昨日の続き、
■宮澤喜一さんは大蔵省に入省直後、占領地域を漫遊したが、高校時代には満州国に旅行している。
武蔵高等学校におりますときに、成績のいい者を外国へ夏に旅行させてくれるという制度がありまして、初めのうちはずっとアメリカに行っていたようですが、為替が悪くなりまして、私は友人と一緒に満州にまいりました。
(聞き手、 それは高等科のころですか。)
支那事変が始まったのは昭和12年ですから、その年でしょうか。ですから、非常に短い「幻」の満州を見た記憶があります。 (中略) それは、そういうふうに教育されたせいかもしれないんですが、これはやっぱり成功しないという、なにか先入観を持っていたような気がするんです。非常にbrutal(野蛮な)景色を見たわけでもありませんし、満蒙農業開拓団のところへ泊めてもらったり、いろいろな目に逢いましたが、全体として決して悪い印象ではありませんでした。ただ、これが大いに成功するだろうという予感は持たずに帰りました。(中略)一番いい時代であったと思いますね。連中の羽振りもよかったんでしょう。甘粕なんていう人が、ほう、こんなところにいるんだな、と思った記憶があったりします。 Amazon 『聞き書 宮澤喜一回顧録』
■一方、おいらの4回のデリー参りの「物見遊山」のネタ本は、Amazon 荒松雄センセ の『多重都市デリー』です。この本はデリー参りには欠かさず持ち歩いていました。
さて、その荒松雄センセの別書『インドとまじわる』に、19歳の支那旅行が書かれています。紀元は2600年の、対米英蘭に宣戦布告する前年に、一高のガクセー様であらさられた荒センセは、寮で同室であった友人と計3人で、北京、張家口、大同へと遊山している。これらの地域はこの時期日帝陸軍の占領地域であったことはいうまでもない。
もっとも荒センセは「回転」するらしい;
大同の町外れで遇った牛車の老人に頼んで雲崗の石仏寺の近くまで乗せていって貰ったのはよく覚えている。あの時は、竜門の石窟のことはもちろん、大同が北魏の都だった事実さえ知らない私だった。
東西交渉の歴史が残した中国の石窟寺院の意味を教えられたのは、帰国後、木下杢太郎の『大同石仏寺』を読んでからのことである。北京と済南やハルビンの風物への感慨と重なり合ったこの雲崗への旅行の感動が、私にアジアの歴史への眼を開かせ、私は、予定していた法学部への進学をやめて、文学部の東洋史学科へ入った。 Amazon 『インドとまじわる』
▼彼らは、日帝陸海軍の尻馬に乗って、やりたい放題だ!
どうですか? 日帝学徒/役人さまの占領地域を闊歩する勇姿!
●最後に、
宮澤喜一さん 1919年(大正8年)生まれ
荒松雄さん 1921年(大正10年)生まれ
上記の文脈でいうと、このお二人、高等学校時代も学部時代も「すれ違い」なしである。
以上。
■宮澤喜一さんは大蔵省に入省直後、占領地域を漫遊したが、高校時代には満州国に旅行している。
武蔵高等学校におりますときに、成績のいい者を外国へ夏に旅行させてくれるという制度がありまして、初めのうちはずっとアメリカに行っていたようですが、為替が悪くなりまして、私は友人と一緒に満州にまいりました。
(聞き手、 それは高等科のころですか。)
支那事変が始まったのは昭和12年ですから、その年でしょうか。ですから、非常に短い「幻」の満州を見た記憶があります。 (中略) それは、そういうふうに教育されたせいかもしれないんですが、これはやっぱり成功しないという、なにか先入観を持っていたような気がするんです。非常にbrutal(野蛮な)景色を見たわけでもありませんし、満蒙農業開拓団のところへ泊めてもらったり、いろいろな目に逢いましたが、全体として決して悪い印象ではありませんでした。ただ、これが大いに成功するだろうという予感は持たずに帰りました。(中略)一番いい時代であったと思いますね。連中の羽振りもよかったんでしょう。甘粕なんていう人が、ほう、こんなところにいるんだな、と思った記憶があったりします。 Amazon 『聞き書 宮澤喜一回顧録』
■一方、おいらの4回のデリー参りの「物見遊山」のネタ本は、Amazon 荒松雄センセ の『多重都市デリー』です。この本はデリー参りには欠かさず持ち歩いていました。
さて、その荒松雄センセの別書『インドとまじわる』に、19歳の支那旅行が書かれています。紀元は2600年の、対米英蘭に宣戦布告する前年に、一高のガクセー様であらさられた荒センセは、寮で同室であった友人と計3人で、北京、張家口、大同へと遊山している。これらの地域はこの時期日帝陸軍の占領地域であったことはいうまでもない。
もっとも荒センセは「回転」するらしい;
大同の町外れで遇った牛車の老人に頼んで雲崗の石仏寺の近くまで乗せていって貰ったのはよく覚えている。あの時は、竜門の石窟のことはもちろん、大同が北魏の都だった事実さえ知らない私だった。
東西交渉の歴史が残した中国の石窟寺院の意味を教えられたのは、帰国後、木下杢太郎の『大同石仏寺』を読んでからのことである。北京と済南やハルビンの風物への感慨と重なり合ったこの雲崗への旅行の感動が、私にアジアの歴史への眼を開かせ、私は、予定していた法学部への進学をやめて、文学部の東洋史学科へ入った。 Amazon 『インドとまじわる』
▼彼らは、日帝陸海軍の尻馬に乗って、やりたい放題だ!
