散日拾遺

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成人の日 / 存命の喜び(徒然草93段)

2015-01-13 09:58:41 | 日記

2015年1月12日(月)

 今日は成人の日、だけどこれは15日に固定したほうがいい。

 お正月の松が取れるのにあわせ、新成人が華やかに集う。「門出」の語呂もよく、ここでいよいよ日常復帰、1月前半ぐらいはゆっくり休んだらいいのだ。ついでにこの日がお年玉年賀葉書の抽選、ついでについでにラグビーの日本選手権。

 うまく流れていたと思う。月曜日にくっつけるのは勤労者への厚労省的配慮なんだろうが、大学などは「一学期15回の授業を確実に実施せよ」との文科省的要求のために、実際には月曜出勤が必要になる。そもそも日本の勤労者の休暇に関しては、決められた休日は国際水準でも多い方なのに、自主的に取得する休暇が少ないことが問題なのである。ハッピー・マンデーはその解決になっていない。

 母の思い出に、1月15日は必ずヱビスさまにお参りしたとある。ネットをチラ見すると、なるほど1月10日や15日をヱビスさんに関連づけるところが多いようだが、根拠はよくわからない。

 ヱビスさんは七福神中唯一の国産である。他の六福神は皆、ヘイトスピーチの対象になり得るのだね。お気の毒さま。

 ***

 何はともあれ、ゼミと修論審査を終えて今日は僕も休み。夜は父の米寿を祝う。カードに母の書いた言葉に注目。

 「存命の喜び、日々に楽しまざらんや」

 出典は『徒然草』、二十代で読んで以来、ずっと記憶にあるのだという。僕も愛読しているつもりで、原文脈が思い浮かばない。さっそく第1段からサーチして、「あった!」と声をあげたのは第93段。

 読み直せば実に深く、死生学の要諦に通じている。若い日にこれに感じて心に止め、満90歳を超えてなお銘記している母にも脱帽。

 インターネットの便利に頼り、原文と現代語訳をあわせ転記しておく。吾妻利秋氏の訳風に好き嫌いはあるだろうが、兼好の狙うところを軽妙に補足して分かりやすいのは間違いない。

http://www.tsurezuregusa.com/index.php?title=%E5%BE%92%E7%84%B6%E8%8D%89%E3%80%80%E7%AC%AC%E4%B9%9D%E5%8D%81%E4%B8%89%E6%AE%B5

 

【原文】

 「牛を売る者あり。買ふ人、明日、その値をやりて、牛を取らんといふ。夜の間に牛死ぬ。買はんとする人に利あり、売らんとする人に損あり」と語る人あり。

 これを聞きて、かたへなる者の云はく、「牛の主、まことに損ありといへども、また、大きなる利あり。その故は、生あるもの、死の近き事を知らざる事、牛、既にしかなり。人、また同じ。はからざるに牛は死し、はからざるに主は存ぜり。一日の命、万金よりも重し。牛の値、鵝毛よりも軽し。万金を得て一銭を失はん 人、損ありと言ふべからず」と言ふに、皆人嘲りて、「その理は、牛の主に限るべからず」と言ふに、皆人嘲りて、「その理は。牛の主に限るべからず」と言ふ。

 また云はく、「されば、人、死を憎まば、生を愛すべし。存命の喜び、日々に楽しまざらんや。愚かなる人、この楽しびを忘れて、いたづがはしく外の楽しびを求め、この財を忘れて、危く他の財を貪るには、志満つ事なし。行ける間生を楽しまずして、死に臨みて死を恐れば、この理あるべからず。人皆生を楽しまざる は、死を恐れざる故なり。死を恐れざるにはあらず、死の近き事を忘るゝなり。もしまた、生死の相にあづからずといはば、実の理を得たりといふべし」と言ふに、人、いよいよ嘲る。

 

【現代語訳】

 「牛を売る人がいた。牛を買おうとした人が、明日代金を払って引き取ります、と言った。牛はその夜、未明に息を引き取った。牛を買おうとした人はラッキーで、牛を売ろうとした人は残念だった」と誰かが話した。

 近くで聞いていた人が「牛のオーナーは、一見、損をしたように思えるが、実は大きな利益を得ている。何故なら、命ある者は、死を実感できない点において、この牛と同じだ。人間も同じである。思わぬ事で牛は死に、オーナーは生き残った。命が続く一日は、莫大な財産よりも貴重で、それに比べれば、牛の代金など、ガチョウの羽より軽い。莫大な財産と同等の命拾いをして、牛の代金を失っただけだから、損をしたなどとは言えない」と語った。 

 すると周りの一同は「そんな屁理屈は、牛の持ち主に限った事では無いだろう」と、軽蔑の笑みさえ浮かべた。

 その屁理屈さんは続けて「死を怖がるのなら、命を慈しめ。今、ここに命がある事を喜べば、毎日は薔薇色だろう。この喜びを知らない馬鹿者は、財や欲にまみれ、命の尊さを忘れて、危険を犯してまで金に溺れる。いつまで経っても満たされないだろう。生きている間に命の尊さを感じず、死の直前で怖がるのは、命を大切にしていない証拠である。人が皆、軽薄に生きているのは、死を恐れていないからだ。死を恐れていないのではなく、死が刻々と近づく事を忘れていると言っても過言ではない。もし、生死の事など、どうでも良い人がいたら、その人は悟りを開いたと言えるだろう」と、まことしやかに論ずれば、人々は、より一層馬鹿にして笑った。

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