いか@ 筑豊境 寓 『看猫録』

Across a Death Valley with my own Distilled Resentment

筑紫洲 (つくしのしま) でもぶどう記録;第13週

2024年06月22日 18時16分10秒 | 筑紫洲 (つくしのしま)

▲ 今週のみけちゃん
▼ 筑紫洲 (つくしのしま) でもぶどう記録;第13週

■ 今週のよその猫

■ 今週の草木花実

■ 今週の無包装

アウトレットで買ったチロルチョコが裸だった。なので、この商品がkiriとのコラボだとは気づかなかった。

2022年10月に一部ルート限定で発売した「キリ」×チロルチョコのコラボ商品。発売と同時にSNSやネットニュース・TVメディア等で注目を集め、味の再現性とデザイン共に人気を博した商品が、「キリ」日本発売40周年を迎えるタイミングで再登場。全国で発売します。新商品「チロルチョコ〈クリームチーズチョコ〉」

 包装した状態

■ 今週の繕い、あるいは、偉人のものまね

 靴下のつくろいも自分でやった (wikipedia [山本権兵衛])

■ 今週返した本

勝又浩 [wiki]、『「鐘の鳴る丘」世代とアメリカ  廃墟・占領・戦後文学』、2012年。全く知らなかった。著者も本も。図書館の開架棚で見つけた。おもしろかった。何より、空襲敗戦占領横浜横須賀で過ごした体験と敗戦後・占領期の作品紹介。進駐軍からガムをもらった話がある。おいらはかつて書いた;

占領軍兵士=事実上米兵に「ギブミーチョコレート」といってチョコレートをもらいましたと書いた自伝を、おいらは、見たことがなかった。むしろ、米兵に物をもらったが父の命令で捨てたという話は読んだ(保坂正康の話;愚記事

以前、海老坂武の体験事例に出会った。本書の勝又浩は米兵から菓子をもらった体験として、保坂、海老坂に続いて3人目。なお、勝又浩は米兵が撒いたものを拾ったらしく、家に持って帰って、母親にえらく叱られたと回顧している。まともな家庭だったのだ。

勝又浩。昭和13年(1938年)生まれ。敗戦時、7才。小学校/当時国民学校1年生。法政大学文学部日本文学科教授であった。中島敦の研究で有名とのこと。存命らしい。

「鐘の鳴る丘」とはNHKのラジオドラマで、戦災孤児の寮の子供たちの話(wiki)。敗戦後の戦災孤児となった年頃であった勝又浩が自分の世代を「鐘の鳴る丘」世代と呼称したのがこの本。おいらにとっては親の世代だ。ただし、おいらの親はB-29が来なかった街で育った。進駐軍は来た。新規基地さえ作った。

勝又浩、『「鐘の鳴る丘」世代とアメリカ  廃墟・占領・戦後文学』

目次

はじめに―「鐘の鳴る丘」世代の弁
1 廃墟と占領
2 占領軍と日本の女性たち
3 ニッポンとオキナワ
4 内と外のアメリカ
おわりに―「鐘の鳴る丘」世代の現在


本の帯と思われる。

《日本人の心に影を落とすアメリカ》
「緑の丘の赤い屋根 とんがり帽子の時計台」。昭和20年代に人気を博したラジオドラマ『鐘の鳴る丘』。戦災孤児たちの物語は当時の子供たちを夢中にさせた。横浜大空襲に遭い、戦災孤児になりかけ、『鐘の鳴る丘』に世代的共感を抱き続けてきた本書の著者は、この番組が占領軍の指示で制作されたものだと知り、愕然とする。アメリカは破壊者だったのか、救済者だったのか--
廃墟と焼け跡に代表される戦後の混乱と飢えを経験し、それを描いた戦後文学の理念を自らの文学上の精神としてきたが、自分にとっての戦後文学は幻影だったのではないかという疑念を抱きはじめた。
野坂昭如ら「焼跡闇市」世代より一つ下の世代が「鐘の鳴る丘」世代である。敗戦後、米兵がジープから投げるチョコレートに群がり、奇妙な解放と民主主義熱の中でアメリカに憧れて少年時代を過ごした。いつの間にか物質だけでなく精神的にもアメリカに侵蝕され、現在に至っていると気づいた文芸評論家が、戦災孤児の視点に立ち返って戦後文学が捉えてきたアメリカと、描かれなかったアメリカを新たに検証する。戦後日本社会の風俗と民衆の心の動きを追うと同時に自らの生き方を問い、現在につながるアメリカ「占領」の意味を探る力作。Amazon