どうですか? 日帝学徒/役人さまの占領地域を闊歩する勇姿!
●最後に、
宮澤喜一さん 1919年(大正8年)生まれ
荒松雄さん 1921年(大正10年)生まれ
上記の文脈でいうと、このお二人、高等学校時代も学部時代も「すれ違い」なしである。
以上。
-- 昭南日本学校 -- 昭南はシンガポールのことで、日本が勝手に付けた呼称。
各地に着くと、その時その場所でいちばん偉い人が会ってくれるわけです。例えば香港でいうと、なんとか中将がいました。各地にいるんです。シンガポールでは・・・・。
中村(聞き手) 山下(奉文)さんですか?
宮澤 山下さんよりもっと偉い人です。総軍の大将がいるわけです。
中村 寺内(寿一)。
宮澤 そうです。
『聞き書 宮澤喜一回顧録』
■休みに本読んでたら、宮澤喜一さんは昭和17年(1943)夏に2ヶ月もの間各省からの文官集団(10数人)の随員として、陸軍が用意した飛行機をお抱えとして、香港、上海、シンガポールなどの日帝の赫々たる勝利の証である占領地域を「漫遊」したらしい。
本人が「本当に梅雨の晴れ間みたいな短い二ヶ月間、豪華な旅行をいたしました」と回顧している。
ということは、宮澤喜一さんはリー・クワンユーセンセとシンガポールですれ違っているのである。
Li and Miyazawa in 1998
当時のリー・クアンユーセンセの生活;
私が初めて日本兵と接触したのは、カンポン・ジャワ・ロードに住む母の家に行く途中だった。ブキット・ティマ運河にかかるレッド・ブリッジを渡ろうとすると、たもとに歩哨が行ったり来たりしていた。周りに四、五人の日本兵が座っていた。分遣隊の隊員だったのだろう。私はオーストラリア兵が捨てた広い縁の帽子をかぶっていた。暑い日差しをよけるために拾ったものである。
私ができるだけ目立たないよにして日本兵の脇を通り過ぎようとすると、一人の兵士が「これこれ」と言いながら私に手招きした。近づくと、その兵士はいきなり銃剣の先でその帽子をはねのけ、平手打ちをし私に跪くように仕草をしてみせた。私が起き上がると日本兵は私が来た道を戻るようにに指図した。それでも私の場合は軽くすんだほうである。新しい支配者である日本人の礼儀を知らなかったり、日本軍歩哨の前で敬礼しない者は炎天下で何時間を座らされ、頭の上で重い石を持たされたりした。 『リー・クワンユー回顧録』
■さて、ウイスキーボンボン問題;
そうなのだ、ポリシーがあるのは、リーセンセだ。イラクのクウエート侵略の時(湾岸戦争)、日本が自衛隊を出す出さないと日本国内で世論を二分させ大激論が起きたとき、リークワンユーセンセは、日本人にはウイスキーボンボンでさえ与えてはだめだ。酒乱の本性が惹起されるから、との主旨をおっしゃられたと、おいらは、記憶する。
この出所は;
九一年、マスコミが私のある言葉を引用した。カンボジアの国連平和維持活動のために日本の再軍備を許すのは「アルコール依存症患者にお酒入りのチョコレートを与えるようなもの」といったのである。宮澤が首相に就任する直前、東京で自民党の首脳陣と昼食をとったとき、宮澤が発言の趣旨を尋ねてきた。日本文化を変えるのは難しいという意味だと私は答えた。日本人には完璧を求める習性があり、生け花であれ日本刀作りであれ、そして戦争であれ、何事でも極限まで行ってしまう。もちろん三一年から四五年の間の行為をいまの日本が繰り返すとは思わない。中国が原爆を保持していることからも無理であろう。(中略)九二年一月、首相になって最初の施政方針演説で、宮澤はアジア太平洋の人々の「耐え難い苦しみと悲しみ」に対して「深い反省と遺憾の意」を表した。タカ派の中曽根と異なり、宮澤はハト派だった。宮澤は日米同盟を維持しながらも日本の再軍備には反対の立場をとった。彼の英語は流暢で語彙も豊富で忌憚なく意見交換ができたと思う。物事の理解が早く、納得できないことは丁寧な口調で反論してきた。首相になる以前から宮澤とはいい友人同士であった。 『リー・クワンユー回顧録』
▼
『占領地域を闊歩する日帝学徒/役人』の日帝学徒編は、あすた。
