江藤も村松も対外関係、特に対米関係は愛憎半ばし、時に矛盾した見解、感情をもってきた。なにせふたりとも著作活動の期間が長いのだから、時代や状況でも変化する。たしかに、江藤の晩年の西郷隆盛論について、江藤への驚きが表明されている。一方、江藤はアメリカを嫌いだとは一言も云っていないが、村松はアメリカという国は好きになれないと明言している。つまり、複雑なのだ。それを、「現実的な開化論」とか「攘夷論、民族主義」とか類型化し、決めつけてしまっている。

神谷光信、『村松剛』にはたくさんの情報があり、それらを読みやすくならべるため方便が必要なのは理解する。そして、とても勉強となった。しかし、一方、それら事実に対する批評的な点では、ひっかるところがあった。文章とはなめるように読むべきものだと、おいらは、考えるからだ。

● 村松剛の「細かく辿る」癖との対蹠的文学者たち

湾岸戦争での日本の文学者たちの声明についての神谷光信のコメント;

 さて、文学者の反戦声明に関する当時の文章を読むと、イラク、クウエート、サウジアラビア、イスラエルといった中東諸国の政治状況への言及がほとんど存在しない事実に驚かされる。紛争地域への関心がなければ、そもそも反戦の主張は成立しないし、批判もありえないのではないだろうか?当事者たちの現実とまったく関係のないところで議論が行われている印象を拭いきれない。批判者も含めて、彼らは一体、何に「アンガージュマン(政治参加)」したのだろうか。 p368 ch20 湾岸戦争

 文学者の反戦声明を起草した文学者たちは日本国憲法に根拠を定めるしかなかった理由は何であろうか。それは彼らが中東地域の歴史と政治の理解に乏しく、詳細な分析を行うことが不可能だったからではないだろうか。 神谷光信、『村松剛』

詳細な中東地域の歴史と政治の理解を有したのが村松。

● ビンゴ! 四方田犬彦ー村松剛

神谷光信『村松剛』の年譜にある。1990年、モロッコの作家モハメッド・アジズ・ラバビと会見。同席者が、平岡千之、小林康夫、四方田犬彦。村松剛と四方田犬彦に接点があったのだ。なお、神谷光信『村松剛』によると村松と由良君美は東京高等師範学校附属小学校で一緒だったらしい。

四方田犬彦はこの神谷光信『村松剛』の書評を書いているとのこと(「週刊金曜日」(1426号、2023年06月02日発行)。

あと、四方田犬彦と村松剛の共通点は、コリア。政治的立場の違いはあろうが、両者とも1980年頃、コリアに入れ込んでいる。村松剛の韓国との交流はこういう(サンケイグループ系)「保守派」の影響下でのものだろう。


https://twitter.com/jomaruyan/status/1157307690156085249

● 筑波大学

村松 剛は1974年8月に筑波大学の教授となる。筑波大学は1974年4月に第1期生を受けれたらしいので(エビデンス)、開学メンバーではなかったのだろう。都会人の村松はどうやって暮らしていたのだろう。週に数日、東京から通っていたのか?1974年の筑波大ってこんな感じ↓。


リンク  上:1974年 下:現在

村松 剛は、1974-1992年、18年間、勤める。筑波大学での活躍の様子は下記リンクの学生による追悼文からわかる。

<遣悼> 村松 剛先生を偲んで

https://www.google.com/url?sa=t&rct=j&q=&esrc=s&source=web&cd=&cad=rja&uact=8&ved=2ahUKEwjji_a_z5yBAxWNVd4KHRRWCJAQFnoECBAQAQ&url=https%3A%2F%2Ftsukuba.repo.nii.ac.jp%2Frecord%2F4303%2Ffiles%2F8.pdf&usg=AOvVaw13d0KcJheaWvh5LM47xbwO&opi=89978449

● テロと維新と、村松剛

1990年に村松剛は居住していた筑波大学官舎を極左集団により焼き討ちされる。この背景には昭和の終焉で、天皇論が活発となり、尊皇派論客として村松は目立ったのだろう、なおこの頃、西部邁と意気投合したらしい。おいらは、座談会で西部が天皇について原理論的な立場からそのあり方を述べると、松村から「過激だね~」と感嘆、感心されていたと記憶している。そして、村松つくば住居焼き討ち

西部邁によればこうだ;

 夕方のTVニュースで筑波大学の村松剛氏の公務員宿舎が爆破されたと知った。瞬間発火温度は一三〇〇度だ、とのことだった。熟年者(西部のこと)はすぐ村松氏の自宅(留守電)に見舞の言葉を入れた。(西部邁『ファシスタたらんとした者』)

