先日の市民フォーラムの事前アンケートで、乳がんになったことによる変化をそれぞれプラスとマイナスに分けて多岐にわたって記述する欄があった。日常生活、考え方、仕事、人間関係、人生観その他もろもろ、ひっくるめて総合的にどうか、と。
「乳がんと診断されてから、あなたの人生の変化は?」では「(プラス、マイナス)どちらとも言えない」に○をした上で、私が書いた自由記述は、以下の通りだ。
「もちろん病気になってラッキーだったと言うほどノー天気ではないし、病気になり(さらに3年経たずして再発したのでエンドレスの治療中です。)出来なくなったこと、我慢しなければならなくなったことも多いけれど、それでも病気にならなければ出会えなかった人(患者会のメンバー等)に出会うことが出来、自分のために、家族のためにブログを書き始めたことはプラスだったと思う。プラスもあり、マイナスもある。すべてひっくるめてプラスです、とまでは言えない。」
そもそも今、もし乳がんになっていなかったら、とレバタラを言ってみたところで、事態は変わらない。だからといって「そんなことを聞くのはナンセンスでしょう。」と言ってしまったらアンケートは成り立たないし、元も子もない。もちろん、乳がんになっていなければ(特に再発していなければ)、エンドレスの高額な治療費もかからず、数年先の命の心配はせず、仕事も休まず、仕事の合間に長期の旅行に出かけて・・・・などと、次々にプラスのことを考えられる。失ったもの―マイナスのこと-を数え出したらきりがない。出来なくなったことと言い始めたらこれまたきりがない。
けれど、乳がんになっていなくても、別の慢性疾患になっていたかもしれない。今さら、真っさらの状態で6年半前まで時計を戻すことは到底できない。
逆に、乳がんになったからこそ・・・、と無理やり前向きなことをこじつけてみれば、一日一日を大切に生きるとか、普通に暮らすことの有り難みを素直に感謝するようになったとか、元気でいたら決して入会することのなかった患者会で大切な友人が出来たとか、これまでの友人関係等を見直すことが出来たことや、自分にとって何が本当に大切なものなのかがわかるようになったとか・・・などと、地に足のついた形の幸せを言ってみることが出来る。自分の中で事態を消化する(受容する)ために発想の転換が行われたのだろう。出来ないことを数えるより、出来ること、出来ていることを数える、という。
・・・というか、そうでもしないと長いこと患者なんぞやっていられない、というところがある。これは乳がんに限らず、完治しない病を持つ患者全ての声ではないか。
もちろん20代、30代で患者になった人と60代、70代で患者になった人と比較すれば、これまで生きてきた歴史が違うから当然そのプラスもマイナスも受け取り方も違うものだろう。けれど、当日のアンケートにもあったが、どの年代であれ、キャンサーズ“ギフト”に対して最初は反発したり、違和感を感じたりしても、だんだんそれを受け入れていく、いや受け入れざるを得ない、という道を辿るように思う。受け入れないと、それ以降の自分の日々の生活を全て否定することになってしまうから。“ギフト”とは言えないけれど、“気付き”のようなものだと思う。
そう、乳がんになったことは決して幸運なことではなかったけれど、患者でいても小さな(いや、大きな、だってある。)幸せを感じる毎日を過ごすことは必ず出来る。乳がんになったことはひたすら不幸一色ではなかった、と言える。そしてこれからも言い続けられるように日々を大切に暮らしていくしかないのだな、と思っている。
今日の暑さもとりわけ厳しかった。職場では久しぶりに「目標電力量を超えそうなので、ピークカットします。」の放送が流れ、エアコンストップ。徐々にもわ~んとしてくる空気の中、扇風機が活躍した。
今日は長崎の日。子供の頃は、この日が終われば40日以上あったはずの夏休みも残すところ半分、という折り返し地点だった。
息子の高校は二期制なので、今は夏期自宅学習期間と称され(かなり無理のあるネーミングだと思うが)、月末を待たずして終わってしまう(その代わり9月末、10月の後期開始の前に1週間の秋休みがある。)。去年までは8月23日から通常授業スタートだったが、今年度から土曜日が通常授業日になったので、その分がカウントされて1週間後ろ倒しになった。8月30日から授業開始って、かなり中途半端だと思う。けれど、ホームステイ呆けで、帰国して宿題も間に合わないうちに新学期では体も頭もついていかないだろうから、息子にとってはソフトランディング期間かもしれない。そうはいうものの前期末試験は例年通り9月初めなので、「学校開始」イコール「即試験」というのは、却ってキツイのかもしれない、と思っている。
