2014年1月2日(金)
あけましておめでとうございます。
ともかく新年を迎えた。
教会暦ではクリスマスが新年で、クリスマス・イブは大晦日ということになる。冬至を基点にすればいろいろなことが結びついてきて、雄渾の大気と自身の小気のつながりを確認するような「気もち」になる。数え年のシステムを見直すのは、悪くないのではないかしらん。すると僕は昨日で59歳、つまり59枚目のシートを広げたことになる。ノートの59ページめだ。
うん、このほうがいい。満年齢は既に満ちた期間を数え、基本的に後ろ向きである。数え年は今年与えられる新たな用紙にページを打つもので、前向きなのだ。今年はどんな絵が描けるだろうか。
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大晦日でもあるところのクリスマス・イブにテレビ収録を終え、大きな山を一つ越えてほっとした。翌日から世間の大晦日までは、大幅に遅れていた翻訳作業のキャッチアップに費やして、余事は何もせず。クリスマス・カードも年賀状も一枚も書かずに越年したのは、年賀状という習慣を知って以来はじめてではないかと思う。
比べるのも僭越ながら、司馬遼太郎は40代の時間の大部分を『坂の上の雲』執筆に費やし、ピーク時には不本意ながら礼を欠くことも多かったとどこかに書いている。賀状だけではない、礼状や期限付き質問への回答、メールの返信なども多々滞っていて、非常にもどかしくはあるのだが、こういう時もあるさと自ら慰める。
翻訳作業では、昨秋購入した『研究社新英和大辞典(第六版)』が戦艦大和のような偉容を机上に示して役立っている。それと比べ、高校入学以来愛用の『新英和中辞典』(僕のは三版、家内のは四版)が今見てもよくできていることに、逆に感心する。いっぽう言葉の変化はあるもので、ときどき面白い発見がある。
visionary という言葉は、以前の辞書には「空想的な、妄想的な、実行不可能な」などと列挙され、中立というよりは批判的な意味合いが勝っていた。最近の辞書では、「先見の明のある、独創的な」という肯定的な意味がまず出てくる。先見者がしばしば世に容れられないことを、言葉自体の歴史が示しているようで面白い。
訳している本の内容も、こうした「狂気の歴史」に一脈も二脈もかかわるものだが、これはあらためて書く。visionary な言説は、いつでもどこでも、いくらでも拾うことができる。そのどれが「妄想」で、どれが「先見の明」なのか、それが分からないから難しい。あるいは、それは予めどちらかに決まっているものではなく、両価的な素材を正とするか邪とするか、「やってみせる」ことが求められているものなのかもしれない。
恐いな、どうも。
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