以前に話題にした、つくば市松代の なんちって米軍ハウス について、建築時期年を「1970年代中後半か1980年代前半」と推定した。 今日調べたら1977年以降であるとわかったので、誰も関心はないとは思うが、報告する。
ここで生じる謎は戦後30年もたって、占領軍住宅の パクリ・ものまね しかできなかった ぬっぽん建築作家たちの気持ちである。 何を考えていたんだ? こればっかりはちょっとやそっとでは調べがつかねー。
図1は現在の地図。図の左の松代5町目付近が、この「なんちって米軍ハウス」がある場所。図2の地図にはない。
さらには、国道408の手代木交差点から、ハナマサとホテル諏訪の前を通り、西大通の洞峰公園にぬける道は1977年にはなかったことがわかる。(←って、何言ってんだかわがらねぇべさ)
図1
図2
上記、手代木交差点から松代への途中の ハナマサ(ムスリム客用のお祈りしながらしたお肉が売っている、らしい)。
手代木から洞峰公園に抜ける道。
松代から松野木/小野崎境界にかけての「三重点(triple point)」付近。
▼だから何だよー!という御仁はポチっとよろしく。
ここで生じる謎は戦後30年もたって、占領軍住宅の パクリ・ものまね しかできなかった ぬっぽん建築作家たちの気持ちである。 何を考えていたんだ? こればっかりはちょっとやそっとでは調べがつかねー。
図1は現在の地図。図の左の松代5町目付近が、この「なんちって米軍ハウス」がある場所。図2の地図にはない。
さらには、国道408の手代木交差点から、ハナマサとホテル諏訪の前を通り、西大通の洞峰公園にぬける道は1977年にはなかったことがわかる。(←って、何言ってんだかわがらねぇべさ)
図1
図2
上記、手代木交差点から松代への途中の ハナマサ(ムスリム客用のお祈りしながらしたお肉が売っている、らしい)。
手代木から洞峰公園に抜ける道。
松代から松野木/小野崎境界にかけての「三重点(triple point)」付近。
▼だから何だよー!という御仁はポチっとよろしく。
今週の備忘
■
あの学徒出陣の映像は、文部省映画だったのか。
YouTube 『学徒出陣』 昭和18年 文部省映画(2-1)
YouTube 『学徒出陣』 昭和18年 文部省映画(2-2)
映像は、意外にもというべきか当然というべきか、演出をよく考えて趣味的に撮ってある。水面に写る像なぞ、当日が雨となって即興で撮ったのだ。
■
そして何より、あの滅亡狂騒曲が、分列行進曲なのか。 もちろんあの悲しく壮烈な調べは子供の頃から脳みそに強烈に焼き付いていて、かつしばしば調べを思い起こしてなぞっていた。今思うにあの曲は楽曲としては公然とマスメディアでは放送できないので日頃耳にすることはなかったのだ。だから、あの分列行進曲をマスメディアで聞くには、学徒出陣を扱った歴史番組しかなかったのだろう。
昨日、YouTubeで、分列行進曲を一日中聞く。
YouTube 抜刀隊 陸軍戸山学校軍楽隊
↑声楽付き
YouTube 扶桑歌
↑声楽なし。歌詞付き。まずは上の「抜刀隊 陸軍戸山学校軍楽隊」の歌を聞き取り、どれだけ歌詞がわかるか書き取ってみたらおもしろいです。日本語検定試験、番外上級です。
歌詞を、事実上、初めて見る。そうか、これは西南戦争での警視庁抜刀隊の西郷征伐の詩なのだ。
なんで分列行進曲っていうか知らないけれど、事情は複雑で分裂していたのだ。詩はそれを的確に伝えている。
我は官軍。
我が敵は、天地容れざる朝敵ぞ。
敵の大将たるものは、古今無双の英雄で、
之に従うつわものは、共に剽悍(ひょうかん)決死の士。
鬼神に恥じぬ勇あるも、天の許さぬ反逆を
起こしし者の昔より、栄えしためしあらざるぞ。(続く)
我は官軍、たって「官軍」の創始者こそ「古今無双の英雄」の西郷隆盛であり、日帝陸軍の最初の大将である。
▼
学徒出陣で訓示をたれているのが、日帝「最後」の大将の東條英樹さん。もちろん、日帝陸軍で最後に大将に昇進したのは東條大将ではなく、別の人なんだろう。でも、最後に「戦死」したのは東條英樹陸軍大将。
59年前の今日、1948年12月23日、米英蘭華など占領軍に、首を括られ殺される。