■ 経験の抜き書き

▼ 空襲、あるいは、ジェノサイド

昭和二十年三月九日の東京大空襲を、私は 縁故疎開先であった 宇都宮で見たー夜の西の空がオレンジ色に染まり、翌日は灰が降ったー 五月二十九日の、死者 四四一六人、 被災者 四〇万人 と言われた 横浜大空襲の時は、ある事情から横浜にいて、我が家の焼け落ちるのも間近に見ることになった。その日は 町内の路傍に作られた 共同の竪穴式防空壕では危険だという指示が出て、我々は 野毛山の、山の腹に掘られた大きな 防空壕に避難したが、早く来て入って行った人が、後から押しかけた人に押されて窒息死するような悲惨な事故もあった。人口密度の高い都市を総なめにした爆撃は 人々に避難する場所さえ残さなかったわけである。この空襲から二、三日後であったと思うが、私は母親に言われて知り合いの家まで使いに出てすっかり見通しのよくなった伊勢崎町通りを歩いていたが、 そのとき、「おい子供、そちら側を歩いていてはダメだ」と、警防団の小父さんに注意された。慌てて道の反対側に移ったが、しかしちらと見えてしまったのが、焼けトタンに囲まれた一角に黒焦げになって 材木のように並べられていた死体だった。それで道の一方の側を歩いてはいけないという意味も理解できたが、 以来、空襲、焼け跡、廃墟 等々のことばのイメージは、この光景を伴って 私の中に固まっていったようだ。(p69)

▼ サイパン

勝又浩さんは横須賀で過ごした学生時代、ドブ板通りが行動範囲だったとのこと。内地で最も米兵があふれていた場所だ。スカジャン発祥の地だ。おいらは、お参りに行ったことがある(愚記事)。

そのドブ板通りで勝又浩さんは「サイパンと呼ばれた男」といきあっていたと報告している。彼は天涯孤独で防空壕あとの穴に住んでいたらしい。

川崎洋、『サイパンと呼ばれた男: 横須賀物語』1988年 (Amazon)

▼ 音楽

占領軍が勝又浩さんに与えた衝撃のひとつが、音楽だったと報告している:

敗戦の年の秋、小学校一年の二学期から横須賀に移り住んでー 私のことだが、そこで高校を終えるまで過ごした、基地の子であった私は、米海軍音楽隊の演奏をよく聞いた。というより、物心ついて以来、身体全体を持っていかれてしまうような音楽というものを初めて知ったのは米軍のブラスバンド音楽だった、という方が真実に近いだろう。

昭和二九、三〇年頃、私も 中学校の三年から高校にかけて、日比谷公会堂へ何度か出かけている。戦後 窮乏の時代は同時に 文化的なものへの憧憬渇望の強かった時代だったから、田舎の少年を 音楽会のために 日比谷まで 呼び寄せたわけだ。しかしいま思うに、米もパンも 配給、物資 全般に事欠く時代の中での文化だったから、聞きに行く 我々にも増して、聴かせる音楽家の方も大変だったに違いない。(中略)
 田舎の少年だった友人と私はその日、会場に早く着いてしまい、面白半分に楽屋を覗きに行ったのだが、その時の雰囲気からして、我々の推測に誤りはないであろう。それは廊下まであふれた楽団員たちが、一人ひとり広げた風呂敷を前にして着替え風景だったが、まるで 見世物小屋の楽屋を覗いてしまったような 幻滅の体験。我々はせっかく 非日常の時間を求めてはるばるやってきたのに、とんだところで みじめな日常を呼び覚まされてしまった。別の意味で言葉もなかったのである。 

