いか@ 筑豊境 寓 『看猫録』

Across a Death Valley with my own Distilled Resentment

1945.9.2 戦艦ミズーリでの降伏文書調印の署名時刻 

2024年09月02日 18時37分14秒 | 日本事情

1945年 (昭和20年) 9月2日、東京湾の戦艦ミズーリ号上で連合国に対する降伏文書の調印式は有名。日本全権の面子に [1] ついての解説記事はアクセスが多い。さて、この降伏文書には署名した時刻が記録されていると、レプリカをみて、気づいた。


降伏文書全体。この右上部の拡大画像が下記;

日本全権の調印時刻は9時4分、連合軍代表のマッカーサーの調印時刻は9時8分とわかる。

 9時4分

 9時8分

なお、日本全権は立って署名し、マ元は椅子に座って署名したと映像は伝えている。

■ [1] 参照


①重光葵 ②加瀬俊一 ③岡崎勝男  ④太田三郎  ⑤梅津美治郎 ⑥宮崎周一  ➆永井八津次  ⑧杉田一次  ⑨柴勝男 ⑩横山一郎 ⑪富岡定俊 所属 ①-④外務省、⑤-⑧陸軍、⑨-⑪海軍

■ [2]

木箱の中には降伏文書のレプリカが展示してある。大分県杵築市、無迹庵(むせきあん):重光葵の実家跡。


長州散歩:長府;下関市立歴史博物館、功山寺

2024年05月05日 18時08分18秒 | 日本事情

長州参り。長府という街を知らなかった。そもそも、長州は4藩から成るとも知らなかった。萩藩(本藩)、長府藩、清末藩、徳山藩。でも、かつて、このブログを始める前の2002年に2-3か月間山口県で過ごしたことがある。その時に自覚的に行った「長州参り」は萩。もちろん松下村塾にもお参り。その時の画像はこの記事(西のグル、北のグル)で使った。

今回、下関市立歴史博物館というのがあり、何か幕末維新の展示をやっていると知り、調べて長府を認識する。あー、功山寺は聞いたことがある。高杉晋作の解説本にはあの馬上の高杉晋作の像がよく出てくる。

北九州市からは小倉から山陽本線で下関駅までJRで行く。下関駅からはサンデンバスで長府へ。そこは「城下町長府」といって城下町が付くのだ。JR駅の長府とは違う場所と認識する。

1.城下町長府バス停、2.長府藩侍屋敷長屋、3.下関市立歴史博物館、4.茶屋 祥、5.功山寺

■ JR下関駅 → サンデンバス ⇒城下町長府

関門海峡

■ 城下町長府バス停

 

長府の歴史とともに流れている川で、桜並木に縁取られ、初夏はホタルが舞う静かな川です。侍屋敷は約100m南にあった建物を保存のために移築。仲間部屋の格子窓の造りなど、当時の上級藩士の屋敷の趣をよくとどめています(市指定有形文化財)。(壇具川と長府藩侍屋敷長屋 [google])

■ 

下関市立歴史博物館 web site  海峡に育まれた下関の歴史と文化 -海峡の歴史に未来が見える​-

▼ 企画展、幕末群雄伝 ー下関に集まった志士たちー

展示は次の4章に分けられ、時代ごと、維新の過程ごとに、下関に集まった志士の主に書いたもの(書状、揮毫など)を中心に展示。現物そのもの(1次史料)。

1章 立ち上がる志士たちー欧米列強の脅威と日本
2章 逆境に立ち向かうー長州藩の失墜ー
3章 提携を目指してー長州同盟ー
4章 それぞれの志ー大政奉還と新政府の成立ー

大村益次郎、西郷隆盛、平野國臣、楫取泰彦、福田侠平、吉田松陰、三吉慎蔵、木戸孝允、土方久元、坂本龍馬、中岡慎太郎、山縣有朋、高杉晋作、久坂玄瑞、伊藤博文、中山忠光、有川恒縋、福原和勝、熊野直介

〇 中山忠光 [wiki]

東夷という言葉は愚ブログにも出てくる→東夷。でも使用法はお支那さまがわれらを視る目を擬したものだ。つまり、支那人→日本人。今回、初めて東夷という言葉を日本人→日本人で使っていることを知った。