これは明らかなテロ行為である。村松剛は不幸中の幸いで現場にいあわせなかった。さて、村松剛は、南ア問題でマンデラ氏をテロリストとして非難している。中東問題では、テロリズムを非難している。PLOのアラファト議長をテロリストと呼び、その来日を非難している。ところで、焼き討ちといえば、駐英公使館焼き討ち事件がある。幕末維新での出来事だ;

英国公使館焼き討ち事件は、文久2年12月12日(1863年1月31日)江戸品川御殿山で建設中のイギリス公使館が焼打ちされた事件。隊長:高杉晋作、副将:久坂玄瑞、火付け役:井上馨、伊藤博文、寺島忠三郎、護衛役:品川弥二郎、堀真五郎、松島剛蔵、斬捨役:赤根武人、白井小助、山尾庸三ら (wikipedia

「保守」知識人の明治維新に対する認識は重要だと思う。おいらは、村松剛の代表作とされる『醒めた炎 木戸孝允』をまだ読んでない。そして、偶然なんか、何なのかわからないが、英国公使館焼き討ち事件参加者に木戸孝允の名前が見えない。

● 天皇親政問題、あるいは、クーデター(革命?)政権の正統性

明治維新の正統性は天皇が維新勢力に勅を出したことにある。天皇が幕府打倒を命じたという建前となっている。賊臣慶喜を 殄戮せよ。この明治維新がなぜ実現できたかたというと、天皇の命令による鎌倉幕府の討伐という先例があるからだという。その先例としての建武の中興を描いたのが、村松剛『帝王後醍醐──「中世」の光と影』。この天皇の命令による現体制転覆=天皇親政の合理化が、現在や今後に適用できるか、すべきかは議論があるだろう。もし、三島由紀夫のあの事件を合理化するとすれば、この論で合理化できる。錦旗革命。あるいは、明治維新がよくて、なぜ今後の維新が認められないのかという合理的説明はあるのか?今は議会制があるだろうというのは、有効な反論になるとは限らない。今後の錦旗革命は認められないし、明治維新もよくなかったという見識があってもよい、むしろ、保守とはそういう見識をもつことではないかと、おいらは、思う。

● ジェノサイド(大量殺人)の街とその不確かな対米認識

おいらは、今回、神谷光信『村松剛』を読むまで、村松がアイヒマン裁判を傍聴し、見聞録を書いたとは知らなかった。というか、村松剛についてほとんど知らなかったのだ。おまけに、おフランスなぞ無縁なので、ヴァレリー、アンドレ・マルローなぞ読んだこともない。ただ、20年ほど前、他人(ひと)から『ムッシュー・テスト』(岩波文庫)をもらったことがある。未だに積読であった。なお、おいらの人生で他人様から本をもらったのはこれくらいだろう。くれた人はネットのオフ会で出会った人で、未だに本名を知らないし、なぜこの本をおいらにくれたのかもわからない。

さて、村松剛は東京生まれ、東京育ち、敗戦の玉音放送も東京で聞いた。東京といえば1945年3月9日の墨東地区に始まる空襲により、民間人大量殺害が行われた街である。村松剛は、アイヒマン裁判を契機に『大量殺人の思想』という本を出したのだという。今度、読んでみたい。でも、大量殺人の思想というのであれば、米軍の東京でのジェノサイドの思想的背景も検討すべきでないだろうか?村松剛に限らず、日本の「保守派」で、米軍の東京でのジェノサイドについて、『大量殺人の思想』を検討した例を聞かない。

たしかに、村松剛は、早くから、1970年から、江藤淳より早く、検閲批判を含む米国の占領政策を批判している。でも、米軍の東京でのジェノサイドとその思想については言及していない。

● 村松剛 本

2022/9/4にもっている村松の本を集めて、画像を撮った。このとき、『ユダヤ人』、『血と砂と祈り』、『悲劇は始まっている』、『西欧との対決』を集めそこねていた。さらに、神谷の本を読んで、『動乱のヒーロー』を購入した。

■ 今週返した本(全)

 

 


ぐるっとパス2023: [その8] パナソニック汐留美術館/ジョルジュ・ルオー、WHAT MUSEUM/ ART de チャチャチャ 高橋龍太郎コレクション

2023年06月11日 13時04分58秒 | 武相境

 

