いか@ 筑豊境 寓 『看猫録』

Across a Death Valley with my own Distilled Resentment

筑波山麓で湯島聖堂の内部を見る; 『江戸前期の湯島聖堂』

2005年10月30日 14時47分02秒 | 筑波山麓


筑波山麓で湯島聖堂の内部を見る。

筑波大学付属図書館特別展、『江戸前期の湯島聖堂』-筑波大学資料による復元研究結果の公開-を見物に行く。  http://www.tulips.tsukuba.ac.jp/exhibition/welcame.shtml  現在リンク切れ

    







①■現在(上記最上段の写真)の湯島聖堂の大成殿は関東大震災以降に再建されたもの。
江戸幕府は約260年も続いたのであるから、儒教の役割には変遷がある。儒教、狭義には朱子学が幕府公認の学問としてまがりなりにも制度化されるのは、松平定信による1790年(寛政2年)の「寛政異学の禁」以降とされている。

②■この『江戸前期の湯島聖堂』は、上記の「寛政異学の禁」よりも100年あまり前の、林羅山の林家の家塾が上野から湯島に移って湯島聖堂と称されることになった頃の礼拝空間の再現を目指したプロジェクトの公開展示である。このプロジェクトは史料そのものの展示というよりは、史料に基づく、美術専門家による礼拝空間の再現であり、孔子や弟子儒者の像、狩野派による聖人絵像の復元である。

③■大成殿の内部を空間的に、図面とGCで、再現して、上記の絵図や像が具体的にどこに配置されていたか示されていた。これは儒者が具体的にどう拝礼していたのか検証するための基礎データになるだろう。

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●今、おいらが、なんとなく興味があることは、近代以前の日本、支那、朝鮮において、統治者(「エリート」)がどのように登用され、知識を統治に応用していたかである。

●具体的には、福沢諭吉が封建主義は親の仇として儒教や封建制度を攻撃し、近代的学問を広め、学問することによる実力主義による人材の登用に基づく社会を希求し、かつ実践したことに関して、身分制による職位の固定化はむしろ日本の江戸時代の武家社会の特徴であり、清朝や李氏朝鮮では科挙による学問ができるものが出世できる制度があったのではないか?というおいらの疑問である。

●しかし、日本は近代化に「成功」したとされ、支那・朝鮮は近代化に「立ち遅れた」とされている。さらにはその立ち遅れの原因が封建制と儒教ともされている。しかし、実力者登用は封建・儒教の特徴なのではないか。これではパラドクスではないか?という疑問である。

●もちろん、真面目に調べればいいのだが、のんべんだらりんと手に入る情報を見ている。これまでわかったことのノートを羅列する。

◆李氏朝鮮でのエリートの登用は、まず官僚を輩出しうる母体となる社会階層があり、その中から科挙を通ることで官僚となる。家業が官僚職(科業)であり、生産と役は免れる(『韓国学のすべて』)。官僚になるには科挙を通らなければならず、官僚を輩出しうる母体となる社会階層を構成する各一族は一族の中から合格者を出さなければ没落するので、必至に子弟を教育した(http://www8.ocn.ne.jp/~hashingi/page024.html#lecture4)。支那の例だと、魯迅の出身がこういう家庭であり祖父が科挙を通った官僚であったが失脚し、結局没落した。魯迅の知的能力の背景は「一族の中から合格者を出さなければ没落するので、必至に子弟を教育した」という状況なのであったのだろう。

◆一方、日本の例が、たまたま、『幕末の毒舌家』からわかる。http://blog.goo.ne.jp/ikagenki/e/e57d5d8473093a5f8040fe24167d25f9旗本・御家人のための人材登用のため「試業」、学問吟味・素読吟味の制度が1792年から実施され、身分や家格で出世が決まり閉塞していた幕臣社会にそれなりの機会均等を与えたとされている(『幕末の毒舌家』)。この制度により、遠山金四郎、近藤重蔵(蝦夷の探検で有名)、大田南畝などが合格している。この試験登用の時期は「寛政異学の禁」の頃であり、湯島聖堂と併設された昌平坂学問所が幕府直営となった。つまりこの頃日本でも儒教+試験+登用が幕府に制度化されはじめたらしい。ただし、上記有名人は老中でもなんでもないのだから、登用された人物もそう高い役職を与えられたわけでないのだろう。


中国⑱ 今村仁司 『中国で考える』

2005年10月27日 21時43分53秒 | 中国出張/遊興/中国事情
(既に中国からもどりました)



今村仁司の『中国で考える』を読み直すと、今村が半年北京で滞在した宿とおいらが滞在した宿が同じだった。その宿は「友誼賓館」という。改革開放時代以前から外国人の居住施設、特に共産圏の友好国からの外国人が住んでいたらしい。ホテルといっても敷地がべらぼうに広くて、おおげさに言うと、1km四方くらい。敷地内に建物がたくさんある。半年いた今村は静寂な部屋を求めてこの敷地内で転々とし、最後は、第4号館・南工字楼の6階の部屋で過ごしたとかいてある。今村が最初入った部屋の建物は取り壊しとなり、今村は引越しを迫られたと書いてある。おいらが行ったときも敷地内は工事、工事で改築が行われていた。今の敷地案内に、南工字楼の文字はなかった。もう16年もたっているのだ。

