安岡正篤は「元来剣というものは積極的に人を攻撃する武器、消極的には護身の武器と考えるのは、幼稚な考えである」(『日本精神の研究』)と述べるとともに、「いわゆる剣が武道と謂われるようになっては、そこに非常に深遠な霊的意味が発展して往った。此れは確かに東洋人の民族精神を表す一証左であると思う」(『同』)と書いている。
三種の神器の一つに、鏡や玉と共にあるのは、我が民族精神の体現でもあるからだ。安岡は「真剣味」という言葉にしても、白刃を執って敵に臨んだときの心持であることに注目する。だからこそ、人前で剣を抜くということは、切り結ぶことを前提にしている。それを覚悟しての行動でなければならない。それを脅かしに使うようでは、武士としては最悪である。
一旦抜けば、自らがその責任を負わなければならない。簡単に用いることができないからこそ、「魂を磨くための刀」となるのだ。日本保守党の代表である百田尚樹氏を、YouTubeの動画で、日本刀を抜いて見せ、自らの力を誇示した。まさしくデモンストレーションでしかなく、刀を見せびらかすということは、武士の精神とは、まったく無縁な「真剣味」に欠けた行為であり、単なる脅かし以外の何物でもないのである。