以前、コメント欄で話題になった小笠原 望先生の「診療所の窓辺から」の今月号が目にとまった。以下、抜粋して転載させて頂く。
※ ※ ※(転載開始)
患者さんの不安は自然体の会話で吹き飛ばす(2011.8.1) 小笠原 望
四万十川の景色を見ているように、なじみの患者さんとのやりとりが自分のこころをほぐしてくれる。
・・・・(中略)
ぼく自身が不安の強い性格だから、患者さんの不安は放っておけない。ついついお節介(せっかい)になる。若いころは、とくにその傾向が強かった。
「先生、また来たぜえ」と、診察室に入ってくる八十三歳になる人も不安が強い。診察室の会話は苦笑いするほど、ひとりで話してはひとりで笑う。明るいのだが、実は不安でしょうがない。
「今日はエコーはしてくれんか」と、ぶっきらぼうに言う。「胸の音を聴いてくれ」の後に、核心に触れる一言、「まだ、生きられるか」と聞く。「大丈夫。これでは死にゃあせん」と答える。「そうか、死なんか」と言って、「また来る」と、ひとりで大笑いをして診察室を出てゆく。
次の患者さんを診察していると、看護師が「まだ話があるそうです」と告げる。ぼくは、内容に想像がついていて、ちょっと苦笑い。一人を診て、また名前を呼んだ。
診察室の入り口のカーテンから顔を出して「やっぱり、死なんか」と聞く。「死なん。大丈夫」と、顔をきちっと見ながら力を込めて言った。「そうか、死なんか」と、にこっと笑って出て行った。
一カ月に一回、この会話が続く。一人暮らしの不安、死の不安。「ひ孫が大学に入るまでは元気でいたい」「もういかないかん歳(とし)やけど、お迎えが来ません」とか、みんな元気で長生きをしたいのだ。
若者の不安には、「ぼくもいろいろあったけれど、だんだん人間は鈍くなってちょうどになってくるよ。大丈夫、そのうちになんとかなるよ」と、自分の体験を話すことが多い。
患者さんの不安に対しながら、不安は当たり前だと、笑って話せるようになって楽になった。患者さんとの話で、ぼくは救われてきた。
いのちはもちろんだが、会話も飾らない自然なのが一番いい。
(朝日新聞発行小冊子「スタイルアサヒ」2011年8月号掲載)
(転載終了)※ ※ ※
みんな元気で長生きしたいのだ、という部分に大きく頷いた。生まれてきたら死からは決して逃れられないことはわかっているのに、誰しも自分の死は不安以外の何物でもないし、出来れば受け入れたくない。けれど、長患いをして苦しみながら延々と生きたい、というのでもない。
それは義母を見ていて痛感する。「もう90歳だから明日のことなど分からない、明日死ぬかもしれない。」と言いつつ、何分も経たないうちに「私は悪いところはどこもなく健康で幸せ。こんなに長生きするとは思わなかった。100歳まで大丈夫かしらね。」と言う。
15年前に息子が生まれた時の「この子が小学校に入るまで生きられるかしら。」が、今や「ひ孫(甥っ子の息子で小1)が中学生になるまで生きられるかしら。」、「○○ちゃん(我が家の息子)が大学に入るまで生きられるかしら。」、「○○ちゃんのお嫁さんが見られるかしら。」に変わってきている。
みんな元気で長生きしたい。そして、他人から見たら十分長生きだとしても、本人はもう十分・・などとは決して思わないのだな、とつくづく思う。当然だ。
私はこうして病を得てからは、哀しいけれど3年先、5年先のことを安易には考えられなくなっているから、そう言われると結構辛いものがある。今は「目指せ、高校卒業式出席、出来れば成人式!」でやっていこう、とは思っているけれど。
孫のお嫁さん、ひ孫の成長どころか息子のお嫁さんだって見られる保証は全くない。だいたい息子が結婚するまで一体あと何年かかるのだろう・・・。
旅行中、夫と義母の様子を見ながら、不思議と冷静に(ああ、私にこういう日が来ることはおそらくないのだろうな・・・)と思った。それは、決して「羨ましい」とか「妬ましい」とかではなく、ごく淡々と。
もちろんこのままの小康状態を保ちながらがんと共存し、結果として長く生きることが出来るならそれは何よりだけれど、そうは問屋がおろさないことは、ある程度冷静に受け入れておかなければいけないだろうから。
さて、今日は早退をして、洗濯機の修理がやってくるのを待った。まるで私が玄関を入るのを見届けていたようなタイミングで呼び鈴が鳴った。給水弁の故障ということで、15分ほどで点検と取り換えの作業が無事終了。技術料・出張費・部品代で15000円ほどをお支払いして、すぐに洗濯することが出来、ほっとした。
また、電気使用量のお知らせが入っていた。「今月は昨年と比べて13%減少しています。」とのコメントがあり、これまたほっとした。我が家も少しはこの災難を乗り切るのに貢献しているようだ。