敷地にホテルが4個くらいある感じ。ある夜、違う建物にさまよいこみ、売店があったので覗いていると、日本の高校生の修学旅行の学生グループがいた。日本からの修学旅行の宿でもあるようだ。




この本は1994年に出版されたものだが、前半の今村の北京滞在記は1988-1989年に雑誌『現代思想』に掲載されたものである。1988-1989年とは、まさに、あの天安門事件の直前ということになる。今村のデビュー作は1975年の『歴史と認識』(アルチュセール読解)から最新作の『抗争する人間』(2005年)まで社会と人間の理論的理解をやってきたひとである。失明を気遣わないといけないくらい本を読みすぎたひとらしい。そんな徹底的な理論派でかつ西洋派の今村の中国体験記である。

(おいらの誤解でなければ)今村は日本はもちろん世界情勢について時評を書かない人である。暴力論・戦争論などを書くが現代の個別の戦争に何か言ったことはないはずだ。つまり、自分が商売でやっている原理論を、一度たりとも、現状分析に適用したことがないのである。

そんな今村が『中国で考える』というのはおもしろいと思った。つまりそれは、、①自分が商売でやっている原理論を、いささかでも、現状分析に適用することになるであろうことと、②中国が、自国の「労働者」を管理し(もはや労働者とはいえまい)、外資を呼び込んで賃労働・搾取させている状況をどう捉えているか?がどう考えられているか興味をもったから。

その『中国で考える』は、3部から構成されている。第1部は1988-1989年の北京滞在記と他地域への旅行記。第2部は「市民精神の形成」と題する、1部の主観的な体験記と違って、客観的にみた中国の問題点。第3部は「近代世界による包摂」とする天安門事件(1989年)論。

第1部の北京滞在記では、中国人大学生の3、4年生向けに、福沢諭吉の『文明論之概論』と丸山真男の『日本の思想』を「ゼミナールに近い形式で授業を始めた」が学生には難しく、あくび・いねむり・私語で授業内容を変更せざるを得なかったことが記されている。中国人学生のことより、正統モダンを講義する今村をみたかった。

中国批判も鋭く;

中国人の俗流中華主義と田舎根性、それに加わった実用至上主義は、おそらく現在の中国の教育と研究を徹底的に毒している元凶だと思われる。

中国人は「近代化」を口にしながらも、「近代(化)」の概念を持つことができない。中国の近代化を課題として自己に引き受ける覚悟を真剣にするのであれば、西欧や日本の近代化の経験をさまざまの角度から、とりわけ思想の構造から、検討すべきであるのだが、一向にその関心が生まれてこないのはどうしてなのか。「偉大な中国文化の伝統のなかには何でもあるのだから、西欧からも日本からも学ぶ必要はない、学ぶのは技術だけだ」と頑固にしんじつづけているのである。


こういう中国への視線は、ほんと諭吉のようだ。



中国⑰ 新聞紙上のサーヤ

2005年10月26日 20時23分18秒 | 中国出張/遊興/中国事情


10/26

■女系天皇容認の動きは固まったらしい。これだと「尊皇教条派・正統派」にとっては、皇統廃絶、ということになる。つまり、「尊皇教条派・正統派」にとっては、正統性のない皇室が出現する可能性が大きくなったということである。

■宮台真司センセが「玉を取り」に出たそうだ。「玉を取る」とは天皇を確保して自分の正統性の根拠として、覇権を確立することである。

宮台の転向

先例は西郷隆盛。宮台はこういう「玉を取る」を「田吾作の天皇利用」と罵倒し、自分は違う戦略といいたいようではあるが。この宮台の動きの背景は、「文化左翼」への対抗にあわせて、<へたれ右翼>の跋扈への対処である。 最新刊、 『限界の思考』 より。 <へたれ右翼>とはネット右翼で代表されるように、まんが的にいうと、支那人やコリアンを低くみること、あるいは罵倒することを以って自分の存在を確かなものにする人々である。<彼ら>の一部はサピオを読み、西尾幹二に心酔する。小林よしのりの最初の『戦争論』にも狂喜したであろう。<彼ら>の特徴は、①政府の言うことをきかない物=非国民、というセンスであり、②小林よしのりの『戦争論』(一作目)が典型的だが、皇室への言及がない・皇室をよくわかってない・そもそも皇室への親和がない(これは反皇室という意味ではない)。皇室に無頓着という意味である。

■これは、きちんと理論化すると、「天皇抜きのナショナリズム」(福田和也)とも言える。一方、宮台は、この「反中・反韓的ナショナリズム」(<へたれ右翼>)と「尊皇的ナショナリズム」の差異に目をつけ、<へたれ右翼>に、「おまえたちの考えている天皇は、本当の天皇ではないんだぞ。おれは本当の天皇を知っている」という戦略をとるらしい。