そして、中山忠光は顔だけ知っていて、その生涯は知らなかった。知った。維新後侯爵となる中山家の子。でも、七男。攘夷から担がれ頭となる。まだティーンエイジャーなのに。公家のバカ息子。癇癪持ちだったらしい。よくいえば、スナノヲ的人間か。人格〇常者。まわりの者はもてあました。長州の白石家の日記では「むずかる」(だったとおもう)など気性が幼稚で手に負えない主旨のことが記録されている。そのことが展示されていて、知った。こういう気性なので、最後はなんと長州藩士に殺害される。はたち。攘夷派の内ゲバ、すごいね。

でも、字はうまいんだよね、中山忠光。

中山忠光の「道行」(みちゆき)
道行(みちゆき)、つまり外出の時に着物を汚さない目的で着るコートです。(google

中山忠光は、1963年の攘夷期限直後の米国船への砲撃に参加していると知る。攻撃を実施した光明寺党の頭。久坂玄瑞が実担当。

〇 山縣有朋

この幟に書かれている文言やその意味などの解説はなかった。どうやら、櫻山神社から最近寄贈されて、研究が進んでないのではないかと感じた。おいらは「霜」しかわからなかった。

過去の展示の図録などを贖う;

■ ⇒ 茶屋 祥

お料理は12品目!
どれから食べょぅー?お行儀悪い迷い箸をしちゃいそぅーでしたょー (まいぷれ下関)

湯豆腐がついていました。御飯がとてもおいしかったです。値段は、1,500円でした。

■ ⇒ 功山寺

先帝祭を知らなかった。先帝=昭和天皇、4/29の昭和の日の祭事かと思った。全然違った。安徳天皇のためのお祭りだった。赤間神社。

青い郵便ポスト。しかも、フグ付き。

■ 功山寺

功山寺(こうざんじ)は、山口県下関市長府にある曹洞宗の寺。長府毛利家の菩提寺。山号は金山(きんざん)。中国三十三観音霊場第十九番札所、山陽花の寺二十四か寺第九番。

仏殿は、善福院釈迦堂とともに鎌倉時代の禅宗様建築を代表するもので、国宝に指定されている。 

幕末の文久3年(1863年)、七卿落ちで京を逃れた7名の公卿のうち5名が滞在。高杉晋作は当寺で挙兵した(回天義挙)。wiki

■ 檀具川に沿って、来た道を戻る。

檀具川:周辺の流れを集めて大唐楯山の北側で長府野久留米町などを東北方向に下り、長府川端付近で東に流れを変え、下関市街を経て周防灘に達する。神功皇后が仲哀天皇9年(200年)の三韓征伐の際に壇を築いて祭祀を行ない、使用した道具等をこの川に流したことからこの名がつけられたと伝わる。江戸時代には川岸に多くの米倉が建てられて藩の年貢米を運ぶ船が行き来したと言う。wiki

▼ 下関駅


相模原散歩:小田急相模原 ⇒ 米軍相模原住宅 ⇒旧陸軍逓信学校門・相模女子大 ⇒相模大野駅

2024年02月04日 20時56分03秒 | 日本事情

1.小田急相模原駅、2.在日アメリカ陸軍 相模原住宅地区南口門、3.同西側、4.相模原病院、5.米軍住宅北側、6.文京2丁目、7.相模大野駅

相模原市の小田急線の小田急相模原駅近くに広がる米軍住宅地域周辺を散歩した。このあたりは戦前から旧陸軍の施設が集積されてきた。だからこそ、敗戦後、それら施設に占領米軍が進駐した 。そのうち戦後も占拠された区域もある。米軍の医療施設と住宅地域。後者は現在も米軍に占拠されている。前者は1981年に返還された。

ソース [#1]
陸軍病院、陸軍通信学校、陸軍電信第一連隊、臨時東京第三陸軍病院。青い斜線地域は敗戦後、1950年に接収地域、陸軍電信第一連隊の敷地と合わせて米軍住宅区域となる。

#1元図;相模原市教育研究所編『地域歴史素材集』1990 年

敗戦後米軍に接収された区域
陸軍病院(原町田陸軍病院(のち相模原陸軍病院)) ⇒米陸軍第128衛戍病院 ⇒在日米陸軍医療センター(FAC3098)⇒1981年日本に返還 ⇒外務省研修所、神奈川県立相模大野高等学校、グリーンホール相模大野、市営立体駐車場、市立相模大野中央公園、伊勢丹相模原店 [wiki]