ぐるっとパス2023年。 第8日目。
ぐるっとパス2023: [その1] 東洋文庫ミュージアム、六義園(りくぎえん)、旧古河庭園、旧岩崎邸庭園
ぐるっとパス2023: [その2] 東京都庭園美術館、泉屋博古館東京、大倉集古館
ぐるっとパス2023: [その3] 帆船日本丸/横浜みなと博物館、そごう美術館 さくらももこ展
ぐるっとパス2023: [その4] 神代植物公園、八王子美術館
ぐるっとパス2023: [その5] 町田市立国際版画美術館
ぐるっとパス2023: [その6] 松涛美術館、長谷川町子美術館
ぐるっとパス2023: [その7] 熊谷守一美術館、古代オリエント博物館、永青文庫

ぐるっとパス2023(web site)を使った都内巡り、第8日目。「海岸」方面。地下鉄・浅草線で新橋駅に行く。パナソニック東京汐留ビル(超高層ビルGallery)の4階にあるパナソニック汐留美術館。「開館20周年 ジョルジュ・ルオー かたち、色、ハーモニー」をみる。その後、浜松町駅まで歩く。各停のモノレールに乗り、天王洲アイル駅へ。WHAT MUSEUMに行く。

■ パナソニック汐留美術館/ジョルジュ・ルオー

ジョルジュ・ルオー(Georges Rouault, 1871年5月27日 - 1958年2月13日)は、フォーヴィスムに分類される19世紀~20世紀期のフランスの画家。

ルオーは、パリの美術学校でアンリ・マティスらと同期だったこともあり、フォーヴィスムの画家に分類されることが多いが、ルオー本人は「画壇」や「流派」とは一線を画し、ひたすら自己の芸術を追求した孤高の画家であった。wikipedia


パナソニック東京汐留ビル(左手)、右は旧新橋駅。

パナソニック汐留美術館 web site: ジョルジュ・ルオー― かたち、色、ハーモニー ―

19世紀末から20世紀前半のフランスで活躍した、最も革新的な画家のひとり、ジョルジュ・ルオー(1871-1958)。宗教的主題や、晩年の輝くような色彩で描かれた油彩、デフォルメされた親しみやすい人物像は、多くの人を魅了し続けています。本展は、当館開館20周年を記念するルオーの本格的な回顧展です。ルオーが、自身の芸術を語るのに繰り返し用いたことば「かたち、色、ハーモニー」をキーワードに、画家が影響を受けた同時代の芸術や社会の動向、二つの大戦との関係にも触れながら、ルオーの装飾的な造形の魅力に迫ります。
本展には、フランスや国内の美術館より、ルオーの代表作が集結します。パリのポンピドゥー・センターが所蔵する晩年の傑作《かわいい魔術使いの女》や《ホモ・ホミニ・ルプス(人は人にとりて狼なり)》、手紙やルオーの詩など、本邦初公開作品を含む約70点が会場に並びます。日本におけるルオーの最も充実した回顧展のひとつとなることでしょう。公式サイトの展覧会概要

 

展覧会のみどころ

1.フランスや国内の美術館等より、本邦初公開作品含むルオーの初期から晩年までの代表作が集結。
当館では開館記念展以来となる本格的な回顧展です。
2.ルオー作品の「かたち、色、ハーモニー」の形成に影響を与えた、モローやセザンヌなど同時代芸術家との関係を浮き彫りにします。
3.戦争期に描いた重要作品《ホモ・ホミニ・ルプス(人は人にとりて狼なり)》や《深き淵より》が日本初公開。
ルオーによる人間の苦悩と希望の表現に迫ります。公式サイトの展覧会概要


第Ⅴ章の展示ブースは撮影可能

  第Ⅴ章 旅路の果て―装飾的コンポジションへの到達

1930年頃より作品に出現し始める明るい色彩と柔らかく安定感のあるフォルムは、1939年頃より次第にその特色を強めていきます。そして最後の10年間には、色彩はますます輝きを増し、形体と色彩とマティエールとが美しいハーモニーを奏でる油彩画が数多く生まれます。本章では、ルオーが最晩年にたどり着いた、「かたち、色、ハーモニー」の究極的な表現を検証します。


《キリストとの親しき集い》1952年 パナソニック汐留美術館


左:《受難(エッケ・ホモ)》1947‐49年 ポンピドゥー・センター、パリ/国立近代美術館
右:《かわいい魔術使いの女》1949年 ポンピドゥー・センター、パリ/国立近代美術館