江藤淳も敗戦直後、日比谷公会堂に音楽を聴きに通ったと云っている。

▼ アメリカ文化の支配

当時の子供たちにとって、文化的なものとはすべてアメリカ的なものでもあった(p100)

 男が自分に向けて言っている、「それはつまらなかった。それは野蛮であった」ーとは、実は我々が、敗戦後の子供たちが、庶民が、占領軍兵士たちを前にして感じたことでもあった。我々が垢じみた綿入れ 半纏に着膨れているとき、傍らを通るアメリカの水兵が、スマートで暖かそうな紺羅紗のジャンパーを脱げば、その下は半袖の白いセーラー服だったことに驚いたこともある。あれが文化的生活などだと思ったが、一方、その水兵が 八百屋で買った人参をそのままかじりながら歩いているのを見て、しかしそれも自由主義、民主主義なのだろうと思ったものだ。そして、小言を言う親は全て封建的人種にすぎなかった。だから、酒が入れば口三味線なんかで歌う 父親を軽蔑して、私は米軍 ブラスバンドに憧れたのだったろう。
  無知な我々はこんな風に、うっかり アメリカに”降服”していたのだが、そして今、そうであった自分自身の歴史をしみじみ 悲しく 哀れに思っているのだが、そういう反省の中でこの『軍楽』を読み直せば、 これも実に悲しく思われる。p65

▼ 裏マニュアル

余談になるが、基地の町横須賀で育った私は、概ね 酔った米兵の引き起こす騒動を日常茶飯事のように見ていた。そうした騒ぎが日本人のそれと決定的に違うのは、周辺のもの、つまり 日本の男たちが全く手出しできないことだった。ただ、遠巻きにして見ているばかりだったが、そこには 体格の格段の違いや占領軍兵士に対する恐れもあったろうが、それ以上に、言葉が通じないために仲裁が仲裁にならなかったという事情があった。手を出せば火に油を注ぐ 結果にしかならなかったのである。 

というのは、当時の基地の町の住人たちなら誰でも知っていることであったが、朝鮮戦争の最中は とりわけ 米兵たちの、はっきり言えば 黒人兵たちの狼藉騒ぎが音のほか 激しかったという事実があるからだ。私が小学校6年の時だったが、近所の銭湯に数人の黒人兵 が押し 行ってきて大騒ぎになったことがあった。今考えれば、あれも 朝鮮戦争 余波の一つだったのであろう。銭湯ではそれまで、日本人に混じって大人しく 作法に従っている白人は何度か見ることがあって、我々子供はそれを手伝ってやったり、くっついて歩いたりしたものだった。ところが風呂に入りに来るのではなく、いきなり女湯に押し入ってきたのは、あの時の 黒人兵の霊だけだったのではないだろうか。

 それでもう一つ余談になるが、米兵達の狼藉が日常のことであった横須賀では、そうした中で最もたちの悪いのが マリン、つまり 海兵隊員で、次が アーミー、陸軍兵だということになっていた。それはおそらく、戦場で過酷な場所に立つ度合いに比例していた のであろう。そして先に行った市民たちの大人しさとは反対の話になるが、彼らの狼藉が始まると、遠巻きにしていた市民たちーと言っても、ほとんどは 米兵 相手に何らかの商売をしている人たちであるかーの一人が、見て素早く兵隊の防止やネクタイなどを奪って逃げるのが、そういう場合の対処の仕方であった。兵士たちは服装が不完全だと基地のゲートを通過できず、期待できなかったからであるが、遠巻きにしている一般市民たちの輪は、そういう時に役に立ったわけである。おそらく 占領下も4ー5年経て、基地の町の人たちはそんな 知恵を身につけるようになったのであろう。 

 こうした基地の町の裏マニュアルに、特に黒人兵 という項目はないが、それは私が 遠巻き側の、しかも 子供であったからであろう。しかし、それでも町の女性たちが黒人兵の客をあまり歓迎しなかったということは町の人たちは皆知っていた。だから松本清張 「黒地の絵」 昭和33年 を読んだ時 私にはこの事件のもう一つの 背景も想像できたのである。 