 
ソース                1960年代の米軍病院  

陸軍電信第一連隊 ⇒ 米軍住宅地区 ⇒ 現在に至る

占領明け以降日本領区域
陸軍通信学校 ⇒ 戦後、相模女子大など
臨時東京第三陸軍病院 ⇒戦後、国立病院

■ 1.小田急相模原駅

■ 在日アメリカ陸軍 相模原住宅地区南口門

■ ⇒ 米軍住宅西側

ただのフェンスに長尺の金属が嵌め込まれ、中が見えないようになっている。


ここらあたりは中が見えるただのフェンスとなっていた。人が住んでいる気配がない。

■ ⇒ 4.相模原病院

元:臨時東京第三陸軍病院  相模原病院 沿革


真中の航空写真は1960年代、右は現在の航空写真

この陸軍病院には常時4千〜5千名もの患者数(傷病兵)が収容され、時には6千名を超えることもあったそうです。職員は2千2百〜2千3百名いましたが看護婦は5〜6名しかいなかった第11回 「相模台地区の都市化の移り変わり」

 配置図ソース

■ ⇒ 5.米軍住宅北側


すし太郎 google map

水道道緑道を横断


右手側が米軍住宅。この先は行き止まりで、引き返す。


引き返して撮影。左手側(南)が米軍住宅。右手家は日本人居住地域の家。


米軍住宅と日本人住宅がフェンスを挟んで隣接している地域もある。左手が日本。


ここが米軍住宅敷地の北東側角。ここで、米軍住宅を離れる。

▼ 1965年米陸軍家族住宅地区に米空軍の戦闘爆撃墜落

相模原市米軍住宅地区墜落事故昭和 40 年5月5日午後9時 40 分ごろ、横田基地所属F-105 サンダーチーフ戦闘爆撃機が、横田飛行場に着陸するため飛行中、機体に異常を発見し、人口過密地を避け、機首を相模湾に向けたのち、パイロットはパラシュートで脱出したが、機体は反転し、相模原市上鶴間の米軍相模原住宅地区に墜落した。
この事故により、日本側は軽傷1人、家屋一部損壊3棟、また、米側には死亡3人、負傷7人、家屋の全半壊があった。 ソース

■ ⇒ 6.文京2丁目、旧陸軍通信学校敷地

■ ⇒ 旧陸軍逓信学校門・相模女子大

▼ 相模女子大門=旧陸軍通信学校表門

陸軍通信学校(wikipedia)=東部88部隊(google

陸軍電信学校は、通信に従事する幹部候補生、下士官候補生を教育する学校で、1925(大正14)年に設立されましたが、陸軍士官学校の練兵場を利用するため、1939(昭和14)年5月20日に東京杉並から相模原に移転してきました。
終戦後その跡地には、1945(昭和20)年4月14日に戦災のため校舎を焼失した、帝国女子専門学校(のち相模女子大学:【上の写真】陸軍通信学校当時のものを使用する相模女子大学正門)が東京小石川から1946(昭和21)年4月に移転しました(当初は1年間の貸与)ほか、相模原町立大野第三国民学校仮教場(のち市立谷口台小学校)、県立相模台工業高校(のち県立相模原総合産業高校)などに転用されています。現在、相模女子大学構内には陸軍通信学校表門(同大学正門)のほか、将校集会所(同大学茜館)及び庭園、高さ18メートルの高架水槽(鉄筋コンクリート造の打ち放しの配水搭で、今でも現役で使用されている)、陸軍のシンボルマークである五芒星の形が入ったマンホールなど、約10の施設が文化遺産(軍事施設)として残っており、市立谷口台小学校には、倉庫があり、軽油庫らしいが鳩の餌を入れていたとも言い伝えられています(陸軍通信学校には鳩部が設置されていました)。【Web企画展】 第18回企画展「『軍都計画』と相模原」第3弾~相模原陸軍病院(米軍医療センター)の変遷~

■ 鵜野森大野線


北へ伸びる通り。この通りの右手が陸軍病院、米軍病院の区域。

相武台陸軍病院 wiki

1940(昭和15)年3月には原町田陸軍病院(のち相模原陸軍病院)と、相模原台地一帯には、東京から続々と軍事施設や軍需工場の移転が進み、8つの陸軍施設が建設され、その後、終戦により、陸軍施設の多くが米軍に接収されました。
そのうち、相模原陸軍病院は1945(昭和20)年9月20日、調達要求書第4386号により接収され、同月25日に米陸軍第128衛戍病院(のち米陸軍第141衛戍病院)が開設されます。1958(昭和33年)1月15日には、在日米陸軍の病院を統括し、在日米陸軍医療センター(FAC3098)(以下「医療センター」という。)となりました。
医療センターは米陸軍の軍人、軍属とその家族等のための総合病院として診療業務のほか、予防医学の研究等が行われ、ベトナム戦争当時は約700床のベットが満床で、横田基地から昼夜を問わずヘリコプターで傷病兵が運ばれてきたといいます。そして、ベトナム戦争終結により、1973(昭和48)年1月以降は機能が縮小されていきました。【Web企画展】 第18回企画展「『軍都計画』と相模原」第3弾~相模原陸軍病院(米軍医療センター)の変遷~

