散日拾遺

日々の雑感、読書記録、自由連想その他いろいろ。
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ローズウォーターさん、あなたに神の祝福を

2015-01-16 21:29:31 | 日記

2015年1月16日(金)

 

 「ここんんとこ、夜中に目が覚めるんや、何でやろうなあ先生?」

 何でって・・・

 苦笑に返す言葉がない。ただいま肺ガンの放射線療法中。

 「いろいろやってるけど、あんまり効いてへんようやな。何でかって?そらわかるがな、体が言いよるねん。しかし、何で目が覚めるんかな、別に何もないんやけど・・・」

 

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 「富士山は登ってません。もう少しやせないと、転がりおちたら大惨事を起こしちゃいますから。その代わり明日は高尾山、先日は愛鷹山にのぼってきました。」

 愛鷹(あしたか)の地名は、東名を通るたびに意識しているが、このとき妙に懐かしく脳裡に響いた。「あしたか」という音のやわらかさ、「優雅な」それとも「美しい」鷹というイメージの高らかさ、そこを登っていく壮年を過ぎた苦労人の男女。

 

 愛鷹の山な猛りそ寒晴れに (昌蛙)

 

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 「四万温泉、いいですよ。同じ上州でも、草津などは開けてますから歓楽街もあったりします。ここは知られてないから、家族でのんびりするには最高です。私は・・・アタマが悪かったから高校も工業で、その代わり就職してからはずっと一生懸命働いてきました。褒められるようなことはしてないけれど、悪いこともしてこなかったと思います。先生がおっしゃるように、一年ぐらいのんびりしてもバチは当たらないんじゃないかと、ようやくそんなふうに思えてきて。近々、女房と行ってきます、四万温泉。先生も是非そのうち、いらしてください。」

 

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 「父の姉が手作りで作った箱を、父は形見としてずっと大事にしていて、ところが先日調子の悪い日に、ハサミで切り刻むようにこれでもかっていうぐらい傷つけて、『誰の目にもつかないように捨ててしまえ』って。もちろん捨てずに隠しておきました。翌日はもうそのことを覚えていなくて、『姉さんの箱、どこにいっちゃったかな』って、心配そうに探し回ってるんです。」

 

 「券をもらったので、『サン・オブ・ゴッド』を見に行きました。その御受難の場面が、もちろんイエス様は罪なくして十字架にかかられて、私たちは罪あるものだから十字架にかかって当然なのだけど、それはちょっと置いて私には、ひとりで老いて、だんだん何も分からなくなっていく父が、何だか画面の中でイエス様と重なってしまって・・・」

 

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 「役者のE蔵さんがお正月のTVに出ていました。若い頃、そういうつもりではなく子どもができてしまって、認知はしないって。それがどうこうっていうんじゃないんです。ただ、番組では今のE蔵さんの、御家族との幸せな様子が映されていました。それを見たら、認知してもらえなかった子どもさんはどんな気持ちがするだろうかって。認知しないのは理由があるんんだろうし、自分が幸せになるのはかまわない、だけど、こういう形でつらい思いをさせることって・・・いけないんじゃないでしょうか。私、間違ってるでしょうか、私が、裁いてるんでしょうか。先生、どう思われますか?」

 

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 「ゆるす、っていうのは、ゆるめることでもあるんだね、あなたの話を聞いていてそう思いました。だから・・・だからあなたも、あなた自身をゆるめてあげてくださいね、あまり厳しく縛りあげないで」

 

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 「私にもたぶん隙があって、ストーカーめいた人を引き寄せちゃってるっていうか、相手の出してる危険な信号をキャッチできてないところがあると思うんです。それはさておき、こういう相手には共通の特徴があるって気がついたのね。」

 「どんな?」

 「私って、何にもないじゃないですか。崩壊家庭に育って、学歴ナシ、入院歴アリ、前科まではないけれど、履歴ボロボロで何にもなしの35歳ですよね。でもそういう私が、何ももっていないのに幸せそうなのが、ゆるせないらしいんです。相手はいつだって私よりたくさんもっていて、そのくせ全然しあわせそうじゃないんだ。」

 

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 他にもいろいろあるが、さすがに書けない。

 すべて今日の一日に、都内某所の小部屋で語られたことだ。精神科の外来診察室、そういう名前になっている。

 皆が元気でいますように。

 

 


高齢者の運転免許

2015-01-16 07:31:58 | 日記

2015年1月16日(金)

 朝刊社会面が、高齢者の運転免許返納について論じている。

 高速道路の逆走などは過半が認知症をもつ高齢者の絡んだもので、悲惨な事故が多発している。本人のためにも皆のためにも高齢者の運転免許返納を推進する必要があり、自治体はいろいろと手を尽くしているがなかなか進まない、あらましそういった趣旨である。

 

 これをすんなり読み流す人と、「ん?」と引っかかる人と、読者は概ね二つに分かれるはずだ。前者は都会に住む人、後者は田舎に住んでいるか、田舎の実情を知る人である。公共交通の発達した都会に住む限り、記事の主張に何の不思議もない。いっぽう、田舎 ~ 埼玉や滋賀の住人が東京・京都を意識して自己卑下する謂のイナカではなく、ほんとにほんとの田舎の実情を知る人なら「ちょっと待てよ」と思うだろうし、現にそこに住む人々は言下に「冗談じゃない」と反応するだろう。

 両親は、この二つの極端を往復する生活を長らく続けている。12月から3月までの東京滞在中、父がハンドルを握ることはないし、その必要もない。いっぽう4月から11月の愛媛の生活では、逆に車に乗らない日はほとんどない。車に乗らなければ、大げさでなく牛乳一本買うことができないからだ。若い者なら自転車を使うだろうけれど、後期高齢者に自転車で坂道を上り下りしろというのは、酷というより不可能である。

 そのように生活する高齢者が、全国の田舎に多数存在する。多数が実際にどれほどか、数字に弱い僕は挙げることができないが、数万であれ何であれ無視できない数であるはずだ。そして超高齢社会、しかも過剰な都市化と田園荒廃の時代、数字以上の意味があることを主張したい。

 この人々にとって運転免許を返納することは、その日をもって自立生活を断念することを意味する。それを知っての返納論議なのか、ポイントは要するにそこだ。利便性の問題ではない、必須の生活インフラの問題である。

 

 たとえばの話、免許を返納させる代わり、便利な場所へ移ることを援助する準備があるのか?住み慣れた場所を離れて、便利な都会に終の住処を求めることを、高齢者が受け入れるとしての話だけれど、仮に受け入れるとしても行政にそんな準備も予算もあるはずがない。両親の住む家の前の、幅10mほどの河川敷、その草刈りや掃除は事実上、住民の義務とされている。毎年八月の炎天下に、腰の曲がった高齢住民が汗水垂らして草を刈っている。知ってか知らずか(知らないはずがないが)そんな姿を放置するのが、四国最大の都市・松山市の現状だもの。

 田舎を支えているのは高齢者だ。「免許返納」はその層を直撃する話なんだから、これは二つの質問に応える責任をもっている。

 ① 高齢者が自立を奪われてもいいのか。

 ② 絶滅寸前の日本の田舎にトドメを刺していいのか。

 この二つだ。

 

***

 

 何もしなくていいとは言わない。だが、一定年齢以上のものに一律に返納を迫るだけでは、より大きな害を招くだけだ。

 認知症のチェックを綿密に行い該当者に対して丁重に働きかけること、居住地域の事情に応じて柔軟に対処すること、高速道路に関してのみハードルを高くすることなど、工夫はいろいろ可能であり必要でもある。