散日拾遺

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残心 ~ 箱根駅伝からTV収録まで

2015-01-07 10:30:29 | 日記

2015年1月7日(水)

 箱根駅伝、青山学院の完全優勝はみごとという他ない。襷には仲間の心と魂が宿るというが、同世代の仲間だけでなく先輩たちの思いもこもるのだろう。シード権に手が届きそうなところから後退した中央などは、過去の栄光があるだけに現役選手たちのつらさもひとしおと思われる。自由に走らせてやりたいものだし、青山学院の選手たちがいかにものびのびと走っていたのが良かった。

 

 ただ、なぜか今年は期待したほど楽しめなかった。理由のひとつは分かっていて、襷を渡した後に倒れ込む走者が、今年はまた多かったように思われたからである。

 「また」というには理由がある。長距離走指導の専門家から聞いた話では、あれは危ないので気をつけるようにと、然るべき筋から何年かに一度、注意が入る。するといったん改善するが、そのうちまた緩むというのである。改善しようとすれば、できることなのですよと彼が断言した。

 それを前提にしていうなら、はっきりいって倒れ込みは見苦しい。硬い路面に裸同然で昏倒して、自分が危険であるのみならず、後続の走者にとってはさらに数倍危険な障害物となる。襷を渡してからわずか3~4歩、コースアウトしてから倒れればすむことなのに、自分の襷を渡すことしか考えないからみっともなく崩れ落ちて、後続に迷惑をかけるのだ。そういう襷が運ぶのは美しい仲間の絆というよりも、身内の利益しか考えない拡大されたエゴイズムに近くなり、その意味でナショナリズムによく似てきてしまう。

 だから楽しくなかったんだな。

 

 日頃の練習のあり方の問題でもある。襷を渡した後、安全にコースアウトして初めて役目が終わり、そのように訓練していないのだ。ゴールラインを3m先に設定することを日頃からやっていれば、鍛え上げた彼らの若い身体は容易に順応するはずである。個人レースでは、ゴールイン後に回れ右し、走り終えたコースに向かって最敬礼するランナーが少なからずある。そんなマナーを身上とする大学が、一校ぐらいあっても良さそうなものだけれど。

 

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 残心、と言い換えることもできる。日本の武道では、種目を問わず求められることだ。ここにはたぶん大きな叡智と徳が秘められている。もともとは、斬り倒したと思った相手が息を残しており、油断した隙に最後の力で捨て身の逆襲をかけてくることへの用心から来たのだろう。非情なまでの実践/実戦知であったものが、道として琢磨洗練されるにつれ、人のあり方への大きな教えを含む徳目にまで成長したのだ。

 1964年の東京五輪、柔道無差別級でヘーシンクが神永を破ったとき、狂喜するオランダコーチ陣があやうく靴のまま畳に駆け上がろうとした。しかしヘーシンク自身がそれを制し、礼儀正しく挨拶をして試合を終えたとある。こうした心をもつ「外国人」に敗れたことを、柔道はたぶん喜びとして良い。僕の流儀でいうなら、この瞬間にヘーシンクは「外国人」ではなくなっている。何人もない、柔道と柔道家があるだけだ。

 かつて高校野球は残心をうるさいほど指導していたが、今はその痕跡もない。幼稚園児のように喜びを発散し見苦しくはしゃぎ回って、相手への敬意も敗者への配慮もありはしない。地域代表の地域性が失われたこととあわせ、大会そのものの意義を最近は疑うようになっている。それとは違う駅伝を見たかった。

 走りきって襷を渡すや否やぶっ倒れる駅伝に、残心もへったくれもない。あるいは「心」は襷に乗り移って先へ進み、走り終わったランナーは抜け殻に過ぎず、抜け殻はポイ捨てされるという図である。だとしたら少々無残だし、別の意味で気味が悪い。全体精神のために個がポイ捨てされる図柄のもつ気味悪さだろうか。

 

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 ちょっと可笑しいのは、TV収録のエンディングで残心が求められることである。これはまったくプラクティカルな趣旨のもので、結句を語り終えた後も時間が来るまで画像は流れ続けるから、その間はお行儀良くしていないといけない。

 「わかった、残心だね」と言ったが、若いスタッフには通じなかったようだった。

 そして、フロア・ディレクターの指示で笑顔の沈黙を保つこの数秒が、たいへん長く意義深いのである。人生の終わりに、来し方が走馬燈のようにおぼろな意識をめぐる(かどうか、本当はわからないのだが)、そのミニ版とでもいおうか、たった今終えたばかりの収録の全体が、懐かしいように悔やまれるように思い返される、まことに意味深長な数秒である。

 何にでも残心があってよいし、あった方がいいのだな。

 

 今年の目標に、一つ追加。