■ ⇒ 相模大野駅

■ まとめ 通過街

相模原市南区 南代 桜台 上鶴間 御園 文京 大野

 


子猿をめぐる冒険 :米陸軍第11空挺師団の再興2022と再来;They shall return, again since 1947

2023年08月18日 18時23分09秒 | 日本事情

(愚ブログで They shall return は2度目となります:1度目 シカゴ・アヴェニュウーと呼ばれた日、あるいは、they shall return)


米兵のヘルメットに書かれている 11 A/B は、11th airbone, 第11空挺師師団の意味
マッカーサーと一緒に「厚木」に来たこの子猿はどこへ行った?


左端が第11空挺師師団のスイング少将

第11空挺師師団は1945年夏、マッカーサーと一緒に「厚木」飛行場に来た米軍部隊だ。その後、札幌まで行ったことは上記愚記事にある。先々週は、第11空挺師師団に所属し仙台で1年過ごした兵士の手記をみた話をした。

さて、昨日知った。第11空挺師師団(wikipedia)は1965年に休止したが、2022年に復活したのだと。そして、昨年末、日本に日米共同訓練のために来ていたのだ。知らなかった。

▼ 再興

‘Arctic Angels’ Soar Again: Inside the Rebirth of the 11th Airborne Division 

翻訳 「北極の天使」が再び舞い上がる: 第 11 空挺師団の復活の内部

  記事抜粋

陸軍第11空挺師団が再び飛行中。今回、第11空挺部隊は、第二次世界大戦や朝鮮戦争の太平洋戦域で中心的な役割を果たした同名の空挺部隊やグライダー部隊のようにジャングルで救助を行うのではなく、北極の氷の上で活動することになる。

新たに再活性化された第11空挺師団は、陸軍の第82空挺師団や第101空挺師団と同様に空挺および空襲能力を備えている

アラスカ米陸軍は陸軍の北極部隊となるために大規模な変革を行っている

記事には北極圏でのノルウエー軍との共同訓練の話が出てくる。どうやら、対露牽制戦略の一環ということらしい。

▼ 再来

第11空挺師師団は再興したばかりでなく、かつて駐屯していた千歳にも帰ってきた。かつて千歳に進駐してきたときの様子は千歳市史に見える。7,000人が進駐したとある。

去年は日米共同訓練で千歳の基地に来たが、この基地にとって自衛隊は、第11空挺師師団と比べて、新参者である。

自衛隊web site より

 ソース

1947年のthe 11th Airborne Division ↓

(おそらく)第11空挺師団の札幌入城 昭和21年(1946年)4月7日

この写真は、仙台から来たスイング中将率いる第11空挺師団の札幌入城、昭和21年(1946年)4月7日と思われる(根拠資料 千歳市)。街路樹の葉が生えていないことも4月であることと調和的である。これは、おそらく北一条通り(西4丁目)。今は、「北海道神宮」の石碑となっている。

なお、今回の米陸軍第11空挺師団の再興と再来について調べてみて、子猿の手がかりはなかった。

 

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あからさまな「親米派」

2023年04月30日 18時18分38秒 | 日本事情

東京都世田谷区喜多見駅前

愚ブログの「親米派」シリーズ;①黒塗りの家に住む親米派②赤レンガの家で中国整体を営む親米派、③蔦に覆われちまった親米派④犬を連れた親米派、⑤絵にかいたような「親米派」、⑥洋瓦の家に住む親米派 に続く第7弾。

「親米派」シリーズで、極まってしまった案件に出くわす。このシリーズは、当初、シリーズ化するつもりなぞなかった。今からみて第1弾は、外観には何らアメリカ的要素がない家屋の主がどうやらアメリカ好きであるとわかったことに始まる。つまりは、隠れ「親米派」の発見においらが喜んだことに始まる。シリーズ③までは、いわば、隠れ「親米派」の発見シリーズであった。その後、わかりやすい「親米派」発見の報告がつづいた。そして、本記事。これ以上の親米派は今後、そう出会えないであろう親米派真打の登場だ。