中国⑯ 北京の洋品店

2005年10月25日 20時53分56秒 | 中国出張/遊興/中国事情


■こりもなく、「勝ち組・負け組」論なのですが、『阿Q正伝』の主人公阿Qはどんなみじめな境遇になろうとも、「勝利」する。勝利の仕方とはこんな具合である。

しかし、彼は敗北をたちまち勝利に転じた。右手をあげると、力まかせに自分の頬に二、三回つづけてビンタをくれた。ひりひりと少し痛かった。ビンタをくれ終わると、気持ちがおだやかになり、なぐったのは自分だが、なぐられたのはもう一人の自分のような気がした。それからほどなく、他の男を殴ったような気持ちになった。-まだ少しひりひりしてはいたが-。彼は満足して意気揚揚と横になった。彼はぐっすり眠った。

『阿Q正伝』第2章、勝利の記録、より。

●さて、先日の総選挙での「いんてり」の疑問。なぜ切り捨てられるであろう<弱者や負け組>が<弱肉強食政策>の小泉・自民党を支持したのか?という問題。つまりはなぜ大衆は、小泉革命ではなく、ちゃんと左翼革命を起こさないのか?という問い。この問題について、そなたんパパの備忘録の「この後に及んでマルクス主義」

難解な言語を駆使し、それによって大衆の愚かさの源を探ろうとする理論家たちに強烈なエリート意識があることは明らかであり、ここからも大衆への蔑視と左翼思想とが決してかけ離れたものではないことが理解できよう。

と革命を起こさない大衆への知識人態度を分析している。

▼なぜ大衆は、小泉革命ではなく、ちゃんと左翼革命を起こさないのか?と嘆くいんてりさんは、日本の大衆はさしずめ阿Qの群に見えるのであろうか?

▲それより、魯迅は、そもそも、「大衆の愚かさの源を探ろうと」したのであろうか?『阿Q正伝』を読むと、魯迅はただただ阿Qに添い遂げた、思える。描ききることと愚弄・誹謗・中傷・罵倒・軽蔑することは違う。したがって、そなたんパパ氏のいう、左翼知識人=大衆蔑視、が成り立つなら、魯迅は決して左翼知識人ではなかろう。





中国⑭ 魯迅ノート

2005年10月23日 20時13分36秒 | 中国出張/遊興/中国事情


魯迅博物館の記帳より。

そこで、魯迅ノート。

まずは3人の生没年(西暦)。
福沢諭吉 1835-1901
夏目漱石 1867-1916
魯迅   1881-1936

魯迅と福沢諭吉の共通点は「一身にて二世を経た」ことである。つまり、諭吉は人生の途中でちょんまげを落とし、魯迅は辮髪を落とした。辮髪とは清朝時代の髪型である。そしてなにより儒教的封建制の克服を、文化革命により、行おうとした。しかしながら、その手法は異なった。諭吉は『学問のすすめ』を著し、評論による啓蒙活動を行い、一方、独立自尊のため私学を創設した。魯迅は、文学者、小説家として、文化革命を行い、支那人を啓発しようとした。魯迅は中国で国民的作家とされていて、その点は日本の国民的作家である漱石と共通する。ただし、魯迅は多量の評論も書いている。魯迅が帰国した頃の支那は未だ辛亥革命前の清朝であり、魯迅は清朝統治下で師範学校の教員となる。その後辛亥革命を経て新政府の文部官僚・教官を勤める。政府の役人・教員となった点は、諭吉や漱石とは異なる。

魯迅、諭吉、漱石に共通なのは西洋/近代社会との遭遇である。諭吉は欧米に渡航して見聞、書籍の収集を行った。しかし、長期の滞在はしていない。漱石は英国に滞在した。愉快な滞在ではなかった。魯迅は、1902-1909年の7年間、日本に滞在する。日本語はかなり自由になったらしい。その滞在は日清戦争の後であるから、魯迅は戦勝国に留学に来たことになる。もっとも清朝に敗戦国意識があったかわからないし、魯迅が清国人意識を持っていたかを、おいらは、知らない。(魯迅全集に清国人としての私という内容のエッセイがあるかどうかを知らない)。魯迅は日本に来る直前に辮髪を止めている。つまりこれが魯迅の清朝卒業の儀式であったのかもしれない。辮髪の意味とは、封建支配の象徴という点と清朝をつくった満州族の漢民族支配の象徴と2重の意味を持つ。つまり、辮髪切断は、封建支配と清朝支配からの脱却の象徴である。

魯迅の目指したものは、支那人の意識革命、とされている。その手法は、前述したように、諭吉のように啓蒙書を書いて民を啓発するのではなく、支那人の「奴隷」根性を描いた『阿Q正伝』という短編小説を書くことだった。なぜ、阿Qのような救いのない「奴隷」根性の下層日雇い人夫を描くことが支那人の意識革命につながるかというと、「中国が革命すれば、阿Qも革命するでしょう」と魯迅が言ったされるように、阿Qの意識革命によってしか中国革命の主体が成立しない、とのメッセージなのであろう。
【阿Q正伝あらすじ】http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%98%BFQ%E6%AD%A3%E4%BC%9D