▼ フェンスの向こうのアメリカ

小説の冒頭にも書かれているように、米軍用住宅地は、そこに入るためには ゲートで訪問先の確認を取る必要があったような、一種の異国であり 治外法権の場であった。横浜、横須賀にもあったから、私にもそのイメージがよくわかるが、それは、貧しい敗戦国の民には、金網越しに覗くアメリカの生活や文化のショーウィンドウのような存在だった。一様に広い芝生の庭を配して、その中心に白く塗られた四角な住宅は、映画で見て憧れたアメリカの豊かでモダンな生活の生きたサンプルなのだ。p175

▼ 占領政策

勝又が親しんだNHKのラジオドラマ「鐘の鳴る丘」は占領軍の意図で制作された。つまり、CIC:《Civil Information and Education Section》民間情報教育局 [wiki]。 GHQの一部局で、第二次大戦後の日本占領下の文化面の情報収集と行政指導をし、教育制度改革などを実施した組織による、プロパガンダ放送番組。育ちの良い児童劇団の子等が悲惨を演じているのが透けて見える

のちにこのことを勝又は知る。検閲制度も同様。当時は知らなかったがのちに知る。江藤淳についても言及。占領政策の欺瞞を暴露したことは評価する。大東亜戦争などの占用軍による言葉の禁止の問題には共感。しかし、2.1ストまでの占領軍の「民主化」まで虚妄扱いするなとお怒り。江藤は思い込みが激しいと評している。

■ 作品、作家紹介

▼ 占領下には米軍 や アメリカ兵が直接登場する作品がほとんどなかった

戦後の文学作品でアメリカや 占領軍を描いたり 取り込んだりしている作品のリストを作ってみて気づいたことの一つに、 昭和20年代前半には、米軍 や アメリカ兵が直接登場する作品がほとんど見当たらないという事実があった。p23

▼ 広池秋子『オンリー達』昭和26年(1951年)

知らなかった。この作品は進駐軍相手の売春婦を描いた初期(最初?)の作品らしい。なお、今の人は「オンリー」って知らないだろう。でも、辞典に載ってた;

オンリー:第二次大戦後の一時期、一人の特定の外国人とだけ交渉をもつ売春婦の俗称。goo辞書

この作品は、『街娼 パンパン&オンリー (シリーズ紙礫)』(皓星社)2015年、[Amazon] で読める。

一方、戦後占領期 短篇小説コレクション(藤原書店)というのがある。

▼ 奪われた女性たち: 丹羽文雄『恋文』

▼ 久生十蘭

(ひさお じゅうらん)[wiki]。初めて知った。しかも、道産子。1929-1933年とフランスで過ごしているのだが、母親と一緒というのが稀有な日本人留学者だ。

その母親と仲良しの久生十蘭の『母子像』。さのばびっち@にっぽんの男の子のお話。

全文(青空文庫)

親に殺される子は、天皇に殺される赤子の喩であるという解釈。そして、その母は旧敵相手の淫売婦となる。豚みたいな声でなく女なんだ

『我が家の楽園』(全文 青空文庫)も言及されている。『抱擁家族』の先駆作品であると。

▼ (後期)戦後文学とアメリカ

島田雅彦、『退廃姉妹』(Amazon)。

そして、村上龍。

彼は自ら進んで「人形」になることを望んでいるのであり、 「あいつらの思うままに動」く奴隷であることが、彼にとっての「最高の幸福」の達成であり、彼はここで何よりも「自分のことを忘れて」いるような人物なのだ。 ジャクソンに「黄色い人形」だと決めつけられて、それを彼が差別だとも 恥辱だとも 意識していないのはこんなわけであった。「人形」であることが、むしろ彼の夢の、「遊園地」の実現、 保証でさえあったのだ。これを社会象徴としてみれば マッカーサー時代への逆戻りの構図以外の何者でもない。 私がアメリカの日本占領は此処に極まったと言った所以であるが、こんな無惨な、悲しい話が『限りなく透明に近いブルー』という小説なのである。