「乳がんと診断されてから、あなたの人生の変化は?」では「(プラス、マイナス)どちらとも言えない」に○をした上で、私が書いた自由記述は、以下の通りだ。
「もちろん病気になってラッキーだったと言うほどノー天気ではないし、病気になり(さらに3年経たずして再発したのでエンドレスの治療中です。)出来なくなったこと、我慢しなければならなくなったことも多いけれど、それでも病気にならなければ出会えなかった人(患者会のメンバー等)に出会うことが出来、自分のために、家族のためにブログを書き始めたことはプラスだったと思う。プラスもあり、マイナスもある。すべてひっくるめてプラスです、とまでは言えない。」
そもそも今、もし乳がんになっていなかったら、とレバタラを言ってみたところで、事態は変わらない。だからといって「そんなことを聞くのはナンセンスでしょう。」と言ってしまったらアンケートは成り立たないし、元も子もない。もちろん、乳がんになっていなければ(特に再発していなければ)、エンドレスの高額な治療費もかからず、数年先の命の心配はせず、仕事も休まず、仕事の合間に長期の旅行に出かけて・・・・などと、次々にプラスのことを考えられる。失ったもの―マイナスのこと-を数え出したらきりがない。出来なくなったことと言い始めたらこれまたきりがない。
けれど、乳がんになっていなくても、別の慢性疾患になっていたかもしれない。今さら、真っさらの状態で6年半前まで時計を戻すことは到底できない。
逆に、乳がんになったからこそ・・・、と無理やり前向きなことをこじつけてみれば、一日一日を大切に生きるとか、普通に暮らすことの有り難みを素直に感謝するようになったとか、元気でいたら決して入会することのなかった患者会で大切な友人が出来たとか、これまでの友人関係等を見直すことが出来たことや、自分にとって何が本当に大切なものなのかがわかるようになったとか・・・などと、地に足のついた形の幸せを言ってみることが出来る。自分の中で事態を消化する(受容する)ために発想の転換が行われたのだろう。出来ないことを数えるより、出来ること、出来ていることを数える、という。
・・・というか、そうでもしないと長いこと患者なんぞやっていられない、というところがある。これは乳がんに限らず、完治しない病を持つ患者全ての声ではないか。
もちろん20代、30代で患者になった人と60代、70代で患者になった人と比較すれば、これまで生きてきた歴史が違うから当然そのプラスもマイナスも受け取り方も違うものだろう。けれど、当日のアンケートにもあったが、どの年代であれ、キャンサーズ“ギフト”に対して最初は反発したり、違和感を感じたりしても、だんだんそれを受け入れていく、いや受け入れざるを得ない、という道を辿るように思う。受け入れないと、それ以降の自分の日々の生活を全て否定することになってしまうから。“ギフト”とは言えないけれど、“気付き”のようなものだと思う。
そう、乳がんになったことは決して幸運なことではなかったけれど、患者でいても小さな(いや、大きな、だってある。)幸せを感じる毎日を過ごすことは必ず出来る。乳がんになったことはひたすら不幸一色ではなかった、と言える。そしてこれからも言い続けられるように日々を大切に暮らしていくしかないのだな、と思っている。
今日の暑さもとりわけ厳しかった。職場では久しぶりに「目標電力量を超えそうなので、ピークカットします。」の放送が流れ、エアコンストップ。徐々にもわ~んとしてくる空気の中、扇風機が活躍した。
今日は長崎の日。子供の頃は、この日が終われば40日以上あったはずの夏休みも残すところ半分、という折り返し地点だった。
息子の高校は二期制なので、今は夏期自宅学習期間と称され(かなり無理のあるネーミングだと思うが)、月末を待たずして終わってしまう(その代わり9月末、10月の後期開始の前に1週間の秋休みがある。)。去年までは8月23日から通常授業スタートだったが、今年度から土曜日が通常授業日になったので、その分がカウントされて1週間後ろ倒しになった。8月30日から授業開始って、かなり中途半端だと思う。けれど、ホームステイ呆けで、帰国して宿題も間に合わないうちに新学期では体も頭もついていかないだろうから、息子にとってはソフトランディング期間かもしれない。そうはいうものの前期末試験は例年通り9月初めなので、「学校開始」イコール「即試験」というのは、却ってキツイのかもしれない、と思っている。