画像ソース
札幌郊外の米軍基地、キャンプ・クロフォード(camp crawford)の門、1951年。ジャックチットウッド伍長(MP; 憲兵)と日本人警備員。
第45師団(オクラホマ州兵)の時代。写真の註は後記。(ソース)
朝鮮戦争で札幌郊外の米軍基地、キャンプ・クロフォード(camp crawford)の兵力は出払った。朝鮮戦争勃発でそれまで駐屯していた米陸軍第7師団、第31連隊が朝鮮に出兵したからだ(愚記事;札幌、キャンプ・クロフォードにおける定山渓鉄道からの引き込み線)。
朝鮮戦争で在日米占領軍が出払い、日本列島に軍事的希薄 or 真空が生じた。日本列島の軍事的希薄は警察予備隊によっても充填された。マッカーサーが命令したからだ。キャンプ・クロフォードにおいて、1950年6月に去って行った第31連隊とやって来た米軍の間に警察予備隊が滞在したと資料にはある。そして、警察予備隊は新たな米軍がやって来たとき函館などに去っていった。その警察予備隊の組織名などの情報はない。
一方、米軍は軍事的補填のため、米国本土から軍を送った。新たに札幌に来たのは第45師団(オクラホマ州兵 [national guard] wikipedia)。1951年4月1日にキャンプ・クロフォードに入営。朝鮮戦争勃発で急遽編成された師団。オクラホマって米国のどこにあるのか?おいらは、知らなかった。(第1騎兵師団 [1]の司令部がある)テキサスの北だと知る。
[1] マ元のペット;第1騎兵師団 (1st cavalry division)、朝鮮戦争で苦戦(一部壊滅)し、主なき東京ではなく、札幌へ帰還
このオクラホマの部隊は1万数千名(あるいは、2万数千という説もある)であったが、札幌(キャンプ・クロフォード)と千歳に分かれて駐屯した。なので、オクラホマの部隊に関する情報は千歳市史にみえる;
第45歩兵師団(オクラホマ州兵部隊)第45歩兵師団は全米の先住民を強制移住させるために設けられたインディアン準州(特別保護区)の歴史を有するオクラホマ州の兵で構成されていた。昭和14(1939)年にインディアンの神鳥である雷鳥を部隊章に制定、軍服には雷鳥の袖章が縫い付けられていた(旧章=インディアン卍→ナチス連想→廃止)。日本国内における米陸軍部隊朝鮮出動の空白を埋めるため、第40師団、第45師団を進駐させる共同の配信ニュースがあった(S26・2・26『北海道新聞』)。
【ワシントン二月二十四日発UP=共同】米陸軍は二十四日日本の安全保障を強化するためカリフォルニア四十、オクラホマ四十五の両州兵歩兵師団を三月日本に送り、今後の訓練のため日本に駐留させると発表した。両師団は第二次大戦終了後海外に派遣される最初の州兵師団で、朝鮮に出動した占領軍と交代するものとみられるが、必要とあれば朝鮮に送られるかもしれない。
(千歳市史)
このオクラホマの部隊を構成していた兵士の内容についてはwikipediaに書いてある;
当時、第45歩兵師団は高校生または新卒者でほとんどが構成されており、その師団の約60%だけが1年以上にわたって師団との訓練や訓練を行っていました。 さらに、その職員の約20%だけが、第二次世界大戦からの兵役の経験がありました。 それにもかかわらず、師団は、その装備、訓練、リーダーシップの有効性に基づいて、最も準備が整った戦闘の1つであると特定された4つの国家警備師団の1つでした。 その結果、1951年2月、第45歩兵師団は日本に向けて出航すると命令された。 (wikipedia 、機械翻訳)
■ 札幌、キャンプ・クロフォード時代の第45師団(オクラホマ州兵)
第45師団(オクラホマ州兵)の札幌での活動の様子は彼らのweb siteでの師団の歴史紹介にあった。冒頭の写真はそのweb siteからのものだ。札幌での活動の様子として、千歳と札幌、キャンプ・クロフォードをジープで往復していた時のひとこまが書いてある。これは兵士の出身地のオクラホマの地方新聞の記事に載ったものらしい。
冒頭の写真の註の機械翻訳を修正したものは下記(原文は下[1]);
「日本、クロフォードのキャンプ-息子、または夫からの手紙で、おそらく北海道の第45師団の2つのキャンプ(米軍の駐屯地)の間(札幌 [キャンプ・クロフォード]と千歳の間)のジープの荒っぽい乗り物を読んだことでしょう。2つのキャンプは約35マイル離れており、札幌の近くにあります。 しかし、道の悪さによるジープへの衝撃や隆起にもかかわらず、筋肉が痛くなる前に、ジープによる旅は終わります。ジープの旅の間、田舎は興味深くて、観察することが多すぎます。ここは、アメリカのGIにとって奇妙な土地です。師団の2つのキャンプの間で、ジープによる車上旅行において、オクラホマ人とその仲間の好奇心を刺激するものを確認したい場合は、ここキャンプクロフォードのジープに乗って千歳と往復すればよい。