2015年1月6日(火)
お正月が来てから年賀状を書くのも、案外悪いものではないと、やってみて思った。シンと静まった新年の雰囲気が戸外から沁みてくる。その中で、「あけましておめでとうございます、今年もよろしくお願いします」と一枚一枚記していくと、ああ新年だなと実感される。
「頌春」の語に干支の図案、こちらの住所ぐらいを印刷しておいて、あとは宛名も文面も手書きする式なので、一枚書くのに5分やそこらはかかっていると思うが、これが年賀状の意味である。その5分間は相手の様子を思い浮かべ、これまでのつきあいを振り返ったりする。わずかな時間だけれど、その時間を相手のために割いている。これが貴重なのだ。時間こそはかけがえのないものなんだからね。
表も裏も印刷だけ、手書きがただの一文字もない賀状の問題なのはそこのところで、ひょっとするとこの差出人はただの1秒もこちらのことを考えていない可能性がある。すべてPCにやらせ、刷り上がりをまとめて投函するのだから、その中に当方宛のものが含まれているかどうか、確かめたかどうかも怪しい。
時に細々と写真入りで近況を伝えてくるものもあるが、要は自分のことを広告したいばかりで、問いかけも挨拶もそこに読み取ることができない。一方的な独語である。ならば独語させておけば良いので、そういう相手にこちらの5分を割いて返信せねばならない義理はなかろう。時間がもったいない、その5分をブログ書くのに当てた方がまだマシだ。
で、今年から、例年の賀状に筆跡のひとつもないものは、こちらの住所録から外すことにした。あくまで原則であって、そうはいかない/そうしたくない相手もあるけれど。
少しだけせいせいした。もっと早くすればよかった。
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必ず一筆添えてくださる人の中に、千葉市蘇我にお住まいの方がある。京葉線で出勤するとき、蘇我行きの電車に乗ることが多いので、前から気になっていた。地名の由来が、である。
ネットを見るといろいろ出ているが、大化の改新で滅ぼされた蘇我氏と関連づけるものが、やはり多い。
「蘇我比神社(そがひめじんじゃ)の社名」説と「蘇我氏の部民が開拓した土地」説と、これらは事実上同じことを言っている。
これに日本武尊伝説をからめた説があって、
① 海が荒れて愛妻・乙橘姫が海を鎮めるため身を投げた。その後、姫は現在の曾我野海岸へ打ち上げられ、「我、蘇りつ」と言ったかどうか、それで「蘇我」だと。(うまく落としたね!)
② 乙橘姫と共に身を投げた侍女の中に蘇我比(蘇我大臣の娘)があり、これが浜に打ち上げられて蘇生し都へ戻った。この縁があったため、後にこの地の住民が日本武尊を社に祀った際、応神天皇が蘇我氏を国造として遣わし、蘇我比神社が創建された。
等など
語る人々の思惑や力動がいろいろ感じられて面白いが、それにしても感心するのは、交通不便な古代の人々が500㎞を隔てた土地を、地図の中に明らかに描き込む想像力の強靱さだ。
現在の群馬・栃木の旧国名を上野・下野(こうづけ・しもつけ)といったが、これは近江の豪族・毛野(けぬ)氏に与えられた領地で、「上つ毛野」「下つ毛野」から上野・下野となったのだ。
近江(おうみ)といえば「淡海(あわうみ)」だが、これがまたすごい。都近くの淡海(淡水湖)が琵琶湖で近江、いっぽう200km近く東にある浜名湖は遠い方の淡海なので「遠つうみ」、それで遠江(とおとうみ)となったのだ。
これに気づいたのは1978年のセンバツで浜松商業が優勝した時で、一戦ごとに力をつける戦いぶりと、風雅な校歌が気に入ってにわかファンになったのである。その歌詞:
朝陽たださす 富士の秀峰(ほつみね)
夕陽かがよふ 浜名あわうみ
あわうみ?それって近江じゃないの?と浅はかに聞きとがめたところから、上述の子細を知ったのだ。校歌の続き:
曳くや霞の 曳馬の野辺に
緑伸びゆく 若松我ら
実に和やかで、いい歌だった。出場校がまだ実質的に地元を代表した、いい時代でもあった。
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蘇我という地名の由来を記したブログの中に、「平成の市町村大合併で旧地名が失われていくことは、もしかしたら歴史を奪われることなのかも…。」と記す人あり、強く共鳴。
そんなことして誰のどんな得になるのか、まったく見えないのがなおさら気味悪い。
(http://ameblo.jp/saitosatoshi-sr/entry-10586567207.html)