Select Shop ムスムス 東京都狛江市岩戸北2丁目19 喜多見KI web site

第1弾の ①黒塗りの家に住む親米派 での親米派指標はこの程度の強度であった;


宮澤喜一の言葉遣いにおける「連中」

2023年02月23日 16時28分33秒 | 日本事情

 

宮澤喜一が池田勇人大蔵大臣の秘書官として、占領下に米国本国へ訪問し、講和会議について東京のマッカーサー元帥(マ元)の頭越しにワシントンの米国政府と下打ち合わせを試みた。そのことが東京のGHQ首脳やマ元に知られることとなり、彼らが怒ったという話の回顧;

 その日京都で吉田さんに、アメリカで起こったことを報告しました。だいたい狙ったラインはできました。できましたが、連中が怒っていてはどうにもならない。なんとか宥めて発表しなければいけない。 『聞き書 宮澤喜一回顧録』

「連中」ということばは否定的意味を含むものと思っていた。辞書では;

  1. 《「れんぢゅう」とも》仲間である者たち。また、同じようなことをする者たちをひとまとめにしていう語。親しみ、あるいは軽蔑 (けいべつ) を込めていう。「クラスの―を誘ってみる」「こういう―は度し難い」 (goo辞典書

親しみ、軽蔑の両方の意味を持ちうるのだ。なので、上記の宮澤喜一の占領軍への感情は「連中」という言葉から一義的にわかるわけでないとわかった。もちろん、おいらは、当初、「やつら」と互換できるような感情と受け取っていた。もっとも、宮澤は下記回顧しているので、やはり、連中は連中なのだろう;

占領下にあることがいかに不愉快なものか、いまの人にはわかってもらえないかもしれない。

一方、江藤淳との対談で宮澤喜一は「連中」という言葉を使っている。対象は新左翼系学生運動家たちである;

 ああやって大学で騒動をやっているわけですけど、いわゆる反代々木といわれている学生たちの言っていること、していることが、私にはよくわからない。(中略)
 おそらくあの連中の大部分が生まれたときからすでに世界は平和であった。 江藤淳との対談、「その次に来るもの」、江藤淳、『表現としての政治』1969年より

政権与党の政治家なのであるから、叛乱学生には否定的感情しかもっていないに違いない。

一方、この対談で江藤の言葉遣いとして次が認められる;

安田講堂を占拠していた反代々木の諸君について、ぼくはその行動に対しては非常に反感を持っていますけれども、いろいろな理由から、彼らの心情の根本にあるものについては多少推測のつくようなところもあるんですよね。

江藤は、「連中」よばわりしていない。

■ 「連中」に先駆けて「自己否定」の宮澤喜一

1969年に宮澤喜一と対談した江藤淳は、宮澤が首相となった1992年「宰相宮澤喜一論」を書いている(現在、『大空白の時代』に収録)。江藤は宮澤を秀才ではあるけれども指導力、統率力がないと描く。宮澤は高校時代に「人を心服せしむる力なきため、その統率的才能を機会少なき所あり」と教師に評され、いつも全学年で3位以内であったのに級長になったことがないのだという。宮澤喜一が頭角を現したのは秘書官としてだ。「主」の池田勇人が宮澤を認め、常に肯定し、褒賞し、おだてて仕事に務めさせたことがよかったと江藤は云う。つまり、「主」(庇護者)に尽くす立場では才能を激しく発揮するのだ。一方、自分が尽くさせる、つまり、人を心服させ大勢を統率すること才能が弱かった。その原因を江藤は宮澤の「自己否定」だというのである。自分で自分を励ますことができない。「主」に励ましてもらわないと仕事ができない。そういう性格だと江藤は分析している。さて、「自己否定」といえば全共闘運動でうたわれた惹句であるらしい(wikipedia)。「連中」のことではないか!


洋瓦の家に住む「親米派」

2023年02月17日 18時47分09秒 | 日本事情


東京都町田市

愚ブログの「親米派」シリーズ;①黒塗りの家に住む親米派②赤レンガの家で中国整体を営む親米派、③蔦に覆われちまった親米派④犬を連れた親米派、⑤絵にかいたような「親米派」、に続く第6弾。

上の画像の右下の灰色の塀に「エヴィデンス」が貼っていた;

Google 画像 [route66]

なお、向かって左の家は;

「親米派」町内会?


