散日拾遺

日々の雑感、読書記録、自由連想その他いろいろ。
コメント歓迎、ただし仕事関連のお問い合わせには対応していません。

書く作業/国について

2015-01-12 09:45:18 | 日記

2015年1月11日(日)

  年賀状で弾みがついたものか、字を書くということが楽しくなっている。日記というものがついぞ続いた試しがないのだけれど、元旦から10日余りも珍しく途絶えずにいるのは、何を書くかというより書字という動作が楽しくなっているからだ。

 いまこの時に何が起きたのかと、自分でも不思議である。それにワープロ全盛のこの時代にしては、日頃から生身の悪筆をふるう機会に事欠かないのは、カルテを書く作業のおかげである。精神科でも電子カルテ化の勢いは強いが、各科中もっともそぐわないことは間違いない。僕の勤務先はいずれも手書きで、そこで書く字数はかなりのものである。しかし、そんなことはもう30年近くも続けてきたわけで。

 ともかく、字を書くのが今は楽しい。

***

 昨日は新木場の乗り換え口でR先生と出会い、海浜幕張までの間いろいろ話した。

「アメリカという国は大嫌いだが、個々のアメリカ人には驚きもし、尊敬もしている」

 というようなことを言い、後からふとアメリカに限った話ではないことに気づく。ドイツ(人)だってフランス(人)だってそうだし、韓国(人)中国(人)も同じことだ。(丁寧にいうと実は少し違う。たとえばドイツの場合、抽象の階段を「国」まで登る以前に、数人・数十人の集団としてのドイツ人に少々苦情があるのだが、話がややこしくなるのでここでは目をつぶる。)

 考えてみれば、「国」として好きなところはと言われて、挙げられるところがほとんどない。ということは何々人や何某国への好悪の問題ではなく、「国」という暴力装置 ~ リヴァイアサン ~ のありよう自体が嫌いなのであり、それが個別事情によってかくも多彩な醜悪さを示すこと(豊かなる醜悪!)を強く嫌悪するのだ。

 無政府主義への心情的共感?「ドイツ人には、政治は本質的に brutal なもの」という認識があるが、日本人にはそれが欠けていると、誰が言ったんだっけな。そのドイツ人がナチス体制を生み出した奇怪さが、まさに個人の力動の総和を超えた集団の恐ろしさを立証している。

 いろいろ思い出した。

***

 今日は海浜幕張駅を出たところで、長身のI先生がゆらゆらとやってくるのに出会う。昨日で審査を終えたので、今日はこれから教会の礼拝に行くんだと。

 放送大学は意外に教員の中の信徒率が高い。ミッションの桜美林より高そうだという笑い話。

 さて、審査だ