● 不思議な点

勝又浩は自分を「鐘の鳴る丘」世代とする。「鐘の鳴る丘」の当事者とは戦災孤児である。したがって、世代の中では少数派だ。その少数派を自分の世代の象徴的なものとする。確かに、戦災孤児を生み出したのは、日本史の中で、昭和13年前後に生まれた世代に限られるだろう。そして、勝又浩は自分自身横浜空襲に逢い、戦災孤児になるかもしれなかったと認識している。その認識が、自分を「鐘の鳴る丘」世代とする。でも、不思議だ。日本史の中で、昭和13年前後に生まれた世代が戦災孤児を生み出したのだろうが、戦災孤児よりの不幸な死んだ子供たちへの言及がない。勝又浩の世代は、空爆死、つまり、米軍によるジェノサイドの子供犠牲者を生み出している。すなわち、勝又浩の世代は戦災孤児もいるが、死んだ子供もいる。米軍に殺されたのだ。東京大空襲でも死亡者は女子供が多数である。学童は疎開したものは助かったであろうが、多くが死んだ。

なぜ、生き残った戦災孤児を世代の象徴とするのか?

そもそも戦災孤児は、母親が死んだから生じた。無差別攻撃で殺されたのだ。父親は戦死したかもしれないが、孤児となったのは母親はじめ一族が全滅したからだろう。ジェノサイドの結果だ。

なにより最も不思議なのは、勝又浩は空襲、すなわち米軍のジェノサイドで自分が殺されるということは想定しないのだ。想定することは自分が戦災孤児になることである。自分が戦災孤児になるということは、親や一族が全て死に絶えるが自分は生き残るということで実現される。現実に昭和20年の横浜空襲のときは現地にいたのに。

さて、勝又浩に限らず、戦後の日本人は一般庶民を大虐殺する米軍をなぜ簡単に信じたのかというのがおいらの素朴な疑問だ。平和と民主主義とか。原爆民主主義とは加藤典洋の造語であるが、興味深い。原爆は廣島、長崎に限られるので、空爆民主主義、ジェノサイド民主主義でもよい。

もっとも、勝又浩は下記述べている;

私としては、ともあれ「 無差別性 残虐性を有する 本件 爆弾を使用するわ 人類文化に対する新たなる罪悪なり」。「 全人類及び文明の名において 米国政府を糾弾するとともに 即時 かかる 非*道的 武器の使用を放棄すべきことを厳重に要求す」という主張は、現在でも間違いなく 有効なのだと言っておけば足りるであろう。

そうであるならば、嗜虐性無差別爆撃を行う米軍の「自由主義、民主主義」を信じたのか?

回答は、『「鐘の鳴る丘」世代とアメリカ  廃墟・占領・戦後文学』に少しは見える。ひとつは、hedonism (google)。わざわさ横文字で書くのは、日本語訳がちょっと違った印象を与えるので。さらには、このhedonismの逆説=その過剰が反吐につながるという語感から。

勝又浩の場合、そのhedonismをもたらしたものは、端的に音楽であったと報告されている。「身体全体を持っていかれてしまうよう」とは生々しい。そして、アメリカ文化。衣装(ファッション)。米軍住宅。端的に云って日常的hedonism=暖衣飽食というところか。それは理解できる。おいらもそうだ

横浜空襲の後、「黒焦げになって 材木のように並べられていた死体」を見た勝又が、焼死した同世代の子供への想像力が見えないのが『「鐘の鳴る丘」世代とアメリカ  廃墟・占領・戦後文学』を読んで不思議に思ったことだ。

さらに不思議な点は、勝又、そしてほとんどの戦後日本人が、空爆による日本庶民大虐殺を行った米国人の悪意というものを認めないことである。

これは非常に興味深い。

さて、最後に、親御さんが横須賀で何を生業にしていたのか、全く不明である。

★ 『明治意維新という過ち』

「保守」とは何か?という議論がある。それは感覚的なものであるという回答もある。そうであるならば、「保守」のまっとうな感覚というのは「明治維新」嫌悪ではないだろうか?

「明治維新」の野蛮さ、正統性の無さは愚ブログの十八番である。20年前からやっている。この本は網羅的な「明治維新」の正統性への疑念を著した本である。

 



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