1945年8月30日、横浜に進駐する米軍を米英旗で迎えるがきんちょたち

2023年01月31日 20時41分01秒 | 日本事情

過去のブログ記事(1945年9月8日、東京に進駐する米軍を米英旗で迎えるがきんちょたち)が誤っていたので、訂正する。


マ元を歓迎する浜っ子たち、横浜市戸塚区

敗戦直後の占領軍の進駐において、米英旗を振って米軍を「歓迎」するがきんちょたちの映像を見た。こんな光景を見たことがなかった。この映像は、有名な映像供給会社のパテ・ニュース (google) のものなので、戦後ずっと公知であったはずだが、あまたあるテレビ番組・ドキュメンタリーにおいて、敗戦日本を語るための実写映像として使われているのを、おいらは、見たことがなかった。

このがきんちょたちが米軍を「歓迎」したのは、1945年9月8日にマッカーサー元帥(マ元)が横浜から東京の米国大使館に「入城」した日の出来事ではなく、マ元が「厚木」に舞い降りた日(14:05に着陸した)の「厚木」から横浜のホテル・ニューグランドへの移動中の戸塚区での出来事らしい。服部一馬、斎藤秀夫、『占領の傷跡』、有隣新書、1983年 (Amazon) にあった。ただし、詳細は記されていない。


服部一馬、斎藤秀夫、『占領の傷跡』より

そもそもこの米英旗で米進駐軍を歓迎するがきんちょたちは下記動画からのもの。今から見えれば、パテ・ニュースの映像は米軍の東京入城(1945年9月8日)を物語ったものだ。その物語の見せ場のひとつは チェイス少将 とデイビス上等兵の物語、東京入城第一人者のデイビス上等兵とチェイス少将の握手。1945年9月8日。ただし、この映像は、1945年8月30日にマ元が「厚木」飛行場に到着した以降のいろいろな場面で撮られた映像を編集したものであるらしい。そして、この米英旗を振るがきんちょたちは横浜は戸塚の子供たちとのこと。つまり、この動画の冒頭に港で上陸する第一騎兵師団が登場。記章で明らかに第一騎兵師団とわかる。史実として、1945年9月2日午前11時半横浜港大桟橋に4-5000名が上陸。動画は、おそらく、この場面であろう。一方、この動画の20秒以降の米英旗を振るがきんちょたちが出てくる場面は8月30日のことらしい。この場面ではトラックのみが写っていて、戦車は写っていない。「厚木」飛行場に到着したマ元は「最高司令官用として特別に準備された乗用車におさまり、乗用車二五台・トラック十〇台に分乗した完全武装の主力部隊一二〇〇名を従え、戸塚経由、横浜へ向かった」(『占領の傷跡』)とのこと。つまり、トラックに乗っているのは、第11空挺師団。そして、このがきんちょたちの米英旗による歓迎は戸塚での情景らしい。ただし、米英旗を振るというのは誰かの差し金だろう。いい映像を撮りたい米国側か?進駐を順調に進めたいと意志をもつ日本人グループか?わからないが。

■ 関連記事

1945年夏の敗戦、東京入城の米軍は八王子方面から

 


中川八洋さんの統一教会認識;あるいは、筑波大学、 福田信之、はたまた、村松剛、そして、西部邁

2022年09月04日 14時12分26秒 | 日本事情

みんな大好き、中川八洋 先生! のはずが、goo blogのタグ #中川八洋 に記事がない。

とはいうものの、中川八洋 先生マニアはどのくらいいるのだろうか? 昔の著作の中古価格は軒並み高い。

愚ブログにおける中川八洋関連記事

【思想概要】中川八洋 先生の思想(思想本籍)は一筋縄では説明できない。昔は「タカ派」の筆頭であった。難しいのは日本の核武装を主張するが、それは日本単独ではやってはいけない。米国との協力なしには全く認められないという立場である。さらには、GHQ万歳思想の持主である。したがって、現在流行の「保守派」とはかなり異質である。なにより、反安倍である。現在流行の「保守派」で反安倍はいないだろう。その点、適菜収に近いのかもしれない。中川八洋 先生の思想の特徴は、民族派を敵視することである。民族派として江藤淳、西尾幹二などを挙げて、徹底的に罵倒している。

