いか@ 筑豊境 寓 『看猫録』

Across a Death Valley with my own Distilled Resentment

仙台参り⑤ 仙台の攘夷派

2005年05月28日 20時40分08秒 | 仙台・竹雀・政宗
■「幕末維新」を理解するために、攘夷派/開国派あるいは勤皇派/佐幕派などいう概念軸で人物や組織を割り切ろうとされているが、なかなか難しい。なぜなら明治新政府は攘夷なぞしなかったし、尊皇といえども孝明帝のときは御所に帝を奪取しようと攻撃した(蛤御門の変)。ただがきんちょのむつひとさんを手中にしたから尊皇ということになったのである。

■しかし、「幕末維新」の初期、水戸浪士が大老・井伊直弼を殺害したころは攘夷という政策はインパクトがあった。なぜなら、孝明帝がゼノフォビアであったからである。ゼノフォビアとはガイズンキョーフ症。孝明帝の臣下への攘夷希望はとても強かった。自分で攘夷するわけにいかないので、臣下に頼むしかない。さて、天皇がものを頼むと、そりゃ、たくさんのヌホンズンが手を挙げます。当然です(だからこそ皇室は言動に気をつけねばなりません)。これで日本全国に「尊攘志士」なる大真面目なチンピラ兄ちゃんが蠢出する。
 
■さて、昨日の島津久光の兵卒上京の際、京都で寺田屋事件をおこした。これは、久光出兵を尊皇攘夷の挙兵と勘違いあるいは願望した上記チンピラ兄ちゃんが跳ね上がりと久光に認識され粛清された事件である。久光はこのひとつの「問題解決」を成し遂げたことで「威」があがった。こういう「尊攘志士」は特に水戸、長州に出た。

■仙台ではどうであったかというと、チンピラ兄ちゃん系と紹介されている(仙台市史 近世3)のは桜田良佐。清河八郎と交流があったとされる。むしろ、仙台の尊攘派は重臣にいた。遠藤文七郎允信。彼は藩主・伊達慶邦の命で上洛したとき、攘夷の建白書を独断で朝廷に提出。孝明帝は直接これを見て満足の意を示したとされている。この後、朝廷は将軍・幕府の攘夷決行を約束させ、各大名に攘夷決行の内勅を出している。ただし、藩主・伊達慶邦は、「すでに五カ国条約が結ばれ使節往来の礼節も済んでいることであり、相手から不義無法の乱暴があれば断固として攘夷すべきであるが、こちらから戦端を開くのは非とする意見書を記している。」(仙台市史 近世3 p484) つまり、跳ね上がりの重臣の空手形を落とすことはなかったのである。

■薩摩や長州で重臣クラスで攘夷を本気でやろうとしてた人物がいるのかは、おいらは、知らない。いるのかもしれないし、いなにのかもしれない。これから調べる。ただ、長州との違いは下級武士クラスでの「攘夷志士」が仙台では少ないということ。





街から青葉山方面への道。大橋の上。
この下が広瀬川。
仙台は河岸段丘の街。青葉山といっても上は平地。
青葉城はそこにあった。



仙台参り④ 幕末の仙台

2005年05月27日 07時28分28秒 | 仙台・竹雀・政宗
仙台市博物館の企画展『動乱の幕末-仙台藩新時代への15年-』のねらいは、従来の「西南雄藩史観」への対抗でもある。すなわち、明治維新は、藩の改革を成し遂げ、外国と直接遭遇し、西洋文明を摂取し日本全体にさきがけて「近代化」した薩長など西南雄藩だからこそできた、という物語である。

そんな物語に対し、仙台は、ロシアの南下の脅威に対処するため蝦夷地の警備をし、西洋の技術に触れ開成丸を建造した。大槻磐渓に代表される基礎的学問の伝統蓄積も厚く、西洋学も摂取した。

それにしても、というかだからこそ、政権を奪取した薩摩とは結果的にとても違っていたといわざるを得ない。伊達慶邦が上洛したのは1863年。中学生の教科書にも載っている島津久光の上洛、江戸入りは1862年である。仙台伊達が京都の公家などに頼まれていやいや(?)上洛したのと、頼まれもしないのに鼻息あらく薩摩くんだりから兵1000を率いて京都と江戸に出張ったのは大違いである。島津久光は藩主でさえない。

鼻息あらく何事かをしでかさんとする意志。

人間これのあるなしでは全然ちがう。




大手門から仙台二高への道。

仙台参り③:【仙台市博物館】その2;片倉小十郎宗景

2005年05月23日 22時36分35秒 | 仙台・竹雀・政宗
片倉小十郎宗景。

初代片倉小十郎景綱から数えて11代目。

初代片倉小十郎景綱は伊達政宗の守役、のち家臣筆頭。

 わかる?

