散日拾遺

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石工の矜恃

2015-01-03 11:58:25 | 日記

2014年1月3日(土)

 正月の三日だが、ラジオの番組表は常の土曜日のそれである。ラジオ体操の後のインタビューは鷲田清一氏。民俗学者の宮本常一の書いたもの(たぶん僕は読んでいる。岩波文庫の『忘れられた日本人』のことではないかと思う)から石工の矜恃を引用する。「数十年か、あるいは数世紀か、後の人が見たときに恥ずかしくない仕事をしたい」というのである。

 石というものが格段に長く残る、そのことに依るのでもあるが、この種の「後世への責任」は嘗て多くの日本人の倫理観を支えていた。それを近現代の日本人が忘れてしまっているのではないか。典型が高度成長期の環境汚染であり、現在進行中の赤字国債頼みの財政である。いずれも後の世代がそのツケを払わされることは理の当然なのに、その父祖にあたるべき当代の我々は「その時はその時で何とかなるだろう」と人ごとのように放置し、いわば後世に甘え散らしている、その愚を訥々と語っておられた。

 あまりにも同感でかえって何も記すことがないが、この点についてかなり深刻な不一致が僕らの中にあることは、以前から感じている。むろん、「後世にどれほど迷惑をかけても構わない」と公言する者は滅多にありはしないけれど、「今すぐ実を結ばなくても、百年後、二百年後の誰かのためになれば」というような言い方に一顧も与えない、あるいはこれを不当に軽んじる者は多い。職場のメンタルヘルスを真剣に論じる人々の集まりで、少し風呂敷を広げて「五百年後に思い出してもらえるような仕事ができたら」と言ったら、あからさまに不快そうな、軽蔑に満ちた反応を返した人があった。

 今の役に立たなければ意味がない、というのである。

 「そんな風だから、こういうことになったんじゃないんですか」とは言わずに呑みこんだ。案外、日和や相手を見てケンカを避けるところが、僕にもあるのだ。

 

 鷲田氏の所説は、より大きなメッセージの一部と考えられる。未生の子孫への責任を感じる者は、去って行った先達たちにも申し訳を立てようとするだろう。未来と言い過去と言うも、要するに歴史的な展望の中に自分を置くかどうかである。

 もうひとつは空間的な広がりだ。地球でも宇宙でも、あるいは自分の大好きな故郷の里山でもいい。コスモスの一部として自分を位置づけ、自分がその一部であるところのコスモスに対して責任を感じるかどうか。

 いいなあ碁打ちは。棋譜というものがあって、永遠に準ずるほどの長さで伝わっていく。僕らが、少なくとも僕が文字を書きたがるのは、どこかそのような遠くの明かりを望むからなのだね。