▼ この展覧会の案内、解説、レヴュー

・萩原敦子 私のイチオシコレクション   絵の具塗り重ね 深み生む
・美術展ナビ 岡部匡志 「聖」も「俗」も包み込む造形と色彩の魔術
・美術展ナビ 学芸員に聞く 前編 見どころは? ルオーが目指した表現とは?
・美術展ナビ 学芸員に聞く 後編 鑑賞のポイントやおすすめの作品を紹介

■ WHAT MUSEUM/ ART de チャチャチャ 高橋龍太郎コレクション

WHAT MUSEUMについて

寺田倉庫 wikipedia

寺田倉庫(てらだそうこ、英語: Warehouse TERRADA)は、東京都臨海部の天王洲アイル(東京都品川区)に本社を置く倉庫業者。基幹事業の保存保管事業では、ワイン、アート、映像フィルムなど、各商材に適した温湿度管理による保管と、倉庫会社の枠を超えた新規事業を展開している。 

高橋龍太郎コレクションは、日本屈指のアートコレクターである精神科医・高橋龍太郎氏が1997年から本格的に始めた現代アートコレクションで、現在3,000点を超える作品を所有しています。本展では、日本の現代アートの多様性を包括的に見ることができる同コレクションより岡村桂三郎、鴻池朋子、菅木志雄、山口晃、横尾忠則など、日本の長い歴史の中で築き上げられてきた文化や芸術、価値観を継承しながらも独自の視点で再解釈し、新たな形や方法で表現している作家の作品を中心にご紹介します。

日本の文化・芸術は時代の変遷とともに多種多様な外来文化を柔軟に解釈しながら受容し、発展してきました。現代アートの作家が日本独自の柔軟性と感性を受け継ぎ、その文化・芸術と向き合い葛藤して獲得したオリジナリティには世界にも類を見ない強度がみられます。本展では、日本の伝統文化・芸術の中に、現代の作家たちが何を見出し、どのように自らの表現へと昇華させたのかを探ります。展覧会を通して、日本の現代アートのDNAを探求しながらその魅力を新たに発見し、これからの現代ニッポンのARTを応援するきっかけになることを願います。主催者 web site


岡村桂三郎 <<獅子08-01>> 
⇒ダイヤモンドオンライン 岡村桂三郎 宗教的行為の一部として描く

 


東京/神奈川 都県境散歩:JR成瀬駅 ⇒ 恩田川 桜並木 ⇒ 成瀬尾根道⇒こどもの国駅

2023年04月02日 12時19分02秒 | 武相境

JR成瀬駅から、恩田川の桜並木を見て、成瀬奈良谷戸、成瀬尾根道の都県境を通り、こどもの国駅へ行く散歩をした。この地域は、南北に東京と神奈川県の都県境が走る。都県境は開発されいない区域が多い。

1;JR成瀬駅、2;成瀬中央橋:恩田川 桜並木、3;成瀬高校付近、4;東雲寺入口交差点、5;成瀬奈良谷戸付近、6;成瀬三丁目交差点、7;しあわせ野付近:尾根への登り口、8;都県境の尾根道、9;こどもの国駅


1960年代航空写真(左)、現在航空写真(右)

■ 1;JR成瀬駅 ⇒ 2;成瀬中央橋:恩田川 桜並木


町田市立総合体育館


成瀬中央橋

■ 恩田川沿い 桜並木

■ ⇒ 3;成瀬高校付近、4;東雲寺入口交差点、

杉山神社(すぎやまじんじゃ)は、主に五十猛神(スサノオの子)や日本武尊を主祭神とする神社である。旧武蔵国における式内社の一社とされるが、その論社とされる神社は現在の神奈川県横浜市を中心に川崎市、東京都町田市、稲城市などに数十社存在する。 

杉山神社は周辺地域に住む民衆の信仰の中心として鶴見川水系沿いを中心に拡大したとされるが、謎の多い神社である。wikipedia

五十猛神(イタケルノミコト) [wiki]を初めて知る。


東雲寺  曹洞宗東雲寺web site

■ ⇒ 5;成瀬奈良谷戸付近

■ 6;成瀬三丁目交差点 ⇒ 7;しあわせ野付近:尾根への登り口


東京都・神奈川県の都県境を貫く隧道:成瀬尾根トンネル

■ 8;都県境の尾根道

成瀬尾根道を行くと、東西に走る切通しに出会う。ここで、尾根道から降りて、右折。東へ向かう。

■ ⇒ 9;こどもの国駅

▼ まとめ

東京都 町田市 南成瀬 成瀬 成瀬台

神奈川県 横浜市 奈良町