涼しい日がいつまで続いてくれるやら、この調子でエコと節電の毎日を過ごせるとよいけれど。
※ ※ ※(転載開始)
患者さんの不安は自然体の会話で吹き飛ばす(2011.8.1) 小笠原 望
四万十川の景色を見ているように、なじみの患者さんとのやりとりが自分のこころをほぐしてくれる。
・・・・(中略)
ぼく自身が不安の強い性格だから、患者さんの不安は放っておけない。ついついお節介(せっかい)になる。若いころは、とくにその傾向が強かった。
「先生、また来たぜえ」と、診察室に入ってくる八十三歳になる人も不安が強い。診察室の会話は苦笑いするほど、ひとりで話してはひとりで笑う。明るいのだが、実は不安でしょうがない。
「今日はエコーはしてくれんか」と、ぶっきらぼうに言う。「胸の音を聴いてくれ」の後に、核心に触れる一言、「まだ、生きられるか」と聞く。「大丈夫。これでは死にゃあせん」と答える。「そうか、死なんか」と言って、「また来る」と、ひとりで大笑いをして診察室を出てゆく。
次の患者さんを診察していると、看護師が「まだ話があるそうです」と告げる。ぼくは、内容に想像がついていて、ちょっと苦笑い。一人を診て、また名前を呼んだ。
診察室の入り口のカーテンから顔を出して「やっぱり、死なんか」と聞く。「死なん。大丈夫」と、顔をきちっと見ながら力を込めて言った。「そうか、死なんか」と、にこっと笑って出て行った。
一カ月に一回、この会話が続く。一人暮らしの不安、死の不安。「ひ孫が大学に入るまでは元気でいたい」「もういかないかん歳(とし)やけど、お迎えが来ません」とか、みんな元気で長生きをしたいのだ。
若者の不安には、「ぼくもいろいろあったけれど、だんだん人間は鈍くなってちょうどになってくるよ。大丈夫、そのうちになんとかなるよ」と、自分の体験を話すことが多い。
患者さんの不安に対しながら、不安は当たり前だと、笑って話せるようになって楽になった。患者さんとの話で、ぼくは救われてきた。
いのちはもちろんだが、会話も飾らない自然なのが一番いい。
(朝日新聞発行小冊子「スタイルアサヒ」2011年8月号掲載)
(転載終了)※ ※ ※
みんな元気で長生きしたいのだ、という部分に大きく頷いた。生まれてきたら死からは決して逃れられないことはわかっているのに、誰しも自分の死は不安以外の何物でもないし、出来れば受け入れたくない。けれど、長患いをして苦しみながら延々と生きたい、というのでもない。
それは義母を見ていて痛感する。「もう90歳だから明日のことなど分からない、明日死ぬかもしれない。」と言いつつ、何分も経たないうちに「私は悪いところはどこもなく健康で幸せ。こんなに長生きするとは思わなかった。100歳まで大丈夫かしらね。」と言う。
15年前に息子が生まれた時の「この子が小学校に入るまで生きられるかしら。」が、今や「ひ孫(甥っ子の息子で小1)が中学生になるまで生きられるかしら。」、「○○ちゃん(我が家の息子)が大学に入るまで生きられるかしら。」、「○○ちゃんのお嫁さんが見られるかしら。」に変わってきている。
みんな元気で長生きしたい。そして、他人から見たら十分長生きだとしても、本人はもう十分・・などとは決して思わないのだな、とつくづく思う。当然だ。
私はこうして病を得てからは、哀しいけれど3年先、5年先のことを安易には考えられなくなっているから、そう言われると結構辛いものがある。今は「目指せ、高校卒業式出席、出来れば成人式!」でやっていこう、とは思っているけれど。
孫のお嫁さん、ひ孫の成長どころか息子のお嫁さんだって見られる保証は全くない。だいたい息子が結婚するまで一体あと何年かかるのだろう・・・。
旅行中、夫と義母の様子を見ながら、不思議と冷静に(ああ、私にこういう日が来ることはおそらくないのだろうな・・・)と思った。それは、決して「羨ましい」とか「妬ましい」とかではなく、ごく淡々と。
もちろんこのままの小康状態を保ちながらがんと共存し、結果として長く生きることが出来るならそれは何よりだけれど、そうは問屋がおろさないことは、ある程度冷静に受け入れておかなければいけないだろうから。
さて、今日は早退をして、洗濯機の修理がやってくるのを待った。まるで私が玄関を入るのを見届けていたようなタイミングで呼び鈴が鳴った。給水弁の故障ということで、15分ほどで点検と取り換えの作業が無事終了。技術料・出張費・部品代で15000円ほどをお支払いして、すぐに洗濯することが出来、ほっとした。
また、電気使用量のお知らせが入っていた。「今月は昨年と比べて13%減少しています。」とのコメントがあり、これまたほっとした。我が家も少しはこの災難を乗り切るのに貢献しているようだ。
涼しい日がいつまで続いてくれるやら、この調子でエコと節電の毎日を過ごせるとよいけれど。