【思想本籍】以上のような事情なので、中川八洋 先生の思想本籍がわかりずらい。なお、思想本籍とは八洋先生自らの言葉である。中川八洋 先生の思想判断基準は共産主義か、否かである。しかし、これも大雑把な話で、ソ連なきあと、ロシアを敵視しており、共産主義か、否かだけでは基準とならないはずだ。

【統一教会】ということを前世紀末から、おいらは考えていた。さらにそれ以前、冷戦時代から考えていたことは、中川八洋筑波大学教授って統一教会の(筆頭)信者、あるいは、原理研の(幹部)活動家なんだろうかということであった。ただし、エビデンスは何もなかった。エビデンスは何もなかったので愚ブログでは中川八洋 先生に何度も言及しているが、統一教会のことは触れなかった。中川八洋筑波大学教授が文鮮明の徒であろうとおいらが空想した理由は、福田信之。

【福田信之】とは、筑波大学の学長にもなった物理学者。朝永振一郎や仁科芳雄の弟子、部下。何より、文鮮明の熱心な信徒であった。何と、1970年代は「筑波大学副学長、学長」などの肩書で統一教会の集会に参加していた。特に、今では伝説となっているあの「文鮮明の講演会「希望の日晩餐会」」にも参加。1974年。つまり、公然信者であった。wikipedia

さらに重要な点は反共主義者であった福田信之は、元来、共産主義者であったこと。

ただし、福田信之の共産主義者時代の情報は(少)ない。紹介できるのは、自分の発言のみ;

終戦後数年ですかね、当時科学者の中にたくさん左翼がいて、そういう連中と一緒に左翼運動に身を投じていたんです。科学者運動というので、先輩の武谷さん以下、たくさん付き合った。

 今日も教育大の関係者たちと話したんですが、ああいう左翼学者というのはフェミニストですよね。僕は成田の過激派のようになんでも爆弾投げてやるくらいなら、これはそれなりに評価できる。ところが彼らはそういうところには出かけない。真面目な連中を煽って、自分はいかに金をもうけるか。金をもうけるのが達者な連中ですね。
 僕ら若い時は真面目にやったもんだから、だからなおさら悪さがはっきりわかってくる。(福田信之、『国際化時代と大学』、1980年)

推定するに、25歳で理研の研究者(原爆材料開発研究)として敗戦を迎えた福田は、敗戦の衝撃で共産主義者になったのだろう。25歳というと少しトウがたっているが、インテリで軍国青年/従軍経験からアカ(共産主義者)になるという例は多かった(例えば、色川大吉とか)。福田は数年活動したといっているが、『原爆・水爆とビキニ死の灰まで : 図解原子物理学』を1954年に出している。反核運動をやっていたというから、1954年にはまだ転向していないのだろう。さらに、推定すれば、朝鮮戦争勃発で日本共産党が非合法され、「地下」活動をする共産主義者がいた時代。山村工作隊など。福田信之のいう「過激派のようになんでも爆弾投げてやるくらい::僕ら若い時は真面目にやった」とはこのあたりのことではないかと、おいらは邪推している。

そして、福田信之は、東京教育大学の筑波大学への「移転」(法制上は、東京教育大学の廃学、筑波大学の設置・開学)の推進者筆頭であり、「移転」反対派の「左翼」に対し、福田は、自らの左翼知見を以て、勝利した。下記記録がある;

移転推進派の最大の実力者は、理学部物理学科の福田信之(1921-1994)教授であると言われていたが、彼はある雑誌(「経済往来」)の座談会で、紛争解決の原則は(1)話し合いはしない、(2)妥協はしない、(3)遠慮なく機動隊を使うことだと、得意げに述べている。事態はすべて彼の「3原則」通りに進行したと言え、福田教授こそは筑波大学建学の最大の功労者であったと言えるであろう。(彼は三輪知雄、宮島龍興につづいて筑波大学の第三代学長になる。)福田教授は反対派の学生をつかまえて、「お前はレーニンを読んでるか、俺は全部読んでるぞ」などとからかっていたそうだが、どうもこの福田3原則にはレーニン主義の影響が感じられる。レーニンのプロレタリア独裁論にならって推進派独裁をやっているかのようである。東京教育大学小史

【中川八洋、筑波大学】中川八洋が筑波大に就職したのが1980年(科学技術庁の課長補佐から転職)。福田信之の時代だ。これもエビデンスなしに、おいらは、勝手に、反共つながりで八洋先生は筑波大に勤まったのだろうと考えていた。その後も、中川八洋筑波大学教授って統一教会の(筆頭)信者、あるいは原理研の(幹部)活動家なんだろうなと空想していた。しかし、エビデンスは一切見つからなかった。中川八洋は年譜を公表しているが、この件に関する情報は見当たらない。