最初に目につくのは、アメリカ人と日本人が並んで働いている様子です(写真1)。アトカ出身の軍警官、ジャックチットウッド伍長がキャンプクロフォードの正門に2人の日本人警備員と一緒にいるところです。第三次世界大戦の際、これらのジャップ警官は同盟した日本軍の中核になるはずです。ジープに乗って キャンプクロフォードから師団のもうひとつのキャンプであるキャンプ・モンテストロングまで走ったら、目に見えるもののいくつかは美しく、いくつかは心に触れます。観察できるのは数年にわたる戦争の影響の結果です。日本が長年従事したもの、ジャップが自分たちから奪った戦争に備えるための生活必需品を奪ったものなどです。 ここに貧しい日本人のあばら家が見えます。 美しい豊平川のほとりにあり、島の首都である札幌の中心部から約5 km(3マイル)の場所にあります。 ここに住んでいる日本人の男と女は、金属くずを集めて、それらを平たく叩き、それらを売れる値段ならいくら安くとも売っています。」第45部ニュース写真:Ron Pyer著。元の日付はありません。TheDaily Oklahomanに1951年6月10日に公開。
■ オクラホマ景気、あるいは、「パンパンと呼ばれる売春婦が全国から集まった。」
第45師団(オクラホマ州兵)の多数は千歳にいた。千歳での彼らの行状は今に語り伝えられている。一方、札幌、キャンプ・クロフォードにいたオクラホマ兵の行状に関する情報をおいらはまだ見つけていない。
オクラホマ師団の先発部隊は1951年4月小樽に到着し、列車とトラックを乗り継ぎ千歳に進駐した。人員数ははっきりしないが、12,000人から20,000人といわれる(6)。大量進駐で基地内の施設が追いつかず、ママチ川奥に大型テントを張って野営したほか、千歳市内の第1・2・3基地を使用して駐屯し、付近の山野で猛練習を重ねる。未訓練兵の部隊であった師団の新兵訓練は州内で15週、北海道に来てから32週におよんだといわれる(7)。厳しい訓練と殺伐としたテント生活、前途には朝鮮戦争が待ち構え、出動すればもちろん命の行方はしれなかった。
「アメリカの田舎の兵隊でね、千歳にきてもやる事ないから飲み屋に行ってバンバンお金を使うんだな。ドル札が流れるわけですよ。ウソかホントか知らないけど有名な話でね、清水町の飲み屋街では『ろうそく代わりにドル札を燃やした』って言ってたくらい。全国からいっぱい人が集まってきた(谷上さん)。」1ドル=360円の固定相場制であった時代。強い米ドルが荒い金遣いを後押しした。師団兵目当てに「飲食物を売る日本人が山に入るありさま。日用品が高値で売り切れ(8)」た。中堅サラリーマンの給与が6~7,000円の時代に、これという必需品も持たずに来た事もありバケツやホウキなどが1,000円代で売れた(9)という。基地内では兵舎の建設が急がれ土建業者数社が入り、5,000人の労務者がこれらの工事に関わっていた。日本人向けの飲み屋の屋台も用水通り(新川通り)沿いに建てられた(10)。この頃の好況を"オクラホマ景気"という。日本全国が朝鮮特需の恩恵をこうむっていた。
オクラホマ師団が駐留した当時の街は「パンパンと呼ばれる売春婦が全国から集まった。町はみるみるふくれあがり、キャバレー、ビヤホール、飲食店が次々に造られ、それらの2階にパンパンハウスという仕組みだった。いたるところに横文字の看板が並び、下卑たレコードの音楽が町中に鳴り響いている中を兵隊がパンパンと抱きあっていた(15)。」旧室蘭街道、用水通り(清水町)はGIたちや客待ちする女性たちで溢れ、その風景は「さながら開拓時代の西部の町の景観を呈し(16)」ていたという。(さっぽろ自由学校「遊」 かつて千歳に米軍基地があった)
■ この後、どうなったか? 朝鮮戦争へ
第45師団(オクラホマ州兵)は半年ほど札幌・千歳にいた。戦場未経験の兵隊が多いので、日本でまずは訓練を行った。
第45師団は26年12月までに逐次、機密裡に朝鮮に出動していった。師団は大きな損害を出し千歳に帰還する第1騎兵師団と交代する形で前線に配置された。27年6月から28年3月までの間には、真駒内から出動した第7師団とともに朝鮮戦史に残るオールドバルディの戦いなどにおいて実戦経験が少ないにもかかわらず数で押してくる中共軍に応戦した。司令官はデビット少将に交代していた。(千歳市史)
朝鮮戦争の間に、第45歩兵師団は、4,004人の犠牲者を出し、そのうち834人が戦死、3170人が負傷した。
部隊は停戦の署名に続いて韓国の非武装地帯を短時間パトロールしましたが、兵士のほとんどは帰国し、1954年4月30日に国家警備隊(national guared)の状態に戻りました。 (wikipedia 機械翻訳)
第45師団(オクラホマ州兵)が参加したオールドバルディの戦いは開城(ケソン)の近く。
