散日拾遺

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訃報: 斉藤仁、陳舜臣、少し戻って丸田俊彦

2015-01-22 08:58:19 | 日記

2015年1月22日(木)

 20日に柔道家・斉藤仁の訃報を聞き、21日に作家・陳舜臣の他界を知った。

 どちらも殊更ファンであった訳ではないけれど、活躍に触れて励まされる類いの人々である。いなくなってみると、いかにもさびしい。僕らの同時代感覚は、無数のこうした表象に支えられていることを感じる。

 

 斉藤仁は54歳の誕生日を迎えたばかりで、つまり僕より年下である。胆管癌。

 

 陳舜臣はわが親と同年の満90歳、老衰だそうだ。台湾・中国・日本と国籍を変えた人生だった。

 

 格闘技家と作家の対照を思い巡らしているところへ、届いた郵便物でもうひとつの訃報を遅れて知った。

 丸田俊彦さん、昨年亡くなっていたのか・・・

 

***

 

 精神科医・精神分析家。1946年生まれで、ちょうど10歳上のやんちゃな世代に属する。

 慶応卒業後、渡米してメイヨー・クリニックのレジデントとなり、そのまま彼の地で医学部の精神科教授まで登った経歴は、ちょっとカッコいいだろう。

 その教授時代ということになるが、僕が福島の精神病院に勤務していたとき、パーソナリティ障害について講演に来られたことがある。語り口が明晰で内容も示唆に富み、そうした良さが会場で配られた『痛みの心理学』(中公新書)によく現れていた。掛け値なしの名著である。

 

 帰国されたと知って研究会などを覗いてみたこともあったが、ここではやや失望した。丸田さんがというより、その属するソサエティ/コミュニティが、見かけほどは開放的でも自由でもないことにである。

 総じて精神分析グループは、どれをとってもこの弊を免れるものがなく、その点において創始者への同一化が最も強固である。

 

 思想は素晴らしいのに、現にそれを奉ずる人間に失望することが多いという点で、マルクス主義と精神分析が妙に共通していることを思う。この両者は他にもゴシップ的な共通点が多い。ややまじめに言うなら、人を自由にするはずの理論によって、標榜者たちがかえって頑迷固陋に居座っている点が似ているのだ。

 そのあたりに注目して両者に共通する良さを取り出そうとしたのが、これもユダヤ系のエーリッヒ・フロム(『自由からの逃走』など)だったが、彼のナルチシズム論の中ではフランクリン・ルーズベルトが妙に称揚されており、すっかりイヤになってしまった。あれは稀代の食わせ物である。そのくせ晩年はスターリンにだらしなくも手玉に取られ、計り知れない害悪を後に遺している。

 え~っと、そっちではなくて。

 李鵬の日本論ではないが、マルクス主義も精神分析も、21世紀には消えてなくなるのではないかと僕は思った。ただしどちらも、人類史が続くものならば、いつか必ず思い出される時があるだろうと。

 どっちも、案外なくならないのかな。


兵は石にあらず / 祈り

2015-01-22 07:20:43 | 日記

2015年1月22日(木)

 「まず左辺側にトビを打って、それから下辺の白にツケていくのが良かったと思います。」

 「全体を包囲していくのか、しかし破られないか?」

 「完全に包囲するのは無理ですね、包囲を破ろうとして相手が出てくる、その力を利用して整形する要領です。」

 「すると左辺側にトンだ石は?」

 「結果的に切り取られることになりますが、それで良いのです。この石があるおかげで、相手の進出するスピードが著しく鈍る、それが大事です。それに、利きが生じて整形しやすくなります。貴重な犠打で、こういう手をあたりまえに打てるようになると棋力はぐんと上がります。」

 「打つときから、犠打と承知で打つのか。」

 「そうです。」

 「碁は、残酷なゲームだの。」

 老人は嘆息した。目の縁がほんのり赤らんでいる。ややあって、うっすらと微笑んだ。

 「もとい、碁は良いものだ。皆が戦いを盤上に限るなら、命のやりとりを石のやりとりに換えるなら」

 声が軽く震えている。

 「戦史資料を長年見ていると、分かってくる。一団の将兵が、初めから犠打として投入されていることがある。しばしば、否、常套手段として行われることだ。あんたが今言うた通り、相手の進出するスピードを鈍らせ、相手の運動を制限すること、それが計り知れない戦略的価値をもつからだ。犠打をよく使うものが、優れた司令官となる。しかし投入された将兵は・・・」

 手にあった黒石を碁笥に投げ込み、空いた手を拳に握って膝に戻した。

 「兵は石にあらず、貝にあらず、生身の人間だ。そのひとりひとりに、父があり母がある。」

 

***

 

 「人が友のために命を捨てること、これに勝る愛はない」(ヨハネ 15:13)

 後藤氏が湯川氏を「友人」と呼んでいることに、少なからず驚いた。けれども事実、この友人のために後藤氏は閾値を超えるリスクを冒し、いま共に死の陰の谷にある。

 イラク人専門家が「交渉を絶やさないこと」を助言していると今朝のラジオ。どこでだったか、よく似た意見を少し前に読んだ。小泉首相(当時)が交渉の余地を否定した瞬間、人質の命脈が絶たれたのだと。アラブは交渉の社会である。ポーズだけでも交渉の姿勢を見せることが、短期的にも長期的にも活路を開くのだと。

 昨夜のニュースで映った、後藤氏の教えを受けた世田谷の中学校は、すぐ近くにある。僕らの教会が改築の際、日曜日はこの学校のチャペルを借りて礼拝を守ったのだ。

 生徒らと共に祈る。 

 勇士らが、どうか無事帰還するように。