さらに、福田信之と中川八洋の接点も全く確認できない。

【そして、思想本籍開示】近日の統一教会騒動の余波で、中川八洋が(おそらく)初めて、統一教会についての認識を示した;

また、統一教会とは、朝鮮労働党党首・金日成が朝鮮戦争で疲弊した北朝鮮を再建すべく、その資金を韓国の民衆から集めるべく、1954年、韓国に亡命中の北朝鮮人&教条的コミュニスト文鮮明に命じ、“財産収奪宗教団体”として発足せしめたエセ宗教組織。当然、反共ではなく、逆に狂信的な共産主義一色の教団。 (中川八洋ゼミ講義

と罵倒している。なので、中川八洋は統一教会と無縁なのだろう。ただし、不自然ではある。上記認識があったのであれば、福田信之を罵倒してもよいはずである。

【はたまた、村松剛】 1980年代の筑波大学「右翼」教授として著名だったのが、村松剛。村松剛と中川八洋は交流が深かった。八洋先生の年譜に書いてある。

おいらは、村松剛の本を何冊か読んだことがある。気に入ったところは、「保護領」(protectorate Japan) 認識や、何より、米国が嫌いだと公言していることだ。米国嫌いは占領のトラウマで、村松剛は進駐軍キャンプに出入りいして「闇商売」をしていた。家が建つほど儲かった。基地で米兵に自動小銃銃撃され「蜂の巣みたいになって死んだ日本人はいくらでもいた」といっている。国家主義的というか、普通に主権国並みに軍備をしろという主張をするのを、マッチョでいいなと思っていたのかもしれない。

ところが、昨日買った古本(愚記事の■今週の購書)に恐ろしいことが書いてあった;

 村松剛氏と言えば R 大学助教授、文芸評論家、仏文学者で、皆さんよく御存知の日本のモナリザ、村松英子さんの兄貴であるが、この男、肩書きに似合わず甚だそそっかしい。学問芸術については実に博学多識であるが、俗世間の下情についてはほとんど知らん。彼が美空ひばりをヒバリ科に属する鳥の一種だと長い間、信じていたという実話は友人にはあまりに有名な話であるし、野球をやらせるとバット振って三塁にのこのこ歩き出すような始末である。

 もう五年ほど前になるのであるが、当時彼は成宗近くの都電停留所の前に住んでおった。
 ある朝、いつものように講義におもむくべく、ネクタイをしめ、上衣を着、ノートを入れた鞄を持って家を出た。ちょうど都電が停留所にストップしたところであったので、大急ぎで飛び乗ったところ、乗客一同、眼を丸くし口をポカンとあけて自分を注目しておるではないか。
 注目するのも当然である。彼は上衣を着、ネクタイをじめ、鞄こそ手に持っているが、下はモモヒキ一枚だったのである。 (遠藤周作、『ぐうたら社会学

うーん、剽悍決死の人ではなかったのだ。まあ、しょせん「知識人」だよね、と当たり前のことに気付かされた。

【蛇足】中川八洋さんに戻って、八洋先生の敵は共産主義者と民族派である。民族派として、江藤淳、西尾幹二が挙げられている。なお、八洋先生の脳内では、共産主義者と民族派は同じものの現象形態が違うものである。民族派とは反米右翼のことであるが、そうであるなら、典型は西部邁である。八洋先生の年譜では、あまたの「保守派」知識人が罵倒されているが、西部邁はその罵倒を免れている。理由や評価基準はわからない。西部邁は元アカで民族派で反米右翼の典型なのに。八洋先生の年譜での西部の言及箇所は下記;

▽     勉強会の講師として西部邁を招く
《わたしが初めて西部遭氏と会ったのは二十年近く前だった。中川八洋氏が主宰する勉強会に西部氏が講師としてあらわれ、難しい講話が終わってから六本木のビアホールでビールを相当量飲んだ。中川氏はソフトドリンクを飲んでいた。
  何を話したかは綺麗さっぱり忘れている。》「辛口コラム 書評その5のA 西部邁著 『妻と僕 寓話と化す我らの死』(飛鳥新社)」http://miyazaki.xii.jp/column/index5.html
※書評の『妻と僕』(2008年7月刊)から逆算して推定すると1988年頃か。ソース 1989・平成元年  44歳