「交通渋滞。米国のモーター装備の韓国の戦線への動きを鈍化させた細い未舗装の道路の典型は、韓国の村を通るこの泥だらけの道です。車は、ライフマガジンの写真家カールマイダンによる写真で事実上停止しています。 」 「米陸軍は1950年に韓国の村を通って最前線に軍備品を移動する輸送船団に現れた。」 カール・マイダンスによる写真。 元の日付なし。 1994年4月24日のSS IVのThe Daily Oklahomanに掲載されました。 画像ソース
第45師団(オクラホマ州兵)は中共軍と戦闘。⇒ wikipedia オールドバルディの戦いの機械翻訳
■ 第45師団(オクラホマ州兵) その他情報
1930年代以前は、この部門のシンボルは、黄色いカギを付けた赤い正方形でした。これは、米国南西部の大規模なネイティブアメリカンの人々への賛辞です。
[1] "Camp Crawford, Japan--In a letter from your son, or husband perhaps, you've probably read of a rough Jeep ride between the two camps of the 45th division here in Hokkaido. They are about 35 miles apart, one near Sapporo. Regardless of the jolts and bumps, however, it isn't until the ride is over that muscles ache. During the ride you're too interested in the countryside to notice. This is a strange land to the American GI. If you would like to make one of these trips between the division's two camps and see what arouses the curiosity of the Oklahomans and their buddies, swing aboard a Jeep here in Camp Crawford. The first thing likely to catch your eye is the way Americans and Japanese work side by side (picture No. 1) at many jobs. Here is Cpl. Jack Chitwood, military policeman from Atoka, at Camp Crawford's main gate with two Japanese guards. There has been speculation that in event of World War III these Jap policemen will be the nucleus of an Allied Japanese army. As the Jeep travels from Camp Crawford to the other division area, Camp Monte Strong, some of the things you see are beautiful and some touch the heart. Some reflect the many years of war in which Japan engaged, and the years the Japs deprived themselves of many necessities of living to prepare for war. Along here you see the hovel of one of the poorer Japanese. It is on the bank of the beautiful Toyohira and through the heart of Sapporo, the island's capital, about three miles away. The Japanese man and woman who live here collect scrap metal, beat it flat and bale it for sale at whatever price they can get." 45th Division News Photo by Ron Pyer. Original undated. Published in The Daily Oklahoman on 06/10/1951.