ロッキングチェアに揺られて

再発乳がんとともに、心穏やかに潔く、精一杯生きる

2011.8.29 批“判”家にならないために

2011-08-29 20:48:41 | 日記
 以前このブログで、漫画家の西原理恵子さんのインタビュー記事を転載させて頂いたことがあるが、朝日新聞のネット記事の同じ「仕事力」という連載で、ミュージシャンの山下達郎さんの記事が目にとまったので、以下に転載させて頂く。

※  ※  ※(転載開始) 

山下達郎が語る仕事-4 文化を傷つけない(2011年8月28日)

人の仕事には敬意を払おう

 音楽だけではなく、映画や小説、絵画、スポーツなどの分野も同じだと思いますが、商品として売っていく中で「世の中を変える世紀の傑作」とか、「数百万人を感動させた」と誇大宣伝を打つケースが少なくない。さらに、多くの媒体や評論家と呼ばれるような存在も巻き込んで、過大評価を流布する例もたくさんあります。そのこと自体はビジネスなので仕方がない。
 それは内容とは別の問題なのに、宣伝ほどじゃないとか、過大評価が気に入らないと思う人々が、今度は批判を浴びせます。そういう過大な称賛と不必要な批判が錯綜(さくそう)し対立するたびに、文化は傷つき、人の気持ちもすさむように思えます。
 僕は58歳になり、この年齢になってどうにか、的外れな批判を気にせずに生きられるようになりました。できることなら、今の若い人にはそういう周囲の雑音に負けないで仕事をして欲しいと思っていますが、残念なことに、今はそれがとても難しい時代です。厄介なことに人間は、千の賛辞の中の一つの罵倒をすごく気にする動物なので、その中で冷静に自分の仕事を自己評価することは至難です。まして、自己の克己心だけでその苦しさを乗り越えていくことはさらに難しい。
 だからこそ職種を問わず、仕事人になったら、好き嫌いと良しあしをきちんと区切って、他者の作品や仕事への敬意を払わねばなりません。一つの作品が形になるまでに費やす時間や労力は半端なものではありません。良しあしや好き嫌いがあるのは当然ですが、度を超した評価や批判は、文化自体をも曇らせていくものです。
(以下省略)

(転載終了)※  ※  ※

 最近、この国では持ち上げておきながらその後で叩く、というのが結構一般化しているように感じる。適切に批評することを否定するつもりは全くないけれど、こと批判に終始するのは哀しいことだと思う。山下さんが言われる通り、「好き嫌い」と「良し悪し」は全く違うものだから。さらには「人間は千の賛辞の中の一つの罵倒をすごく気にする動物」という部分に膝を打った。山下さんでもそうなのだな、と。自分のことを思うがためにあえて耳障りなことを言ってくれるということと、罵倒とは全く違う。にもかかわらず・・・である。荒んだ気持ちの中でより良いものが生み出されるとは残念ながら、思えない。

 もちろん何ら批判精神を持たずに本を読んだり、人の意見をすんなりそのまま受け入れてしまうことは、自らの考える力を鍛えていくためにはいささか物足りないことかもしれないけれど(私は何を読んでもわりとすぐに納得させられてしまう何とも単純な人間なので)、それを嫌うあまりに、批評家ならぬ上から目線の批“判”家になってはいけないと思う。

 その作品なり成果物が得られるまでの膨大な時間と努力を、自分のこととして仮定してみたい。自らがそれを成し得、さらには世に問うレベルにまで達することが出来るかどうかを自問すれば、おのずと答えは決まってくるのではないか。だからこそ、人が成した仕事に対して素直に敬意を払える謙虚さを忘れずに生きていきたいものだと思う。そのためには、陰に潜む人知れぬ努力に思いを致すことが出来る力を少しでも鍛えておく必要があるのではないか。

 ふと、いつだったか中村清吾先生がNHKテレビの「プロフェッショナル 仕事の流儀」のラストで、プロフェッショナルとは、と問われて、「他のプロフェッショナルをリスペクト出来る人だと思う。」とおっしゃっていたことも思い出した。

 また新しい週が始まった。ようやくお腹の調子が落ち着いたので今朝はマグラックスをお休みした。気付けばまた明後日は通院日。8月も余すところあと2日。そして、9月。蝉の声はまだまだ賑やかだが、早くも2学期が始まる。
コメント (2)
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