小十郎は片倉家当主のミドルネーム。 白石城城主。10万石。

家臣にして中小大名よりよっぽど「大名」。

片倉小十郎宗景。 藩主、伊達慶邦に従い上洛。1863年2月。藩主以下伊達勢は2200人。

1863年4月、孝明天皇は石清水八幡宮に攘夷祈願の行幸。

この孝明天皇の攘夷祈願を建前に、将軍・徳川家茂は攘夷実行の期限を5月との表明に追い込まれる。

そして、5月長州毛利は下関海峡の米、仏、蘭の商船に砲撃。 その時長州は、これは将軍・幕府の命令だと大義名分を嘯いた。

この大義名分は攘夷の勅書として、仙台伊達家にももたらされたが、藩主・伊達慶邦は、「すでに五カ国条約が結ばれ使節往来の礼節も済んでいることであり、相手から不義無法の乱暴があれば断固として攘夷すべきであるが、こちらから戦端を開くのは非とする意見書を記している。」(仙台市史 近世3 p484)

孝明天皇の石清水八幡宮に攘夷祈願の行幸、にもどる。

この行幸で片倉小十郎宗景は先駆役を努めた。展示したあった絵巻を見ると火縄銃に火をつけて、いつでも発砲できる状態で軍務について行列する片倉小十郎率いる伊達軍が描かれていた。

天皇の先駆けをする武士団、1863年の皇軍。片倉家家臣、1863年。これが最後の栄華の姿である。


孝明帝崩御、幼帝を担いだクーデター。時代は変わる。


戊辰戦争敗北後、仙台伊達家は62万石から28万石あまりに減封。

白石城片倉家は「召し放ち」、つまり主従関係の解消となる。

白石が接収されることとなってしまったから。

政宗と景綱以来の関係の消滅。

片倉家臣団は事実上の取り潰し。1868年。

京での天皇行幸のお供からわずか5年。


片倉家臣団の一部は北海道に渡る。それが現在の札幌市白石。


仙台参り②:【仙台市博物館】

2005年05月22日 21時20分36秒 | 仙台・竹雀・政宗
仙台参り②:【仙台市博物館】

<<企画展>>「動乱の幕末 -仙台藩新時代への15年-」

展示項目は;

プロローグ 世は幕末へ
1.幕末の藩主伊達慶邦
2.蝦夷地の警備
3.西洋に学べ
4.混迷する政局と慶邦
5.突入 戊辰戦争
エピローグ 新しい時代へ





開成丸。知らんかった。日本製としては初の鋼鉄艦船だそうだ。

伊達&船といえば、サンファンバウティスタは有名。江戸初期にこれまた仙台で建造され支倉常長を乗せて太平洋を渡った船。

この開成丸、竹雀じゃなくて、日の丸を掲げている。


 


仙台参り①:概略

2005年05月21日 07時30分14秒 | 仙台・竹雀・政宗
【北上】
朝八時半出発。東北道を北上。磐梯、安達太良あたりの山やまはまだその頂きに雪を残している。


【事故った】
12:30頃、仙台でインターから降りて一般道へ合流するとき、20トントラックに追突される。

1時間ロス

トランク開かなくなった。

【仙台市博物館】
企画展「動乱の幕末 -仙台藩新時代への15年-」

幕末の仙台伊達家の動向を示す史料の展示。

幕末維新で仙台伊達家は、薩長の新政府に対抗して奥羽越列藩同盟の盟主となり抵抗した。これは佐幕・勤皇の対立で、佐幕についたというものではない。徳川家が幕府をやめたので、大藩大名家として日本の主導権争いに参加せざるをえなった。奥羽越列藩同盟では上杉、新政府は薩摩島津、長州毛利など戦国時代に徳川家の競争者であって、かつ屈服し存続してきた大藩。彼らは大藩なので日本への責任がある。

よきにせよ、悪きにせよ、勝ったにせよ、負けたにせよ、仙台伊達家は幕末維新で大きな役割をした、内戦をしたのだから、わりにはその大きな役回りを仙台伊達家の誰がなにをしたのかは、薩長あるいは徳川家のそれらに比べると、世間一般には知られていない。一般書も少ない。

まず、人物名でいうと、伊達慶邦、大槻磐渓、玉虫左太夫など。

玉虫左太夫。仙台の「小栗上野介」みたい役回り。本が出てる。

玉虫左太夫『航米日録』を読む―日本最初の世界一周日記

ちなみにこの本、品切れですが、仙台市博物館のショップに複数ありました。仙台在住のひとはどうぞ。
仙台市博物館の政宗胸像

【八木山動物園】


【大手門跡  澱橋  48 木町通り 牛タン屋】

 
仙台の牛タンは、いま牛タンブームで日本各地で売っている薄切りのものとは違い、厚切り牛タンに切れ目を入れてかみごこちをよくしたもの。加熱は、煙ぼーぼーの直火でやくので「焼き」と「燻製」の効果が入っている。それで、牛タンがとても高くなっている。この「定食」で2000円近い。

【17:30 東北道南下】

22時過ぎ、帰宅。