「日本とアメリカが完全に戦闘状態をやめたのは(サンフランシスコ平和条約が発効した)昭和27年(1952年)4月28日。戦闘状態にあるとき行われた東京裁判は軍事裁判で、処刑された人々は戦場で亡くなった方と同じ」という理由で靖国神社の松平永芳宮司長が昭和53年(1978年)に祀る。
今、東條大将の御霊を引っこ抜くかが問題になっている。一方、朝敵の将の西郷はそもそも祀られていない。 ぬっぽんずん は今後、東條大将の御霊を引っこ抜くかもしれない。その時は西郷ドンが朝敵ハウスで東條大将を暖かく向かえ、ホント、いやなクニだよな、とグチのひとつでも言えば、にこにこできる。
●
『学徒出陣』 昭和18年 文部省映画を作った文部省は、東條ら「いわゆる」A級戦犯が縊られた頃、つまりは昭和23年、民主主義―文部省著作教科書を刊行。
実に、教育の普及は浮薄の普及なりといえども、本省そのものの、日本語廃止の森有礼からずーっとの浮薄には恐れ入る。
■
あの学徒出陣の映像は、文部省映画だったのか。
YouTube 『学徒出陣』 昭和18年 文部省映画(2-1)
YouTube 『学徒出陣』 昭和18年 文部省映画(2-2)
映像は、意外にもというべきか当然というべきか、演出をよく考えて趣味的に撮ってある。水面に写る像なぞ、当日が雨となって即興で撮ったのだ。
■
そして何より、あの滅亡狂騒曲が、分列行進曲なのか。 もちろんあの悲しく壮烈な調べは子供の頃から脳みそに強烈に焼き付いていて、かつしばしば調べを思い起こしてなぞっていた。今思うにあの曲は楽曲としては公然とマスメディアでは放送できないので日頃耳にすることはなかったのだ。だから、あの分列行進曲をマスメディアで聞くには、学徒出陣を扱った歴史番組しかなかったのだろう。
昨日、YouTubeで、分列行進曲を一日中聞く。
YouTube 抜刀隊 陸軍戸山学校軍楽隊
↑声楽付き
YouTube 扶桑歌
↑声楽なし。歌詞付き。まずは上の「抜刀隊 陸軍戸山学校軍楽隊」の歌を聞き取り、どれだけ歌詞がわかるか書き取ってみたらおもしろいです。日本語検定試験、番外上級です。
歌詞を、事実上、初めて見る。そうか、これは西南戦争での警視庁抜刀隊の西郷征伐の詩なのだ。
なんで分列行進曲っていうか知らないけれど、事情は複雑で分裂していたのだ。詩はそれを的確に伝えている。
我は官軍。
我が敵は、天地容れざる朝敵ぞ。
敵の大将たるものは、古今無双の英雄で、
之に従うつわものは、共に剽悍(ひょうかん)決死の士。
鬼神に恥じぬ勇あるも、天の許さぬ反逆を
起こしし者の昔より、栄えしためしあらざるぞ。(続く)
我は官軍、たって「官軍」の創始者こそ「古今無双の英雄」の西郷隆盛であり、日帝陸軍の最初の大将である。
▼
学徒出陣で訓示をたれているのが、日帝「最後」の大将の東條英樹さん。もちろん、日帝陸軍で最後に大将に昇進したのは東條大将ではなく、別の人なんだろう。でも、最後に「戦死」したのは東條英樹陸軍大将。
59年前の今日、1948年12月23日、米英蘭華など占領軍に、首を括られ殺される。
「日本とアメリカが完全に戦闘状態をやめたのは(サンフランシスコ平和条約が発効した)昭和27年(1952年)4月28日。戦闘状態にあるとき行われた東京裁判は軍事裁判で、処刑された人々は戦場で亡くなった方と同じ」という理由で靖国神社の松平永芳宮司長が昭和53年(1978年)に祀る。
今、東條大将の御霊を引っこ抜くかが問題になっている。一方、朝敵の将の西郷はそもそも祀られていない。 ぬっぽんずん は今後、東條大将の御霊を引っこ抜くかもしれない。その時は西郷ドンが朝敵ハウスで東條大将を暖かく向かえ、ホント、いやなクニだよな、とグチのひとつでも言えば、にこにこできる。
●
『学徒出陣』 昭和18年 文部省映画を作った文部省は、東條ら「いわゆる」A級戦犯が縊られた頃、つまりは昭和23年、民主主義―文部省著作教科書を刊行。
実に、教育の普及は浮薄の普及なりといえども、本省そのものの、日本語廃止の森有礼からずーっとの浮薄には恐れ入る。